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鹿児島の市電の思い出

 この「鹿児島の市電の思い出」のページは、やまももがいただいた鹿児島の市電の思い出についての投稿文を載せております。鹿児島の市電についての懐かしい思い出をこれからも拙ブログ「ポンコツ山のタヌキの便りや私宛の下記のメルアドレス等へどんどん寄せていただきたいと思います。
  拙ブログ「ポンコツ山のタヌキの便りl(http://plaza.rakuten.co.jp/yamamomo02/) 
やまもも宛メールアドレス  
 
目次
クマタツさんの「鹿児島市電 上町線の思い出」 
おいじゃがさんの「上町線の思い出」
chocho0024さんの「伊敷線の思い出」
chocho0024さんの「単車のあれこれ」
しゅうさんの「市電の思い出」 
クマタツさんの「父の遺骨箱と大叔父の涙」

「鹿児島市観光鳥瞰図 (昭和28年版)」(『鹿児島市勢要覧(昭和28年版)』付録マップ、1954年)より作成

 上町線は、戦後は市役所前、私学校跡、岩崎谷、長田町、竪馬場、柳町、春日町、清水町 を通っており、伊敷線は加治屋町(旧柿本寺通)、千石馬場、新上橋、新照院、草牟田、中草牟田、護国神社前、玉江小学校前、国立病院前、伊敷町を通っていました。
 

クマタツさんの「鹿児島市電 上町線の思い出」  2012/06/24

 最近の南日本新聞に鹿児島市電新設ルート案なるものが掲載された。その背景について、記事は概略次のように述べている。

 1995(平成7)年に鹿児島港ポートルネッサンス21事業推進協議会が策定した鹿児島港本港区ウオーターフロント開発基本計画で「かごしま水族館」の整備が位置づけられ建設された。その後近くにドルフィンポートも建設されて「海を生かしたまちづくり」の拠点として期待されたのだが、多くの誤算からそうはなっていないとの指摘もあり、集客について何らかの策を講じなければいけないとのことから今回の市電新設が検討されている、とある。

 こうした記事を見て思い出すのが子供のころから馴染んでいて、今や廃線となった上町線や伊敷線のことである。数十年の間に時代の要請で廃線になった路線もあれば新しく検討される路線もあるということだ。そして自分の年齢と時代の流れを感じる。
       

1962(昭和37)年に社会人となり他県に出て、20年を経て1981(昭和56)年に鹿児島に戻ってみると鹿児島市は大きく変貌していた。与次郎ヶ浜や谷山方面の海は埋め立てられ、産業道路なるものが新しく造られている。鹿児島市街地を取り巻く山という山は宅地造成されて、住宅地になってしまっている。人口は36万人が50万人に膨れ上がっている。鹿児島を留守にしたこの20年間がたまたま鹿児島のみならず、日本全体を大きく変えた時代だったと言うことか。つまり、東京オリンピック(1964年)を境に日本もモータリゼーションの時代に突入し、地方都市の鹿児島もその流れに抗することは出来なかったのだ。そして鹿児島に帰って間もなくの1985年9月30日上町線と伊敷線が廃線となる。帰ってきて一回も電車に乗ることがないうちの出来事だった。

 


『鹿児島路面電車の旅』(南日本新聞社、2002年5月)掲載の
 「懐かしい風景~伊敷・上町線」掲載の路線図より加工・転載

私の市電の思い出は清水町から大学通り(のちの工学部前)に尽きるのだが、なかでも上町線と呼ばれた清水町~市役所前は馴染みの深い路線である。


 1953(昭和28)年、中学2年生の2学期に武町から清水町に引越した私は3学期から清水中学校に転校することにして、約半年間上町線を利用して当時終点だった春日町から市役所前を通過し都通まで電車通学をすることになった。都通から歩いて15分くらいで現在の武小学校と同じ場所にあった武中学校に行くことが出来たのである。半年間ではあったが、当時の鹿児島では珍しい中学生で電車通学をするという経験をしたことになる。


