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やまももの短編小説集
  目に染み入るような青い空
   Short stories of Yamamomo


 contents
  母親の靴音
  ある映画パラダイス物語
  懐かしの小学校仲良し三人組
  届かなかった手紙 
   僕は運動会の800メートル競走でビリでした 
  子ども心を傷付けた両親の不和
  母方の祖父の甲子園通いと映画「東京物語」
 切手集めとカストリ雑誌
  冒険小説の主人公から路傍の徘徊者へ
   興福寺五重塔前での村中先生との遭遇
  目に沁み入るるような青い空
   夕陽丘セツルメントの思い出
   大学同級生との44年ぶりの再会
  母校の70年史誌と大学紛争
   大学院時代の授業ボイコット
 担ぎ屋のおばちゃんの思い出
  赤提灯とバイオリン
 母親が描いた息子の婚約者の似顔絵
   東大寺南大門でのミイラ男との遭遇
   父親の酒と女と大往生
  長男の婚約者の両親との初顔合わせ
   結婚式前夜の内川家最後の晩餐
  長男の神戸での結婚式

母親の靴音

 まさとがまだ幼かった頃、彼の母親がどんな靴を履いていたのか全く記憶がな
い。しかし、母親の靴音は鮮明に憶えてい る。それは、靴の踵の部分に力を入れながらアスファルトの道をカッカッカッカッと速い足取りで歩む靴音であった。

 彼女の靴の踵に力が入っていたのは、彼女が教師としての矜持を持っていたからであろう。彼女が近所のおばさんたちと笑い興じている姿をかつて見たことがない。彼女は外ではいつも教師として振舞っていた。まさとが高校3年生のとき、クラス担任が内川雅人の内申書の所見に「言葉遣いが丁寧で温厚な性格」と記入してくれたが、その「言葉遣いの丁寧」さは間違い なく母親譲りのものであった。

 しかし、彼女の足取りが速かったのは、教師としての職業意識からだけではなかっただろう。彼女の幼い子どもが、いつも家の薄暗い玄関でじっと彼女の帰宅を待っているからである。おそらく、家で彼女を待ちわびているわが子を少しでも早くその胸にしっかりと抱きしめたいという母親としての思いが、彼女の足取りを自然と速くしたのであろう。

 まさとは、晩になるといつも家の玄関の木造りの格子窓から薄暗い外を眺めながら母の帰りをじっと待っていた。まさとの母親が職場から帰宅するまでの間、彼の面倒は祖母が見ていた。彼は、小学校に就学するまでは祖父母の家で暮らしていたのである。両親が日本の旧植民地からの引揚者で、着の身着のままで祖父母の家に身を寄せていたからである。

 幼いまさとは、近所の子どもたちがとても羨ましかった。彼らには、白い割烹着を着て家の中で忙しそうに立ち働いているお母さんがいたからである。夕方近くになると、白い割烹着のお母さんたちが外で遊んでいる子どもたちに「もうごはんですよー」とほかほかのご飯のような声をかける。すると子どもたちは潮が引くように家の中に姿を消していった。そして、まさとだけが独り夕陽の中にぽつんと取り残された。夕食は、薄暗い電球の下で祖父母の皺だらけの顎や喉が上下に動くのを見ながら黙々と食べていた。側に父がいた記憶もない。

 まさとは、いつも家の薄暗い玄関の木造りの格子窓から外を眺めながら母親の靴音をじっと待っていた。カランコロンと下駄の音が家の前を通り過ぎていく。男の人の靴音がゆっくりと家の前をコッコッコッコッと通り過ぎていく。いろんな人の様々な履き物の音が家の前を通り過ぎていく。外はもう真っ暗なのに母の靴音はまだ聞こえてこない。あっ、カッカッカッカッと速い足取りで歩む靴音が遠くから聞こえてきた。彼の胸は期待で高鳴る。しかし、その靴音は家の前をそのまま通り過ぎて遠くに消えていった。幼いまさとは外の真っ暗な夜道に耳をそばだて、ただひたすら母の靴音を待ち続ける。
                          
                                   1997/10/08 記
 
ある映画パラダイス物語

 内川雅人君は、奈良市に生まれ育った団塊世代の人間です。団塊世代は戦後の「焼け跡」に生まれているのですが、この「焼け跡」という表現は単なる常套句や象徴的表現ではなく、実際にそう感じさせる風景が幼い彼の目の前に無造作にさらけ出されていました。彼のふるさとの小さな町である奈良市は幸い戦災に遭ってはいませんが、街のお寺や神社の軒下には戦災で家を焼け出された人たちがまだ沢山寝起きをしていました。私鉄に乗って長いトンネルを越えて隣の大阪の街に入ると、瓦礫と化したコンクリートと無数の折れ曲がった鉄筋で構成される無惨な廃墟跡が鉄道沿線に延々と続いていました。

 こんな戦後の焼け跡生まれのまさとの幼い頃の思い出を織り成す重要なものとして、シンチューグン(敗戦後の日本を占領統治した連合国軍を進駐軍と称し、その大半は米国兵でした)の兵隊と映画があります。シンチューグンギの兵隊がよくシープを止めて、ブミーチューインガムと言って集まってくる日本人の子どもたちにチューインガムをばらまいていました。シンチューグンの兵隊がガムの入った紙筒の底を指ではじくと、ガムが円弧を描いて子どもたちの頭上に落ちていきました。でも幼い彼は、人見知りする子で人一倍引っ込み思案だったため、シンチューグンの兵隊に群がる子供たちの群から外れて一人ぽっんと外から見ていました。

 内川雅人君が幼い頃、身体の大きいシンチューグンの兵隊たちは、小さな黒い眼のメアリーさんたちを小脇に抱えるようにして彼のふるさとの町のメイン通りである三条通り等をよく闊歩していました。映画館の前の座席はよくシンチューグンの兵隊さんたちと黒い眼のメアリーさんたちで占められていました。シンチューグンがアッハッハと大笑いして、それからちょっと間をおいて後ろの座席の日本人観客たちがどっと笑っていたのがとても印象的でした。シンチューグンは英語のセリフを耳で聴いて笑い、日本人観客はスクリーンの字幕を読んで笑うため、このようなタイムラグが生じたのです。ジェリー・ルイスとディーン・マーチンのコンビが水兵役を演じるドタバタ喜劇映画には沢山のシンチューグンが詰めかけ、彼らの爆笑が館内に渦巻きましたが、私も彼らと一緒にキャッキャと大笑いして見ていたものでした。

 シンチューグンのことは、内川さんの物心ついた幼い頃の思い出としてのみ残っていますが、映画の方は、彼の子ども時代の全ての時期を通じて数多くの懐かしい思い出を残しています。彼が幼い頃は、映画のストーリーなど全く分かりませんでしたが、画面が動くというただそれだけのことで目はスクリーンに釘付けとなり、眼前に繰り広げられる見知らぬ世界に幼い胸をわくわくさせたものでした。

 彼が子どもの頃、映画は娯楽の王様でした。映画の人気がピークに達した1958年には、日本の映画人口が11億2745万人にもなったそうです。当時の人口が9178万人ですから、なんと一人当たり年間に12回以上映画館に足を運んだ計算になります。彼の家庭もその例外ではありませんでした。彼の両親は給料の安い共稼ぎの教師夫婦でしたから、家族旅行など夢のまた夢でしたが、映画だけはほぼ毎月1回見に出かけたものです。奈良東映(東映系)、友楽会館大劇場(大映系)、南都劇場(日活系)、尾花劇場(松竹)、有楽座(新東宝系)、奈良セントラル劇場(洋画系)、有楽会館洋劇場、電気館などの映画館があり、映画の帰りには東向き商店街の上海楼という中華料理屋さんに立ち寄り、ワンタンをよく食べたものです。その頃、外食なんてめったにしませんから、家族でお店に入ってワンタンを食べるという「晴れやかな行為」は、彼にはものすごく贅沢なことのように思われました。

 母は芸術性の高いものが好きでした。そのお陰で、「自転車泥棒」「ローマの休日」「禁じられた遊び」「旅情」「エデンの東」「居酒屋」「河の女」「道」「鉄道員」などを子供時代に見ることができました。邦画では、「七人の侍」「夫婦善哉」「新平家物語」などを見ることができました。特に「七人の侍」は、なかなか画面に出てこない野武士がとても不気味で恐かったですね。また、彼の母が「夫婦善哉」の森繁久弥の演技をえらく誉めていたことが記憶に強く残っています。

 両親はまた、幼い彼のためにディズニー映画が上映されるといつも連れていってくれました。「白雪姫」「不思議の国のアリス」「ダンボ」「ファンタジア」「ピーターパン」「わんわん物語」など、みんな懐かしい名前ですね。母が「ファンタジア」を見終わった後、「日本の人たちが耐乏生活を強いられていたときに、アメリカではこんな素晴らしい映画を作っていたのね」とため息混じりに言った言葉がとても内川さんには印象的でした。ところで、ディズニーの「ピノキオ」だけは、それを見に行く予定の日に私は高熱を出したために見ていません。そのとき、彼は、熱にうなされながら、「ピノキオを見たい、見たい」と泣いたものです。彼はジフテリアに罹ってしまったのです。

 映画を平均して毎月1本は見ていた内川さんの家でしたが、ところが1950年代中頃からテレビの普及とともに映画人口は急速に減り続け、映画館から潮を引くように人々の足は遠のいて行きました。内川家も例外ではありませんでした。テレビが家庭にはいるようになってから、全く映画館に足を運ばなくなりました。

 手許にある『昭和史全記録』(1989年、毎日新聞社)は、各年度事に封切られた主な映画の題名をリストアップしているのですが、内川家では1957年には「喜びも悲しみも幾年月」、「戦場にかける橋」、「追想」」「道」など10作品も見ていますが、翌年の1958年には「十戒」、1959年には「尼僧物語」、1960年には「チャップリンの独裁者」、「五つの銅貨」ぐらいしか見ておらず、そして、さらに1961年になると、なんと見た映画が1本もないのです。

  おや、待てよ、内川さんの家庭にテレビ受像機が入ったのは、彼が中学校に入学した時のことで、世間がミッチーブームに沸いた1959年(昭和34年)4月10日の皇太子結婚の儀頃でしたから、内川さんの家族の映画鑑賞の回数が1958年以降激減したのはテレビが主原因だとは思えません。内川さんの家に何があったのでしょうか。うーん、その頃に彼の父の浮気が発覚し、小学校高学年になった彼の成績もガタ落ちしたものでした。

 その後、彼自身は、学生時代も社会人となっても、映画館に熱心に通うことようなことはなく、よほど話題になった映画だけをたまに観るぐらいになってしまいました。


懐かしの小学校仲良し三人組

 雅人の両親は、台湾からの引き揚げ者で奈の父親の実家に身を寄せました。雅人が生まれたのは奈良市の高畑町の伯父の住んでいる屋敷内の鋤、鍬等の野良作業用道具小屋だったとのことで、なんだか馬小屋に生まれたキリストか聖徳太子を連想しますが、終戦直後の焼け野が原に多くの人が掘っ立て小屋を建てて住んでいた時代のことですから、野良作業用道具小屋でも素人が急遽作った掘っ立て小屋よりも作りはしっかりしており、文字通り雨露をしのぐことのできる家屋だったと言えるでしょう。しかし雅人の母はこの小屋内でムカデに素足を刺されて足が腫れ上がった痛い思い出を幼い彼に繰り返し語ったものでした。

 その後、雅人の両親はすぐに奈良市の大豆山町(まめやまちょう)に住んでいた父親の実家(私の祖父母の家ですね)の二階に移り住みました。雅人の幼いころの記憶もこの大豆山町時代から始まります。

 内気な雅人は、幼稚園から帰宅後、家の玄関内で近所の友だちが「遊ぼう」と声を掛けてくれるのをじっと待っていました。自分から友だちに「遊ぼう」と声を掛けることは絶対ありませんでした。近所のほぼ同世代の子どもでよく声を掛けてくれた男の子によしちゃん、よりちゃんがおり、彼らとビー玉遊びやコマ回し、ベッタ(メンコの奈良弁)打ち、さらに道路に「ろう石」で絵を描いたりして楽しんでいました。

 しかし小学校1年生になると、奈良市内の油留木町(ゆるぎちょう)にある祖父の持ち家を借りていた家族が新居を建てて出て行くことになり、両親と雅人は油留木町のその家に移り住むことしになりました。この家と土地は江戸時代から寺侍(格式の高い寺院に仕えて警衛にあたったり、事務をとったりした武士のことです)だった先祖のもので、雅人が移り住んだ当時の建物はペリーが浦賀に来航した嘉永年間ごろに建てられた屋敷だったそうですが、明治になって職を失った曾祖父が本来の屋敷の半分以上を切り売りした後に残った平屋建ての家屋でした。

 この先祖が残した家屋は、いまなら江戸時代の奈良市には珍しい武家屋敷造りの面影を残した家屋として評価されたことでしょうが、子どもの雅人の目から見るとただオンボロのやたら室内が暗いくて冬は寒い家で、両親も住みにくいこの家をすぐに二階建ての家屋にリフォームしたものです。

 さて小学校の1年生から油留木町に移り住んできた雅人に、近所の友だちが出来たでしょうか。あいかわらず家の玄関内で友だちの誘いを待っているような彼に近所の友だちは一人もできませんでした。しかし、小学校内にいつも遊ぶ二人の仲良し仲間ができ、雅人を含めて田岡くん、山形くんの仲良し三人組は順繰りにお互いの家を訪問していつも楽しく遊ぶようになりました。漫画雑誌の貸し借りとかオモチャの連発銃(細長い紙に点々と少量の火薬が付いており、ひきがねを引いて撃つたびに爆発音がし、1回撃つごとに紙が排出されてくる方式でした)で西部劇ごっこをしたり、近所の川でザリガニ取りを楽しんだこともありました。夏の日の小川のひんやり冷たい流れの中に足首まで浸けて歩きまわったときの心地よさは格別のものがありました。

 漫画雑誌の貸し借りについては、もう少し詳しく紹介したいと思います。雅人は漫画月刊誌『少年』を毎月購入していました。この『少年』には手塚治虫「鉄腕アトム」、横山光輝「鉄人28号」、堀江卓「矢車剣之助」等の人気漫画が連載されていたからです。

