田中一村が遺した遊印 | ||||||||
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呉昌碩と田中一村 | ||||||||
田中一村が19歳のとき(当時は米邨と号していた)、彼のために1926年12月に田中米邨画伯賛奨会が開かれている。興味深いことに、その趣意書に呉昌碩の名前が出て来る。この賛奨会の趣意書の文章の一部が南日本新聞社編『アダンの画帖 田中一村伝』に載っているので、下にそれを紹介する。
「現下聖代の画壇に、各流派盛運を見るといえども、けだし南画をもって冠とす。これ東洋文化の精髄にして、本邦に伝わりしは徳川中期に過ぎざるも、遠くは支那の唐代におこり、連綿としてその真価は賞賛され、最近では西欧の画壇にさえその影響を与えている。しかし真の南画は、堂奥深遠にして凡者の至り得るところにあらず」 「ここに奇跡ともいわんか。天賦の鬼才田中米邨画伯は未だ弱冠十九歳にして、巨匠呉昌碩の水準に及び、その画は神通自在、天馬空を走るがごとく、卓然として峙(そばだ)ち、見る者官展審査員といえども、皆舌を巻きて驚嘆す。真に不世出の天才児なり」 「画伯姓は田中氏。名は孝。米邨その号なり。明治四十一年七月栃木県に生まれ、現今東京四谷に住す。年わずか未だ十九歳。今春中学校を卒業す。入学以来最優等各学年を通じて級長に推さる。資性剛直にして寡言沈着。画技の天稟なる六歳すでに専門家の筆致を凌ぐものあり。学業のかたわら画筆を親しみ、自ら支那宋元明清の名蹟を渉猟研究し、その画は筆刀遒勁(しゅうけい=つよい)。縦横にして画想秀れ自由奔放、趙之謙、呉昌碩らの妙を究めたり。しかもこれに参するに新時代の芸術思潮をもってなす。とうてい世俗の南画家らの比にあらず。また篆刻をよくし、つねに自刻の諸印を用う」 「画伯今年四月東京美術学校に入学す。しかるに教授らも驚嘆していわく、この天才児すでに南画の妙域に達せり、何ぞ美術学校等の平凡課程を修するの要あらんや≠ニ。ここに於て退きて独自おおいに東洋絵画の淵源を探究して、さらに自家の新機軸を発揚せんともっぱら研究に没頭す。かくのごとき異材の前途や刮目(かつもく)すべし」 上に紹介した賛奨会趣意書の文中に、当時の一村を賞賛するために「巨匠呉昌碩の水準に及び」「趙之謙、呉昌碩らの妙を究めたり」としているのが興味深い。また、賛奨会が開かれた年(1926年)の4月に東京美術学校に入学し、すぐに「退きて独自おおいに東洋絵画の淵源を探究」することになったとしているが、南日本新聞社編『アダンの画帖 田中一村伝』によると、「美校を退学した米邨は、南画で身を立てる決意を固めた。中国大陸に留学して南画の勉強をしようという夢があった。しかし、借家暮らしの一家の家計では、これもかなわぬ夢であった」とのことである。 では、若き一村が賛奨会趣意書のなかで「巨匠呉昌碩の水準に及び」「趙之謙、呉昌碩らの妙を究めたり」と賞賛されていたのだが、その呉昌碩とはどのような人物なのであろうか。呉昌碩((1844〜1927))について平凡社『世界大百科事典』は、「名は俊卿、昌碩は字、号は缶廬(ふろ)」で、浙江省吉安県出身であり、「清末・民国初期の中国画壇における中心的存在である」とするとともに、「30歳ころから本格的に絵画創作を始めて以来、明の徐謂や明末清初に革新的芸術を樹立した石濤や大胆な筆致に富む趙之謙等の画風をよく吸収して竹石、山水をよくし、なかでも花卉(かき)画に独特の絵画を創造した。書画のほか詩文、篆刻もよくし、当代の第一人者といわれた。彼の芸術は中国ばかりでなく日本にも多くの愛好者がいた」と解説している。 王家誠『呉昌碩伝』(村上幸造訳で二玄社から1990年に出版)は、王一亭(白龍山人)が日本の前首相の伊藤博文の目の前で彼の風采容貌を見事に紙上に描き出し、呉昌碩がその絵に一首の長い古詩を題したので、彼ら二人の名声が「昇る朝日のように日本人の心に輝かせることになった」というエピソードを紹介している。 また、松村茂樹編『呉昌碩談論』(柳原出版、2001年)に載せられている譚少雲の「呉昌碩先生を憶う」と題された文章には、「日本人は王一亭の画に呉昌碩が題款(画賛)を書き入れた作をこの上なく好み、一時は大きなブームとなった」ことが紹介されている。また同書の鄭逸梅「一代の画師・呉昌碩」という文章は、呉昌碩の描くあでやかな花や果物に魅せられた多くの日本人たちが踵を接するようにしてやって来て注文するので、彼はそれに応じて版木で刷るようにどんどん描くことをいやがり、数人の弟子に自分の画をそのまま臨摸させ、呉昌碩が落款を書いたため、「だから昌碩の作品には、画がニセモノで題がホンモノというのが極めて多い」としている。 呉昌碩は1927年に84歳で世を去ったが、1908年生まれの田中一村にとって呉昌碩は大きな存在だったと想像される。呉昌碩が他界する前年の1926年、19歳の一村(当時は米邨と号していた)のために開かれた田中米邨画伯賛奨会の趣意書には、「画技の天稟なる六歳すでに専門家の筆致を凌ぐものあり。学業のかたわら画筆を親しみ、自ら支那宋元明清の名蹟を渉猟研究し、その画は筆刀遒勁(しゅうけい=つよい)。縦横にして画想秀れ自由奔放、趙之謙、呉昌碩らの妙を究めたり」と書かれている。
しかし、一村が数え年て23歳になった1930年に、彼は南画の枠を踏み越えて新たな創造への道を歩みだそうと決意している。南日本新聞編『アダンの手帖 田中一村伝』には、一村が後年(1959年)、手紙に書いたつぎのような文章が紹介されている。 「私は二十三歳のとき、自分の将来行くべき画道をはっりと自覚し、その本道と信ずる絵をかいて支持する皆様に見せましたところ、一人の賛成者もなく、当時の支持者と全部絶縁し、アルバイトによって家族、病人を養うことになりました。その時の作品の一つが、水辺にメダカと枯れたハスとフキノトウの図です。今はこの絵をほめる人もだいぶありますが、その時せっかく芽ばえた真実の絵の芽を涙を飲んで自ら踏みにじりました」 その後、千葉寺時代(1938年〜1958年)、一村は「本道と信ずる絵」を目指して苦闘を続け、50歳のときに奄美に渡り、そこで一村ならではの独自の美を創り出すのである。 しかし、彼が1977年11月11日に心不全のためにその生涯を終えたとき、遺された物のなかに呉昌碩の「自我作古空群雄」の句を踏まえて刻されたと思われる「自吾作古 空群雄」の遊印があったのである。このことは何を意味しているのであろうか。 |
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