 高校は私たちの学年までが完全校区制が敷かれていて、徒歩でいけるG高校に進んだ。その3年間はもちろん市電を利用することも少なかったが、ただ天文館にあった映画館に悪友と「永すぎた春」を学校を早退して見に行ったことがある。川口浩と若尾文子主演で現在の表現からすると他愛ないものだが、当時の私たちが、ちょっとどきどきする場面もあり、懐かしい思い出になっている。

 そして1958(昭和33)年春、大学に入学。当時の上町線は春日町~柳町~堅馬場~長田町~岩崎谷~大学病院前(昭和49年9月1日 私学校跡に改称)~市役所前という各電停であった。途中昭和36年4月1日私が4年生になる時に春日町が終点だったものが、数百メートル先の清水町まで延伸され終点となった。自宅から歩いて5分とかからない距離である。

 

岩崎谷の高架線上を桜島をバックに走る市電
しゅうさん撮影 85.9.29

 この上町線で忘れられない特徴的なことが二つある。一つは岩崎谷電停である。この電停は市役所前を出た電車が鹿児島駅の方向に直進せず、現在の鹿児島医療センター(当時の大学病院)の方向に左折して大学病院電停を過ぎて坂を登り鶴丸城跡と薩摩義士の碑を左に見ながら進み軌道専用線路に向かって大きく右折して少し進んだ築堤上にあった。そのためこの電停を利用する人は下の道路までの長い狭い階段を登り降りしていた。私はこの岩崎谷電停で乗り降りすることは一回もなかったので階段の形状など定かな記憶はない。ただ電車の上からは市街地や桜島が眺望できる市電の珍しいビュースポットだった。

 もう一つも岩崎谷に連なることであるが、逆の方からつまり清水町を出発して長田町を通り岩崎谷電停を過ぎた電車が、左に曲がって坂を下る前に運転士が運転席の右側にあった真鋳製のハンドブレーキをキリキリと音をたてて一旦停止をした後おもむろに坂を下っていた。これは急坂を下る前の当然の決まりだったのだろうが、なぜか50年前のことにも関わらず鮮明に覚えている。


 上町線の沿線の様子は電車が走っていた時代と現在では道路幅や車の通行量など大きく変わった。そしてこのところ歴史探訪で上町方面を数回歩き回って感じたことは、50年前まで住んでいて春日町や清水町の電停まで歩いた道路周辺は当時のことをよく知っているだけに、その変わりようは驚くばかりだ。清水町電停~春日町電停間の国道10号線は拡幅され、車が猛スピードで走り抜けるし、稲荷川に架かる戸柱橋の近くにあった銭湯「戸柱湯」は設計事務所になり、その先の「みその温泉」はスーパーになっている。ただ春日神社やその周辺の史跡はそのまま残されていて昔を偲ぶことが出来る。

 大学の4年間、清水町から工学部前まで電車通学をしたが、当時の定期券の一ヶ月の料金は310円だったと記憶している。蛇足ながら、授業料は年間9000円でこれを上期、下期に分けて一回4500円づつ納めていた。今考えると安い授業料だが、これを納めるために母子家庭の我が家では母が苦労していたのだろうと思う。そのため年間授業料と毎月の定期代は母に負担をかけたが、それ以外はいろいろなアルバイトで稼ぎ出していた。私はこの定期券を使って繁華街・天文館での遊びに、また通算で10人以上の子どもを相手にした家庭教師のアルバイトなどにフルに活用した。

 こうして市電は当時の私に欠くことの出来ない乗り物だったが、鹿児島に帰ってきて30年、車一辺倒の生活に染まり、電車やバスを利用することも皆無に等しかった。ところが、70歳になり「敬老パス」を支給されて、この3年バスを利用することが多くなってきた。おじさんコーラス練習のため週一回は必ず使用するし、それ以外の用事にも使用することが多くなってきた。市電にも数えるほどだが、乗ることもある。

