田中一村と私
田中一村の絵画との出会い
NHK日曜美術館 黒潮の画譜
田中一村作品集
日本放送出版協会
1985年8月
 私が田中一村の絵画に強く惹かれたきっかけとなったものは、1995年に放映されたNHK教育テレビ「日曜美術館」の「奄美の杜・我が心に深く 田中一村の世界」であった。この「日曜美術館」でつぎつぎと紹介される田中一村の絵画に私は圧倒され、テレビの前に釘付けとなり、まさにこの番組のタイトル通り「我が心に深く」 田中一村の絵画世界が刻み込まれたのである。

 だが、実際に田中一村の絵画の実物に接することが出来たのは2002年のことであった。2001年9月に鹿児島県の奄美大島に「奄美パーク」がオープンし、同パークの中核施設として奄美の自然と歴史・文化を紹介した「奄美の郷」とともに「田中一村記念美術館」も開館し、田中一村の作品が展示されることになったからである。翌年の2002年の秋、私は機会を得て奄美を訪れ、その際に「田中一村記念美術館」で一村の絵画の実物を鑑賞することが出来た。

 実物をじっくりと見ることにより、あらためて一村の絵画の大胆さと繊細さの見事な調和に心を打たれた。また、この画家は奄美で「田中一村」になったことがよく分かった。すなわち、彼は前から優れた一流の画家であったが、本土の自然とは大いに異なる奄美の野生的な自然に魅せられ、それに触れ感応することにより、その美しさと魅力を表現するための大変な苦闘を経て新たな芸術的表現力を獲得し、他に比類なき「田中一村」になったことを、多数の展示作品を見ることにより大いに実感させられた。
 
田中一村に魅せられる理由
 
大矢鞆音『画家たちの夏』
(講談社、2001年5月)
大矢鞆音がその著書『画家たちの夏』(講談社、2001年5月)で「一村病」についてつぎのように書いている。

 「一村に魅せられたじつに多くの人びと、それをひそかに一村病といっているのだが、その一村病にとりつかれた人々と変わらぬ付き合いを重ねてきたし、今もつづいている。田中一村ほど、各々が『自分のよく知っている画家である』とか、『自分の田中一村』と思っている画家はいないのではないか。例えば横山大観について、東山魁夷について、人びとがこれほど熱く語り合うことがあるだろうか。自分の身近な画家という捉え方こそ、一村の不思議な魅力であり、一村病なのであろう。」

 私もまた「一村病」に罹った人間の一人と言えるだろう。そんな自分自身の「一村病」という不思議な病気について素人診断してみるに、一村の絵の素晴らしさに因ることは言うまでも無いが、それに加えて彼の画家としてのドラマチックな生き方もまた極めて重要な原因になっており、私の「一村病」の症状をさらに重いものにしているように思われる。

 湯原かの子は、その著『絵のなかの魂 評伝・田中一村』(新潮社、2001年9月)のなかで、この異端の画家についてつぎのように紹介している。

湯原かの子『絵のなかの魂』
新潮社、2001年9月
 「一九七七年(昭和五十二)九月十一日、奄美大島の僻村の粗末な家で、看取る家族もなく、ひっそりと六十九歳の生涯を閉じた日本画家である。幼い頃は神童といわれ、長じては天才画家と仰がれたが、生来の気性の激しさから画壇と相容れずに孤立。五十歳の年に、長く住んだ千葉をあとに、一大決心のもと、たった一人で南海の島に渡ってきて、以来、極貧の生活に耐え、孤独のうちに亜熱帯の動植物を描き続けた。画壇からは忘れ去られた異端の日本画家――。
 その画業も人知れず埋もれ、忘れ去られようとしていたが、一村の芸術と生き方に魅せられたごくわずかの人々の尽力で、死後二年を経て初めて名瀬市で遺作展が開かれ、ようやく日の目をみた。さらに十九八四年、NHKの『日曜美術館』で一村の芸術と生涯を紹介した番組が放映されるや、全国で大きな反響を巻きおこし、以来、各地で開催された展覧会はいずれも好評を博したのだった。
 生前はまったくの無名でありながら、死後十年足らずでこのように爆発的な人気を得た画家もめずらしい。日本画の伝統を超越してしまったような南国の動植物が織りなす幻想的な美と、貧に徹して己れの芸術に殉じた求道者ともいえる激しい生き方が、強く人々の心をとらえるからだろう。」


