田中一村の遊印
田中一村が遺した遊印
 



田中一村の遊印
自吾作古 空群雄
 前ページに紹介した田辺周一さん運営のサイト「ニライカナイ 田中一村」には、「遊印とルリカケス」と題されたページがあり、そこに一村が遺した遊印(詩句・成語などを篆刻した印章)の写真とそれに関連する説明が載せられている。それで、田辺周一さんにお願いして、この貴重な遊印の写真の縮小版もまたここに転載させてもらうことができた( 2004年3月15日)。また、押印したものも3月27日に転載させてもらった。

 1977年9月11日に田中一村は69歳の生涯を閉じているが、遺品の中に「自吾作古 空群雄」(吾より古を作り、群雄を空しうす)と刻まれた遊印があったのである。

 
「飢駆我」の落款
渕脇元広氏所蔵
この「遊印」の「自吾作古 空群雄」という言葉について、私は中国の漢詩から引用したものに違いないと思った。例えば、南日本新聞編『アダンの手帖  田中一村伝』には、「飢駆我」(飢え我を駆る)という遊印が一村にあり、それが陶淵明の「乞食」(こつじき)という詩の冒頭の「飢来駆我去」に由来していること、一村はその遊印を幾つかの絵に落款として押していることが書いてある。

 私は、この「自吾作古 空群雄」という言葉も中国の有名な詩人の漢詩からの引用ではないかと推測したので、私なりにいろいろ調べてみることにした。「自我作古」という言葉は、小学館の『中国辞典』に「古いしきたりによらずに自分から道をひらくこと」との説明があった。では、一村は「自吾作古 空群雄」の七文字にどのような意味を篭めているのであろうか。いろんな辞書類を調べてみたが、残念ながら「自吾作古 空群雄」の七文字の成語を見つけ出すことはできなかった。

 それで、中国語版googleで「空群雄」をキーワードにして検索してみたところ、「自我作古空群雄」という言葉が載っている幾つかのHPがヒットした。そして、それらのHPの一つから、「自我作古空群雄」は呉昌碩の詩に出てくる言葉であることが判明した。呉昌碩(1844〜1927)は、清代末期から民国にかけて篆刻書画壇で活躍した人物で、その優れた業績はいまも高く評価されている。

 浙江大学文化素質網の「文化服務」のページの「人物風景」に「呉昌碩結社西冷」という文章が載っており(現在は消去されてしまったのか、検索できません)、そこに呉昌碩が刻印について詠んだというつぎのような詩が紹介されていた。

河内利治・北川博邦 共訳
東方書店、1990年


  贋古之病不可薬 紛紛陳ケ追遺踪
 摩娑朝夕若有得 陳ケ外古仍無功
 天下幾人学秦漢 但索形似成披窿
 我性疏闊類野鶴 不受束縛雕鐫中
 少時学剣未嘗試 輒假寸鐵駆蛟龍
 不知何物為正變 自我作古空群雄

 
詩の引用部分の後半で呉昌碩は自分のことに触れて「我が性は疏闊(緻密でない)にして野鶴に類し、彫鐫(彫刻すること)の中に束縛を受けず、少時に剣を学んで未だ嘗て試みざるも、輒ち寸鉄を假りて蛟龍を駆らん。知らず何者か正変と為すを、我より古を作して群雄を空しうせん」としている。

 この引用部分の大意を私なりに解釈すると、「自分の気性は野生の鶴のように荒々しく、刻印するときも自由気ままに行った。幼少の頃に剣を学んでも、実際に一度も試したことはないのに、短剣を用いて蛟龍を追いたてることを空想したものだ。そんな自分はなが正統でなにが正統でないかもよく分からないが、自分から古きものを作りだそうとし(正統で模範とされるものを自分から作りだすこと)、古今の優れた人々の業績にはとらわれない」という意味と思われるますが、このよう呉昌碩の詩に「自我作古空群雄」という言葉が出てくることが判明しました。

