私の宮部みゆき論
或る松本清張短編集
 
 2004年11月10日に文春文庫から宮部みゆきが責任編集した『松本清張傑作短篇コレクション』全3巻が出版されました。それで、この宮部みゆきによる清張の短編集の出版を記念いたしまして、「或る松本清張短篇集」と題するページを設けて拙文を載せることにいたしました。またページの冒頭には、ミステリの書評や創作のサイト「ニューダニット館」を運営しておられる薫葉豊輝さんにお願いして寄せていただいた清張作品への論評を転載させてもらいました。それから、読者のコメントのコーナーも設け、さらにた「宮部語録に見る宮部みゆき」のページの拙文「Q5.宮部みゆきのミステリーと松本清張の影響」にもリンクをはりました。

 薫葉豊輝さん「第三の大陸」
    
 やまもも 「或る松本清張短篇集」
 
 
読者のコメント

   by  にこさん、伸さん
、紫微さん

 「宮部みゆきのミステリーと松本清張の影響」 

第三の大陸   04/11/12
  薫葉豊輝さん
    http://kaoruha.hp.infoseek.co.jp/
    「ニューダニット館」 本格推理小説をメインとする創作、書評のサイト。 

 やまももさんからリクエストがあり、「松本清張」を解体せよとのこと。私の独断と偏見をお聞きしたいと言われるので遠慮なく語らせていただきますね。

 まず乱歩の「お化け屋敷」テイスト、幻想性の排除を立脚点に登場した怪人20世紀!高度経済成長を背景に、時代に呼ばれた大作家と認識しております。
 そして、密室よりも拡張(社会)。トリックよりも人間関係の闇へと目を向け(視点を置き)、問題提起を繰り返し、かつ斬新な語り手でもあった清張先生。偉大な先達であり、第一の大陸(本格推理)に対し、第二の大陸(社会派推理)を目指し、発見した大スターであります!
 が、1987年。宮部みゆきさんと共に登場した綾辻さんにより、沈下した第一の大陸はアトランティスの如く再浮上。そして、第一の大陸には「新本格ミステリ」という天守閣がそびえました。その後、メタミステリ等。大陸の埋立地は増え、さらに見えない塔を建築。

 そして今、再び松本清張の時代到来を予感しています。
 というのも、今、もうパズルだけでは読者のニーズに応えられなくなってくるような気がし始めているからです……その要因の一つに社会全体が圧迫される時代に突入したことが挙げられるかもしれません?(読者も幸せや共感、救いを求める)
 90年代はまだ景気がよかったので、娯楽としてパズルは大ヒットしたと私は読んでいるのですが、そう、綾辻行人がその扉を開けて、名探偵コナンがその扉を締めるかもしれないのではないかと?バブルは弾けます。乱歩がお化け屋敷をやりすぎて飽和し、松本清張によって古井戸締め。
 そんな、天岩屋戸が閉められる時は目前かもしれません?(わかりませんが)
 やりすぎに注意と言っても人はなかなかやめられない欲望の僕。その構図を俯瞰すると、気付けるかもしれませんが、市場だけで刊行戦争をしている現状ではなかなか難しいのではないかと……。

 話を少し巻き戻し、そうなると今後は、娯楽重視で小説を読む傾向から、共感を求めて本を読む(買う)時代に突入すると推測しています?その証拠に、詩の朗読会が盛んです。その論理として、読者は皆、作り物の物語よりも、リアルな言葉、生な言葉に共鳴し、自身が発信すること、お互いの認識を共有することに意識が向いている。
 そこで本格ミステリを足がかりに表現を模索する私は途方に暮れそうです。
 そこで今、第三の道を探さねばならないとぼんやりながら考えています!そう、社会派でも新本格でもない第三の大陸を。
 それは海底に眠る大陸なのか、高天原のような(人の目には見えない)透明の(いや天上の?)大陸かはわかりませんが、第三の選択です。

 ちょっと清張論から外れましたが、第三の大陸とは何か?私の意識は今、それで一杯です……いえ、単に歴史は円環し、サイクルを繰り返すだけかもしれませんが。
 しかし、推理小説の歴史を前進する大義という視点に立ってみると、私のようなドンキホーテも必要ではと思うことで、何とか自身の存在意義を模索していますが……。
 とにかく推理界全体の目指す大陸探しのために、サンタ・マリア号に乗船しているところです。何度も沈没しかけながら……。
 いえ、むしろノアの箱舟の設計図を思案しているのかもしれません?


或る松本清張短篇集 
  やまもも  2004/11/21

 宮部みゆきが選んだ26短篇と私のベスト10

 林真理子が「宮部みゆきは松本清張の長女である」と評したそうですが、宮部みゆき作品のファンである私は大喜びしたものです。なぜなら、清張は日本のミステリーにとってとても大きな存在だからです。清張を抜きにしていまの日本におけるミステリーの普及、発展を語ることはできないと思います。

 ところが、『ダ・ヴィンチ』2001年1月号に載った「ダ・ヴィンチ読者が選んだ」という「20世紀代表すると思う作家 BEST20」を目にしてビックリしたことがあります。1位が村上春樹で2位が夏目漱石だったからビックリしたわけではありません。宮部みゆきが12位だったからでもありません。そこに松本清張の名前が全くなかったからです。そのために開いた口が塞がらなくなり、これは整骨院の先生に診てもらいに行かねばならないとちょっと慌てたものです。しかし、今年(2004年)になって清張の「砂の器」や「黒革の手帖」がテレビドラマ化され、若い人にも清張作品への関心がそれなりに高まっているようです。そんななかで、嬉しいことに我らが宮部みゆきが責任編集した『松本清張傑作短篇コレクション』全3巻が文春文庫から出版されました。