 ただ、今回の市電新設ルート案五つを見ても上町線や伊敷線の復活などは全然検討されていない。私の願望としては、あの上町線が復活し、鶴丸城跡や薩摩義士碑を見ながらあの坂を登ったり降ったり、岩崎谷電停から桜島を眺めたりしてみたい。

 

おいじゃがさんの「上町線の思い出」  2013/07/11
 マスコン上のおいじゃがさん

 幼い頃の市電の思い出は、まず何をおいても眺めの良い特等席があった事です。市電の運転士だった父は天文館や鴨池動物園へ行く際、電車に乗ると私を後部運転台のマスコン(マスター・コントローラーの略で、車両の速度 を制御するスイッチ装置のこと)の上に座らせました。ここからの視界は広々とし、車体が車道にはみ出て見え、線路は後へ後へと遠ざかり消えて行く。住いが谷山線二軒茶屋電停近くにあった4歳頃の思い出ですが、今も当時も勿論運転台には入れませんので、とびっきりの楽しい空間でした。

 昭和32年の夏、上町地区の稲荷町へ転居すると最寄りの電停は上町線終点の春日町で自宅から1キロ離れており、外出は殆んどバスとなりました。自宅の前には国鉄日豊本線が通っており、線路を越すと信州諏訪大社の分社の南方神社(別称:諏訪神社)がありました。正月は「五社もうで」と称し上町の五つの神社を巡る参拝者が多く、夏の終り頃には、農機具や新鮮な野菜などを売る露店が並ぶ「おすわさあ」とも呼ばれる諏訪市が開かれて賑います。境内前の通りは諏訪馬場(すわばば)、地元では「すわんばあ」と呼ばれていました。当時は境内で、男の子は三角ベースや、かった(メンコ)、めだま(ビー玉)、女の子はギッタとん(ゴム跳び)などで、日が暮れるまで遊ぶものでした。

 昭和35年頃から、この諏訪馬場までの市電上町線延伸工事が施行されます。この道路は小学校への通学路でしたので、下校時は多くの作業員の働く姿に見入っていた事を思い出します。その軌道敷設工事は現在とは異なる工法だったのか、春日町から諏訪馬場まで数百メートルに亘り、1メートルほど掘り下げられた溝に何日間も水が張って有り、まるで川のようでした。

 こうして昭和36年4月、延伸工事が終り自宅から徒歩で数分の距離に新電停が完成し、電停名は地域の町名から清水町となりました。だが隣接するバス停名は当然のことながら「諏訪馬場」であり、違和感を覚えたものでした。後にバス停名も「清水町」へ改められています。延伸工事が完了して以来、母は昼前に市電勤務の父への弁当を作り、それを清水町電停で待機中の運転士に手渡していました。これが父の手許へ温かい内に届く仕組みだったのです。羨ましい限りのシステムですね。

 小学4年頃の或る日、母に市役所近くの親戚に届け物をするよう言われ、5歳下の弟と2人で、清水町より市電で向かいました。市役所前で降りようと車掌さんに料金を手渡すと、車掌さんは「よかよ、行きなさい」と言って、そのお金をそっと私の手に握らせました。運転士さんと車掌さんのやさしい笑顔は、いまでも忘れられない思い出です。車掌というとバスは決まって女性でしたが、市電は男性でした。

 昭和41年、輸送力増強の為、市電初の2車体連接車(700形)が登場します。その斬新な姿に一度乗ってみたいものだと思いましたが、何せ通勤通学のラッシュ時中心に運行されるとの事ですから、中学生の私は出会う機会が有りませんでした。後に友人より聞いた話では車体が長い為、長田町電停付近の急カーブを曲がり切れず上町線では運行されなかったと言うのが実態のようです。

