鹿児島市電 上町線の思い出 クマタツさん 2012年6月
最近の南日本新聞に鹿児島市電新設ルート案なるものが掲載された。その背景について、記事は概略次のように述べている。
1995(平成7)年に鹿児島港ポートルネッサンス21事業推進協議会が策定した鹿児島港本港区ウオーターフロント開発基本計画で「かごしま水族館」の整備が位置づけられ建設された。その後近くにドルフィンポートも建設されて「海を生かしたまちづくり」の拠点として期待されたのだが、多くの誤算からそうはなっていないとの指摘もあり、集客について何らかの策を講じなければいけないとのことから今回の市電新設が検討されている、とある。
こうした記事を見て思い出すのが子供のころから馴染んでいて、今や廃線となった上町線や伊敷線のことである。数十年の間に時代の要請で廃線になった路線もあれば新しく検討される路線もあるということだ。そして自分の年齢と時代の流れを感じる。
1962(昭和37)年に社会人となり他県に出て、20年を経て1981(昭和56)年に鹿児島に戻ってみると鹿児島市は大きく変貌していた。与次郎ヶ浜や谷山方面の海は埋め立てられ、産業道路なるものが新しく造られている。鹿児島市街地を取り巻く山という山は宅地造成されて、住宅地になってしまっている。人口は36万人が50万人に膨れ上がっている。鹿児島を留守にしたこの20年間がたまたま鹿児島のみならず、日本全体を大きく変えた時代だったと言うことか。つまり、東京オリンピック(1964年)を境に日本もモータリゼーションの時代に突入し、地方都市の鹿児島もその流れに抗することは出来なかったのだ。そして鹿児島に帰って間もなくの1985年9月30日上町線と伊敷線が廃線となる。帰ってきて一回も電車に乗ることがないうちの出来事だった。
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『鹿児島路面電車の旅』(南日本新聞社、2002年5月)掲載の
「懐かしい風景~伊敷・上町線」掲載の路線図より加工・転載 |
私の市電の思い出は清水町から大学通り(のちの工学部前)に尽きるのだが、なかでも上町線と呼ばれた清水町~市役所前は馴染みの深い路線である。
1953(昭和28)年、中学2年生の2学期に武町から清水町に引越した私は3学期から清水中学校に転校することにして、約半年間上町線を利用して当時終点だった春日町から市役所前を通過し都通まで電車通学をすることになった。都通から歩いて15分くらいで現在の武小学校と同じ場所にあった武中学校に行くことが出来たのである。半年間ではあったが、当時の鹿児島では珍しい中学生で電車通学をするという経験をしたことになる。
高校は私たちの学年までが完全校区制が敷かれていて、徒歩でいけるG高校に進んだ。その3年間はもちろん市電を利用することも少なかったが、ただ天文館にあった映画館に悪友と「永すぎた春」を学校を早退して見に行ったことがある。川口浩と若尾文子主演で現在の表現からすると他愛ないものだが、当時の私たちが、ちょっとどきどきする場面もあり、懐かしい思い出になっている。
そして1958(昭和33)年春、大学に入学。当時の上町線は春日町~柳町~堅馬場~長田町~岩崎谷~大学病院前(昭和49年9月1日 私学校跡に改称)~市役所前という各電停であった。途中昭和36年4月1日私が4年生になる時に春日町が終点だったものが、数百メートル先の清水町まで延伸され終点となった。自宅から歩いて5分とかからない距離である。
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岩崎谷の高架線上を桜島をバックに走る市電
しゅうさん撮影 85.9.29 |
この上町線で忘れられない特徴的なことが二つある。一つは岩崎谷電停である。この電停は市役所前を出た電車が鹿児島駅の方向に直進せず、現在の鹿児島医療センター(当時の大学病院)の方向に左折して大学病院電停を過ぎて坂を登り鶴丸城跡と薩摩義士の碑を左に見ながら進み軌道専用線路に向かって大きく右折して少し進んだ築堤上にあった。そのためこの電停を利用する人は下の道路までの長い狭い階段を登り降りしていた。私はこの岩崎谷電停で乗り降りすることは一回もなかったので階段の形状など定かな記憶はない。ただ電車の上からは市街地や桜島が眺望できる市電の珍しいビュースポットだった。
もう一つも岩崎谷に連なることであるが、逆の方からつまり清水町を出発して長田町を通り岩崎谷電停を過ぎた電車が、左に曲がって坂を下る前に運転士が運転席の右側にあった真鋳製のハンドブレーキをキリキリと音をたてて一旦停止をした後おもむろに坂を下っていた。これは急坂を下る前の当然の決まりだったのだろうが、なぜか50年前のことにも関わらず鮮明に覚えている。
上町線の沿線の様子は電車が走っていた時代と現在では道路幅や車の通行量など大きく変わった。そしてこのところ歴史探訪で上町方面を数回歩き回って感じたことは、50年前まで住んでいて春日町や清水町の電停まで歩いた道路周辺は当時のことをよく知っているだけに、その変わりようは驚くばかりだ。清水町電停~春日町電停間の国道10号線は拡幅され、車が猛スピードで走り抜けるし、稲荷川に架かる戸柱橋の近くにあった銭湯「戸柱湯」は設計事務所になり、その先の「みその温泉」はスーパーになっている。ただ春日神社やその周辺の史跡はそのまま残されていて昔を偲ぶことが出来る。
大学の4年間、清水町から工学部前まで電車通学をしたが、当時の定期券の一ヶ月の料金は310円だったと記憶している。蛇足ながら、授業料は年間9000円でこれを上期、下期に分けて一回4500円づつ納めていた。今考えると安い授業料だが、これを納めるために母子家庭の我が家では母が苦労していたのだろうと思う。そのため年間授業料と毎月の定期代は母に負担をかけたが、それ以外はいろいろなアルバイトで稼ぎ出していた。私はこの定期券を使って繁華街・天文館での遊びに、また通算で10人以上の子どもを相手にした家庭教師のアルバイトなどにフルに活用した。
こうして市電は当時の私に欠くことの出来ない乗り物だったが、鹿児島に帰ってきて30年、車一辺倒の生活に染まり、電車やバスを利用することも皆無に等しかった。ところが、70歳になり「敬老パス」を支給されて、この3年バスを利用することが多くなってきた。おじさんコーラス練習のため週一回は必ず使用するし、それ以外の用事にも使用することが多くなってきた。市電にも数えるほどだが、乗ることもある。
ただ、今回の市電新設ルート案五つを見ても上町線や伊敷線の復活などは全然検討されていない。私の願望としては、あの上町線が復活し、鶴丸城跡や薩摩義士碑を見ながらあの坂を登ったり降ったり、岩崎谷電停から桜島を眺めたりしてみたい。
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