宮部みゆき名句ドラマ     

 宮部みゆき作品は名句名言の宝庫ですね。大いに共感させられた言葉、寸鉄人を刺すような鋭い警句、思わず膝を打つような評言、またとても気が利いたレトリカルな表現などが彼女の著作のいたるところに存在しています。
 それらの名句名言をこのコーナーで紹介していきたいと思っています。宮部みゆき作品のファンのみな様にもそのような心に残る名句名言が数多くおありだと思いますので、メールか掲示板にコメントを添えて紹介していただけたら幸いです。
   
目次

やまももの宮部みゆき名句ドラマ
「歌わなくても、鳩笛草は、地味だけどきれいな花ですよね」
「今カラデモ遅クナイカラ、原隊ニ帰レ」
「恵むことと助けることは違う」
「ごく当たり前の常識と感性と、守るべき仕事や家庭を持っている、大勢の善良な生活者たち」
「円卓の騎士」と「メリーさんの羊」
二十歳の女の子が演じる芝居
「若さが第一の能力で、それを失ったら脱落していくしかない」
「たぶん、彼女、自分に負けてる仲間を探してたんだと思うな」
無邪気な幻想を憎悪する心情
「希望は強いものであり、また残酷なものでもある
「地下街の雨、か」
「主役は夜で、真っ暗なのが本当で、……」
「コンビニとはそういう場所ではないのだ」 
「人殺しを続け、他人の生殺与奪を握ることを覚えてしまうと、……」
「先生も親も『努力しなさい、努力すればむくわれる』なんて言うけれど、……」
◎「人を人として存在させているのは『過去』なのだ」

「果たして、東京なんて街は実在しているのだろうか」
「全て見る。全て聞く。それは人間の尊厳を殺す」
「ああ智子と暮らして楽しかったな、ひとりになっても智子は頑張って幸せになってくれるだろうな」

みんなの宮部みゆき名句ドラマ(掲示板への投稿から転載したものです)
「誰にでも優しい人間ってのは、油断ならねえ恐ろしい人間だってことになるなあ(弓之介さん)
「今のは、淳子のなかの温かな“恋”だ。ああ、もう見えなくなってしまった」(かずま。さん)
「日下、俺は遺伝を信じない主義だ」(ニーナさん)


「歌わなくても、鳩笛草は、地味だけどきれいな花ですよね」 『鳩笛草』(光文社文庫)、353頁
 歌わなくても、鳩笛草は、地味だけどきれいな花ですよね、と。
 電話できるといいな。そう思った。生き残れたら、この能力なしで、生きていくことを一から始めることができたら。もしかしたらそれができるかもしれないと、考えてもいいのじゃないか。
 そんな思いが、初めて形を持った。まだまだ小さく、弱い苗だけれど。
やまもものコメント(00/09/24)

 「鳩笛草」の主人公である女刑事の本田貴子は、彼女の千里眼の能力を職業に大いに活かしてきました。その超能力が急速に失われていくなかで、彼女は非常な恐怖と不安を感じるようになります。しかし、この中編小説のラストの部分で、彼女は同じ千里眼の能力を持った20歳年上の男性に電話して、「歌わなくても、鳩笛草は、地味だけどきれいな花ですよね」と伝えたいと思うようになります。

 
この男性は、千里眼の能力を活かしてホテルのベルボーイから支配人にまでなった人物です。そんな彼は、鳩笛のような音をたてる鳩笛草を指しながら、貴子に「自分たちのような不可思議な能力を持つ者に似ている」と語り、そんな花のなかの異端児のような鳩笛草が「歌えなくなったら悲しむだろうね」と言っていました。でも、いま貴子は、そう言った彼に、「歌わなくても、鳩笛草は、地味だけどきれいな花ですよね」と電話して、たとえ超能力を失っても、それでもやはり自分は本田貴子という一人の人間であり、これからの人生を再出発させる気持ちを伝えたいと思うようになりました。

 「歌わなくても、鳩笛草は、地味だけどきれいな花ですよね」という言葉、これは貴子が自らに対する励ましの言葉なんですが、これはまたすべての人々への励ましの言葉でもありますね。たとえ誇るべき能力が失われても、またさらには特に誇るべき能力がなかったとしても、でも長い人生のなかで「地味だけどきれいな花」として生きていきたいですし、またそのような人生を送ることができたら素晴らしいことですね。
「今カラデモ遅クナイカラ、原隊ニ帰レ」 『蒲生邸事件』(文春文庫)、625〜626頁
ふきはほほえんだ。手を孝史の腕の上に乗せて、そっと揺すった。
 「今カラデモ遅クナイカラ、原隊ニ帰レ」
 「え?」
 ふきは笑った。「ビラに書いてあったんでしょう? 教えてもらいました。孝史さんはね、あたしとは違う原隊の兵隊さんなんですよ。それも新兵さんです。帰らなくちやね」
 なんでこの娘はこんなことを言うんだろう。こんな娘、俺の時代にはきっといやしない。ひとりだっているもんか。
 もう二度と巡り会えるものか。
やまもものコメント(00/08/28)