 仲良し三人組の田岡くんは『少年画報』を購入しており、同誌には武内つなよし「赤胴鈴之助」、桑田次郎 「まぼろし探偵」、河島光広「ビリーパック」等の人気漫画が連載されており、もう一人の山形くんは『冒険王』を購入しており、梶原一騎原作、荘司としお画「夕やけ番長」、手塚治虫「魔神ガロン」等が連載されていたと記憶しています。

 仲良し三人組は各人が異なる漫画雑誌を購入していたので、漫画雑誌の貸し借りをしていろいろな人気漫画を楽しむことができたのです。

 仲良し三人組が漫画雑誌の貸し借りをしていた昭和三十年代中頃は各漫画雑誌が別冊付録の冊数を競い合った時期でした。月刊誌の表紙の中に十冊近くの人気漫画家の別冊漫画が付録として入れられて紐で括られ、子どもたちはすごいお得感を味わったものでした。人気漫画家の漫画が別冊として付録にあるかどうかが各漫画雑誌の売り上げに直接影響すると言われたものです。

 仲良し三人組が「漫画雑誌の貸し借り」をしていたと書きましたが、正確に言うと漫画雑誌と好きな漫画作家の別冊付録を貸し借りしていたことになりますね。その時期はまたテレビで「鉄腕アトム」がアニメ化され、「赤胴鈴之助」が映画化、テレビドラマ化(実写版)、「まぼろし探偵」がテレビドラマ化(実写版)されたように、人気漫画がつぎつぎとテレビドラマ化されていったものでした。なお、「鉄腕アトム」以外、いまでは当たり前となった漫画のアニメ化は数年後からのこととなります。

 雅人の家庭内には父親の浮気が原因で両親の諍いが絶えませんでしたが、小学校時代には仲良し三人組仲間とのこんな楽しい遊びの日々があったのです。しかし、中学校に進学してからはただ一人の友だちも出来ず、高校でも赤い夕陽に染められた校舎で声を弾ませながら熱く未来を語り合うようなクラスメイトなど一人もいませんでした。中学校、高校時代の雅人には、苦い思い出ばかりで、ただ書物だけが親しく語り合う相手でした。



届かなかった手紙

  「手紙はもう届きましたかと聞かれたけれど、そんな手紙をもらった覚えはないし、おかしいわね。郵便局の手違いかしら?」

 雅人の母が違い棚に置かれた文箱のなかを調べながらそうつぶやいたとき、縁側で寝そべって漫画の本を読んでいた小学4年生の雅人はどきっとしました。雅人の胸は早鐘を打ち出し、目の前から絵や文字はすっかり消え去ってしまいました。もし、母から手紙のことを聞かれたらどうしょう。母にじっと見つめられたら、雅人は嘘をつき通すことなんてできそうもありません。彼は、亀のように首や手足を甲羅のなかに引っ込めて、体を硬直させながら母の声を待ちました。しかし、母は文箱の蓋を閉め、そのまま部屋を出ていきました。

 雅人の母が探していた問題の手紙は、雅人が隠していたのです。数日前、女の人が書いたと思われる達筆な文字の封筒が郵便受けに入っていたのを見つけた彼は、それを本箱の後ろにそっと隠したのです。流れるような草書体で書かれた差出人の姓が雅人の父の浮気の相手のように思われたのです。以前、その女性が出した手紙が家に届いて、そのために両親が大喧嘩を始めたことを知っていました。

 以前、雅人は母に連れられて寒空のなかをとぼとぼと彼女の親しい知人の家まで歩いていったこともありました。知人に泣いて訴えている母の姿を雅人は哀しい思いでじっと見つめていたものです。ですから、差出人がその女性だと思い込んで、雅人はそれを両親から隠そうとしたのです。しかし、彼が隠した手紙は、別人からの手紙だったようです。

 それから数ヶ月後、雅人は母と一緒に山の奥にいました。母は雅人を連れて馬酔木の生い茂る小径を通って薄暗い奥山に入り込んだのです。「一緒に死んでいい?」と雅人の母が言ったとき、雅人は小さく頷きましたが、心はうさぎの様に怯えていました。

 しかし、雅人はその後も生き、彼の母親も77歳まで元気に自著の執筆に専念していました。まだ小学生だった彼にはあの奥山の出来事は忘れられない恐怖の体験でしたが、彼の母親にはそれはどのように記憶されいていたのでしょうかね。
                                        
                               1997/09/27記


僕は運動会の800メートル競走でビリでした


 内川雅人君が小学3年生だった頃、国語の授業で担任の先生が前日に
生徒たちに自由題で書かせた作文を返却し、何名かに読ませたことがあります。なんと意外にも「内川雅人君」と彼の名前も呼ばれ、クラスのみんなの前で読まされました。題は「800メートル競走」でした。

「僕は運動は苦手です。運動会の800メートル走でもびりになりました。でも場内アナウンスで『内川君がんばってください』とはげまされ、見ているみんなもあたたかく拍手してくれました。とてもきつくて走るのをやめようかと思いましたが、みんなのあたたかいはげましで最後まで走り切ることができました。
 家ではお仕事から帰ったお母さんに運動会でびりになったと言いましたら、お母さんは最後までがんばって走ってえらかったねとほめてくれました。僕は今回の運動会から最後までがんばることの大切さを学びました。」

 うわーっ、なんて嫌な作文でしょうか。「努力する大切さ」とか「人の心の優しさ」等の先生がいかにも喜びそうなことをただただ書き連ねた、なんともいやったらしい作文です。

 しかしまた内川雅人君の担任の先生は、国語の時間にいつも「思った通りに素直に書きなさい」と作文指導していましたから、もし雅人君が先生の指導通りに書いたらつぎのようなものになっていたと思いますよ。

「僕はスポーツが苦手なので運動会が大嫌いです。運動会なんてなくなればいいと思います。800メートル走ではびりになりました。競争で3年生男子の最後を走っていると、場内アナウンスの『内川君がんばってください』との大きな声が聞こえて来ました。なにも僕の名前を出さなくてもいいのにととても腹が立ちましたが、みんなが拍手してくれるので最後まで走るしかありませんでしたが、名前を知られて大恥をかきました。だから運動会は大嫌いです。
 家ではお仕事から帰ったお母さんに運動会のことをどう伝えようかと迷っていましたら、お父さんが今夜は珍しく酒のにおいもせずに早く帰って来て、お母さんの機嫌もよさそうなので、びりになったと正直に言いましたら、お母さんは最後までがんばって走ってえらかったねとほめてくれました。お母さんも学校では体育だけは苦手だったと言っていましたから、今回の運動会のことでは仕方がないと思ったのでしょう。でも算数で僕が悪い点を取ったことは隠しておこうと思います。本箱の裏に隠した算数の試験の紙がとても心配です。」

 内川君が運動会のみならず学校経験からから学んだことは、「人は十人十色」「好きこそ物の上手なれ」ってことで、不得意なこと、嫌いなことを無理して上達しようと努力するより、得意なこと、好きなことに熱中し、より一層磨いた方がいいよってことでありました。
                                    



子ども心を傷付けた両親の不和

 あるフランス人の作家が「結婚は判断力の欠如、離婚は忍耐力の欠如、再婚は記憶力の欠如」と言ったそうですが、終生添い遂げることになった内川さんの両親は相当の忍耐力の持ち主たちだったのでしょうか。

 内川さんが彼の妻と結婚した年の夏、当時山陰のM市に住んでいた彼の両親の家に初めて帰省したことがあります。おっと、「帰省」とは本来は「故郷に帰って両親の安否を問うこと」だそうですが、彼の両親がM市に住んでいたのは勤務先が同市であり、両親ともに出身地は別の地方の人間でした。

 内川さんの妻は、なにかあるとすぐ怒鳴り出す義父とそれに「はいはい」と素直に従う義母の姿に強い印象を残したようで、彼も久し振りに見る両親の意外な関係の変化に驚きました。例えば、近くの勤務先からお昼に帰宅した彼の父親が「食事の支度が遅い」と激しい剣幕で怒鳴りだし、母親が「はいはい、すぐ支度しますよ」と従順に対応する姿に驚いたものでした。

 内川さんが子どものころ、彼の両親はともに教師でしたが、この共稼ぎ夫婦の喧嘩はいつも絶えることがなく、彼はいつ始まるかもしれない二人の喧嘩に恐れおののいていました。喧嘩が始まると、亀が首を甲羅にすくめるようにして、いさかいの嵐が過ぎ去るのをじっと待ったものでした。

 安月給の共稼ぎ夫婦の喧嘩の主たる理由は、彼のオヤジの金遣いの荒さと浮気でした。酒好きのオヤジは、酒場で一日に何千円も散在して夜遅く帰って来るようなことがよくありました。軽い浮気は日常茶飯、幼い内川さんが知りたくなくても知るようになった深刻な浮気の数も片手では足りないくらいありました。

 普段見るオフクロの姿は観音菩薩様のように穏やかでしたが、ひとたび夫婦喧嘩が始まると般若の如く怒り狂い、口から火を噴いて激しい言葉でオヤジをののしったものでした。

 そんな若い頃の母親のことを知っているものですから、内川さんは彼の妻に「オフクロも変わったものだ。昔のオフクロはもっと突起だらけのゴツゴツとした石ころを心に持った女性だったが、オヤジとの数多くのイサカイにいつの間にか表面が研磨されてまるくなったのだろう」と言ったものです。

 しかし、内川さんは子どもの頃、彼の両親がなぜ離婚しないのか不思議に思いました。いさかいが絶えなく、また趣味も価値観も全く違う二人であり、教師をしているは母親がもし離婚しても、すぐ生活が困窮するわけでもないだろうになんて考えたのです。ところが彼の母親は教師という職業にとても高いプライドを持っており、彼女の辞書には「離婚」なんて文字など無かったようです。

 ところで子どもにとって両親の離婚は不幸なことなのでしょうか。勿論、仲の良いことに越したことはありません。しかし夫婦喧嘩の絶えない家庭の子どもは両親の不和に心を深く傷付けられているのです。大人の目からは子どもの心の裡はほとんど見えません。大人たちは、彼らのちょっとした言葉や行為でさえもが、それが子どもたちの心のなかで何倍にも増幅され、幼い心に大きな衝撃を与え傷付けているということをほとんど知りません。内川さんの母親が彼の子どもの頃のことを回想したとき、彼につぎのように言ったものです。

「お前の子どもの頃は給料も安くて生活は大変だったけれど、でも、お前に辛い思いをさせるようなことはなかったと思うよ」

 それで、内川さんはその言葉にどう対応したでしょうか。彼はそのとき、表情を全く変えずに小さく頷いただけでした。結婚は判断力の欠如から始まるそうですが、記憶力の欠如によって美化され持続することが出来るようです。                   
2016年4月23日




母方の祖父の甲子園通いと映画「東京物語」

 内川さんにとって、夏の甲子園大会関連のニュースを耳にすると、いまでもすぐに連想するのが母方の祖父のことです。なぜなら、内川さんが小学5年生になって初めて甲子園球場で開催された夏の高校野球大会にふるさとの代表高校を応援に出かけたとき、甲子園に連れて行ってくれたのがこの祖父だったからです。

1958年夏、雅人が小学校5年生だったとき、仙台に住んでいた祖父が国鉄の列車を乗り継いではるばる自分の娘(雅人の母のことですね)に会いに奈良市にやってきました。そんな祖父は野球が大好きだったようで、孫の雅人が奈良県代表の御所実業高校と群馬代表の桐生高校の対戦を観たいと言ったこともあり、孫と二人で甲子園まで夏の高校野球大会見物に出掛けました。

その日の試合は御所実業が惜敗し、夏のカンカン照りの暑さにもげんなりとなった雅人は甲子園大会にその後出掛けることはありませんでしたが、祖父はなんとその後ほぼ毎日一人で甲子園に通い続けました。そして翌年、その祖父の訃報が雅人の家に届きました。心から祖父を慕っていた雅人の母は「夏の暑い盛りに連日甲子園に通い続けたことが体に祟ったのかしら」と嘆くとともに、「でも、好きな野球を甲子園で思う存分見られたから悔いはなかったかもしれないわね」と何度も述懐したものでした。

 内川さんも、祖父は真夏の太陽がカーッと照りつける甲子園の高校野球大会に連日通い続けたのですから、よほど野球観戦が好きだったのだろう、とつい最近まで思っていました。ところが、そのことに最近ふと疑問を持つようになりました。それはDVDで小津安二郎監督の「東京物語」(1953年に松竹が制作配給、笠智衆主演)を最近観たからです。

この「東京物語」と題された映画は、尾道に暮らす年老いた夫婦の周吉(笠智衆)とその妻のとみ(東山千栄子)が成長した子供たちに会うために上京する話です。しかし、開業医をしている長男の幸一(山村聰)も美容院を経営している長女の志げ(杉村春子)も毎日仕事が忙しく、上京して来た両親を親身に世話することができません。両親の世話に困った幸一と志げは、二人を熱海の旅館に宿泊させることにします。

 ところが、その熱海の旅館は夜も騒々しく、二人はなかなか眠れず、翌日すぐに熱海から東京の志げの家に帰って来ます。二、三日は熱海に居てくれるものと思っていた志げはあからさまに困惑した表情を見せ、居づらくなった周吉ととみは志げの家をまずは出て行くことにします。周吉は在京の旧友(十朱久雄)と再会することにし、とみは戦死した次男の妻の紀子(原節子)が暮らすアパート に泊まることにします。老夫婦が相談してそのことを決めた時、周吉は「とうとう宿無しになってしもうた」とつぶやいて淋しく笑っています。

 志げの家を出た二人は、その後、上野寛永寺旧本坊表門まで足を伸ばし、近くの石段に座り込んで夕方まで時間をつぶします。この老夫婦が夕暮れのなか所在無げに座り込んでいる侘しげな姿がなんとも言えぬ悲哀を感じさせます。そして、そろそろ適当な時間になっただろうと判断して歩き出した老夫婦は、別れ際に東京の景色を眺めながら「なァ、おい、広いもんじゃなァ東京は」「そうですなァ、うっかりこんなところではぐれでもしたら、一生涯探しても会わりゃしゃあしぇんよ」との短い会話を交わし、周吉は旧友の家に、とみは紀子のアパートへと向かいます。

 とみは紀子の暮らすアパートで親身になって一晩もてなしてもらいますが、周吉の方は久しぶりに再会した旧友二(十朱久雄、東野英治郎)と酒場に行って泥酔するほど飲み、深夜になって泥酔状態のまま志げの家に帰って来て志げの夫婦に迷惑を掛けてしまいます。そんなことから居づらくなった周吉ととみは予定を繰り上げて尾道に帰って行くのです。

