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クマタツさんからいただいたエッセイ・歴史散歩
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父の遺骨箱と大叔父の涙
戦死した父と花瀬望比公園
鴨池動物園とその周辺の思い出
私の歴史散歩こと始め
獅子文六の『南の風』と「江田どんの屋敷」
島津家と江田家のつながり
鹿児島市電 上町線の思い出
  真夏の畑
   
タランドさんからいただいたエッセイ
Good Old Days and People
 

父の遺骨箱と大叔父の涙   クマタツさん  2011年9月

 父の戦死(42才のときフィリピンで戦死)の公報が届いたのは、幼かった私ははっきり覚えていないが、父の先輩の手記によると昭和24年だったということである。まだ疎開先の上東郷村(現在さつま川内市東郷町)に留まっている時である。

 微かな記憶を引き戻せば、戦死の公報があったことで遺骨を引き取りに向かった先は現在、県立短大などになっている伊敷の練兵場跡だったと思う。母と私の他に誰が一緒に行ったのか覚えていないが、遺骨を渡されて長男の私が胸に抱いて帰った。ただ大きくなってから聞いたところでは小さな位牌が入っていただけだったそうだ。当時の地図で見ると伊敷電停だったと思うがそこで電車を待っていると、通りがかりの人々が静かに頭を垂れてくださったのを、子供だった私もはっきり覚えている。

 葬儀は我が家の疎開先の東郷ではなく鹿児島の泉町にあった叔父(父の弟)の家であった。父方の親戚がほとんど鹿児島市に住んでいたからだったのだろう。その日は沢山の方の弔問があったことを覚えているくらいである。

 ただ物心ついた頃になって母に葬儀の日のことを聞かされて私自身今でもそのことを思い涙ぐむことがある。それは西田の叔父さん(私たちの大叔父で父方祖母の末弟)のその日のことである。大叔父は西田本通で内科医であったが、私たち子供には雲の上の存在みたいな人で、西田に行くときは、服装を整え、爪もきれいに切って緊張して行くくらいの威厳のある人だった。親戚一同も畏敬の念をもって接していた。

 その大叔父から母に「鈴(母の名前)どん、遺骨箱には何か入れる物はなかったや」という問いかけがあったそうだ。そこで母が「出征前に爪を切って残しておいやしたが・・・」と答えたところ、それを聞いた大叔父がハラハラと涙を流したそうだ。それを見た母は父が大叔父にとっても私たちの父が大事な甥っ子であったのだと思い改めて涙が出て止まらなかったそうだ。

 その後もそのことは母から何回か聞かされたが、あの威厳に満ちた大叔父が父のために涙を流した思いを考えると戦争のむごさを改めて思う。

 小さい頃は正直少し怖かった大叔父ではあったが、私たち家族が病気になれば駆け込むところであったし、母は姉たちの結婚のことなども一番に相談や報告に行っていた。私も銀行に就職したときに保証人になってもらったが、その頃には大叔父が私を大人として扱ってくれた。本当は気持ちのやさしい大叔父だったのだと今更ながら思う今日この頃である。

 大叔父の墓も我が家の墓と近いので墓参のたびにお参りしている

この文章を書かれたクマタツさんは「わたしのブログ」というブログを運営しておられます。

鹿児島の伊敷の第四十五連隊
 豊増哲雄『古地図に見るかごしまの町』(春苑堂出版、1996年3月)に伊敷の第四十五連隊についてつぎのような記述が載っています。

「連隊は明治二十九年に創設され、三十年三月、新築の伊敷兵営に移ってきた。
           (中略)
 昭和二十年戦争に負け、校舎を焼かれた旧一中、米軍に校舎を接収された旧二中の生徒たちは、焼け残った伊敷の兵舎をしばらくの間、校舎として使用した。旧兵舎には県立工業専門学校や外地引揚者の収容施設もあったようだ。
 旧兵営跡には現在は玉江小学校、県立短大、整肢園、高等看護学校などがあり、兵営だった面影はわずかに正門(旧営門)とその近くに残る楠の巨木、兵営を取り囲んでいた石塀がところどころに残っているだけである。また、ひろびろとした練兵場の跡も、鹿児島西高校、自動車練習場、養護学校、伊敷中学校、県や市の住宅地などに変わり、大きな文教区ともなっている。
旧日本陸軍の第六師団歩兵第四十五聯隊と練兵場
鹿児島市街地図(栄文館書店、大正10年7月)

 下に転載いたしますクマタツさんの文章は、前掲の「父の遺骨箱と大叔父の涙」と同じくクマタツさんが書かれたもので、戦争の悲しさ、酷さを記したとても印象深い内容のものであり、併せて一緒に読んでいただきたいと思います。

戦死した父と花瀬望比公園  クマタツさん 2008年8月

 手許に1枚のコピーがある。昭和44年10月18日発行の鹿児島銀行の“旧友会報”第3号とある。義兄が同行に勤務していて手に入れたものを、コピーしてもらったものだ。私たちの父もその昔、鹿児島銀行の前身である第百四十七銀行に働いていたが召集されフィリッピンで戦死した。

 その父との思い出を“旧友会報”に書いてくださったのが父の少し先輩であるK.Nさんである。「故情の記」と題して友人、同僚3人のことを書いておられる。その中の父の項は次のような文章で始まっている。少し長くなるが引用してみる。

 E.K(亡父の姓名です)君もわすれ難い銀行の人である。昭和19年の初冬二度目の応召で西駅頭に君を送った日、陸軍少尉の軍服姿りりしく勇躍出征の途についた君をほうふつとして今でも憶い出すのである。戦争は明らかに末期的症状を呈していた。
      (中略)
 門司駅に集合、多分満州に渡る部隊に編入されるだろうくらいの情報しか分かっていなかった。その後、フィリッピンに転進したらしいという風の便りを聞いたきり消息は絶えた。後日談ではルソン島をあちらこちら追われ、衣も食も不自由の中に戦死したらしい、昭和24年戦死公報の白木の箱は一片の位牌しか入っていなかったそうだ。
      (中略)
 昭和42年11月、比島遺骨収集団が結成され、鷹野頭取が渡島されると聞き、E.K君の霊前に線香を、また奥様から好きであった煙草を供えて頂いた。
      (中略)
 忘れもしない年も迫った12月29日の朝、師走の空には珍しい晴れた日和、遺骨を出迎えるべく私は埠頭に立っていた。海釣りの好きだった君は、思いもかけずかって親しんだ海から還って来た。冬の朝の柔らかい陽の光りが地上をぬくめ、風をいたわり凪の静かな海面の小波は夢に描いた故山の風物に「今、戻した」と囁きかけているようだった。「おやっとさあ、Eさん(亡父の名前です)」 自衛隊の吹くラッパも物哀しく、弔銃の響きも哀しかった。
       (中略)
 越えて4月20日、これらの遺骨は本土の南端開聞山麓花瀬海岸の砂丘に場所を得て、永遠の眠りに就いたのである
(比島戦没者慰霊碑が建立され、「花瀬公園」から「花瀬望比公園」に改称)
       (中略)
 その埋骨の日、鹿銀旧友会を代表してはからずも私は式に参列した。同君とのつきせぬえにしに感謝した。その日はのどかな晩春の日和で春蝉が松の木の間に鳴き、浜辺の潮騒は海上千九百キロの比島に語りかけているようだった。花束を長方形の墓石の周囲に捧げて感慨深く黙祷した。この一瞬に万物は無に帰し、君が踏んだ土の感触の暖からむことを祈るのだった。

