宮部語録に見る宮部みゆき(続)
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 宮部語録に見る宮部みゆき(続)
Q3.宮部みゆきの恐怖小説、時代ものへの愛好について

『歴史読本』表紙
 2000年9月号

 『歴史街道』2002年5月号に「私が時代小説を書くようになった理由」と題された宮部みゆきへのインタビュー記事がありますか、そこで彼女はつぎのように言っています。

 「中学校時代の私は英米の恐怖小説に嵌まってしまい、いろいろなアンソロジーを読みふけっていました。こういった小説は、大きく括ればミステリーに入るのですが、恐怖小説好きと元来の時代もの好きがあいまって、23歳になった頃には、自分で時代ミステリーを書いてみたいと思うようになったのです」

  宮部みゆきが中学校時代に嵌ってしまったという英米の恐怖小説のアンソロジーのことについては、彼女は『小説推理』2002年1月号掲載の東雅夫との対談で詳しく語っています。同対談で彼女は、ミステリー作家としてデビューして間もない頃、はじめて都筑道夫と会ったときに「私はどちらかというとミステリーより怪談から入ったファンで、最初は先生が編まれた本からでした」と伝えたそうです。都筑道夫が編んだ本とは、講談社から子供向けに出された〈世界の名作怪奇館〉シリーズのことで、彼女は中学校の図書館から借りて来て、同シリーズに入っていたジェイコブズ「猿の手」、ベンスン「いも虫」、クロフォード「上段寝台」等の作品を夢中で読み耽ったとのことです。この東雅夫との対談によりますと、講談社の〈世界の名作怪奇館〉シリーズで怪奇幻想とミステリーの楽しさを知った彼女は、その後の「中学から高校にかけての多感な時期」に図書館に通い続け、ポケミス版の『幻想と怪奇』、創元の『怪奇小説傑作集』、角川文庫の三巻揃いのアンソロジー『怪奇と幻想』、荒俣宏・紀田順一郎監修の〈怪奇幻想の文学〉シリーズ等をつぎつぎと借りては読んで楽しんだそうです。 

 宮部みゆきは、「元来の時代もの好き」とも言っていますが、これはお父さんからよく落語や講談の怪談噺を聞かされ、「実は自分は怪談で育ったんじゃないか、と(笑)」と語っているような子供時代の体験が大きな影響を与えているかもしれませんね。しかし、お父さんからの影響は落語や講談の怪談噺だけではなく、さらにテレビの時代劇もあるようです。そのことについて『歴史街道』2002年5月号のインタビュー記事でつぎのように語っています。

 「父はテレビ時代劇も大好き。ですからわが家では日曜日の晩、家族揃ってNHKの大河ドラマを観るのが恒例になっていました。そんななかで私も、いつのまにか大河ドラマ・ファンになっていたのです。なかでも『国盗り物語』(司馬遼太郎原作)は面白くて、かじりつくようにして観ていました。人間関係が複雑で、当時中学校一年生だった私には、一度観ただけではわからない。そこで土曜日の再放送を観て復習するんです。二回観ると時代背景なんかもよくわかる。織田信長や豊臣秀吉の名前は教科書にも出てくるので知っていましたが、斎藤道三という人を初めて知ったのは『国盗り物語』。あの物語で戦国時代の、そして『草燃える』(永井路子原作、源頼朝と北条政子の物語)で鎌倉時代の基礎知識を身につけたと言ってもいいくらいです。」
 「大河ドラマではありませんが、倉本聰さん脚本の『赤ひげ診療譚』(山本周五郎原作、NHK金曜時代劇)や、中村吉右衛門さんが演じていた『鬼平犯科帳』(池波正太郎原作)もよかった。映画と違ってテレビ時代劇は、なにしろ手軽に楽しめる。それでいて歴史の勉強にもなるのですからありがたい。最近テレビで時代劇の枠が少なくなっているのが残念でしかたがありません。」

