私の宮部みゆき論


宮部みゆき「ドルシネアにようこそ」における作者の眼差し

 私は宮部みゆきの大ファンです。新聞の書評で『火車』のことを知り、同書を購入して読んだのが宮部作品との最初の出会いなんですが、それから以降、本屋さんの店頭で宮部作品を見つけたら必ず買うようになりました。

 宮部作品は、どれも平易でかつとてもチャーミングな語り口で読者を物語のなかに自然と引き込み、装飾過剰にならない程度に巧みな比喩を用いて登場人物とその背景を生き生きと描き出し、そしてあっと驚く意外な物語を展開させ、そして最後には「ううむ、なるほど」と心から納得できる結末を用意してくれます。

 それからまた、私が宮部作品を「わたしの作品」として非常に身近なものに感じるのは、どの作品にも作者の堅実でまっとうな庶民的眼差しが存在しているためです。宮部みゆきは、東京は深川で四代続く下町っ子として生まれ育ったそうですが、道理にはずれた行為をすれば「おてんとさまに申し訳ない」と感じるような堅実でまっとうな下町的庶民感覚が彼女の小説の基底をなしているのではないでしょうか。宮部みゆきの作品を語るとき、「ハートウォーミング」な作風ということが常に言われますが、それはこのような下町的庶民感覚と密接に関連しているように私には思われます。

 今回、読書感想に取り上げた短編小説「ドルシネアにようこそ」(私は新潮文庫の『返事はいらない』所収のものを読みました)にもそのような視点がしっかりと据えられています。この作品においては、作者の視点のみならず、主人公の篠原伸治という青年がまさにそのような「堅実でまっとう」を絵に描いたような人物として登場します。彼は、父親が営む速記事務所の仕事を継ぐため、速記技能検定試験の一級合格を目指して昼間は速記学校に真面目に通い、夜はいろいろな内容のテープ起こしを速記でおこなうバイトにいそしんでいます。

 ところで、この作品が収められている新潮文庫の『返事はいらない』には茶木則雄の「解説」が付いていますが、同解説によると作者の宮部みゆきは「都立墨田川高校卒業後、『手に職をつけたい』と速記の専門学校に通い、速記記者に。法律事務所で働くかたわら、録音テープ起こしのアルバイトもしていた」とのことです。そして同解説は、「ドルシネアにようこそ」の主人公・篠原伸治について「本書のなかで最も『彼女自身』を投影した人物のように、私には思える」としています。

 この「ドルシネアにようこそ」と題された短編小説は、篠原伸治青年がバイトのために六本木の三輪総合速記事務所を毎週金曜日の夜訪れるとき、いつも地下鉄の改札口の伝言板に「ドルシネアで待つ 伸治」と書いていたことから意外な展開を見せることになります。ドルシネアは六本木の高級ディスコの名前で、篠原青年はこれまで一度も足を踏み入れたことはありません。

 では、「ドルシネア」とは全く無縁な篠原青年がなぜそんな伝言を書いていたのでしょうか。それは、「華やかな、週末の六本木を、原稿を手に一人ぼっちで、擦り切れたスニーカーで歩いていく自分の姿に、いくらかでも堪えやすくなるような気がするから」なんです。

 ところが、なんとある夜、この篠原青年の伝言の横に女性の文字で「ドルシネアに、あなたはいなかったわね」というメッセージが書いてあったのです。この女性からの謎のメッセージから物語はあらたな展開を見せ、そして意外な結末がもたらされます。もちろん、そのあらすじはまだ読んでおられない方のために伏せておきます。でも、守山喜子という女性がしばらくして登場して来ますが、作品に描かれた彼女と篠原青年との心の交流に読者がとてもハートウォーミングな気持ちになるであろうことは間違いないと思いますよ。

 ところで、篠原青年がテープ起こしのアルバイトをもらうために利用する営団地下鉄日比谷線の六本木駅のことを作者は「街の鬼っ子」と書いています。この「街の鬼っ子」という言葉は、作品の冒頭に出てきます。その冒頭の文章は、