 私は始めてこの文章を読んだとき涙がとめどもなく出て、なかなか先に進めなかった。そして何回も読み返した。亡くなった父のことをこんなにも想い、しかも名文で偲んでいただける方がおられたなんて、私たち遺されたものにとって最高の贈りものである。

 その昭和42年から43年頃、私は北九州に住んでいて母からの便りでそのことは知ってはいたが、慰霊祭の行われた花瀬望比海岸に行くことは叶わなかった。やっと行けたのは、鹿児島に帰り仕事を始めて少し落着いてからのことである。43年からはかれこれ20年近く経っていた。その時のことで一番印象に残っているのは、遥かな海の向こうのフィリッピンを眺望する“母と子の像” であった。そこに自分たちの姿とりわけ母の想いを強く感じた。それから何回か行ったがいつも同じ思いである。ここには、フィリッピン方面での戦死者47万6千有余の御霊が祀られており、1,900Kmの天空の先を望んでいる。

そんな花瀬望比海岸に思いもかけない映画のスクリーンで出会った。

 私たちの男声合唱団楠声会が劇中歌を歌った「北辰斜めにさすところ」の映画の中である。この映画は鹿児島大学の前身である旧制第七高等学校造士館が中心になっており、旧制七高、五高の対抗野球試合を通じての熱い想いが描かれている。この映画の中で私たちは「北辰斜め」と「楠の葉末」の二曲を歌っている。三国連太郎や緒方直人など芸達者な俳優陣が好演している。

 この冬、鹿児島でも封切られ私も観客の一人となった。映画の後半あたりだったろうか、三国連太郎扮する主人公が久しぶりに鹿児島を訪れ、あちらこちらまわるなかに、花瀬望比海岸が映しだされた。主人公が七高時代の先輩を偲ぶシーンである。“母と子の像”もしっかり映しだされた。

 映画のなかにひきずり込まれ、それまでも涙が滲みしかたのなかった私は、そのシーンを見てからは、自分の想いも重なり最後まで涙の乾くことがなかった。

 春の陽気に誘われて久しぶりに“花瀬望比海岸”に行ってみたくなった。
               
2008年8月発行の楠声会会報夏期号に掲載
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鴨池動物園とその周辺の思い出   クマタツさん 2011年12月

 我が家が疎開先から鹿児島市に帰ってきたのは、私が小学校3年生の昭和23年だった。武岡の下に家を借りて武小学校に転校し、卒業するまで全校生徒で行く3学期の“お別れ遠足”は決まって鴨池動物園だった。当時の鹿児島市内の小学校は、ほとんどが(全部?)そうだった。

 当時、鴨池電停で降りて、階段を下っていくと右側に海に向かって行く道路があった。海の反対側に少し歩くと子供向けの店が何軒もあった。鴨池動物園は海に向かって道路を隔てた右側にあり、いま降りた電車の軌道が動物園を横切っていた。つまり動物園の中の少し高いところを電車が走っていたのだ。動物園は電車軌道で二分されていたがガード下を通って向こう側に行くことが出来た。

 その動物園も戦災を恐れて戦時中に猛獣を殺してしまったという話も聞いたが、私の記憶では、ほとんどの動物がおり、象やキリンなどもいた。子供を楽しませるのにブランコや滑り台など遊具もあり、楽しい動物園だった。多分戦後も少しづつ落ち着いて充実してきたのだろう。

 動物園を右に見ながら進むと左側は野球場だった。現在もある鴨池市民野球場である。海がすぐ近くにあり、夏は海水浴場として大賑わいする場所だったので、球場の周辺には松の木が沢山あった。私たちの子供のころは高校野球はもちろん都市対抗野球も盛んでよく試合があった。鹿児島にもノンプロ野球のチームが「鹿児島鉄道管理局」「鹿児島市交通局」「鹿児島トヨタ」などがあったと記憶している。それらの試合を見るために特別無料観覧席? が用意されていた。それが、球場を取り巻くようにして生えていた松の木である。松の木には麦藁帽子をかぶった人が鈴なりになり、私もよくその中の一人になった。ほんとうに今では考えられない旧きよき時代でのことである。

 野球場側から国道225線を渡ると当時から今もある“錦江旅館”があり、その先には砂浜が広がっていた。その向こう側は波静かな錦江湾が広がり前には入道雲の下に桜島があった。こんな素晴らしい景観の海水浴場はそれまで見たこともなかった。もちろん飛び込み台や、監視員もいる市民海水浴場だ。夏休みになると、武町の自宅から、弟や友達と毎日のように鴨池海水浴場まで泳ぎに行った。貧乏な我が家のことだから、電車賃などもらえるわけがない。今となっては、どの道を歩いて行ったかほとんど記憶はないが、今考えてもあの照り付ける太陽をものともせず、相当な距離を往復ともよく歩いたものだと思う。その代償だったのか、夏休みの終わりごろになると、毎年のように“あっけ”(当時大人がそう言っていた。漢字で書けば“悪気”?)が入り、体調を崩してよく母や祖母に叱られたものだった。当時の“あっけ”は現在の“熱中症”ではなかったかと思う。

 
 中学2年で清水町に引越し、今度は磯の海水浴場がホームグラウンドになる。磯まで行くのに1957年(高校3年時)に鳥越トンネルが開通するまで、祇園の洲を廻って行くより我が家からは近道だった山越えで行ったものだ。

 それでも鴨池との縁が切れることはなかった。それは、入学したG高校が当時は野球が強く、私が高校2年時に学校として初めて春の“選抜高等学校野球大会”に出場するくらいの強豪校だったからだ。県の大会があるたびに、準々決勝くらいから全校応援になり、鴨池市民球場まで貸切バスで行った。私の色の黒さは海水浴と野球の応援で培われたものだと自負している。

鹿児島市観光案内図(鹿児島観光課・鹿児島市観光協会、1954年3月)
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私の歴史散歩こと始め  クマタツさん 2011年1月