  それで『松本清張傑作短篇コレクション』全3巻を早速購入し、宮部みゆきが選んだ26短篇を読み通しました。なお、宮部みゆきは同コレクションの「はじめに」で、清張の短篇としてもらったリストには全部で260篇あったこと、それでその「リストに従い、清張さんのお仕事の流れに沿って、巨匠の出発点からゴール地点まで、その足跡をたどりながら、傑作コレクションの収録作品を決めてゆく」という作業をおこなったことを書いています。それから、「また別の企画で、それだけを集めたコレクションが作れそうでしたので、歴史時代小説と、現代のミステリのなかでも考古学を素材とした作品は除きましたが、あとはまったく自由に選ばせていただきました」とも書いています。それで、宮部みゆきはつぎの26短篇を今回のコレクションに選んでいます。

上巻
「或る『小倉日記』伝」、「恐喝者」、「一年半待て」、「地方紙を買う女」、「理外の理」、「削除の復元」、「捜査圏外の条件」、「真贋の森」、「昭和史発掘――二・二六事件」、「追放とレッドパージ」。
中巻
「遠くからの声」、「巻頭句の女」、「書道教授」、「式場の微笑」、「共犯者」、「カルネアデスの舟板」、「空白の意匠」、「山」。
下巻
「支払いすぎた縁談」、「生けるパスカル」、「骨壷の風景」、「帝銀事件の謎」、「鴉」、「西郷札」、「菊枕」、「火の記憶」。
 
 これらの26短篇から、さらに私なりに特に読み応えのあった作品を同コレクションの掲載順に拾い出し、その作品の発表年を付記して並べたものがつぎの10作品です。

「或る『小倉日記』伝」(1952年発表)、「地方紙を買う女」(1957年発表)、「真贋の森」(1958年発表)、「共犯者」(1956年発表)、「カルネアデスの舟板」(1957年発表)、「空白の意匠」(1959年発表)、「骨壷の風景」(1980年発表)、「西郷札」(1951年発表)、「菊枕」(1953年発表)、「火の記憶」(1963年発表)。

 私の選んだ10作品とその発表年を見ていますと、「骨壷の風景」(1980年)と「火の記憶」(1963年)以外はすべて1950年代発表の短篇ばかりですね。それで、今度は 『松本清張傑作短篇コレクション』全3巻の26短篇をその発表年順に並べ替えてみますと、つぎのようになりました。

「西郷札」(1951年)、「或る『小倉日記』伝」(1952年)、「菊枕」(1953年)、「恐喝者」(1954年)、「共犯者」(1956年)、「カルネアデスの舟板」(1957年)、「一年半待て」(1957年)、「捜査圏外の条件」(1957年)、「遠くからの声」(1957年)、「地方紙を買う女」(1957年)、「支払いすぎた縁談」(1957年)、「巻頭句の女」(1958年)、「真贋の森」(1958年)、「空白の意匠」(1959年)、「帝銀事件の謎」(1960年)、「鴉」(1962年)、「火の記憶」(1963年)、「昭和史発掘――二・二六事件」(1967年〜1971年)、「山」(1968年)、「書道教授」(1969年〜1970年)、「追放とレッドパージ」(1970年)、「生けるパスカル」(1971年)、「理外の理」(1972年)、「式場の微笑」(1975年)、「骨壷の風景」(1980年)、「削除の復元」(1990年)。

 こうして時代順に並べ替えてみますと、あらためて責任編集者としての宮部みゆきの苦心の跡をうかがうことができます。50年代14作品、60年代〜70年代10作品、80年代〜90年代2作品となっており、一応全ての年代の作品が採録されているんですね。しかし、やはり50年代が半数以上ですし、この年代に書かれた作品に優れたものが多いことがわかります。他方、「帝銀事件の謎」(1960年)、「昭和史発掘――二・二六事件」(1967年〜1971年)、「追放とレッドパージ」(1970年)、はノンフィクションですし、「書道教授」(1969年〜1970年)や「生けるパスカル」(1971年)は各年代の作品を入れるために宮部みゆきが無理をして採録したのではないかと勘ぐりたくなるほどあまり精彩がありません。「生けるパスカル」なんか、妻の激しい嫉妬と異常な行動にも懲りずに浮気を続ける主人公の画家こそ心理分析の興味深い対象のような気がしますし、そんな画家の言動をユーモラスに描いたら清張には珍しい喜劇作品が出来たかもしれません。しかし、それを清張作品に求めるのは、林家三平師匠に「源氏物語」をシリアスに語ってもらうより難しいことかもしれませんね。おっと、それはともかく、やはりデビュー作「西郷札」(1951年)や出世作となった芥川賞受賞の「或る『小倉日記』伝」(1952年)から「空白の意匠」(1959年)を発表していた頃に清張は最も短篇小説の冴えを発揮していたようですね。

 清張が「骨壷の風景」に描いた祖母の姿

 語り手の「私」(清張)が祖母の骨壷を探して小倉を訪ねる「骨壷の風景」は、1980年に発表された作品ですが、私の心をとても強く打ちました。なお、この作品はこれまでは文藝春秋から出された『松本清張作品全集』第66巻でしか読むことができなかったようです。