 「営団地下鉄日比谷線の六本木駅は、その頭上に広がる街の鬼っ子である」

というものです。そして読者は、作品を読み通した後、あらためてこの「街の鬼っ子」という言葉に作者が重要な意味を込めていたことを知ります。

 また作者は、華の金曜日を六本木で満喫しようと地下鉄を降り立つた若者たちが、階段をのぼって改札をくぐり抜け、街へ繰り出すときの様子をつぎのように表現しています。

 「ここに地下鉄に乗ってやってくるようなヤツに用はないよ」という顔をしている街に、
 「ここに地下鉄なんかに乗ってやってくるわけないじゃない」という顔で乗り出していくのだ。

 うーん、この表現、的確で鋭いですね。それはたんに六本木の街に対する表現にとどまらず、日本社会の一般的な風潮を鋭く暴き出すような表現ではないでしょうか。そして、この作品にはそのような風潮に染まり踊らされている人物として秦野小百合という女性が登場します。彼女は、浪費病という病気に罹って服飾品や旅行費用のために「十枚ものクレジットカードを持っており、それを無計画に使って、現在、総額四百五十万の負債を抱えている」と紹介されています。

 ところで、「ここに地下鉄に乗ってやってくるようなヤツに用はないよ」という顔をしている街に「ここに地下鉄なんかに乗ってやってくるわけないじゃない」という顔で乗り出していく若者たちを惹きつける高級ディスコこそが、この「ドルシネアにようこそ」という作品名にある「ドルシネア」なんです。

 この作品のバックには、営団地下鉄日比谷線六本木駅を「その頭上に広がる街の鬼っ子」扱いする現代の風潮に対する作者の批判の目があります。作者は、ドルシネアを経営する女性に「働くことに夢中で、自分の身をかまってる余裕なんてない。でも、あたしはそれでいいの。ただ、あたしと同じように働いている人たちに、月に一度でいいから、贅沢な気分を味わってもらえれば、それでいいのよ」と言わせています。

 でも、今日の消費社会では、額に汗して働く姿は表から覆い隠され、さらには「鬼っ子」扱いされ、そしていつも華やかに踊り続けましょうとの甘い声がひっきりなしに人々に誘いかけ、少なからぬ人々が自分を見失って踊らされています。

 しかし、作者の宮部みゆきは、この作品でそんな社会的風潮に対する批判を声高に告発しているわけではありません。作品は、篠原青年の「ドルシネアで待つ」との伝言から始まる意外な展開と結末を楽しむハートウォーミングなエンターテインメントとして見事に仕上げられています。まだ「ドルシネアにようこそ」を読んでいない方はぜひ読んでほしいと思います。「ドルシネアにようこそ」にようこそ。

                    1999年12年25日
 
「我らが隣人の宮部さん」
『返事はいらない』等についてのコメント



宮部みゆき「たった一人」に見る作者の仕掛け
 
 「目をそらし、視線を落とすと、足元にできた不規則な形の水溜まりに、彼女の身につけているレインコートと、それに対になった傘の、鮮やかな赤い色が、ぼんやり映っているのが見える。彼女が傘の柄を持ちかえ、右肩から左肩の上に移動させると、それにつれて水溜まりの上の映像も動いた。惚けたようにそれを見つめていると、不意に視界のなかに車のタイヤが入ってきて、
水溜まりの上に踏み込み、彼女の赤い影を乱して通りすぎていった」

  上の文章は宮部みゆき「たった一人」(文春文庫の『とり残されて』に所収)の冒頭近くのものであり、「彼女」すなわち永井梨恵子が雨の日にあるビルを
訪れたとき、そのビルの外で足元にできている水溜まりに映った「彼女」の姿を描写したものである。そして、この水溜まりの描写は、平凡な個人のありふれた日常生活のなかに不意に生じ、その生活に一時的な波紋をおこしていった不思議な出来事を暗示しているのではなかろうか。