 ふきが孝史に言った「今カラデモ遅クナイカラ、原隊ニ帰レ」は、戒厳司令部が二・二六事件を起こした反乱軍の下士官、兵士に告げるために飛行機から撒いたつぎのような内容のビラの最初の部分ですね。

一、今カラデモ遅クナイカラ原隊へ帰レ
二、抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル
三、お前達ノ父母兄弟ハ国賊トナルノデ皆泣イテオルゾ

 ふきは、このビラの言葉をもじって、孝史に原隊すなわち孝史が本来属している時代に戻りなさいと言ったのですね。その言葉は孝史の心を大きく揺さぶりました。おそらく、孝史はまたふきのこの言葉から、彼女自身が彼女の属す時代から逃げ出さず、懸命に生きていこうとする強い意志をも感じ取ったことと思います。

 しかし、歴史的に有名なこの戒厳司令部の「今カラデモ遅クナイカラ、原隊ニ帰レ」という非文学的な言葉をこのような場面に使って、「いま」をしっかりと生きようとするふきという娘の健気さを見事に表現した宮部みゆきの小説家としての優れた文学的センスには感心させられます。宮部みゆきに敬礼!!
「恵むことと助けることは違う。恵んだら、恵んだ方は良い気持ちかもしれないけれど、恵まれたほうを駄目にする」 「片葉の芦」(『本所深川ふしぎ草紙』、新潮文庫)、37頁
 お園は深くいを吸い込み、それから言った。
「藤兵衛おとっつぁんは、そういうやり人をするお人でした。商いも、生きていくことも、本当に厳しいことだって。だからこそ、人に恵んでもらって生きることをしちゃいけねえって。恵むことと助けることは違う。恵んだら、恵んだ方は良い気持ちかもしれないけれど、恵まれたほうを駄目にするって」
やまもものコメント(00/10/05)

 藤兵衛は、世間では鬼だの守銭奴だのと言われてきた人物でした。しかし、お園によると、藤兵衛はお園の兄の奉公先を見つけてくれたり、彼女の母親を養生所に入れる手筈をしてくれたり、またお園自身のために子守奉公を世話してくれたりしたそうです。そんな藤兵衛は、お園につぎのようにも言っていたそうです。

「金ならある。おめえたちを、ただ養ってやることもできる。でも、それをしちゃいけねえ。おめえたちはこれから大人になっていくんだ。人からお恵みを受けて生きることを覚えちやいけねえ」

 藤兵衛にとって、人を助けるということは、その人間が自立して生きていく力がつけられるように側面から援助することであり、恵むこととは「恵んだ方は良い気持ちかもしれないけれど、恵まれたほうを駄目にする」こと、すなわち自立して生きていく力を抑制したり奪ったりすることだったのでしょうね。いつの時代にも、そしていろんな場合にも通用する大切な考え方ですね。
「ごく当たり前の常識と感性と、守るべき仕事や家庭を持っている、大勢の善良な生活者たち 『スナーク狩り』(光文社文庫)、116頁
 制限速度を守り、おとなしく、車の流れに従って走った。都心を走り抜けて行くときには、ネオンサインに見惚れる余裕さえあった。すれ違うトラックやタクシーの運転手の、忙しげな顔、くたびれた顔、仕事に嫌気のさしている顔、運転に集中している顔――たくさんの表情を、ひとつひとつ観察することさえできた。
 心に焼き付けて、忘れないでおこう そう思った。これからやろうとしていることが終わったとき、その正邪を判定してくれるのは、ああいう人間たちなのだ。ごく当たり前の常識と感性と、守るべき仕事や家庭を持っている、大勢の善良な生活者たち。
やまもものコメント(00/10/09)

 これは、東京を出発して金沢へ向かおうとする織口邦男の心理を描いたものです。彼は、残虐な犯罪をおこなった大井善彦が「本当に自分のしたことを後悔しているのかどうか。罪に見合った罰を受ける用意ができているのかどうか」、そのことを試すために金沢に向かったのです。大井善彦という人物は、織口の別れた妻と実の娘を残酷な手口で殺していました。そんな大井善彦を試すために織口が考え出し、そしてこれから実行しょうとする行為は法律を逸脱したものでした。そして織口は、「ごく当たり前の常識と感性と、守るべき仕事や家庭を持っている、大勢の善良な生活者たち」に彼自身のそんな非合法的な行為の正邪の判定を委ねようと考えたのでした。

 ところで、このその正邪を判定してくれるのは、ああいう人間たちなのだ。ごく当たり前の常識と感性と、守るべき仕事や家庭を持っている、大勢の善良な生活者たち」という部分を読んでいたとき、私は織口のこれから実行しょうとする行為から意識がちょっと離れ、この言葉を宮部みゆきという作家の特質と関連させてついつい考えてしまいました。彼女自身がまさにそのような「ごく当たり前の常識と感性と、守るべき仕事や家庭を持っている、大勢の善良な生活者たち」のなかに身を置き、そのなかで彼女の作家としての能力を培い、そして彼女の作品もまたそのような人々によって支持されているのではないでしょうか。この文章からそんなことをふと考えました。
「円卓の騎士」と「メリーさんの羊」 『パーフェクト・ブルー』(創元推理文庫)、69頁
もちろん、俺は、加代ちゃんも糸ちゃんも何じくらい好きだ。ただ、加代ちゃんについて歩くときの俺は「円卓の騎士」であり、糸ちゃんと一緒のときの俺は「メリーさんの羊」になってしまうのである。
やまもものコメント(00/10/11)