 昭和43年から3年間、私は高校通学で市電を利用しましたが朝の混雑は厳しいもので、ひときわ乗降者が多かったのが長田町でした。朝のラッシュ時は清水町を発車したあと、竪馬場あたりでつり革が埋まります。そして次の長田町では、どっと押し込む様に乗り込んできて、身動きが取れない程混み合います。長田町を出ると大学病院前迄の間に大きいカーブが2ヶ所あり、満員の乗客は左右に振られ、座っている人の頭上の窓に手を着いている方もいました。それも冷房車のない時代ですから、耐え難いものでした。

 市電沿線には、現在も高等学校が数校ありますが、当時の伊敷線沿いには、6校(鶴丸、照国、鹿高、西高、工業、移転前の実業)があり、加えて交通局付近には現在は郊外へ移転している2校(商業、商工(後の樟南))もあったので、電車通学生は相当多かったと思います。その頃の電車内には、次の様な光景がありました。車内が混んでくると、座っている高校生が立っている高校生の通学カバンに手を掛け、膝上の自分のカバンの上にそれを乗せるのである。すると相手も気持ちよく「有難う」「すいません」と挨拶する。それも見知らぬ他校生間でも、男女の別も問わないのです。 上町線に限らず市電全線に広まっていました。

 市電のワンマン化は、昭和42年から開始されました。これまで車掌が行なっていた運賃の収受や、ドア開閉、車内放送、発車時の安全確認などを運転士が一人でこなさなければならず、ワンマン化初期の頃は大変苦労をされていたと感じています。例えば、テープによる次の停留所の案内放送は、運転士が手許スイッチを押すと「次は柳町・・」と流れ、暫くすると「まもなく柳町です。」の案内が流れます。然し、信号待ちなどでは「まもなく・・」と流れても次の停留所にはすぐ到着しないので、早送り巻き戻しやボリュームを下げる機能がなかったのか、運転士によっては乗客が聞き取りにくい様、放送を車体の外側にあるスピーカに切り替えて流していました。現在では、改善され「まもなく・・」のフレーズは無くなっていますね。

 沿線周辺の公共施設や観光名所を、電停名と合わせて案内する個性的な運転士がいました。 春日町では、「春日町です。東郷墓地方面へお越しの方はお降り下さい。」と言った具合。鹿児島弁交じりの運転士もいました。「お降りの方は、つうつ(「さつさと」の鹿児島方言」)お願いします」。降りる乗客がもたもたしていたせいか、思わず出てしまったのでしょう。

 こんな場面も見かけました。男子高校生二人が定期券で下車しようとすると、運転士の「どこから乗車しました?」の問いに、「○○○から」と答えると、運転士「そこから乗車されたのは、女性の方が一人だったぞ」。二度としないよう、我が子のように叱っていました。私なども隣近所のオヤッドンによく怒鳴られましたが、こうやって社会の規則/規律を教わったものでした。今では、ICカード乗車券ラピカの導入で、紙の定期券/回数券が無くなり、運転士の負担が低減されていますね。

 上町線には、他の路線と異なる印象深い電車通りがありました。長田町、竪馬場、柳町の電停がある竪野(立野)馬場と呼ばれる通りです。この通りは道幅が狭い為、軌道は道路の中央ではなく北寄りに敷かれ、南側は車道が確保されていましたが北側は狭い為、車は軌道敷内への乗り入れが認められていました。また三電停とも島式の安全地帯が設けられず、電停名の標識は道路脇の架線を支える鉄柱に設置されていました。電車を待つ乗客は道路の端に待ち、電車が近づくと運転士が気付く様、徐に車道に出るのです。

 中学生の一時期、友人に誘われて竪馬場の学習塾に自転車で通った事がありました。塾の帰りは道路の北側、つまり軌道の敷石の上を通る為、ゴトゴトとサドルに来る振動がなんとも言えず心地良いものでした。
堅野(立野)馬場の電車通り(昭和51年塔文社地図よりコピ-)