 あることがきっかけで、身近にある史跡めぐり・歴史散歩を始めて4ヶ月になる。

 そのあることとは、私が五年ほど前から書き始めたエッセイで、戦死した父の遺骨を引き取りに行った幼いころのことを今のうちに書き残しておこうとしていろいろ調べ始めたことがその発端だった。父は銀行員だったが、その先輩の手記によると、昭和19年初冬の召集令状で2回目の出征をしている。満州に渡ったことまでは分っていたが、そこから先どうなったのか家族も知らなかった。そして終戦後復員する父を待つ我が家にもたらされたのは、20年6月1日フィリッピンのルソン島で、戦死したとの公報だった。

 その父の遺骨を引き取りに行った先が、幼かった私の記憶では、伊敷の練兵場跡だったのだが、そのとき電停で見知らぬ人が遺骨を胸に抱いた私に頭(こうべ)を垂れてくださったことが、未だに忘れられない。それをエッセイに書くのに今や廃線となって分らなくなってしまったその電停の名前を調べたいと思いネット上で調べる中で「鹿児島市電と街」に行き着いた。そこから「鹿児島市電の思い出」に行き“その当時の伊敷方面の地図”を発見して、私の探していたのが、「伊敷電停」だったことを知り、エッセイを完成することが出来た。そのホームページを主宰されているのが「やまももの部屋」の“やまももさん”だった。

 それがご縁で「やまももの部屋」やブログ「ポンコツ山のタヌキの便り」を訪問するようになった。やまももさんは幅広いコンテンツをお持ちで、その中に鹿児島の歴史も沢山取り上げておられる。特にあの「篤姫」放映時には毎週欠かさず精力的に記事を書かれており、今、さかのぼって記事を読んだ私自身大変勉強になったし、よく研究されその造詣の深さには教えられることが多い。

 そういうやまももさんの記事の中に、島津本家の墓地である福昌寺跡を訪ねられた記事があり、大いに興味を惹かれた。なぜなら、その福昌寺跡は私の母校G高校の裏にあり、なじみの場所であったし、また卒業アルバムにもそこで写った写真が掲載されているのだ。

 そこからの連想で当時私が住んでいた清水町の自宅のすぐ下にも島津墓地があったことや、また終戦後住んだ武町にもよく遊んだ“島津どんの墓”があったことを思い出し、それまで見過ごしていたそれらの島津墓地に大きな興味を持つことになる。一体それらはどういう歴史を持ち、どういう方が埋葬されているのか。

 福昌寺跡のことは「やまももの部屋」に詳しいが、島津家当主6代から28代までとその関係者まで多くの墓がある。ここには長い間行っていないので春になったら、久しぶりにゆっくり訪ねてみたい。

 次に清水町にある島津墓地である。中学2年(昭和28年)の途中から社会人になり鹿児島を出て行く昭和37年までその墓地のすぐ上に住んでいた。当時はただその存在を知るだけで島津家にとってどういう墓地なのか特別に考えたこともなかった。ただ島津家にとっても由緒ある墓所なのだなあと思ったことがある。それは、日向佐土原島津家の子孫、島津久永氏が、昭和天皇第五皇女清宮貴子内親王と結婚された昭和35年3月10日の後この墓地に参拝されたのをたまたま見かけたからだ。当日はいつも静かなその周辺に物々しい警備体制がしかれて何事かと思ったのだが、それはお二人の参拝のためだった。そして今回新たに興味を持ち調べてみると、島津家の菩提寺の一つ「本立寺」であり、島津家初代当主、忠久から5代貞久までの石塔であることが分った。ここも近々久しぶりに訪ねてみたい。

 三つ目は”島津どんの墓“である。私たち一家が疎開先から鹿児島市に帰ってきて、最初に家を借りて住んだ家は武岡の下にあった。当時の西鹿児島駅(現在の鹿児島中央駅)の西口から出て山に向かって歩くと左側に西郷公園(西郷屋敷跡)がある。その少し上の武岡に突き当たるところに“島津どんの墓”はあった。我が家の家主さんの隣接地にあり、石段を2箇所くらい登って行く広くて立派な墓地だった。私は子供のころ、この墓地でよく遊んだものだが、島津家のどなたが埋葬されているのか考えたこともなかった。


 ところが、今回現地を何回か訪ねたり、図書館に行ってしらべるなかで、60年ぶりにその全容を知ることが出来た。それによると、寿国寺(廃仏毀釈により明治2年廃寺)というお寺の跡にその島津墓地はあったのだ。現在は区画整理と新幹線開通などにより、その面影はなくなっているが、私の記憶や諸資料で判断すると新幹線トンネルと常盤トンネルの間に位置していたものと思われる。残念ながら現在それらがここにあったという記念碑など何一つ残されていない。こういう形で歴史はいつの間にか忘れられてしまうのだろうか。この墓地には四基の墓があり、「武郷土誌」に当時の墓石が写った写真が掲載されている。四つの墓石は、宝塔の墓に第二十代島津綱貴公の御夫人が「常照院殿」、第二十六代島津斉宣公後の御夫人が「蓮亭院」、六角柱の墓に第二十代島津綱貴公後の御夫人が「信証院殿」、五輪塔の墓に第二十代島津綱貴公の娘さんで松山飛騨守定英の奥様になられ、のち離別された方が「信解院」として埋葬されていたそうだ。ただこの四基とも前記事情により、現在は福昌寺跡に改葬されているとのことだ。これも福昌寺跡を訪れたとき確認してみたい。

 この“島津どんの墓”の北側に子供のころから"武の墓“と呼んでいた我が家の墓もあった広大な墓地があった。これも今回の調査で初めて知ったのだが
常盤トンネル入り口近くの「武小学校発祥の地」の石碑に刻まれ
た「笑岳寺跡」の文字
「笑岳寺墓地」と言うのが正式な名称だった。ここも現在は笑岳寺公園や住宅地となり、その多くの墓は武岡中学校の上の武岡墓地に改葬されている。

 実は子供心に覚えていた“島津どんの墓”を調べるなかで、そこが上記の墓とは分らず宮之城の佐志島津家の墓ではないだろうかと考えたことがあった。しかし「宮之城町史」を見ると佐志島津家の墓は笑岳寺墓地にあったと明記されている。(現在は東京都小平市に改葬されている)とすれば“島津どんの墓”はどなたの墓だったのかと調べるのに苦心惨憺したがこれが分ったときの嬉しさは何物にも代えがたいものだった。

 こうして歩いたり、調べたりする中で次第に身近な武岡、常盤、田上などにある史跡が目に入ってくる。それらを写真に撮ったり、分らないことを調べることで往時に思いをはせて一瞬タイムスリップする。私にとって至福のときであり、この歴史散歩の醍醐味である。しばらく止められそうにない。
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獅子文六の『南の風』と「江田どんの屋敷」   クマタツさん 2012年1月

 私が歴史散歩を始めて武岡や常盤の史跡をまわり、写真を撮り、図書館やネットでいろいろ調べ始めたころ、タイミングよく南日本新聞に一つの記事が掲載された。平成23年10月14日のことである。