 なお、お父さんはテレビ時代劇の原作も読んでいたため、宮部みゆきもまた「テレビを観たあと、原作本を読んでテレビとの違いを確かめたり、原作者の他の本を読んでみたりするようになりました。『草燃える』の原作本を読んで以来、永井路子先生のファンになり、小説や歴史読み物を読みあさりました。山本周五郎の本を読むようになったきっかけも、『赤ひげ診療譚』だったような気がします」と語っています。

 このような体験を通じて宮部みゆきは自然と時代小説に馴れ親しむようになっていったんですね。宮部みゆきは、彼女自身と時代小説とのかかわりについて、半村良の『どぶどろ』(扶桑社文庫)に書いた解説のなかでもつぎのように述べています。

 「わたしはミステリーもSFも、本格的に読み始めたのは二十歳過ぎからで、遅い読者です。ただ、時代小説は好きで、わりと早いうちから読んでいました。ですから、半村先生のあまたある作品群のなかで、最初に手に取ったのも、実は本書『どぶどろ』でした。単行本を図書館で借りて読んだ記憶がありますからたぶん高校生のころだろうと思います。 わたしぐらいの年代ですと、中学・高校生ぐらいで時代小説というと、最初に通るのはやはり山本周五郎という大きな門です。そこを出発点に、さあ次はどこへ向かおうか──というところで、わたしの場合、幸せなことにふたつの出会いに恵まれました。ひとつが岡本綺堂の『半七捕物帳』で、もうひとつが『どぶどろ』だったのです。これだけでもう、本好きとしての未来は決まったようなものですが、自身も小説家になった今、やってきた仕事を振り返って見てみれば、物書きとしての未来もまた、そこで半分以上決まったようなものだったと思わずにはいられません(ついでながら、もう少し大人になってから、今度は゜藤沢周平゜という大山門をくぐってしまって、さらに進路が決定的になりました)。」

 宮部みゆきは同じ解説文のなかで、「『どぶどろ』は、わたしにとって、さまざまな意味で特別な小説です。多感なころに初めて読み、その後も何度となく折に触れて読み返してきました」とも書いています。一体、『どぶどろ』のなにが若き日の宮部みゆきの心を惹き付けたのでしょうか。

 この『どぶどろ』に登場する平吉は、天変地異が重なった天明初年に両親を失った孤児で、それを憐れんだ銀座町屋敷の岩瀬伝左衛門によって下僕として引き取られた人物です。しかし、二十歳になった平吉は、この大恩ある岩瀬の大旦那が最近起こった人殺しの事件と裏でかかわっているのではないかとの疑念を抱くようになります。彼はまた、人殺し事件を調べるなかで、社会の底辺に生きるどぶどろのような人間たちをつぎつぎと目の当たりにします。しかし。彼は「どぶどろの上に、もっと小汚いものが浮かんでいるらしい」とも感じるようになっていました。これまで絶対的な存在であった岩瀬の大旦那も、いまはそんな小汚い存在の一つとして認識されるようになっていたのです。また彼は、自分自身も決して汚濁の外にいるきれいな存在ではなく、そのどぶどろのなかにいることを強く感じざるを得なくなっていました。

 このような内容の時代小説を夢中になって読み耽り、そしてそんな小説に心を打たれている思春期の宮部みゆきの姿を想像しますと、私はなんとも言えぬ深い感慨を覚えてしまいます。

 そんな宮部みゆきが創作活動を始めたときも、早い段階から時代ものに取り組んでいたようです。縄田一男『大江戸ぶらり切絵図散歩』(PHP研究所、1995年5月)に「ぶらっと、大江戸二人散歩」と題された縄田一男と宮部みゆきとの対談が載っていますが、同対談で縄田一男が宮部みゆきに、ミステリーと時代ものと「いつたい、どちらから先に取り組みはじめられたんですか」と質問しています。この質問に対して宮部みゆきは、 「よく珍しいと言われるのですが、ほとんど同時に始めているんです。習作の二本目が時代ものでしたから。ただ私の場合、いわゆる時代ものというよりは、ミステリーのなかの捕物帳という感じですが」と答えています。

