宮部語録に見る宮部みゆき
      
  宮部語録に見る宮部みゆき

 「山からふらふらと山里へ遊びに行き、村はずれの路上で勝手に落書をしていたら、それを見かけた村の皆さんに、『なかなか面白い絵だね』と誉めてもらった山のタヌキみたいな心境です。今後もときどき、山から村へ下りていくことがあると思いますので、『ああ、このあいだのタヌキだな』とお思いになって、よろしくお願いします。」

 上に引用した文章は、「小説新潮」1998年2月号に載っている宮部みゆきの言葉であり、彼女が『蒲生邸事件』で日本SF大賞を受賞したときのスピーチです。このように自らを山のタヌキとする宮部みゆきの
作家としての特徴や彼女の作品を理解するために、彼女の対談やインタビューでの発言、さらには彼女が他の作家の作品のために書いた解説文など集めてこの「宮部語録に見る宮部みゆき」の小部屋に載せてみました。

目次
Q1.宮部みゆきの生まれ育った環境について

Q2.宮部みゆきと落語、映画そして漫画との関わりについて
Q3.宮部みゆきと恐怖小説、時代ものへの愛好について

Q4.宮部みゆきの作家としての修業時代について
Q5.宮部みゆきのミステリーと松本清張の影響について
Q6.宮部作品とスティーヴン・キング作品との関わりついて
Q7.宮部みゆきの作家としての目標について

 「今もそうで、だから自由業になったんだとも思うんですけど、わたしって、大勢でおなじことをしなきゃいけないっていうのが、イヤなんですよ。激しくイヤなんですよ(笑)」
 『生きるタネ』(ポプラ社)、83頁〜84頁の宮部みゆきの発言より。

Q1. 宮部みゆきの生まれ育った環境について


 宮部みゆきが東京は深川で四代続く下町っ子として生まれ育ったことはよく知られていますね。なお、彼女の紀行エッセイ『平成お徒歩日記』(新潮社、1998年6月)によりますと、深川に「四代住み着いているというのはわたしの母方の先祖で、父方の方は深川よりもっと東の砂村、現在の砂町にいたそうです」とのことです。それから、宮部みゆきの本名は矢部なんですが、お父さんによると幕末に町奉行をしていた矢部駿河守について、「あれはな、おめえ、うちのご先祖だぞ」とのことだそうです。もっとも、彼女は「にはかには信じられないなぁ」と言っていますけどね。

 宮部みゆきは1960年(昭和35年)12月23日生まれですが、その1960年という年の意味と彼女の同世代の人間の特徴とについて『司馬遼太郎の世界』(文藝春秋、1996年)の「ただ茫々と」と題する司馬遼太郎追悼の文章のなかで彼女自身がつぎのように述べています。

 「私は昭和三十五年生まれです。安保改定で世情騒然としていた年ですが、高度成長の幕開けの頃でもありました。日本はとうに戦後ではなく、国全体がもう『復興』でも『再生』でもない『発展』の気運に乗っているときに生まれてきた世代。いわゆる『団塊の世代』を戦後民主主義の薫陶をたっぷりと浴びて育った第一世代であるとすると、現在三十代の私たちは、第二世代ということになるでしょう。一時、『しらけ世代』などと呼ばれたこともありました。」

 宮部みゆきは高度成長の幕開けの頃に生まれたのですが、そんな彼女が早川書房編集部編『ミステリ・ハンドブック』で、クレイグ・ライスの『スイート・ホーム殺人事件』をマイ・フェイバリット・ミステリとして紹介するなかで、そんな「高度経済成長が始まったころまでに生まれた人に限られるかもしれない」アメリカの食文化へを憧れをつぎのように紹介しています。

 「カーステアズ三姉弟が犯人探しに乗り出すのは、『ママのご本をもっと売るため』なわけで、彼らとて決して裕福な家の子供達ではないのですが、それでも、ファミリーレストランも宅配ピザもまだ存在しない時代に育ち、アイスクリームだってそうそう食べられたわけではなく、ましてやクリームソーダなんて『!』という子供時代をおくった年代の読者にとっては、彼らの生活は、子供の桃源郷のように見えるはず(なにせ、ホームパーティまで開いてしまうのだ)。月並みな言い方をすれば、ある時代の日本人が憧れてやまなかった『アメリカの夢』が、この作品の、きわめて日常的なシーンのなかに、ちゃんと描かれているのです。」