 呉昌碩の詩に「自我作古空群雄」という言葉が出てくることが判明したので、この詩について言及している呉昌碩関係の書物を調べてみたところ、呉昌碩の孫が書いた『わが祖父呉昌碩』(河内利治・北川博邦共訳、東方書店、1990年3月出版)の175頁に、呉昌碩が金石篆刻を論じた重要な作品として「刻印」という題名の長篇古詩のことが書かれており(同書では、1879年、呉昌碩が36歳のときに詠んだ詩と推定している)、同長詩の一部がつぎのように書き下し文にされて紹介されている。

「贋古の病は薬すべからず、紛紛として陳ケ遺蹤を追ふ。摩娑すること朝夕なれば得る有るが若く、陳ケも古を外にすれば仍ほ功無からん。天下幾人か秦漢を学べる、但だ形似を索めて疲窿を成すのみ。我が性は疏闊にして野鶴に類したれば、束縛を雕鐫の中に受けじ。少時剣を学びしも未だ嘗て試みず、輒ち寸鉄を假りて蚊竜を駆る。知らず何者か正変と為すを、我より古を作して群雄を空しうせん

 この『わが祖父呉昌碩』に書き下し文にして紹介されている「刻印」という呉昌碩の長編の古詩は明らかに浙江大学文化素質網の「呉昌碩結社西冷」で紹介されている呉昌碩の詩と同じものである。そうすると、「自我作古空群雄」は呉昌碩の古詩「刻印」のなかの句であると断定して間違いないであろう。なお、呉東邁著・足立豊訳『呉昌碩[人と芸術]』(二玄社、1974年)の48頁から49頁にもこの「刻印」という長詩の同じ部分が引用されており、52頁に載せられているその注には「缶廬集巻一、四頁および、缶廬詩巻一、四頁下にみゆ」とある。

 以上のようなことから判断するに、「自我作古空群雄」の七文字は呉昌碩の言葉であり、呉昌碩が「古いしきたや古今の優れた人々の業績にとらわれずに自ら道を切り拓く」意思が篭められているように思われる。そんな意味が篭められている言葉を踏まえて一村は自らの遊印に「自吾作古 空群雄」と彫ったのであろう。

 ところで、HP「楽しい書道」を運営しておられる書家で篆刻家でもある鵜飼龍一さんにお願いして、この一村の「遊印」についてのご見解をお訊きしたところ、つぎのような貴重なお返事をいただくことができた。

 「何事にも妥協しない一村の性格がよく現れていると思います。
 もともと、篆刻と言うのは方寸の世界と呼ばれており、四角い印材に文字を入れるのは、文字入れも比較的簡単だと思うのです。しかし、円いものや自然石風の印材に文字を入れるのは、文字を変形させなければなりません。つまり文字にどうポーズをとらせるのか。なるほど巧く収めているなと、見る人を感心させるように印面に文字を収めさせなければなりません。つまり、刻り手の感性の見せ所。刻る事は慣れるということで補えますが、文字をどう収めるかはその人のセンス或いは長年の鍛錬と言う事になります。
 そう言った個所が最後の『雄』あたりに感じるのですが、なかなかこんな風に文字を入れるのは難しいことです。また刻るのは技術と申しましたが、しかし集中しないとうっかり印面を損なう事も多々あり、やはりそれなりの気力というものを要します。私のように妥協だらけの人間にはとどかない高い境地にあるように思います。
 それから、遊印というものについてご質問がございましたね。ご承知かもしれませんが、落款印、引首印(冠帽印)、蔵書印等はそれぞれ目的を持っている印なのですが、遊印と言うのは自分の好きな言葉等を刻し、好きなように使って良いわけです。しかし画などは作品の右下に押し、画賛がある場合、賛の前には引首印を、賛の後ろには署名後に落款印を押します。書作品(特に篆書作品)などでは、最近考えられない個所に遊印を押している作品なども見受けますが。 
 一村の遊印! 変形印にしては認印等のような小判形をしており、少々風趣に欠ける訳です。一村がこの印をどのような場合にどのような目的に使用したのか? 単なる作品に添える印の目的以外に使用する可能性も? 作品に使用するのなら風趣に富んだ形をした印を選ぶのではなかろうか? 等々の疑問が当然生じてまいります。」

 さすがに専門家ならではの的確で鋭いご批評であり、またご指摘である。特に最後のご指摘は、素人の私などは全く気がつかなかったことである。そういえば、一村の画集に載っている南画などにもこんな小判型の印が押してあるものは見当たらない。