 宮部みゆきは、その後も時代ものをつぎつぎと発表していきますが、江戸の市井に生きる名も無い人々の哀歓を描いたそれらの作品の中で彼女は特になにを読者に伝えようとしているのでしょうか。杉浦日向子『対談 杉浦日向子の江戸塾』(PHP研究所、1997年)に宮部みゆきとの対談も載っているのですが、そこで宮部みゆきは江戸時代について、「人の命が簡単に奪われてしまう時代だからこそ、一緒に過ごす人たちとの連帯感がすごく強かったつてこと」を忘れてはいけないとした上で、作品を通じてつぎのようなことを伝えたいとしています。

 「私が江戸ものを書き続けたいと思うのは、そういう暖かい人間のつながりがある社会への憧れがありまして。いろんなものを分け合って、助け合って生きていた時代があったんだよ、ということを伝えたくて。」
 「今、いろんな宗教がありますが、見方を変えれば、現代ほど人々が敬虔な気持ちを失ってしまった時代はないのではないかと。江戸っ子のように、いろいろな神様に手を合わせる習慣があった時代のほうが『敬虔な時代』だったのでは。」


Q4.宮部みゆきの作家としての修業時代について

 宮部みゆきが小説を書き出したのは、高橋克彦・大沢在昌・宮部みゆき・井沢元彦『だからミステリーは面白い〜気鋭BIG4対論集』(有學書林、1995年)によりますと二十三歳のときからだそうです。そのことについて、同書で彼女はつぎのように語っています。

 「同年代でデビューした方に聞いてみると、『小学校の時くらいから作家になろうと思っていた』とか、『中学の時にノートに連載小説を書いていて、クラス仲間へ回して読んでもらっていた』とかいう方もいるんですね。私は、書き出したのが二十三歳の時ですから、すごく遅くて……。」

 うーん、これは突然の変身と超能力の発揮という、私にはまさに怪奇幻想小説の世界のような気がしますね。ところで、プロ作家デビュー以前の宮部みゆきの略歴については、『返事はいらない』の新潮文庫版の解説がつぎのように要領よくまとめています。

 「都立墨田川高校卒業後、『手に職をつけたい』と速記の専門学校に通い、速記記者に。法律事務所で働くかたわら、録音テープ起こしのアルバイトをしていた。そこで『講演会などのテープを文字にしながら、人に自分の考えや思いを伝えることのすばらしさに触れるうち、好きな推理小説を書いてみたい』と思い始め、山村正夫氏の主宰する小説教室に二年間通う。三度目の投稿で、『我らが隣人の犯罪』がオール讀物推理小説新人賞に輝いたのは一九八七年。彼女が二十七歳のときだった。」

 宮部みゆきは、1979年に墨田川高校を卒業していますが、大学には進学せず、速記の専門学校に通います。そのことについて、高橋克彦・大沢在昌・宮部みゆき・井沢元彦『だからミステリーは面白い〜気鋭BIG4対論集』(有學書林、1995年)の井沢元彦との対談でつぎのように語っています。

 「女の子は四年生大学出だと、たいへん就職が難しかったんです。確実なところでは、学校の先生になるしかない。私は絶対学校の先生にはなれない、そういう責任のある職には着けないと思っていたので──。」
 「そういう就職難の時代でしたから、親にも『四年間は何とか学費を出してあげられるけど、就職できなかったら困る』といわれたんですよ。それで、進学より何か手に職をと思ったんですが、文章を書くことは嫌いじゃなかったので、速記士という道を選んだと思います。」

 しかし、『月刊Asahi』1993年7月の林真理子との対談で、速記は「上達するまでに時間がかかるので、途中から夜間に切り替えまして、普通の会社へアルバイト感覚で勤めながら学校へ行って、速記の仕事もするという生活」をするようになったと語っています。

  なお、新潮文庫版の解説の略歴には省かれていますが、彼女は実際には法律事務所を含め3つの職場で働いた経験があり、そのことについて綾辻行人『セッション』(集英社文庫、1999年)に載っている綾辻行人との対談で彼女はつぎのように語っています。

