田中一村の絵画との出会い | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
だが、実際に田中一村の絵画の実物に接することが出来たのは2002年のことであった。2001年9月に鹿児島県の奄美大島に「奄美パーク」がオープンし、同パークの中核施設として奄美の自然と歴史・文化を紹介した「奄美の郷」とともに「田中一村記念美術館」も開館し、田中一村の作品が展示されることになったからである。翌年の2002年の秋、私は機会を得て奄美を訪れ、その際に「田中一村記念美術館」で一村の絵画の実物を鑑賞することが出来た。 実物をじっくりと見ることにより、あらためて一村の絵画の大胆さと繊細さの見事な調和に心を打たれた。また、この画家は奄美で「田中一村」になったことがよく分かった。すなわち、彼は前から優れた一流の画家であったが、本土の自然とは大いに異なる奄美の野生的な自然に魅せられ、それに触れ感応することにより、その美しさと魅力を表現するための大変な苦闘を経て新たな芸術的表現力を獲得し、他に比類なき「田中一村」になったことを、多数の展示作品を見ることにより大いに実感させられた。 |
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田中一村に魅せられる理由 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「一村に魅せられたじつに多くの人びと、それをひそかに一村病といっているのだが、その一村病にとりつかれた人々と変わらぬ付き合いを重ねてきたし、今もつづいている。田中一村ほど、各々が『自分のよく知っている画家である』とか、『自分の田中一村』と思っている画家はいないのではないか。例えば横山大観について、東山魁夷について、人びとがこれほど熱く語り合うことがあるだろうか。自分の身近な画家という捉え方こそ、一村の不思議な魅力であり、一村病なのであろう。」 私もまた「一村病」に罹った人間の一人と言えるだろう。そんな自分自身の「一村病」という不思議な病気について素人診断してみるに、一村の絵の素晴らしさに因ることは言うまでも無いが、それに加えて彼の画家としてのドラマチックな生き方もまた極めて重要な原因になっており、私の「一村病」の症状をさらに重いものにしているように思われる。 湯原かの子は、その著『絵のなかの魂 評伝・田中一村』(新潮社、2001年9月)のなかで、この異端の画家についてつぎのように紹介している。
その画業も人知れず埋もれ、忘れ去られようとしていたが、一村の芸術と生き方に魅せられたごくわずかの人々の尽力で、死後二年を経て初めて名瀬市で遺作展が開かれ、ようやく日の目をみた。さらに十九八四年、NHKの『日曜美術館』で一村の芸術と生涯を紹介した番組が放映されるや、全国で大きな反響を巻きおこし、以来、各地で開催された展覧会はいずれも好評を博したのだった。 生前はまったくの無名でありながら、死後十年足らずでこのように爆発的な人気を得た画家もめずらしい。日本画の伝統を超越してしまったような南国の動植物が織りなす幻想的な美と、貧に徹して己れの芸術に殉じた求道者ともいえる激しい生き方が、強く人々の心をとらえるからだろう。」 なお、一村が千葉市から奄美大島の名瀬市有屋に単身移り住んだのは彼が50歳のときのことである。一村は、東京から千葉市の千葉寺(チバデラ)に30歳(1938年)のときに移住し、それから20年間そこに住んでいた。その頃の千葉寺は、田園が広がり、竹薮や杉、栗の樹木が生い茂る自然豊かな農村地帯であったという。なお、この地の名前の由来となった千葉寺(センヨウジ)は、奈良時代に建立された古い寺だそうである。 しかし、1958年に奄美の亜熱帯の自然に魅せられた彼は、千葉に作り上げた生活基盤を全て投げ捨てて1958年に奄美の名瀬市に移り住み、大島紬の工場で働いて生活費を稼ぎながら奄美の自然を描き続けることになる。一村の奄美での創作活動のほとんどは、名瀬市有屋で借りたトタンぶきの家(六畳、四畳半に台所つき)をアトリエにして行われた。1977年9月1日、区画整理のために16年間住んだ家から立ち退いて近くに一軒家を借りたが、同年同月11日に心不全のためにその生涯を終えている。 なお、参考のために一村の略歴を紹介しておく。
「夏も終わりのころ、宮崎氏は奄美焼をたずねてきた若い写真家・田辺周一氏(現在栃木県在住)と笹倉氏を伴って、一村の借家を訪れた。 地からわくようなセミしぐれだった。縁先の五坪の菜園には、ナスやオクラ、カボチャやニガウリが勢いよく青空に向かっていた。風はとまり、トタン屋根は熱気を増幅していた。 一村は洗いざらしのパンツ一枚で絵筆を握っていたが、笑顔で迎え入れた。宮崎氏らはアイスクリームを持参してきて、一村にもすすめた。 宮崎氏は、田辺氏の写真の師である田中徳太郎氏が撮ったシラサギの写真集を一村に進呈した。一村はていねいにページを繰って眺めた。話題は絵の世界に移り、一村は手もとにあったピカソ画集を広げて、ピカゾの絵を語りはじめた。」 このとき、一村は新聞に載った東山魁夷の絵のカラー写真について厳しい批評を加えている。そんな一村の晩年の姿を田辺周一氏は写真に撮影しているが、田辺氏自身が「終生忘れることのできない感激」として胸深く残したというそのときの思い出も同書につぎのように紹介されている。 「このとき同行した田辺氏は、一村の姿を見て、夢中でシャッターを押した。写真家を志望する田辺氏の心の中のカメラアイが、何かを感じて、しきりにサインを送っていた。 しかし正面からの写真を一枚も撮れなかった。『一村さんの気迫のようなものを感じて、怖くてとても間近の正面写真を撮る勇気がありませんでした』という。田辺氏は一村とのこのときの出合いを、『終生忘れることのできない感激』として、今も大切に胸に納めている。」
なお、上記の文章に登場する田辺周一さんが「ニライカナイ 田中一村」というサイトを運営しておられ、同サイトにそのときのご自身が撮影された貴重な写真や一村との出会い等についての興味深いエピソードを紹介しておられる。左の写真も田辺周一さんがそのときに撮影されたもので、幸いにして田辺周一さんのご承諾を得てその縮小版を掲載することができた。 「ニライカナイ 田中一村」は、全国の「一村病」患者にとっては必見のサイトであろう。なお、このサイトに載せられている孤高の画家の晩年の姿を撮った貴重な写真をご覧になって、「一村病」の症状をますます重くされるかもしれない。そのことは前もって一言注意しておかねばならないが、ご覧になった場合の責任を当方は一切負わない。 |
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