みなさんは「我は海の子」の歌をご存知ですね。そうです、この歌の第1節は「我は海の子白浪の/さわぐいそべの松原に/煙たなびくとまやこそ/我がなつかしき住家なれ」というもので、きっと小学校の
一、我は海の子白浪の さわぐいそべの松原に 煙たなびくとまやこそ 我がなつかしき住家なれ 二、生れてしほに浴して 浪を子守の歌と聞き 千里寄せくる海の気を 吸ひてわらべとなりにけり 三、高く鼻つくいその香に 不断の花のかをりあり なぎさの松に吹く風を いみじき楽と我は聞く しかし、この有名な歌の歌詞について、誰がどこの海岸の風景を前に見て作詞したかを知っている人は少ないと思います。実は私も長い間そのことを知らなかったのですが、あるテレビの番組で「我は海の子」の歌詞の作詞者が鹿児島出身の人物で、その歌の歌詞も鹿児島の海岸の風景に基づいているということを知りました。それで、鹿児島女子大学国語国文学会編『かごしま文学案内』(春苑堂書店、1989年10月)で調べたところ、この歌の作詞者は鹿児島市加治屋町出身の「宮原晃一郎」という人物で、その経歴についてつぎのように紹介していました。
また、2011年12月にクマタツさんから「鴨池動物園等の思い出」と題されたエッセイをメールでいただき、拙サイトの「月下推敲」に転載させていただき、そのことを拙ブログ「ポンコツ山のタヌキの便り」に「クマタツさんの鴨池動物園等の思い出のエッセイ」と題して拙文をアップして天保山海水浴場のことも話題にしましたところ、ありがたいことに mastanさんからその天保山海水浴の写真が「未来軌道21 アイデンティティの確立-3」のトップに載っていることを教えていただき、またその写真に有名な文部省唱歌「われは海の子」の歌詞「われは海の子/白浪の/さわぐいそ辺の/松原に/けむりたなびくとまやこそ/わがなつかしきすみかなれ(後略)」も添えられていました。さらに同サイトには、この「われは海の子」を作詞した宮原晃一郎を顕彰する歌碑が祇園之洲公園に建立されていることも紹介されていました。 それで、2012年3月20日の春分の日にデジタルカメラ持参で鹿児島市の祇園之洲公園まで出掛け、この歌碑を撮影することにしました。なお、この歌碑は平成十二年(2000年)七月二十日の「海の記念日」に桜島をバックに建立されていましたが、「我は海の子」の歌詞のような風景はもはやなく、海辺はコンクリートの岸壁で囲われ、その岸壁の下には無数のテトラポットが並べられており、白砂もなければ松林もありませんでした。また同歌碑右下に「『我は海の子』の由来」が記されていました。
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この「我は海の子」歌碑右下に記されている「『我は海の子』の由来」によると、「我は海の子」は作詞者である宮原晃一郎が「幼い日、毎日のようにかよった故郷の海(錦江湾)の天保山海岸をしのんで作詞した」ものとされていますね。そうしますと、この「我は海の子」の歌碑を天保山にある「坂本竜馬新婚の旅碑」傍らの荒田川の石積み堤防(天保山海岸の防波堤跡)近くに建ててもよかったと思うのですが、なぜそこから約5キロ近く離れた祇園之洲公園の南端に建立されたのでしょうか。確かに現在の歌碑から錦江湾の海と桜島を臨むことができるのですが、できれば「我は海の子」の歌詞と一番ゆかりのある場所に建てればよかったのにと私などは勝手に思ってしまい、この歌碑がなぜ祇園之洲公園に建立されたのか、そのことが疑問として残りました。
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橋口睦子様(歌碑建立実行委事務局長夫人)から祇園之洲公園に歌碑建立の経緯をお訊きする 幸い、この歌碑建立実行委員会の事務局長をされた故橋口峻氏の奥さまの橋口睦子様から祇園之洲公園にこの歌碑が建立された経緯をお訊きすることができましたので、睦子様のお話を紹介したいと思います。 故橋口峻氏は、1989年に新聞報道で「我は海の子」の作詞者が鹿児島県出身の宮原晃一郎で、天保山海岸をしのんで詠んだものであることをお知りになり、ぜひ歌碑を建立し宮原晃一郎の詩才を後世に伝いたものだと思われました。なお、故橋口峻氏は鹿児島女師小学校の卒業生で、天保山海岸で水泳訓練を受けておられたそうです。 