 この中編小説は、もうすぐ25歳になる永井梨恵子という女性が、毎日見る夢にいつも出てくる場所のことがどうしても気になり、その夢の場所が実在しているかどうかを河野という四十代の中年男が開いている調査事務所に依頼することから物語が展開しはじめるが、作者はこの冒頭の導入部分に様々な仕掛けをおこなって、読者をこれから起こる不思議な出来事のなかにいざなっていく。

  今回、なぜ宮部みゆきの作品が多くの読者を魅了するのか、その謎を解明する手がかりとしてこの「たった一人」を読み直し、その創作テクニックを検討してみた。ただ、読書感想文のモラルとして、物語の後半に展開する不思議な内容を伏せなければならないので、ここでは物語の冒頭の導入部分にのみ限定して、私なりに見つけた作者の創作上の幾つかの仕掛けを紹介することにする。

 まず、作者は、「彼女」(梨恵子)が雨の日に「すすけた灰色のビル」の「五階の左から三番目」の部屋を訪れる場面から描き始めるのだが、この冒頭部分にかなりの頁を割き、そこにいろんな仕掛けを作っている。この物語のテーマを暗示させる先ほどの水溜まりの描写もその一つである。また、永井梨恵子が訪れた「すすけた灰色のビル」についての、つぎのような描写も見逃してはならない。
 
 「彼女はもう一度、視線をビルの方へと戻した。つい数日前、あのドアの前まで行ったのに、そこで勇気が失せ、回れを右して帰ってしまったときのことを思い出す。あの日は好天で、この地上のすべてのもの、道端にうずくまる猫の背中から、廃ビルの屋上に打ち捨てられたバケツの底にまでも、公平に、まんべんなく陽の光がさしかけていることを確信できるような美しい日だった。
 だから、くじけてしまったのだ。」

 後から読み直して、あらためてうまいもんだと感心させられた。好天の陽の光のために、「彼女」は目的の部屋を訪れることを断念したという。読者は、「彼女」が明るい陽の光のなかに晒したくないような個人的で重大な秘密を抱えているらしいことを暗示させられる。そして読者はまた、そのような好天の日の「すすけた灰色のビル」の周辺の描写から、物語の舞台となる調査事務所が入っているビルの周りのわびしい情景もありありと目に浮かべることができる。それはまた、調査事務所を開いている河野修介のイメージに連動していくのである。

 作者は、その後も、目的の部屋にたどりつくまでの主人公の「彼女」の躊躇する心を繰り返しきめ細かく描写し、さらにドアをノックするときの「彼女」の心理をつぎのように書いている。

 「ノックに応えて、と思った。応えないで、と思った。相反するふたつの考えは、まるで迷走する車のようだ。この一秒のあいだには右の車が、次の一秒のうちには左の車が、バンパーの分だけ、ほんの少し相手より前に出て、彼女の注意を惹こうとしている。
 二度目のノックをする気力をかき集めるために、彼女はぎゅっと目を閉じた。そのとき、ドアの内側で、男の声が応えた。」

 男の「どうぞ」という声で、「彼女」のこれまでの躊躇はすっかり消え失せ、「応えて」と願っていた気持ちが「もう止めようのない道を、なめらかに走り」だす。読者も、このような平易で巧みな比喩を織り交ぜた描写になんの抵抗感もなく身をゆだね、「もう止めようのない道を、なめらかに走り」だすことだろう。もうこうなったら、後に引き返すなんてことは絶対に無理だ。読者もまた、なんの躊躇もなく物語の世界に入り込んでいくことになる。うまい、実にうまい。読者を物語のなかに誘う実に見事な導入部である。

 また、この導入部のなかで、主人公の永井梨恵子と彼女が調査を依頼する河野修介という二人の人物について読者はいろいろな情報を得るのである。永井梨恵子については、作者はつぎのように紹介している。

 「学校を出て、あたりまえのコースで就職し、決まった時刻に出勤して、決められた時刻に退社する。そういう毎日だ。これという変化もない。それでいて彼女は、この暮らしに、平凡だと言い切って安心していられるだけの安定感も感じてはいなかった。いつも何か不安で、不満足で、渡されていないおつりがあるような気がする。」