 内川さんはこの映画を観て、彼のふるさとにやって来た祖父のことを連想せざるを得ませんでした。内川さんの両親は安月給の共稼ぎ夫婦でした。二人とも教師でしたから夏休みは比較的時間があったでしょうが、しょっちゅう祖父を案内して回るほどの時間も金銭的余裕もなかったと思います。家もとても狭いこともあり、またさらに娘夫婦の間にただならぬ雰囲気が漂っていることをすぐに察知したことと思います。そんな祖父は、奈良の家に宿泊する予定の日数を今後どう過ごすのか最初はとても戸惑ったとことと思います。そうして見付けたその後の過ごし方が甲子園での野球観戦だったのではないでしょうか。

 小津安二郎監督の「東京物語」を大人になってから観た内川さんは、この人間の心理模様を細やかに綴った名画に感心しながら、またなにか見なくもいいものを見てしまったようないささか侘しい気持ちにもなりました。
                                 201277


切手集めとカストリ雑誌

 雅人は、幼い頃は多くの子どもがそうであるように様々なものを集めて楽しんでいました。収集対象は、松ぼっくり、ドングリからビー玉、めんこ、下着、いやいや、下着は集めませんでしたが、とにかくなんでもかでも集めたものです。

 そんな彼が郵便切手を集めるようになったのは小学校の高学年の頃(彼は団塊の世代なので、1950年代後半)だと思います。それまで、地味な色と図案の多かった日本の郵便切手が昭和33年(1958年)になって急にカラフルになり、また鳥居清長「雨傘美人」、安藤広重「東海道五十三次之内・京師」や「第3回アジア競技大会」「ブラジル移住50年」「世界人権宣言15年」など優れた図案の特殊切手(記念切手、切手趣味週間切手、年賀切手などのこと)が次々と発行されるようになります。

 この頃に日本の切手が子どもたちの興味関心を惹きつけるだけの魅力を持つようになり、子どもたちの間に切手ブームが起こりました。その頃、雅人は小学校高学年になっていましたが、彼も例外ではなく切手集めに大いに熱中し始めました。

 雅人の切手収集は、最初、グリコのおまけについていた外国切手から始まりました。しかし、グリコのこの外国切手にはろくなものがありませんでした。そのうちに、雅人は家に来た郵便物に貼られた切手にカラフルで魅力的なものがあることに気づき、母に頼んでハサミで切手の部分を切り取らせてもらい、水ではがしてストックブックに整理するようになりました。この方法での切手集めが彼にものを集める楽しさをなによりも実感させたようです。

 使用済み切手を集めることにすっかり熱中した雅人は、ある日、親の留守中に無断で家の中を家捜しをしたことがあります。そのとき、普段使わない奥の部屋の押し入れの襖も開けてみましたら、しめしめ、その中に挨だらけの大きな麻袋が一つ見つかりました。いかにも古い郵便物がぎっしりと詰まっていそうです。彼は、期待に胸を大いに膨らませながら、逸る心を抑えつつこの袋の紐を解きました。しかし、残念、郵便物は全く入っていませんでした。でも、その代わりに、その袋の中には古い書籍がいっぱい入っていました。

 これらの書籍にはとても粗悪な用紙(戦後統制のために物資が不足し、娯楽用出版物は用紙の確保ができず、古紙などを漉き直した再生紙に印刷されていました)が使われており、書いてある言葉も難解なものが多かったのですが、内容は小学校高学年になっていた彼にとってとても有意義なもので、それらを親に黙ってこっそり国語辞典を引きながら読み耽るようになりました。

 雅人が両親に無断で読み耽ったのは、敗戦直後に雨後の筍のように出版されたいわゆるカストリ雑誌でした。きっと雅人の父親が購入し、子どもの目には触れないように隠していたものに違いありません。おっと、カストリ雑誌なんて言葉はいまの若い人には死語でしょうね。三省堂の『新明解国語辞典』には、「滓(かす)取り焼酎」について、「酒の滓をしぼりとって作った下等な焼酎。アルコール度が高い」と解説し、肝心の「滓取り雑誌」については、「三合飲めばつぶれるといういうことから、三号で廃刊になるような粗悪な雑誌」とまさに「明解」の名に恥じない見事な解説をおこなっています。これらカストリ雑誌の多くが戦争中の抑圧の反動なんでしょう、性風俗を主題にしており、なんとも隠微で淫らな感じの文章と扇情的な挿し絵によって構成されていました。

 さて、雅人はカストリ雑誌でいろいろ大事なことを真剣に学びつつ、切手集めへの情熱と努力もその後しばらく続きました。家での古い郵便封筒こ貼られている使用済み切手は漁り尽くしたので、祖父母や知人にもお願いして集める努力をしました。また、新しく発行される特殊切手は、新聞で発行日をチェックし、その日に最寄りの郵便局で買うようになりました。しかし、古い切手の方は入手できない切手がまだまだ沢山ありました。そのために、学校の友だちと切手の交換もしましたが、雅人が欲しい切手は友だちみんなも欲しがっているものばかりですから、交換には限度があります。後はお金を出して購入するしか方法がないようになりました。

 ところで、雅人と同じ団塊の世代である漫画家の西岸良平が『夕焼けの詩』第28巻(小学館)に「切手」と題してこの昭和30年代の子どもたちの切手熱を描いています。そこに登場する一平君は、切手を買うお金をお母さんからもらおうとして、「手紙も出さないのに切手ばかり買い込んでムダづかいして」とお母さんに叱られてしまいますが、そのときに一平君はつぎのような反論をおこなっています。

 「チェッ、ムダづかいじやないや、これでもマネービルのつもりなんだい!」
 「ほら、このカタログを見てごらんよ、二年前に郵便局で十円で売っていた記念切手がもう三十円だよ! もっと前の『月に雁』なんて八円だったのが千円以上になっているんだ、貯金なんかよりずっとわりがいいだろ」

 一平君が言っている「月に雁」とか「見返り美人」なんて切手は、小学生には高嶺の花でしたから、雅人はこんな高額な切手を入手することは初めから諦めていましたが、でも少年向け月刊誌に載っている通信販売の切手のなかで安いものはお小遣いを貯めてよく買うようになりました。

 雅人が中学生になって初めて迎えたお正月、彼はこれまでにない大金を手に入れました。祖父母や親類の人たちからもらったお年玉が小学生のときに比べて大幅にアップしたのです。彼は、それではと喜び勇んで私鉄に乗ってトンネルを越えて大きな街のデパートまで切手を買いに出かけることにしました。

 デパートの切手売場のガラスのショーケースのなかには前から欲しい欲しいと思っていた切手がずらっと並べられていました。そして、その周りには獲物にたかるハイエナの様に沢山の子どもたちが群がり集まり、それらの切手をじっと食い入るように眺めていました。雅人は彼らの熱い視線に耐えながら十数枚の切手を買いました。それらのなかには、年賀切手「羽子板をつく少女」(1949年発行)や原節子によく似た看護婦さんがにっこり微笑む「日本赤十字社創立75年」(1952年)なんて切手もありました。

 しかし、不思議ですね、前から欲しい欲しいと切望していた切手を一遍に十数枚も買えたのに、デパートからの帰り道、雅人は全然喜びを感じませんでした。家でこれら買ったばかりの切手を眺めていると、羨ましそうに彼を見ていたあのショーケースの周りの子どもたちの眼が思い出されて来ます。そしてまた、彼らの前で高額の金を支払ったときのあのなんとも言えぬ抵抗感が彼の心によみがえるのです。その日から彼の切手コレクションへの情熱は急速に萎えていきました。それから以降、雅人の切手収集は郵便局で新しく発行された特殊切手を買うことに限定されるようになりました。そして、東京オリンピックが開催された1964年に空前の切手ブームが到来したとき、雅人は切手への関心を完全に失っていました。

 大人になってからも彼には収集癖は全くありません。
2011年10月5日記



冒険小説の主人公から路傍の徘徊者へ

 内川雅人くんは幼いころから本を読むのが大好きでした。最初に読んだ本として記憶されているのは母に購入してもった講談社版世界名作全集に入っていたバーネットの『小公子』でした。アメリカ生まれの無垢な心のセドリック少年がイギリスの名門ドリンコート伯爵家に跡継ぎとして入り、伯爵領内の人々のみならず頑固な伯爵の心も和らげ変化させていくという物語で、何度も繰り返し読んだものでした。

 近所の東向き商店街の豊住書店の書棚には児童向けの講談社版世界名作全集が何十冊か並べられており、雅人は母親から毎月の本代二百円をもらうと同全集の『宝島』 、『ロビンソン漂流記』、『ガリバー旅行記』、『西遊記物語』 、『三銃士』、『ロビン・フッドの冒険』 、『ジャングル・ブック』、 『ドリトル先生航海記』 、『怪盗ルパン1』、『三国志物語』、『八犬伝物語』、『太閤記』等の物語を次々と購入していきました。雅人少年はあるときはシャーウッドの森で弓の名手として活躍し、あるときはインドの密林で黒ヒョウのバギーラを従えて凶暴なトラのシア・カーンと対決しました。

 いつ頃からでしょうか、雅人は冒険物語の主人公として活躍ができなくりました。自分が何事も怖れぬ勇気ある人物ではなく、惨めで卑小な人物であるとを知るようになりました。そんな内川雅人少年の心を救ったのが芥川龍之介や太宰治の作品でした。

 雅人が中学一年生のとき母親が筑摩書房の『芥川龍之介全集』を勧めてくれましたが、この芥川全集にはすでに講談社版世界名作全集で読んでいた『今昔物語』の説話を素材とした小説が何編か入っており、児童小説から文芸小説への格好の橋渡役を果たしてくれました。

 芥川龍之介の作品で初めて読んだのが「羅生門」でした。この小説には羅生門に棲み着いた平安時代の極貧の人々の惨めな姿が描かれていましたが、あまり面白いとは感じませんでした。しかし次に読んだのが「鼻」で、同作品には長い鼻に強いコンプレックスをいだく禅智内供の哀れで滑稽な姿が描かれており、この作品には大いに惹かれました。

 また「芋粥」に描かれた何の才能も無く風采の上がらぬ都の下級役人の姿にも自分を投影したものです。彼は日頃いつも芋粥を飽きるほど食べたいという願望を持っていましたが、地方の有力者に招かれて実際に大量の芋粥を目にしたとき、すっかり食欲が失せてしまうのですが、この心理にも大いに共感させられました。

 さらに雅人は、太宰治の作品に惹かれるようになりました。太宰治の『人間失格』には幼いころから自分を欺き道化を演じるしかない主人公の苦悩が描かれていましたが、鉄棒に失敗して転んでしまい同級生から笑われる主人公よりも、背後から「ワザ、ワザ」と声を掛けた竹一少年の姿に強い印象を残したものでした。

 雅人は芥川や太宰の作品に登場する様々なコンプレックスを抱いたり、他人を妬んだりする卑小な人物たちの存在を知り、冒険物語の主人公からいつしか路傍の惨めな徘徊者となったいた彼にとって大いに心の救いとなりました。

2016年08月25日

興福寺五重塔前での村中先生との遭遇

 内川さんが高校生だった頃(1963年4月~1966年3月 )、丘灯至夫が作詞し遠藤実が作曲し舟木一夫が歌った「高校三年生」が大ヒットし、あちらこちらで舟木一夫の「赤い夕日が校舎を染めて……」との歌声が流れていました。そんな流行歌「高校三年生」は、いまの内川さんには懐かしの思い出の曲ということになりますが、内川さんはこの流行歌を耳にすると、赤い夕陽に染められた校舎で声を弾ませながら熱く未来を語り合うようなクラスメイトなど一人もいなかった灰色の高校時代の情景と重なってなんとも表現しようのない複雑な思いに駆られるのでした。

 ただし、団塊世代の内川さんが同世代の当時の思い出に触れている文章などを読むと、この流行歌の歌詞通りの懐かしい思い出を実際に体験している人などはほとんどおらず、この歌詞には現実には存在しない憧れの学園生活が描かれているだけだと書いてあり、例えばこの歌の作詞者の丘灯至夫は高校時代病気がちで「4日登校すると2日休む」状況で満足に学生生活を楽しんだ記憶がないそうですし、作曲家の遠藤実は高校に進学できなかった憧れの思いをこめて作曲したとのことです。内川さんはそんな「高校三年生」にまつわる秘話を読むとなんとなく呪縛から解放されたような気持ちになりました。

 しかし、内川さんにとって、高校時代、ただ一人の友人もいなかったことはやはりなんとも辛い体験でした。特に昼食の時間、売店で買ったパンをただ独り椅子に座って黙々と食べることには耐えられなくなって、その昼食の時間に校舎の周辺を歩き回って時間をつぶすようになり、二年生後半にはついには不登校気味となってしまいました。内川さんの両親は共働きだったため、朝いつも時間通りに家を出る内川さんの不登校状態に長い間気が付かずにいました。

 そんな高校2年生後半頃、内川さんは奈良市の興福寺五重塔前のベンチに所在なくぼんやりと座っていたことがあります。そのとき、当時クラス担任だった化学の村中先生と遭遇したのです。ただし、そのときの村中先生の雰囲気は、不登校気味の内川さんのことを心配して学校周辺を探し回ってやっと見つけられたというようなものではありませんでした。村中先生とバッタリ顔を合わせたとき、内川さんはもちろん驚きましたが、先生もギョッとされたようでした。その日は自宅研修日だったのでしょうか、内川さんには先生が散歩途中と思われ、先生はなんとなく気まずい思いで、内川さんに「学校にちゃんと来なさいよ」と一言忠告されただけで、その場をすぐに立ち去って行かれました、

 内川さんはほっとしたのですが、あの日の村中先生との興福寺五重塔前の遭遇は、いまでもなんとも不似合いな「高校三年生」の歌をBGMにしてときどき思い出されるのです。

 なお内川さんは高校卒業後に一年間大学浪人し、なんとか大学進路先が決まったので、そのことをお知らせするために村中先生の京都のお宅に伺ったことがあります。そのとき、先生のご家族の方ともお会いすることが出来ました。