 「私」(清張)の父の峯太郎は、幼いときに松本カネ夫婦に引き取られた貰い子でした。ですから祖母のカネと「私」との間には血のつながりはありません。しかし、二人の心は深くつながっていたようです。カネの遺骨は「私」の両親の墓には入っていませんでしたが、その面影は「私」の心にしっかりと刻まれていたようです。カネは、「私」の両親が激しい喧嘩をしても仲裁に入らず、伯耆弁で「峯さんもおタカさんも仲ようしんさいや、夫婦喧嘩をすると家(え)のうちが繁盛せんけにのう」と呟くだけでした。「私」には、いつも「清(きよ)さん、わしが死んだらのう、おまえをまぶってやるけんのう」と言っていました。「まぶってやる」とは「守ってやる」という意味だそうです。そんな祖母が二月に小倉で死んだとき、「金のない父は葬式もろくに出せず、その遺骸を山の麓にある火葬場に運ぶのも、よそから大八車を借りてきて棺桶を乗せ、臨終まで使った蒲団一枚をかけ、父が自分で挽いて行った」のです。そのとき「私」は、膝の下まで深く積もった雪のなか、車輪が雪にはまってなかなか動かない大八車のあと押しをして山の麓の火葬場へ行きました。火葬場では、棺が入れられた竈に松葉の小枝を投げ込んだとき、「嗚咽(おえつ)がこみ上げて、大声で泣いた」そうです。半世紀も後、「私」は貧窮の中に死んだそんな祖母の「遺骨を小倉から引き取り、両親の墓へいっしょにしてやりたくなった」ので、小倉を訪れることになります。骨壷の風景」には、祖母や両親と暮らした頃の下関の旧壇ノ浦や小倉の貧しい生活が描かれています。

 なお、清張には自叙伝『半生の記』があり、そこに自ら「濁った暗い半生であった」と書いているのですが、藤井康栄は『松本清張の残像』(文春新書、2002年12月)で『半生の記』の内容を検討し、「作家が彫琢して創り上げた〈作品〉であることは間違いない。いくらかの固有名詞も変えてあるようだし、完全な自叙伝とも思っていない。ただ作家の主軸となる体験を踏まえた『自叙伝めいた』重要な作品と位置づけるのが妥当だと思う」と述べています。これは「骨壷の風景」にもおそらくあてはまるのではないでしょうか。「骨壷の風景」に祖母と暮らした頃の極貧の生活が描かれていますが、それは清張の心の中で創り上げられていったもので、当時の彼の家族の実態をそのままリアルに反映したものと見なすのは危険かもしれませんね。

 藤井康栄はまた『松本清張の残像』で、清張の尋常高等小学校卒の学歴に触れ、「憧れの名門小倉中学へ進学することは出来なかったけれど、全国で六割に近い男の子が尋常高等小学校へ行く時代だったのであり、松本清張もその一人だった。北九州は農村部と違って先進地域であったし、優秀な自意識の強い少年の心のうちは充分察することは出来るれけども、まだ決して豊かとはいえない日本社会の平均的存在だったことがわかるのである」と指摘しています。

 清張の出世作「或る『小倉日記』伝」

  宮部みゆきは、「或る『小倉日記』伝」と「恐喝者」をこの短篇コレクションの第一章に入れ、その章題を「巨匠の出発点」としています。しかし、「巨匠の出発点」ならば、清張のデビュー作は「西郷札」ですね。同短篇は、1950年に『週刊朝日』が募集した「百万人の小説」に三等入選し、翌年1951年の『週刊朝日別冊 春季増刊号』に掲載されています。この「西郷札」は、史実を巧みに物語の中に取り入れており、歴史時代小説にも優れた技量を発揮した清張の作家としての特質がよく表われている作品だと思います。なお、松本清張『実感的人生論』(中公文庫、2004年11月)には、「西郷札」が入選したときに朝日の地方版に載ったつぎのような珍しい記事が紹介されています。

 「百万人の小説として募集中の『朝日文芸』に小倉市黒原営団松本清張氏(四〇)の時代小説『西郷札』が入選と決定した。松本氏は朝日新聞西部本社広告部員。『小説はよく読みますがこんどの作品はいわば私の処女作。西南の役の西郷軍の発行した軍票をめぐる欲にからまれた人間の醜悪を衝こうと思っていたが出来たものは舌足らずの感だ。ある本と明治初期の古新聞からこの素材を得たもので入選には自信はなかったがテーマはきっといけると思っていた。とにかくうれしい。今後大いに書くつもりだ』
 とうれしそうな松本氏。両親、妻子八人暮しで、あふれるような情熱の持主。」

 「西郷札」はまさに清張のデビュー作ですね。しかし、宮部みゆきはあえて「西郷札」を下巻の第九章に持ってきています。そして、第28回芥川賞(1952年下期)受賞作品である「或る『小倉日記』伝」を今回の短篇コレクションの上巻第一章の最初に入れています。

 清張が43歳のときに発表し、芥川賞を受賞した「或る『小倉日記』伝」は彼の出世作といえるでしょう。なお、宮部みゆきはこの作品の解説文で、「そう! 松本清張は芥川賞作家なんですよ。直木賞じゃないんですよ。社会派推理作家という看板があまりに大きいので、つい忘れがちになるところですが」と念を押していますよ。

 この「或る『小倉日記』伝」の主人公の田上耕作は、身体的なハンディを負って生まれてきました。彼は「四つになっても、何故か、舌が廻らなかった。五つになっても、六つになっても、言葉がはっきりしなかった。口をだらりと開けたまま涎(よだれ)をたらした。その上、片足の自由がきかず、引きずっていた」そうです。しかし、彼は人並み以上の頭脳を有した人物でした。彼はたびたび自分の身体的ハンディに煩悶しました。しかし、作者はそんな田上耕作が「ただ煩悶して崩れなかったのは、多少とも頭脳への自負からであった。いってみればそれが羽根のように頼りない支えであったが、唯一の希望でなことはなかった。どのように自分が見られようとも、今にみろ、という気持もそこから出た。それが、たった一つの救いであった」と書いています。

