林芙美子の『浮雲』と屋久島行きの波止場

林芙美子
と鹿児島

 作家の林芙美子(1903年〜1951年)は『放浪記』の著者として有名ですが、彼女の本籍地は鹿児島の桜島の古里です。同地には彼女が色紙に好んで書いた
「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」の自筆の文が刻まれた文学碑があります。

 そんな彼女は、1914年10月に下関の小学校を退学後、しばらくして鹿児島市内にある山下小学校に転入しているようです(向田邦子も山下小学校に通学していたことがあります)。しかし、KTC中央出版から出されている佐藤公平『林芙美子 実父への手紙』(2001年10月)に拠ると、「下関市立名池尋常小学校 大正三年度半途退学男女」の図版に彼女の退学理由を「鹿児島市無届転住」としているそうです。おそらく家庭のせっぱ詰まった状況の中で林芙美子は山下小学校に転入したのでしょう。

 そんな彼女は、同小学校での2年間をほとんど不就学状態で過ごしたようです。そのためでしょう、林芙美子にとって鹿児島は決して懐かしい思い出の地ではなかったようで、彼女の文学的自叙伝 「一人の生涯」(文泉堂出版の『林芙美子全集』第4巻収録)にはつぎのようなことを書いています。
 
「ほんのわずかの間ですが、私は鹿児島の、母の里へ預けられていたことがありました。始めて会う親類でしたけれど、私は遠いところから、犬か猫でも来たような、肉親の厭な態度に、反吐(へど)とは人の顔に吐きすてるものの感じを強くしました。そのくせ、私は、その激しい反抗をひそめて、如何なる場合にもにこにこ笑っていなければならなかったのです。
                   (中略)
私は学校のかえりに城山に登って、町をみることや、火を噴いている桜島を眺めることがたいへん好きでした。
 あの島の向うには、いったい、どんな国があるのだろうと思ったりしました。馬を連れた軽業師が、沢山の女の子を連れて住んでいるようにおもいました。馬や、牛や、兎のかたちをした雲をみると、私は雲の描く、空の動物園を実に愉しく眺めたものです。空には何があるのだろう、海のなかには、いったい、どんな町があるのだろうかと思いました。お化けのような町があるのかも知れないと思いました。
 魚や貝が、海の学校へ行って、自分のように叱られているのもあるかも知れないとおもいました。


 なお、林芙美子の生い立ちと彼女の鹿児島時代について『かごしま 風土と文学』(鹿児島県高等学校教育研究会国語部会編、1991年1月)はつぎのように要約しています。

 「父宮田麻太郎は四国の伊予の人で行商人であった。母キクは鹿児島の紅屋林新左衛門の長女で、弟久吉が経営していた桜島の温泉自炊宿に住み、行商に出たりしていたらしい。『放浪記』 では、母は他国者と一緒になったというので鹿児島を追放され、父と下関に落ち着き場所を求め、自分は下関で生まれたと書いている。六歳のとき、母が芙美子を連れて宮田の家を出、沢井喜三郎と結婚する。喜三郎も行商人で芙美子は小学枚を転々と変わり、十歳のときには、ひとり鹿児島に帰され、山下小学校にも入った。祖母に愛されず、寂しい思いをしていたようで、学校の帰り、城山に登って火を噴いている桜島をよく眺めたという。こういう出生や幼少時の放浪体験は、芙美子の文学の性格を方向づける素地となっているようだ。」


林芙美子の『浮雲』 と屋久島行きの波止場
林芙美子『浮雲』
(新潮文庫、1953年4月)


 林芙美子の小説に『浮雲』という作品があります。この『浮雲』のなかに、戦後まもない頃の鹿児島市の波止場風景が出てきます。登場人物の富岡とゆき子が鹿児島市の波止場から照国丸という船に乗って屋久島に渡っています。