 後日、風の便りに中村先生が自殺されたことを耳にしましたが、最近になって同窓生から送ってもらった新聞記事を拝見しますと、先生は当時京都の有名私立高校に勤務しておられ、同校の女子生徒と心中されたとのことです。先生のご家族のことを思うと胸が痛みます。
2016年9月8日






眼に沁み入るような青い空

 内川雅人さんは、奈良市に生まれ、ずっとそこで育ちました。いまは鹿児島市に住んでいますが、地元では初対面の人からよく「言葉のアクセントが違いますね。地元の人ではないですね。どこのお生まれですか」と聞かれるようです。「どこだと思いますか」と彼から問い返しますと、大抵の場合、関東の地名が挙がるようです。それは、彼が標準語でしゃべっているからでしょうが、彼がふるさとの町の名前を言うと、意外な顔をされてしまいます。

 勿論、根っからの関西人なら、内川さんが標準語でしゃべってもアクセントに関西なまりがあることにすぐ気づくでしょ うが、他地域の人はまず分からないようです。なぜなら、彼は小学校高学年の頃から同級生とも地元の言葉で話さず、標準語でしゃべっていたのですから。

 内川さんは、小学校高学年の頃から意識してふるさとの言葉を使わないようになったのですが、それは彼自身が自分のふるさとが好きではなかったからです。いや、好きだと思ったらいけないと思いこんでいたと言うべきかもしれません。なぜなら、彼の大好きな母が彼のふるさとを嫌っていたからです。彼の母は、日本の敗戦とともに外国の街となってしまった地域からの引き揚げ者でした。「外地」からの引き揚げ者として異郷の地で敗戦後の苦しい生活を送らねばならなかった母にとって、新たな生活の場となった関西的風土は全く馴染めるものではなかったようです。また、プライドが高くて意固地なところもかなりあった彼の母は、周囲の様々な人々との人間関係にいろいろ苦労していたようです。

 幼い子どもは、母親が人や事物に対して軽い気持ちで言った言葉や何げなく示した態度でも、それを絶対化し、また頭の中に拡大コピーして保存してしまうものですね。幼い頃の内川さんは、あらゆるものを見るとき、その横に映画の字幕のように母親の言葉や態度が浮き出てきたものです。母親の目を自分の目にして全てのものを価値判断しました。彼は、母が少 しでも悪く言った人間なら、その人を全面的に否定し、母がいいと言ったものは無条件に素晴らしいものとだと思い込んだものです。いろいろ誇るべき文化遺産を有しているふるさとの町も、当時の彼には道路も建物も貧弱なちっぽけな田舎町でしかありませんでした。ふるさとの人々も、昔のものにしがみつくだけの頭の古い覇気のない存在として軽蔑していました 。

 そんな彼でしたが、思春期の頃から母のものの見方や考え方などを次第に相対化するようになっていきました。それは、 母が絶対的に正しい存在ではなく、やはり様々な弱点を持った一人の生身の人間であることを知るようになったからですが、さらにまた彼が母の期待するような人間にはとてもなれないと自ずと悟ったこととも関係があるように思います。

 内川さんの母は、幼い頃から優秀で、学校ではいつも成績トップの優等生だったそうです。これは本人が言っているだけでなく、十目の見る所十指の指す所と言った感じで、母を知ってる人がみんな異口同音に言うんですから間違いのない事実のようです。それで、母は内川さんにもそうあってほしいと願っていたようです。しかし、そんなことを勝手に期待されても困りますよね。こればっかりはそう簡単に真似できません。また、同じような価値観に立って真似をしている限り、彼は母の卑小でみじめなコピーになってしまうだけだと感じたようです。彼は、なんとか母の影響から脱却し、自分なりの独自的な価値観を創り出し、自らの歩むべき道を自ら探し出したいと思うようになりました。

 彼が高校時代に油絵に熱中し、母からもらった昼食用のパン代を貯めて、わざわざ大阪まで電車に乗って出掛け、古本屋さんで平凡社の世界美術全集の気に入った巻を買ったり、油絵用のキャンバス、絵具などを購入したのも、そのような思いの表れだったのでしょう。しかし、彼の描いた油絵は、完成後数日してからいつも彼自身の手で塗りつぶされていました。 彼は、自分がなにかでありたいと切に願いながらも、そのなにかを探せないまま孤独と焦燥と鬱屈の高校時代を過ごしていました。

 彼は、高校卒業後、ふるさとの奈良市を遠く離れて宮城県の仙台市で一年間東北大学文学部への入学を目指して浪人生活を送りました。その仙台市の予備校に通い始めた頃、通学路にあった欅並木のみずみずしい若葉になんとも言えぬ解放感を覚えたものでした。それは、故郷での孤独と焦燥と鬱屈からの解放感でありました。

 彼は、新しい環境のなかで新しい生き方を創り上げようとしました。母方の祖母の家の近くに下宿したのですが、彼をこの東北の街に呼んでくれたのが祖母だったのです。そこから毎日予備校に真面目に通いました。高校時代ろくすっぽ受験勉強などしなかった内山さんですから、予備校での懸命な受験勉強による成果は次第に現れ、予備校の進学指導の先生から第1希望の東北大学文学部合格は間違いないだろうと太鼓判を押されたものでした。

 予備校では、受験勉強に励むだけでなく教室のなかで積極的に交友関係も作っていきました。また予備校から帰ると、ほぼ毎日祖母の家に上がり込み、家族の人たちと親しく談笑しま した。

 祖母の家には、祖母と二人の叔父、伯母、叔母、従兄弟の計6人が住んでいました。さらに、近所に住む親類のお爺さんもいつも居間に座り込んでいました。いつ行っても賑やかなこの居間は、彼にとって最大の憩いの場となりました。油絵や短歌を趣味としていた伯母と芸術談議的なことをいろいろ語り合いました。叔父たちと政治論議を戦わせたこともあります。彼は、なけなしの知識を総動員し、大人たちに対して大いに論陣を張ったものです。おそらく、彼の見解はとても幼稚で浅薄なものだったと思います。しかし、この家の大人たちはいつも彼に真剣に対応してくれました。彼にとって、家族の賑やかさも大人との熱い論議も生まれて初めての体験でした。

 下宿では、六畳一間の部屋を全く知らない大学生と二人で借りていましたが、内川さんには彼と話し合った記憶がほとん どありません。彼は内川さんと同年齢のある大学の1年生でしたが、二人の間にはほとんど共通の話題がありませんでした。彼は同居人が受験勉強をせねばならない浪人生だということにとても気を遣ってくれていたようで、いつも遅く下宿に帰 ってきました。たまに浪人生と下宿に一緒にいるときには、ギターでマイク真木の「バラが咲いた」をそっと爪弾いていました。しかし、彼らの部屋には真っ赤なバラは咲いていませんでした。机と本棚、そして簡易の洋服掛けぐらいしかないとても殺風景な部屋でした。

 内川さんは、とても真面目な浪人生でした。予備校を欠席したことは一度もありません。いつも教室の最前列に座っていましたので、よく教師から当てられました。下宿に帰っても、大半の時間を受験勉強にあてました。しかし、勉強机の脇に置いていた段ボール箱の文庫本もどんどん増えていき、最後には満杯状態になったものです。東北のこの街での浪人生活は 、彼にとっては決して「灰色の浪人生活」ではありませんでした。もし、多くの人々と触れ合い、また主体的に勉強に打ち込んだ浪人時代が灰色ならば、それ以前の彼のふるさとの街での孤独と焦燥と鬱屈の日々は何色に喩えたらいいのでしょうか。

 しかし、内川さんにはまたつぎのような鮮烈な記憶もあります。年を越して第一志望校の入試が近づいてきたある日、彼は予備校の親しい友だちと商店街にショッピングに行きました。その帰り、商店街のアーケードを出たときに、何気なく上を見上げました。そのとき、青い青い大空が眼に飛び込んできたのです。眼に沁み入るような空の青さでした。驚くほど清冽な青空でした。

 内川さんはそのときすぐに気がつきました。空を見上げる余裕を自分がずっと失っていたことを。彼は、浪人生活の悲哀をしみじみと感じました。早く受験勉強から解放されたいと切に思いました。充実はしていたが、また非常な緊張のなかで浪人生活を送っていたんですね。彼の心の緊張の糸は、もうそろそろ限界に達するくらいに張り詰めていたんですね。

 内川さんの東北のこの街での一年間の浪人生活が終わり、彼は春から大学生となりました。しかし、彼が入学した大学は第一志望の東北大学ではありませんでした。彼が通うようになったのは第二志望の大阪外国語大学中国語学科でした。皮肉なことに母がいるふるさとの自宅から私鉄を使って通える大阪の街にありました。

 あれから数十年の歳月が経ちました。内川さんは就職のためにふるさとを離れました。その後、結婚し、二人の男の子の親ともなりました。母も勤務先を何度か変わりました。母との関係は自ずと希薄になっていきましが、しかし歳月の積み重ねはかえって彼につぎのことをますます明らかにしてくれました。彼は、母の影響をいまもって強く強く受けているということです。いまでもテレビでペギー葉山の歌っていた「南国土佐を後にして」が聞こえてくると、本屋さんで母がこの歌を初めて聞いたとき、傍にいた彼に「いい歌ねぇ」と言ったことを覚えています。ええ、もちろん内山さんはペギー葉山も「南国土佐を後にして」も大好きですよ。                                                  2001年3月4日



夕陽丘セツルメントの思い出

 内川さんが学生だった頃、大阪市天王寺区伶人町の片隅にスラム地域があり、その地域の子どもたちを対象にした子供会を夕陽丘セツルメントという学生サークルが細々と活動を行っていました。

 この夕陽丘セツルメントの子供会に内川さんが参加したのは、二年生の新学期が始まった頃だと記憶しています。同じクラスの友だちに誘われて軽い気持ちで見学に出掛けたのですが、貧しい身なりの子どもたちが集まっており、その中の一人の小学2、3年くらいの男の子がいきなり内川さんの背中に飛び乗って来たのです。予期せぬお出迎えに内川さんはビックリしました。

 このとき内川さんはこの子の行動にたいしてどのような感じを抱き対応したのでしょうか。腹を立てて子どもを背中から振り落とした。それとも愛情をこめて胸に抱きしめた。内川さんはその男の子の温かい肌のぬくもりに新鮮な驚きと懐かしみを感じたのです。もうこんな感触を味わったのは何年振りだろう、と一瞬思い、その男の子をおんぶしたまま数歩歩きましたが、男の子はすぐに背中から飛び降りて集団の中に入ってしまいました。

 夕陽丘セツルメントは大阪外大と大阪社会事業短大の合同サークルだったのですが、このサークルの新入部員歓迎のコンパも内川さんに忘れがたい新鮮な喜びを与えるものでした。その歓迎コンパは社事短の運動場で夜に焚き火を囲んで行われましたが、一人一人自己紹介を行った後、サークル仲間から質問を受け付けるのです。社事短の女子学生から4、5人の質問が内川さんにもありましたが、女の子との会話らしい会話も何年ぶりのことでしょうか。

 内川さんはほぼ2年間程熱心にこのサークルの活動を続けましたよ。でも楽しいことばかりではありませんでした。子供会に集まってくる子どもたちの母親たちはスリッパの底のゴム貼り等の内職に忙しく、子どもたちを喜こんで子供会に出してくれるんですが、子どもたちは正直です。内川さんが受け持ったのは小学校中学年程度の主として腕白な男の子たちでしたが、面白くないと「おもろーないわ」といって蜘蛛の子が散らばるように瞬時に平気でその場を立ち去って行きます。

 走りっこ、縄跳びに紙芝居、指人形作り、いろいろやりましたが大半が不成功に終わりましたよ。そんなこともあって部員は減ることがあっても増えることはほとんどありませんでした。そんななかで社事短のジーナちゃんは内川さんの良きパートナーとして子供会で1年間熱心に活動していましたが、どうしたことでしょう、短大の二年生になって子供会に急に現れなくなってしまったのです。

 サークルのみんなは心配して、内川さんが彼女に連絡を取って事情を聞くことになりました。ジーラちゃんは、子供会に集まる伶人町界隈のバラック小屋に住む子どもたちが可愛くてたまらないといつも言っていました。ジーラちゃん自身がふたおやも分からないような環境で育ったからだとも言っていました。そんな彼女が子どもに接する姿には理屈を超えた「愛」が感じられたものでした。

 
 内川さんは大阪社会事業短大の部室でジーラちゃんと二人だけで話し合うことになりました。彼女は最初のうちはじっと黙って下を向いたきりでしたが、内川さんがこれまでの彼女の熱心な活動振りを高く評価し、ぜひ一緒にまた活動をしたいと説得を始めたとき、内川さんの言葉をさえぎるように彼女は語り出しました。


 春休みの始まったころ、ジーラちゃんは一人の男性と交際し、春休みが終わりに近づいたころ、彼から「僕のような人間はあなたのような女性には不釣り合いだ。あなたのために身を引くことにした」と体のいい交際打ち切り宣言を告げられたそうです。

 内川さんが彼女の話に口を挟もうとしましたら、「マアくんにはこんな馬鹿な話が分かるわけないわよ」と言い、これ以上は話したくないし、自分にはこのサークルを続ける意欲もなくなったと言い、席を立ちました。

 二人はともに大阪の阿倍野駅を利用していましたから、二人一緒に阿倍野駅まで歩いて帰りました。その帰り道の途中、ジーラちゃんは彼にぽつりと言いました。

 「マアくん、ごめんね。でも夕陽丘の1年は本当に楽しかったよ」

 それからは一度もジーラちゃんと顔を合わせることはありませんでした。夕陽ヶ丘の赤い夕陽にたたずむ彼女の後ろ姿を二度と再び見ることはありませんでした。

     2017年06月17日







大学同級生との44年ぶりの再会

 ある日のことです。突然、内川さんの自宅に大学の同級生だった工藤君から電話が掛かって来ました。工藤君の話によると、彼は長年ずっと東京に勤務していたそうですが、数年前に鹿児島県に移り、大学の同窓会名簿で内川さんが鹿児島市内に居ることを知って電話を掛けて来てくれたのです。そんな工藤君と電話やメールで何度か連絡を取り合っているうちに、今度は鹿児島中央駅隣のアミュプラザ4F紀伊国屋書店でお昼に会いましょうということになりました。

 内川さんは退職後、外に出ることもめっきり少なくなり、しゃべると言えば妻や病院のお医者さん、看護師さんぐらいに限定されていたこともあり、人恋しさが募っていましたからイソイソ と出掛けていきました。