 これは、老犬マサが蓮見探偵事務所の調査員の加代子とその妹で高校二年生の糸子についての気持ちを巧みな比喩を使用して説明している箇所ですが、私は老犬マサの犬とは思えぬ余りにも巧みな表現に思わず大笑いしてしまいました。
 この手の表現、いろんなケースに使えそうですね。会社では部下に対して「秦の始皇帝」なのに、孫の前では「ぬいぐるみのくまさん」とか、友達の間では「オバタリアン予備軍」なのに、彼の前では「迷子の迷子の子猫ちゃん」になってしまう若い女の子とか、接する相手によって自然と自分自身の気持ちが変化し、また違う表情、異なる態度を示してしまいますね。
二十歳の女の子が演じる芝居 「弓子の後悔」(「山前譲編『秘密の手紙箱 女性ミステリー作家傑作選』第3巻、光文社文庫)
 誰かに意地悪されて傷ついたとき、友人や恋人にそれを打ち明けて、そんな意地悪をするひとは、あなたに嫉妬してるんだよ、言わせておきなさい、と慰めてもらう――そして、人間の善意というものを信じて生きてきたのに、今初めてそれを裏切られ、驚いているというような顔をして、殊勝に目を伏せる。そんなふるまいは、二十歳かそこらの女の子のすることだ。
 もっとも、二十歳の女の子だって、本気でそんなふうに思っているわけではない。かつて二十歳の女の子であったことのある大人の女性なら、そんなことは誰でも知っている。彼女たちは芝居しているのだ。ただ、その芝居の似合う若さと初々しさを持っているから、その芝居が傍目で見て決してそぐわないものではないから、そして何よりも、自分たちも過去にはそうやって世渡りしてきたという覚えがあるから、だから黙って、微笑して見過ごしてやっているだけなのである。
やまもものコメント(00/08/19)

 なかなか辛辣な表現ですね。でも、別に二十歳前後の女の子でなくても、みんないろんなところで様々な「芝居」を演じていますよね。例えばTVの報道番組なんかで、コメンテーターが犯罪事件について意見を求められ、カメラに向かって驚きや怒りの表情を見せながら「信じられないようなことですね、こんなことが許されていいのでしょうか」などとコメントしていると、その人はこれまで世間に顔向けできないことや人様から後ろ指をさされたりするようなことなど全くしてこなかったんだろうか、だからこんなに新鮮に驚くことができ、怒ることができるんだろうか、なんてつい思ってしまいます。
結局、女性の一般職なんて、そんなものなのだ。若さが第一の能力で、それを失ったら脱落していくしかない。 「言わずにおいて」(『返事はいらない』、新潮文庫)、124〜125頁
 「会社には、戻れません。もうそういう時期じゃないって、よく分かりました。あの……今のような会社でああいう仕事をしていくには、わたし、年をとり過ぎました」
 課長は困ったように顔を歪めた。
 「まだ若いじゃないか」
 聡美は笑った。「対わたし個人ということになると、若いって言ってくれる。でも、女子社員としては、もうコケが生えてきちゃってるって思ってる。そうでしょう? わかってるんです」
 結局、女性の一般職なんて、そんなものなのだ。若さが第一の能力で、それを失ったら脱落していくしかない。
やまもものコメント(01/01/04)

 これは、27歳の長崎聡美が会社で衝突した上司の黒坂課長と2日後にばったりと顔を合わせたときの二人の会話です。聡美が黒坂課長と衝突した原因は、経理課の社員たちが新入の女子社員が長崎聡美の代わりにお茶くみをすることになるだろうと噂をしていたときに、黒坂課長が「我々だって、若いぴちぴちした女の子のいれてくれたお茶を飲みたいしな」「長崎くんにはもう飽きがきた。だいぶバァサンになったものな」と言ったからでした。おそらく、黒崎課長としては、聡美に対して親愛の情を込めて軽い憎まれ口をたたいただけなんでしょう。