 なんのことはない、これは多くの人々にそのまま当てはまることではないだろうか。読者の多くが、こんな永井梨恵子の姿のなかに自らを見い出すことであろう。上の紹介を読んで、読者にとって永井梨恵子は自分たちの分身として急に身近な存在となる。

 そんな永井梨恵子から相談を受け、調査を依頼される河野の方については、「少し白髪が目立つ」「目尻と口の端に深いしわのある」四十歳ぐらいの中年男で、左手の人差し指で鼻梁をなぞる癖があり、「席につくとき、相手に正対せず、少し角度をつけて座る」人物として描写される。そして作者は、最初、この河野という人物について、言葉遣いは丁寧であるが、いささかぶっきらぼうな感じの男として描く。

 しかし、永井梨恵子がこの河野という人物を知ったきっかけとして、彼が捨てられていた小犬を拾う姿を彼女が見かけたというエピソードを紹介し、彼のぶっきらぼうな外面の内側に優しさを隠しもっているらしいことを読者に知らせる。これで読者も、自分たちの分身である永井梨恵子がその悩みと相談を受けとめる相手として河野を認めることができ、つぎに語られる永井梨恵子の夢の話にじっくりと耳を傾けることができるのである。

 ところで、二人の会話のなかで、永井梨恵子が調査を依頼した河野(カワノ)を最初は「コウノ」と間違って読んでいたエピソードも出てくるが、そのときの永井梨恵子のつぎの言葉に対しても、敏感な読者はそこにこの物語のテーマと関連する重要な意味が込められていることを予測するであろう。

 「ここを訪ねることがなかったら、わたしにとっては、あなたは永遠にコウノさんでしたよ。ちらっと見かけたことがあるだけの、コウノさんという探偵さんだって、一生そう思うだけで終わったでしょうね。」
 「そうじゃないわね。逆なんです。わたしがね、あなたのことを『カワノさんだ』って知ったときから、あなたはカワノさんになったわけですよ。ほら、山奥の森の深いところで大きな木が倒れたとき、その音を聞いている人が一人もいなかったとしたら、つまり聞 く耳がなかったなら、木が倒れたときにたてた音も存在しなかったことになる――とい う話があるでしょう。あれみたい。」

  ここだけを取り出せば、客観的実在物より主体の観念を優先させる典型的な観念論を永井梨恵子が展開しているように思われるかもしれない。しかし、物語のなかで、彼女のこの言葉はテーマと重要な関連を持ち、まるで森の奥から返ってくるこだまのように物語全体に静かに響き渡ることになる。

  作者は物語の前半でこのような仕掛けをいろいろ設け、そして見事に読者をとらえ、さらに不思議な世界に導いていき、最後に意外な結末を用意する。この物語のラストはとても哀しい。読者は、主人公とともに「たった一人の大切な人」を欠いたことによって、たった一人取り残された主人公の耐え難い寂しさと空虚さを痛切に感じることであろう。
 
                     
2000年1月2
「我らが隣人の宮部さん」
『とり残されて』等についてのコメント


宮部みゆき「謀りごと」に見る落語的世界

 宮部みゆきの語り口のうまさは定評がありますね。そんな宮部みゆきの文章のなかで、私個人は、比喩的表現を多用しての登場人物や情景の巧みな描写や、作中で交わされる粋で洒落っ気のある会話、それからその場の状況にぴったりとフィットした台詞が大好きです。

 私は、どうも宮部みゆきのレトリカルな描写や気の利いた会話や台詞などのなかに江戸落語の影響がかなりあるのではないかと思っているんです。それは、現代小説においても感じることなんですが、江戸時代を舞台にした時代小説においてその色合いがより強いように感じます。

 宮部みゆきの短編時代小説「謀りごと」(人物往来社の『堪忍箱』に所収)は、江戸は深川の長屋が舞台になっていますので、それだけ落語的雰囲気が濃厚なようです。この小説の冒頭の文章からして、つぎのような語り口で書かれています。