 “特捜指令”「町名誕生100周年の常盤町で史跡めぐりをせよ」という記事で「千眼寺跡(薩英戦争本陣跡)」「常盤谷仮屋跡」「江田殿の屋敷跡」「水上の御仮屋跡(東・西客屋跡)」などが地図と写真と文章で紹介されている。

 上記の南日本新聞記事中の「江田殿の屋敷跡」については、私がこれまで得ていた情報が少なく、唯一「常盤町之史蹟」(昭和14年8月30日発行・鹿児島県立図書館蔵のコピー本)のなかで「長屋門」として紹介されていたのを知るだけだった。

 そこには、787番地にある江田氏の門は春日町にある旧川上氏の門と共に武家屋敷の長屋門として、鹿児島に二つより無い貴重なる建物である。尚、仝氏宅の庭園及び住宅は旧幕時代のまま保存されておるので、諸種の研究上参考となるべき点が甚だ多い、と記されている。ただこの記述も70年以上前のものであり、現在は一部石垣を除きその面影はない。

 さっそくその新聞を片手に再度それらの史跡をめぐり始めたが、大まかな地図であり、現地に表示のないものがほとんどのため、場所さえ特定できないものも多い。「江田殿の屋敷跡」もその中の一つで手がかりさえつかめない有様だ。

 そんな中、ネットサーフィンをしながら探していたところ、「薩摩の石組み」と言うサイトに行き当たり、そこに「江田邸屋敷跡」のことが紹介されており、この屋敷」のことが少し分ってきた。それによると、江田家は薩摩藩の中級武士の家柄で、安政4年(1857年)江田国雅は藩主斉彬のとき、御鉄砲奉行役、御使番役であった。約200年前に作られた江田邸は今はない。江田家は神当流馬術の師範家であったと言われ、当時の主座などの配置図は記録として残っている。現在、屋敷跡の確認は難しいが、水上坂沿いの僅かに残る石垣にその名残を見ることが出来る。(石垣に排水口がある)とあり、石垣の写真も写されていた。


   江田殿屋敷跡の石
 喜んだ私はすぐさま現地を再度訪れて、今度はそれを確認し、写真も写すことが出来た。そして自分のサイトにそのことを書いた。するとそれをご覧になった「やまももの部屋」のやまももさんから耳寄りな情報が寄せられた。古地図にみるかごしまの町」(春苑堂出版19「96年)に次のようなことが書いてあるというのだ。

 少し水上坂寄りのところに二百年前の武家屋敷『江田邸』があった。江田どんの屋敷と呼んでいたが、江田家は新番という中級武士の家格であった。薩英戦争、西南の役、太平洋戦争と三回も戦火にあった鹿児島では、二百年前からの家は大変貴重な珍しい建物であった。子孫の方が現に使用してこられたので、文化財指定や観光資源としての公開を嫌い宣伝することもなかった。獅子文六の小説『南の風』で主人公の親戚の家として登場する。(中略)惜しいことに数年前に取りこわされたと聞いた。

 これを見た私は、「南の風」をすぐにでも読みたいと思い、図書館で借りることなどを思い巡らしながら、何気なく我が家の本棚を見ると朝日新聞社発行の「獅子文六全集」が目についた。自分で買った覚えはないし、読んだ覚えもない。後で家人に聞くと40年くらい前に小倉の叔父宅が引越すときに、廃棄しようとしていたので、もらってきたとのこと。本好きの私が何故目にも留めなかったのか今でも不思議である。

 本棚には第一巻から第三巻までの3冊がある。これも後で調べたところでは十六巻発刊されている。私は祈るような気持ちで第一巻から目次を見た。すると第三巻の最後に「南の風」があるではないか。なんという幸運。よく見るとこの小説は昭和16年5月22日から11月23日まで朝日新聞に連載されたとある。私が生まれたのが、昭和15年だから私がよちよち歩きをしていたであろう今から71年前の小説である。なんとも不思議な縁を感じた。

 早速読み始めた私はすぐにでも「江田どんの屋敷」の描写のあるところにいきたかったが、ぐっと我慢して初めから読み進んだ。主人公は宗像六郎太という無為無能で、東京では「動かない置時計」と呼ばれているくらいの春風駘蕩とした非神経質な男である。母親は鬼頭院家という薩摩の名門の出身である。亡父は男爵だったが、郷里は鹿児島で、先祖は下級武士で祖父は足軽だったという設定である。物語は西郷隆盛の渡南説などもあり、奇想天外に展開するのだが、ここでは主要なことではないので割愛する。そんな六郎太に母春乃が薩摩武士の精神を教え込もうと妹康子も連れて三人で鹿児島を訪ねるところから、「江田どんの屋敷」をモデルにしたと思われる主人公の親戚の家が登場してくる。

 車は、舗装のできた広い路を、走りだした。白亜の堂々たる建築が、二つ三つ見えた。県庁とか市役所とかいう話だった。鹿児島も、相当な近代都市だと、思わせた。そのうちに、往来が狭くなり、家並みが低くなってきた。建築にこれという特徴がなく、潤いの欠けた、殺風景な印象を与えた。

 車は長い橋を渡った。甲突川という河だそうだ。やがて町外れの風景になって、山が両側に迫ってきた。ついに、車の駐まったところは、一軒家の、古色蒼然たる武家門の前だった。


 当時の鹿児島市には私たちが本駅と呼んでいた鹿児島駅と、西駅と呼んでいた西鹿児島駅(現在の鹿児島中央駅)の二つがあったが、小説の描写からすると、三人の親子は鹿児島駅に降り立ったことになる。その後、車から見えた景色や着いた場所などから、その親戚の家というのが、常盤町の「江田どんの屋敷」をモデルにしていたに間違いないと思われる。

 そこがお鹿さんの家だった。

「さ、どうかお入りやったもんせ」

 と、お鹿さんは、ボンヤリ佇立っている六郎太を、促した。

 彼はべつだん、遠慮をしたのではなかった。古いというよりも、今や、崩壊に瀕している門の柱や、扉や、苔蒸した瓦を、眺めていたのである。(中略)原形そのものを見たのは、これが初めてだった。

 門を入ると、砲塁のような石垣が、邸内を覗かせまいとするように、聳えていた。それに沿って曲がると、初めて、傾斜の上に、玄関が見えたが、家屋に達するには、三本の道があった。一つの石段は真っ直ぐに、玄関に達していた。もう一つの石段は、それに平行して、些か低く、内玄関のようなところへ、迂回していた。最後の道は、石も敷いてなく、植え込みと隔てて、勝手口へ行くらしかった。

