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私と鹿児島の市電


私とチンチン電車

 私が鹿児島市に来て、それを見つけてとても嬉しかったものがあります。えっ、桜島だろうですって。勿論、錦江湾を隔てて目の前に聳えている桜島のその雄大な景観はとても素晴らしいものですし、夏はいつも磯海水浴場に行って、横手に桜島をぼんやり眺めながらのんびりプカプカと浮かんでいたときなんかは、自分がいま最高に贅沢な時間を過ごしているのだと感じたものです。

 まあ、鹿児島市の冬の暖かさも感激でしたね。来た一年目は暖房器具を全く使いませんでしたよ。ですから、鹿児島には冬という季節は無いのではないかと思ったほどですよ。あれっ、それだと「鹿児島に来て、それを見つけてとても嬉しかったもの」とは言えませんね。それに、私が今回紹介したいものは、桜島でも冬の暖かさでもありません。

 鹿児島市には市電が走っているんですよ。路面電車ですね。これが街をゆっくり走っているのを最初に見つけたとき、とても嬉しかったものです。なぜなら、私が子どもの頃に生まれ故郷の町にはなくて大阪まで行かないと乗れないもの、それが路面電車だったからです。その頃は路面電車のことを「チンチン電車」と言っていましたね。 

 では、昔はなぜ路面電車のことを「チンチン電車」と呼んでいたのでしょうか。吉川文夫『路面電車の技術と歩み』(グランプリ出版、2003年9月)の89頁には、そのことについてつぎのように解説しています。

 「路面電車を象徴する言葉に『チンチン電車』というのがある。これは運転士が走るときに周囲に注意を促すために足元にあるペダルを踏んで大きな鐘を『チンチン』と鳴らすのと、車掌が発車の合図を運転士こ送るのに紐を引っぱって合図の鐘を『チンチン』と鳴らすことから発生した用語である。
 運転士の警報は空気ブレーキ付きの電車では空気圧縮機が付いたので、空気圧で鳴らすエアホイッスルやタイフォン付きとした路面電車もあったが、依然としてフートゴングといわれた鐘をチンチンと鳴らして走っていた路面電車もあった。」

 私は、このチンチン電車に乗ってビルの谷間をつぎつぎと潜り抜けていくのがとても楽しかったものです。幼い頃は、チンチン電車が動き出すと車窓の外に見えるビル等がつぎつぎと後ろに消えていくので、建物が動いているように感じたものですよ。
 
 幼い子どもはみんなチンチン電車が大好きでした。しかし、子どもにとってはいつも乗れるものではありませんから、子どもたちみんなでよく縄跳びを輪にして、「運転手は君だ 車掌は僕だ あとの4人が電車のお客 お乗りはお早く 動きます チンチン」なんて文部省唱歌「電車ごっこ」(作詞は井上赳)を唄いながら電車ごっこをして家の前の道を走り回って楽しんだものです。

 それから、私の母方の祖父母がある東北の街に住んでいましたが、この東北の街でもチンチン電車が走っており、何度か夏休みを利用して遊びに行ったときはよく乗ったものです。祖父母の家がチンチン電車の車庫の近くにあったこともあり、始発のチンチン電車が鐘を鳴らしながら動き出す音が朝の目覚まし時計がわりでした。

 私は、この東北の街のチンチン電車に乗り間違えて家族を心配させたこともあります。デパートでの買い物の途中、なぜか私一人だけ先に路面電車に乗って帰ることにしました。何回か家族と一緒に乗っているので、まさか乗り間違えるはずは無いだろうとみんな思ったのでしょうが、信頼する相手(私のことです)がよくなかった。私は音楽だけでなく方向も相当の音痴だったんですね。全くの逆方向に乗って終点まで行ってしまいました。帰りの運賃もなく、また連絡しようにも携帯電話どころか祖父母の家にその頃はまだ普通の電話なども無く、心細い気持ちでとぼとぼと線路伝いに歩いて戻り、夕方遅くになってなんとか祖父母の家にたどり着いくことができました。うーん、その頃から私はなんともドジな人間だったんですね。

