やまももの部屋   
                 やまもものエッセイ                                               

目次

私のホームページ作り
宮部ムック制作の協力依頼に感激

◎幼い頃の懐かしい写真
◎母のふるさとの街と家
◎私の両親の懐かしの台湾
◎母の遺著『箸の源流を探る』
◎奈良の春日若宮のおん祭り
◎先祖の家
◎曾孫(ひまご)の墓参り
◎父の大往生と家族葬
◎家族揃って先祖の墓参り
亡き父と私のパソコン事始め
◎赤いミズヒキの贈物
◎犬猫の尻尾
◎蔵書一千冊の古書店買取り価格総額はお幾ら
本田のじいちゃんと孫のはんちゃん、のんちゃん
恩師の西村成雄先生
私のホームページ作り

 世のなかはホームページ花盛りで、人気が非常に高い「カリスマホームページ」なんてのもあるようですが、まだまだ内容のあるホームページは少ないようです。それなりに名の知られた企業や団体が設けたものでも、「このインターネット時代にホームページがなかったら世間体が悪いから、まあ一応作っておくべえ」といった感じで設けられたなおざりなものが多いですね。調べごとをしていて、それと関連していると思われる研究機関のホームページに情報を求めてアクセスしても、収穫を得られることはほとんどありません。文字通り無内容で、見事に空っぽスカスカのホームページにがっかりさせられることの方が圧倒的に多いのが実状です。

 個人が運営しているホームページの場合も、なかには運営者の目的・意図がよく分からず、創意工夫もあまりなく、情熱も伝わってこないものが少なからずあります。検索エンジンを使ってキーワードで調べてこんなお粗末ホームページに入り込んでしまったときは、紳士の私(?)でも「××××!」と放送禁止用語を思わず口走ってしまいます。

 このようなお粗末な個人運営のホームページは、おそらくは日曜大工感覚でチャレンジしてみたけれど、いざ完成したみたら、そこにほとんどなにも入れるものがなかったのかもしれませんね。でも、よく考えてみましたら、人に伝えたいこと、人が見て面白いもの、価値のあるものなんて、普通の個人がそうめったに持っているわけがないですね。

 私もそうなんです。最近、なにかを表現したい、ひと様に伝えたいという情熱がすっかり萎えきっていましたから、心の内部から自らのホームページを作って自己表現したいと思っていたわけではありません。ただ、周囲の友人・知人たちのなかにもホームページを持つ人が増えてきました。とりわけ、パソコン通信なんかと無縁だと思っていたような人が、その名刺にURLを入れているのを見ると、鬼界島に一人取り残された俊寛僧都のような寂しさと悲哀を感じるようになってしまい、ってのはいささかオーバーな表現ですが、1999年も師走に入って西暦2000年が近づいてくると、1900年代になんとかホームページを作っておかなければと思うようになりました。

 そんなわけで、時流に乗り遅れまいと「ひともすなるホオムペイジをわれもしてみむとてするなり」とホームページ作りを12月に決意し、まずIBMの「ホームページビルダー」を買い込み、それからマニュアルと首っ引きでトンカントンカンと日曜大工感覚でホーム作りをはじめたのでありました。

 ところが、予想されたことですが、しばらくして、作り始めたこのホームページになにを入れたらいいのか、はたと迷ってしまいました。ひと様にお見せするような怪しげな画像を蓄えているわけではありません。オンラインソフトを作る技術もありません。通信販売するお薬もありません。うーん、困ってしまいました。結局、あれこれ考えた末に、これまで「やまもも」のハンドルネームでパソコン通信のフォーラムにいろいろ書き込んできたもののなかから私なりに「厳選」(?)してホームページに設けた「創作・エッセイ」と「漢詩鑑賞」の部屋にコピーすることにしました。それに加えて、新たに宮部みゆきの作品に対する読書感想文を書いて、「読書感想」の部屋に入れました。私はいま宮部みゆきの作品に凝っているのです。

 デザイン作りにはセンスも経験も全くなく、ホームページのフォームや色、素材などを決めるのに四苦八苦し、そのために多大の時間と労力を要しましたが、なんとか12月末にそれを完成させ、プロバイダーに無事登録することもできました。

 不思議なものですね、泥縄式で作ったホームページで、体裁も内容も極めてお粗末で貧弱なものですが、苦労させられた子供ほど可愛いと申します、「やまももの部屋」と命名したこのホームページに非常な愛着を感じるようになってしまいました。「カリスマホームページ」を目指す野心はこれっぽっちもありませんが、日蔭の存在で終わらせるのも可哀相です。ホームページのアクセスカウンターがなんともわびしげです。なんだかトップページの上段にそれを晒しておくことが辛くなって、上段から最下段に移してしまいました。そんなアクセスカウンターを見ながら作ったのが、「わがサイト 自力で増やす カウンター」との川柳(?)です。なんともいえぬ寂寥感と哀愁が漂っており、川柳というより芭蕉の世界に通じるものがあるのではないでしょうか。

 そんな上段、おっと冗談はさておき、せっかく作ったのですから、たまに訪れた人から「いふかひなくぞ破れたるホオムペイジを営みたりつるひとのこころも荒れたるなりけり」なんて言われたり、放送禁止用語を浴びせられたりしないよう、これから時間をかけて内容を充実させるとともに、HP宣伝のための広報活動にも精を出していきたいと考えています。
                            2000年1月2日 



                                    
宮部ムック制作の協力依頼に感激  2003/09/30
   
 2003年の夏は10年ぶりの冷夏であったが、私自身はホットな一夏を過ごした。5月下旬に井伊誠さんから宮部ムック制作の協力依頼のメールが届き、その日以来ずっと宮部ムックのことでアツクなっていたからである。

 井伊誠さんは、ある編集制作会社で本の編集をしておられる方だが、ファンの宮部作品に対する思い入れレビューをメインにした宮部ムックを別冊宝島シリーズのひとつとして制作するために、私にも協力依頼のメールを寄こしてくださったのである。宮部ファンの私がこんな素晴らしい企画に燃えないはずはない。その日から寝ても覚めてもひたすら宮部ムックのことをあれこれ考えるようになり、通勤のバスや電車などはよく乗り過ごしたものである。

 それで、私は宮部ムックの思い入れレビューの対象として『模倣犯』と『長い長い殺人』を執筆することになり、また映画「模倣犯」についても書かせてもらうことになった。『模倣犯』のレビューは、これまでに宮部ファンのみなさんからいただいた同作品についてのコメントをまとめることにしたが、みなさんの貴重なコメントのポイントを紹介することと制限字数のはざまで四苦八苦し、最後はどこをどう削るかということに精力を使い果たしてしまったものである。それでも、当初の制限字数の2倍以上になってしまい、拙文の編集を担当してくださった本宮けい子さんにはご迷惑をおかけしてしまった。

  今回の宮部ムック作りに参加できたことは、私にとっても本当に楽しい経験であり、また一人の宮部ファンとしてとても光栄なことであった。このような素晴らしい機会を与えてくださった井伊誠さんには心からお礼を申し上げたい。そんな井伊誠さんからメールでつぎのような心温まるご丁寧な「編集後記(感想)」を送っていただいた。

  井伊誠さんの「編集後記」(感想)  2003/09/30

 今日、ひさしぶりにやまももさんのHPを訪れました。宮部ムックに向けたファンの方々のコメントが載せられており、それらを読んでいるうちに、改めてあの仕事をみなさんとご一緒できた時間は幸せそのものだったと思いました。

 やまももさんの「私と宮部ムック」を読んでいると、ドキドキしながらやまももさんにご協力依頼のメールを差し上げたときのこと、そしてそのお返事(しかも快諾)をいただいた時のことが色彩豊かに甦ってきました。

 じつを申しますと、あれほど多くの方々が関わった仕事を経験したのは初めてだったため、いろいろと困惑したこともありましたが、いとう瞳さんがおっしゃるように「たくさんの方と一つの事を完成させる事が出来るというのは何であっても楽しい」と改めて思いました。まさに「作りあげていく」という感覚です。

 ご多忙のなか、ファンのみなさんには宮部さんへの熱い思いが伝わってくる素晴らしい文章を寄せていただき、感謝の気持ちでいっぱいです。それらは私にとって、逆にプレッシャーに感じられるほどでした。編集している人間として、これらをどのようにまとめるべきなのだろうか、と。

 やまももさんのHPに寄せられたコメントを読む限り、『僕たちの好きな宮部みゆき』はファンのみなさんに楽しんでいただけるムックとなったようで、安心感とともに大きな喜びを感じました。今夜はこの喜びを肴に一杯やりたい気持です。「編集者冥利に尽きる」という感覚ですね。

 やまももさんをはじめとするファンの方々のご協力がなければ、今回のムックは日の光を浴びることはなかったと思います。本当にいろいろとどうもありがとうございました。



 ところで、宮部ムックの本文イラスト&表紙装画の担当はいとう瞳さんであるが、このことを井伊誠さんから教えていただいたときは跳び上がるほど嬉しかった。私は、『ブレイブ・ストーリー』の表紙の装画で初めていとう瞳さんのアートの素晴らしさを知り、その造形と色彩の不思議世界に魅了されたものである。宮部ムックでは、レビュー執筆者の意図を見事にくみ取られて素敵なイラストを描いて下さっている。いとう瞳さんは、「COLOR PARTY」というホームページを運営しておられるので、その掲示板にお礼のメッセージを書き込ませてもらったが、嬉しいことにつぎのようなお返事をいただくことが出来た。


 いとう瞳さんからのお返事  2003/09/06

 本も無事発売となりホッとしてます。
 皆さんのレビューを読ませて頂いておりましたが
 皆さんいろんな角度から宮部さんを読まれていて、
 絵の方もそうしなければ...と思いました。(...でも大丈夫だろうか...)
 宮部さんの魅力は、一人一人に違った印象を持たせてしまう所かも
 しれないですね。
 たくさんの方と一つの事を完成させる事が出来るというのは
 何であっても楽しいものですね。

 また、今回の宮部ムック出版に当たり、執筆、アンケート等でいろいろ協力してくださった宮部ファンのみなさんにも厚く感謝の意を表わしたい。そして宮部ムックをご覧下さった方々からコメントをいただいたので下に紹介させていただきます。

宮部ムックについてのみなさんのコメント

Kinoさんのコメント  2003/09/06
 
 「僕たちの好きな宮部みゆき」をば、購入して読んでみました。全部目を通し終わったので、見ての全般的な感想です。皆さん、思い入れレビューを面白く書いててスゴイです。

 ゴチャゴチャした本かと予想してましたが、すっきりしてました。作品を絞って、ズバッと思い入れレビューだけにしてあって、わかりやすいです。作品の切り口、皆さんが個性的なので、たいへん楽しく読めました。作家の書評は、本をチョンチョンつついてるだけの狭い世界で、すごく遠いんですけど、思い入れレビューは、観点が違うので、すごく世界が拡がっていきますよね。日常会話に近くなって、宮部みゆきをぐっと自分の近くに引き寄せてるのが感じられるのがいいですね。

 それと、各作品ごとにイメージ写真を撮ってあるので、作品のイメージや場面を思い出しながら、見てみるのもたいへん楽しい。よくわからんかったのが、鳩笛草のドアノブの写真、これは何でしょうか?