 上町線が健在であれば、この道路のセンターポール化、軌道敷緑化等はどの様に取り組まれたか、幅員の狭さを逆手に取って欧米で導入されているトランジットモール化も選択肢としてあったのではなどと、勝手に思い巡らしています。

 私は、鹿児島を離れ40余年となりますが、モータリゼーションの波に呑まれ伊敷線、上町線が廃止となった事を知った時、突然の予期せぬ驚きと共に八百屋さん、温泉、市電職員詰所、床屋さん、貸本屋さん、かるかん屋さん、神社の境内・・・次々と思い出深い清水町電停周辺の風景が浮かんでくるものでした。

 その後の市電は市民権を持ち直し、超低床車両導入などのLRT化や 前述のセンターポール化、軌道敷緑化整備事業、さらには路線延伸計画も具体的に検討されています。都市の活性化,環境保全などから市電は極めて重要な交通手段であり、今後も進化する鹿児島市電に期待しているところです。




chocho0024さんの「伊敷線の思い出」
 2006/08/01


実は,今日(8/1)は奇しくも私の61回目の誕生日であることから,自分の幼年の頃から大学卒業までほとんど毎日のようにお世話になった伊敷線の思い出を綴ってみたいと思います.

市電に係わる私の思い出の中で,印象深いものとしては,4,5歳の頃,市電に初めて導入されたボギー車(300番台)を見た時であり,警笛,空気式ブレーキ,長く,高い車体に驚いたものでした.その後,400番台の電車も導入され,いずれも,車体が改造されました.また,小学校3,4年の頃,新造車で導入された501,502および503番の電車も忘れがたいものです.

先日,都電・荒川線での追突事故が話題になりましたが,私も乗っていた市電の追突事故を2回経験しました.新上橋電停を出た直後の伊敷行の電車が,鉄道のガード下に止まっていた省営(当時はこういってましたよね,今のJRです)バスの後部に追突しました.もうひとつは,高見橋から柿元寺(加治屋町)方向へ走っていた電車が,柿元寺電停で止まり切れずに,前の市電にみごとに追突してしまいました.いずれも単車であり,手動のブレーキであったため,うまく止まり切れなかったのでしょうか.ぶっつかる直前には,電気ブレーキ(といっていたようですが,コントローラーを断の位置からさらに回す)も掛けたため,追突直前に,前方へ飛ばされた記憶があります.

ずいぶん昔,伊敷線は,新上橋電停から以遠は単線となり,新照院電停から先は国道3号線を離れ,城山側に寄った所にありました.また,終点の伊敷電停は旧練兵場,玉里自動車学校近辺にあったと思います(この自動車学校が,いまでもここにあればの話ですが).

新上橋の上り・下りの電停を過ぎたところで線路は単線となり,旧国鉄のガードをくぐって伸びていました.このガードは甲突川側のみにあり,城山側にガードが設けられたのは,後年となりますが,中学時代(1958年(S33)入学)には既にあったように思います.

新照院電停には,待避線が設けられており,伊敷行きの電車はこの待避線に入り,伊敷方面から来る電車を待ち,タブレットの交換を行っておりました.

旧草牟田電停には入れ替え線がありましたが,この入れ替え線は草牟田行き臨時便の入れ替え専用で,タブレットの交換はなかったように思います.

旧中草牟田電停は,当時,自宅からの最寄りの電停であり,周辺には歯科医院,薬局,米屋等がありました.自宅は,旧中草牟田電停より旧護国神社電停が距離的には近かったのですが,自宅付近から先は田んぼで,市電はこの田んぼの中の専用軌道を走っていました.このため,旧中草牟田電停を利用していたものと思います.従って,旧護国神社電停,終点伊敷電停についての記憶は殆どありません.

タブレットの交換を行っていた所が,新照院電停のみとすると,終点までは結構距離があり,運行上も随分と不便であるような気もします.もしかすると旧護国神社電停でタブレットの交換を行っていたかも知れませんね.