 待ち合わせを約束した紀伊国屋書店で声を掛けてくれたのは工藤君の方でした。久しぶり (1971年卒ですから44年ぶり)の再会であり、大学在学中の工藤君についの記憶は、外国人留学生 と得意の英会話で親しく交流している姿でした(後にもらったメールによると全国高校生対象の英語のコンテストで二位の賞状を貰ったとのこと。それが卒業後の仕事に役立っているようです)。いま目の前に立っている紳士を初めは別人かと思いましたが、じっと見つめると大学時代の工藤君の面影が全くないわけではありません。内川さんは思わず自然と「いゃー、立派な紳士になりましたねー」なんて言ったものです。工藤君は内川さんが運営するサイトに載っている現在の彼の写真を見ていたこともあり、先に気づいて声を掛けてくれたようです。
         
 同じアミュプラザ5Fのあるレストランで昼食を摂りましたが、大学の同級生ってこんなに気さくに自由に話し合えるものなんですかね。二人は2時間以上大いに語り合いましたが、工藤君が「聞き上手」なのでしょうか、話題は大学在学のことばかりでなく政治、文学等多岐にわたり、つい内川さんは在職時代に感じた少子化対策についての複雑な思いなども吐露してしまったものです。こんなことお医者さんや看護師さんに語れないですよね。

 学生時代、内川さんは一年浪人して受験した第一志望の大学に不合格となり、当時二期校で あった母校に入学することになったのです。予備校の模擬試験で一番成績が良かったのが英語の科目であり、母校となった大学の中国語学科の合格率が確実と判断されたことから受験したに過ぎません。

 内川さんは故郷の奈良市から近鉄奈良線に乗って上六(上本町6丁目)駅まで行き、その後如何 にも大阪の下町らしい猥雑な雰囲気の上本町8丁目の繁華街をテクテク歩いて幼稚園の門と間違うよう な大学の小さな門を入って学舎まで通いました。1年生の時は少人数クラスでの週3回ある語学学習にさんざん苦労させられ、10円ハゲができたほどです。適性など全く考えず、ただ大学受験の模擬試験の成績だけを考えての入学の結果、週3回ただひたすらピーチク、パーチクの中国語学習に当時は大いに悲哀を感じたものです。

 その少人数クラスの同級生の一人が工藤君だったのです。四国出身の工藤君と大学の少人数クラスの学友として席を並べたという縁も不思議なら、鹿児島県内ではおそらく数えるくらいしかいないであろう同大学の同窓生のそれも同級生として44年振りに再会できたことは非常な奇縁としか言いようがありません。内川さんはこの工藤君との奇縁をこれからも大切にしていきたいと思いました。 

 ところで、内川さんたちが学んだ上本町8丁目の校舎は箕面市移転に伴い取り壊され、さらに他の総合大学の一学部として統合され、大学名そのものがこの世から消滅してしまっています。
               2015年9月13日



母校の70年史誌と大学紛争

 内川さんは、母校の同級生の工藤君と44年振りに再会してから以降、これまでずっと意識的に封印して来た母校のことがいろいろ懐かしく思い出され、改めてお世話になった先生方のお名前や担当された科目名などを確認しようと考えて母校の70年史を開くことにしました。同記念史誌は1992年に購入しておきながら、いままで23年間たった一度も開いたことがなかったのです。

 母校の70年史誌の「第2編 部局史」には諸学科の歴史等の概要が掲載されており、内川さんはそこにお世話になった中国語学科の懐かしい先生方のお名前を見つけることが出来ました。ところで先ほど母校のことを内川さんが「ずっと意識的に封印して来た」と書きましたが、彼は中国語学科のことが書かれている部分の258頁以下のつぎのような文章に遭遇し、なぜ彼が意識的に母校のことを心の裡に封印してきたのかその理由の一端を探り当てたように思われ、不覚にも落涙してしまったものです。

 その母校70年史の258頁の文章にはつぎのようなことが書かれていました。

「ふり返って、専門学校時代の『中国語』には日本の中国侵略の影がつねに、どこかにつきまとった。そしてそれと同じように、大学の『中国語』には新中国の政治、いやその国の政治をめぐる日本の政治情勢が抜きがたく影響した。それは直接現代を学問の対象とする難しさであるが、研究室で、また学生が日頃とりあげる問題は生々しく人々の『今』とかかわっていた。中国語を学ぶことは中国革命の進んだ経験を学ぶことであると信じた学生は少なくない。昭和35年の文化クラブ案内を見ると中国革命研究会がある。後の文革期にはもちろん毛沢東思想研究会があった。その後には開放政策の時代が続く。政治を離れられないのは我々の宿命のごとくであった。しかしただ言えるのは、学生はいつの時代にも中国に対して純情であり、ひたむきであった。彼らは鏡に映すがごとく、そのままにその時代の中国を映している。それはせつないばかりに忠実であった。昭和40年代は多難な、悲しい時代であった。中国をめぐる日本の左翼陣営の対立は、共に中国を学ぶ仲間が対立し、互いに傷つかねばならぬ事態をまねいたからである。学生だけに限った話ではないのだが、現代を扱うとはなんと過酷なことか。」
 
 内川さんが母校の中国語学科で学んだ時期がまさにその昭和40年代の多難で悲しい時代でありました。前年の1966年には中国で起こった文化大革命の評価を巡って日中友好協会が2つに分裂し、彼が入学した1967年当時にはその分裂の影響を受けて学科内でギスギスした雰囲気が漂っていましたが、入学して2年目の終わり頃に突如として行われた大学封鎖に賛成か反対かで対立はさらに先鋭化することになり、共に中国を学ぶ仲間が対立し、互いに傷つかねばならぬ事態をまねくことになりました。

 内川さんの在学中の1968年から1970年にかけて全国的に学生運動の嵐が吹き荒れていましたが、彼の母校の小さな大学も1969年1月20日に全闘委によって上本町八丁目校舎の新館が封鎖されました。

 内川さんが恐るおそる母校の70年史誌の152頁以下に載っている「第4章(2)大学紛争と制度的改革」の部分を開いて読み始めると、157頁にはつぎのようなことが紹介されていました。

「今春以来の紛争の発端は、4月15日大阪府中小企業会館ホールで行われた入学式へ『入学式反対』を叫んで全闘委(全学闘争委員会)学生が乱入したことであるが、その根源は1月20日の新館封鎖にある。『東大闘争支援』・『東大への機動隊導入反対』という本学とは直接関係のない目的で突如として断行された新館封鎖は、教職員・学生の全学的な力で1日で解除された(後略)」

 封鎖の前日には「東大解体」を主張して東大安田講堂を占拠していた全共闘系の学生たちが機動隊に排除されていました。
母校の全闘委の臆面も無い権威主義的で独自性の全く欠如したどんくさい新館封鎖理由には呆れるばかりですね。この1月20日に行われた最初の封鎖は封鎖派と封鎖解除派が暴力的に衝突することもなく、また機動隊が導入されることなく平和的な話し合いで解決しました。その最初の封鎖に対する翌日の21日からの解除の動きについて、前掲の70年史誌154頁にはつぎのように書かれています。

「一・二部自治会の学生300人は21日午後3時、生協ホールに集まり両執行部の提案した封鎖解除実力行使を圧倒的多数で承認、行動隊を編成した。その後教授会代表3人と学生代表3人が封鎖学生に解除を説得したが、聞き入れられないため、午前9時半ごろから教職員に続いて行動隊、一般学生500人が、旧館からの廊下づたいに新館に入り封鎖解除行動に出た。教職員の説得で学生間の暴力事件はなく、封鎖は約30時間で解除された。」

 しかしその後また全闘委による大学封鎖が繰り返されました。内川さんのような内向的でおとなしい人間も全学集会のような場所で大学封鎖断固反対を主張したものでした。そして同年の6月6日に学生自治会が呼びかけた封鎖実力解除の行動のときは、なんの疑問もなく学生自治会が用意した防御用のヘルメットを被り、木製の盾を持って旧館のバリケード封鎖解除のために校舎内に突入したものです。いまでもそのときのことを内川さんは鮮烈に記憶しています。

 突入した旧館一階はがらんとしており人一ひとりいないように見えました。しかし右横の廊下の隅に全闘委の見張りらしい一人のヘルメット学生を見つけました。その瞬間、相手は火炎瓶(瓶に灯油を入れて布で栓をし、その布の先端に火を付けて投擲する武器)を彼めがけて投げつけ、近くの壁の上にガシャンと当たって砕け散り、液体が彼のヘルメットや服の上に降りかかり、火がボッと燃え上がりました。傍にいた学友の「転がれ」との声に慌てて廊下に伏して何回か横に転がり、学友たちの一人が即座に着ているジャケットを脱いでバンバン振って火を消したので大事には至りませんでした。

 母校の70年史誌の158頁によると、この1969年6月6日の学生たちの衝突で「重傷者4名を含む学生20数名の負傷者を生じた」としています。

 その後も学生同士の衝突は繰り返され、街のど真ん中に建っているオンボロ学舎の4階屋上から全闘委の学生が円弧を描いて投擲する火炎瓶がポーンポーンと階下で破裂する音が暗闇に響き渡り、燃え上がる炎の中に乱戦する学生たちの無数の姿が浮かび上がる「戦争状況」を内川さんは記憶しています。

 しかし、なぜか内川さんには、その後数度にわたって繰り広げられた衝突についての記憶が定かではありません。母校の70年史誌によると、全闘委による大学封鎖は結局7月7日、10月2日の二度にわたる機動隊導入によって解除され、紛争は収束していったようです。

 内川さんはいま当時の大学紛争のことを回顧して思うんですが、全闘委の反対派を学外に一方的に締め出す大学封鎖は間違っていたと思いますが、ヘルメットに鉄パイプのゲバ棒、火炎瓶等で武装した封鎖派に対抗するためとはいえ、学生自治会側も解除派の学生に防御用ヘルメットを被せ、木製の盾を持たせたて実力行使を強行した行為は正しかったのでしょうか。

 勿論、学生自治会が大学当局に機動隊導入を要請していたら学内の大半から「大学自治の放棄」だと批判されたことでしょう。しかし、すでに全国で学生同士が衝突を繰り返し多数の負傷者を出していたとき、その悲劇を繰り返すことを止める勇気も必要だったのではないかと思います。それに大学の教育、研究活動を阻害し、学生に修学、進学、卒業の中止を暴力で強要する全闘委の封鎖行為は明らかな不法行為です。このような不法行為に学生自治会が主体的に学校当局に機動隊の導入を要請することこそ大学自治の発揮というべきではないでしょうか。

 封鎖の実力解除は機動隊に任せるしか仕方がなかったと思います。餅は餅屋と言いますからね。えっ、餅屋に封鎖解除は無理やろ~、ですって。餅屋が杵(きね)使うてバリケード壊すんかい。餅投げて火炎瓶に対抗するんかい。えらいこの大学は餅だらけでべたべたでんな~。そんなことになったらアンタ、往生しまっせ~。

 内川さんにとってこの学園紛争の体験は余りにも哀し過ぎて、冗談で笑い飛ばすしかありません。これまでこの頃の忌まわしい体験がPTSD(心的外傷後ストレス障害)となり、その後ずっとこの体験を心の奥底に隠し続けて来ましたが、やはりこれからは時間を掛けて掘り起こし、癒していく必要があると思うようになりました。
2015年10月10日



大学院時代の授業ボイコット

 内川さんが大学院修士課程2年生のときのことである。
 
 佐山教授が大学院の専攻内の全院生6人を研究室に集め、にこやかな笑顔で「みなさんに嬉しいお知らせがあります」と話を切り出し、「教授会でみなさんと一緒に学んでいる村山君(博士課程在籍)が本学部助手として採用されることになりました」と伝えたのである。佐山教授としてはここでその場の院生たち全員から拍手が起こることを期待したはずであるが、残念なことにただ一人の拍手も起こらず、研究室内は水を打ったように靜まり返った。そのとき、研究室内の静寂を破ってその場に集まった院生としての第一声を発した人物がいた。

 誰あろうなんとその人物こそが内川さんだったのである。

「大変嬉しいお知らせだと思います。ただ本学部の教員採用には学生の声も前もって聞いて決めると聞いていますが、教授会決定前に新たな教員採用人事について私たち院生はなにも聞かされていませんでした。」

 内川さんが勇気を振るってそんな疑問を呈したのである。当時、彼は大学院生自治会の委員をしていたので、耳にしていた大学紛争当時に新たに決められたという教員採用の内規をその場の院生たちにただ伝えようとしただけであり、彼の発言などに誰一人賛同の声などあがるまいと思っていたのだが、なんと院生から彼に賛同する複数の声があがり、「それもそうですから、院生で相談させてもらいたと思います」ということになってしまった。そしてなんとなんと専攻内の院生の多数決で今回の教員人事で専攻内の院生との話し合いが新たに持たれるまで無期限の大学院専攻内の授業ボイコットを行うことに決まってしまった。

 いま考えると、いやそのときも内川さん自身は大学紛争時に決められたという教員人事に、まだ学問的に未熟な学生の声を反映させるなんて新しい内規には疑問を感じており、そんな内規などに賛同の声などあがるまいと思っていたのに、無期限授業ボイコットになってしまったのには驚いてしまった。こう言うのをなんと喩えたらいいのだろうか。「瓢箪から駒が出る」とか「籔をつついて蛇を出す」なんて言うのかな、それとも同じ「藪」なら「藪から棒」に物事が決まって慌てふためいたと言うべきなのであろうか。

 そして内川さんは言い出しっぺとして佐山教授の研究室にそのことを伝える役目まで仰せつかってしまった。温厚な人柄で学問一筋の佐山教授は、内川さんの報告を聞いて気の毒なことに非常に困惑され大いに動揺されたようであった。しかし老教授は内川さんに怒りをぶつけることなく冷静さをなんとか保たれて、「来週中に専攻内の院生のみなさんと教員とで話し合いを持ちましょう」との返事を下さったのである。

 さて、その一週間後、専攻内の院生6人と佐山教授、繁田助教授、北川講師の教員3人が集まり、内川さんがまず先週と同じことを述べたのであるが、彼が言い終わるやいなや繁田敦助教授が大きな声で「馬鹿なことを言っちゃいけない!! 大学院生と言えどもまだ学問的には評価の定まらぬ学生身分だ。そんな諸君が大学の教員人事に口出しするもんじゃない」と一喝された。 