 田上耕作は、森鴎外の小倉時代の日記が散逸していることを知り、小倉在住時代の鴎外のことを知っている関係者たちを捜して廻り、「小倉日記」の空白を埋める資料を採集する作業を開始します。耕作は、そのような調査に没頭することにより、自らの生きる精神的よすがにしょうとしたのです。しかし、「そんなことを調べて何になります?」との他人の言葉に、「実際、こんなことに意義があるのだろうか、空しいことに自分だけが気負い立っているのではないか」との疑念が生じ、絶望感を覚えることもありました。鴎外の小倉時代の関係者を探して歩く調査に行き詰まったとき、「空疎な、他愛もないことを自分だけが物々しく考えて、愚劣な努力を繰り返しているのではないか」と非常に耐え難い空虚感に襲われたこともありました。結局、彼は研究成果を発表することもなく病死してしまいます。しかし、調査の成果を公表できなかったことよりも、自分が生きる証を求めるようなその調査そのものに対して常に襲ってくる絶望感や空虚感がなんとも怖い作品です。この作品には、執筆当時の清張の心情が色濃く投影されているような気がいたします。

 なお、散逸したと思われた鴎外の小倉時代の日記は後に発見されるのですが、その鴎外の「小倉日記」を題材にして清張は1990年に「削除の復元」という短篇を発表しており、今回の清張コレクションの上巻に採録されています。清張は1992年に死去していますから、清張の最晩年の作品ですね。この作品では、小説家の畑中利男と若手研究者の白根謙吉が鴎外の「小倉日記」の記述に隠された真実を追求していくのですが、最後には両者の見解が分かれ、白熱の討論を闘わせることになります。資料や証言から真実を明らかにすることは大変難しいことなんですね。この「削除の復元」も調べることの「難しさ」や「危うさ」という点で「或る『小倉日記』伝」と共通しているのですが、調べる主体の人間的な「危うさ」という点では、「或る『小倉日記』伝」の方が遥かに優れた作品のように思いました。

 ルサンチマンに心を歪ませる人物たち

 宮部みゆきは、『オール讀物』2004年11月号の奥泉光との対談で、松本清張の作品について語り合っているのですが、そこでつぎのようなことを述べています。

 「清張さんご自身、相当下積みというか、いろんな商売で苦労されているので、すごくルサンチマンをお持ちだったと思うんですね。それを登場人物に仮託している。
 ただ、私が素晴らしいなあと思うのは、普通そういうルサンチマンがあると、それを作品の中で暴走させて、自分を仮託した登場人物が勝つ小説ばかりを書いちゃうと思うんです。でも清張さんは、歪んでしまえば敗れるんだよ、だめなんだよときちっと断罪しますよね。たとえどんなに切実な動機があっても、犯罪は人生を腐食するものであり、社会の中では許されないことなんだということが、最後にぴしっと線引きされる。そこが清張さんの知識人としての強靭な倫理観だったんじゃないかと思いました。」

 宮部みゆきがここでいう「ルサンチマン」とは、岩波の『広辞苑』がその言葉を解説して、「一般に、怨恨・憎悪・嫉妬などの感情が反復され内攻して心に積っている状態」としている、そのような心の状態を指しているのでしょう。そして、宮部みゆきの短篇コレクションの下巻に載せられている「菊枕 ぬい女略歴」に出てくる三岡ぬいという女性は、まさにルサンチマンに心を歪ませて敗れていった人物だと思います。なお、 「或る『小倉日記』伝」の主人公・田上耕作は実在の郷土史家をモデルにしたそうですが、「菊枕 ぬい女略歴」の女主人公・三岡ぬいも小倉在住の女流俳人の杉田久女をモデルにしているそうです。

 「菊枕」の女主人公のぬいは、熊本で生まれ、東京お茶の水高等女学校を卒業後に福岡の中学校で絵画を教える三岡圭助と結婚します。結婚後、ぬいと圭助の間には小さないさかいがよく起こりました。圭助は、自分の甲斐性のないことが彼女の忿懣を鬱積させてヒステリーを引き起こしていると思い、彼女を哀れに思って自分の感情を抑制するようになります。

 ぬいは、趣味で始めた俳句で優れた才能を発揮するようになり、句を投じていた地元の俳誌『筑紫野』の主宰者から「九州女流三傑の一人」と評されます。さらに、当代随一の俳匠が主宰する中央の俳誌『コスモス』にも投句し始め、同誌にも常に載せられるようになります。こんなぬいは、俳句の世界で「奔放な詩魂、縦横なる詩才を駆って光焔を放った」のですが、勝気な性格の彼女は当代の女流をみんな「自分より地位の高いもの、才藻の豊かなもの、権勢のあるもの、学歴のあるもの」として仇敵視しました。そんな「彼女の心の底には絶えず、無気力な貧乏教師の妻というひけ目が、のた打っていた」のです。ですから、「お宅のご主人は」と訊かれたときには、いつも「はあ、何をしておりますやら」といって、さりげなく話題をかわしたそうです。ウウッ、旦那の圭助さん、かわいそう。

 その後、俳誌『コスモス』に投稿しても載らなくなり、焦燥感を募らせるようになった彼女は次第に精神に変調を来たすようになり、57歳のとき、幻聴に「独言独笑」しながら病院内で死んだそうです。この物語の読者は、それなりの才能がありながらも心にコンプレックスを常に抱き、他の女流俳人をことごとく嫌悪し、妬み、猜疑の心を抱くぬいの姿に醜さと哀れさを同時に感じることでしょうね。