 六郎太は、ともかく自分はお客さまだと思って、躊躇なく、第一の道を登った。 

 そのあと母親と妹は内玄関に続く第二の道を登ることになる。最初のが男道、次が、女道、三番目が出入りの商人や召使の道で、それを間違えたら、人間の道を踏み違えたほど笑われたものだったそうだ。その他にも、洗濯の盥(たらい)、物干し竿、洗面器も別、女は男より先に入浴しないなど薩摩の掟はいろいろあったが、これらは世上いわれているような男尊女卑の思想からではない、とこの小説には書かれている。

 六郎太一人が、靴を脱いだ玄関は、門に比べると意外なほど小さかったが、シンとして薄暗く、不思議な威厳があった。もし彼に芝居気があったら、“頼もう”という挨拶を、発したであろう。

 やがてお鹿さんが現れて、彼を奥へ、案内した。曲がり縁を、二度ほど曲がって、眼下に庭の見える、八畳の客間へ通ると、中廊下から、母親や康子も出てきた。

 そこで、また、改めて、長い挨拶が始まって、母親は、持参した土産物などを出した。それが済むとお鹿さんは、強いて六郎太を床の間の前へ座らせた。

(中略)ちょうど、時間は十二時半頃だった。かねて用意がしてあったとみえて、お茶の出た後に、すぐ食事になった。女中が高脚の膳を献げて、六郎太の前に、据えた。それはいいが、二度目に現れた時には、お鹿さんと二人で、ちゃぶ台を運搬してきた。母と娘とお鹿さんと、三人分の食事が載せてあった。

 六郎太一人が、殿様然として、蒔絵の膳の前へ座ってるのである。

「なんちゅてん、百七十年にもなりもすで・・・」

 とお鹿さんは、しきりに、屋敷が古く荒れ果ててることを、弁解した。


 これらは、極端なようであるが、男尊ということはあっても、女卑ではなく、人間の種類を分けるのに、男と女ではなく、殿様と家来の二つがあるということが基になっていたとのこと。今、考えると違和感を覚えるが、これが当時の考え方だったのだ。

 島津公が、江戸へ参勤交代の途次、この座敷で、休息したこともあった。(中略)間数は全部で十一間で、勿論平屋であるが、地位(じぐらい)が高い上に、さらに石留の盛土をして、土台ができている。その上に、廊下よりも座敷が、一段高くなっているので、そそっかしい者は、年中ケツまずくだろうが、すべてそうした設計の目的は、高きにいる武士の心を養わんがためである。床下に、悉く、厳重な柵を張ってあるのは、敵の間者が忍び込むのを、防ぐ用心である。広い屋敷に、押入れが一つもないのは、事ある時に、襖を取り払って、槍、長刀を自由に振わんがためである。―――というような説明を聞きながら、家の中を順々に歩いて行くうちに、六郎太は一抱えもあるような自然石の手洗鉢を見た。(中略)やがて、彼らは、下駄を履いて、門へ案内された。門といっても、長屋つきの武家門は、細長い家のようなものである。

 そこの部屋は、御一新以来使わないので、それこそ、狐狸が棲みそうだった。

「ここァ、物見部屋ごあすと・・・」武者窓に、簾が掛けてあって、窓際に床几が置いてあった。それに腰かけて、家の主人は、外を通る農夫や商人の片言隻句を聞いて、下情上通や、弾圧の緒(いとぐち)を捉えたのだそうだ。

 仲間部屋(ちゅうげんべや)は、いかにも寒そうな、三畳だった。その隣が駕籠部屋で、鼻を抓まれそうに、暗かったが、よく見ると、一台の塗駕籠が、寂然と置いてあった。封建時代の埃が、一寸ほども、積って・・・ 家そのものが、博物館のようで・・・。

 「南の風」における「江田どんの屋敷」の描写の部分は他にもあるが、大体これまでに書いてきたことに尽きる。

 私の読んだ「獅子文六全集 付録月報No4」(昭和43年8月)によると、当時(昭和16年)朝日新聞の学芸部次長をなさっていた先祖が鹿児島出身の後醍院良正氏が「『南の風』と文六さん」という文章のなかでこの小説を書いてもらうために担当者として交渉したことや、鹿児島弁にもいくらか、かかわったように書いておられる。そのほか、本巻には獅子文六が昭和16年2月に鹿児島に取材旅行に来て、南州神社の西郷さんの墓地の前で写った写真もある。

このあたりまで書いたところで、新聞記事の基になった常盤町の100周年記念の一環として発行された「常盤町名 誕生100周年 記念誌」を見るチャンスに恵まれた。

 町内会長の挨拶、鹿児島市長の祝辞に続いていきなり「常盤の武家屋敷跡(江田どんの屋敷の謂れ)と歴史の記録」という表題で前記「常盤町之史蹟」の編纂者 弟子丸 方吉氏(常盤出身)資料より という形で歴史と解説がある。

 この記述も初めて知ることも多く素晴らしいのだが、何よりも驚いたのは、立派な庭園に立つ紋付袴の主人と思わしき人を中心に全て和装の八人の男女が写った写真である。主人の頭にチョンマゲは見えないのでそういう意味では比較的新しいものかもしれないが、よくこのような写真が残っていたものだ。

 そしてもう一つあった。それは「江田邸の母屋」の見取り図である。「南の風」の描写では頭の中でも見取り図を描くことは出来なかったのだが、十一部屋、建坪84,35坪の全貌が表れたのだ。

 「江田どんの屋敷」を調べ始めてやまももさんからのご助言や一級の資料などにも行き当たり、一応の目途をつけることができた。尚、「鹿児島大百科事典」(南日本新聞社発行)の「江田邸」「武家屋敷」などでもこれらを裏付けることが出来た。
 
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島津家と江田家のつながり
 クマタツさん 2012年4月

 前に「獅子文六の『南の風』と『江田どんの屋敷』」について書いたが、島津家とその江田家のつながりにについて書いてみたい。言うまでもなく島津家は鎌倉時代以降、島津忠久を始祖とし代々薩摩他の守護となり、18代当主・島津家久からは薩摩藩主として七百年近く鹿児島の地を支配してきた。一方江田家は薩摩の武士だが身分は新番とよばれる中級武士だった。当然のことながら主従関係にあったのだが、そのつながりを調べてみようと思ったのは次のようなことがきっかけだった。

 いつも月曜日の南日本新聞に楽しみにしている連載記事がある。歴史作家・桐野作人の「さつま人国誌」で、2012年3月12日の記事は「島津綱貴継室・鶴姫」とある。読み進むと驚くべきことが書いてある。鶴姫とは誰あろう。なんとあの“松の廊下”で有名な吉良上野介義央(きらこうずのすけよしひさ)の娘が鶴姫と言い、島津家第20代当主・薩摩藩3代藩主の島津綱貴(1650~1705)の継室(後妻)だったというのだ。吉良家も名門ではあったが、大藩の島津家とは家格が違いすぎたため、鶴姫の弟で養子として米沢藩主になっていた上杉綱憲の養女という形で縁組したとのことだ。ときに綱貴26歳、鶴姫16歳だったという。しかし5年後の延宝8年(1680)子供が出来なかったからなのか離縁されてしまう。そのことが後に吉良家を巻き込んだ松の廊下刃傷事件や赤穂浪士の吉良邸討ち入りに島津家が関わらずにすむという結果になった。婚姻が続いていれば島津家もその渦に巻き込まれていたかも分らないというのだ。それを読んで私も天の微妙な配剤を感ずることだった。

