やまももの部屋   

                      

李白の「春日酔起言志」について

杜甫「春望」に詠われた花について

杜甫「絶句二首」その二の「江」について







李白の「春日醉起言志」について


  李白「春日醉起言志」
     處世若大夢 胡爲勞其生 所以終日醉 頽然臥前楹
     覺来眄庭前 一鳥花間鳴 借問此何時 春風語流鶯
     感之欲歎息 對酒還自傾 浩歌待明月 曲盡已忘情

    世に處るは大夢の如し/なんすれぞ其の生を勞せんや/このゆえに終日醉い
    頽然として前楹に臥す/覺め来たって庭前を眄めやれば/一鳥花間に鳴く
    借問す、此れ何れの時ぞと/春風は流鶯と語らう/之に感じて歎息せんと欲し、
    酒に對して還た自ら傾く/浩歌して明月を待ち/曲盡きて已に情を忘る

 私は、李白の「春日醉起言志」と題された詩が大好きです。この詩の「覺め来たって庭前を眄(なが)めやれば、一鳥花間に鳴く。借問す、此れ何れの時ぞと。春風は流鶯と語らい、之に感じて歎息せんと欲し、酒に對して還た自ら傾く」のところで胸をなにかとても暖かいものでつつまれたような気持ちになり、思わず涙が出そうになります。

 この世は胡蝶の夢の如きもの、人生なにをあくせくと過ごす必要があろうかと、またまた酒に酔いつぶれていた李白が、酔いから醒めてふと庭先をなにげなく眺めやると、花の間で小鳥が一羽さえずっていたんですね。李白が、「いまはいつ頃だろうか」とつぶやいたとき、枝々を飛びまわる鶯の鳴き声が春風にのって聞こえてきました。李白はとても感激します。きっと李白の耳にはその鳴き声が「春だ、春だ、命に満ちた春の日だ」と聞こえたのでしょう。彼は、暖かい春風のなかでさえずる鶯の声を命の讃歌として受けとめたんだと思います。そんな李白は、生命(いのち)の春を大いに満喫しようとまた独酌をはじめます。

 なお、この李白の「春日醉起言志」と題された詩は、マーラーの「大地の歌」の第5楽章に使われています。CBS SONYの THE GREAT COLLECTION OF CLASSICAL の中に、ブルーノ・ワルターが指揮し、ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団が演奏した「大地の歌」もあり、「覺め来たって庭前を眄めやれば、一鳥花間に鳴く。借問す、此れ何れの時ぞと。春風は流鶯と語らう。之に感じて歎息せんと欲し酒に對して還た自ら傾く」に相当するところはつぎのようになっていました。
 
 目覚めの床に待つものは何か? 聞け、/庭先の樹で一羽の鶯がさえずっている。/私は鶯に尋ねる。/ 「もう春がやってきたのか」と、/鶯は答える。/「然り、春はここに在り/夜の闇を越えて今ここに来たれり」と。/私はその声に聞きほれ、鶯は歌い、笑う。/私は溜め息をついて、/再び酒の中に溺れる。

  長木誠司著『グスタフ・マーラー全作品解説事典』(立風書房)で調べてみましたら、マーラーはハンス・ベトゲによる『支那の笛』という詩集を1907年に読み、それを素材にして一年後(すなわち1908年)に「大地の歌」として完成させたとのことです。ただ、先ほどのマーラーの全作品解説辞典によりますと、ハンス・ベトゲは中国語の原詩から直接ドイツ語に翻訳したのではなく、ハンス・ハイルマンによるドイツ語訳『中国叙情詩集、12世紀から今日まで』に基づき、「唐詩を彼独自の解釈と文体、そしてドイツ詩特有の形式にあてはめる作業を行っており、原詩の雰囲気、内容等は大幅に変更されていて、もはやベトゲの作品ともいえるものになっている」とのことです。さらに、ベトゲが参考にしたハイルマンの『中国叙情詩集12世紀から今日まで』そのものも、フランスですでに出版されていた2つの中国詩集(エルヴェ=サン=ドニ公爵の『唐詩』、ジュディト・ゴーティエの『玉書』)を参考にしながらドイツ語訳をおこなったのであり、中国語の原詩にあたったわけではなかったとのことです。そのためでしょうか、私には、李白の「春日酔起言志」とマーラーの「大地の歌」の歌詞とは内容も雰囲気もかなり異なっているように思えます。