 でも、男性の黒坂課長には軽い冗談でも、女性の聡美には胸にぐさっと突き刺さり心を深く傷つける言葉の暴力となってしまいました。なぜなら、いまの日本社会では、聡美ぐらいの年齢になっても職場で働く未婚女性の多くが自らを「年をとり過ぎた」と感じ、悲哀を覚えざるを得ないような状況に置かれているからです。そんな状況が変わったとき、黒崎課長の冗談がはじめて冗談として通用するようになるんでしょうね。えっ、どんな社会になっても、女性に「バァサン」なんて言葉は絶対の禁句ですって。うーん、まだ私は修行が足らないようですね。
「たぶん、彼女、自分に負けてる仲間を探してたんだと思うな」 『火車』(新潮文庫)、292〜293頁
 「ひとつね、面白い話をしましょうか」と、郁美が言った。「半年ぐらい前だったかなあ。丸ノ内にいたころ、そんなに親しくはなかったけど、同じ課にいた女の子がね、いきなり電話をかけてきたの。実家に。あたし、そのときはたまたま、ホントにたまたま、太郎を連れて泊りに行ってるときだったから、すぐに電話に出れたわけ」
 初めて聞く話なのか、保も興味深そうな顔をしている。
「あたしが出たら、すっごく明るい声で 『元気い?』なんて訊くの。こっちは(なんだろう)なんて思ってたけど、『元気よ』なんて答えてね。あたしが辞めたあとの会社の噂話なんかいろいろして……彼女はまだ勤めてたから。ほとんど一方的にしゃべるのよ。香港へ行ってきたとか、今年の社内旅行は伊香保だとか。そのうちに、やっと話がおさまって、『ねえ、今どうしてんの?』って訊くから、『子育てで大変よ』って答えたら――」
「そしたら?」
 郁美は小さく舌を出した。「ちょっと絶句しちやって。『結婚したの?』って。あたしが、『そうよ。未婚の母なんて嫌だもの』って言ったら、黙っちやってね。それからは、話もぶつぶつ途切れちやって、最後には、なんか唐突な感じで切られちやった」
 少しのあいだ、沈黙が落ちた。郁美は、かたわらにあった地酒の瓶の輪郭を、一本指でなぞるようにしている。
「たぶん、彼女、自分に負けてる仲間を探してたんだと思うな」
やまもものコメント(00/08/19)

 妻の郁美からこの話を聞かされた保が「わかんねえな、オレには」と言います。しかし、それは彼が男だから理解できなかったのではないですね。男の私だって電話をしてきた彼女の気持ちが痛いほどよく分かりますよ。
 ところで、郁美は夫の保に、その女性の気持ちが分からないのは彼が「幸せだから」だと言っています。そうすると私は? うーん……。

  この『火車』の挿話もまた人間心理をとてもシビアに観察していますね。
 
無邪気な幻想を憎悪する心情 『魔術はささやく』(新潮文庫)第三章、164〜165頁
 和子の「客」になった男たちは、腹立たしいほど無邪気だった。抜けた乳歯を屋根のうえに放れば、翌朝には枕の下にお金が入っていると信じる子供のように。
 だから、むしってやってもかまわないのだ。たいして傷つきやしない。
 そして、自分自身も気がついていない心のどこかで、和子は、金を出せば願いがかなう、欲しいものは全て手に入ると――きれいになれる、やせられる、毎日が楽しくなる、と――無心に思いこんでいるあの娘たちのような女性を、突然現われて腕にすがってくる女性がなんの下心も抱いていないと信じてしまえるほど、日々の生活と仕事に追われている真面目な男たちを、心底憎んでいるのだった。
 彼女には、もうどんな種類の幻想もなくなっているから。
 橋はもう落ちてしまったのだから。
 そして、彼女にむしられたその男たち、娘たちが、けっして、けっして、じやあ今度は自分が誰かからむしり返してやろうと考えはしないことを、知っているから。
やまもものコメント(00/09/23)

 これは、かって恋人商法ギャルとして男たちをつぎつぎとたぶらかし、いまは若い娘たちにインチキ化粧品などを売りつけるキャッチセールの仕事をしている高木和子という女性の心理を描いたものです。この高木和子は、自分の手練手管に簡単に騙される無邪気な男や娘たちに対して「心底憎んでいる」んです。なぜなら、彼らや彼女たちはまだ幻想を持っており、自分たちの願いが簡単に実現できるかもしれないと無邪気に信じているからなんです。

 高木和子は、最初は「何かを始めたい」との思いから、そのためにインチキな金儲け仕事をやりはじめたんですね。しかし彼女は、「何かを始めたい」のその「何か」を見い出せないまま、金を儲けては「特に心に残る土地も風景も見あたらない」ような海外旅行を繰り返し、いまはただただ儲けた金を使い果たすためにまた海外旅行に出かけるというような索漠とした空虚な生活を送るようになっています。そんな生活の繰り返しのなかで、彼女は「もうどんな種類の幻想もなくなって」いるんです。だから、甘い幻想を持ち、甘い言葉を無邪気に信じることのできる男や女たちを心底憎むのです。幻想を持ちたくても、もはやそんなものを持つことができなくなった高木和子のような人間がその心の闇に潜ませている他人の幻想への激しい憎悪、そんな心理がここに暴き出されています。どうですか、怪談噺よりよっぽど怖い話だと思いませんか。
「希望は強いものであり、また残酷なものでもある」 「まいごのしるべ」(『幻色江戸ごよみ』、新潮文庫)、166頁
 迷子石巡りを続けていて、市兵衛は思ったことがある。心に希望を持つというのは、どれほどにか人を強くすることであり、また酷なことである、ということだ。迷子石の周囲でめぐりあう親たちは、みな一様に疲れ果て、悲しみに心破けた顔をし、まなざしもうつろに、女たちのなかには、昨夜もまた泣きあかしたのだろうかと思えるような様子の者たちもいる。だが、それでも彼らは地に足をつけ、とぼとぼと歩いて、良い知らせはないものかと、ここへやってくるのだ。
 やつれ果てた身体を動かしているのは、いつか子供を見つけることができるかもしれないという希望、ただそれだけであろう。それが、普通ならとても起きてはいられないのではないかと思われるほどの様子の人々を、立たせ、歩かせ、今日も生き延びさせている。いっそあきらめてしまえば、はるかに楽かもしれないのに、希望がそれを許さないのだ。希望は強いものであり、また残酷なものでもある。
 そしてそういう親たちは、迷子石に抱きつかんばかりにして、舐めるように、一枚一枚、張り出された紙を読んでいる。
やまもものコメント(00/10/02)