 では、屋久島航路の照国丸という船が出る鹿児島市の波止場はどこにあったのでしょうか。作者の林芙美子自身が『主婦の友』1950年7月に載せた「屋久島紀行」(インターネットの電子図書館「青空文庫」で読むことが出来ます)に、「四日目の朝九時、私達は、照國丸に乘船した。第一棧橋も、果物の市がたつたやうに、船へ乘る人相手の店で賑つてゐる。果物はどの店も、不思議に林檎を賣つてゐるのだ。白く塗つた照國丸は千トンあまりの船で、屋久島通ひとしては最優秀船である」と書いてありますから、第一桟橋から船出したようです。

 『浮雲』には、富岡が屋久島に行くために鹿児島市内の船会社を訪れ、さらに波止場に停泊している船を見に行く場面が次のように描かれています。

 富岡が階下へ降りて行くと、玄関の時計は、七時を少し過ぎていた。――富岡は船会社へ行った。切符の切り替えを頼み、四日ほど遅らせて、また、ここから就航する照国丸に乗る事にきめた。序(つい)でに港へぶらぶらと出てみると、白い照国丸は、大きな煙突から煙を噴き、船の起重機は、材木を吊り上げていた。波止場には、船客相手の、果物店が並んでいる。九州の果てに来て、果物店の林檎の山を見ると、富岡は、不思議な気がした。ゆき子の為に、林檎を一貫目ばかり、緑に染めた籠の中に詰めて貰い、船のそばまで行ってみた。もう船客は、列をなして並んでいた。どの旅客も、小さい硝子の金魚鉢を抱えている。照国丸は、まるで仏印通いの船のようだった。そうした、錯覚で、富岡は、今朝、このままゆき子とこの船へ乗れたなら、どんなにか愉しい船旅だったろうと思えた。だが、この快適な船は、屋久島までの航路で、それ以上は、今度の戦争で境界をきめられてしまっているのだ。この船は、屋久島から向うへは、一歩も出て行けない。南国の、あの黄ろい海へ向って、この船は航路を持ってはいないのだ。波止場は、乗船客や、荷運びの人夫で犇(ひしめ)き立ち、桟橋は、藁屑(わらくず)や木裂(きぎれ)や、林檎の皮が、散乱していた。
 この敗戦も、云わば、なしくずしの日本の革命だったのだと、富岡は起重機のぎりぎりと巻きあげられるのを、呆んやり眺めていた。出航を知らせる汽笛が鳴り、笛が吹かれた。子供や女が、乗船客を見送りに釆た群衆のなかをくぐって、テープを売り歩いている。富岡も赤いテープを一つ買った。昔ながらの服装をした事務長が船のタラップを渡って桟橋へ降りて来た。乗船が開始され、タラップのそばには、白服のボーイや、巡査が立っている。
 乗客はどれもかなりな荷物を持って、船の中へ押されていった。
 やがて、九時一寸(ちょっと)過ぎに、二度目の汽笛が鳴り、船はゆるく岸壁を離れ始めた。
林芙美子『浮雲』(新潮文庫、1953年4月)、408頁〜409頁

 現在では、屋久島行きの船は鹿児島本港の北埠頭ターミナルから出ています。それで、私は『浮雲』の上記の場面を偲ばせるものが何か北埠頭ターミナル周辺にあるのではないかと思い、同ターミナルまで行って来ました。そのために、まず天文館通電停から市電に乗車し、水族館口電停で下車し、その後は歩いて北埠頭ターミナルまで行ったのですが、しかし林芙美子が『浮雲』に描いたような風景は残念ながらどこにも見当たりませんでした。


『浮雲』 に描かれた波止場は第一桟橋

 鹿児島港には7つの港湾区域があるのですが、1993年に本港区に離島航路の集約化のための北埠頭ターミナルが建設されています。この北埠頭ターミナル等のことについては、「鹿児島港本港区」のホームページ に紹介されています。

 また、「南日本新聞」1997年9月3日の「南風録」の「水際整備曲がり角、鹿児島本港区の離島航路集約」と題する記事中に、北埠頭ターミナル建設以前の鹿児島本港とその周辺のことがつぎのように書かれていました。