 それより前、私が常盤散歩をするなかで、常盤谷御仮屋のことを調べたとき、この御仮屋が、島津綱貴の別邸であったことを知る。自分の住む近いところに綱貴公の存在があったことを知り、フリー百科事典・ウィキペディアで綱貴公のことを調べるなかで、ご夫人のことも調べてみた。そしてその中に「側室・お豊の方(家臣:江田国重の娘)」(鶴姫の離縁後は対外的に「継室」と称された)とある。常盤谷御仮屋と「江田どんの屋敷」は目と鼻の先の近さなのだが、その二つが私の頭の中で結びついた。なんと江田家の娘・お豊が綱貴公の側室の一人になっていたのだ。まさに晴天の霹靂である。

 そこで手許に借りていた「常盤町名誕生 100周年記念誌」を詳細に読み返してみた。すると同誌に昭和14年発行の「常盤町之史跡」の編纂者である弟子丸方吉氏の「常盤の武家屋敷跡(江田どんの屋敷の謂れ)と歴史の記録」という資料からの引用記事があり、「天保五年、江田国雅によって誌された、江田家、家譜によれば江田家の祖、国重は薩州阿多田布施邑の郷士、有馬千石衛門重次の二男であったが、江田重兵衛の俵米二十苞を買い求めて江田氏を姓とし、ついで貞享四年、藩主島津綱貴の命によって鹿児島城下士となった。これは国重の女於豊が貞享三年綱貴に召されたからであろう」とあり、間違いなく於豊は「江田どんの屋敷」の江田家の出であることが分かった。続けて「この女性は元禄七年には綱貴夫人となり五男五女あり、その息は花岡、垂水、宮之城、吉利、佐志の領主となっているほどである」とあった。

 「さつま人国誌」の綱貴公と鶴姫のことがきっかけで、継室の江田国重の娘・於豊のこともはっきりしたので、綱貴公の正室や継室、側室、またその子供たちのことを少し調べてみた。

 島津綱貴の正室は、常照院・鷹司松平信平の娘・米姫だったが1673年早世。

 それ以上のことは現在分からない。

 継室(後妻)として1676年に上記、吉良上野介の娘・鶴姫が入るが1680年には離縁されている。そのあと、1686年に召された信証院・江田国重の娘・於豊が1694年には夫人になる。それより前から側室として蘭室院・二階堂宣行の娘・お重もいた。米姫と鶴姫には子供は無かったが、お重の方と於豊の方の子供はどうだったのか。資料によってはあと一人側室がいたという説もあるが、その詳細は現在分からない。

 お重の方(二階堂宣行娘)との間には、四男一女があり、長男「吉貴(忠竹)」(1675~1747)は四代藩主になっている。

 一方於豊の方(江田国重娘)には、五男五女があり、三男 忠英は花岡島津家養子となり、当主となった。四男 忠道は島津久憲養子となり、垂水島津家八代当主 島津忠直となった。五男 久方は島津久洪養子となり、宮之城島津家七代当主 島津久方となった。六男 清純(1696~1724)は禰寝清雄の養子となり、吉利領主になっている。尚、禰寝家は後に小松家と改姓した。そしてこの小松家は後に肝属家から養子となり、幕末島津家家老として活躍した小松帯刀の家系である。七男 久東は島津久当養子となり、佐志島津家当主となった。

 また長女・亀姫(1690~1705)は関白近衛家久室。次女・栄姫(1698~1771)・松山藩主久松松平定英室となり、後に離別され剃髪して仏門に入り、信解院と号した。三女・奈百姫(1701~1719)は島津久智室、五女・剛姫(1703~1721)は桂久音室となっている。もう一人の女子は夭折したのか、詳細不明である。

 このように、江田国重の娘・於豊の方の子供は島津家藩主にこそなっていないものの、それぞれ名をなしている。

 それからもう一つある。それは以前エッセイ「私の歴史散歩」にも書いたことだが、綱貴公のご夫人・常照院殿(米姫)、継室・信証院殿(於豊)とその娘・信解院殿(栄姫)の3人が常盤の隣町である武町のいわゆる「島津どんの墓」(寿国寺跡にあったが、現在は区画整理と新幹線トンネルなどにより跡形もない)に埋葬されていた。この墓地には全部で4基しかなく、そのうち3基が綱貴公の縁者であり、しかもその中の2基は信証院殿・於豊その人とその娘・栄姫・信解院だった。たまたま常盤谷御仮屋と「江田どんの屋敷」から数百メートルしか離れていないが、それとは関係のないことだろうし、どう解釈すればよいのか。それを知るためには、島津家の当主以外の墓地の在り方を調べる必要があるようだ。もっとも上記区画整理等の事情により、現在はこのお三方を含めて4基とも福昌寺跡墓地に改葬されているという。

 こうして歴史の一つのヒントからいろいろなことを調べていくと、次々と新しい事実が浮かび上がってくる。だが今回も中途半端な究明に終わり、現段階で全てを解明することは、出来なかった。これが専門家ではない私の限界かも分からないが、あきらめずに取り組んでみたい。

 

参考資料
「武郷土誌」武小学校PTA郷土誌刊行委員会、昭和49年
「常盤町名誕生100周年記念誌」常盤町内会 平成23年
「江戸大名家系譜」ネット情報
「島津綱貴」フリー百科事典・ウイキペデイア   他

         

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鹿児島市電 上町線の思い出  クマタツさん 2012年6月

 最近の南日本新聞に鹿児島市電新設ルート案なるものが掲載された。その背景について、記事は概略次のように述べている。

 1995(平成7)年に鹿児島港ポートルネッサンス21事業推進協議会が策定した鹿児島港本港区ウオーターフロント開発基本計画で「かごしま水族館」の整備が位置づけられ建設された。その後近くにドルフィンポートも建設されて「海を生かしたまちづくり」の拠点として期待されたのだが、多くの誤算からそうはなっていないとの指摘もあり、集客について何らかの策を講じなければいけないとのことから今回の市電新設が検討されている、とある。

 こうした記事を見て思い出すのが子供のころから馴染んでいて、今や廃線となった上町線や伊敷線のことである。数十年の間に時代の要請で廃線になった路線もあれば新しく検討される路線もあるということだ。そして自分の年齢と時代の流れを感じる。
       