1952年(S27)の夏のある日,鴨池沖の舟でのキス釣りへ父親に連れられて行くことがありました.当日の朝,いつもの通り旧中草牟田電停で市電を待ちましたが,一向に来る様子がありませんでした.たまりかねた父親が通りかかった新聞配達の少年に市電が来ない事情を聞いたところ,今朝から市電は下(国道)を走っていると告げられ,慌てて,新線へ駆けて行きました.伊敷線全線が国道を走るようになったのは,小学校に入学したこの年(1952年(S27))と思ってきましたが,半世紀以上も前のことであり,断定出来るほどの自信はありません.

幼稚園から大学時代は,加治屋町,朝日通り,高見橋,都通り,専売公社前,あるいは工学部前まで市電で通い続けました.1969年(S44)には,加治屋町へ転居しましたので,伊敷線を使わなくなり,さらに,2年後には県外に就職したため,伊敷線をはじめ,鹿児島市電への思い出はここまでとなります.伊敷線および上町線が廃止されたのは残念ですが,伊敷線は,今でも私の記憶の中で元気に走っています.
 
なお、鹿児島市電に関する唯一の古いコレクションとして,鹿児島市交通局の「創立30周年記念」のカードがありましたのでご紹介します.



chocho0024さんの「単車のあれこれ」   2006/08/08

ここで取り上げる単車とは,当然,オートバイのことではありません.路面電車は,この単車とボギー車に大別されます.単車では,4個の車輪(2本の車軸)が直接車体に取り付けられいるのに対し,ボギー車では,4個の車輪を持つ台車が,台車の中心にある車軸を介して車体に取り付けられています.

大学に入学した頃(1964年(S39)),加治屋町で伊敷線から西駅(現鹿児島中央駅)方向へ直接に乗り入れる便がありました.このため,乗り換えることなく工学部前まで行けて,随分,重宝したものです.この便には,単車が用いられていましたが,単車が走っているのを見た私の記憶はこれが最後です.単車はいつ頃まで現役で走っていたのでしょう.因みに,今の鹿児島市電は,全てボギー車であり,単車はありません.

単車には色々の種類がありました.一番記憶に残るのは,乗降口に扉がなく,扉の代わりに鎖が付いている電車です.このような電車では,客室と運転台との間にのみ扉があり,運転手および車掌の方々は,運転台で外気に直接さらされ,夏場,冬場は大変だったと思います.また,乗客が多い場合,客室,運転台に入れない乗客をステップに立たせたままで走ることもありました.小学生であった私もこのようにして乗車した経験があり,怖いというより,そのスリルにわくわくしたように覚えています.

単車のブレーキは手動であり,運転台の右側にある大きな真ちゅう製のハンドルで操作していました.このハンドルはよく使い込まれているためか,ピカピカといつも光っていました.ハンドルの根元と,このハンドルに繋がる軸の床部分には逆転防止装置が付いていました.床部分の逆転防止装置は,鉄製の爪であり,視認できるのですが,ハンドルの根元の逆転防止は,ここが膨らんでいること,また,運転手の操作からそのように推定しているだけです.停留所が近付くと,運転手はコントローラーのノッチを断の位置に戻して惰性走行とし,右足つま先で逆転防止の爪を軸に付いた歯車へ押さえつけるとともに,ブレーキハンドルを時計方向にグルグルと回し,最後には,ハンドルを時計の7時位に置き,そこから11~12時位まで力強く押すことを繰返してブレーキを締め,停車させていました.この最後の操作に,ハンドルの根元の逆転防止装置が効果を発揮していたようです.

発車に際しては,ブレーキを緩めるため,床部分の逆転防止の爪を外すのですが,この時,ハンドルは勢いよく逆転しました.乗降口に扉のある電車でも,運転室への入り口は鎖が渡されているだけあり,運転室へ近寄りすぎて,勢いよく回転しているハンドルに頭を叩かれた友人がいました.