「深川吉永町の丸源長屋には、ちょっとばかり世間さまに向かって誇れることがある。長屋が建てられてからこっちのこの十年間、たった一度の火事にも遭っていない、小火(ぼや)さえないということだ。」

 どうです、江戸落語の噺家の語り口に似てはいませんか。語り口ばかりではありません。この小品の話の展開のさせ方、さらには結末まできわめて落語的なんです。そして、最後にはちゃんと落ちまであるんですよ。そして、この最後の落ちのために冒頭の文章の「長屋が建てられてからこっちのこの十年間、たった一度の火事にも遭っていない、小火(ぼや)さえないということだ」という文章が仕掛けとして設けられているんです。この部分、小説「謀りごと」の落ちのための謀りごとなんです。

 もっとも、そんな仕掛けまで用意された落ちなんですが、古典落語の名作「まんじゅうこわい」の「畜生、一杯食わせやがった。やい、本当にこわいのはなんだ?」「ここいらで濃いお茶が一杯こわい」ってほどのきれは残念ながらないですけどね。

 最初に登場する人物も、やっぱり落語の世界で毎度お馴染みのいささか頭のねじが抜けたような人物で、名前は松吉と申します。腕のいい植木職人なんですが、女房のお勝による「草木と話が通じる分、人間さまとの話に今ひとつふたつみっつくらい通じにくいところがある」というひとつふたつみっつくらい落語的なレトリックによる人物評価が添えられています。

 この小説は、そんな松吉が長屋の隣に住んでいる香山又右衛門という浪人を訪れたときに、「炬燵の猫のように丸く丸まって死んでいた」差配の黒兵衛の死体を発見するところから始まります。この差配の黒兵衛も、落語「小言幸兵衛」に出てくる大家の幸兵衛そっくりで、生前は毎日一度は長屋の様子を見にやってきて小言や嫌みを言っていた人物です。

 さて、死んでいる黒兵衛を発見して驚いた松吉は、自分の家に引き返して女房のお勝に「なあお勝、差配さんがいるんだ」と伝えますが、そのときのお勝さんの返事がまたなんともふるっているんです。「そりゃいるだろうさ。権現さまにお願いしたっていなくなっちゃくれないんだからいるだろう」。差配の黒兵衛に対して、小うるさくって憎たらしい人物だと思っているとしても、こんな台詞で返すんですから、お勝さんもまた落語世界の住人になるための認定試験があったら、現役合格間違いなしの人物ですね。

 しかし、そんなお勝も差配の黒兵衛が本当に死んでいることが判って胸がどきどきしてきます。しかし、そのどきどきは隣の住人の香山又右衛門と「ちょいと立ち話をしたりするときに感じる、気分のいいどきどきではなかった」んですね。お勝がまず心配したことは香山又右衛門が疑われないかということでした。

 その香山又右衛門の姿はどこにも見あたりません。どうしょう、どうしょうと「頭のなかが独楽(こま)みたいにぐるぐる」しているうちに、籠細工職人の与助がやってきました。しかし、与助がもしかしたら長屋の連中が下手人かもしれないと言いだしましたので、二人で長屋の連中を集めて確かめることになります。

 ところが、集まった長屋の住人たちが差配の黒兵衛についてあれこれ話し始めましたら、意外なことに、彼が人によっていろんな顔を見せていたことがわかってきます。ですから、そんな黒兵衛について、お勝は「死んだらいきなり、四人にも五人にも増えたみたいだ」と思ってしまうわけです。また、お勝はつぎのようにも思います。

「人間はみんな、こんなふうに隠し事をして生きている者なのだろうか。だから、急に死んでしまうと、そういう秘密が全部明るみに出て、まるで、生きていたことそのものが大きな謀りごとだったみたいに見えてくるのだろうか。」