 やまももさんの模倣犯レビュー、面白いと思いました。これは、やまももさんがホームページで積み重ねてきたもので、やまももさんしか書けないもんだと思うから。他の人が同じものを書いても土台がないと値打ちないですもんね。こういうのは、どんなうまい文章よりどっしりと強いなと感じます。やまももさんが独自でレビュー書かれても、うまく書かれるとは思うんですが、それよりもなんか値打ちのあるもんをレビューとして出しはったなぁと感じました。

 あとですね。やまももさんが模倣犯レビューの中に僕の書いたつまらんもんも取り上げてくださってて、その部分は、恥ずかしい思いがして、僕の文が出てくるとこは、スッと読み飛ばしてしまいました。本屋でパッと開けると、いきなり文=やまももさんのページ。巻頭からやまももさんか、すごいなぁと思い読み進めると、僕の文が出てきて、なんかものすごい恥ずかしい。あ〜、こんなもんが載ってしまった〜と思って、どうも恥ずかしくなり本をパタッと閉じ、レジに持っていきました。

報告:僕の行った書店(ジュンク堂)では、新刊コーナーに平積みされており目立ってました。


ATUKAさんのコメント  2003/09/06
 
全体的な印象:

 他の皆さん感想と重なる部分もあるかと思いますが、本の構成としては、良いのではないでしょうか。ファンが楽しめる仕上がりになっていると思います。
 全144頁オール2色刷りで1000円というのも高くはないと思います。
 「僕たちの好きな...」の、他の作家のものも発売されていて、このシリーズはきっと好評なのでしょう。
 やまももさんだけでなく、ここのBBSの常連の人達が何人も執筆されていて、「僕たちの...」というタイトルがやたらリアルに感じられます。

本文について:

 やまももさん担当の「模倣犯」は、ホームページ上の色々な人の意見を紹介しているだけあって、あらためて読んでみると本当に様々な意見、感想、解釈、分析があることが良くわかります。ファン心理として「自分の好きな小説について他の人はどう感じたか」ということは、大変興味が有ることだと思うので、ファンにとっては有り難い内容ではないでしょうか。しかし、やまももさんは、ここに紹介しているコメントの発言者全員に連絡をとり承諾を得て、文章をまとめられたわけですよね。本当に御苦労さまです。

 他の記事全部に目を通したわけではありませんが、「火車」(文:ちゃくさん)の『彼女を人目にさらさない幕引き』等の表現は、「上手いなあ」などと感心している次第です。また「レベル7」の主要登場人物紹介で、記憶を失くした「彼」と「彼女」を載せていないのは、粋な計らいだと思いました。

ちゃくさんのコメント  2003/09/07
 
 やまももさんには素敵な企画にお誘いしてくださったこと、とても感謝しております。形になって手元に届き、実際手にした時の感触を今でも思い出せます。私のつたない文章に目を通してくださった皆様方とは、作品への“思い入れ”を共有出来たかな?と思うと、とても嬉しく思い、少しワクワクしています(笑)。「読みたくなった!」という宮部作品を未読だった友人たちの声も嬉しいものでした。本当にありがとうございました。

 全体的に実にスッキリと整理されて、とても読みやすかったです。作品ひとつひとつに一人一人の異なるライターの方々が意見や解釈を思い思いにのせるという構成そのものが、宮部作品への愛情が全面に感じられ、好印象に映りました。「そういう解釈があったかぁ」と、私が今まで思いも寄らなかった視点から再度読みたくなったり、本宮さんの「スナーク狩り」の“脳内シアター”などは「まさにそうなのよ!」と頷きっぱなしでした。映像版「模倣犯」のやまももさんのレビューでは“ナルト”という言葉が使われてましたが、私もナルト一本分出来あがるぐらいでした(笑)



りりもんさんのコメント  2003/09/11
 
 「宮部ムック」をようやく手に入れることができました。やまももさんが執筆された「模倣犯」レビューのラストに私のコメントが載っており、私の思いがきちんと反映されていたことがとても嬉しいです。携帯電話のコラムも「あっ、私が掲示板で質問した例の事だ」とすぐわかりました。とても詳しくお調べになったのですね。説明もとてもわかりやすく、さすがやまもさんだと感心しました。

 昨夜も宮部ムックを読んでいたのですが、忘れてしまった作品(特に短編や古い作品)も多く、また読み返したい気分になってきました。皆さんのレビューを読んでいると「ああ、確かに私もそんな風に感じた」とか「そうそう、このセリフ、私も覚えている」と共感する部分がいっぱい。宮部ムックで私は「今夜も眠れない」ようです…。ありがとうございました。それにしても、この掲示板でたくさんの方が書き込まれた感想や想いを、本当にうまくまとめましたね。皆さんと競うように書き込んでいた頃を思い出しながら、楽しく読まさせていただきました。

 まだ、3分の1ほどしか読み進んでいないのですが、細かいコラムも見逃さず隅から隅まで読みたいと思っています。評論家の方の文章と違い、人それぞれのその作品に対する思いが、ある人は率直に、ある人は比ゆ的に表現していて、どれも面白いと思います。ここの常連さんたちの名前を多く拝見し、何だかとっても身近な方が書いているような気がするのもいいですね。

 読者のホンネが伝わってくる「宮部ムック」。ひとつひとつの作品のストーリーや登場人物、またその作品を読んだ時の自分自身の年齢や環境を思い出しながら楽しく拝読しています。こんな素敵な本を制作された方々に「本当にありがとうございました」と言いたいです。また、あらためて「宮部みゆき」のすごさを実感させられました。本当に多くの人に支持され、愛されている作家なんですね。


とむ影さんのコメント 2003/09/27
 
 別冊宝島865「僕たちの好きな宮部みゆき」は、25作品を現代物長編、現代物短編、SF/ファンタジー、時代物の4つの分野にわけ、思い入れたっぷりのレビューを中心に、年表、インタビュー・対談記事一覧などで構成されています。

 実はこのムックに、私とむ影も参加しています。「理由」のレビューです。私が運営するホームページ「海の底の昼下がり」にも宮部みゆきのページがあり、感想を載せていますが、このなかの「理由」についての感想を元に書いたものです。

 本職のライターと、私のようなただのファンの文が混在していますが、それがまた宮部みゆきのバラエティ豊かなところ、いろいろな人に読まれていることを象徴しているようで、だからこそ私の文が載る理由もあるというものです。

 他にも、本の表紙が、単行本も文庫ものっていたのがおもしろかったです。同じ出版社でも、けっこう違ったりするものなんですね。文庫と単行本と両方買うことはまずないので……両方見覚えがあるのは人から借りたときは単行本で、自分で買うときは文庫本だった時ぐらいでしょうか。

 宝島社から送っていただいたのですが、本屋さんで平積みになっているのを見かけて、つい、買ってしまいました。送っていただいた分は自分用にして、買った分は、職場のお客さんが利用するマガジンラックに置いておくことにしましたよ(*^_^*)。




幼い頃の懐かしい写真

27才の母と3才のやまもも
 2011年11月3日は文化の日でしたが、この休日に私は両親の家の母(2001年に他界)の書斎の後片付けをしていました。そのとき、段ボールの底から古い写真帳が出てきました。開きますと、そこに若い頃の母と幼い私とが一緒に写っている写真が貼られていました。ずっと私の子ども時代の写真を探していたのですが、これまで1枚も見つからず残念に思っていたのですが、それが今日になってやっと1枚見つかり、そこに写っている母と子の姿をとても懐かしい気持ちでしばらく眺めておりました。

 私の母は、息子の私が言うのはいささかはばかられますが、なかなかの美人だったんですよ。私の小学校時代、友達と一緒に学校から下校している途中、偶然に母と出会ったときの友達の言葉がいまも強く記憶に残っています。友達は過ぎ去っていく母の後姿を見ながら驚いたように「お前のおかーちゃん、えらい美人やな!」と言ったものです。

  一方、私の方は、母の知人が道で私を連れて歩いている母と出会うと、その人たちはみんな私をどう褒めたらいいのか一瞬戸惑い、ちょっと間を置き、「お、お元気そうなお坊ちゃんですね」と異口同音にお世辞の言葉を発したものです。私の生まれ育った関西の地では、落語の「子ほめ」のように何か一言おべんちゃらを言わなければなりません。でも流石に「栴檀(せんだん)は双葉より芳しく、蛇は寸にしてその気をのむと申します。私も早くこんなお子さまにあやかりたい、あやかりたい」とまでは言えず、特に元気そうでもない男の子を評して咄嗟に「元気そうなお坊ちゃん」という適当な言葉を見つけ出したのだと思います。私は子ども心に大人たちは「えらい苦労してるんやな」と彼らに大いに同情したものです。

 1枚の写真を見つめていて、あの頃のいろいろ懐かしい思い出が蘇って来て、自然と涙が滲み出て来ました。それでこの「創作・エッセイ」のページに新たに載せることにしました。またこの写真に加えて幼い頃の母が家族と一緒に写っている写真なども新たに載せておきました。

2011年11月3日記






                                   

母のふるさとの街と家

       7才の頃の母とその家族           13才の母       

 私の母の昌子のルーツは宮城県の仙台であるが、戦前の日本統治下の台湾の台北で米問屋を営 む市川家の次女として生まれた。このような日本人のことを「湾生」(わんせい)と呼ぶそうだが、母は自分のことをそのように呼称したことは一度もない。しかし「自分のふるさとは台湾だ」といつも言っていた。

 私が幼い頃、私の母は問わず語りに彼女のふるさとの街と生まれ育った家庭のことを何度も何度も楽しそうに語ったものである。母のふるさとの街は大きく、道路や建物は立派で、沢山の人々や車がとても賑やかに往来していたという。住んでいた家も大きく立派で、お手伝いさんが沢山いて、ピアノもあり、何不自由のない生活を送っていたという。そして、彼女の父親はとても威厳があったが、またとても優しく非常な家族思いであったという。私は何度も何度もそんなことを聞かされて育った。

 幼い私は、母のこんな想い出ばなしを聞きながら、その想い出ばなしと比較して、自分が今住んでいるふるさとの町はなんてちっぽけなんだろう、自分たちはいまなんて恵まれない境遇にあるのだろうと思わざるを得なかったし、さらに自分の父に対しても、話に語られた私の祖父の「父親」像とは随分かけ離れた存在であると思ったものである。

 幼い私には、人間の屈折した心理など皆目分からなかった。だから、彼女が語る話の表層に出ているものを素直に受け取るだけであった。母がその想い出ばなしの奥の方にどんな複雑な想いを託していたのかなんてことは全く理解できなかった。

 母のふるさとの街は、日本の敗戦とともに外国の街となってしまったのである。敗戦の翌年(1946年)の3月に私の父と結婚した母は、その年の12月にふるさとの街を離れて「内地」に夫と一緒に「帰る」ことになった。残った財産は、一人当たり行李3個分とふとん袋1個だけだったという。その頃、私はまだ母のお腹のなかにいた。港に向かう列車のなかでふと窓外を眺めたとき、汽車の日本人引き揚げ者たちに手を振る数人の農民たちの姿(実際は父の教え子たちだったとのこと)が目に入り、彼らの温かな心に触れて胸が熱くなったという。「内地」には日本海軍生き残りの駆逐艦「ゆうづき」に乗って「帰国」し、到着した佐世保港からは列車を乗り継いで私の父のふるさとの町に向かった。父のふるさとの町に夜中にたどり着いたとき、雨がしとしとと降っていたが、母は肉親のだれとも会えぬ淋しさから、町の暗さにもまして心は暗く沈んでいたという。