 田中一村は、呉昌碩の「自我作古空群雄」という言葉を踏まえて、彼自身の遊印に「自吾作古 空群雄」と刻し、過去にとらわれない新しい美の創造への自らの強い決意を示したと思われるが、そのような言葉を刻した遊印にはいろいろ興味深い問題が隠されているような気がする。
2004年3月28日  
呉昌碩と田中一村
 田中一村が19歳のとき(当時は米邨と号していた)、彼のために1926年12月に田中米邨画伯賛奨会が開かれている。興味深いことに、その趣意書に呉昌碩の名前が出て来る。この賛奨会の趣意書の文章の一部が南日本新聞社編『アダンの画帖 田中一村伝』に載っているので、下にそれを紹介する。
南日本新聞社編
『アダンの画帖 田中一村伝』

1995年に小学館から再刊

 「現下聖代の画壇に、各流派盛運を見るといえども、けだし南画をもって冠とす。これ東洋文化の精髄にして、本邦に伝わりしは徳川中期に過ぎざるも、遠くは支那の唐代におこり、連綿としてその真価は賞賛され、最近では西欧の画壇にさえその影響を与えている。しかし真の南画は、堂奥深遠にして凡者の至り得るところにあらず」
 「ここに奇跡ともいわんか。天賦の鬼才田中米邨画伯は未だ弱冠十九歳にして、巨匠呉昌碩の水準に及び、その画は神通自在、天馬空を走るがごとく、卓然として峙(そばだ)ち、見る者官展審査員といえども、皆舌を巻きて驚嘆す。真に不世出の天才児なり」
 「画伯姓は田中氏。名は孝。米邨その号なり。明治四十一年七月栃木県に生まれ、現今東京四谷に住す。年わずか未だ十九歳。今春中学校を卒業す。入学以来最優等各学年を通じて級長に推さる。資性剛直にして寡言沈着。画技の天稟なる六歳すでに専門家の筆致を凌ぐものあり。学業のかたわら画筆を親しみ、自ら支那宋元明清の名蹟を渉猟研究し、その画は筆刀遒勁(しゅうけい=つよい)。縦横にして画想秀れ自由奔放、趙之謙、呉昌碩らの妙を究めたり。しかもこれに参するに新時代の芸術思潮をもってなす。とうてい世俗の南画家らの比にあらず。また篆刻をよくし、つねに自刻の諸印を用う」
 「画伯今年四月東京美術学校に入学す。しかるに教授らも驚嘆していわく、この天才児すでに南画の妙域に達せり、何ぞ美術学校等の平凡課程を修するの要あらんや≠ニ。ここに於て退きて独自おおいに東洋絵画の淵源を探究して、さらに自家の新機軸を発揚せんともっぱら研究に没頭す。かくのごとき異材の前途や刮目(かつもく)すべし」


 上に紹介した賛奨会趣意書の文中に、当時の一村を賞賛するために「巨匠呉昌碩の水準に及び」「趙之謙、呉昌碩らの妙を究めたり」としているのが興味深い。また、賛奨会が開かれた年(1926年)の4月に東京美術学校に入学し、すぐに「退きて独自おおいに東洋絵画の淵源を探究」することになったとしているが、南日本新聞社編『アダンの画帖 田中一村伝』によると、「美校を退学した米邨は、南画で身を立てる決意を固めた。中国大陸に留学して南画の勉強をしようという夢があった。しかし、借家暮らしの一家の家計では、これもかなわぬ夢であった」とのことである。

 では、若き一村が賛奨会趣意書のなかで「巨匠呉昌碩の水準に及び」「趙之謙、呉昌碩らの妙を究めたり」と賞賛されていたのだが、その呉昌碩とはどのような人物なのであろうか。呉昌碩((1844〜1927))について平凡社『世界大百科事典』は、「名は俊卿、昌碩は字、号は缶廬(ふろ)」で、浙江省吉安県出身であり、「清末・民国初期の中国画壇における中心的存在である」とするとともに、「30歳ころから本格的に絵画創作を始めて以来、明の徐謂や明末清初に革新的芸術を樹立した石濤や大胆な筆致に富む趙之謙等の画風をよく吸収して竹石、山水をよくし、なかでも花卉(かき)画に独特の絵画を創造した。書画のほか詩文、篆刻もよくし、当代の第一人者といわれた。彼の芸術は中国ばかりでなく日本にも多くの愛好者がいた」と解説している。