 この繁田敦助教授こそ、私が大学院で学んでいた分野で新進気鋭の研究者として高い評価を得ておられた若手研究者であった。ただ残念ながら彼が大学院修士課程に入学した1年目には病気入院しておられ、2年生後期になってやっと大学院で演習を受け持たれ、院生各自が専攻分野の興味を持った論文の要約紹介を行い、彼も発表の準備をしていた頃であった。

彼は繁田敦助教授の発言に対し、すぐに平伏して「ハハーッ、誠におっしゃる通りでございます」と言うべきだったのだろうが、そのときは院生代表としての立場もあり、なんだかんだと理屈を付けて反論し、他の院生たちも気分を害して話し合いは物別れとなってしまった。

 専攻内の院生による授業ボイコットが一ヶ月近く続いた頃、博士課程の先輩が佐山教授の言葉として「このままだと授業日数が足らなくなって、みんなの単位が出なくなることを心配しておられるよ」と内川さんに伝えてくれたので、渡りに船と専攻内の全院生に集まってもらい、「内川君も困っているようだから、この辺りで授業ボイコットをストップしてもいいのではないか」と同情(?)してもらい、この藪から棒的授業ボイコット騒動はなんとか終わりを告げたのであった。

 内川さんたち院生を叱りつけた繁田敦助教授は、その年の11月に43才で他界された。病名は閉塞性肝炎とのことであった。先生の葬儀や実家に帰られる奥さんのために書籍の後片付けのお手伝いをしたことが哀しい思い出としていまも記憶に残っている。内川さんはクシャミをするたびに、繁田先生の書斎の書籍にたまった埃が部屋中に舞い上がり、彼が何度もクシャミをしたときのことを思い出すのであった。
2016年11月27日






担ぎ屋のおばちゃんの思い出

 内川さんが学生のときのことである。ラッシュアワーも過ぎた夜の列車の座席に座って文庫本を読んでいた彼の耳に「あんたも同じ人間や」と言う胴間声が飛び込んできた。家庭教師のバイトの帰りに乗った国鉄の各駅停車の列車内のことである。

 声のした左手斜め前の方向に目をやると、列車のドア近くの座席に座っている茶色の革ジャンの中年の男とその真ん前の床に座り込んでいるもんぺ姿の年輩の女性が目に入った。中年の男は車内の乗客みんなに聞こえるような大きな声でその年輩の女性にまた言った。「あんたのこと、わしらとなんに変わらへん同じ人間やと思うてるで」。もんぺ姿の年輩の女性は男を見上げながら黙って頷いた。男の頬にはほんのりと赤みがさしており、その声の調子からもかなり酔いが回っているようであった。

 話しかけられている年輩の女性は、両の膝を立てて床に座り込み、その脇には大きな風呂敷包みが置かれていた。担ぎ屋を生業(なりわい)としているようである。お得意さんの家を行商して回っての帰りであろうか、それとも街角で開いていた露店を仕舞っての帰りなのであろうか、彼女が大きなきな風呂敷包みを肩に背負って乗り込んできた姿を先ほどちらっと見たような気がする。しかし、内川さんにとってそんな担ぎ屋のおばちゃんの姿は、倦怠感の漂う夜の普通列車のありふれた車内風景の一つでしかなかった。

 彼がまた文庫本の続きを読もうとしたとき、また革ジャン男の「あんたも大変やなー」という大きな声が聞こえてきた。再び二人の方に目をやると、革ジャンの中年男が「食べえな、遠慮せんでええから食べえな」と言いつつ担ぎ屋のおばちゃんの顔の前にまるで犬や猫に餌を与えるように片手を突き出していた。男の手の先には黒い飴のようなものがちらっと光った。列車の床に座り込んでいた担ぎ屋のおばちゃんはちょっと躊躇したが、しかしすぐに多くの乗客が見ているなかでそれを黙って口に入れて頬ばった。その顔に喜怒哀楽の感情はほとんど見られなかった。それは大海を流れ漂い荒波に翻弄されるなかで樹皮をきれいにそぎ落とされた流木のような表情であった。

 革ジャンの中年の男がまた言った。「あんたもわしらと同じ人間や」。車内を沈黙が支配し、先ほどまで緩やかに流れていた空気もぴたっと止まってしまったように感じられた。内川さんは文庫本の先を読もうとしたが、もはや意識を本の中に集中させることはできなかった。列車が終点の一つ前のターミナル駅に停まったとき、またあの男の声がした。「ほな、またな。元気で頑張りや」。男は列車から出ていった。おばちゃんは先ほどと同じように列車の床に両膝を立てて静かに座っていた。

 終点の駅に到着したとき、担ぎ屋のおばちゃんは背中に重くのしかかる大きな風呂敷包みを背負ってゆっくりと改札口から夜の闇の中に消えていった。

 その後、内川さんは担ぎ屋のおばちゃんの姿を再び見ることはなかった。しかし、喜怒哀楽の感情を流木のようにきれいにそぎ落としたような担ぎ屋のおばちゃんのあの表情はいまも彼の頭のなかに鮮明に記憶されている。だが、あの担ぎ屋のおばちゃんにとって、その夜の車内の出来事は大海を流れているときに小魚につつかれた程度のことにしか過ぎなかったであろう。

                         おわり  1998年3月8日







赤提灯とバイオリン

 内川さんが就職して職場の独身寮に住んでいた頃のことである。

 寮の夕食も終わり、個室で待っていると、おいでなすった、ピンポーンと呼び出し音が鳴りました。ドアを開けるとやはり桃畠一二三(ひふみ)さんでした。愛嬌のある笑顔で右手の親指と人差し指で輪を作ってグイと酒をひっかけるマネをして「今日も行きませんか」といつものようにお誘いです。それで内川さんは桃畠さんと一緒に近くの居酒屋に出掛けて行きました。

 内川さんが職場の独身寮に住んで一年後に桃畠さんも入寮して来ました。入寮の挨拶に来た桃畠さんの話だと、桃畠さんは内川さんより一歳年下の東京生まれとのことでした。堅物の内川さんと違い、桃畠さんは大学生の頃から飲み屋街のネオンの色に染まっていたようで、すぐ内川さんを近くの居酒屋に誘うようになりました。

 正直言って内川さんには慣れない居酒屋行きなんか迷惑な話だったんですが、桃畠さんは全く気にする風もなく内川さんを週末になると必ずと言っていいほど居酒屋に誘い、内川さんもそんな週末の居酒屋通いが結構楽しくなりました。

 近所の国道沿いにある居酒屋には赤提灯が点っていましたが、内川さんは桃畠さんといわゆる赤提灯談義といわれるような職場の噂話などはほとんどしませんでした。雄弁な桃畠さんがもっぱら文学論を語り、内川さんがほぼ聞き役に徹していたのですが、二人の波長は合っていたようです。しかし内川さんは内心思うのでした、なんで自分のような堅物を誘うのだろうかと。

 居酒屋では、桃畠さんはなかなか雄弁でしたが、また都会人らしいスマートさで自説に固執するようなことはありませんでした。しかし桃畠さんが高く評価するオスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイの肖像」や森鴎外の「安部一族」について、内川さんがいまいちその良さがよく分からないと正直に言ったとき、桃畠さんは「うーん、内川さんならそうでしょうね。残念ですがまだまだ成長が足らないようですね」などと言って内川さんを苦笑させたものです。しかしこんな辛辣な表現も桃畠さんの口から出るととても愛嬌があって憎めませんでした。

 しかし、くどいようですが、どうして桃畠さんは内川さんのようななんの面白味もない堅物人間を居酒屋に誘い続けたのでしょうか。もしかしたら内川さんの田舎町出身らしい朴訥さや愚直さが東京生まれの桃畠さんを安心させたのかもしれませんね。

 桃畠さんは彼個人の滑稽な失敗譚をよく酒の肴にしていました。職場の勤務時間終了後、グラウンドでソフトボールのキャッチボール練習をしていたら、フライを取るにはじっと飛球から目を離さずにいることが大切だと教えられ、その通りにして顔を上げ続けていたら目ん玉にもろに大きなボールが当たってしまったというような話で、二人で大笑いしたものです。しかし、内川さんは太宰治の「人間失格」で道化を演じる主人公に「ワザ、ワザ」と声を掛けた竹一少年の気持にもなったものでした。

 桃畠さんの出身高校は当時全国屈指の超難関校の都立日比谷とのことでしたから、幼い頃から成績抜群の「できる」子どもだったに違いありません。幸か不幸か内川さんはそんな「できる」子どもではありませんから、桃畠さんの滑稽な失敗譚を聞いても内川さんの竹一少年的側面が邪魔をしてどうしても心から笑えませんでした。

 内川さんは内心やはり思うのでした、なんで自分のような人間を誘うのだろうかと。えらくしつこいですね。でもね、内川さんが疑問に思うのも仕方がないんですよ。内川さんには中学校進学以降ただ一人も親友がいなかったのですよ。内川さんには赤い夕陽に染められた校舎で声を弾ませながら熱く未来を語り合うようなクラスメイトなど一人もいなかったのです。ただ書物だけが親しく語り合う相手だったのです。そんな内川さんにとって、居酒屋に遠慮なくいつも誘い掛けてくる桃畠さんにはいささか戸惑いを感じました。でもそんな内川さんだからこそ、桃畠さんは彼に敏感に同類のにおいを嗅ぎ取っていたのかもしれませんね。

 内川さんと桃畠さんとの居酒屋の付き合いが一年近く続いたある夕方のことです。桃畠さんがいま付き合っている女性が自分の部屋を訪れるから、内川さんも部屋に来てくれないかと真剣な顔で言うのです。彼の部屋には同じ独身寮の住人が三人すでに呼ばれており、その女性が来ると桃畠さんは子どもの頃に習ったというバイオリンをやおら取り出して弾き始めました。

 前にもに桃畠さんからそのバイオリンの音色を聴かされたことがありますが、お世辞にも上手とは言えませんでした。下手なバイオリンは「ギーコ、ギーコ」とノコギリで木を切るような音がしますね。ちょっと酷い譬えですが、桃畠さんのバイオリンはそんな感じでした。桃畠さんは彼女の前でバイオリンを弾き出しましたが、音楽にはさっぱり疎い内川さんには曲名も分からず、彼には失礼でしたがその場で大笑いしてしまいました。そこにいた他の三人もつられて笑い出したものです。しかし彼女は最後まで黙って静かに聴いていました。内川さんの心にも「ワザ、ワザ」という竹一少年の声は聞こえませんでした。

 桃畠さんはなんで付き合い始めた相手に下手なバイオリンを聴かせたかったのでしょう。後で知ったことですが、桃畠さんは知人の奥さんの紹介で彼女との交際が始まったそうです。桃畠さんはきっと結婚を決意したとき、釣書にすまし顔でお利口さんに収まっているような自分ではなく「本当の自分」をさらけだしたかったのでしょう。バイオリンは下手だけれど、ありのままの自分をさらけ出す姿を見てもらいたかったのでしょう。そして彼女も、最後まで懸命に弾き続ける彼の姿に感動したに違いありません。

 その後、しばらくして内川さんは桃畠さんからその女性と結婚することになったと告げられました。桃畠さんは独身寮から出て行き、もちろん内川さんの居酒屋通いにも終止符が打たれました。

 桃畠さんとは彼が他の職場を移ったこともあり、その後は年賀状の遣り取りぐらいしか交流がありませんでしたが、10年前に桃畠家から訃報が届きました。年齢は内川さんより1歳年下ですから57歳で他界したことになります。内川さんは最近嗜むようになったウイスキーの水割りグラスの氷の音を静かに聴きながら、桃畠さんの早世理由がお酒の飲み過ぎと関連しているのかもしれないなどと考え、酔いが回って目の縁をほんのりと紅くしていた桃畠さんの愛嬌のある笑顔を懐かしく思い出すのでした。

                         2015年7月18日



母親が描いた息子の婚約者の似顔絵

 
 内川さんの母親は職場を定年退職した後、夫(内川さんにとっては勿論父親なんですがね)と一緒に内川さんの家の近くに新たに家を建てて引っ越してきました。

 内川さんが両親の家を訪れますと、いつも彼の母親は自分がいま研究していることについてあれこれと楽しそうに語ったものです。彼の母は、まるで可愛い吾が子を慈しみ育てるような気持ちで自分の研究テーマ(中国古代の箸の研究)に愛情を注いでいたのです。内川さんは大学で中国語を学んでいるのですが、彼の母親も中国語を独学で学んでおり、彼女の中国語古文(漢文ですね)はもとより現代中国語の論文に対する読解力にも感心させられました。

 内川さんの母が亡くなる前日の朝、彼は両親の家を訪れているのですが、そのとき母は、「背中が痛くて熟睡できないのよ」と言いながらも、彼に温かいコーヒーを出してくれました。その後、いとまを告げて帰ったのですが、まさかそれが永久の別れになるなんて内川さんは全く想像もしていませんでした。翌日、内川さんの母は解離性大動脈瘤破裂のため、 77才であの世に突然旅立ってしまいました。突然に死が訪れたためでしょう、彼の母はほとんど苦しまなかったようです。その死に顔はとても安らかで、まるで若い頃の彼の母の笑顔を彷彿とさせるものがありました。

 内川さんが両親の家で母親の遺品の整理をしていするとき、段ボールの底から彼の母親が鉛筆で描いたらしい若い女性の横顔の絵が一枚出てきました。

 この絵は、内川さんがまだ独身時代に結婚する相手を決めたとき、当時山陰のM市に住んでいた母親に電話でそのことを伝えたときに描かれてたものに違いありません。その時、彼の母親は何度も何度も彼に新しく家族となる女性の顔付きや人柄、雰囲気を質問したものでした。

 そんな内川さんの母親が、まだ見ぬお嫁さんの似顔絵を描いたものを後で彼に見せましたが、それは実際の内川さんの結婚相手となる女性に驚くほどそっくりでした。電話で息子が伝えた婚約者の女性のイメージについて、息子の言葉だけを頼りに一枚の紙にその横顔を再現していたそのときの母親の気持ちを察し、内川さんの両目には自然と涙がにじみ出てきました。

 初めて内川さんが彼女を両親に紹介したとき、内川さんの母親は未来のお嫁さんの手を固くしっかりと握り、息子をよろしくね、よろしくねと繰り返し言い、「まさとは真面目な人間で、浮気なんかする子じゃ絶対ありませんから、それだけは心配しないでくださいね」と言った言葉が内川さんの記憶に鮮明に残っています。母親はそこにいろんな意味を籠めて伝えたかったのだと思います。