  私が子どもの頃には路面電車(チンチン電車)が全国の街で活躍していました。日本で路面電車が最初に運行を開始したのは1895年のことで、その年に京都〜伏見間を初めて路面電車が走ったそうですが、その後つぎつきぎと全国の街に路面電車が走るようになり、最盛期には全国67都市で路面電車が運行されていたそうです(最盛期は全路線1480km)。

 しかし、1960年に大阪市電の港車庫―大阪港間が廃止されたのを皮切りにして、1960年初から1970年代末にかけて日本全国で路面電車の廃止が進められていきました。例えば、川崎市電と大阪市電が1969年、神戸市電が1971年、東京の都電と横浜市電が1972年、名古屋市電が1974年、清水市内線が1975年、仙台市電が1976年、京都市電が1978年、福岡市内線が1979年に廃止されたように、路面電車廃止の嵐が全国に吹き荒れ、 宇都宮浄人『路面電車ルネッサンス』(新潮新書、2003年9月)によりますと、現在ではわずか18の都市でつぎの20の路面電車が運行されているだけのようです。

 札幌市交通局、函館市交通局、東京都交通局 、東京急行電鉄、富山地方鉄道、万葉線、福井鉄道、豊橋鉄道、名古屋鉄道、京阪電気鉄道、京福電気鉄道 、阪堺電気軌道 、岡山電気軌道、広島電鉄、土佐電気鉄道、伊予鉄道、長崎電気軌道、熊本市交通局、鹿児島市交通局。また、富山ライトレールの富山港線が2006年4月に新たに開業しています。

 ところで、『文藝春秋』2006年5月号の特集の一つが「われら昭和30年」でしたが、50年前に普通に存在していたものや流行ったり話題となたもの等についていろんな人が回顧しており、映画監督で作家の実相寺昭雄は「都電少年」というタイトルで都電のことを書いています。実相寺昭雄は、その文章で都電に乗って通学をした思い出などを語るとともに、都電が荒川線を除いて全廃されたことを残念がり、「全廃ではなく、もっと冷静に判断をしていくつかの路線を残すことはできた、と思う。そういう賢明な判断を誰もせず、一種熱に浮かされたように、都電は消されてしまったのである」とし、また次のようにも述べています。

 「皮肉なことだが、モータリゼーションの跫音(あしおと)が聞こえはじめたころ、つまり昭和でいえば四十年代をむかえて、都電は成熟した交通手段として、運転系統にしろ、車両の軽量化にしろ、コスト・パフォーマンスにしろ、一つの完成期に入っていたのである。日本の他の大都市でもそうだ。廃止せずともよい路線が、東京に限らず、全国いたるところの都市で剥がされてしまったのである。あの熱にうかされた如き、『都市交通混乱の元凶は路面電車にあり』という日本を吹き荒れた嵐は、ちょっと信じがたい。路線網でも、車両の面でも.都電はその爛熟期の盛りで、被害を受けてしまったのである。」

 全国の街で活躍していた路面電車が乗用車の普及で急速に姿を消していき、私にとっても記憶の中だけの懐かしい存在になってしまっていたのですが、その元気な姿を大人になってから鹿児島で見ることができたのですから、本当に大感激しました。

私と鹿児島の市電

  私は、1979年から1989年まで日之出町の賃貸アパートに住んでいたことがあり、二軒茶屋電停から市電に乗って通勤していました。しかし、1989年からは鹿児島市の北部に自宅を建てて移り住み、通勤にはバスを利用しています。そのため、市電を利用する機会は以前よりかなり減りましたが、それでも本を購入するときにJR鹿児島中央駅に隣接したアミュプラザ鹿児島4階にある紀伊国屋によく行くので、このときに天文館と鹿児島中央駅の間を往復するのに市電を使っています。