 ところで、黒兵衛は差配ですが、長屋の住人にとって差配という存在は店賃を徴収するだけの存在ではありません。この小説に、「店子のあいだでもめ事があったり妙な死に方をした者が出たりしたとき、さっと片づけに来るのが差配の仕事だ」とありますが、長屋の住人の日常生活を管理するのが差配の重要な仕事なんです。長屋から縄付きを出したら、彼も連帯責任でしょっ引かれてしまいます。ですから、お勝が嫌ったように、毎日一度は長屋の様子を見にやってきて、「やれ井戸は汚れていないか、厠(かわや)はきれいに使っているか、夜逃げした住人はいないか」といつも小うるさくてずけずけ言うわけです。そして、それは黒兵衛の生来のものというより、その職業的役割から来るようです。

 しかし、そんな黒兵衛もやはり生身の人間です。その職業的外皮の内側には様々な人間的な感情や欲望が隠されています。この「謀りごと」というお話の面白いところは、長屋の連中のにぎやかで滑稽なおしゃべりを通じて差配の黒兵衛の意外な側面がつぎつぎと表面に出てくるところにあります。おそらく読者は、このユーモア溢れる小品を通じて、生きていることが大きな謀りごとであるような人間存在の分かりにくさ、複雑さについてあらためていろいろ思いを巡らすことになるのではないでしょうか。

                   2000年1月7日



宮部みゆき「生者の特権」に見る淋しさと慰め

「人はみんな孤独で、死ぬときだけでなく、生きているときも一人ぼっち。理解しあうことも、愛しあうことも、所詮は不可能なのだ。現実はそんなものだ――
 でも。
 でも、だからこそ、希望は失わないでいてほしい。所詮一人ぽっちだからこそ、一生に一人でもいい、理解しあえると思う人、理解しあいたいと思う人に巡り合えたとき、その素晴らしさがわかるのだ。相手がそこにいてくれることの価値が見えるのだ。
 だから、希望を捨てないてください 今どんなに辛くても、淋しくても、ねえ人生はもともとそんなもんなんだよ。いいことは、幸せは、これから未来のどこかでやってくるんだよ。ちょうど、このヒロインたちにとってそうであるようにね……。」

 上に引用した文章は赤川次郎『ベビーベッドはずる休み』(集英社文庫)に付いている宮部みゆきの解説文から取ってきたものです。この解説文の文章で、宮部みゆきは赤川次郎の作品には「蕭々と孤独の風が吹いている」と指摘し、またその赤川作品の行間を吹き抜ける「狐独の風」の音は「孤独を嘆いているのではなく、孤独を慰める音色なのだ」としています。

 私がなぜこの解説文を紹介したかといいますと、今回の宮部みゆきの短編「生者の特権」(『人質カノン』、文藝春秋社)を読んだとき、私は上の解説文をもじったつぎのような想いを持ったからです。

 所詮一人ぽっちだからこそ、一生に一人でもいい、自分をかけがえの無い存在だと思ってくれる人、自分の存在を心にかけてくれると思える人に巡り合えたとき、生きることのその意味が見い出せるのだ、生きる勇気が湧いてくるのだ。

 「生者の特権」の登場人物はたった二人です。自分をかけがえの無い存在だと見なしていると思っていた男に裏切られた女性と、いじめに苦しみながらも教師にも親にも相談できないで独りで思い悩む小学校三年生の男の子です。その二人が偶然のことから知り合うようになり、協力して真夜中の小学校の校舎からこの男の子の宿題を取り出してくるというのがこの物語のストーリーです。

 田坂明子は勤務先の会社の同期生の男性と付き合っており、彼と結婚することを夢見ていました。しかし、そんな男から他に付き合っている女性がおり、その女性を生涯の伴侶とすることにしたので別れよう、終わりにしょうと言われてしまいます。絶望し憤った明子は、自殺してこの男に一生消えない傷痕を残してやろうと考え、ある真夜中、投身自殺に手頃なビルを探して回ります。

 そんなとき、小学校のコンクリート塀の鉄門をよじ登ろうとしている男の子を見つけてしまいました。明子は、その男の子がテストを延期させるために放火でもするのではないかと心配になり、彼に声をかけて二十四時間営業のコンビニエンス・ストアに連れて行っていろいろ話を聞くことになります。