  なお、一村が千葉市から奄美大島の名瀬市有屋に単身移り住んだのは彼が50歳のときのことである。一村は、東京から千葉市の千葉寺(チバデラ)に30歳(1938年)のときに移住し、それから20年間そこに住んでいた。その頃の千葉寺は、田園が広がり、竹薮や杉、栗の樹木が生い茂る自然豊かな農村地帯であったという。なお、この地の名前の由来となった千葉寺(センヨウジ)は、奈良時代に建立された古い寺だそうである。

 しかし、1958年に奄美の亜熱帯の自然に魅せられた彼は、千葉に作り上げた生活基盤を全て投げ捨てて1958年に奄美の名瀬市に移り住み、大島紬の工場で働いて生活費を稼ぎながら奄美の自然を描き続けることになる。一村の奄美での創作活動のほとんどは、名瀬市有屋で借りたトタンぶきの家(六畳、四畳半に台所つき)をアトリエにして行われた。1977年9月1日、区画整理のために16年間住んだ家から立ち退いて近くに一軒家を借りたが、同年同月11日に心不全のためにその生涯を終えている。

 なお、参考のために一村の略歴を紹介しておく。

   田中一村略歴  
1908年 7月22日、栃木県下都賀郡栃木町に生まれる。  
1912年 東京市麹町に移る。  
1915年 7歳のとき児童画展で天皇賞を受賞。父親の米稲(彌吉)から「米邨」(べいそん)の号を与えられ、南画を描きはじめる。  
1921年 芝中学校に入学。栃木県佐野市の親類宅で何度か画会を開く。  
1923年 関東大震災で家を焼かれ、南画家の小室翆雲の屋敷の離れにしばらく身を寄せ、翠雲の蔵書中の趙之謙、呉昌碩等の南画を学び取る。  
1925年 東京市四谷区坂町に転居。この年発行の全国美術家年鑑(大正15年度版)に「田中米邨」の名前が掲載される。  
1926年 4月に東京美術学校に入学。しかし、3ヶ月足らずで退学。同年12月に田中米邨画伯賛奨会が開かれている。  
1928年 弟(三男)の実、母親のセイが相次いで逝去。  
1929年 従来描いていた南画の傾向とは異なる「富貴図」の絵を衝立に描く。その精緻な描写と濃密で華麗な彩色は、写意よりも写実を重んじる中国の院体画の影響を受けて描かれたもののように思われる。しかし、円山応挙に有名な「孔雀牡丹図」があるが、一村はどうも円山応挙のその絵から孔雀の姿を除いて太湖石と牡丹を写し取り、大胆にデフォルメして襖絵に描いたようにも思われる。  
1930年 数え年で23才のとき「蕗の薹とメダカの図」を描いて「本道と信じる絵」の道を進むことを宣言するが、支持者の賛同を得られず、これまでの支持者と絶縁。帯留め、根付け、木魚などの木彫によって生計を営み始める。しかし人から依頼されれば絵画も制作。  
1931年   遊印「自吾作古空群雄」を篆刻し「雁来紅図」右下に捺印  
1932年 東京市四谷区箪笥町に転居。  
1935年 父親の稲村、弟(四男)の明が逝去。  
1936年 東京市四谷区南寺町に転居。  
1938年 千葉市千葉寺に転居、姉の喜美子、妹の房子、祖母のスエとの4人で生活する。奄美に移住するまで同地に20年間暮らし、千葉寺周辺の田園の静かな四季の変遷を描き続ける。  
1943年 船橋市の工場に板金工として徴用されるが、体調を崩して闘病生活に入る。  
1947年 青龍展に「白い花」を出品し入選。画号を「一村」に改める。南画も再び描き始めるが、それらの南画には「倣蕪村」、「倣木米」、「倣鐵斎」といったように先達の作品を倣っていますということを明確にしている。  
1948年 青龍展に「秋晴れ」を出品するが落選。  
1953年 襖8枚に「花と軍鶏」を描く。後にこの絵の軍鶏は一村の自画像と評される。
日展に出品して落選。
 