 ところで、高度成長の幕開けの頃に生まれた宮部みゆきにも、『スイート・ホーム殺人事件』のカーステアズ三姉弟たちの生活が子どものころには桃源郷のように見えたそうですが、それでは、物心ついたときには街を闊歩する進駐軍の兵士や黒い目のメリーさん、ベティさん、街角で侘びしげにアコーデオンをひく白衣の傷痍軍人、さらには列車の窓の外に広がる軍需工場の廃墟などが当たり前の情景であった私のような世代の人間にとって、幼い頃に映画などで知ったアメリカの生活はなにに喩えたらいいのでしょうかね。ユートピア、夢の国……、うーん、桃源郷という言葉を超えられそうもありません。

 おっと、アメリカの生活への子どものころの憧れを表現する言葉捜しをしていても仕方がないですね。
しかし、敗戦後の占領下のなかに育った戦後「第一世代」の私と、敗戦の影など全く消え去った「戦後第二世代」の宮部みゆきとの間には間違いなく大きな社会的環境の違いが横たわっています。だがそれにもかかわらず、宮部みゆきの作品に私はなんのジェネレーション・ギャップも感じません。その価値観、感性、語り口、みんなみんな極めて自然に受け入れることができ、そして深く共感してしまうんですね。多くの宮部みゆきファンがそうであるように、私にとっても宮部作品は「私のために書かれた私の作品」なんですね。おそらく、彼女と同じ第二世代は勿論のこと、戦前生まれであれ、戦後生まれであれ、様々な世代の人々が同じような想いで彼女の作品を読んでいるのだと思います。そのように、彼女の作品は世代を超えて支持されているんですが、それがとても不思議な気がします。


 では、彼女はどのような家庭環境に育ったのでしょうか。 
高橋克彦・大沢在昌・宮部みゆき・井沢元彦『だからミステリーは面白い〜気鋭BIG4対論集』(有學書林、1995年)によりますと、彼女は「高度成長初期の、下町にある普通の家」に育ったとしています。家は豊かではありませんでしたが「明るい家」だったそうです。お父さんは「サラリーマンですが、特殊鋼といって、鉄鋼業界の中でもかなり職人芸が生きている、特注物をやる『鉄鋼屋』さんなんです」とのことです。なるほど、彼女の作品が柔らかな外見とは裏腹にすごく硬質なものが内部にあるのは、お父さんが「鉄鋼屋」さんだったからですね、というのはもちろん冗談です。それから、お母さんのことについて彼女は高橋克彦『ホラー・コネクション』(角川文庫、2001年7月)で「普通に中学を出て、ちょっと肺を病んだこともあって洋裁学校に進んで、そこを出てすぐ働きだしたんです。昔で言うBG(ビジネスガール)ですね。下町のBG」と紹介しています。

 こんな家庭環境に育った宮部みゆきの諸作品の基底には常に勤労庶民のまっとうな感覚が存在していますが、それは彼女が東京深川の下町に生まれ、いつも額に汗して働く人々を間近に見て育つなかで培った感覚なんでしょうね。西上心太は、『人質カノン』(文春文庫)の解説のなかで、宮部みゆきを彼女の生い育った深川の下町と関連させてつぎのように述べています。

 「よく知られているように、宮部みゆきは東京の下町に生まれた。江戸時代まで遡ることができる、決して豊かではないが額に汗して働く真っ当な人たちが住み着く古い町である。
 地域の結びつきが強く、誰もが隣近所の人間のことを知っているような町。地方の集落ほどの息苦しさは無く、干渉と不干渉のバランスが絶妙に取れている町。このような町はかつては東京のいたるところに存在した。ところが古い町並みが壊され、個人主義と利己主義をはき違えた人々が増えてきた。そしてバブルの時代に、加速度的に地域社会の崩壊が進んでいった。先に述べたようにモラルが低下し、心の壊れた人間(特に若者)が増加したことの大きな原因の一つにこの地域社会の崩壊がある。
 おそらく宮部みゆきは今なお旧習が残る町に住んでいるだけに、本能的にこれらのことがわかっているのではなかろうか。宮部作品に、印象的な老人や子供が登場することが多いのも、老人と子供は地域社会の結びつきを象徴する存在であり、『しきたり』の伝承者と継承者であるからではないだろうか。」

 宮部みゆきは、彼女が生い育った下町の庶民的感覚を著作活動においてもとても大切にしている作家なんですね。
ところで、「週刊ポスト」2001年4月20日号に『模倣犯』についての作者のインタビュー記事が載っているのですが、そこで宮部みゆきはつぎのようなことを語っています。