 ぬいはルサンチマンを心にのた打たせていましたが、上巻に載せられている「真贋の森」の主人公の「俺」(宅田伊作)もルサンチマンで心を歪ませた人物です。「俺」は、日本美術史学の権威に疎まれ、まともな職に就けずにその人生を狂わせられていたのです。そんな「俺」が贋作に優れた腕を発揮する画家を見い出し、彼に浦上玉堂の贋作を描かせることにします。美術に関する「俺」の知識と才能を贋作作りに悪用し、自分を排除した美術界の権威者たちのその権威を失墜させることを企てたのです。「俺」は、日本美術品の盲点を知り抜いていました。すなわち、「美術品が投機の対象になっているので、戦後の変動期に旧華族や旧財閥から流れた物でも、新興財閥の間を常に泳いでいるから、たとえ文部省あたりが古美術品の目録(リスト)を作成しようと企てて困難であろう。その上、誰も知らない処に、誰も知らない品が、現存の三分の二くらいは死蔵されて眠っていると推定される」のであり、所蔵者はそれらを公開することを好まないため、それらを観られるのは一部の偉いアカデミー学者だけという、そんな前近代的な学問世界の盲点を衝こうとしたのです。さて、この贋作作りの企て、見事に成功するのでしょうか、それは読んでのお楽しみです。

 築き上げた地位が崩れる恐怖

 今年(2004年)10月に最大震度7の新潟中越地震が起こり、大きな地割れ、地滑り、山崩れ等によって多数の家屋が倒壊し、たくさんの人々に大変な被害をもたらしました。このような地震による大地の崩壊は本当に恐ろしいことですが、人為的な事故や事件、スキャンダル等によって社会的基盤が崩壊する危機もまた非常に怖いことですね。清張短篇コレクションの中巻の第6章に載っている「共犯者」、「カルネアデスの舟板」、「空白の意匠」には、築き上げた地位が脆くも崩れ去ろうとする危機に恐れおののく男たちの姿が描き出されています。

 「共犯者」の主人公は、銀行強盗で得た金を資本にして商売に成功した内堀彦介という人物です。富と信用と地位を得た彼は、銀行強盗をしたときの共犯者である町田がもし自分を恐喝してきたら、これまでに得た金と信用と地位は一挙に崩れ去ってしまうと考え、人を雇って町田の消息を調べさせ、さらにその動向を追跡させます。忍び寄る共犯者の影に怯える主人公の心理が読者の心にもにもじわじわと伝わり広がっていきます。ところで、宮部みゆきがこの作品の解説で、「これってホラーだと思いました。宇都宮→千葉→大阪→神戸→岡山、そしてついには九州へと上陸する『共犯者』の動き。そこから目を離すことができず、逃げることもできず、来る、来る、来るぞ、とうとう俺のもとに "破滅" がやってくる――と、身を固くして待ち受ける主人公の内堀彦介」と書いていますが、読者の心を見事にキャッチする上手い文章ですね。もう、あなたはきっと読まずにはおられないでしょう。

 それでは、宮部みゆきの巧みな解説に大いに刺激を受けましたので、下巻に載っている「生けるパスカル」を宮部みゆき流に紹介してみたいと思います。「これってホラーだと思いました。画家が浮気をする→妻の異常な嫉妬と行動→画家が心理分析をする→画家が浮気をする→妻の異常な嫉妬と行動→画家が心理分析する→画家が浮気をする→妻の異常な嫉妬と行動……。とうとう耐え切れなくなった画家に "破滅" がやってくる」。うーん、こんな紹介じゃ誰も読みたいと思わないでしょうね。路線をまた元に戻したいと思います。

 「カルネアデスの舟板」に登場する歴史研究者の玖村武ニ、大鶴恵之輔は、歴史学を自分たちの地位、名声、金、女への欲望を実現するための手段としか考えない俗物たちです。進歩的歴史学者として評価されていた玖村武ニは、これまで教科書や参考書の執筆で多額の収入を得ていました。ところが、文部省が教科書検定を強化して進歩的学者の教科書執筆を排除する動きが出てくると、進歩的学者の名前を返上して文部省寄りに身を移し、保身を図ろうと考えます。そんな彼にとって、恩師の大鶴恵之輔の存在は大変な障害物となることが予測されました。それで、彼は卑劣な手段で大鶴恵之輔を陥れれます。しかし、自分では予想していなかった「感情の突風」に襲われて墓穴を掘ってしまいます。

 「空白の意匠」の主人公は、発行部数10万に足らぬ地方小新聞の広告部長の植木欣作ですが、広告代理店にひたすら頭を下げて広告料の減収を食い止めようとする姿にはなんとも身につまされるものがありました。「ランキロン」という強壮剤の宣伝を社会面の広告欄に載せていたのですが、その社会面に新薬「ランキロン」の注射で急死したという記事が出されます。結局、死亡は「ランキロン」が原因でないことが判明するのですが、編集部の局長をしている森野義三は、抗議する植木欣作に「新聞の誤報じゃない。警察が間違っていたのだ」と言い放ちます。しかし、「ランキロン」の実名入りでの誤報は、広告主の和同製薬と弘進社という広告代理店扱を怒らせ、新聞社の広告料が大減収となることは必至です。そのような危機を回避するために植木欣作は懸命に奔走するのですが、彼に待っていた運命は……。植木欣作の哀しい姿に大いに感情移入し同情させられました。清張は苦労人ですから、辛い生活にじっと耐え忍びながら、一生懸命にいまのそれなりに安定した地位や環境を守ろうとする人物たちを描かせると実に上手いですね。