 迷子石については、短編「まいごのしるべ」につぎのような説明があります。

 「迷子石というのは、掛札場ほど大がかりではないが、迷子の子供を捜し出す手がかりを提供するために、繁華な橋のたもとや神社仏閣の境内などに立てられた石柱のことである。石柱の表には『まひごのしるべ』もしくは『奇縁氷人石』、右側には『たずぬるかた』、左側には『おしゆるかた』と彫り付けてある。迷子の子供を探す親は、たずぬるかたのほうに子供の人相や服装を書いた紙を張り、迷子を保護した側も、同じようにする。」

 迷子になった我が子の消息を得ようと迷子石にやって来る親たちの切なく哀しい姿が短編「まいごのしるべ」に描きだされていますが、そんな親たちの様子を見て市兵衛が心に抱いた「心に希望を持つというのは、どれほどにか人を強くすることであり、また酷なことである」「希望は強いものであり、また残酷なものでもある」との感慨は、迷子になった我が子を探す親たちにのみ限定されない普遍的な意味が含まれているように思いますね。「希望は強いものであり、また残酷なものでもある」んですが、でもなんらかの希望があるから人は地に足をつけ、たとえとぼとぼとした足取りであっても、様々な苦難に耐えながら、なんとか人生を歩いていくことができるのではないでしょうかね。 
「地下街の雨、か」 「地下街の雨」(『地下街の雨』、集英社)、23頁
 彼女は微笑して、「ありがと」と言った。それからまた、ふっと遠い目をしてつぶやいた。
「地下街の雨、か」
 麻子は身体から盆を離し、彼女の方へ向き直った。
「ずっと地下街にいると、雨が降りだしても、ずっと降っていても、全然気がつかないでしょ? それが、ある時、なんの気なしに隣の人を見てみると、濡れた傘を持ってる。ああ、雨なんだなって、その時初めてわかるの。それまでは、地上はいいお天気に決まってるって、思い込んでる。あたしの頭の上に雨が降ってるわけがない、なんてね」
 おめでたいわね、と、彼女は言った。
「裏切られた時の気分と、よく似てるわ」
 彼女が出ていったあと、麻子は、行き交う人たちが手にしている傘を見つめながら考えた。彼女が言ったように、わたしもずっと地下街にいたんだ。外は土砂降りだったのに、何ひとつ気づかずに。
(ごめんよ。もう君のことは愛してないんだ)
 充の顔が、浮かんで消えた。あなたはわたしを突然地上に引っ張りだして、「君は傘を持ってなかったの?」と言ったのよ…… 
やまもものコメント(00/10/03)

 人は誰だって、人生はいつもお天気の日ばかりではないということぐらい、自らの体験から知っていますね。でも、それなりに平穏な日々が続くと、「あたしの頭の上に雨が降ってるわけがない」とつい思い込んでしまい、ある日突然、 「外は土砂降りだったのに、何ひとつ気づかずに」いたことを思い知らされることがあるかもしれませんね。傘を用意していなかったことを悔やむことがあるかもしれませんね。みなさんは、こんな「地下街の雨」的状況を体験されたことはありませんか。 
「主役は夜で、真っ暗なのが本当で、昼の光の力が夜をはばかりながら、たまさかのあいだ、俺たちを照らしてくれているのじゃないか」 『心とろかすような マサの事件簿』(東京創元社)、265頁
  鉄工所の親父のような人間は、これからもどんどん増えていくのだろう。そういう人間は、大人もいるし、子供もいる。学校のウサギを殺して面白がる奴もいれば、ペットを気晴らしの対象にする奴もいる。生き物の生殺与奪の権利を握って君臨するのは、さぞかし気持ちのいいことだろう。やめられなくなることだろう。虐め過ぎて死んでしまったら、また金で買ってくればいいのた。命なんて、たやすく金で贖(あがな)えるのだから。
 通りすぎてゆく夏の夜空を見上げながら、俺はふと考えた。今までずっと、昼が主役で、夜は昼が寝ている間だけ、昼の目を盗むようにしてやってくるものだと思っていた。だが、本当は違うのじゃないか。主役は夜で、真っ暗なのが本当で、昼の光の力が夜をはばかりながら、たまさかのあいだ、俺たちを照らしてくれているのじゃないか。それとも、こんなことを考えるのは、俺が歳をとった証拠だろうか。
やまもものコメント(00/10/04)