1954年 日展に出品して落選。  
1955年 行き詰まりを打開し新たな画境を開くために九州、四国、紀州を旅行。  
1957年 院展に出品して落選。  
1958年 院展に2点出品して落選。50歳になった一村をして奄美大島への単身移住を決意させる。12月12月12日に鹿児島港から出港、翌13日に奄美の名瀬港に到着。  
1960年  5月に岡田藤助氏の襖絵制作依頼を受けて千葉に戻る。「紅梅丹頂図」に遊印「飢駆我」を押印。  
1961年  千葉で春頃に見合い、一時は結婚を決意。しかし弟の絵のために生涯を捧げてきた姉の喜美子の気持ちを思い自ら破棄。
奄美に戻り名瀬市有屋の借家に移り住む。
 
1962年  名瀬市大熊の紬工場で染色工をしながら絵画制作に励み、奄美での19年間に亜熱帯の自然を描いた30数点の傑作を生み出す。  
1977年 9月11日に心不全で倒れ、69歳で他界。  

 
晩年の田中一村とサイト「ニライカナイ 田中一村」
 ところで、1986年2月に道の島社から刊行された南日本新聞社編『アダンの画帖  田中一村伝』(後に小学館から再刊され、さらに『日本のゴーギャン 田中一村伝』と改題されて小学館文庫に収められて.いる)に晩年の一村を描いたつぎのような記述がある。
アダンの画帖  田中一村伝』
南日本新聞社編  道の島社
1986年2月25日初版


「夏も終わりのころ、宮崎氏は奄美焼をたずねてきた若い写真家・田辺周一氏(現在栃木県在住)と笹倉氏を伴って、一村の借家を訪れた。
 地からわくようなセミしぐれだった。縁先の五坪の菜園には、ナスやオクラ、カボチャやニガウリが勢いよく青空に向かっていた。風はとまり、トタン屋根は熱気を増幅していた。
 一村は洗いざらしのパンツ一枚で絵筆を握っていたが、笑顔で迎え入れた。宮崎氏らはアイスクリームを持参してきて、一村にもすすめた。
 宮崎氏は、田辺氏の写真の師である田中徳太郎氏が撮ったシラサギの写真集を一村に進呈した。一村はていねいにページを繰って眺めた。話題は絵の世界に移り、一村は手もとにあったピカソ画集を広げて、ピカゾの絵を語りはじめた。」

 このとき、一村は新聞に載った東山魁夷の絵のカラー写真について厳しい批評を加えている。そんな一村の晩年の姿を田辺周一氏は写真に撮影しているが、田辺氏自身が「終生忘れることのできない感激」として胸深く残したというそのときの思い出も同書につぎのように紹介されている。

「このとき同行した田辺氏は、一村の姿を見て、夢中でシャッターを押した。写真家を志望する田辺氏の心の中のカメラアイが、何かを感じて、しきりにサインを送っていた。
 しかし正面からの写真を一枚も撮れなかった。『一村さんの気迫のようなものを感じて、怖くてとても間近の正面写真を撮る勇気がありませんでした』という。田辺氏は一村とのこのときの出合いを、『終生忘れることのできない感激』として、今も大切に胸に納めている。」
晩年の田中一村
田辺周一さん撮影 

 なお、上記の文章に登場する田辺周一さんが「ニライカナイ 田中一村」というサイトを運営しておられ、同サイトにそのときのご自身が撮影された貴重な写真や一村との出会い等についての興味深いエピソードを紹介しておられる。左の写真も田辺周一さんがそのときに撮影されたもので、幸いにして田辺周一さんのご承諾を得てその縮小版を掲載することができた。

 「ニライカナイ 田中一村」は、全国の「一村病」患者にとっては必見のサイトであろう。なお、このサイトに載せられている孤高の画家の晩年の姿を撮った貴重な写真をご覧になって、「一村病」の症状をますます重くされるかもしれない。そのことは前もって一言注意しておかねばならないが、ご覧になった場合の責任を当方は一切負わない。




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