 父と一緒に私の祖父母の家に身を寄せた母は、貧しい引揚者として肩身の狭い思いをし、夫の実家の雰囲気にも異郷の地の風土にもにあまり馴染めず、辛い日々を過ごすようになった。きっと彼女は、幼い子どもに想い出ばなしを語りながら、彼女が当時置かれていた淋しく辛くて哀しい境遇を自分で慰めていたのであろう。だから、想い出のなかで語られるふるさとの街はますます素晴らしく立派なものとなり、彼女が生い育った家庭はますます暖かで幸福なものとなっていったのであろう。特に彼女の父親への想いは人一倍強いものがあったようである。大きな米問屋を営んで沢山の人を使っていた彼女の父親は、とても威厳があって信頼できる人であり、そしてまた暇があると子どもたちをいろんなところに連れていってくれた子煩悩で慈愛溢れる優しい人として懐かしく記憶されていた。しかし、そんな彼女の父親は、敗戦でこれまで築いた財産を全て失い、彼女が暮らすこととなった町から遙か離れた遠い街で暮らしていた。

  敗戦で外国となってしまったふるさとの街を母が離れたとき、もう二度と再びこの懐かしい地に戻ることはないだろうと思ったという。しかし、ふるさとを離れて33年後に母はそのふるさとの街に再び帰る機会を得ることができた。私の父が仕事の関係で母のふるさとの街に出張することになったので、同伴して出かけることになったのである。

 しかし、33年ぶりのふるさとの街は当時の40万人程度の中都市からなんと270万の人口を抱える大都市に変貌し、経済成長による建設ラッシュを経て昔の面影を残す建物はほとんどなくなっていた。ふるさとの街は現実には地上から消え去っていたのである。彼女はそれでも自分が過ごしたふるさとの家を訪れたいと思った。しかし、あくまでも自分の夫の出張に同伴しての訪問である、そんな時間を割くことはなかなかできなかった。

 しかし、日本に帰国する前日の午後になって、母はある大通りに面したお店の看板に懐かしい通りの呼び名が残っていることを知り、それを手かがりに彼女が子どもの頃に住んでいた家を探すことになった。全く昔とは様子が変わっているその通りに思い切って足を踏み入れたが、道の両側に続く建物はどれも見覚えのないものばかりであった。それでもしばらく歩くと立派な屋敷が見え、その大きな建物の屋根を葺いている瓦の色と形になんとなく見覚えがあるように思われた。母は、そのことに勇気づけられてさらに通りを歩いて行った。すると今度は、道の両側に大きな常緑樹の並木が見えてきた。この並木の樹の種類は知らなかったが、記憶のなかの彼女の家の近くに確かにこんな感じの樹の並木があった。しかし、周囲の家並みは全く昔とは違っていた。

 母が子どもの頃に住んでいた家の隣には幼稚園があり、よくその運動場の鉄棒にぶら下がって遊んだものであった。しかし、そんな建物も広場も見当たらなかった。途方に暮れた母は、たまたま通りかかった中年の婦人に思い切って日本語で話しかけた。昔、このあたりに幼稚園がなかったですかと聞いたのである。幸い、この中年婦人は子どもの頃に日本語教育を受けており、母の言葉が通じた。彼女は、親切にもこの通りの昔の姿をあれこれ頭に思い浮かべながら、幼稚園の存在とその建っていた場所を懸命に思い出す努力をしてくれた。そして、しばらく考えてから、「ああ、あの場所に確かに幼稚園がありましたよ」と右手後方を指さした。勿論、そこには全く見知らぬた家々が立ち並んでいるだけであったが、母は自分が子供時代を過ごした場所に戻ってきたことを確信した。

 親切に場所を教えてくれたその婦人に厚くお礼を言ってから、母は傍らの並木に近づき、そのごつごつとした木肌にそっと手を触れてつぶやいた。

 「お父さん、お母さん、私は帰ってきました」

 昔、彼女が父親に手を引かれて家から街に出かけるとき、いつもこの並木の樹は彼女たち親子の幸せな姿を眺めていてくれたに違いない。そう思ったとき、私の母は彼女の亡父の大きな手のひらの温かいぬくもりが思い出され、両の目にどっと涙が溢れて来たという。

                                         1998/02/07記 
 
私の両親の懐かしの台湾

 今年(2015年)、台湾でドキュメンタリー映画「湾生回家」が興行収入1億円を超える異例のヒットとなったそうで、そのことについて野嶋剛が「東洋経済 ONLINE」に「今なぜ台湾で『懐日映画』が大ヒットするのか」と題して興味深い評論文を書いています。なお映画の題名にある「湾生(わんせい)」とは、戦前、台湾で生まれ育った日本人のことを指します。
         
 野嶋剛はこの評論文で、従来は「台湾では国民党の『国民化教育』によって日本への思いは『皇民意識』として克服すべき対象となった。日本でも、台湾統治という植民地領有行為そのものが批判の対象となった。/その結果、国家の領有や放棄というレベルとは本来別次元であるべき湾生たちの『人間の歴史』までが忘却され、軽視されてきたのである」としながら、近年になって台湾では「中国は中国、台湾は台湾」という認識が完全に定着し、「愛台湾(台湾を愛する)」というスローガンが政治的党派の違いを超えて共通のものなり、「その意味では、この湾生回家のヒットは『日本人も愛した台湾』という点が、より台湾の人々の涙腺を刺激するのだろう」と結論づけています。

 ところで、私がこの野嶋剛の評論文で最も印象に残ったコメントは、「記憶は環境によって育てられる面はある。台湾における日本時代への懐かしみは、国民党の苛烈な統治や弾圧が強化したものであろう。/日本での湾生たちの台湾思慕も、敗戦によって焦土となった日本は当時の台湾に比べてはるかに暮らしにくかったことや、日本で引揚者が受けた差別的視線なども関係しているはずだ。戦前の台湾経済水準は、日本の地方都市を大きくしのぎ、給料面でも東京に遜色ない金額を得ることができた。日本に戻った『湾生』たちが台湾での生活をより一層懐かしんだことは疑いようがない。(中略)映画で湾生たちは、口々に『私の故郷は台湾』と語っていた。そして、戦後の日本でずっと他人に語れない『台湾の私』を抱え込んで生活してきた。その感覚を映画の主人公のひとりである老婦人は『自分がいつも異邦人のような気持ちだった』と明かしている」という箇所でした。

 ああ、そうなんだ、私の母も「湾生」として「異郷の地」に生きる複雑な思いを子どもの私にだけ繰り返し語っいたものでした。私の母は自分のことを「湾生」と呼称したことは一度もありませんでした。しかし「自分のふるさとは台湾だ」といつも言っていましたし、私が幼い頃、彼女は問わず語りに彼女のふるさとの街と生まれ育った家庭のことを何度も何度も楽しそうに語ったものでした。母のふるさとの台北の街は大きく、道路や建物は立派で、沢山の人々や車がとても賑やかに往来していたとのことで、住んでいた家も大きく立派で、お手伝いさんが沢山いて、ピアノもあり、何不自由のない生活を送っていたそうです。私は何度も何度もそんなことを聞かされて育ちました。

 幼い私は、母のこんな想い出ばなしを聞きながら、その想い出ばなしと比較して、自分が今住んでいるふるさとの町はなんてちっぽけなんだろう、自分たちはいまなんて恵まれない境遇にあるのだろうと思わざるを得ませんでした。

 幼い私には、人間の屈折した心理など皆目分からなかったのです。だから、彼女が語る話の表層に出ているものを素直に受け取るだけでした。母がその想い出ばなしの奥の方にどんな複雑な想いを託していたのかなんてことは全く理解できませんでした。

 私の母の昌子は、台北一高女を卒業後に本土の奈良女子高等師範で学び、同女高師卒業後に台北に戻って女学校の教師をしていましたが、戦後の1946年に流用者として台北高校で教鞭を執っていた太田頼敏と見合い結婚しています。

 私の父の太田頼敏は、奈良市で生まれ育った人間ですが、日本統治下の台湾帝大(現在の国立台湾大学)の農学部で農業土木を学んでおり、日本の統治下で日本人技師による大型水利設施の建設が進み、台湾の荒れ地や沼地が豊かな田畑に生まれ変わったことを子どもの私に強調していました。また台湾からペスト、コレラ、赤痢、発疹、チフス、腸チフス、ジフテリアなどの伝染病の脅威がなくなったとも言っていました。

 しかし、私の母のように台湾に生まれ育った日本人の目には気づかないことにも気づいていました。それは、当地の日本人の台湾人に対するあからさまな差別的態度です。父は日本から台湾に来て、そのことに非常な違和感を覚えたことも子どもの私に正直に語っていました。

 今年(2015年)亡くなられた直木賞作家の陳舜臣さんがその著『青雲の軸』で、日本で一緒に受験した李騰志という台湾人が作者に「日本に来て、ちょっとふしぎに思ったことがあるんだ。こちらの人間には、あの日本人の目がない。意外だったなあ」と言っています。「あの日本人の目」とは、台湾での日本人の目に表れる台湾人に対する差別的態度のことです。

 私の父は、戦後も国民党政権が必要とする「留用者」として台湾に残され、一時台北高等学校の数学の教師として教鞭を執っています。そんな父は「俺は蒋介石(中華民国総統)から給料をもらっていた」と言っていたものです。台湾が日本の統治から中国の国民党の統治となった様子もよく聞かされました。

 そのとき、台北の台湾人は「光復」(祖国復帰)と言って歓呼の声をあげて「中国軍」を歓迎したそうです。ところが台北の街に入ってきたのは敗残兵同様のみすぼらしい兵隊たちでした(実際、中国大陸で共産党軍との内戦に敗れた国民党軍でした)。彼らの文化程度は低く、水道の仕組みも分からず、水を飲むために蛇口だけを壊して持っていこうとしたそうです。国民党政権の役人も腐敗しており、日本人資産の接収だけにとどまらない「略奪」まがいの行為や官庁・企業の役職の独占、賄賂等が横行し、治安も悪化したそうです。

 台湾人の失望は怒りとなって学生たちを中心とする抵抗運動が起こり(1947年2月28日に起こったので二二八事件と呼称されています)、父か教えていた学生たちの多くがこの抵抗運動に参加し、根こそぎ逮捕されていったそうです。この抵抗運動への徹底した弾圧は、その後の台湾に外省人と本省人の間に深い溝を作ったそうです。

 そんな体験を戦後の台湾でしている父ですが、台湾から故郷の奈良市に帰った後も青春時代を過ごした台湾を懐かしみ、よくアコーディオンで「夜来香」(イエライシャン)、「雨夜花」(ウーヤーホエ)等を奏でながら歌っていたものです。その後、仕事の関係で奈良市を離れ、松江市や鳴門市に移転した父でしたが、定年後に私が住んでいる鹿児島市に家を建てて晩年を過ごしています。自分が生まれ育った奈良市に帰る気は全くなかったようです。

 私の両親は、いま錦江湾の海上に屹立する桜島の全景を眺めることのできる高台の墓地に静かに眠っています。
2015年12月8日



母の遺著『箸の源流を探る』

 日本の食文化の特徴の一つに箸の使用がありますが、大昔は手掴みだったそうで、6、7世紀頃に中国から箸が渡来し、次第に普及していったと言われます。では中国ではいつ頃どのような理由で箸が誕生し、食事に使う道具として普及していったのでしょうか。