 これは、ハラショウという犬が飼い主である鉄工所の親父にこっぴどく殴られ、夕食も与えられないまま死んでいったことを知った老犬マサの感慨です。弱くて無抵抗な存在に対して残虐な行為をおこなって心の憂さを晴らしたり、優越感を満足させているような人間の野蛮で卑劣な精神に対し、私たちはなんともいえぬ憤りと哀しさを感じます。そして、そんな野蛮で卑劣な精神が起こした残虐な事件が最近なぜか頻繁に起こりますね。そんなとき、私たちは老犬マサの感慨、すなわち主役はもしかしたら夜で、真っ暗なのが本当なのではないかという憂鬱な思いに共感してしまいますね。  
「コンビニとはそういう場所ではないのだ」 「人質カノン」(『人質カノン』、文藝春秋)、47頁〜48頁
 三日とあげずに通う店なら、普通なら店員が客の顔も名前も覚えるだろう。世間話くらい、するだろう。そうなれば、防犯上どうこうなどと言わなくたって、客のほうで、フルフェイスのヘルメットをかぶってなかに入ろうなどとしないだろう。
 だけど、コンビ二とはそういう場所ではないのだ。そういう場所でないことを、みんなが求めているのだから。
 
やまもものコメント(00/10/01)

 「人質カノン」という短編は、遠山逸子という女性が深夜のコンビニに買い物に立ち寄って、強盗事件に巻き込まれてしまう話ですが、そんな強盗事件の舞台となったコンビニの外観を作者は小説の最初の方でつぎのように描いています。

「みっつ目の角を曲がると、小さな商店街に出る。午前一時というこの時刻では、大半の店が閉まっているが、ただここには、街灯のほかに、煙草や清涼飲料の自動販売機の明かりと、もうひとつ、逸子の前方を明るく照らす光源があった。二十四時間営業のコンビニエンス・ストアである。しいんと静まりかえった暗い町並みのなかに、看板が明るく輝き、総ガラス張りの店舗のなかに、人の動きが見える。黄色い上っ張りを着た店員の後姿と、ほかにも客が二、三人。」

 ここに描かれているようなコンビニは街のどこにでも見かけますね。「しいん
と静まりかえった暗い町並みのなかに、看板が明るく輝き、総ガラス張りの店舗」を目にするとなにか人恋しさを感じてしまうのではないでしょうか。でも、室内照明が煌々と輝くきれいな店舗のなかで、人々はただ黙々と買い物をするだけ。店員も客も世間話を交わすこともありません。コンビニは「そういう場所でないことを、みんなが求めているのだから」。そんな寂寥感漂う真夜中のコンビニで起こった強盗事件を通して、作者は読者に街に蕭々と吹く孤独の風の音を聴かせてくれます。
「人殺しを続け、他人の生殺与奪を握ることを覚えてしまうと、……」 『クロスファイア』下巻(光文社カッパ・ノベルス)、263頁
 すうっと霧が晴れるように、淳子には、ひとつの真実が見えてきた。人殺しを続け、他人の生殺与奪を握ることを覚えてしまうと、たとえその殺戮の目的が何であったにしろ、人は自分勝手な生き物へと成り下がるのだ。なによりも自分を優先するようになるのだ。あたかも自分が神であり、神の考えは全てを超えるという思い違いをするようになるのだ。
 あたしだってそうだったじゃない。
やまもものコメント(00/10/14)

  青木淳子は自分に与えられた念力放火能力(パイロキネシス)を意味あることに使いたいと思い、その能力を使って「他の存在を滅ぼし、食い尽くすためにのみ存在している野獣」たちをつぎつぎと「処刑」していきました。そんな彼女は、さらには、大した悪人とも思えぬような人物をも彼女の念力放火能力の餌食にしていきました。しかし、実際には念力放火能力そのものが彼女のコントロール力で抑えきれないほど強力になり、なにかもっともらしい理由をつけてでも力を解き放つことを彼女に強いるようになっていたのです。

 だが、そんな青木淳子も『クロスファイア』のラストの方で「自分が神であり、神の考えは全てを超えるという思い違い」をしていたことを悟るようになります。この部分に『クロスファイア』を書いた作者の重要な主張が込められているのではないでしょうか。
「先生も親も『努力しなさい、努力すればむくわれる』なんて言うけれど、……」 「我らが隣人の犯罪」(『我らが隣人の犯罪』、文春文庫)、12頁
 ただ、僕としては、僕たち兄妹を育て、会社を運営し、家のローンを払うためにいつも過負荷の状態になっている両親と、平日の夜や時には土曜の午後などに、大型のベンツをスルリと乗りつけて、愛人と楽しむためにゆうゆうとドアの向こうに消えていくお腹の出かかったおっさんとを見比べて、いろいろと考えさせられたのは確かだ。
 つまり、世の中には不公平なことなどいくらもあるってことを。先生も親も「努力しなさい、努力すればむくわれる」なんて言うけれど、言っているその声に今いち力が入ってないのは、大人たちの暮らしの周りにも、似たようなことがたくさんあるからなんだろう。.それと知らずに「努力しよう、努力すればむくわれないことはないんだ」と真に受けて育ってしまうと、大人になってから、自分を振ってもっといい給料をもらっている男と結婚しちゃった元恋人を殺してボストンバッグに詰めて捨てちゃう、なんてことになってしまうわけだ。
やまもものコメント(00/10/14)