 「会社は三カ所なんですけど、私は一九で就職して、二九で一応勤め人生活から足を洗ったんです。ちょうど十年働いていたんですけど、最初の三年間は普通のOLをしていて、真ん中の五年間が法律事務所にいて、すごく給料の安い暇な事務所だったので、昼間、アルバイトができた。そのアルバイトが速記者だったんです。」

 最後の二年間勤めたのが東京ガスの「料金の取り立てをやる部署」だったそうで、そこが、「とてもいい職場で、そこで勉強したというか、見聞きしたこと、その方がストレートに今参考になりますね」とも言っています。

 ところで先ほどの略歴に「山村正夫氏の主宰する小説教室に二年間通う」とありますが、これは 四谷駅近くにあった講談社フェーマススクールズのエンターティンメント小説作法教室のことで、宮部みゆきは1984年と1985年の2年間この教室に通っています。彼女は、その当時の思い出を山村正夫『わが懐旧のイタ・セクス・アリス』(KSS出版、1998年11月)に載せた「教室の空気」と題する文章のなかでつぎのように語っています。

 「この二年間は、本当に楽しく実りの多い時でした。夕方に始まる教室だったせいでしょうか、生徒の顔ぶれもバラエティに富んでいまして、今こうして振り返ってみると、あれだけ年代が違い、立場が違い、職業も違う人びとがひとつの場所に集まるなんて、実は本当に希なことだったろうなあと、しみじみ思います。
 当時は私もハナの二十歳代前半でありまして、生徒たちのなかではまだまだ子供。しかも小説を書くのは生まれて初めてというわけで、親切な同級生に、『原稿用紙の使い方、わかる?』と、心配してもらうくらいでありました。
 実際、最初の講義で山村先生にお会いして、生徒が一人一人自己紹介をしているときに、私がケロリとした図々しい顔で、創作はまったく初めてだと白状しますと、先生は首をかしげて、大丈夫かな……でもまあ、好きなように書いてごらんと、困ったような表情をなさっていたことをよく覚えています。」
 「今にして思えば、山村先生を始め、南原幹生先生、故・多岐川恭先生を講師に、石川喬司先生、阿刀田高先生をゲスト講師にと、なんという恵まれた豪華な教室だったことでしょう。ため息が出ます。私自身、そこに身を置くという幸運がなければ、果たして自分はプロの小説家になれていたかなぁと思います。」

 なお、宮部みゆきは法律事務所に勤務しながら、この小説教室に通っていたのです。 法律事務所は彼女にとって二番目の職場なんですが、そこでの勤務経験がその後の作家活動に役立ったかということについては、この事務所が新宿歌舞伎町にあり、事務所の顧問先に風俗営業のお店が多く、「当時見聞きしたことが絶対参考にはなっていると思うんですけど、まだ分からないですね、自分では。それを直接書いてないから」と語っています。また、『だからミステリーは面白い』でも法律事務所勤務時代のことに触れ、つぎのように語っています。

 「私は法律事務所に勤めていまして、法律事務所っていうのは、ものすごく忙しくてものすごくお給料がいいか、逆にめちゃくちゃ暇でめちゃめちゃ安いか、どっちかなんですよ。 私の事務所は後者の方で、おかげでその間、たくさんの本が読めました。判例時報とかも、先生が出かけている間に、片っ端から読みました。」

 法律事務所には五年間勤務したそうですが、時間があったことから速記者のアルバイトもできたし、普通の人は読まない判例時報のようなものも含めてたくさんの本が読めたのでしょうね。法律事務所での経験が後の『火車』や『理由』にも役立っているかもしれませんね。なお、彼女は速記技能検定試験の1級に合格しており、1級速記士としての腕を生かして座談会や対談などのテープ起こしのアルバイトもしていたのです。