ハンドルの握りの部分に,奥さんのお手製と思われる毛糸のカバーを付ける運転手もいました.冷たさを遮るためか,手の中にある握り部分の回転を滑らかにするのか,いずれかだったのでしょう.空気ブレーキに時代になってからもブレーキ・レバーへカバーを付ける運転手がおられました.

毎日,市電に乗っていましたので,親しく話掛けられる運転手さんもでき,ブレーキの仕組みを聞いたことがありました.その時,「床下で,チェーンを巻き取ってブレーキを掛けている」と聞いたのですが,実際,床下を覗くこともなく,実物を目にしたことはありませんでした.50代中頃以降,勤めていた会社が2度の合併を繰り返し,その度に,姫路,横浜での単身赴任生活を経験しました.横浜に赴任中,かって横浜市内を走っていた電車を展示する横浜市電保存館へ行ったことがありました.種々の電車が展示されている中に,貨物運搬用に用いたという珍しい単車もありました.何気なくこの電車の床下を覗いたところ,チェーンを巻き取る仕掛けを見出し,昔,運転手さんに聞いた話を約50年振りに我が目で確認でき,感激したものです.そのとき撮影した写真を添付しました.

手動ブレーキ(写真奥)
現役時代は,真ちゅう製のハンドル
はピカピカに輝いていたと思います
手動ブレーキ床下部分
巻き取られた油にまみれのチェーンが見えます


しゅうさんの「市電の思い出」  2006年8月25日
  
掲示板に市電の写真についての話題が投稿された。
なんだか久しぶりに懐かしくなって、古いアルバムをめくってみた。

市電の上町線と伊敷線が廃止になったのは、1985年の9月30日。
私が中学1年の時だった。

私にとっての市電は、伊敷線だった。
幼稚園時代。私の住まいは薩摩団地だった。
母は車の免許を持っていなかったから、買い物に行くのは、専ら徒歩か電車、バスだった。
団地には、そもそもバスは通っていなかったから、急な坂道をおりて、住宅中通のバス停から5番線を使うこともあったが、本数はそれほど多くなく、たいてい山崎川沿いの歩道を歩いて、国立病院(現在の県民総合保険センター)の横に出て、「国立病院前」電停から電車に乗った。

母に手を引かれて、電停までは30分以上の道のり。夏の暑い日はたいへんだったけれど、電車に乗れる「ワクワク」感も手伝って、いつもあっという間に着いたように思う。
それは今でもいい思い出だ。

伊敷線の電車はよく揺れた。
玉江橋から護国神社までの区間(ちょうど今の伊敷中前バス停付近)は、いちばんひどかった。
吊り革がゆらゆら揺れて、というより、ブランブラン揺れて、壁だったか天井だったか、ぶつかって「バチッ」と音もした。
冷房電車などまだない時代。
夏は窓を開けて走るのが当たり前だけど、涼しいのは走っている間だけ。
横を走るトラックの容赦ない排ガスと、巻き上がる桜島の降灰で、それはそれは大変だった。
灰のひどい日は、窓も開けられなかった。

天文館で帰りの電車を待つ時も、3番線伊敷町行きはいつも「待ちぼうけ」だった。
1番線が行って、2番線が行って、もう一度1番線が行ってから、ようやくやってくるのが3番線。

また、国立病院前で降りて、だいわや、フードセンターで買い物をして、コーヒー牛乳を飲んでから、また、川沿いの道を歩いた。
日当平の父の実家に寄って、父の車で坂の上の団地の我が家に帰るものだった。

なんだか、遠い昔のようだけど、今から30年ぐらい前。4〜5歳くらいの記憶だ。

この文章は、しゅうさんご自身が運営しておられるブログ「バス好きしゅうの日常」にアップされたものを転載させてもらいました。なお、しゅうさんは、鹿児島のバスを趣味の観点から紹介するサイト「バスフォーラム鹿児島」も運営しておられます。