 そのことについて太田昌子著『箸の源流を探る 中国古代における箸使用習俗の成立』(汲古書院、2001年9月)が詳しく調べています。同書は、中国古代文献から箸使用の定着について考察するだけでなく、さらに中国の考古学界の発掘成果から箸の出土を考察し、さらに箸が発生し普及した理由等について食器具類・食事様式・居住環境の変化と関連させて考察を加えています。

 太田昌子は同書の50頁から57頁において、二本の棒でものを挟みあげる用具としての箸は、はるか三千年前以上前の殷代の遺跡から銅製の箸が発掘されているが、これらの箸は熱いものを挟み取る冶金か調理の道具であったろうと推測しています。そんな箸が食事用の道具として普及する過程については、同書の242頁から243頁につぎのように要約しています。

 「まず住居と食事様式の 変化、特に手食から箸使用への変化との関連について考察してみた。
 それにさきだち、新石器時代から春秋戦国時代ごろまでの住宅建築の発達状況を見ると、貴族階層の住む住宅は殷時代頃より次第に発達して、戦国時代には瓦葺きの高層建築も見られるようになった。このような広壮な貴族階層の住宅では、例えば調理は奴婢たちが別棟の厨房において行い、主人側の家族は別棟に運ばれた食物を、従者の介添えを受けながら食べていたと思われる。それに比べ一般庶民の住居は、戦国或いは漢時代においてさえ、萱葺き屋根の粗末な作りで、大きさも一と聞か二た間程度の狭小なものであったようである。従って調理と食事の場も分離せず、調理された食物はただちに家族たちに供せられたと思われる。そしてこのような環境であってこそ、元来調理用具であった箸がそのまま食事の場にも取り込まれて行く可能性があったと考えられる。
 一方食事作法についての意識には、中国古代の支配者階級の中で重んじられていた伝統的儀礼に束縛されていた貴族たちと、それとは全く無関係の一般庶民との間に、大きな差異があったと考えられる。貴族たちは、自らの地位と権威の保全のためにも伝統的な礼法に忠実であることを要求されたに違いない。したがって礼法で定められていた直接手で食べるという食事様式を、新しく箸を使用する方法へ変えるという発想は、全く生まれなかったと考えられる。一方庶民階層の人たちは、窮屈な礼法の埒外に置かれていたために、因習に縛られることもなく、便利でしかもよりおいしく食事を楽しむ方法をひたすら追い求めたと思われる。そしてこのような自由な雰囲気の中でこそ、元来は調理用であったと思われる箸のような用具でも、さほどの抵抗感なしにごく自然に食事の場へ取り込まれていったのではないかと考えるのである。
 そしてこのような食事様式の変化をよりいっそう促進させた要因として、春秋から戦国時代にかけて次第に人口が増加し、商工業も発達していった都市という環境の影響が大きかったと考える。その理由の一つは、材料の入手もまた加工も比較的容易で、値段もさほど高くはなかったと思われる箸は、早くから商業ペースに乗り、市場でかなりの数量が売買されたと考えるからである。
 そしてまた、当時は酒や塩、干し肉などの食品が市場で売られたのみならず、調理品も売られるようになり、街頭で食事を楽しむという習俗も生じつつあったようであるが、このように家族という閉じられた場から公共の場へと食事が開かれた時、新しい 箸使用習俗の定着と普及は大いに促進されたと考える。
 さらには、街頭において一定の値段で提供された調理品は、恐らく碗のような比較的小型の食器に盛られていたと思われるが、小型の碗は手では食べにくく箸やスプーンの方が適しているので、このような小型の食器の使用が広がるに従って箸使用の習俗もまた広がっていったことも考えられる。」

 太田昌子は、春秋戦国時代(紀元前770年に周が都を洛邑へ移してから、紀元前221年に秦が中国を統一するまでの時代)の社会的、経済的大変動の時期に、手食から箸使用の食事へと変化したことはほぼ間違いなかろうとしています。

 ところで、『箸の源流を探る』の著者の太田昌子は私の母で、息子の私から太田昌子の経歴と彼女の古代中国の箸の起源と普及の研究のかかわりについて紹介させてもらいます。

 母は、1993年3月に鳴門教育大を定年退職し、父と一緒に私の家の近くに引っ越してきました。私が両親の家を訪れますと、いつも母は自分がいま研究していることについてあれこれと楽しそうに語ってくれました。母は、まるで可愛い吾が子を慈しみ育てるような気持ちで自分の研究テーマに愛情を注いでいたのです。また、中国古代史がご専門の奈良女子大名誉教授の大島利一先生から箸の研究についていろいろアドバイスのいただいておりましたが、その大島先生からお手紙が届くと、いつも恋人からの手紙を見せるように嬉しそうに私に見せてくれました。私もよく母から箸の研究の原稿についての意見を求められ、根がヤクザな私は「もっとはったりを利かせて読者に興味・関心をもたせないと駄目だよ」なんて言っていましたが、生真面目な母にそれは無理な注文だったように思います。

 母の箸の研究を纏めた『箸の源流を探る』は残念ながら遺著となってしまいました。母が亡くなる前日の朝、私は両親の家を訪れているのですが、そのとき母は、「背中が痛くて熟睡できないのよ」と言いながらも、私に暖かいコーヒーを出してくれました。その後いとまを告げて帰ったのですが、まさかそれが永久の別れになるとは想像もしていませんでした。翌日には解離性大動脈瘤破裂のために突然あの世に旅立ってしまったのです。

 突然に死が訪れたためか母はほとんど苦しまなかったようです。その死に顔はとても安らかで、まるで若い頃の母の笑顔を彷彿とさせるものがありました。

 母の葬儀も全て終わり、父と一緒に両親の家に戻ったとき、母の書斎の机の上に愛用の広辞苑が開かれたままになっているのが目に入り、突然なんとも言えぬ寂寥感に襲われ、胸に熱いものがこみ上げて来ました。

太田昌子の経歴

 太田昌子は、1923年5月17日に日本統治時代の台湾の台北市大和町に市川實雄、まつよの次女とて生まれ、1943年9月に奈良女子高等師範学校の家政科を戦争中のために3年半で繰り上げ卒業し、同年11月に台北第四高等女学校の教員になりました。1946年3月27日に国民政府に留用されて台北高等学校で数学の教師をしていた太田頼敏と結婚、戦後まもなく奈良女子大文学部附属高等学校・中学校で家庭科の教諭となりました。1965年に奈良佐保女学院短大、1971年に島根大学、1987年に鳴門教育大学に勤務し、1993年に教授職を定年退職し、長男の太田秀夫のいる鹿児島市に居を定めます。

 本来は食物学を主な研究領域としていたのですが、奈良女子大附属高に勤務していた1960年代末頃から独学で中国の古文(漢文)のみならず現代文を習得して古代中国の箸の起源とその普及に関する研究を開始し、同校の校長をされていた奈良女子大の大島利一先生(甲骨文や金文に造詣の深い中国古代史の研究者)から激励されたこともあり、同研究に没頭するようになりました。そして、かつて奈良女附属高校の同僚だった奈良女子大の中塚明先生(日本史研究者)の紹介で研究成果を汲古書院から出版することとなりました。しかし、その原稿が脱稿し、校正も初校を終えた後、『箸の源流を探る 中国古代における箸使用習俗の成立』(汲古書院、2001年9月)が出版される直前の2001年1月19日に解離性大動脈瘤破裂で急逝しましたので、同書は太田昌子の遺著となりました。享年77歳でした。
2015年12月17日






奈良の春日若宮おん祭の思い出

 私は奈良市に生まれ育った人間ですが、昔から奈良に伝わる「東大寺のお水取り」、「春日大社の節分万燈籠」等の全国的に有名な伝統的行事を見物した経験がありません。それは私の両親、特に母が奈良の伝統行事を意識的に嫌っていたことと関係があるようです。

 そんな私でも、一月の若草山の山焼きは、家のほぼ真東に望める小高い若草山の数カ所から火が点けられて全山に燃え広がって赤々と夜空を焦がす様子を毎年見物することが出来ましたし、十二月中旬の寒い時期に開催される春日若宮おん祭には、幼い頃から四才年上の従兄弟と連れだって、母から渡された百円札をポケットにねじ込んで、国鉄奈良駅を出発した時代行列が奈良市のメンストリート三条通から春日大社参道の一之鳥居をくぐり抜けて練り歩く時代行列を見物した後、行列の通り道の両脇に賑やかに立ち並んだ露天で買い物を大いに楽しんだ記憶があります。

 奈良の子どもたちにとって「春日若宮おん祭」とは、三条通りから春日大社参道の一之鳥居をくぐり抜けて砂利道を進む牛に引かれた御車に乗った十二単の女性たちや鎧甲を身に纏った武者行列、白房の付いた大きな槍を担いだ奴さんたちが先頭を歩む大名行列等の時代行列を見物した後、様々な物が売られている露天で買い物を楽しむことでした。

 張られたテントに立ち並ぶ露天には綿菓子、水飴、ソース煎餅、たこ焼き、お好み焼き、赤、白、黄色の派手な飲み物、お面、射的、金魚すくい、ヨーヨー釣り、段ボール箱に入れられたヒヨコ、ヤドカリ、花火、針金細工等々が売られていました。

 特に記憶に残っているのは、沢山の子どもたちが群がるその前でフーテンの寅さんのようなテキ屋のおじさんが巧みな口上とともに口に小さな笛を含ませて様々な音を吹き鳴らしたり、紐の上を地球ゴマが見事に綱渡りする曲芸で、子どもたちは大いに購買欲をそそられたものでした。しかし、おそらく購入後に上手く笛が吹けたり駒の曲芸が出来た子どもたちは少なかったのではないでしょうか。

 なお、地球ゴマについて言いますと、テキ屋のおじさんが売っていたのはタイガー商会の本物の地球ゴマだったそうで、子どもたちが買わされたのはほとんどがニセモノの商品だったようです。このニセモノの地球ゴマは張られた紐からすぐポトンと地面に落ちました。はい、お話のオチが上手く決まったようです、ちゃん、ちゃん。
2017年01月23日





先祖の家

 母が亡くなったのが16年前の2001年1月15日でしたが、諸般の事情により今日2017年1月14日に十七回忌の法要を行いました。

 お坊さんの長い念仏を聞いている間にいろいろ生前の母のことを回想し、特に若い頃の母と年老いた頃の母との相違に驚いたことが思い出されました。

 よく最近になって耳にするのが、知人の近親者が年を取って怒りっぽくなったという話なんですが、これは老化に伴う自己抑制力や理性の低下が原因しているとよく言われます。それに対し、私の母は年を重ねるなかで性格が非常に丸くなって行ったことに驚かされたものですが、それはやはり母が理性の人だったからだと思います。

 若い頃の母は父の浮気に激しい怒りを表し、社会における男女の不平等に憤り、古くからの伝統的なものも全て因習的なものとして毛嫌いしていました。しかし歳を重ねるなかで性格が穏やかになり、なにかあるとすぐあいかわらず怒鳴り出す夫に従順な妻に身変していました。考え方も保守的になり、奈良市の油留木町にある先祖の土地を絶対に他人(ひと)の手に渡してはならないと言い出したことには大いに驚かされたものです。