 清張の幼き日の思い出がモチーフとなった「火の記憶」

 宮部みゆきは、清張コレクションの上巻の「第一章 巨匠の出発点」に、1954年に発表された「恐喝者」を清張の「ミステリ作家としての出発点と言える短篇作品」として載せています。ここで宮部みゆきのいう「ミステリ」とは、犯罪を扱ったスリラー、サスペンス、怪奇、幻想等のジャンルを含む広義のミステリ作品のことのようです。しかし、論理的に推理して謎を解明していく作品としては、下巻の「第九章 松本清張賞作家にききました」で岩井三四ニが選んだ「火の記憶」(1953年)がとても素晴らしい推理短篇だと思いました。

 なお、この「火の記憶」という作品は、清張が幼い頃に見た大師堂や赤いガラス玉の記憶から生まれた作品のようです。清張は、彼の自叙伝『半生の記』(新潮文庫、1980年)で、幼かった頃に眼を患って失明寸前になり、母親が専ら弘法大師に頼って、幼い彼をあるお堂につれ込んだことや、そのときの「線香の匂いと、蝋燭の灯とが記憶に鮮やかだった」ことを語るとともに、同じ頃の記憶として、職人が赤いガラス球を吹いていた風景のこともつぎのように書いています。

 「父には女が出来ていて、始終、そこに通っていた。それは遊郭の女だったらしく、母は私を背負って遊郭を尋ね歩いた。町の中にガラスの工場があり、職人が長い鉄棒の先にほおずきのような赤いガラス玉を吹いていた風景は忘れられない。」

 短篇「火の記憶」は、幼い子どもの記憶に残された赤いガラスと大師堂の風景が重要な意味を持つ作品です。高山泰雄の父親は、4歳の時に失踪して行方不明になったそうですが、泰雄にはそんな父親についての記憶がほとんどなく、印象も残っていなければ、写真すら見たことがありません。そして、父親が家の中に一緒にいたという気がどうしてもしないのです。泰雄は、「父は自分の家に居ず、どこか別の家にいたのではないか」と思うのでした。そう考える理由は、つぎのような幼い頃の記憶と絡んでいました。

 「――僕は母の手にひかれて暗い道を行っていた。その時、僕がすぐくたびれたので、母は道の途中でよく休んだ。
 その時分の僕の思い出には、ガラス瓶を製造している家の光景と、あかるく提灯の灯を道路までこぼした大師堂とがある。ガラス瓶づくりの職人は、火の前に立ちはだかって口に長い棒を当て、棒の先の真赤なホオズキのようなガラスを吹いていた。大師堂からは哀切な御詠歌の声が遠ざかってゆく僕の耳にいつまでも尾を引いた。――これは今でもなつかしい遠い幼い日の思い出である。」

 その「遠い幼い日の思い出」には、母とならんで歩く男の背中や、「今夜のことは人に云うんじゃないよ」という母親の言葉も一緒に記憶されていました。また同じ頃に、真っ黒い闇の空に山の稜線のような形を這って燃える火を母親と一緒に見た記憶もありました。そのとき、母とならんで歩く後姿を見た「あの男」も横に立っていました。「父は家に居ない、母はどこかにいる父に会いに行く、その母には別の男がついている――、そういう淡い記憶」が泰雄の心を苦しめ続けることになります。

 そんな幼い日の記憶の謎を解明できるかもしれない手がかりを泰雄は20数年後に得ることになります。母の17回忌の法事の日に、泰雄は母が手函にしていた石鹸箱から恵良寅雄という人物から寄せられた「河田忠一儀永々療養中の処、薬石功無く――」という決まり文句の死亡通知を見つけたのです。差出人の恵良寅雄も死亡者の河田忠一も、泰雄はどちらの人物のことも知りませんでしたが、「死んだ本人の名と、通知を出してくれた人間の姓が違い、近親者でもなさそうな」ことに疑問を持った泰雄は、まずこの古ハガキの差出人の住所に問い合わせの手紙を出したのでした……。

 この「火の記憶」は、泰雄の「遠い幼い日の思い出」としての赤い火の記憶が読者の心にまず強い印象を残しますが、さらにその赤い火にまつわる謎の解明過程が読者の心を大いに引きつけます。

  それから、上巻に載せられている「地方紙を買う女」(1957年)も私の好きな推理短篇です。杉本隆治は、「甲信新聞」という地方紙に「野盗伝奇」という連載小説を書いていたのですが、潮田芳子という東京在住の「読者」から新聞社に寄せられた手紙がとても気になり出します。彼女は杉本の連載小説を「面白そうですから、読んでみたいと思います」と購読を開始したのですが、1ヶ月後には「小説がつまらなくなりました」と書いて購読をストップしてしまいます。杉本は、連載小説が自分でもますます面白いものになってきたと自信を持っていましたから、それだけに彼女の「つまらなくなりました」との反応にどうしても納得いきません。不審に思った杉本は、もしかしたら「実際は何かほかのことを見たかったのではなかろうか。そして、それが見つかったから、あとの新聞を読む必要が無くなったのではなかろうか」と推測し、記事のなかに手掛かりを調べ始め、その結果……。