 世の中、努力すれば必ず報われるというわけではないですね。世の中には不公平なことがいくらでもあります。宮部みゆきは、そのことをちゃんと知っておかないと、裏切った元恋人をボストンバックに詰めてしまったりするかもしれませんよと彼女一流の表現で語っているんですね。こんなこと、学校では教えてくれないかもしれませんが、でもとても大切なことですね。
「人を人として存在させているのは『過去』なのだ」 『理由』(朝日新聞社)、479〜480頁
 綾子にとっても、八代祐司はやっぱり二次元の人間だったのではないかと、康隆は思ってしまう。彼に恋しているとき、彼をその手で殺した瞬間には、激しい感情がわいたのだろう。だが、二次元の人間はスイッチを切られて消えてしまった。そして綾子の手のなかには、ちゃんと実在感のある三次元の「命」がある――赤ん坊の祐介だ。彼女の心は、今や祐介の方に向いている。
 自分たち姉弟のこんな心の働きは、第三者の目から見たら身勝手で、許し難いものに映るだろう。しかし、康隆は敢えてこのままでいたいという気持ちだった。これで済むものなら済ませたい。
 だが、もしも八代祐司の本当の親、本当の家族が名乗り出てきたなら、荒川北警察署かどこかの法医学教室か知らないが、たぶん未だに冷凍でもされて保管されているだろう彼の遺体にすがりついて泣く母親が登場したら、康隆たちが安住している今の世界は、木っ端みじんに打ち砕かれることになる。八代祐司はアニメ絵じゃない。生身の人間で、母親のお腹から生まれ落ち、母親は彼のおむつを洗い、彼の手を引いて予防接種に連れてゆき、彼の膝のすりむき傷に薬をつけ、彼の制服のほころびを繕い、そう、敏子が康隆のためにしてきてくれた細々としたこと全てを、八代祐司という「子供」のためにしてきた母親が、彼にもいた――それを突きつけられたら、その瞬間に、綾子は真の殺人者となり、康隆は姉をかばう共犯者となる。
 人を人として存在させているのは「過去」なのだと、康隆は気づいた。この「過去」は経歴や生活歴なんて表層的なものじゃない。「血」の流れだ。あなたはどこで生まれ誰に育てられたのか。誰と一緒に育ったのか。それが過去であり、それが人間を二次元から三次元にする。そこで初めて「存在」するのだ。それを切り捨てた人間は、ほとんど影と同じなのだ。本体は切り捨てられたものと一緒にどこかへ消え去ってしまう。 
やまもものコメント 01/01/06

 康隆にとって、姉の綾子が殺してしまった八代祐司は存在感の希薄な「安っぽいアニメーション映画の主人公」のような「二次元」的な存在でした。しかし、もしこの八代祐司の「遺体にすがりついて泣く母親が登場し」、八代祐司がどのような「血」の流れを受け継いでこの世に生を受けたのか、そして誰にどこでどのように育てられたのかといった過去を知らされたら、そのとき康隆にとって八代祐司は「三次元」的な存在となるのかもしれないと思うのでした。そして、そのとき、綾子の行為は綾子と康隆に初めて耐え難いような重さをもたらすのではないかと怖れるのでした。

 「あなたはどこで生まれ誰に育てられたのか。誰と一緒に育ったのか。それが過去であり、それが人間を二次元から三次元にする」との言葉、とっても重たいですね。そして、そのような他人や自分自身の「過去」を想像したり振り返ったりすることのできる力こそが他人のみならず自らをも「三次元」的存在として実感させ、生きていく力を与えてくれるのかもしれませんね。 
「果たして、東京なんて街は実在しているのだろうか」 「裏切らないで」(『返事はいらない』、新潮文庫)、229〜230頁
 結局、加賀美は始発で帰宅する羽目になった。ぼんやりと車内広告をながめていると、女性雑誌の広告が目についた。
 「これからはキュートなショートヘアの時代!」
 「メガロポリス東京のシティ・ナイト・クルージング  これからお薦めのこのお店」
 加賀美は窓の外の景色へと視線を移した。
 メガロポリス東京、か。
 果たして、東京なんて街は実在しているのだろうか。そんなものは、この種の雑誌やテレビで創りあげられた幻に過ぎないのではなかろうか。
 若者たちが、「そこに行けば誰でも幸せになれる」と夢見ている、その夢のなかにだけある都市なのではなかろうか。
やまもものコメント 01/01/07

 宮部みゆきは、東野圭吾の『浪速少年探偵団』(講談社文庫)に解説を書いているのですが、同解説のなかで自らを「土着の東京人」とし、またつぎのようなことも述べています。

 「ただ、ここで一言お断わりしておかなければならないのは、わたしの言う『土着』とは、断じて、『こちとら江戸っ子だい!』などという意味ではなく、『東京人』というのも、『東京はやっぱり国際都市だから――などというへドが出そうな "ええ格好しい" の意味合いを持ったものではないということです。それは、言ってみれば、"生まれ育った町としての東京"であり、そこに住んでいて、世に喧伝されている『格好いい東京、スマートな東京』についてゆくことのできない、置いてけぼりを食っている『東京人』のことなのです。
 そう、都市化が進むにつれて、とろい『土着人』が知っていた東京は、個々の生活スペースの大きさにまで、こなごなに粉砕されてしまいました。もともとあった『東京』は、今存在している、幻想の『東京』、外面しかない『東京』に負けてしまったのです。」

