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『ワイルド・スワン』を読んで
 ―同書に見るネポティズムと「個人主義」の問題について―


1.『ワイルド・スワン』とその作者について
2.中国の歴史的宿痾としてのネポティズム
3.張守愚のネポティズムに対する聖戦

4.張守愚の「公私混同」
5.中国共産党と「個人主義」
6.中国における「個人主義」の意味の変遷

                                

1.『ワイルド・スワン』とその作者について

 ユン・チアン(張戎)の『ワイルド・スワン』は、3代にわたる中国女性たちの記録である。1991年に英国で出版され、英国で最も権威のあるNCR文学賞のノンフィクション部門賞や英国作家協会のノンフィクション部門の年間最優秀賞を獲得。世界各国で翻訳されて評判を呼び、多くの読者を獲得してベストセラーとなった。日本では、1993年に講談社から土屋京子訳『ワイルド・スワン』上、下2巻が出版されて多数の読者を獲得、1998年には講談社文庫として上、中、下の3巻で出版されている。
 著者のユン・チアンは1952年に中国四川省の高級幹部の娘として生まれ、14才のときに文化大革命を経験、農村に下放後、四川大学英文科で学び講師となる。1978年に英国留学、言語学の博士号を取得。現在ロンドン在住。作者の優れた筆力と内容の実証的確かさがこのノンフィクションの価値を高めている。

2.中国の歴史的宿痾としてのネポティズム

 『ワイルド・スワン』に描かれた作者の父親・張守愚の形象は鮮烈な印象を読者に与える。特に、作者のユン・チアンが克明に描き出したネポティズム(縁者優先)と戦う張守愚の姿は、理念に生きた張守愚という人物のその理念を浮き彫りにする。

 なお、ネポティズム(nepotism)とは、カトリック教会の教皇が自分の子どもを甥と称して特権を与えたことに由来した言葉であるが、現在では地位を利用して自分の家族や親族に優先的にポストを与えたり事業を請け負わせたりするような身内びいき、縁者優先的行為を指す言葉として使用されている。

 このネポティズムは、中国において根強い社会的慣習となっており、非常な影響力を保持し続けてきた。米国の社会学者・オルガ・ラングは、1935年から1937年にかけて中国でおこなったフィールド・ワークのなかでそのことを痛感し1946年に発表した中国の家族と社会に関する研究書Olga Lang,Chinese Family and Society, Yale University Press, 1946)の中でつぎのように指摘した。

「ネポティズムは旧中国において他のどの地域とも比較にならないほど非常な影響力を発揮した。過剰人口と結合して、人員ばかりが多くて非効率的なことで悪名高い中国のビジネスと行政のオフィスを作り出したのである。中国が依然として孤立した農業社会のままであったときは、経営のこのような形態は許されただろう。どんな物事だってある"なんらかの"方式で運営されてきたが、それはそれなりに通用したのであり、中国の歴史のある特定の時代には上手く運営されたのである。しかし,中国が西洋化と産業化の道を歩み始めたとき、新しい状況が生じた。そのとき、ネポティズムは深刻な障害となり、中国人にさえそれはそのようなものと見なされ始めた。」
        
 しかし、誰の目にも中国の発展の障害と見なされるようになっていたネポティズムではあったが、オルガ・ラングがフィールド・ワークをおこなった1935年から1937年の中国社会においてもこのネポティズムは官庁、企業、研究機関の採用や人事などに依然として大きな影響力を保持しており、なんと1936年にベルリンで開催されたオリンピックの代表選手の選考においてさえも「ドイツに送られた人々は最高の競技選手たちではなく、影響力を有する関係者たちの親類たちであった」そうである。

 オルガ・ラングは、ネポティズムが中国の人々にとって根強い社会的慣習となっていることを示す例として、1936年にある大学生とつぎのような会話を紹介している。なお、質問は、その大学生が大学卒業後に有力な地位に就いたことを仮定しておこなわれている。

「あなたたちの遠い親戚がもし顔を見せ、なにか仕事が欲しいとあなたに頼んだとします。あなたはどうしますか?」
「私は彼に何か仕事を与えますよ」
「それで、もしあなたの兄弟があなたに援助を求めてきたら?」
「彼にはよい仕事を与えねばなりませんね。勿論、彼を低い地位で雇うなんてことはできませんよ。彼に先ほどの仕事より何かもっとよい仕事を与えねばなりませんね」