 この男の子は、小学校三年生で、年齢よりかなり小柄で、度の強いめがねを掛けており、明子から真夜中に小学校に入ろうとした理由を聞かれてしくしく泣き出してしまいます。自殺をするつもりで真夜中の街に出てきた明子でしたが、こんな男の子の様子を見て、「なんでこんな児童相談所みたいなことやってるのかしら」と心の中で思いながらも、ついつい男の子の事情を聞く側に立ってしまうことになります。

 男の子は学校でいじめにの対象とされ、明日までにしなければならない宿題をいじめっ子に取り上げられ、真夜中の学校から取ってくるように命じられていたのでした。先生に直訴しても事態は悪化するばかりだし、親には心配を掛けたくない、そしていじめっ子が恐ろしい、そんな切羽詰まった状況のなかで男の子は真夜中の小学校に忍び込もうとしたのです。

 いったんは説得して男の子の住む団地まで連れて行った明子でしたが、とぼとぼと自分の家族が住む棟に戻っていく男の子の後ろ姿に「これから首切り役人の手で切り落とされるのを諦めて待っているよう」な雰囲気を感じて、結局、男の子を助けて学校に忍び込むことを決心します。

 なぜなら、彼女にはこの男の子の気持ちが痛いように分かったからです。なぜ痛いように分かるかというと、明子が周囲の友達に死にたい、死んでやるとわめきちらしたとき、みんな「たったひとりの男のために、人生全部を捨ててしまうなんて馬鹿げている。目を覚ませ、もっと前向きに考えろ」と正論を言い、それが全く正しい主張であることを十分に分かりながらも、なおかつ彼女はそのようにはできないからでした。

 彼女はそんな自分の感情を男の子の気持ちと重ね、「どんな筋道正しい言葉も思考も、明子を動かすことはできないのだ。それほどに傷が深いから。ちょうどあの子の恐怖と同じ、理屈を寄せつけない、それは心のクレバスみたいなもの」と思います。理屈を超えた怒りの感情に突き動かされて自殺を考えた明子だからこそ、理屈を超えた恐怖によって真夜中の小学校に忍び込む道を選択した男の子の気持ちが痛いほど分かったのですね。

 そんな彼女は、男の子に「いっしょに行ってあげる。こっそり宿題とってこよう」と協力を申し出てしまいます。こうして二人は学校に引き返し、そのなかに忍び込んで宿題を取りに行くことになります。ところで、男の子の話によると、校舎の二階と三階の間の踊り場の壁の鏡にお化けが出るという噂があるそうです……。

 結局、二人は恐怖体験を乗り越えてなんとか無事に宿題を学校の外に持ち出すことができました。明子は男の子と別れるとき、彼女の電話番号を教えます。それは、男の子が母親にいじめのことを話す勇気が出たときにはその証言をしてやるためであり、またもしそれができなくて、また再びいじめっ子に真夜中の学校に行けと命じられたらときには一緒にいってやるためでした。

 そんな明子が自分の部屋へ帰る途中、「あたし、生きている」という言葉が唐突に彼女自身の口からこぼれ出てきました。そして、「今も生きていて、これからも生きていく――」と自ら心に誓うのでした。なぜなら、「さっき、あの子に約束したじゃないか。あの番号に電話をかけてくれたら、あたしが出る、と。証言してあげる、と。だけど、死んでしまうと、そんなことできない」と思うからです。明子は男の子とのかかわりのなかで生きるための新しいエネルギーを獲得したようです。この物語は、だからつぎのように読者に語りかけているのだと思います。

 所詮一人ぽっちだからこそ、一生に一人でもいい、自分をかけがえの無い存在だと思ってくれる人、自分の存在を心にかけてくれると思える人に巡り合えたとき、生きることのその意味が見い出せるのだ、生きる勇気が湧いてくるのだ。

「我らが隣人の宮部さん」                2000年2月10日

『人質カノン』等についてのコメント


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