1962(昭和37)年に社会人となり他県に出て、20年を経て1981(昭和56)年に鹿児島に戻ってみると鹿児島市は大きく変貌していた。与次郎ヶ浜や谷山方面の海は埋め立てられ、産業道路なるものが新しく造られている。鹿児島市街地を取り巻く山という山は宅地造成されて、住宅地になってしまっている。人口は36万人が50万人に膨れ上がっている。鹿児島を留守にしたこの20年間がたまたま鹿児島のみならず、日本全体を大きく変えた時代だったと言うことか。つまり、東京オリンピック(1964年)を境に日本もモータリゼーションの時代に突入し、地方都市の鹿児島もその流れに抗することは出来なかったのだ。そして鹿児島に帰って間もなくの1985年9月30日上町線と伊敷線が廃線となる。帰ってきて一回も電車に乗ることがないうちの出来事だった。

 

『鹿児島路面電車の旅』(南日本新聞社、2002年5月)掲載の
 「懐かしい風景~伊敷・上町線」掲載の路線図より加工・転載

私の市電の思い出は清水町から大学通り(のちの工学部前)に尽きるのだが、なかでも上町線と呼ばれた清水町~市役所前は馴染みの深い路線である。


 1953(昭和28)年、中学2年生の2学期に武町から清水町に引越した私は3学期から清水中学校に転校することにして、約半年間上町線を利用して当時終点だった春日町から市役所前を通過し都通まで電車通学をすることになった。都通から歩いて15分くらいで現在の武小学校と同じ場所にあった武中学校に行くことが出来たのである。半年間ではあったが、当時の鹿児島では珍しい中学生で電車通学をするという経験をしたことになる。


 高校は私たちの学年までが完全校区制が敷かれていて、徒歩でいけるG高校に進んだ。その3年間はもちろん市電を利用することも少なかったが、ただ天文館にあった映画館に悪友と「永すぎた春」を学校を早退して見に行ったことがある。川口浩と若尾文子主演で現在の表現からすると他愛ないものだが、当時の私たちが、ちょっとどきどきする場面もあり、懐かしい思い出になっている。

 そして1958(昭和33)年春、大学に入学。当時の上町線は春日町~柳町~堅馬場~長田町~岩崎谷~大学病院前(昭和49年9月1日 私学校跡に改称)~市役所前という各電停であった。途中昭和36年4月1日私が4年生になる時に春日町が終点だったものが、数百メートル先の清水町まで延伸され終点となった。自宅から歩いて5分とかからない距離である。

 

岩崎谷の高架線上を桜島をバックに走る市電
しゅうさん撮影 85.9.29

 この上町線で忘れられない特徴的なことが二つある。一つは岩崎谷電停である。この電停は市役所前を出た電車が鹿児島駅の方向に直進せず、現在の鹿児島医療センター(当時の大学病院)の方向に左折して大学病院電停を過ぎて坂を登り鶴丸城跡と薩摩義士の碑を左に見ながら進み軌道専用線路に向かって大きく右折して少し進んだ築堤上にあった。そのためこの電停を利用する人は下の道路までの長い狭い階段を登り降りしていた。私はこの岩崎谷電停で乗り降りすることは一回もなかったので階段の形状など定かな記憶はない。ただ電車の上からは市街地や桜島が眺望できる市電の珍しいビュースポットだった。

 もう一つも岩崎谷に連なることであるが、逆の方からつまり清水町を出発して長田町を通り岩崎谷電停を過ぎた電車が、左に曲がって坂を下る前に運転士が運転席の右側にあった真鋳製のハンドブレーキをキリキリと音をたてて一旦停止をした後おもむろに坂を下っていた。これは急坂を下る前の当然の決まりだったのだろうが、なぜか50年前のことにも関わらず鮮明に覚えている。


 上町線の沿線の様子は電車が走っていた時代と現在では道路幅や車の通行量など大きく変わった。そしてこのところ歴史探訪で上町方面を数回歩き回って感じたことは、50年前まで住んでいて春日町や清水町の電停まで歩いた道路周辺は当時のことをよく知っているだけに、その変わりようは驚くばかりだ。清水町電停~春日町電停間の国道10号線は拡幅され、車が猛スピードで走り抜けるし、稲荷川に架かる戸柱橋の近くにあった銭湯「戸柱湯」は設計事務所になり、その先の「みその温泉」はスーパーになっている。ただ春日神社やその周辺の史跡はそのまま残されていて昔を偲ぶことが出来る。

 大学の4年間、清水町から工学部前まで電車通学をしたが、当時の定期券の一ヶ月の料金は310円だったと記憶している。蛇足ながら、授業料は年間9000円でこれを上期、下期に分けて一回4500円づつ納めていた。今考えると安い授業料だが、これを納めるために母子家庭の我が家では母が苦労していたのだろうと思う。そのため年間授業料と毎月の定期代は母に負担をかけたが、それ以外はいろいろなアルバイトで稼ぎ出していた。私はこの定期券を使って繁華街・天文館での遊びに、また通算で10人以上の子どもを相手にした家庭教師のアルバイトなどにフルに活用した。

 こうして市電は当時の私に欠くことの出来ない乗り物だったが、鹿児島に帰ってきて30年、車一辺倒の生活に染まり、電車やバスを利用することも皆無に等しかった。ところが、70歳になり「敬老パス」を支給されて、この3年バスを利用することが多くなってきた。おじさんコーラス練習のため週一回は必ず使用するし、それ以外の用事にも使用することが多くなってきた。市電にも数えるほどだが、乗ることもある。

 ただ、今回の市電新設ルート案五つを見ても上町線や伊敷線の復活などは全然検討されていない。私の願望としては、あの上町線が復活し、鶴丸城跡や薩摩義士碑を見ながらあの坂を登ったり降ったり、岩崎谷電停から桜島を眺めたりしてみたい。

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真夏の畑       クマタツさん 2009年8月

 今朝は5時半に起きて、妻と畑に向かった。畑と言っても犬迫の都市農業センターの一角にある市民農園を借りている6,7坪のものだ。ここは鹿児島市が市民のために開放しているもので農業研修ゾーン・市民農園ゾーン・ふれあいゾーンがあり、広場や動物広場、バーべキュー場など多くの施設が散在していて、子ども連れでも一日中楽しめる場所である。

   
都市農業センター全景と桜島    都市農業センターの菜の花


  私たちが借りている市民農園は家族用区画、団体用区画、車椅子使用者区画があり、使用期間は1年から3年である。賃借料は家族用区画で年間2400円(ただ2010年度の借り換え時期から3600円になった)である。2月ごろの「市民のひろば」に公募の知らせが出るので自分の希望する区画と年数を申し込めばよいが、希望者が多いと抽選になる。最近は希望者が多いと聞いている。借りる期間であるが、1年では4シーズンの植え付けから収穫までの一巡が経験できないので、最低でも2年をお勧めしたい。会計年度と同じで4月から翌年3月までが一年となるので、植えてみたい作物でも春植えのジャガイモなどは、一回も収穫時期がこないうちに、返納しなくてはならないのである。3年目には次の使用を申し込んでいても、同じ場所を継続して借りることは出来ないので、これも注意しなくてはならないし、返納の時は草一本残さず抜いて、きれいに耕して、指導員の検査を受けなければならない。

