私の宮部みゆき論

下町、下町言葉について

東京に内在する二つの異なる文化


 東京の両国に育った小林信彦が『時代観察者の冒険』(新潮文庫、1990年12月)で、30年以上前(現在の2004年からすると、40年以上前になりますね)に文京区大塚の高校に通っていたときのつぎのような思い出話を紹介しています。

 あるとき、級友と口げんかになって、思わず「てめえ、薄汚ねえ真似しやがって」と啖呵を切ったそうです。そのとき相手は、「きみ、面白い言葉を使いますねえ」と反応し、さらに「小説や落語の中では見たりきいたりしたことがあるけれど、実際に使われているんですか」と言ったとのことです。なお、そのときの級友の眼つきは、「パンダの曲芸でも見るような眼つき」だったそうです。

 また、東京は向島生まれの半藤一利は、宮部みゆきが卒業した墨田川高校の大先輩(旧制府立七中)ですが、『漱石先生ぞな、もし』(文春文庫、1996年3月)で漱石の『坊っちやん』に出てくる「江戸弁というより正しくは東京語が、たまらなく嬉しいのである」とし、さらにつぎのように述べています。

 「戦前の向島界隈の横丁なんかで、われら悪童どもやお茶っぴい連中がさかんに喋くりまくっていたなつかしい言葉が、つぎつぎに踊りだしてくる。そうだ、これを使っていた。これも、これもとすっかり忘れていた貴重な想い出が言葉と一緒に蘇る。昭和二十年三月十日の空襲ので焼け出されて地方へ落ち、せっかくの東京弁もえらく訛ってしまったわたくしには、『坊っちやん』の東京語はわが青春の墓碑銘にも思えてくる。」

 そして、半藤一利は『坊っちやん』に出てくるそのようななつかしい表現をいろいろ挙げています。そのなかには「顔のなかをお祭りでも通りやしまい」なんてものから、さらに「金や太鼓でねえ、迷子の迷子の三大郎と、どんどこ、どんのちやんちきりん。叩いて廻つて逢はれるものならば、わたしなんぞも、金や太鼓でどんどこ、どんのちやんちきりんと叩いて廻つて逢ひたい人がある」なんて長いものもあり、短いものでは「髪結いどこ(かみいどこ)」「滑る(のめる)」「まぼしい」「猪口才(ちょこざい)」なんてものがありました。

 なお、半藤一利は、「顔のなかをお祭りでも通りやしまい」という表現について、「おのれの顔をしげしげと見つめる他人様に、文句をつけるとき、下町っ子はこういった」ものだと紹介しています。そうすると坊っちやんは下町育ちなんですね。

 あれこれ調べることが大好きな私でも、流石に「顔のなかをお祭りでも通りやしまい」や「金や太鼓でねえ、迷子の迷子の三大郎と、……」はちょっとたんまですが、「髪結いどこ(かみいどこ)」「滑る(のめる)」「まぼしい」「猪口才(ちょこざい)」ぐらいなら、それらが講談社の前田勇編『江戸語大辞典』にもちゃんと載っていることを確認しましたよ。この講談社の辞典は、江戸の住民が日常的に使用していた「江戸語」を3万語も収録したものです。

 ところで、『江戸語大辞典』といえば、前に宮部みゆきの『パーフェクト・ブルー』や『心とろかすような マサの事件簿』に登場する老犬マサがやはり同辞典に載っているような言葉、例えば「煎じ詰めれば」「しゃっちょこばって」「如才無く」「ためつすがめつ」「側杖(そばづえ)をくって」「捨て鉢なところがある」「遅蒔きながら」「溜飲を下げて」などを使っていました。夏目漱石の坊っちやんは下町っ子のようですが、老犬マサもやはり下町っ子なんでしょうね。

 両国育ちの小林信彦が発した「てめえ、薄汚ねえ真似しやがって」という言葉を聞いた文京区大塚の高校の級友は、そのとき「パンダの曲芸でも見るような眼つき」をしたそうですが、では下町育ちの坊っちやんが発した「金や太鼓でねえ、迷子の迷子の三大郎と、どんどこ、どんのちやんちきりん、……」なんて言葉をもし耳にしたら、その級友はどんな顔つきをしたでしょうか。私が想像しますに、川崎市在住の会社員・佐々木裕司さんが多摩川に現れたアゴヒゲアザラシのタマちゃんを最初に発見したときのような表情をしたのではないかと思います。そういえば、タマちゃんはいまどうしているのでしょうか。ロンリーアザラシのタマちゃん、私はなぜかとっても親近感を覚えるんですよ。

 おっと、タマちゃんのことを話題にしていたのではなかったですね。そうではなく、両国育ちの小林信彦が発した「てめえ、薄汚ねえ真似しやがって」という言葉を聞いて、文京区大塚の高校の級友は「パンダの曲芸でも見るような眼つき」をし、向島生まれの半藤一利は、下町育ちの坊っちやんの「金や太鼓でねえ、迷子の迷子の三大郎と、どんどこ、どんのちやんちきりん……」などの表現に、非常ななつかしさを感じたというお話でしたね。