 ところで、「大地の歌」の各楽章の:原詩はつぎのようになっています。
     
第1楽章 「悲歌行」 李白
第2楽章 「效古秋夜長」 銭起
第3楽章 「宴陶家亭子」 李白
第4楽章 「採蓮曲」 李白
第5楽章 「春日酔起言志」 李白
第6楽章 「宿業師山房期丁大小不至」
孟浩然
「送別」 王維

 このなかで、第3楽章の原詩については、従来は李白の「江南春懐」「題元丹丘山居」と推定されていました。しかし、先に紹介しました長木誠司著『グスタフ・マーラー全作品解説事典』によりますと、第3楽章の原詩は「宴陶家亭子」だとのことです。そのことについて、同書はつぎのように解説しています。

 「従来李白の『題元丹丘山居』と『江南春懐』というふたつの詩の合成であろうと推測されてきた第3楽章<青春について>の出典は、浜尾房子の研究で表のように李白の『宴陶家亭子』であったことが、ほぼ確定されたと思われる。マーラーは青春の象徴として、<陶器でできた亭>を捉えているようであり、そのため、ベトゲに到るまで現れなかった<青春>ということばを、タイトルのなかに盛り込んだのであったが、この<陶器の亭>というもの、東洋人の我々にとっても馴染みのないものである。これにこだわって原詩を探すと、なかなか見つからない。それもそのはずで、この<陶器でできた亭>はもともとの訳者ゴーティエが犯したとんでもない誤訳なのである。原語は<陶家>、すなわち、<陶氏の家>であった。それを<陶器でできた家>と訳したところに、苦笑を交えながらゴーティエの語学力不足を認めるのはたやすいが、問題はその後である。ハイルマンもベトゲも、そしてマーラーも、この不思議な<建築物>に対して何の疑問も抱かずに、再訳し、作曲してしまったわけで、彼らにとって中国/東洋とは、それほど未知の、ありえないものを秘めた世界であり、そうしたはるかな未知のイメージこそ、彼らを魅了した当のものであったということである。」

 それで、「宴陶家亭子」について久保天随訳註『李白全詩集』3(日本図書センター)で調べましたところ、この詩がありましたので、下にご紹介しておきます。なお、『李白全詩集』の解説によりますと、この詩は高門(立派な家)に住んでいる大士(仏道を深く信仰している人)で幽人(人里離れて静かに暮らしている人)の陶氏の庭園の素晴らしさを詠ったものだそうです。

  曲巷幽人宅 高門大士家 池開照膽鏡 林吐破顔花
  緑水蔵春日 青軒秘晩霞 若聞弦管妙 金谷不能誇

「曲巷の幽人の宅、高門大士の家。池は開く照膽の鏡、林は吐く破顔の花。緑水は春日を蔵し、青軒は晩霞を秘す。もし弦管の妙を聞かば、金谷も誇る能はず。」



杜甫「春望」に詠われた花について


 杜甫「春望」
  國破山河在 城春草木深 感時花濺涙 恨別鳥驚心
  烽火連三月 家書抵萬金 白頭掻更短 渾欲不勝簪

 国破れて山河在り/城春にして草木深し/時に感じては花にも涙を濺ぎ/別
 れを恨んでは鳥にも心を驚かす/烽火三月に連なり/家書萬金に抵る/白頭
 掻けば更に短く/渾べて簪に勝えざらんと欲す

  私は戦後生まれの人間ですが、戦争を体験した人たちは、この「春望」の「国破れて山河在り、城春にして草木深し」の2句になんとも言えぬ感慨を覚えたといわれます。ただし、「春望」の詩の「国破れて山河在り」の「國」は国家のことではなく、唐の国都長安のことを指し、「破れて」の「破」は敗戦の意味ではなく、長安の都が「破壊されて荒れ果てている」様子を表現したものですね。