 「私には、どこかで、体を動かすこともない、額に汗することもない仕事なんて仕事じゃない、という後ろめたさがあるんです。
 古い考え方かもしれませんが、私が生まれ育ち今も暮らしているところでは、働くってことは体を動かすことです。一日中机に向かっているのは、仕事の内に入らないんです。だから私自身、どんなに忙しい時でも、どこかで、こんなのは動いている内に入らないよねという気持ちがある。その感覚を失くしたら危険だということは、いつも思っています」

 額に汗して働くことを尊ぶ環境に育った宮部みゆきですが、やはり本は幼い頃から大好きだったようです。 『だからミステリーは面白い』で彼女が語っている少女時代のエピソードのなかに、彼女が小学校二年生頃(1967年頃)に読んだという『杜子春』についてのつぎのような思い出があります。

 「私、身体が弱くて家で寝ていることが多かったんです。でね、ある時寝込んでいたら、父親がとてもきれいな本を買ってきてくれたんです。『杜子春』だったんですけど、値段は五百円。それを一日で読んじゃって、『面白かった』って言ったら『五百円、一晩でぺろっと読んじゃったのか』って言われたんですよ。それくらい、当時は本が高かったんです。」

 彼女が小学校二年生くらいで『杜子春』を一晩で「ぺろり」はすごいですが、それよりもっと印象深いのは、「五百円、一晩でぺろっと読んじゃったのか」というお父さんの言葉です。そんなちょっとユーモラスな表現のなかに質素で慎ましやかな生活がうかがえますね。なお、その当時の五百円はいまの二千円ぐらいに相当するでしょうね。本の購入は経済的にそう容易ではありませんでしたが、しかし彼女はお母さんに頼んで移動図書館から本をよく借り出して読んでいたようです。そのことについて、宮部みゆき自身が2000年5月4日の「朝日新聞」に載った「知りたい作家の素顔」と題されたインタビュー記事でつぎのように語っています。

 「小学校低学年のころは体が弱く、よくお母さんに家の近くに来る移動図書館から本を借りてきてもらっていました。好きだったのはルーマ・ゴッテンの『人形の家』や『ドリトル先生』シリーズなど。」

 それから、『だからミステリーは面白い』によりますと、少女時代の宮部みゆきは「病気がち」で、「学校嫌い」で「団体行動が嫌い」だったそうです。『生きるタネ』(ポプラ社、2000年7月)に載っている「自分はダメだと感じても、あきらめないで」と題した若者たちへのメッセージでも、彼女は小学校時代のことを語っていますが、なんと彼女は小学校4、5年生の頃に担任の先生から問題児童扱いされたそうです。そのことについて彼女は同メッセージでつぎのように語っています。

 「その頃からわりと、ボーッと自分の好きなことを考えるのが好きだったものですから、先生もよほど腹にすえかねたのか、この子はどうもおかしいから、専門の医者のところに連れていくようにと、母が呼ばれたことがありまして。」

 お母さんは先生から児童相談所に行くようにとまで言われたそうですが、でもお母さんは、おとなしく授業をちゃんと受けているのだから問題にされる筋合いはないとつつぱり通されたそうです。「ボーッと自分の好きなことを考えるのが好きだった」ということは、自分が作り出した想像の世界で一人遊び戯れていたということでしょうね。このような豊かなイマジネーションこそ創作家になるためになくてはならないものですね。

 そんな彼女は、『生きるタネ』のメッセージで「大勢でおなじことをしなきゃいけないっていうのが、イヤなんですよ。激しくイヤなんですよ」とも言っていますが、またつぎのようなことも指摘していますよ。

 「集中するのが苦手な子がみんなダメな子というわけじゃない。伸ばしようによっては面白い子になるかもしれない。子どものときは適応できなくても、大人になるとうまく適応する場合もあると思うんですよね。
 わたし自身が、学校からはねつけられた経験があるので、学校だけが人生じゃないという気持ちは強いですね。特に今の子は、未来に絶望しやすくなっていますから、大人になったほうが、人生って実は楽しかったりするよと、そういうメッセージを子どもたちにつえることも、やっていきたいと思っています。」

 子どもの頃の彼女は、作文でも先生からほめられるような生徒ではありませんでした。『本の話』2002年12月号で宮部みゆきは宮城谷昌光と「『言葉』の生まれる場所」と題して対談をおこなっているんですが、そこで彼女は「高校に行くまでに作文っていい点もらったことないんです」と述べており、小学校六年生のときに書いた読書感想文について、担任の先生から「これは読書感想文ではない。この本の宣伝文です」と言われたという話を紹介しています。