 そうですね、内川さんの母親は夫の浮気に何度も涙を流し、幼い頃から夫婦喧嘩の修羅場を見て育った内川まさと君もこと異性問題では石部金吉でずっと通してきましたし、結婚後も浮気なんてちょっと想像しただけで不動の金縛り状態になる 間なんですよ。

 内川さんが本当に真面目人間かどうかはいささか判断に迷いますが、こと異性関係に関しては彼の母親の言葉に間違いはなさそうです。えっ、誰ですか、内山さんの異性関係は「梅雨の季節みたいなもので、降られっぱなし、振られっぱなし」ですって。うーむ、上手いですね。しかしそれって誰かの落語で聴いたことがありますから、オリジナルな謎かけ言葉で「内山さんの異性関係と掛けて何と解く。その心は熱湯が注がれたグラスのようなもので、全くもてません」と言う自虐ネタはどうでしょうか。

 えー、お後がよろしいようで、ちゃんちゃん。
                                 2001年3月4日


東大寺南大門でのミイラ男との遭遇

 1992年の8月初旬、内川さん一家4人は2泊3日の家族旅行をしました。旅行先は彼のふるさとの町である奈良でした。ふるさとの町を離れて就職してから十数年ぶりの帰郷でした。彼はその間に結婚し、そして2人の男の子の父親となっていました。

 久しぶりに見るふるさとの町でしたが、古都のたたずまいは昔のままでした。緑の甍(いらか)が美しい古寺の苔生(こけむ)した石段に内川さん一家の跫音(あしおと)が静かに響き渡り、その石段の上を大小3つの影が重なりながら歩むのを見て、私はなんとも言えぬ感慨を覚えたものです。

 二人の子どもたちが父親のふるさとの町を見るのは初めてでした。小学校高学年の長男と幼稚園児の次男の目に私のふるさとの風景はどう映ったのでしょうか、どんな印象を持ったのでしょうか。おそらく、彼らには、父親が生まれ育った町をいま訪れているんだという様な感慨などは全くなかったと思います。しかし、彼らが生い育った鹿児島の街では見られぬ古い神社仏閣や大きな大きな仏様、また沢山の鹿が群れ集う広くて美しい公園などはきっと彼らの心に強い印象を残しに違いありません。
 
 ところで、家族と一緒に訪れたふるさとの町で、内川さんが家族を連れていきたかった場所の一つに南大門がありました。鎌倉時代に建てられた重層入り母屋づくりの豪壮なこの大門の東西に、高さ8メートル以上もある大きな寄せ木造りの巨大な仁王様が向かい合って立っているのです。南大門の西側に立って口を大きく開けているのが「阿形」(あぎょう)、東側に立って口を閉じているのが「畔形」(うんぎょう)で、仁王様たちは寺を邪神から護るために約800年間ずっと阿畔(あうん)の呼吸を合わせてきたそうです。

 内川さんは、特に「阿形」に彼の家族を引き合わせたいと思っていました。口だけでなく目もぎょろっと大きく開け、右腕に両端の尖った金剛杵(こんごうしょ)を抱え、左手はその指の全てを大きく開いてぐいと構えているこの「阿形」には特別の思い出があったからです。彼が小学5年生の時、野外写生の時間にこの南大門の「阿形」をクレヨンを使って描き、美術の先生に高く評価してもらったのです。ちょうどその頃、彼は色の濃淡を使い分けて対象を立体的に描くテクニックを見よう見まねで身に付けたばかりのときでした。ですから、南大門のこの仁王様の巨大で力感溢れる木造彫刻は彼の絵の対象として最適だったのです。彼は茶色を基調にしながら、様々な色のクレヨンを画用紙にぐいぐいと塗り込んで仁王様を力強く播き出しました。そして、この絵は美術の先生に高く評価され、額に入れられて校長室に飾られることになりました。

 運動会で走れば、「内川君、最後まで頑張って下さい」と場内アナウンスで励まされ、音楽発表会で笛やハーモニカを吹くときは、ただそれらしくパントマイムを演じるしかなかった内向的で目立たない男の子にとって、こんな嬉しいことはありません。ですから、彼が後に結婚したときも、媒酌人の方に頼んで、その新郎紹介の話のなかにこの仁王様の絵のエピソードをわざわざ入れてもらったほどです。だって、結婚式のために遠路わざわざおいで下さった列席者のみな様方に対し、新郎は「優秀な成績で卒業されました」「将来も非常に期待されています」なんて誰も信じないようなウソっぼい紋切り型の紹介の言葉だけで終わってしまうのでは余りにもさびしすぎますからね。

 さて、内川さんはこんな楽しい思い出のある南大門の仁王様の「阿形」と再び会うことができたでしょうか。彼の家族を「阿形」にちゃんと紹介することができたでしょうか。それが残念ながらできなかったんです。内川さん一家が南大門に赴いたとき、その大きくて豪壮な門は昔のままに元の場所に建っていました。南大門の東側に「畔形」の雄姿を見ることもできました。しかし、なんとなんと、南都の南大門の西側には「阿形」ではなく巨大なミイラ男がいたのです。

 びっくりしましたね。だって、白いサラシで全身をぐるぐる巻きにされた巨大なミイラ男が南大門の西側にどんと立っているなんて予想もしなかったからです。しかし、南大門に出現したこの巨大なミイラ男があの「阿形」であることはすぐに判明しました。私たちが南大門の前の石段を上がると、先に来ていた観光客の一団にガイドさんが南大門の説明をしており、金剛力士像の解体修理のことも話してくれました。その解説によりますと、口を閉じた仁王様「畔形」の解体修理がまず先になされ、それが終わった後、今度は口を開けた「阿形」の解体修理がおこなわれ、つい最近、作業所から傷つかぬように全身を白いサラシで巻かれて戻ってきたばかりとのことでした。ですから、私たち家族が南大門を訪れたとき、仁王様の約800年間続いた阿畔(あうん)の呼吸合わせがちょうど一時的に中断していたんですね。ああ、うんがないですね(駄酒落です。念のため)。

 内川さんは、仕方がありませんので、東側の仁王様の「畔形」に心のなかで私の家族を紹介し、ミイラ男に変身している「阿形」にもくれぐれもよろしくと伝言を頼みました。その後、内川さんは家族と連れだって大きな仏様が鎮座ましますお寺の方に向かって晴れ渡った夏空の下をまた歩き出しました。
                1998年2月28日

                              


 いまから4年前(2012年8月13日)、内川さんの父は90才の高齢で他界しました。医者の死亡診断書には「誤嚥性肺炎」と書かれてありましたが、高齢に拠る体力低下に伴って起きた肺炎のようで、以前なら「老衰」と診断されたに違いありません。実際、内川さんの父はほとんど苦しまず安らかにあの世に旅立って行きました。

 内川さんの父が他界する11年前の2001年1月に母が77歳で先立ち、父は独り身となった淋しさと本来の酒と女が大好きなことから、繁華街の天文館のバーに足繁く通うようになり、馴染みのバーの女性から婚約解消の慰謝料四百万円を請求されたこともありました。父はそのことに困惑して彼になんとかならんかと相談して来たことがあります。内川さんは父の家に金を取りに来た相手の女性と会って、「慰謝料四百万円なんて法外な金が支払えますか。すでに親父が支払った金額は致し方ないとして、残りの金はびた一文払いませんよ。訴訟を起こすなら起こしなさい。受けて立ちましょう」なんて勇ましく啖呵を切ったものです。

 その後、内川さんの父の認知症が進行したこともあり、天文館での金遣いがますます荒くなり、郵便局のATMから一日の上限50万円を繰り返し引き出すようになり、通帳に何千万円もああったものが二年間の間にあっという間に無くなってしまい、仕方がないので内川さんは妻に父の通帳を管理してもらうようになり、他界する三年前にはグループホームでお世話してもらうようになりました。

 穏やかな大往生が遂げることができた内川さんの父の生涯は、子どもだった内川さんの目から見てもとても幸福なものだったと思います。内川さんの父は地方銀行の重役の末っ子として生まれ、何不自由ない子ども時代を過ごし、当時としては僅かな人だけしか受けられなかった高等教育も受け、戦争中は軍事訓練は受けたようですが、実際に戦地に送られて血生臭い体験をすることもなかったようです。このことだけでも同時代の男性としては極めて幸せなことですよね。

 戦後、内川さんの父は大学で専攻した農業土木の専門知識を活かして奈良県庁耕地課、奈良学芸大学を経て民間会社の大阪茨木市の施工会社、コンサルタント会社に移り、その後島根大農学部に勤務し、定年退職後には息子の住む鹿児島市に終の棲家を建てました。

 内川さんは残念ながら、職業人としての父の姿はほとんど知らないのですが、若い頃の父がお酒が大好きで、よく夜遅く友人を連れて酔って帰宅して来たことは覚えています。テニス、社交ダンス、オートバイも大好きで、休日にはそれらの趣味を外に出て大いに楽しんでおり、家でじっとしている姿などほとんど見たことがありませんでした。浮気がバレて母とよく喧嘩もしており、彼は幼い胸を痛めたものです。内川さんが子どもの頃の父は我儘一杯やりたいことを好きなようにやっているように見えました。

 内川さんの父が高齢で他界し、また彼の父の親類や知人の大半が高齢で遠隔地の住人等のことから判断し、葬儀は家族葬で執り行うことにしました。家族葬は8月15日の終戦記念日に真夏の太陽が照り輝く昼過ぎから行いましたが、葬儀の雰囲気もその日のお天気のようにカラっとしたものでした。そしてまた、晩年に酒と女に溺れた彼の父の姿になぜか他人事のように冷静な目で見つめていた内川さん自身に彼はなんとも言えぬ悲哀を感じたものでした。
2016年06月14日






長男の婚約者の両親との初顔合わせ

 昨年の夏に明石に住む内川さんの長男の喜一郎くんから電話があって、彼が付き合っている相手にプロポーズしてオッケーをもらったとのことでした。

一人の青年が眠れぬ幾夜かを過ごした後、思い切って相手にプロポーズするというなんともロマンチックな出来事の後、結婚式を無事に執り行なうという男性側にとってはいささか散文的な行事の幕が上げられることになりました。

 喜一郎くんからの朗報を受けた後、内川さん夫婦は世間の息子の親がするであろうような話をとりとめもなく語り合ったものでした。えっ、「世間の息子の親がするであろうような話」ってどんな話ですかって? やっぱり、長男の婚約者となった相手との初顔合わせはいつ頃になるのだろうかとか、長男はその前に相手のお嬢さんの両親への挨拶を済ませておくべきではないか、親同士の顔合わせはいつ頃どこで、結婚式場の場所や両親はどんな服を着るのか、新郎の親戚としてどんな人たちに出席してもらおうかなんて話じゃないですか。

 その後、喜一郎くんが友人たちとの屋久島旅行に相手のお嬢さんを連れて来鹿したので、内川さん夫婦は鹿児島市内の料亭で初顔合わせをすることが出来ました。喜一郎くんの話によると、相手のお嬢さんの名前は恵子さんで、彼女との交際は信頼できる友人の紹介から始まったとのことでした。おそらく喜一郎くんは初対面ですぐに親しみを感じ、その後、彼女との交際を重ねる中で生涯の伴侶として一緒に人生を歩める女性だと確信したのだと思います。幼い頃から保育園の保母さんになりたいと思い、高校も保育を学べる学校に進学し、短大で保育士の資格を取り、保育園では0歳児たちをお母さんたちから預かり世話をするという重たい責任を6年間果たして来たという社会経験もあり、とてもしっかりした女性だなとも感じました。内川さん夫婦は恵子さんにどうか息子をよろしくと心からお願いしたものです。

その後、喜一郎くんから電話があり、神戸のホテルで恵子さんのご両親との挨拶を済ませて心よく婚約を承諾してもらったとの報告がありました。後は内川さん夫婦と相手のお嬢さんのご両親との初顔合わせを済まさねばなりません。

今年の513日(金)に内川さん夫婦は鹿児島中央駅から午後328分の新幹線「みずほ」に乗って新神戸駅に向かいました。翌日のお昼に恵子さんのご両親と顔合わせするためです。

  翌日の514四日お昼にご両親との初顔合わせを三宮の和食のお店「栄ゐ田」で行いました。内川さんの奥さんはすでに先月に恵子さんのお母さんと結婚式予定場所での試食会で顔合わせをしているのですが、私たち夫婦がそろって相手のお父さんと会うのは初めてのこととなります。内川さんはお父さんとの顔合わせは初めてなので些か緊張しました。

 喜一郎くんの許嫁のご両親との初顔合わせなんですが、両家の相互の簡単な自己紹介が終わって全員着席したた後、内川さんが「まずビールでも頼みましようか」と言ったところ、相手のお父さんが「体のためいま禁酒しています」とのこと、みんなでウーロン茶を飲むことにしました。

  座の話の接ぎ穂が続かずシーンとなったので、何か話題がないかと内川さんがお父さんに「どんなご趣味をお持ちですか」とお訊きしたところ、「仕事が忙しかったので特にありません」との返事。前に長男からお父さんは仕事に忙しく「家庭のことは全て妻に一切任せております」とおっしゃっておられたと聞いていましたが、やはり仕事一筋の真面目人間らしいとの印象を持ちました。お母さんは穏やかで優しそうな婦人という印象でした。

  話題がなかなか続かないので、喜一郎くんが「私は鹿児島で生まれ育ちましたが鹿児島県人の血は一滴も入っていません。父は奈良県人で母は熊本県人です」と紹介し出したので、内川さんは彼の言葉に続けて、「私の父は奈良県人ですが、母は日本統治時代の台湾に生まれた仙台にルーツを持つ東北人です」と付け加えたのはいいんですが、つい「私のオヤジは酒が強かったんですよ。酒も女も好きでした」と余計なことを口走ってしまい、これはヤバイと気づいて慌てて話題をすぐ変えました。

  この両親同士の初顔合わせで内川さんは些か醜態を演じてしまいましたよ。会食が終わり、これからもよろしくと挨拶をして席を立とうとしたとき、内川さんの席に出されている水の入ったコップをそっと横に退かそうとして手許が狂ってコップが倒れ、なんとお父さんの膝に水を掛けてしまったのです。さらに内川さんの醜態は続き、靴を履こうとして新品の靴を履いてきたこともあり、なかなか履けず、お店の人が持ってきた長い靴ベラも長すぎて上手く扱え切れず、彼は自分の指先を靴のかかとになんとか無理矢理ねじ込んでやっと履くことが出来ました。後から席を立たれた相手のご両親はおそらくその様子を些か困惑して見ておられたことと思います。