 また、半藤一利と同じ向島生まれのノンフィクション作家の枝川公一(やはり宮部みゆきが卒業した墨田川高校の大先輩です)は、主宰するオンライン・メディア「ウェーブ・ザ・フラッグ」(http://www.edagawakoichi.com/index.html)に掲載している「異文化としての山の手」という文章で、母親の枝川みつさん(向島寺島町、現在の東向島出身)が本郷の佐藤高女に入学し、そこで初めてこれまでとは異なる文化に接したときのカルチャーショックをつぎのように紹介しています。

 「佐藤高女に入学した少女を驚かせたのは、山の手の子たちが、自分の家族に対して用いる、奇妙な敬語であった。お父さま、お母さま、お兄さま、お姉さま。おばさま、おじさまもあるかもしれない。これにはほんとうにびっくりしたという。
 これらの他人行儀のよそよそしい呼び方は、父親を、父ちゃん、あるいは、『ちゃん』とだけしか言わないような環境に育った者には、信じられないことであった。」

 この他にも枝川公一は、母親の目を通しての「異文化としての山の手」をいろいろ紹介し、また母親のそれらの興味深い話に対して適切で鋭い分析を加えています。さらに、いま世間一般が「山の手的」になったなかで「下町」が多くの人にとって異世界と感じられ、「絶滅寸前の動物のように珍重される」ようになったとも指摘しています。

 これらの話から、東京には下町と山の手という、いろんな点で相違を見せるふたつの場所が存在していたことが分かりますね。なお、川本三郎は『東京おもいで草』(ちくま文庫、2002年8月)で、東京は「大きくわけて下町と呼ばれる東東京と山の手と呼ばれる西東京のふたつの場所が対立しあっている」とし、さらにつぎのように述べています。

 「下町と山の手は単に地形的に違う違う場所であるだけでなく、歴史的、文化的、さらには経済的にも違う場所である。江戸時代に下町には主として町人が住み、山の手には武士が住んだ。明治維新以降もその違いは受け継がれ、下町が商工業地区になっていくのに対し、山の手は住宅地になっていく。世界の都市のなかでもこれほどふたつの場所が対照的に存在しているところは珍しい。」

下町の形成と下町文化の発展

 東京の下町といいますと、いまは台東区、墨田区、江東区、葛飾区、足立区、荒川区、江戸川区といった城東地区が広くイメージされますね。しかし、江戸時代の下町は、江戸城以東、隅田川以西、神田川以南、江戸湾以北の範囲に入る低地部を指し、現在の千代田区、中央区とその周辺ぐらいに限定されていたようです。しかし、なぎら健壱『ぼくらは下町探検隊』(ちくま文庫、2003年2月)の「下町」についての説明によりますと、徳川家康の江戸開府以来、下町はその範囲を次第に拡大していったようです。それで、同書の簡潔な説明に基づいて、下町の変遷をつぎに紹介したいと思います。

 「下町」という呼称は、江戸の低地部にあるからという説と、江戸城から見た城下町(しろしたまち)に由来するという説が有力だそうです。当初の下町は神田、日本橋、京橋界隈を指しており、川や堀の水路に恵まれた狭い土地に大勢の居住者が住んでいたので、長屋が発達し、「その共同生活から近所付き合いを大切にし、後に人情と呼ばれる独特の文化を形成していった」とのことです。しかし、江戸時代において、浅草や深川は下町の外だったそうですが、幕末以降、次第に浅草、下谷、芝、深川、本所などが下町の仲間入りをしていったとのことです。

 そう言えば、宮部みゆきは『平成お徒歩日記』(新潮社、1998年6月)で、彼女の生まれ育った家がある深川の千石について、池波正太郎の時代小説『浮沈』で「敵討ちがあったと設定されている宝暦八年(1758年)のころといったら、まだ何もない、ただのじめついた原っぱだったところだと思います」と述べていましたよ。

 それで、また『ぼくらは下町探検隊』の説明に戻りますが、明治二十二年(1889年)の市部十五区のなかで、下町区は「日本橋区、神田区、京橋区、下谷区、浅草区、本所区、深川区、芝区」の八区だったそうです。ちなみに山の手区は「麹町区、牛込区、麻布区、赤坂区、四谷区、小石川区、本郷区」の七区だったとのことです。
 
 なお、江戸時代の山の手は「旗本衆、御家人の町であり、武家屋敷、神社仏閣が多くあった」そうですが、「しかし下町に比べると文化や流行には遅れがあり、山の手は野暮ったいといわれていた」そうです。そして明治になると、「地方からの役人、軍人が山の手に住むようになり、旗本言葉、そして公家言葉が混在し、下町とは違った山の手言葉形成された。これが後の標準語になるのである」とのことです。