 ところで、季刊『本とコンピュータ』の1999年夏号(No.9)に載った彼女と長谷日出雄との対談によりますと、テープ起こしでは、まず速記記号で書き取ってからそれを文字にし、さらに 修文(文章にまとめる作業)をおこなうそうですが、その修文が大いに文章修行に役立ったようです。確かに、座談会や対談で人が語る言葉はそのまま文字化しても分かりにくいでしょうから、修文するためには話された内容をきちっと把握するとともに、それを文章に巧みに再表現する能力が必要とされますね。テープ起こしのバイトも文章修行になったということ、つい私たちは見逃してしまいそうなことですが、宮部みゆきの作家としての修業時代を考える上で大切な事実の一つと言えるでしょうね。ですから、宮部みゆき自身が『生きるタネ』に載せた「自分はダメだと感じても、あきらめないで」と題する若者たちへのメッセージのなかでこの速記者時代の文章修行の意義を語り、またつぎのように述べています。

 「はじめて書いた三年後に新人賞をいただきました。『早いね』って言われて、たしかに早いと思うんですけど、そのまえの、速記者をしてたあの五年間がなかったら、作家にはなれなかっただろうと思います。」

 彼女がもらった新人賞とは1987年10月に短編「我らが隣人の犯罪」で受賞したオール讀物推理小説新人賞のことですね。 しかし、新人賞をもらったからといって、すぐプロ作家としてやっていけるわけではありません。 『小説すばる』2003年1月号に載った浅田次郎との対談で、宮部みゆきは「『オール讀物』の推理新人賞をいただいたあとも、東京ガスの集金課にいたんですよ」と言っており、「督促状を書いてたりしましたし、社会のいろんな層を見せてもらったと言う意味では、すごく勉強になりましたけど」とも語っています。

 なお、宮部みゆきは、仁木悦子「猫は知っていた」と多岐川恭「濡れた心」の両作品を収録した『江戸川乱歩賞全集』第2巻(講談社文庫、1998年9月)に「思い出と寂しさと」と題する巻末エッセイを書いていますが、同エッセイのなかで、「我らが隣人の犯罪」を表題作とする彼女の最初の短編集 が文藝春秋から1990年に出版されたとき、多岐川恭から「読んだよ、いい本になったね」と褒められたことや、「あなたの書く物は、ちょっと仁木さんに似ている」「仁木さんが元気でいたら、女性作家が活躍する時代を喜んだろうに。とてもいい作家だった」等の言葉をもらったことも紹介しています。

 実は、私が2冊目に読んだ宮部作品が『我らが隣人の犯罪』でしたが(最初の宮部作品は『火車』でした)、この短編集に収録されている表題作などの作品を読んだとき、やはり仁木悦子的なテイストを感じました。童話作家でもあった仁木悦子のミステリー小説には、子どもが主人公の作品が多く、日常生活の中に起こった殺人などの異常な事件とその謎解きがとても平易な言葉で語られ、物語全体の雰囲気もハートウォーミングな感じがします。こんな作品を書いた仁木悦子は、ジュブナイル風ミステリー小説を書いた女性作家の元祖と言ってもいいのではないでしょうか。ジュブナイル風テイストという点において、両女性作家に共通性を感じますね。

 ところで、宮部みゆきがプロの作家になるまでの経歴を紹介してきましたが、関川夏央が文春文庫の『蒲生邸事件』に寄せた解説文で、こんな宮部みゆきの履歴から彼女の作家としての特徴を考える上で2つの重要なヒントが得られるとしています。まず一つは、「官部みゆきはもともと、手にてなす仕事に重きを置き、体を動かすこと、働くことを苦にしないタイプなのだろうと思われる」とし、それが『蒲生邸事件』に登場する若くて聡明で働き者のふきという人物に形象化されているとしています。そして、「第二に彼女は『近代文学』から自由で、それゆえ『自意識を中心とした天動説』」とも呼ぶべき病気にかかることがなかった。そのうえ、学校友達ではなく、年齢を超えた人々と、地域でまた職場で、あるいは夜学でまじわった。それは彼女の生来広い視野をさらに大きく広げ得たのだが、このことはやはり世の隅に身を置いて自活し、そこでの生活の技術と知恵、それに働くことのリズムをそのまま文学に反映させた幸田文を連想させる。幸田文もまた近代文学から自由な東京人作家だった」としています。宮部みゆきの作家としての特徴を考える上でとても重要な指摘ではないでしょうか。


                        
          
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