     
  借りて耕している農園(1) 借りて耕している農園(2)   借りて耕している農園(3) 


そいうなかで、私達は野菜を作り始めてもう7年目になる。真夏には涼しい時間に作業するようにしているので朝が早い。夏の畑は作物の出来も速いが、草の伸びも速いので気が抜けない。

ある日の収穫物

 65歳を目前に退職後のことも考えて、かねて草花作りの好きな妻と野菜作りでもしてみようかと思ったのがきっかけだった。とはいえ、それまで野菜作りどころか草花の水やりしかしたことのない私が、一念発起して農業の真似事をしていると知った姉妹たちからは「あなたがよくそういうことをするようになったね」と冷やかされる。実態は、畑での種まき、植え込み、肥料入れ、棚作りなど主要な仕事は妻がやる。私は市備え付けのレストハウスから鍬や如露バケツなどを運搬し、耕し、草取りをするのが仕事だ。その草が、肥料がよく効くのか野菜より成長し困ったものだ。草も地中に根を張るものが多く一週間も放っておくと草畑になってしまう。

今朝も黙々と草取りに励んでいると、センター内の広場にグラウンドゴルフに行く人々が通りかかった。ここでは皆、心も解放されているので、知らない人とも気軽に挨拶をし、声を掛け合うのが通例となっている。私がその人たちに「おはようございます」と声をかけ、草茫々の照れ隠しもあって「私が草の種を撒いたので、こげんおえっきもしたが」(私が草の種を撒いたものですからこんなに生えてきましたが)と言うと、その中のおじさんの一人が、「あたいが我が家い良か草の苗を作っちょっで、あげもんそかい」(私が我が家に良質な草の苗を作っていますからあげましょうか)と私の上をいく言葉が返ってきた。世の中には頓知の効いたことを言う人もいるものだと思い「後でもろけ行っもんが」(後で貰いに行きますが)と答えて、居合わせた皆で大笑いになった。

             
玉ねぎとレタスの栽培    キュウリの栽培      からいも(サツマイモ)の収穫   ヒット作物「四角豆」


 畑を始めてからの楽しみは、収穫の喜びはもちろんのこと、それまで知らなかった野菜の成長度や、特徴などを自然に覚え、次の年から少しづつでもその知識を役立てることが出来ることだ。当然のことながら、手入れすれば作物もそれに応えてくれるが、天候に左右されることも多く、広い田畑を耕作される本格農家のご苦労を身をもって知ることができる。

 畑の向こう3軒両隣の方々とも仲良くなり、お互いに作っていない作物や苗のやりとりをするのも楽しみの一つである。我が家のヒット作物は「四角豆」で南方系の豆のようだが、天ぷらにして食べると天下一品である。これは沢山の人におすそ分けしたり、種をあげたりで最近周りで作る人も多くなってきた。
 

真夏の畑は暑い。今朝も2時間と少しの作業で8時過ぎには、きゅうり、大葉、ピーマンなどを収穫して畑を後にした。



追記
( 2012年7月記)

 それほど情熱? を注いで一生懸命がんばってきた畑だったが、3年契約の一年を残して、この3月で返納した。というのは、このエッセイで書いているように畑作の中心になっていた妻が、所属し団長を務める“おかあさんコーラス”の団体が創立50周年を迎えてこの11月に記念演奏会や祝賀パーティを開催することになったからだ。


 そのため、練習日以外にも打ち合わせなどで外出することが多くなり、畑に時間をかけることが出来なくなってきた。そうであれば、私が一人ででもやればよさそうなものだが、私も「真夏の畑」に書いたようなありさまで、いささか疲れも出てきたので、又の日を期してここはしばらく休むことにしたのだ。                    

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Good Old Days and People
  寄稿者:タランド
 大村智教授のような人物がノーベル賞をとられたニュースは、むしょうにうれしく、しばし 憂さをわすれました。ふつうの大学で学び、ふつうの仕事をしていて、志を立てて大学院で学びなおして、おそらく凡人には想像もできないような奮闘と尋常でない努力の日々の上に、来るべくして来たhonourと思われます。大村教授は、卓越した経営者でもあり、絵画に造詣が深 く女子美大の理事長もされ、スキーの国体選手もしておられたようで、戦前生まれの日本人に は脱帽いたします。コンプレックスを感じますね。大村先生は80歳ですね。

 永年愛用の革製品の修理をしてもらうのに、紹介された店を訪れました。生真面目にその修理にあたってくれたその店のご主人は、大正14年生れの90歳の方でした。一日、立ったままで、いろいろな細かな道具をつかいながら自信を持って修理に当たる職人さんには、お年を感じさせないものがありました。ある世界的に名の通ったブランドのベルトでしたが、金具の不具合を、そのブランド専門店でも手におえず、デパートで相談してもだめでした。

 同じブランドの結構な値の万年筆の修理を前にそのブランド店でたのんでも断られたことがありました。一般に物を売ることには熱心でも、アフターサービスには熱心ではない時代なのですかね。かつてこわれたメガネをどのメガネ屋に持って行っても、メーカー送りといわれ、ある店の、都会の専門学校で学んだという店主が同じことを言った時、うしろにいたご隠居が瞬時に工具一つで直してくれたエピソードをまたまた思い出しました。

 あるブランドの靴を何度も修繕してもう30年も履き続けていますが、革製品にしろ、メガネにしろ、壊れた商品を瞬時にその場で修繕してくれるような方々のいる店こそをブランド店と呼びたいですね。東京の大丸には、昔万年筆をすぐ直してくれる職人さんがおられたのですが、昔の光いまいずこ? その方もかなりのお年の風格のある方でした。大村先生やこういう方々がブランド日本人ですよね。

 大村教授とほぼ同年輩のS先生のお宅を訪問する機会がありました。先生のお宅は小生が住んでいる家と大体同じ大きさですが、敷地は倍くらいありました。築年数は先生のお宅の方が古く、材木を探すのに1年、建てるのに2年かけて、やはり釘は一本も使わずに建てたというお話を伺いました。よく手入れされ、十二分のメインテナンスの賜でしょう、新築のようにピ カピカでした。小生方は、メンテはまるでゼロ、くわえて「東北」以降、家とか物に対する考えが180度変わってしまいましたので、ほったらかしにしてきました。ご夫婦は、畳一枚一枚、柱一本一本を掃除するともうへとへとになると言っておられましたが、家ひとつをとりましても、愛情をもって日々接するかどうかで、これほどの違いが年月とともに生ずることを目の当たりにいたしました。
                                                     2015年10月18日
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