片隅に追い詰められた下町言葉

 ところで、井上ひさしのユーモラスなテレビ版戯曲『国語元年』(中央公論、2002年4月)で、下町生まれのおたねさんが、「全国統一話言葉(はなしことば)」制定を命じられた文部官僚の南郷清之輔に、それには「下町言葉がウッテツケだよ。下町言葉を日本中が使ったら、日本の御国(おくに)は節約のきいた、威勢がよくて景気もいい国になることは請け合うがね。ちげーねえ」と進言しています。このとき、同じ下町生まれのおちよも大賛成し、「ヒッカツグ、ヒッタクル、ヒッサラウ、ヒッチギル、シッパサム、シッツク、シッペガス、シンネジル。威勢がよくてグータラベーのところがないよ」と言っています。

 結局、この戯曲では、南郷清之輔が苦労して各地のお国言葉を寄せ集めて作り上げた珍妙な「全国統一話し言葉」は水泡と帰してしまいますが、もし下町言葉が標準語の基礎となっていたら、小学校の女性教師がいまの子ども達を評して、「猫撫声の親めらが悪く甘やかしてなんでもかでも言いなりしでえの離し飼(はなしげえ)という代物(しろもの)だから、人を人とも思わねへ。そのくせ、いびいびほえる割にはびびりッ子。我儘育ちのびびりッ子を扱うのだから、わっちら女先生衆はみじめよ」なんて嘆いたかもしれませんよ。宮部みゆきの小説『パーフェクト・ブルー』、『心とろかすような マサの事件簿』に登場する老犬マサが使っていた「煎じ詰めれば」「しゃっちょこばって」「如才無く」「ためつすがめつ」「側杖(そばづえ)をくって」「捨て鉢なところがある」「遅蒔きながら」「溜飲を下げて」等の言葉だって、全国の人々がその日常生活の会話の中でいまも頻繁に使っているにちげえねえ、おっと違いありませんね。

 しかし、現実には山の手言葉が標準語の基礎となって、全国に広がっていったのですが、水原明人がそのことについて『江戸語・東京語・標準語』(講談社現代新書、1994年8月)でつぎのような疑問を呈しています。

 「江戸(東京)には『山手ことば』に拮抗するほどの、むしろそれ以上に、江戸を代表することばとして極めて個性的な『下町ことば』があった。それは、日常の生活語として学問や政治の世界でこそ使われなかったが、文学、芝居、芸能、あらゆる分野に登場し、確固たる『下町文化』をつくりあげていた。それは上方文化に対する江戸っ子の誇りでさえあった。いかに町人、職人を中心に使われていたことばだとはいえ、明治という新時代に入って、その『下町ことば』がなぜその存在をまったく無視されてしまったのだろうか?」

 水原明人はその理由として、明治になって権力を掌握した薩摩・長州勢力と「徳川びいき」の下町っ子との間に感情の対立があったとし、薩長政府は「より強く徳川の体臭」を感じる「下町ことば」を嫌って退け、「山手言葉」に江戸時代に共通語として使われてきたがゆえの「体臭のなさ」を感じ、それを受け入れたのであろうと推測しています。そして、「これより以降、百年近い年月をかけて、同じ東京のことばでありながら『山手ことば』が『下町ことば』を絶えず圧迫し、これを片隅に追い詰めていく役割を担うことになったというのは、なんとも皮肉な歴史のなりゆきであった」とも書いています。

宮部みゆきと下町言葉

 ところで、宮部みゆきの書く小説やエッセイなどには、よく江戸時代の一般庶民が使っていた江戸言葉につながる「下町言葉」が出てきますね。例えば、『平成お徒歩日記』(新潮社、1998年6月)で、彼女が「深川飯」を説明するときも、「ざっかけない」という江戸言葉を使っています。すなわち、「深川飯」とは「大根の千切りやざくに切った葱と浅蜊の剥き身を炊きあわせ、それを熱々のご飯に汁ごとぶっかけて食べるという、きわめてざっかけない丼」だと解説しています。

 この宮部みゆきの「ざっかけない丼」という言葉について、両国育ちの小林信彦が『和菓子屋の息子 ある自伝的試み』(新潮文庫、1999年5月)で、「宮部さんは江戸語にも通じていると思われる。しかし、江東区の自宅では、この言葉が使われているのではないか――と、僕は推測している」として、そう考える根拠として、「なぜなら、同じエッセイの中に〈ざくに切った葱〉という表現があるからだ。一九四〇年代まで、すきやき鍋に入れる野菜は〈ざく〉と呼ばれ、だからそれ風に切った葱という表現は、実はきわめてわかり易いやすい」としています。

 このように、宮部みゆきの書いた文章の中に「下町言葉」がひょいひょい出てきますが、こんなところにも宮部みゆきの深川に生まれ育った「土着の東京人」らしさが表れていますし、また彼女の下町への愛着も感じます。さらに、彼女の生い育った環境に加え、落語を楽しみ、山本周五郎、岡本綺堂などの作品を愛読したことが、彼女の小説家としての独自の語彙使用に大きな影響を与えているのでしょうね。
2004年10月17日 


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