 宮部みゆきはこの清張の短篇の題名をもじって「地方紙に書く女」というエッセーを『IN★POCKET』2001年9月号に書いています。彼女は、1994年4月から1995年4月の1年間にわたって『天狗風』を「秋田魁新聞」ほか15紙に連載小説として書き、そのために連載中は毎日いつも「秋田魁新聞」が彼女のところに届けられていたそうです。ですから、同じく地方紙に連載小説を書いていた杉本が読者の評価に過敏に反応するその気持ちがよく分かったでしょうね。そういえば、阿刀田高『松本清張あらかると』(中央公論社、1997年11月)に、阿刀田高と対談したときの宮部みゆきの「地方紙を買う女」についての発言が紹介されているのですが、そこで彼女は、「初めて読んだときは、そこにでてくる作家の気持ちがよくわからなかった」けれど、「同じ立場になってみたらよくわかりました(笑)」と言っていますよ。

 宮部みゆきと清張コレクション

 宮部みゆきは、この清張コレクションの上巻の「はじめに」において、昨年(1903年)秋に文春文庫の編集部から清張短篇コレクション作りの依頼を受け、もともと松本清張の短篇が好きで、かなりの数を読んでいると自負していたことから、ふたつ返事でその仕事を引き受けることになった経緯を書いています。しかし、編集部から清張の短篇260篇の全リストをもらって、「タイトルと内容を重ね合わせて数え上げることができたのは、百三篇に過ぎませんでした」とのことです。しかし彼女は、「でも、むしろそれが幸いしました。リストに従い、清張さんのお仕事の流れに沿って巨匠の出発点からゴール地点まで、その足跡をたどりながら、心躍る作業ができたからです」と回想しています。

 また、『オール讀物』2004年11月号に載った「松本清張の原風景」と題する奥泉光との対談でも、清張コレクションの責任編集に携わったことについて、彼女はつぎのように語っています。

 「清張さんの作品を編年体で読ませていただいて、初めて私が書く作品のふるさとはこっちだったということに気づいたんですね。(略)三、四カ月の間、毎日清張さんを読んでいると、夜中に訳もなくウルウルしちゃったりしたんですよ。『小説を描き続けるっていうのはこういうことなんだよ。道は長いが、頑張りなさいよ』って言われているような気がして……。全然意識していなかったにもかかわらず、こんなにもたくさんのものをもらっていたんだなあって、なんだか、ふるさとに帰って心が安らいでいくような気がしたんです。」

 昔の諺に「温故知新」(ふるきをたずねて新しきを知る) という言葉がありますね。『広辞苑』には、「昔の物事を研究し吟味して、そこから新しい知識や見解を得ること」とあります。しかし、高校の漢文のテストにこの言葉が出されたとき、私は「ふるきをあたためてあたらしきをしる」と書き下し、さらにその言葉の解釈として、「何度も繰り返し復習し、新しい知識をしっかりと身につける」といった意味のことを書きました。そのために見事に×点をもらったものですが、×点など星の数ほどもらっているにもかかわらず、なぜかこのときの×点をいまも鮮明に憶えています。今回、清張コレクションの編集に関する宮部みゆきの発言を読んでいて、そんな苦い記憶のある「温故知新」という言葉がふと思い出されました。宮部みゆきは、清張という巨星が遺した260篇もの作品を温(たず)ねることにより、ふるさとに帰ったようなやすらぎを覚えるとともに、そこから大きな励ましを得たようですが、またそれらの作品からたくさんのことを新たに学び取っているに違いありません。そんな宮部みゆきの今後の新たな飛躍を大いに期待したいと思います。

読者のコメント

にこさんのコメント   2004/12/12
  http://www001.upp.so-net.ne.jp/niko/index2.html
 「本の数珠つなぎ」 本と映画のHPで宮部みゆきのコーナーもあります

 私の母は松本清張の大ファンで、そのおかげで私もTVドラマになったものはほとんど全部見てるはずです。『松本清張傑作短篇コレクション』上巻の「一年半待て」や「地方紙を買う女」だけでなく、中巻、下巻に載っている作品の中にもドラマで見た短篇がたくさんありました。しかし、小学生の頃は全然意味が分からなくておもしろくなく、他の番組が見たかったものです。

 「或る『小倉日記』伝」の主人公の耕作は、言葉がうまく話せず、左足は麻痺していてうまく歩けませんが、学校の勉強は優秀でした。森鴎外が小倉に住んでいた時の日記が散逸していることを知り、関係者を取材して「小倉日記」を作ろうと考えます。

 なかなか人に認められなくても黙々と調査を続ける耕作。こんなこと調べて何の意味があるかを考えると絶望する耕作。そんな息子を支える美しい母ふじや友人の江南、白川たち。耕作が山道を二里も歩いて未亡人の玉水アキを訪ねる場面や、てる子に縁談を断られる場面ではやり切れない気持ちになりました。

 私は、「或る『小倉日記』伝」を読み始めてすぐに宮部さんの短篇「だるま猫」(『幻色江戸ごよみ』所収)や長編『龍は眠る』を思い浮かべました。「だるま猫」の文次は火消しになりたかったけれど、臆病で火が怖かった。文次も居場所を求め続けていたのです。『龍は眠る』に出てくる超能力者の慎司と直也。超能力者も生きていくのは大変。慎司は何とかその超能力を世の中に役立てたかったのです。

 また、『恐喝者』、『地方紙を買う女』、『理外の理』には追いつめられた人間たちの心理がよく描かれていると思いました。『恐喝者』の多恵子は、洪水の時に一緒だった凌太のことを夫に知られたくなかった。『理外の理』の須貝幻堂は、雑誌の方針が変ったおかげで自分の原稿が載らなくなってしまい、生活に困っていた。そして、何度もドラマになっている『地方紙を買う女』。ヒロインの潮田芳子が杉本に送った遺書を読むと、窮地に追い込まれた彼女がかわいそうになり、罪を犯してしまうのも無理はないと同情してしまいました。そんな潮田芳子の姿が『火車』の新城喬子と重なりました。