 油留木の家は幕末に建てられたもので、先祖代々に渡って東大寺の寺侍だった太田家の武家屋敷風の建物でした。しかし明治になって失職した太田家の先祖(私の曽祖父は太田頼傳とのこと)は困窮して家と土地のほぼ半分は手放したそうです。私の両親は祖父からこの奈良の油留木の古い家を受け継ぎ、私たち一家はリホームを何度も繰り返しながらこの家に長年住んでいたのですが、両親も私もそれぞれ仕事のために奈良から離れ、油留木の家は知人に貸していました。

 私の両親は退職後、鹿児島市に住む息子である私の家の近所に新たに家を建てて移り住んで来たのですが、母が奈良の油留木の「先祖の家」を絶対手放すなと言い出しました。太田家の菩提寺に両親が墓参りしたのは、祖父母が亡くなり納骨式を挙げたときくらいだったと記憶しています。それだけに母が太田家の先祖の土地を守れだの手放すなと突然言い出したことには驚かされたのです。

 しかし母が他界し、また奈良の油留木の家に住んでいた知人も亡くなった後、私は父と相談してこの油留木の家を取り壊し、土地を隣人に売り渡すことにしました。私にとってこの油留木の家には「辛い思い出」が山積しており、父も「先祖の家」に対する執着など全くなかったからです。

 奈良の油留木にある「先祖の土地」を隣人に売り渡してほぼ半年後の夏の暑い日、私は妻と一緒に鹿児島から奈良を訪れましたが、百坪近い「先祖の土地」はまだ敷地内にコンクリートを打っている最中でした。そしてその土地は驚くほど狭くて小さなものでした。

2017年1月14日



                         


曾孫(ひまご)の墓参り

長男(8歳)と次男(1歳)
 私には二人の息子がいる。長男はすでに社会人として明石で働いており、次男も今年(2012年)3月に関西の大学を卒業し、4月から大阪で働くようになった。

 私は、高校生のとき、古文の教科書に載っていた平安時代前期の歌人の凡河内躬恒(おうしこうちのみつね)が「物思ひける時、幼(いと)きなき子を見て」詠んだという「今さらに何生ひ出づらむ竹の子の憂き節繁き世とは知らずや」(いまさら竹の子はどうして生えてくるのだろうか、この世は辛いことばかりだということを知らないのだろうか)という和歌に深く共鳴し、また自分自身が将来親となることに強い不安を抱くような生徒だった。それだけに、いま自分の息子たちが二人とも社会人として無事に巣立ったことにほっと安堵し、また親としてそれなりの責任を果たせたことを本当に 心から嬉しく思った。

 今年から新社会人として大阪で働き始めた次男の様子が気になっていた4月中旬の夜、明石在住の長男から電話で「おじいちゃんのお父さんの墓はどこにあるの」との突然の問い合わせがあった。

 私が小学生の頃に祖父は他界しており、勿論、私の長男にとって父方の曾祖父は知識の上の存在でしかない。長男にとって、そんな大昔の先祖とも言える人物のお墓の問い合わせだけに、私はいささか驚いたものである。

 実は、私には祖父母が亡くなったとき、親類と一緒に菩提寺に赴き先祖の墓参りをした記憶がわずかにあるだけであった。私の両親は、父方の故郷の地からは仕事の関係でずっと離れて暮らしており、また私の父が末っ子ということもあって、先祖供養の墓参りなど全くしなかったのである(威張ることではないですね)。そのため、私の母が2001年に急逝したときなど、葬儀屋さんから父方の菩提寺や宗派のことを訊かれたときも、父はそのことをすっかり忘れており、私が慌てて親類に問い合わせて、なんとか故郷の浄土宗の称名寺ということが判明したという、なんともあきれ果てた次第であった。

 そのため今回の長男の突然の問い合わせに対しては慌てふためくこともなく、即座に答えること
私の父方の祖父母
が出来た。しかし、それにしても曾孫(ひまご)が全く顔を見たこともない曾祖父の墓の場所を質問してきたことには正直驚きを感じ、その理由を訊くことにしたのである。

 長男の言うに、弟が今年の4月から大阪に就職したので、ケータイで連絡を取り、今度の5月の連休にどこかに一緒に行かないかと声を掛け、選択肢の一つとして「おじいちゃんのお父さんの墓参り」を挙げたところ、次男も曾祖父の墓参りがしたいとのことで、それで私に電話で先祖の墓について問い合わせたとのこと。

 それはきっとご先祖様も大喜びされることであろうと私は返事をし、君たちの曽祖父の名前は「勝(まさる)」で曽祖母の名前は「つきえ」と言うんだよと教え、私の故郷の町の称名寺の場所はパソコンのGoogleマップで簡単に分かるに違いないと伝え、最寄りの私鉄の駅から称名寺までの簡単な道順だけを教えた。

 その数日後に長男から「墓参りに行ってきました」との件名のメールが送信されて来て、「少し迷いましたけど、無事に見つけました! 駅から近いから、またいけそうです!」との文章に称名寺の先祖の墓の写真も添付されていた。その先祖の墓の写真には新たに供えられたと思われる花も写っており、電話で長男に訊いたところ、お寺の近くの花屋さんで手向けのために購入したとのことであった。

 嬉しいことである。父親の私は先祖の墓参りなどほとんどしたこともなかったのに、子どもたちが先祖の墓のことを気に留めてくれており、花も添えてくれたという。私が思うに、私の母が亡くなってから、その墓が鹿児島の市内に新たに建てられ、私たち夫婦が子どもたちと一緒に墓参りをするようになったのだが、私にとって墓参りとは「大人になってからの新たな体験」であったが、子どもたちにとっては墓参りはきわめて自然なことであり、今回、兄弟がともに関西で暮らすようになって、その記念として同じ関西の地の私の故郷の町に眠る先祖の墓参りを思いついたのであろう。勝(まさる)おじいちゃんもつきえおばあちゃんも「よう来た、よう来た」と言って初めて見る曾孫たちの墓参りに大喜びしたに違いない。
おわり  2012/06/09


父の大往生と家族葬

 2012年8月13日、私の父の太田頼敏が90才の高齢で他界しました。医者の死亡診断書には「誤嚥性肺炎」と書かれてありましたが、高齢に拠る体力低下に伴って起きた肺炎のようで、以前なら「老衰」と診断されたに違いありません。実際、父はほとんど苦しまず安らかにあの世に旅立って行きました。

 3年前に認知症になり、それ以降グループホームにお世話になっていましたが、3週間前にお医者さんから容態が危ないですよと言われ、家族としては住み慣れたグループホームの個室で最期を迎えた方がよいだろうと判断し、ホームに「看取り介護」をお願いし、病院には入院せず、個室に酸素吸入器と点滴装置を取り付けてもらい、それからはやまもも夫婦も2週間以上毎日ホームに赴いて見守ることになりました。その間、父はグループホームの職員さんたちや訪問看護ステーションの看護師さんたちの親身になっての手厚い介護や看護を受けていましたが、ついに1週間前に穏やかな大往生を遂げることが出来ました。

 穏やから大往生が遂げることができた父の一生は、子どもの私から見てもとても幸福なものだったと思います。父は5人兄弟の末っ子として生まれ、何不自由ない子ども時代を過ごし、当時としては僅かな人だけしか受けられなかった高等教育も受け、戦争中は軍事訓練は受けたようですが、実際に戦地に送られて血生臭い体験をすることはなかったようです。このことだけでも同時代の男性としては極めて幸せなことですよね。

 
 やまももの父(80才頃)
 では戦後の父はどうだったのでしょうか。父は自らの戦後の30数年間のことを1977年に発行されたある学会誌に「農業土木にたずさわって想う」と題してつぎのように回想しています。「敗戦と共に外地で約1年間の教育にたずさわり、そして焦土と化した日本に帰ったのが昭和21年(1946年)12月末のこと、それから県庁耕地課、教育者そして施工会社、続いてコンサルタント会社を経て現在まで実に30年以上が経過した。(中略)いまは山陰の山紫水明の地、S市にあるS大農学部に奉職している。」

 私は残念ながら、職業人としての父の姿はほとんど知らないのですが、若い頃の父がお酒が大好きで、よく夜遅く友人を連れて酔って帰宅して来たことは覚えています。テニス、社交ダンス、オートバイも大好きで、休日にはそれらの趣味を外に出て大いに楽しんでおり、家でじっとしている姿などほとんど見たことがありませんでした。浮気がバレて母とよく喧嘩もしていました。子どもの私には、父は我儘一杯やりたいことを好きなようにやっているように見えました。

 父が他界する11年前の2001年1月に母親が77歳で先立ち、父は独り身となった淋しさと本来の酒と女が大好きなことから、繁華街の天文館のバーに足繁く通うようになり、付き合っていたバーの女性から婚約破棄の慰謝料四百万円を請求されたときには、父に頼まれて私がなんと相手の女性と交渉して、法外な慰謝料支払いを拒否するなんて慣れない経験までさせられました。その頃、父の認知症がかなり進行しており、金遣いも荒くなった結果、通帳に何千万円と記載されていたものが二年間の間にほぼ無くなってしまい、仕方がないので私の妻が父の通帳を管理するようになりました。

 そんな父ですが、元気な頃、私に学生時代を過ごした場所(日本統治下の台北)や勤務地の話などは懐かしそうに語ることもありました。しかし、故郷(奈良市)のことはほとんど話題にすることはありませんでした。それが晩年になって認知症に罹り、いろいろなことが記憶からどんどん喪失していく中で最後に残った思い出は故郷の奈良のことだったようです。「ここは奈良か」「奈良に帰らんとあかん」「奈良で兄貴たちが待っている」等の言葉を繰り返し発するようになりました。これは私には意外なことでした。亡くなる直前、父は故郷の両親や兄弟のことを思い浮かべながらあの世に旅立ったに違いありません。

 父が他界する前日、やまもも夫婦は母の墓にお参りに行き、父の容態を伝えたのですが、もしかしましたら、そのことを知った母が父の枕元に立って「ずいぶん頑張ったんだから、もうこちらにいらっしゃい、家族も大変よ」と伝えに来たかもしれませんね。

 父が高齢で他界し、また父の親類や知人の大半が遠隔地の住人等のことから判断し、葬儀は家族葬で執り行うことにしました。家族葬は8月15日の終戦記念日に真夏の太陽が照り輝く昼過ぎから行われましたが、葬儀の雰囲気もその日のお天気のようにカラっとしたものでした。私の父が美空ひばりが大好きで、よく彼女が歌う曲をアコーディオンで演奏していましたので、葬儀社から「故人様のお好きだった曲等を生演奏致します」と言われたとき、「川の流れのように」をお願いし、葬儀の時にはバイオリンとフルートでこの曲を生演奏してもらいました。

 出棺前に棺に眠る父の遺体の周囲に参列者が花や遺品を飾りましたが、葬儀の司会者の別れの悲しさを強調する言葉がなんだか過剰演出のように感じられ、式の終了後に長男などは私と父との親子関係の内実を係の人に少しは説明しておいた方が良かったのじゃないのとジョークを飛ばしていました。

 葬儀が行われたその日の夕刻に鹿児島市の北部斎場で火葬を行い、8月19日には谷山御所霊園で納骨式を行いました。この霊園からは桜島と錦江湾が一望でき、母も生前にこの景色がとても気に入り、父と相談して墓地をここに購入していましたが、2001年に母がこの霊園の墓にすでに納骨されていました。これからは夫婦仲良く目前に広がる桜島と錦江湾の風景を楽しんでもらいたいものです。