鹿児島市電とバス停の「県庁跡」がきょうから「水族館口」に変わる。鹿児島本港一帯の慣れ親しんだ地名がまた一つ消える。ボサドや名山桟橋、桟橋通りもしかり。新しい埠頭ができてからというもの、港町のにおいがどんどん薄れていく。
 かつて、離島航路が集まっていた本港と街は直結していた。定期船を下りると、目の前に定宿があり、商店も飲み屋も並んでいた。種子屋久、奄美、沖縄といった島々の人でにぎわい、庶民の暮らしが息づいていた。「青幻記」=一色次郎=、「浮雲」=林芙美子=、「私は忘れない」=有吉佐和子=。数々の小説の主人公もこの港町の空気に触れ、島に旅立っている。
 昭和四十年代、沖縄と奄美航路が相次いで新港に移って以来、ふるさとの言葉が飛び交った港町は、さびれて久しい。新港移転から四半世紀、ようやく本港が改修され、離島航路が一カ所に集約されようとしている。港町の再興を願い、心待ちにする人は少なくない。

 北埠頭ターミナルやその周辺に行っても、林芙美子の『浮雲』に描かれたような屋久島行きの波止場を思い浮かべることの出来るようなものを見つけることはできませんでした。それで、前に鹿児島県立図書館まで行ってコピーしておいた「鹿児島市観光案内図」(鹿児島観光課、1954年3月)を取り出してかつて屋久島行きの船が出ていた第一桟橋のあった場所を確認し、さらに現在の地図と重ね合わせてその位置を調べてみることにしました。

 そうしますと、鹿児島市役所の近くから海に向かって通っている桟橋通りを鹿児島本港の桜島フェリーターミナルまで歩いていけば第一桟橋がかつて存在した場所を通ることができるようです。

「鹿児島市観光案内図」(鹿児島観光課、1954年3月)と現在の地図から作図 本港新町にある
鹿児島本港北埠頭ターミナル
陸地 埋立地

電車通りから写した桟橋通り 名山桟橋交差点から写した桜島
 それで、今度は市電で市役所前電停近くの桟橋通りを見に行くことにしました。

 市役所前電停で降りてから、右手に不断光院の石の仁王様が見える交差点を渡って桟橋通りを海側に向かって「名山桟橋」の標識がある大きな交差点までテクテク歩いて行ったのですが、どこにも第一桟橋の跡地らしきものは全く見当たりませんでした。

 どうも現在の桟橋通りの周辺の様子から昔の第一桟橋のかつての姿を想像するのは、恐竜の小さな骨の化石から復元像を作り上げることより至難の技のように思われます。

 
映画「浮雲」のDVD
   (東宝より販売)
ただ幸いなことに、成瀬巳喜男が監督し、高峰秀子と森雅之が主演した東宝映画「浮雲」(1955年制作)の映像の中で第一桟橋とそこに停泊している屋久島行きの照国丸を見ることはできます。

 私はこの映画をDVDで観ましたが、高峰秀子と森雅之の演技がとても素晴らしい優れた作品でした。仏印から引き揚げて来て半失業状態の不安定な状況にいる森雅之の所在なさそうな覇気を失った伏目がちな表情と、女たらしの彼に執着してどうしても未練を断ち切ることの出来ない高峰秀子の表情とが複雑に重なり合って織り成されるこの映画に大いに魅了されたものです。また、屋久島の営林署に職を得て精気を取り戻し毒舌と笑顔が戻ってきた森雅之と、彼と一緒に暮らせるようになったにもかかわらず彼から取り残されてしまったような寂しさを感じる病床の高峰秀子の表情もとても印象的でした。

 それで、この映画は鹿児島市内ロケもされており、桜島をバックにしながら第一桟橋から屋久島に向かう第一照国丸などが映し出されています。桟橋には船を見送る人たちがたくさん来ており、「蛍の光」のメロディーが流れる中、乗船客と見送り人とが紙テープを握り合って別れを惜しんでいましたが、いまはこんな光景は見られません。それから、森雅之が桟橋通りと思われる道路を歩き、果物屋さんで高峰秀子のために林檎を買う場面もありました。これらの映像は、当時の鹿児島の第一桟橋や桟橋通りのことを全く知らない私にはとても興味深いものがありました。
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