 しかし、彼女が高校の時、ある国語の先生がその話を聞いて、「それはあなたの資質をよく表してるよ。感想文じゃなくて宣伝文だということは、つまり人に読ませようと思って書いてるだろう」と指摘し、「だから、あなたが文学者になれるとは言わない、だけど、小説家にはなれるかもしれない。ライターにはなれるかもしれない」と言ったそうです。この先生は、彼女の潜在的な資質をちゃんと見抜いていたんですね。きっとこの先生のことだと思いますが、彼女が浅田次郎と「啖呵切る ご先祖様ぞ 道標」と題しておこなった対談(『小説すばる』2003年1月号掲載)で、「私は高校時代、『文章で身が立てられるかもしれない』って言ってくれた先生がいたんです。直木賞のパーティーにその先生を呼んで、お礼を言いました」と語っています。生徒にとって自分でも気がついていない潜在的な能力を評価してもらうってとても嬉しいことですよね。


Q2.宮部みゆきと落語、映画そして漫画との関わりについて

 私は、宮部みゆきの作品を読んでいますと、会話文の巧みな間の取り方とかレトリカルな表現などに落語の影響を感じ、また生き生きとした情景描写などに映画のカメラアングルを通して映し出されるダイナミックな映像を見ているような印象を受けます。しかし、『だからミステリーは面白い』での彼女ののつぎのような話によりますと、落語や映画などはまずお父さんやお母さんの語る話を通じて興味を持ったようです。

 「もともと父が講談や落語が好きだったということもあって、子供の頃、よく夏になると私と姉を呼んで、寝る前に怖い話をしたんです。」
 「あと、母が異常なほどの洋画好きなんです。昭和九年生まれですが、戦後、進駐軍が来るのと同時にぱーっとハリウッドの黄金時代の映画が人ってきましたが、あれをリアル・タイムで見てるんですよ。もう還暦を迎えましたが、いまでも、当時の映画の細かいところをよく覚えていますよ。」

 お父さんが語った「怖い話」については、宮部みゆきは、『小説推理』2002年1月号に掲載された「〈幻想と怪奇〉にひたる悦楽」と題された東雅夫との対談でもつぎのように述べています。

 「江戸物の怪談が私にとって書きやすいのは、子供の頃に耳で聞いて育った話が、たとえば落語からとったものだったり、地元の昔話だったりしたことが大きいと思います。
 私はもちろんミステリーも好きなんですけど、実は自分は怪談で育ったんじゃないか、と(笑)。父が落語好きで、それと昔は、ラジオドラマにも怖いものがいっぱいあった。私の父は工場で働いていて、私が子供の頃には夜勤があったんですね。私たち家族と六時くらいに夕飯を食べてから、会社に行っちゃうわけですよ。そうすると、昔、自分が聞いて怖かったラジオドラマとか落語の怖い話を──『もう半分』とかね、ああいう怖い話を、夕飯を食べながら話してくれるんです。自分は働きに行って夜どおし起きているからいいけど、残された私たちはどうなるのよ、みたいな(笑)。」

 講談や落語に関して言いますと、戦後、民間のラジオ放送局が発足し、講談や落語はラジオに適合した娯楽だったため、ラジオ番組でさかんに放送されています。特に落語は大変な人気で、三遊亭金馬、古今亭志ん生、古今亭今輔などの名人の楽しい噺をみんなお茶の間で楽しんでいました。宮部みゆきのお父さんもラジオで落語や講談を楽しんでいたんですね。しかし、テレビの普及とともに落語は大衆演芸の王座から降りていきました。

 なお、 『オール讀物』の2002年3月号には宮部みゆきと山本一力との対談が「時代小説の新しい広がりに向かって」と題されて載っているんですが、そこで山本一力が「宮部さん、あなたも落語、お好き?」と質問したとき、宮部みゆきはつぎのように答えています。

 「私はね、あんまり高座には行ってないんですけど、昔はラジオで聞いていましたし、父が好きだったので、昔でいう速記本なんでしょうね、高座を起こした本がうちに置いてありましたので、これを子供の頃にに読んでましたね。」
、「会話の呼吸なんかほんとに勉強になりますね。」

  お母さんは「異常なほどの映画好き」だったとのことですが、映画は戦後の日本において娯楽の王様でした。みんな映画が大好きだったんです。映画がピークに達した1958年には、日本の映画人口が11億2745万人にもなったそうです。当時の人口が9178万人ですから、なんと一人当たり年間に12回以上映画館に足を運んだ計算になります。しかし、テレビの普及とともに映画人口は急速に減少していきました。それはちょうど宮部みゆきが子ども時代から思春期へと成長していった時期と重なると思います。