ですから、歌碑建立場所として初めは天保山海岸跡を考えられたそうですが、そこには以前すでに海軍関係の方が建てられていた小さな碑が草に覆われて誰にも知られずに存在していたことや、またその場所からはいまは海を臨むことはできず、さらに傍を国道225号が走っているために大きな記念碑を建立することができないと断念され、海と桜島が臨める祇園之洲公園に大きな記念碑を建立することを計画されたとのことです。 歌碑に使用する石は、全国有数の石材綜合会社タカタの取締役会長の高田義一氏が以前から温存されていた通称ジンバブエ黒御影石を破格の運賃に毛の生えた程度の康価で提供して下さったのですが、実際にこの石を使って歌碑として建立するに当たって、当初計画した大きさでは市当局からクレームがつき、何度も交渉を重ねてやっと現在の大きさに決まったとのことです。また、歌碑の文字を専門家に見積もり依頼したところ、それがあまりにも多額だったので、なんと故橋口峻氏自身が揮毫されたとのことでした。 歌碑建立実行委員会の事務局長となられた故橋口峻氏は歌碑建立に奔走され、ついに多くの有志の方々の暖かい協力によってこの歌碑は2000年7月20日の海の日に祇園之洲公園に建立されました。ただ、睦子夫人のお話によると、ご主人はこの祇園之洲公園が多くの方が訪れやすい公園として整備されなかったことを非常に残念がられていたとのことです。 なお、橋口睦子様から「我は海の子」実行委員会が2001年4月22日に発行した『我は海の子 歌碑建立記念誌』をいただきました。同誌掲載の「宮原晃一郎の生涯」には、宮原が後年知人に語った言葉として「この詩は小学校高等科の生徒の時に作詞してあったものだと語った」ことや、「鹿児島市加治屋町の生家に近い高麗橋からは、眼前に桜島がそびえ、甲突川河口に沿って白砂青松の海岸がえんえんと連なる様が一望できた」ことが書いてありました。なお、同誌掲載の歌碑建立発起人会代表の「はじめに」の言葉や「『我は海の子』の作詞者が宮原晃一郎であることの証拠となった資料二点」を下に紹介しておきます。 |
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はじめに 平成元年(一九八九年)四月、南日本新聞に、東京在住の宮原典子さんが、「我は海の子」は父、晃一郎氏(鹿児島市加治屋町出身)が、鹿児島市の天保山をイメージして作った歌だったと、明治四十一年に文部省から授与された賞状と共に報道されました。この記事に接し、非常な驚きを感じた私たちの中から、ぜひ共この事実を顕彰する歌碑を建立して、末永く後世に伝える必要があるのではないかとの声が起こりました。これまで鹿児島のイメージは、薩摩隼人に代表される武の国、軍人優位で、「翔ぶが如く」で紹介された「チェスト」など、素朴ではあるが、いささか粗野な印象を全国的に与えてきたきらいがあります。 薩摩は音楽(吹奏楽)や、絵画、文学などあらゆる芸術面でも夫々素晴らしい人材を輩出しています。私たち有志は、故宮原晃一郎氏の不朽の名作「我は海の子」の歌碑を建て、作詞者を顕彰し、この歌の生まれた経緯を全国に広く紹介するため、平成八年七月二十日の海の記念日に開催されるウォーターフロントフェスティバル(青年会議所主催)のオープニングセレモニーに、鹿児島市立少年合唱隊や紫原小学校のバンド演奏で桜島を望んで海の歌を唱う会を百五十名で始めました。 平成十年七月より本格的に「我は海の子」の歌碑建立の為の協賛金を募り県内外を始めとする数多くの方々からの援助によって平成十二年(二〇〇〇年)の七月二十日の海の記念日に晴れて除幕致しました。ご理解ご賛同頂きました皆様方には厚く御礼申し上げます。
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「我は海の子」の作詞者が宮原晃一郎であることの証拠となった資料二点 |
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文部省からの著作権譲渡の手紙(明治四十二年一月二十六日付) 拝啓曩(さき)に本省募集に 係る新体詩中、貴下応募 の海の子入選の儀、通知に及び 候処、右著作権譲り受けの登録 致したく候間、別紙登録請求書 回付に及び候条、住所族籍氏名 御記入御調印の上、至急御返送 相願ひたく此段申し進ぜ候。敬具 明治四十二年一月廿六日 文部大臣官房図書課長 文部書記官 渡辺董之介 |