 さらに、提供できるポストは一つで、親類の人間とこれまで全く面識の無い人物の二人が求職者の場合はどうするのかとの質問に対し、その学生は親類の人間を選ぶとし、「どうして見知らぬ人に仕事を与えねばならないのですか」とさえ言っている。そして、その見知らぬ人間が親類の者より有能だとしてもそうするのかとたたみ込んで質問したとき、彼は困惑した様子で「どうか私にそんな質問をしないでくださいよ」「どっちみち私はただの学生にすぎないのですから」と言ったという。オルガ・ラングは、「1936年になされたこの会話は、一族への忠誠という旧い考え方が今の時代においてもいかに強固なものであるかということを例証している」としている。

3.張守愚のネポティズムに対する聖戦

 『ワイルド・スワン』の作者ユン・チアンの父親・張守愚は、このような中国社会の歴史的宿痾とも言うべきネポティズムと常に戦い続けた人物であった。彼は、1921年に四川省宜賓に生まれている。1938年に中国共産党に入党し、抗日戦争期、延安で中国共産党の理論を学び、厳しい訓練を受けた。国共内戦期には、彼は中国東北部の朝陽で遊撃戦争を指揮し、1949年末に生まれ故郷の宜賓に戻り、1954年には四川省宣伝部副部長という重職に就いている。

 こんな彼は、ネポティズムに対して一貫して「聖戦」を展開し続けた。『ワイルド・スワン』では、ネポティズムに対して妥協なき戦いを繰り広げた張守愚の姿が克明に描かれている。例えば、国共内戦の末期、張守愚たちが参加した部隊が東北の錦州から四川省の宜賓への千六百キロの長旅を敵の襲撃を何度も受けながら困難な行軍をおこなっていたとき、張守愚は妻の夏徳鴻を彼の乗るジープに絶対に乗せなかった。そんな彼は、その夜、妻に対してつぎのように言っている。

「乗せることはできない。なぜなら、私の母(夏徳鴻)には車に乗る資格がないのだから、そんなことをしたらえこひいきと見なされてしまうだろうと。彼は、旧中国の伝統であるネポティズムと闘わねばならぬことを痛切に感じていたのである。」

 張守愚は権力を掌握した中国共産党の高級幹部として生まれ故郷の宜賓に戻ったときも、彼はその地位を利用して親類縁者のために特別に便宜をはかることなど決してしなかった。そのことについても『ワイルド・スワン』にはつぎのように書いている。

「彼(張守愚)が宜賓に最初に戻ってきたとき、彼の一族と旧友たちはみんな彼が彼らを援助してくれるものと期待したものだ。中国では、権力を有する地位に就いた者はその親戚の面倒を見るのが当然のこととされていたのである。だからつぎのような有名な言葉があった。'人が権力を掌握すると、その鶏や犬までもが天国に昇る(一人得道、鶏犬昇天)。だが、私の父(張守愚)は、ネポティズムとえこひいきは汚職への危険な坂道であると考えていたし、その汚職こそ旧中国の全ての悪徳の根源であった。」 
                                
 張守愚は、ネポティズこそが旧中国社会の全ての悪徳の根源である汚職を生み出すものであるとして、それに対する聖戦を戦い抜こうとしたのである。しかし、ネポティズムは、中華人民共和国建国もその根を断たれることはなかった。それどころか、中国共産党の幹部たちもつぎつぎとそれに絡めとられていった。しかし
張守愚は、ネポティズムこそ社会的腐の根源であると見なして聖戦を挑んでいった。彼は、その聖戦のためには家族や親類の不満や批判をものともせず、自らの信念を貫き通したのである。

4.張守愚の「公私混同」

 張守愚はネポティズムに対して「聖戦」を挑んだ。しかし、そんな彼は1966年に文化大革命が始まると四川省の造反派組織から「走資派」として攻撃され、党組織から「保護」を名目に拘留されることになる。1967年、批闘会で文化大革命を公然と批判、さらに毛沢東に文化大革命の中止を要請する手紙を出しているが、その結果、「現行反革命分子」として逮捕されて刑務所に入れられ、刑務所内で厳しい尋問を受けて精神的な異常をきたしてしまった。その後、隔離審査を受けたり、山奥の幹部学校で過酷な重労働と批闘大会などを経験、生前に名誉回復されることもなく1975年に死去している。

 彼は理念に生き、理念を守って死んでいったのである。しかし、彼の行動と思想のなかにある重大な問題点もあることも認識する必要がある。例えば『ワイルド・スワン』における張守愚と夏徳鴻の新婚当初における軋轢に触れたつぎの文章はその点について大きな示唆を与える。