 しかし、平和な日常が戦乱によってうち破られ、住みなれた街が無惨に破壊され、愛する家族とも離ればなれになってしまった人間の哀しみと不安が見事に詠われているがゆえに、この詩は時空を越えて戦後の焼け跡にたたずむ日本の人々の心に訴えかけ、またその後の人生の思い出のなかに織り込まれていったのでしょうね。

 ところで、この詩で作者は「時に感じては花にも涙を濺ぎ」とも詠っていますが、作者が涙をそそいだ「花」はなんの花でしょうか。もちろん、特定の花とする必要はなく、春に咲く花一般としてもいいのですが、私としては「時に感じては花にも涙を濺ぎ」の「花」に牡丹の花のイメージを重ねて読んでいます。そして、この句を私はつぎのように解釈しています。

 杜甫が時世のありさまに哀しみを感じていたとき、荒れ果てた人家の庭先にひっそりと咲く牡丹の花が目に入った。牡丹は長安の人々が最も愛好した花であり、長安の都の繁栄と華やかさを象徴するものでもあった。そんな牡丹の花を目にして、杜甫は思わずどっと涙を流してしまった。杜甫のイメージの中で、牡丹は流れ落ちる大粒の涙をその花弁に受けとめ、さらに艶やかさと華やかさを増すことになった。そして、涙を露と含んだ牡丹の鮮やかなイメージがまた杜甫の哀しみを一層深くするのであった。

 なお、李白が「清平調詩」其の二で「一枝濃艶露凝香」(一枝の濃艶、露香を凝らす)と詠っていますが、このように、当時においても牡丹といえば花弁に含む露が自然と連想され、杜甫のながした大粒の涙を露と含む花として牡丹はまさにぴったりのイメージだったと思います。

 しかし、杜甫の「春望」(春の眺め)という詩の題名と牡丹の咲く初夏の季節とは合致しないではないかとの声が聞こえてきそうですね。ところが杜甫はこの詩で「城春にして草木深し」とも詠んでおり、季節はどうも中国の陰暦3月頃のことのようです。すると、この詩が詠まれた至徳2年(757年)の陰暦3月はいまの暦だと3月29日から4月26日になるんですね。そうすると早咲きの牡丹を杜甫が目にしてもおかしくないですね。

 また、「時に感じては花にも涙を濺ぎ」と「別れを恨んでは鳥にも心を驚かす」とは対句ですが、背丈の低い牡丹の花と高いところで鳴いている鳥の組み合わせが詩として絶妙だと思います。漢詩では一般に対句において色、高低、遠近等によるコントラストをきわただせようとします。そんな意味でも、牡丹と鳥の組み合わせは極めて自然だと思うんです。



杜甫「絶句二首」その二の「江」について

杜甫「絶句二首」その二
   江碧鳥逾白 山青花欲然 今春看又過 何日是帰年
   江は碧にして鳥はいよいよ白く 山は青くして花は然えんと欲す
   今春みすみす又過ぐ いずれの日かこれ帰年ならん

 この有名な詩のH.A.Giles によるつぎのような英訳が吉川幸次郎・三好達治著「新唐詩選」(岩波新書)に紹介されています。

  White gleam the gulls across the darkling tide,
  On the green hills the red flower seems to burn;
  Alas! I see another spring has died----
  When will it come - the day of my return!


 試みに、私なりにこの英文を和訳してみました。

 ほの暗き流れのなかに鴎の白き輝き
 赤き花は緑の丘に燃えるが如く咲く
 嗚呼、私はまた新たなる春が一つ消え去ったのを目の当たりにする・・・
 いつの日のことか、我が故郷(ふるさと)に帰ることができるのは!