クマタツさんの「父の遺骨箱と大叔父の涙」  2011年9月

 父の戦死(42才のときフィリピンで戦死)の公報が届いたのは、幼かった私ははっきり覚えていないが、父の先輩の手記によると昭和24年だったということである。まだ疎開先の上東郷村(現在さつま川内市東郷町)に留まっている時である。

 微かな記憶を引き戻せば、戦死の公報があったことで遺骨を引き取りに向かった先は現在、県立短大などになっている伊敷の練兵場跡だったと思う。母と私の他に誰が一緒に行ったのか覚えていないが、遺骨を渡されて長男の私が胸に抱いて帰った。ただ大きくなってから聞いたところでは小さな位牌が入っていただけだったそうだ。当時の地図で見ると伊敷電停だったと思うがそこで電車を待っていると、通りがかりの人々が静かに頭を垂れてくださったのを、子供だった私もはっきり覚えている。

 葬儀は我が家の疎開先の東郷ではなく鹿児島の泉町にあった叔父(父の弟)の家であった。父方の親戚がほとんど鹿児島市に住んでいたからだったのだろう。その日は沢山の方の弔問があったことを覚えているくらいである。

 ただ物心ついた頃になって母に葬儀の日のことを聞かされて私自身今でもそのことを思い涙ぐむことがある。それは西田の叔父さん(私たちの大叔父で父方祖母の末弟)のその日のことである。大叔父は西田本通で内科医であったが、私たち子供には雲の上の存在みたいな人で、西田に行くときは、服装を整え、爪もきれいに切って緊張して行くくらいの威厳のある人だった。親戚一同も畏敬の念をもって接していた。

 その大叔父から母に「鈴(母の名前)どん、遺骨箱には何か入れる物はなかったや」という問いかけがあったそうだ。そこで母が「出征前に爪を切って残しておいやしたが・・・」と答えたところ、それを聞いた大叔父がハラハラと涙を流したそうだ。それを見た母は父が大叔父にとっても私たちの父が大事な甥っ子であったのだと思い改めて涙が出て止まらなかったそうだ。

 その後もそのことは母から何回か聞かされたが、あの威厳に満ちた大叔父が父のために涙を流した思いを考えると戦争のむごさを改めて思う。

 小さい頃は正直少し怖かった大叔父ではあったが、私たち家族が病気になれば駆け込むところであったし、母は姉たちの結婚のことなども一番に相談や報告に行っていた。私も銀行に就職したときに保証人になってもらったが、その頃には大叔父が私を大人として扱ってくれた。本当は気持ちのやさしい大叔父だったのだと今更ながら思う今日この頃である。

 大叔父の墓も我が家の墓と近いので墓参のたびにお参りしている



鹿児島の伊敷の第四十五連隊
 豊増哲雄『古地図に見るかごしまの町』(春苑堂出版、1996年3月)に伊敷の第四十五連隊についてつぎのような記述が載っています。

「連隊は明治二十九年に創設され、三十年三月、新築の伊敷兵営に移ってきた。
           (中略)
 昭和二十年戦争に負け、校舎を焼かれた旧一中、米軍に校舎を接収された旧二中の生徒たちは、焼け残った伊敷の兵舎をしばらくの間、校舎として使用した。旧兵舎には県立工業専門学校や外地引揚者の収容施設もあったようだ。
 旧兵営跡には現在は玉江小学校、県立短大、整肢園、高等看護学校などがあり、兵営だった面影はわずかに正門(旧営門)とその近くに残る楠の巨木、兵営を取り囲んでいた石塀がところどころに残っているだけである。また、ひろびろとした練兵場の跡も、鹿児島西高校、自動車練習場、養護学校、伊敷中学校、県や市の住宅地などに変わり、大きな文教区ともなっている。
旧日本陸軍の第六師団歩兵第四十五聯隊と練兵場
鹿児島市街地図(栄文館書店、大正10年7月)

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