「彼女(夏徳鴻)は、彼の忠誠がなによりもまず彼女に向けられてはおらず、そして彼はいつも彼女と対立する同志たちの側に立っているように思われた。 彼女は、彼がパブリックな場で彼女への支持を表明することが困難なことは理解した。しかし、プライベートな場においてはそうしてほしいと願った。だが、そこでもそんな言葉をかけてもらえなかった。彼らが結婚したまさにその最初から私の両親の間には根本的な違いがあったのだ。父(張守愚)の共産主義への献身は絶対的なものであった。彼は、たとえ妻の前でしゃべる内容でさえも、それがパブリックな場の発言と異なってはならぬと考えた。私の母(夏徳鴻)はもっと柔軟だった。彼女のものごとへのかかわり方は理性と感情の両方によって調整されていた。彼女にはプライベートな部分を存在させる空間があったが、彼にはなかった。」

 勿論、パブリックなことに私的な思惑や利害を持ち込んむことはいけないことである。しかし、だからといってプライベートな場においても常にパブリックな場と同じように振るまい、さらにはプライベートな部分が存在する空間をなくそうとすることは正しいことなのであろうか。そうではなかろう。個人の尊厳を重んじるなら、プライベートなことはプライベートなこととしてそれ独自の領域が認められて大切にされねばならないだろう。そのような意味でかれもまた「公私混同」であり、ネポティズムと同根と言わねばならない。そして、そのような張守愚の思想的弱点は、中国社会において「個人主義」(individualis の訳語)が中国社会において利己主義と同義語として定着し、否定的に評価されてきたことと関連があるのではなかろうか。

5.中国共産党と「個人主義」 

 張守愚がプライベートな場においてさえ常にパブリックな立場を崩さず、妻に暖かいいたわりの言葉ひとつかけなかったが、このような張守愚の態度はやはり中国共産党の思想と関連させて考える必要があるだろう。すなわち、中国共産党に個人の尊厳を重んじる 個人主義(individualism)の思想が欠如していたことと関連していたと思われるのである。さらに中国共産党は、党員に対していついかなるときも常に厳しい自己統制、自己抑制をおこなうことを求めたが、行き過ぎた自己抑制は個人の自然な感情の発露をも抑制することになったのである。

 『ワイルド・スワン』のなかで、『雷鋒日記』に出てくる「四季」という詩が引用されている。それは「同志に対しては春の日のように暖かく接し、仕事は夏の日差しのような熱い情熱をもって取り組み、個人主義は秋風が落ち葉を吹き飛ばすようにそれを一掃し、階級敵に対しては厳冬のように残酷無情であろう」(対同志要像春天般的温暖、対工作要像夏天一様火熱、対個人主義要像秋風掃落葉一様、対階級敵人要像厳冬一様残酷無情)というものである。 

 だか、雷鋒だけが「個人主義」をこのように一掃すべき否定的な対象としていたのではない。彼が属した中国共産党そのものが「個人主義」を否定し、党員各人にその克服を繰り返し説いていたのである。

 例えば毛沢東は、抗日戦争期の延安で「個人主義」に反対しなければならないとしていた。彼は、1942年2月1日に延安の中央党学校の開学式でスピーチしたとき、「もし、我々全党の足並みを整然と一致させ、一つの共同目標のために奮闘しょうとするのなら、我々は必ず個人主義とセクト主義に反対しなければならない」と言っている。なお、彼はこのスピーチで、その「個人主義」なるものの内容をつぎのように紹介している。

「[劉少奇同志はかって、ある種の人々の手は特に長く、自分個人の利益を考えることはとても上手だが、他人の利益と全党の利益についてはどうかというと、それらに対してはあまり関心がないのだと言ったことがある。『私のものは私のものであり、あなたのものもまた私のものである』。(大笑い)この種の人々は一体なにが欲しいのか。名誉が欲しい、地位が欲しい、目立つことをして注目を浴びたい。仕事の一部を担当すると、すぐに独立性を得ようとし、そのために他の人々を丸め込んだり排斥したり、同志の中でおべんちゃらを言って抜け目なく立ち回ったり、自分の味方に抱き込んだりするのであり、ブルジョア政党の俗っぽい作風さえも共産党の中に持ち込んで来るのである。」
   毛沢東「整頓学風党風文風」(『整風文献』、新民主出版社、香港、1949年5月、18頁)