両親の眠る墓から望む桜島

 葬儀は家族葬で済ませたので、死亡通知の葉書にも「葬儀は家族のみで過日会い済ませました。(中略)尚、御香典、御供物、忌電等の儀は堅くご辞退申し上げます」と印刷することにしました。しかし、通夜、葬儀、火葬、納骨式と父の他界後になすべきことを一通り終わったその夜、妻が私に「家族葬」でよかったのかしらと呟きました。母が77才で急逝したときは、喪主となった父によりとても盛大に葬儀が執り行われており、派手なことが好きだった父の意思としては自分の葬儀もきっと盛大にやってもらいたかったのではないだろうかと言うのです。

 そう言えば、父の二番目の兄が15年前に88才で他界した時、私が葬儀に参加したのですが、その時の様子を父に報告に行ったときに最初に訊かれたのが、「わしと姉とで花輪代を送ったが、ちゃんと飾られていたか? 立派に見えたか?」というものでした。そしてその二日後に会ったとき、父は開口一番、「姉から電話があってとても豪華絢爛だったそうだ」と喜色満面で言い出し、私はすぐにはピンと来ず、「古いお寺で葬儀があったから、そんなに派手な感じはしなかったよ」と返事しましたら、「違う違う、わしたちが贈った花輪のことや」との返事でありました。

 そんなことを思い出しますと、今回の地味な家族葬は派手好きな親父には申し訳なかったかなと思いましたが、我儘一杯やりたいことを好きなようにやって賑やかに生き、90才で大往生遂げたのですから、本人の葬式くらい静かなものでよかったのではないでしょうか。


 9月29日には、両親の住んでいた家で父の四十九日の法要を行いました。正確には父が亡くなってから48日目なんですが、諸般の事情から今日行うことになったのです。父の葬式は家族葬で行い、死亡通知の葉書にも「葬儀は家族のみで過日あい済ませました。(中略)尚、御香典、御供物、忌電等の儀は堅くご辞退申し上げます」と印刷して親類や知人など限られた人たちのみに出したのですが、それでも何人かの方から丁寧なお悔やみの手紙や葉書をいただきました。父を偲んでそれらのなかから印象深い内容のものを御紹介したいと思います。

 Aさん
「常に美しい心で人生を看ておられたニイチャン。日本中が盆灯をつける日に穏やかにあの世に旅立っていかれたのですね。ご夫妻の人生の生き方、私は自分の指針にしております。(中略)鹿児島にお二人で行かれた、そのお心、人間(じんかん)至る所に青山在りの親の心は、私の『親として子の方に動こう、呼ぶより、未来の方へ年寄りが行こう』と思う判断の決定、指針として仰ぐことになりました。」


 Bさん
「奈良の旧家に生まれ何不自由ない生活をされていたぼんぼんが、勝手気ままな愚かな妻(貴方様にとっては賢母だったようですが)に引っ張り回され、生まれ故郷に帰ることなく鹿児島という異郷の地で亡くなられたことに同情の念を禁じえませんでした。」

 Cさん
「私が大学生の頃、叔父さまご夫妻宅に時々立ち寄らせて頂きました。その節、若々しく豪放な叔父さまから声を掛けて頂き、近くの飲み屋でお酒を御馳走になり、何かとご指導いただいた楽しい記憶もあります。」

 Dさん
「思うがままに生き、お幸せな生き方だったのかもしれません。家族の皆様は何かとご苦労も多かったと推察致しますが、いつも陽気で人を楽しい気分にさせるのが上手な方でした。」

 Eさん
「若しあの世が存在するならば、最愛の奥様をはじめ、おじい様、おばあ様、伯父様、伯母様、私の父、その他大勢の親しい方々に『よく来たよく来た』と温かく迎えられて大喜びなさっている叔父さまのお姿を思い浮かべたい心境でございます。」



 生前の父を知っておられる方々からのこれらのお悔やみの言葉を拝見し、いろいろ感慨にふけっているやまももでありました。
2012年9月30日

家族揃って先祖の墓参り

 私の父は2012年8月13日に90歳の高齢で安らかに他界しました。晩年になって認知症に罹り、いろいろなことが記憶からどんどん喪失していく中で最後に残った思い出は故郷の奈良のことだったようで、「ここは奈良か」「奈良に帰らんとあかん」「奈良で兄貴たちが待っている」等の言葉を繰り返し発していました。亡くなる直前、父は故郷の両親や兄弟のことを思い浮かべながらあの世に旅立ったに違いありません。

 それから3ヵ月後、故郷への想いを残して他界した父の代わりに息子の私が家族揃って奈良市にある先祖の墓にお参りをすることにしました。やまもも夫婦は11月16日(金)夕刻に新幹線に乗って鹿児島から大阪に出発し、翌日17日の午前中に関西にいる息子たちと大阪市内で合流し、同日のお昼過ぎに奈良市内の父方の先祖が眠る称(稱)名寺(鎌倉時代に建てられた興福寺の別院)というお寺に家族四人でお参りに出掛けました。

 17日の奈良への墓参の日はずっと小雨が降っており、傘を差してのご先祖様へのお墓参りとなりました。なお、私自身は祖父母が亡くなったとき、親類と一緒に菩提寺に赴き先祖の墓参りをした記憶があるだけで、称名寺に到着しても先祖の墓がどこにあるのかさっぱり分りません。ただ、幸いに今年(2012年)の6月に息子たちが先祖の墓参りをしており(前掲エッセイ「曾孫(ひまご)の墓参り」参照)、息子たちに案内してもらって先祖の墓前に赴き、新たにあの世に行った末っ子で甘えん坊だった父をどうかよろしくとご先祖様たちにお願いしました。

 父が他界したとき、私の従姉からもらった手紙に「若しあの世が存在するならば、最愛の奥様をはじめ、おじい様、おばあ様、伯父様、伯母様、私の父、その他大勢の親しい方々に『よく来たよく来た』と温かく迎えられて大喜びなさっている叔父さまのお姿を思い浮かべたい心境でございます」とありましたが、きっと大歓迎を受けているに違いありません。

 18日の日曜日はお天気も好く、その夕刻に鹿児島に新幹線で戻るまでにかなり時間があったので、私たち夫婦と次男の三人であらためて大阪から奈良公園に紅葉狩りに出掛けることにしました(長男は仕事のために参加できず)。


 懐かしい故郷の景色というものはどこで生まれ育ったかによって人様々でしょうが、他界する直前の父のまぶたに自然と浮かんだものは故郷の両親や兄弟のことともに秋の紅葉が美しい奈良公園だったに違いありません。なぜなら、私自身もきっとそうだろうと思うからです。私は、奈良に生まれながら両親の影響から奈良県人としての帰属意識が極めて希薄な人間でした。しかし、すでに生まれ故郷の奈良での生活より鹿児島での生活の方が年月的にはずっと長くなっているのに、奈良に対する想いは年毎に強まっています。きっと永久の眠りにつく直前にまぶたに浮かぶものは、秋の奈良公園の緑の芝生に紅葉の葉が錦のように散り敷いている風景に違いありません。

2012年11月23日


亡き父と私のパソコン事始め


 私の父はお世辞にも家庭を大切にする人とは言えず、私はそんな父から強い影響を受けることはほとんどありませんでした。ところが、父の他界後いろいろと回想している中で、私が30代後半から活用を始めたパソコンに関する限り、私の父が極めて重要な役割を担っていたことにはたと気がつきました。

 私がパソコンは使用するようになったのは1984年の12月からで、使用機種はカシオのMSXパソコンのPV7でした。これは私の父が3才の初孫(私の長男のことですね)のクリスマスプレゼントとして購入したものだったのです。

 カシオのMSXパソコンPV7は、1983年に任天堂から販売されたファミリーコンピュータ(ファミコン)の対向機種として翌年の1984年のクリスマス商戦に向けて派手に売り出されたMSXパソコンでした。私の父がこのPV7を当時まだ3才になったばかりの私の長男のクリスマスプレゼントとし購入したのです。

 なお、父は最初はファミコンを買うつもりでいたようです。しかし、お店の人からこのPV7はゲーム機としてだけではなく、キーボード一体型で初心者用の覚えやすいパソコン用プログラム言語であるBASICをROMで搭載しており、ゲーム機として遊べるだけでなく、プログラミングの練習も出来ますよと言われたようで、思わず食指が動いて衝動買いをしてしまったようです。父の専門は土木工学で、当時すでにエプソンのハンドヘルドコンピュータHC-20を購入してBASIC言語を使って技術計算に活用していました。それで、PV7もBASICを使えるということを聞かされ、孫のクリスマスプレゼントとしてファミコンの代わりにこれを選んだようです。

 では、私の長男はこのPV7を喜んだでしょうか。最初はテレビに接続してもらい、付属に付いていたパチンコゲームのカセットを同機のROMカセット用スロットに入れてチンジャラジャラと遊んでいましたが、2、3日もするとすぐ飽きてしまい、このPV7は見向きもされなくなってしまいました。

 そこでお父さん(私のことですよ)の登場です。PV7の簡単な説明書にはBAICの起動方法と幾つかのBAIC言語で書かれたゲームのプログラムが紹介されていました。しかし、当然のことですが、私にはこのプログラムの意味が全く分かりません。それでBASIC言語の基礎的解説書を書店で購入し、PV7にBASIC言語に基づく簡単な計算式を打ち込みましたら、接続したテレビの画面に計算結果が表示できるではありませんか。嬉しかったですね。自分には縁遠い存在だと思っていたコンピュータを私も操作できるということになんとも言えぬ快感を覚え、その後は試行錯誤を繰り返しながら次第に複雑なプログラムも組めるようになりました。テレビ画面上にロケットを飛ばして、ミサイルで撃ち落とす簡単なゲームも作れるようになりましたよ。

 ただ、PV7にはBASICで作成したプログラムを保存する記憶装置がありません。それでテープの表面に塗布された磁性体にプログラムを記憶させたり読み出せるカセット式テープ機を外部記憶装置として使うようになり、ちよっと長めのプログラムも作れるようになりました。しかし、この外部記憶装置では苦労して作ったプログラムが正しく記憶されないことも度々ありました。

 そのときに私が次に目を付けたのが父の以前使っていエプソンのハンドヘルドコンピュータHC-20でした。このHC-20はマイクロソフト製BASICを内蔵しており、作成したプログラムは液晶表示部で見られ、それをマイクロカセットに保存・読み出しすることが可能という優れものでした。この父のHC-20を借りて長文のプログラムを組んでみますと、それらを確実に保存し活用することができるようになりました。私はこのHC-20を使って20項目ほどのアンケートを一括処理するプログラムを作成し、実際に仕事で活用したこともあります。

 しかしHC-20も実際に仕事にフルに使い出すとその限界もすぐ見えて来ました。液晶表示部が20桁×4行しか見えず、マイクロカセットの外部記憶装置は16Kバイトしかありません。これでは複数の長文プログラムを保存することができません。

 それで私は大阪に出張したとき、日本橋電気街で1985年発売のNECのPC9801-U2を購入しました。これは3.5インチのフロッピーディスク(320kb)ドライブの付いた16ビットパソコンで、このパソコン購入以降、BASICでプログラムを組むだけでなく、ワープロソフトや表計算ソフトを購入して使用するようになり、いつのまにかBASICによるプログラミングは記憶の彼方に消えて行きました。