 やっぱり、宮部さんは松本清張の長女でした。


伸さんのコメント  2004/12/25
  http://dewanokuni.hp.infoseek.co.jp/
 「読書の部屋・出羽の国から」  随想録、読書録、見聞録などから構成されたサイト

 作家・宮部みゆきさん責任編集で「松本清張傑作短編コレクション3巻が出版され、清張の短編26編を選び解説や案内をつけている。

 その短編26編の中で特に印象に残るのは「或る『小倉日記』伝」(芥川賞受賞作品)「西郷札」、「菊枕」などである。「菊枕」は女流俳人杉田久女がモデル。清張自身「この天才的俳人は小倉中学の教師の妻であった。彼女は虚子やその巨大なグループに接してから、ひどく劣等感をもち、その性格の強さは虚子を偶像化し、その周辺にむかって限りない敵意を燃やした」とあるように、小説でうだつのあがらない中学教師三岡圭介の妻ぬいとして登場し、その強烈な個性ゆえ自滅してしまう様子が描かれている。この小説は久女の遺族から事実と違うと名誉毀損で訴えられ作品である。

 この小説の特に心に残るのは、圭介が精神を病んだぬいを見舞いに行った最後の場面である。『「あなたに菊枕を作っておきました」といって布の嚢をさし出した。時は夏だから圭介が内部(なか)をのぞくと朝顔の花が凋んでいっぱい入っていた。看護婦がぬいにせがまれて摘んできたのである。圭介は泪が出た。狂って初めて自分の胸にかえったのかと思った』

 宮部さんは「清張さんは人間の善意というものをいっぱいお書きになっているんだと思いました。・・・市井の人たちの価値観や常識的な倫理観が私たちをなごませてくれる。作品の中心じゃないけれど、その周囲に、随分と善意が描かれている」と、この短編集を編集をしての感想を述べているが、初期の作品「菊枕」もモデルの事実誤認があったとしても、また清張が「怨念」を抱いた人物を描いたとしてもその背後に善意のあたたかさを感じるのである。


紫微さんのコメント 2005/09/18
 「紫微の乱読部屋」
  http://blog.goo.ne.jp/purple-s

 以前、ビートたけし主演で「張込み」を2時間ドラマで見ました。ストーリーはあまり憶えてないけど(笑)、それなりに面白かったと記憶してます。少し前には、中居正広主演の連ドラ「砂の器」を見てましたし。原作ドラマはよく見てるんですよね。もしかしたら「点と線」とか見てるかも。でも、実は未読だったのです(まあ、こういう作家って実は多いんですけど^^;)。いきなり長編に手を出すよりは、やっぱり短編で様子を見たいと思い、しかも今回は“宮部みゆき責任編集”。彼女が推す作品なら、読んでも間違いないだろうと思って、ようやく、ホントようやく手に取りました。

 松本清張は「或る「小倉日記」伝」で第28回芥川賞を受賞してるんですね。ミステリーだと、どうしても直木賞を想像しますが。上巻はこの「或る「小倉日記」伝」から始まります。それぞれ、カテゴリーごとに宮部が選別(というか選抜)。この3冊で、さまざまな松本清張が読めます。うーん、お得。

 読み始めて最初に思ったのは、どういうところが“社会派”なのか、ということ。一般的に清張は社会派の代名詞のようにいわれてますが、社会派ミステリーというのは、清張のどういうところを指していうのか、それが知りたかった。まあ、それを知るには、代表作(長編)を読むのが早いんでしょうけどね(笑)。ただ、語り口が硬い。淡々としている。それが新聞記事を読んでいるような気になりまして、もしかしたらそういう、語り口も含めて社会派なのかな、とか。

 いちばん心に残ったのは、中巻の「空白の意匠」。身につまされます(笑)。鳥肌立ちます。新聞社の広告部に実際にいた、ということだから、余計にリアルに感じられるのかも。でも、これもそうですが、宮部も書いてますけどね、“淡々としたラスト”が清張の特徴でしょうね。バッサリ斬って余韻を残す方法もあるでしょうし、逆に、最後まで淡々と語り続けることで心に残ることもありますしね。最後の1行でゾっとする、という作品は結構あります。

 ミステリーはないと思われるのですが「真贋の森」は好きです。最後に主人公がどうにもしない、というところがまたいい。淡々としてるんですよ、これも。淡々としているから、なお怖いというのが、「書道教授」。“便乗”して犯罪を犯すのですが、それが思いもしないところから、ひとつずつ綻びていくのを、見ているしかない、という。それを、抑揚をつけずに描いているところがスゴイ。淡々としているというと、面白みとは無縁な感じがするんですが、それが返って面白かったというのが「支払い過ぎた縁談」。…どれもミステリーではない気がしますが(笑)。

 のめり込んで読んだ作品、どうしても入り込めず読み飛ばした作品、いろいろありましたが、でも、なんとなく“清張さんってこんな人”というのが少しだけでも分かった気がします。しかも、宮部みゆきというフィルターを通すことで、より身近に感じられるのも事実。さらに、というか当然、宮部は、清張初心者になるであろう若者から、何作も読んでいるコアなファンまで全部を視野に入れてみんなが楽しめるように編集してるんですね。私なんて、きっと宮部じゃなかったら読まなかっただろうし(笑)。そういった意味で、とても門戸の広い短編集だと思います。

inserted by FC2 system