 王家誠『呉昌碩伝』(村上幸造訳で二玄社から1990年に出版)は、王一亭(白龍山人)が日本の前首相の伊藤博文の目の前で彼の風采容貌を見事に紙上に描き出し、呉昌碩がその絵に一首の長い古詩を題したので、彼ら二人の名声が「昇る朝日のように日本人の心に輝かせることになった」というエピソードを紹介している。

 また、松村茂樹編『呉昌碩談論』(柳原出版、2001年)に載せられている譚少雲の「呉昌碩先生を憶う」と題された文章には、「日本人は王一亭の画に呉昌碩が題款(画賛)を書き入れた作をこの上なく好み、一時は大きなブームとなった」ことが紹介されている。また同書の鄭逸梅「一代の画師・呉昌碩」という文章は、呉昌碩の描くあでやかな花や果物に魅せられた多くの日本人たちが踵を接するようにしてやって来て注文するので、彼はそれに応じて版木で刷るようにどんどん描くことをいやがり、数人の弟子に自分の画をそのまま臨摸させ、呉昌碩が落款を書いたため、「だから昌碩の作品には、画がニセモノで題がホンモノというのが極めて多い」としている。

 呉昌碩は1927年に84歳で世を去ったが、1908年生まれの田中一村にとって呉昌碩は大きな存在だったと想像される。呉昌碩が他界する前年の1926年、19歳の一村(当時は米邨と号していた)のために開かれた田中米邨画伯賛奨会の趣意書には、「画技の天稟なる六歳すでに専門家の筆致を凌ぐものあり。学業のかたわら画筆を親しみ、自ら支那宋元明清の名蹟を渉猟研究し、その画は筆刀遒勁(しゅうけい=つよい)。縦横にして画想秀れ自由奔放、趙之謙、呉昌碩らの妙を究めたり」と書かれている。

青山杉雨『呉昌碩の画と賛』(二玄社、1976年)、
謙慎書道会編『呉昌碩のすべて』(二玄社、1977年)
  
 ところで、一村が遺した遊印を調べる中で、この遊印と呉昌碩との関連が判明したのであるが、その過程で入手した呉昌碩関係の書籍を閲読していて気がついたことがある。それら呉昌碩関連の書籍に掲載されている呉昌碩の絵が一村の10代後半(1925年〜1928年頃)のときに描いた南画によく似ているのである。勿論、呉昌碩が一村に似ているのではなく、一村が呉昌碩から非常な影響を受けていたから、両者の絵がよく似ているように感じられるのであろう。素人判断ながら、若い頃に一村が呉昌碩から受けた影響は計り知れないものがあるように私には思われる。

 しかし、一村が数え年て23歳になった1930年に、彼は南画の枠を踏み越えて新たな創造への道を歩みだそうと決意している。南日本新聞編『アダンの手帖  田中一村伝』には、一村が後年(1959年)、手紙に書いたつぎのような文章が紹介されている。

 「私は二十三歳のとき、自分の将来行くべき画道をはっりと自覚し、その本道と信ずる絵をかいて支持する皆様に見せましたところ、一人の賛成者もなく、当時の支持者と全部絶縁し、アルバイトによって家族、病人を養うことになりました。その時の作品の一つが、水辺にメダカと枯れたハスとフキノトウの図です。今はこの絵をほめる人もだいぶありますが、その時せっかく芽ばえた真実の絵の芽を涙を飲んで自ら踏みにじりました」

 その後、千葉寺時代(1938年〜1958年)、一村は「本道と信ずる絵」を目指して苦闘を続け、50歳のときに奄美に渡り、そこで一村ならではの独自の美を創り出すのである。

 しかし、彼が1977年11月11日に心不全のためにその生涯を終えたとき、遺された物のなかに呉昌碩の「自我作古空群雄」の句を踏まえて刻されたと思われる「自吾作古 空群雄」の遊印があったのである。このことは何を意味しているのであろうか。
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