 以上が私のパソコン事始めと言えるものなんですが、幼い頃から余り影響の受けることがなかったと思っていた父親でしたが、大人になってから最初に使用したパソコンの使用機種に関しては私の父が極めて重要な役割を担っていたことに気がつき、パソコンのことを通じて改めて亡き父のことを偲ぶことができました。
     2012年9月9日


 赤いミズヒキの贈り物

 わが家は南に向いて東西に細長く建てられているが、その前庭の木々の周辺に、その大半は風の贈り物だと思われるナズナ、ホトケノザ、カタバミ、ハコベ、シロツメクサ、フキ、イヌノフグリ、スミレ、タンポポ、スギナ、ドクダミ、ネジバナ、ツユクサ、アザミなどの野草がたくさん生えている。

 そんなわが家の野草の一つにミズヒキというタデ科の多年草がある。ミズヒキと命名されているように、30センチから40センチくらいの細長い濃紅色の花穂を伸ばすこの野草は、お祝いの包み紙にかける水引にそっくりである。長塚節が、「秋の日は水引草の穂に立ちて既に長けど暑きこの頃」と詠んでいるが、ミズヒキは夏から秋にかけて穂をのばし、そこに赤い小花をまばらにつけるのである。わが家の庭の西側奥に高さ7メートルくらいのヤマモモの木が植えられているが、少し日陰になる木の下などを好むミズヒキは、この濃緑色の常緑の葉を大きく茂らせている木の根元周辺に元気に育っている。

 ところで、わが家のミズヒキは、ある人から数年前に一鉢もらったものだ。贈り主は、私が帰宅するときに街で拾ったタクシーの運転手さんである。初め、このタクシーの運転手さんといろいろよもやま話をしていたら、私の趣味の一つが庭いじりだと知り、運転手さんの話は俄然熱が入ってきた。庭木や園芸の草花の話、そしてさらには野生のエビネ(ラン科の宿根草)のなかで珍しい種類のものは非常な高値で取り引きされているといった話になり、そこから野草の話に自然に話題が移っていった。そのときにミズヒキの名前が出てきたのだ。私は、ミズヒキなんて名前の野草のことを全く知らなかった。それで、運転手さんにいろいろ質問をした。そうしたら、この運転手さん、「ミズヒキがたくさん生えている場所を知っていますから、そこから採取してお客さんにあげますよ」と言ってくれた。

 わが家の前でタクシーを止め、料金を払ったとき、この運転手さん、細面の顔にかけられた眼鏡の奥で優しそうな目を微笑ませながら、「明日の土曜日、私は非番で野球の試合がありますが、その帰りにミズヒキをきっと持ってきます」と約束してくれた。車中の話では、運転手さんは草野球チームのメンバーだそうである。

 「明日の土曜日の夕方頃には持って来ます」との話だったので、私はお返しの菓子折などを用意して、翌日の夕方ずっと待っていた。しかし、いつまでたっても運転手さんはやって来なかった。落ち着かない気持ちで待ち続けたが、日がすっかり暮れ、家の前の街灯が点灯して暗い夜道を照らすようになっても、あの運転手さんはやはり姿を見せなかった。私はなんだかガッカリした。勿論、ミズヒキが手に入らなかったので落胆したのではない。

 つぎの日の日曜日、私はもうすっかりミズヒキのことなど忘れていた。そんなお昼過ぎ、一階の居間にいたらピンポーンとインターホンが鳴った。受話器を取り上げたら、なんとあの運転手さんだ。ミズヒキを持ってきたとのこと。慌てて玄関まで飛んでいって、ドアを開けたら、片手に鉢を持った眼鏡の運転手さんがそこににっこりと笑って立っていた。「いゃー、昨日の野球の試合で転んで頭を打ってしまいましてね。病院で傷口を数針縫ったんですよ。そのため、届けるのが今日になってしまいました。遅れて申し訳ありません」との話。頭のてっぺんの包帯が痛々しい感じであった。こっちが恐縮し、家に上がってもらおうとしたら、仕事があるとのことで、そのままきびすを返して帰っていこうとした。私は慌てて呼び止め、準備をしていた菓子折を家の中から持って来て、厚くお礼を言ってそれを渡した。しかし、突然の訪問だったので、すっかり慌ててしまい、この親切な運転手さんの名前や住所などは聞き漏らしてしまった。

 タクシーの運転手さんからもらった一株のミズヒキは、ヤマモモの木の西側の根元に植えた。ミズヒキは、年を経るごとに数を増やし、生育領域を広げていった。この野草は、鈎のついた実が成り、その実が人間や動物などにくっついて生育領域を広げるそうである。余所の猫がわが家の庭にトカゲやスズメなどをねらってよく遠征して来る。彼らがミズヒキの実の運び屋となるのだろうか、庭の意外な場所に、慶事の贈り物にかけられる赤い水引のような花穂が何本も風に揺れている姿を発見することがある。

 私は、この赤い小花をつけた細長い花穂を見るたびに、頭に包帯を巻いたあの眼鏡の運転手さんの優しい笑顔を思い出す。あの運転手さん、いまも珍しい野草の小鉢を片手に持って人のおうちのインターホンを押し、小さな善意を贈り物として届けているのであろうか。
                       
                                  おわり  1998/01/14

犬猫の尻尾

 世間にはいろいろな事情から飼い主がなくて戸外をうろつく野良犬がたくさんいますね。それで、今夜はそんな可哀想な野良犬を拾って育てて来た知人のアイさんのことをちょっと紹介させてもらいます。

 私の長男が小学生で次男はまだ生まれていない頃のことですが、私たち夫婦は長男を連れてアイさんのお宅に初めて遊びに行きました。そのときアイさんのお宅の庭には犬が7匹もいましたが、その犬たちはみんな野良犬として街をうろついていたのを拾ってきたものでした。猫も家の中をたくさん出入りしていましたが、その猫たちもやはりもとはノラ猫だったそうです。

 このアイさんのお宅は、鹿児島市の中心地からかなり北方の犬迫町にあり、周囲は田あり山あり川ありと自然環境にとても恵まれており、私が訪問したときは近くの山で採ったタラの芽をテンプラにしたものを食べさせてもらいました。しかし、アイさんは特別の自然環境愛好家というわけではありません。アイさん夫婦がそんな場所に住むようになった最大の理由は、たくさんの犬や猫を飼っても近隣の人々に迷惑にならない環境が得られるからでした。

 アイさんの話ですと、最初に野良犬を拾って育てたのはいまから30年くらい前のことだったそうです。ある日、家の近くの道路を痩せ細ったビーグルがふらふらと歩いているのを見かけたそうです。しかし、可哀想だとは思っても、そのときは飼うつもりはありませんでした。ところが、数日のうちにこの犬を三度も見かけ、その哀れな姿に耐え切れずに家で飼うことになったそうです。

 それから以降、野良犬を家に連れてきて育てることが多くなり、住居もそれに適した場所と家屋を選んで住むようになりました。しかし、多数の犬を飼うのは経済的にも時間的にも大変なことです。毎日の餌代がバカになりませんし、病気をしたときには多額の治療費が掛かります。毎日散歩させなければなりませんし、犬が病気になれば看病しなければなりません。猫の場合は、必ず避妊手術をしてから飼うようにしたそうです。

 そんな心優しいアイさん行為に私は芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の話を連想しました。芥川龍之介のこの「蜘蛛の糸」という作品では、極楽にいらっしゃる御釈迦様が地獄の底にいるカンダタをご覧になって、彼が現生で悪事の限りを尽くした人物であるが、ただ現生で一匹の蜘蛛を助けたことがあるのを思い出され、カンダタを救い出すために極楽で美しい銀色の糸をかけていた蜘蛛の糸を地獄の底へ下ろされますね。ですから私はアイさんにつぎのような冗談を言ったものです。「功徳を積んだアイさんの天国行きは間違いないですね。それでも閻魔さまが間違ってアイさんを地獄に送ったら、犬や猫たちが尻尾を繋いでアイさんを地獄の底から助け出そうとするでしょうね。蜘蛛の糸ならぬ犬猫の尻尾ってわけです」とね。

 現生でアイさんに助けられ、いまは天国で幸せに暮らしている犬や猫たちがアイさん救出のためにつぎつぎと尻尾を繋いで地獄に降りて行きます。それでも地獄の底は深くてなかなかアイさんまで届きません。いぬ、ねこと増えるたび「うんとこしょ どっこいしょ」・・・、それでもアイさんには届きません。ねこにねずみも加わって「うんとこしょ どっこいしょ」・・・そして、やっとかぶが抜けました。あれっ、いつの間にか絵本「おおきなかぶ」の話にすり替わっていましたね。

 最近、アイさんが飼っていた犬は一匹だけでしたが、それが老衰で死にました。それで、アイさんは自分の年齢のことを考えて、もし新たに犬を拾って飼い出しても、最後まで面倒を見られないかもしれないだろうと判断し、もう犬は飼わないと言っています。しかし、ときどき家の近くを歩いていて、傍らに一緒に歩く犬が一匹もいないことになんとも言えない淋しさを覚えるそうですよ。

2006年04月15日 記




蔵書一千冊の古書店買取り価格総額はお幾ら

 私が年金受給年齢に近づいた頃、健康も害しており職場からの退職を考えるようになりました。しかし退職となればそれに伴う心配事がいろいろありました。

 えっ、自分がいなくなったら職場が困るのではないか、ですって。そんなことは天下御免の窓際族の私ですからこれっぽっちも考えませんでした。しかし、当時は日本年金機構の厚生年金基金の記録ミス問題が大騒ぎとなっていた頃でしたから、年金制度については全く無智蒙昧な私でしたから、確かに退職後にちゃんと年金が受け取れるかどうかってことには些か不安を感じ心配しましたよ。

 しかし私が一番気になったのは蔵書の処分のことでした。これが骨董品なら意外な高額で売れる可能性もありますが、書籍ばかりは自分にとっては必要だったとしても、全く関心のない人にはただのゴミの山でしかありません。

 いよいよ退職日も近づき、職場に置いていた書物を公費購入と私費購入とに選り分け、公費書籍は図書館に全部返却し、私費で購入した書籍は総て箱詰にして引越し業者に頼んで自宅の倉庫に運送してもらいましが、その個人蔵書が一千冊以上もありました。

 有無相通じるということで、古書店を通じて必要だと思う人の手に渡ればいいのですが、鹿児島市内では私の一千冊近い蔵書の大半を引き取ってくれそうな古書店などあるとは思えません。以前、亡き母の書斎の蔵書を鹿児島市内のある古書店に引き取りをお願いしたとき、全蔵書の10分の1くらいしか引き取ってもらえなかった経験があり、後の10分の9をゴミ処理に出した苦い経験もしています。

 そんな訳で私の蔵書一千冊の大半を引き取ってもらうのには出張買取りをしてくれる神田の古書店にお願いすることにしたのです。旅費分を差し引かれることも当然覚悟しての出張買取りの依頼です。それで、退職後一年近く経ってから、ネット検索で東京神田の神保町のある古書店が出張買取りをしてくれることが分かり、箱詰めにしていた蔵書を全て棚に出し、蔵書の概要が分かるように写真に撮り、去年の5月(2014年5月4日)に連絡を取って引き取ってもらうことになりました。