 抗日戦争期における毛沢東の「個人主義」の説明から、彼らの言う「個人主義」が個人の尊厳やその主体性を重んじる考え方を指しているのではなく、自己本位の利己主義と同義語であることが分かるであろう。中国共産党の言う「個人主義」の意味をこのように理解したとき、それから15年後の1957年に中国共産党の指導によって展開した反右派闘争において、党中央宣伝部副部長の周揚が文芸界の「右派分子」を批判して「我々の身体にまだとどまっている個人主義は集団主義とは相容れないものだったのだ」、「いま社会主義への関門を越えねばならぬが、そのとき我々は確固たる信念を持った共産主義の戦士とならねばならず、個人主義の野心家たちに反対せねばならないのである」(「文芸界右派的反動言行」、『文芸報』1957年7月21日号)としたその言葉の意味も理解されるであろう。

6.中国における「個人主義」の意味の変遷

 中国では、現在も「個人主義」が利己主義と同義語として理解されている。しかし、言うまでもないことであるが、本来の個人主義(individualism)という概念は利己主義と同義語ではない。例えば、
平凡社の『世界大百科事典』では、「個人主義という語には多様な意味が与えられているが、どの場合にも含まれている成分として、人間の尊厳と自己決定という二つの要素を挙げることができる。人間の尊厳とは,個々の人間存在は、それ自体として何にもまさる価値をもつ、という価値観である。もう一つの要素である自己決定ないし自律とは、個人が周囲に依存しないで、ひとりで熟慮し、意思決定を行うのが望ましい、という価値観である」としている。

  なお、中国でも「個人主義」という言葉が積極的な意味を持つ概念として受容されたこともかつてあったのである。劉禾『語際書写』(天地図書有限公司、1997年、香港)によると、「個人主義」という言葉は明治期の日本で造語され、19世紀末20世紀初に中国に紹介されたとのことである。そして、初めは儒教的概念で解釈されたりしていたが、五四期に入って「個人主義」を西洋のシンボルとし、儒家思想を中国の発展を閉ざす伝統思想とする「個人主義対儒家思想」の二極対立観が生まれたとする。ただ、それは民族主義及び社会の集団性(原文は群体性)と対立するものではなく、むしろ密接不可分なものとして理解されていたとしている。しかし、左翼イデオロギーが入ってくるなかで、その影響を受けた人々は「個人主義」はブルジョアイデオロギーであり時代遅れのものであると否定的に評価するようになったという。

 この劉禾の指摘はそのまま毛沢東にも当てはまるであろう。元中国法制・社会発展研究所所長で現在ウィスコンシン大学の客員研究者の于浩成は、『中国之春』第181期(1998年11月号)に「個人の解放は人権を尊重し擁護するための先決条件である」との論文を掲載し、そこで毛沢東が1917年、包永生の『倫理學大綱』という著作に「個人に無上の価値有り、百般の価値有り。精神の個人主義は、個人無からしめれば宇宙も無く、ゆえに個人の価値は宇宙の価値自由より大と謂う。凡そ有る個人の個性なる者に違背すれば、罪それに大なるは莫し」といった「個人主義」評価の文章を書き込んでいたことを紹介している。そんな毛沢東が、先に述べたように「個人主義とセクト主義に反対しなければならない」と主張するようになっていったのである。中国において、民族的統一と国民国家形成が最重要課題とされる歴史的文脈のなかで「個人主義」は否定的意味内容を与えられ、さらに反対し克服せねばならぬ対象にされていったのであろう。

 そして、いまでも「個人主義」は否定的な意味内容を与えられて理解されている。例えば、『最新高級英漢詞典』(商務印書館国際有限公司、1994年)では、'individualism'という単語は「個人主義;利己主義」と説明している。中国の現代語辞典である『新華詞典』(商務印書館、1980年)で「個人主義」を引いてみると、「自分だけの利益をはかり、個人を中心とし、一切を個人から出発させる思想と行動を指す。それはブルジョア的世界観の核心およびブルジョア的道徳の基本原則であり、またあらゆる搾取階級の共同のイデオロギーである」とあった。

 中国社会では、先ほどのような中国共産党の「個人主義」否定の主張によってindividualismも風呂のお湯と一緒に流されてしまったのであろう。こうして、中国社会ではindividualismが意味するような概念は育つことが阻まれてしまったのである。だから、抗日戦争期の初期の1938年に中国共産党に入党し、1940年初から困難な「長征」を行って同年4月に延安に到着した張守愚も、そこで徹底的に「個人主義」否定の考え方を教え込まれるなかで、individualismが内包しているものを彼自身のなかに育てることができなかったのである。

* 拙文においては、『ワイルド・スワン』からの引用文は、Jung Chang, Wild Swans Three Daughters of China, London, HarperCollinsPublisher, 1992 に基づいて翻訳した。

                                                           
                           
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