 このように自らを 「東京」から置いてけぼりを食っている「土着の東京人」であるとする宮部みゆきは、短編小説「裏切らないで」において、加賀美という登場人物の想いを借りて「果たして、東京なんて街は実在しているのだろうか」と書いていますが、さらに加賀美につぎのように独白させています。

 「土着の東京人にも、『東京』は見えない。あるのはただ、北千住や、田端や、世田谷や杉並や荒川や江戸川。自分を育んでくれた町だけだ。そこでは赤ん坊が泣き、子供が喧嘩し、ときには少女が行方不明になったり、老人が安楽死したりしている。清濁あわせのむ、あたりまえの街とあたりまえの暮らしがある。
 だが、『東京』は幻だ。すべての人にとって、公平に幻なのだ。」
「全て見る。全て聞く。それは人間の尊厳を殺す」 『龍は眠る』(新潮文庫)、128〜129頁
 目の前の女性が説いている理屈は正論であり、彼女の活動には意義があり、彼女の意見には耳を傾ける価値があるのだろう。だが、彼女にそれを言わしめている動機の、本当に深いところには、おそらく非常に個人的な、なりふりかまわぬ怒りが、復讐心が、嫉妬心が隠れているのだ。それが全てではないにしろ、彼女を動かしている歯車のひとつではあるのだ。
 ごく普通の人間である私にも、それを想像することはできる。今この場で、彼女の顔を見ているだけで。
 だが、想像することと、心の触手をのばして彼女を探り、彼女自身の生の声で聞くこととは、まったく次元が別なのだ。
(見たくもないし聞きたくもないものを)
 全て見る。全て聞く。
 それは人間の尊厳を殺す。
やまもものコメント 01/01/09

 これは、雑誌記者の高坂がある団体の代表をしている女性にインタビューをしたとき、怒りの感情をあらわにして一方的に意見を述べ立てるその女性を見ていてふと心の奥で想像し思ったことです。高坂は、彼女の正当な理屈に基づく公的な怒りの裏に「非常に個人的な、なりふりかまわぬ怒りが、復讐心が、嫉妬心が隠れている」であろうと洞察するとともに、「だが、想像することと、心の触手をのばして彼女を探り、彼女自身の生の声で聞くこととは、まったく次元が別なのだ」とも考えます。すなわち、もし他人の心をスキャンする超能力を持っていたとしても、それを使って人の心の奥底をのぞき込むことは「人間の尊厳を殺す」ことだと考えるのです。

 そうですね、心のなかにあるどろどろとした様々な想いを人は理性でなんとか抑制し、檻に入れて監視しているんですが、それをスキャンする能力があれば、スキャンされた人間だけでなくスキャンする人間の尊厳をも殺してしまうのかもしれませんね。

  しかし、普通の人間は他人の心をスキャンできません。できないから、だから人間は他人の心を読みとりたいと思いますし、また人前で他人の心理をあれこれ詮索し語り合うことが好きなんですね。だから、マスコミはそんな読者や視聴者のために有名人や犯罪の被疑者のプライバシーを暴き出すためにいつも血道をあげているんですね。
「ああ智子と暮らして楽しかったな、ひとりになっても智子は頑張って幸せになってくれるだろうな、……」 「朽ちゆくまで」(『鳩笛草』、光文社カッパ・ノベルス)、10頁
あたしとあんたはふたりで生きてきた。いつだってふたりで頑張ってきたじやないか。だから、よく覚えておいておくれね。どこでどういう形で死のうと、そのときあたしの頭のなかにあるのは、ああ智子と暮らして楽しかったな、ひとりになっても智子は頑張って幸せになってくれるだろうな、別れるのは寂しいけど、きっと智子は大丈夫だろうなってことだけだよ。それ以外のどんなこともありやしない。信じておくれね――
やまもものコメント 01/02/16

 この言葉は、さだ子が亡くなる2年ほど前に孫の智子に遺言代わりに言い残した言葉です。智子は8才の時に両親を交通事故でなくし、その後は祖母のさだ子と二人で暮らしてきました。そんな祖母も心臓発作で突然あの世へ旅立ってしまいました。智子は21才で独りぼっちになってしまったのです。しかし、祖母が遺言代わりに残してくれたこの言葉は、祖母の死からひと月ぐらいの間の智子にとって、いちばん辛い時期を切り抜ける力を与えてくれたのです。


 「ああ智子と暮らして楽しかったな、ひとりになっても智子は頑張って幸せになってくれるだろうな、別れるのは寂しいけど、きっと智子は大丈夫だろうな」。なんて温かくて優しい言葉でしょうか。孫娘の智子に対する愛情がしみじみと伝わってくる素晴らしい言葉ですね。

 ところで、私の母も1ヶ月前に解離性大動脈瘤破裂のために急逝しています。亡くなった前日に両親の家を訪れたとき、母は私にコーヒーを出してくれました。その後いとまを告げて帰ったのですが、まさかそれが永久の別れになるとは想像もしていませんでした。ですから、母は遺言と言えるような言葉を残していません。しかし、「朽ちゆくまで」を再読し、智子の祖母がしたように、もし母が私になにか言い残すとしたら、どんなことが言いたかったんだろうとふと思ったとき、胸にぐっと突き上げてくるものがありました。


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