 ですから、宮部みゆきが強い印象を受けた映画もテレビで放映された「荒野の七人」でした。朝日新聞の2001年3月4日付けの「あの場面にプレーバック」と題するインタビュー記事のなかで、彼女はこの「荒野の七人」を中一くらいのときに両親からすすめられて見たと語り、「西部劇は以前からみてたけれど、こんなにかっこよくて、わくわくしたのは初めてでした」と言っています。そして、「七人の役割分担が見事で、だれ一人として添えものになっていない。そういう人物つくりは今でも好きです。影響されていると思います」とも言っています。ところで、この「荒野の七人」は言うまでもなく黒沢明監督作品「七人の侍」を翻案映画化したものですね。彼女は一年ぐらい後で黒沢監督の「七人の侍」をみたそうですが、朝日新聞の同じインタビューで、この「日本映画があの西部劇の元だったなんて、すごく誇りに思いました」と語っています。

 そんな彼女は、熱心な映画ファンとなったのですが、
大沢在昌『エンパラ』(光文社文庫、1998年)の対談によると、「子供の頃から二十二、三歳までは映画時代でした」とのことです。

 ところで、子供時代の話と言えば、漫画を抜きにして語ることはできないでしょう。宮部みゆきは、先に引用した司馬遼太郎追悼の文章「ただ茫々と」において、漫画家・手塚治虫について、「子供時代の私(私たちの年代の人ならみんな)にとって神様みたいな方でした」と言っています。私にとっても手塚治虫は漫画家のなかでも別格の存在なんですが、そんな手塚治虫のエンターティンメント精神は宮部作品の中に間違いなく引き継がれているのではないでしょうか。

 
特に私は、宮部作品を読んでいて、彼女の巧みな「遊び」のテクニックに手塚治虫の漫画に登場する「ひょうたんつぎ」や「おむかえでごんす」を連想してしまいます。ここでいう「遊び」とは、ストーリー展開やテーマの掘り下げなどとは直接関係ない場面を描いたり人物を登場させて、読者の緊張感を一時的に和らげたり、ある雰囲気に浸らせたりすることなんですが、手塚治虫はこれがとっても上手なんです。子供時代の私は手塚漫画のなかに唐突に「ひょうたんつぎ」や「おむかえでごんす」が出てきたり、登場人物がストーリー展開から横道にそれてドタバタをやりだす場面が大好きで、それを大いに楽しんだものです。

 それで、漫画の「遊び」についてではありませんが、宮部みゆきが秋田文庫の手塚治虫『ブラック・ジャック』第13巻の解説で「ブラック・ジャック」などについて語っているつぎのような文章がありますので、それを紹介しておきたいと思います。

 「少年チャンピオン誌上で『ブラック・ジャック』が連載されていた当時、わたしは中学生でした。同じ時期に大人気を博していた『ド力ベン』と、『ブラック・ジャック』のページが本当に楽しみで楽しみで、毎週発売日になると、書店に走っていったものです。それぞれのページだけきれいに切り抜いてファイルし自前の単行本にして、本物の単行本が出版されるまで、本棚に保管しておいたりしたことも懐かしく思い出されました。」

 マンガに対するこんな思い出を持つ宮部みゆきは、小学館文庫版の萩尾望都『ポーの一族』第2巻の後ろに載せられているエッセーで日本が生み出したマンガ文化についてつぎのように語っています。

 「わたしは常々、極東の小国ニッポンは、ただ金持ちなだけじゃないぞ、小型車を作るのが得意なだけじゃないぞ、マンガという素晴らしい文化を生み、そこには凄い創作家がいるんだぞと、我が国のマスコミがもっともっと声を大にして海外に向けて宣伝するべきだと思っているのですよ。もちろんわたしたち一人ひとりも、うんと胸を張って、大いに誇りにしたいですよね。」

 もっと、宮部みゆきの作品に及ぼした漫画の影響について考察し深めてみてもいいのではないでしょうかね。なお、大沢在昌『エンパラ』(光文社文庫)において、大沢在昌が宮部みゆきとの対談のなかで、彼女が自分の作品の漫画化を許可しておらず、その理由として「マンガというのはライヴァルだから、塩を送りたくない、と言ったことがある」ことを紹介しています。これはとても興味深い話ですね。しかし、2003年には、『週刊コミックバンチ』8月22日・29日合併号(8月8日発売号)から小野洋一郎によってコミック化された「ブレイブ・ストーリー 〜新説〜」が連載されています。




                            
「宮部語録に見る宮部みゆき」(続)に続く
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