 それでも、花のお江戸の神田神保町からは九州最南端に位置して桜島の噴煙上がる鹿児島は遥か遠くに離れていますね。その後なかなか実際に引き取りには来てもらえず、昨日(2015年9月15日)になってやっと引き取りに来てもらうことになりました。

 こちらとしては書籍の買い取り価格などは二の次で、少しでも必要とされる方々に渡れば幸いだと言ったこともあり、棚に横積みにした千冊近い蔵書のほとんどをきれいさっぱり引き取ってくれました。ところで、さてその買い取り価格総額はお幾らだと思われますか。計一万円也でしたよ。でもね、ゴミとして紙屑業者に引き取りをお願いしてその代金を払うことを考えればありがたいことかもしれませんね。いやー本当にありがたかったです。本当にありがたい、ありがたい(ちょっとクスン)。
2015年09月16日

                           

本田のじいちゃんと孫のはんちゃん、のんちゃん

 私の義父の本田又雄が2016年11月中旬に他界しました。享年90でした。本田又雄は、1926年3月5日に米国カリフォルニア州サンタクララ郡に生まれましたが、熊本市で育ち、1951年に熊本県飽託郡に生まれた竹山英子と結婚しています。

、その葬儀も無事に終わった後、関西に勤務する私の長男、次男から「じいちゃんの思い出」についてのメールをもらいましたので、義父への追悼記念としてこのブログにアップさせてもらいます。

 なお初孫のはんちゃん(明石の福祉施設勤務)は、福岡の病院で産まれています。当時妻の実家が福岡に在ったからです。義父は毎日仕事帰りに初孫の顔を見に病院に通いました。鹿児島に帰った初孫のお食い初めの日には義父が福岡から駆けつけて祝ってくれました。妻がはんちゃんを連れて福岡の実家に里帰りしたときには、いつも義父が嬉しそうに「はんちゃん、はんちゃん」と言って初孫と一緒にお風呂に入っていたものです。また自転車に乗せて散歩によく出掛けており、そのおじいちゃんと孫のほほえましい姿が忘れられません。大泉逸郎が「孫」という題名の歌謡曲で「なんでこんなに可愛いのかよ/孫という名の宝もの」と 歌っていますが、まさにその通りの思いを持ったおじいちゃんがそこにいました。

 妻の両親が鹿児島に移ってからも、明石に就職したはんちゃんが鹿児島に帰って来たときはいつも義父母の家に立ち寄っていました。義父が88才になったとき、はんちゃんが米寿のお祝いを率先して企画し、4人の孫たちがおじいちゃんに帽子や花束を贈呈していました。はんちゃんが帽子をじいちゃんの頭に被せたときは、些かはにかみながら祝いの席のみんなに披露していたものです。
 
 義父ははんちゃんが年頃になったとったとき、「はんちゃん、結婚はまだかい」といつも声を掛けていましたから。そんな初孫が結婚すると聞いたときは大喜びしたものです。ところが彼の結婚式の約1ヶ月前に腰骨を折ってしまい、神戸での結婚式の参加が危ぶまれました。しかし入院した病院で適切な治療やリハビリを受けることが出来、また本人の何とか結婚式に参加したいとの強い思いにより予想より早く回復し、鹿児島から車椅子に乗っての参加が可能となりました。はんちゃんは初孫として晩年のおじいちゃんに素晴らしい思い出をプレゼントをしてくれました。

 そんな初孫のはんちゃんがじいちゃんの思い出としてつぎのようなことを書いています。

「まず1つは焼酎です。福岡の福間に遊びに行き、私はじいちゃんの膝や傍に座り、みんなで食事を囲んだときに、必ず焼酎にポットからお湯を入れて、お湯割りを飲んでいました。あの、芋焼酎とじいちゃんの匂いは今でも思い出します。
 次に2つ目は自転車です。孫達みんなじいちゃんの自転車の後ろには乗せてもらってます。色々連れて行ってもらいましたが、行き着く場所の思い出ではなく、私は、真面目なじいちゃんが道行く若い女性に『お姉さん! 今何時ね?』と熊本弁で声をかけたことを鮮明に覚えてます。なぜかというと、真面目で真っ直ぐなじいちゃんが、若い女性に声をかけるだなんて、と驚いたからです。ただ時間が知りたいだけの事だったんでしょうけどね。
 3つ目は、マッサージと就寝の時間厳守です。これも福岡の福間に孫が遊びにきても、6時半か7時半くらいか忘れましたが、必ず決まった時間には二階に上がり、マッサージのベッドでマッサージしてましたね。それから就寝するようで、朝まで下りてくることはありませんでした。孫が来ようが自分の決めた時間を守るじいちゃんでした。
 この3つ以外にもたくさんエピソードはあります、初孫として愛されていたことはパパさんの方が知ってるのではないでしょうか。福間の広い家に優しい笑顔で迎えてくれたじいちゃん。いつも笑顔で、親しみやすかったですね。結婚はまだかと手紙が来たり、冗談なのか分かりませんがもう諦めてなんて手紙が来たりしたものです。私の結婚式には喜んで参加してくれましたね。晩年は耳が遠いのもあったのか、あんまり思いを話せる事はなかったですが、手紙をたくさん頂きました。手紙を返す事が少なくすいません。
 真面目で2人の娘にも4人の孫にも、ばあちゃんにも愛されていたじいちゃん。みんな誇らしく思っています。最後は遺す言葉も伝えられず無念だったと思いますが、きっと私達の声は届いていて、私の休みに合わせて旅立ちましたね。最後まで人様に迷惑かけないように、真面目なじいちゃんらしいな思しました。本当にありがとうございました。私の子供達にもしっかり伝えていきます。」


 また次男ののんちゃん(大阪の病院に社員として勤務)も下記のような本田のじいちゃんについての思い出を書いています。なお彼は、鹿児島で産まれています。

「僕が小学校入るか入らないかだった頃、両親と兄と4人で鹿児島から福岡の福間まで在来線と特急電車に揺られて会いに行ったことをいまでも覚えています。当時で片道5時間くらい、普段の生活で電車に乗る機会がないので、それだけでわくわくしたものです。福間駅に着くとおじいちゃんとおばあちゃんが改札口に待っていてくれて、『よく来たねー』って本当に笑顔で喜んでくれたのが、いまでも忘れられない嬉しい思い出です。いま思えばこの時に、僕の中でのおじいちゃん、おばあちゃんっていうのは、離れていても温かくて優しい存在なんだなってことを強く認識させられたように思います。
 そんなおじいちゃんは、うる覚えですが自転車の後ろに僕を乗せて、買い物やプールに連れて行ってくれたような記憶があります。僕を楽しませるために家の近くを何度もぐるぐる回ってくれたときに、『じいちゃんこの道さっき通ったよ』って僕に突っ込まれたみたいで、そのことを晩年よく楽しそうに語ってくれました。
 鹿児島に帰省したときも、僕の同級生のプロ野球選手のことを話のきっかけにして、僕の仕事のことをとても気にかけてくれました。また戦時中のことなど話してくれました。どれにおいても忘れられない思い出です。
 最後に一つだけおじいちゃんに謝らないといけないことがあります。それは何回か手紙をもらったにもかかわらず、返事を書けなかったことです。ごめんなさい。もうおじいちゃんに返事は渡せないけど、心の中にいるおじいちゃんに感謝し、生きていきたいと思います。おじいちゃん本当にありがとう。」

 本田のおじいちゃん、本当にありがとうございました。真面目な勤め人であり、また優しい家庭人だったおじいちゃんの優しい笑顔は遺されたみんなの心にいつまでも残り続けることと思いますよ。

2016年12月2日




私の恩師の西村成雄先生

 魯迅の小説「藤野先生」に「どういう訳か、私はやはり頻繁にあの方のことを思い出す。私が師と思った人の中で、私が最も感激し、私を励ましてくださったおひとりだ」と藤野先生のことを書いているが、もし私が、魯迅にとっての藤野先生に当たる恩師がいるとすればどなたかと問われれば、即座に西村成雄先生のお名前を挙げねばなるまい。

 西村成雄先生(現放送大学教授)にもう何年ご連絡を差し上げていないだろうか。先生から2002年に青木書店から出版されることになった『講座東アジア近現代史』第4巻への原稿依頼のお話しをいただき、辞退に辞退を申し上げた挙句に引き受けてしまい、遅れに遅らせている原稿執筆に何度も繰り返しご催促をいただいたにもかかわらず、なんだかんだと理由を付けて出稿を遅らせに遅らせ、やっとなんとかお粗末な拙稿を青木書店に送って以来のことだから、もう14年以上にはなるだろうか。

 西村先生との出会いは、大阪外国語大学外国語学部中国語学科四年生のときのことであった。私は歴史を学びたいと一浪して第一志望大学を受験したにもかかわらず失敗し、予備校で英語の成績が他の受験科目のなかで一番よかったことから第二志望校として大阪外大を受験して合格し、この大学で学ぶことになったのだが、入学当初から大学院で歴史関係のことを学びたいと思い続けていた。

 しかし、四年生になったとき、同級生たちが私服姿から学生服姿(当時のリクルートルック)に着替えて学内を歩く姿を見掛けるようになり、さらに誰それがどこそこの企業に内定が決まったとの話をつぎつぎとと耳にするようになり、大学院への進学を依然として考えていた私でしたが、学問的なことは西も東もなにも分からずただ気持ちは焦るばかりであった。

そんなとき、中国近代史の授業を受けていた西村先生のその授業内容に大いに興味をそそられたこともあり、思い切って大学院進学についてご相談申し上げたのである。

 先生は「大学院に進学するなら乞食になる覚悟が必要だよ」とおっしったが、怖いもの知らずの私はそのとき「はい、その覚悟です」と即答したものである。そうして先生から大阪市大に重田徳先生という明末清初の経済史研究をしておられる新進気鋭の方がおられ、この先生から大学院で研究方法を学んだらいいのではないかとアドバイスを受けることができた。

 西村先生からは大学院進学のことみならず進学後も大変お世話になり、いろいろな研究会に参加させてもらい、また論文投稿や書籍原稿執筆に力を貸していただいた。鹿児島の短期大学に就職後も、短大から1989年から留学が可能となったとき、先生に相談に乗っていただき、、1989年夏から1年間に渡って上海の復旦大学に留学することになった。しかし、同年6月4日に天安門事件が起こり、中国で混乱が続くかもしれぬとの情報もあり、気の弱い私は留学を急遽中止してしまったのである。

 それだけではない、私がその頃に研究対象にしていたのが人民日報記者で中国政治の民主化を唱えていた劉賓雁氏だったのだが、当時アメリカに留学していた劉賓雁氏がそのままアメリカに亡命し、中国国内での活動が不可能となってしまったのである。

 このときから私は中国に対する研究意欲を完全に喪失し、上記に書いたように西村先生からの折角の青木書店への原稿依頼も遅らせに遅らせてしまい、その挙句にお粗末な原稿しか提出できなかったのである。先生はさぞかし呆れられたことであろう。それから先生からのご連絡もなく、私の方からも恥ずかしくて連絡を差し上げられず、そのまま音信不通となってしまったのである。

 私はこう思う。西村先生が私にかけて下さったご期待やお教えは、小にしては、卒業を目前にしながらも進路に迷っている一人の学生のためであり、大にしては学術のためであり、つまり先生の後継者を育てることにあったのだろうと。そんなことを思うと、こんな言い訳がましい文章を書いていることに私はただただ恥じ入るばかりであった。
  2016年12月10日

                              


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