  英文の詩の翻訳などほとんどやったことがなく、おそらくこの拙訳にはいろいろ問題があると思います。特に、Alas! I see another spring has died---- のフレーズの和訳なんですが、die に思い出や音、火などが「消え去る」という意味があるようなので、spring has died を「春が消え去る」と訳してみましたが、それでいいのか確信はありません。

  ところで、英訳は「江碧鳥逾白」の句の「江碧」の部分を「the darkling tide」と訳しています。「碧」は英語で「jade green」とか「blush green」と訳すことが可能なのに、ここでは「darkling」(薄暗い、暗い陰のある)という単語を使っています。そして、英訳をしたH.A.Gilesがこのような単語を使用したのにはそれなりの理由があったのだと思います。彼は、「江碧」の「碧」に「江」の底知れぬ水の深さと量感を読みとったのだと思います。水は深ければ深いほど色の濃さを増し、さらには重く沈んだ暗い色になっていきますからね。彼は「the darkling tide」でどっしりと重く感じられるような水深を有する大河の滔々たる水の流れを表現したかったのではないでしょうか。だから、川の流れを「strem」「flow」などと英訳せず、普通は海流に使う「tide」と表現したのではないかと思います。

  では、杜甫のこの詩の「江」は実際にはどれくらいの大きさの川だったんでしょうか。この詩は、杜甫が成都の浣花渓(錦江の支流)に草堂を営んでいたときに、その浣花渓の南方を東西に流れている錦江の景色を詠ったものだといわれています。『中国の名詩鑑賞』5(明治書院)は当時の錦江について、「錦江は渇水時と増水時とではずいぶん水量がちがったが、このあたりまで 遠く長江河口あたりの船が上ってきてもいた。『窓には含む西嶺千秋の雪、門には泊す東呉万里の船』と杜甫の作(「絶句」)にある」と解説しています。また、岩波詩人選集の『杜甫』上で調べましたら、「東呉萬里船」(東呉に向かって万里の旅をしょうとする船)の「東呉」について、「東の方にある呉の地方。呉は今の江蘇省のうち、大江以南の地をいう」と説明していました。「東呉萬里船」とは、四川省の成都から江蘇省の大江(長江)以南の地まで航行する船だそうですから、かなり大型の船でしょうね。

 そんな船が長江河口から錦江まで上って来ることができたんですから、当時の錦江は川幅も広く水深もかなりあったと考えて間違いないですね。また「錦江」は、別名「流江」ともいうそうですが、おそらく地形の関係で流れがとても速いんだと思います。H.A.Giles は文献研究やさらには実地調査なども踏まえて錦江の流れを「the darkling tide」(薄暗い潮)と英訳したんではないでしょうか。「tide」には流れの大きさと速さ、さらには川の深さがもたらすら紺碧の流れの色までもが含まれているように思います。

  しかし、同じ杜甫の詩からこれとは全く対照的な「江」のイメージを絵画化したものを私は目にしました。それは、石川忠久著『漢詩の心』(時事通信社)の123頁に掲載されていたもので、江戸時代の天保3年に前北齋爲一という人が描いた『唐詩選画本』の挿し絵です。この『唐詩選画本』で杜甫「絶句」其の二では、杜甫と童子が小さな橋の上から川を眺めているんですが、その川幅は5メートル前後ぐらいなんです。そして、この小川で魚を獲っている鷺のような鳥も4羽ほど描かれているんですが、これらの鳥の両足が川のせせらぎの上にちゃんと見えますから、この小川の水深は深いところでもせいぜい30センチぐらいのものでしょうね。

 江戸時代、一般の日本人が杜甫の「絶句」其の二の詩をどのようにイメージしていたかを知るとてもいい参考資料だと思います。当時の日本人は「江」すなわち「川」と理解して、自分たちが幼い頃から遊び親しんできた小川を想像したんでしょうね。当時、江戸幕府は鎖国政策をおこなっており、日本人は中国の景色を実際に見ることができなかったんですから、これは致し方のないことだと思います。また、詩というものはあくまでも各人が自由にそれを楽しめばいいんですから、身近な村や町の小川のイメージで受容してこの詩に親しみを感じ、自分の思いをそこに託せるなら、それはそれで素晴らしいことだと思います。


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