  翌日の515()に新神戸駅から午前1012分発の新幹線「さくら」に乗って鹿児島に帰りましたが、車窓から熊本近くの沿線から屋根に敷かれた青いビニールシートが次々と見え始め、今回の熊本大震災の生々しい被害が目に入って来ました。

  おっと、その後いままで神戸のご両親からはなんの連絡もありませんから、今回の初顔合わせは無事に済んだと思っていいのでしょうね。

 2016年5月28日    

                              

結婚式前夜の内川家最後の晩餐

 長男の喜一郎くんの結婚式前夜、内川家「最後の晩餐」を三宮の宿泊ホテルの近くで四人ともにすることにしました。核家族の内川家はこれまで内川さん夫婦に長男、次男の四人家族だったのですが、長男の喜一郎くんが結婚することになり、喜一郎夫婦はそれぞれの親の戸籍から離れて新しく戸籍を作ることになるのですから、四人家族としての晩餐は最後になりますね。

 次男の信也(のぶや)君も仕事が終わって宿泊に駆けつけ、ホテルの近くで夕食の出来る店を探しましたが、金曜日の夜ということで、なかなか見つかりませんでした。それでも「和さびや」という居酒屋風のお店に入ることか出来たので、四人各自が焼き鳥、唐揚、刺身、山葵豆腐、枝豆等を単品で注文して楽しく会食しました。

 この会食途中、内川さんはみんなに明日の結婚式でスピーチする新郎の父の挨拶内容を相談しました。新郎の父から新郎新婦に贈る言葉として、「異なる家庭環境で育った私たち夫婦にとってなによりも大事なことは耐えることだと思いました。忍の一字を新郎新婦にも贈ります」と考えているのだけれど、どうかなと提案しましたら、内川さんの奥さんから「私には、結婚生活を忍の一字という言葉で表せないわ」とクレームが出ました。

 内川さんの奥さんは、内川さんが2008年4月初旬から前立腺肥大と腎不全を患って市立病院に一ヶ月以上入院したときの思い出話から始めました。なお、そのとき次男の信也君は関西の大学に入学したばかりの時期だったので、心配を掛けまいと連絡しませんでした。しかし内川さんの奥さんは、夫の内川さんの看護のみならず彼の父親の世話もしなければならず、さらにまた内川さんの亡くなった母親の愛犬の朝夕の散歩も欠かすことが出来ず、仕方がないので明石で働いている長男の喜一郎君に連絡して応援を頼まざるをえませんでした。

 長男は職場の上司に頼んで長期休暇をもらい、内川さんが手術後に病院の個室暮らしをしていたとき、夜もずっと泊まり込んでくれたました。内川さんは奥さんと長男の親身の看護に本当に感謝でしたものです。
 そのときの不安な思いを内川さんの奥さんは会食の席で語り始めました。内川さんは個人病院で前立腺肥大の手術を受けたのですが、術後の予想外の出血多量による市立病院へ緊急搬送され、麻酔の影響で妄想幻覚に陥って訳の分からない行動をとったり、市立病院から退院して職場復帰後も個人病院での週三回の透析治療中に急に心不全を起こしたりと、その都度病院から緊急の呼び出しの連絡が受け、奥さんは「言いようのない不安な気持ち」を味わったそうです。「私のこんな気持ち、あなたには分からないでしょう」と言われ、内川さんは奥さんのそんな気持ちを思いやることもなかった夫としての無神経さ、鈍感さに愕然としたものでした。
内川さんは翌日の新郎の父の挨拶で新郎新婦に贈る言葉を急遽変更しました。
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長男の神戸での結婚式

 内川さんの長男喜一郎くんの結婚式が7月2日に神戸の須磨離宮迎賓館であり、幸いにして天気は快晴で、人前式も披露宴も滞りなく執り行われました。

 なお、内川さんの妻の両親(新郎の祖父母)が今年90歳と86歳を迎えるのですが、鹿児島から神戸まで出向いて、可愛い孫の晴れ姿を見るのをとても楽しみにしていたのですが、祖父が結婚式の約1ヶ月前にバスに乗車しようとして、乗車口の取っ手をを攫みそこなって尻餅をつき、腰骨を折ってしまい、結婚式の参加が危ぶまれました。しかし入院した病院で適切な治療やリハビリを受けることが出来、また本人の何とか結婚式に参加したいとの強い思いにより予想より早く回復し、鹿児島から車椅子に乗っての参加が可能となりました。孫の可愛さは格別なんでしょうね。その気持ちを思うと胸にこみ上げてくるものがあります。

 このことがあって、内川さんの妻は夫の内川さんの透析治療の送り迎えに加えて父親の病院通い、さらには神戸での結婚式に父親の車椅子参加の手配のために妹や甥っ子たちの手助け依頼とてんやわんやの大忙しで、かなりナイーブとなり、なんとも気の毒でした。それだけに車椅子の父親と足腰の弱った母親が無事に可愛い孫の結婚式に参加出来たことにほっと安堵の胸を撫で下ろしたことと思います。新郎の母であり祖父の娘でもある内川さんの妻の今回の献身的な頑張りにはいくら感謝しても感謝しきれないものがありました。

 神戸の結婚式の披露宴は新郎新婦たちの工夫がいろいろ取り入れられ、参加者全員に感謝の言葉が送られたり、両親に感謝の言葉を添えた二人の成長を記録した写真帖を会場に配置したりし、新郎新婦の友人・知人からの心のこもった楽しいスピーチやパフォーマンスが続きました。

 披露宴の最後が近づくと、新郎新婦から両家の両親に感謝の花束贈呈があり、それまで決して泣くまいと思っていた内川さんの目に涙がどっと溢れ出ました。披露宴の最後には内川さんが新郎新婦の両親を代表して挨拶を述べました。内川さんは、式の最後のスピーチは極力短いものにすべきと考えて、臨席いただいた方々への感謝の言葉とともに新郎新婦へのプレゼントの言葉として「偕老同穴(かいろうどうけつ)」という四字熟語を贈ることにしました。人生をいつまでも仲良く暮らしてともに老い、死んだ後は同じお墓に仲良く葬られましょうねという意味で、内川さんが小学校のときに年上の従姉妹の結婚式での来賓の方のお祝いの言葉として強く印象に残ったものでした。

 なお、須磨離宮迎賓館(旧西尾邸)は兵庫県から重要有形文化財の指定を受けている由緒ある建物であり、式場のスタッフの接客態度の素晴らしいさにも感心させられました。しかし足腰の弱っている内川さんのような人間には、人前式会場と披露宴会場との距離が離れており、また各建物の階段の上り下りも大変で、次男にはもっと便利な結婚式場を考えておいてねと注文を付けておきました。
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かちかち山異聞

かちかち山異聞

 ポーンポンポン、ポーンポンポン

 たぬきは中天に冴え冴えと輝く月の光を浴びながら腹鼓を打ち続けた。ただひたすら腹鼓を打ち続けた。彼は忘れたかっ た。だから、月に向かってただひたすら腹鼓を打ち続けた。

 だが、どんなに脳裏から拭い去ろうとしても、あの老婆の恐怖にかっと大きく見開いた両の眼が闇の中につぎからつぎへと浮かび上がってくる。拭っても拭っても浮かび上がってくる。たぬきは耐えきれずに叫んだ。

 おまえが悪いんだ!!

 彼の声は赤肌の山々に虚しくこだました。月の光が樹木の無惨な切株を冷たく照らし出し、土を掘り起こされて醜く露出 た山の地肌に鋭く突き刺さっていた。

 たぬきはそっとつぶやいた。あんたが悪いんだと。そうなんだ、ばあさまのあの言葉が彼の心を狂わせたのだ。

 ばあさまがたぬきを縛っていた藤蔓を解いてくれたとき、たぬきはただばあさまの隙を見つけて逃げ出すことばかりを考えていた。ぱあさまを殺すつもりなどこれっぽっちもなかった。ばあさまだけではない、彼を捕まえて藤蔓で縛り上げたじさまに対しても憎んではいなかった。

 人間もたぬきも生きるために必死だ。人間たちが斧で木を切り倒し、鎌で草を刈る。じいさまが山で畑を耕し、種を播く。山で採れる食物が減ったたぬきはじいさまが畑に播いた種を喰う。じいさまが追いかける。たぬきが逃げる。じいさまが木の切株に松やにを塗り、たぬきがその罠にはまって捕まった。じいさまの知恵にたぬきが負けたのだ。ただそれだけのことだった。

 ポーンポンポン、ポーンポンポン

 腹鼓を打つたぬきの脳裏に憐憫の情に満ちあふれたばあさまの顔が浮かび上がる。巻きつけられた蔓を解いてから、ばあさまはたぬきに顔を近づけこう言った。

 おまえもわしらと同じ生き物じゃ。殺生せん。だからおまえも悪さはするな。

 ばあさまは自分の行為にすっかり満足しきっている様子であった。そのとき、たぬきの心に殺意が生まれた。たぬきはばさまに粉搗きの手伝いをするといって杵を受け取ると、それをばあさまめがけて大きく振り上げた。……

 ポーンポンポン、ポーンポンポン

 たぬきは中天に冴え冴えと輝く月の光を浴びながら腹鼓を打ち続けた。ただひたすら腹鼓を打ち続けた。彼は忘れたかった。だから、月に向かってただひたすら腹鼓を打ち続けた。

 そんなたぬきをすすきの陰からうさぎがじっと見つめていた。心のなかに正義のための憎悪と復讐の炎をめらめらと燃やしながら血走った赤い眼でじっとたぬきを見つめていた。

                              おわり   1998年3月5日 




のんちゃんと風船とビラカンサ

 日曜日の朝、ポーン、ポーンと花火を打ち上げる音が晴れ渡った秋空に響きます。内川さんの住む新興住宅団地に新しくできたスーパーの開店祝いの花火の音です。内川さんとのんちゃんはそれに誘われるようにおうちを出ました。のんちゃんは内川さんの次男坊で、幼稚園の年中組さんです。二人は約1キロの道のりをバス通りに沿ってスーパーまで歩いていきました。

 スーパーの前にはいろんな地域の様々な特産物を売る沢山のテントが立ち並び、買い物客でとても賑わっています。子どもたちには無料で風船が渡されていますよ。のんちゃんもおじさんからボンベで大きく膨らませた赤い風船をもらいました。風船は天然パーマののんちゃんの頭の上でふわふわと秋風に揺れ、のんちゃんもにこにこ顔です。 

 苗木を売るコーナーもあり、内川さんは小さな赤い実をいっぱいつけたピラカンサの小鉢を買いました。お店の中を一巡した後、お父さんはのんちゃんと一緒に家路につくことにしました。帰り道は行きと違って住宅街のなかを通っていきました。

 のんちゃんは右手に赤い風船のひもを握って上機嫌です。おやおや、風船を風になびかせて急に走り出しましたよ。あぶない、あぶない、あっ、転んだ、バーン。おやおや、のんちゃんは膝小僧を擦りむき、風船は割れてしまいました。

 のんちゃんがわーっと泣き出しました。だいじょうぶ、だいじょうぶ、フーセンはおうちに帰ってからパパがまたお店までもらいにいくから泣かないで。でも、のんちゃんはばたばたと地団駄踏んでますます泣きじゃくります。いやだ、いやだよ、いまもらうんだ。その泣き声があんまり大きいので、近くの家の人が不審に思って外に顔を出しました。

 わかった、わかった、いまもらってくるからと、近くの空き地にピラカンサの鉢を置き、のんちゃんをそこに待たせて、 お父さんはお店に引き返しました。

 内川さんは風船をもらって元の場所に帰ってきましたが、あれっ、のんちゃんの姿が見えません。ピラカンサの鉢もありません。空き地の周囲を見渡しても、しーんと静かな住宅街に全く人影がありません。どうしょう、どうしょう。冷や汗がどっと出てきました。誘拐されたんだろうか。まさかそんなことはないでしょう。おうちに一人で帰ったのだろうか。でも、ここからおうちまで700メートルぐらいはあるし、幼稚園児に帰り道が分かるだろうか。それに、幼い子どもにはピラカンサの鉢は重たいだろうし……。あれこれ考えた結果、内山さんはスーパーに引き返すことに決めました。のんちゃんが父親の跡を追ってスーパーに戻り、そこで迷子になっている可能性が大だと判断したのです。お父さんは風船の糸をしっかりと握ったままスーパーへ と全速力で走り出しました、風船が肩のあたりでぽんぽんと飛び跳ねます。

 しかし、スーパーのお店の前の広場にのんちゃんの姿を見つけることはできませんでした。店内にもいません。お店の人に頼んで店内放送をしてもらいましたが、青い縞の入った白い上着に青い半ズボンの天然パーマの坊やを捜し出すことはできませんでした。

 内川さんは、スーパーの駐車場内に近所の人が車で買い物に来たのを見つけ、藁にもすがる思いで頼み込み、店の周囲を車で捜してもらいました。しかし、それでも見つけることができません。

 嗚呼、せっかくのんちゃんのために風船をもらってきたのに、のんちゃんの笑顔はもう二度と見られないのでしょうか。

 万策尽きた内川さんは、お店の事務所で電話を借りて自宅に連絡をとることにしました。風船を結んだ糸を左手でしっかり握りながら、家にダイヤルしました。内川さんの奥さんが電話に出てきたので、大変だ、のんちゃんが迷子になってしまったと告げたとき、彼の声はいささかうわずっているようでした。それなのに、おやっ、どうしたことでしょう、電話の向こうで奥さんが笑っていますよ。彼女は言いました。あら、のんちゃんなら帰ってるわよ。

 あれから5年が過ぎました。のんちゃんは小学3年生。のんちゃんが地面を引きずりながら家まで一人で持って帰ったピラカンサもわが家の庭で随分大きくなりました。のんちゃんと背比べをしたら、どっちが高いかな。のんちゃんも元気ですが、ピラカンサも濃い緑の葉を繁らせ、沢山のまるい実をつけています。実のほとんどがいまはまだ青いけれど、秋の深まりとともに赤く色づいていくことでしょう。
                           文章 1997年9月17日作成 

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