鹿児島市電運行100周年記念のロゴマーク
 では、鹿児島の市電はいつ頃から運行を開始したのでしょうか。「鹿児島交通局ホームページ」によりますと、「鹿児島市に電車が誕生したのは大正元年12月1日で全国で28番目に誕生」とのことで、「鹿児島電気軌道(株)が武之橋〜谷山間を木造の単車7両で6.4 km運行」したのがその始まりとのことです。大正元年とは1912年のことですから、2012年12月には100年目を迎えることになりますね。それで鹿児島市電運行100周年を記念するロゴマークを車両のヘッドに付けた市電が2012年6月1日から運行しています。

 なお、南日本新聞開発センターが1985年12月に出した『かごしま市電物語―廃線・上町、伊敷線への想いを込めて……』に拠ると、「開通式当日、武之橋停留所は発足を祝って、大きな菊のアーチが飾られ、雨の中を大勢の見物人で賑わった」としています。

 この南日本新聞開発センターの『かごしま市電物語―廃線・上町、伊敷線への想いを込めて……』には、「市電かごしまの≪街≫をゆく」と題された文章が載っており、「昭和二十年から三十年代の頃」の鹿児島の街を走っていた市電、いや「電車」がまざまざとよみがえって来るような気がしますので、下に載せて紹介したいと思います。なお、この文章の筆者の名前は明記されておらず、「詠み人知らず」ならぬ書き人知らずです。

      かごしまの
市電≪街≫をゆく  
昔……と言っても
昭和二十年から三十年代の頃は
「市電」なんて、言ってなかったような
気がする。……。
ただ、電車と呼んでいたような……。
それに、いまのように、そんなに
格好よくなかったな
いまは、みんなで
電車をなぐさめているようなところがあり
「いつか、なくなるのでは?」と
みんなで「不憫がっている」ようなところがあって――。
そのくせ、電車はスマートになって…………。
昔、みんなが下駄をはいている頃の電車は
あまり格好よくなかったな
床は砂で少しざらついていたし
窓は木枠で、ガラスも黄色く汚れていて……。
運転席や後の乗車口なども
吹きっさらしで……。
行きちがうとき、その乗車□の人々は、たがいに
見送るようなことになるのだけど
むこうの電車に、中学時代の女生徒が
他校のセーラー服で立っていたりして
なんとなく、ジーンとしてしまったり……。

いつともな<「市電」 の感じになったのは
車体に広告がついてからかな――。
「のりもの」から交通機関になったというか……。
それでも、やはり
市を電車がはしる!!
電車が「街」をゆく!!
という風景を身近かにもつことは
「ひとつの幸せ」 なのかも――。

『鹿児島の路面電車50年』
(鹿児島市交通局、1978年7月)
 私が鹿児島市に来た頃は、上町線(市役所前〜清水町)と伊敷線(加冶屋町〜伊敷町)がまだ運行されていましたが、両線とも1985年に廃止され、いまは1系統(鹿児島駅前〜天文館〜高見馬場〜武之橋〜郡元〜谷山)、2系統(鹿児島駅前〜天文館〜高見馬場〜鹿児島中央駅前〜郡元)のみが運行されています。

 以前、私が出張の帰り、鹿児島中央駅(旧西鹿児島駅)からタクシーに乗って国道3号線を経由して自宅に帰ったときのことですが、下伊敷の交差点近くの沿道の多くのお店のシャッターが下ろされ、そこに「貸店舗」の張り紙が貼られているのを見て、タクシーの運転手さんが「昔はこのあたりももっと賑やかでしたが、市電の伊敷線(加治屋町―伊敷町)が廃止されてから、急速にさびれてしまったですね」と話しかけて来ました。

 加治屋町から国道3号線に沿って千石馬場、新上橋、草牟田、中草牟田、護国神社、玉江小学校前、下伊敷、そして伊敷町まで走っていた市電の伊敷線は、国道10号を走っていた上町線と一緒に1985年に廃止されています。それは、1960年代中頃からの自動車急増によって市電の軌道への車両乗入れが認められようになり、そのために電車の機能が低下して利用者数が激減、ついに両線は不採算路線として廃止されてしまったのです。そのことについて、「南日本新聞」1998.07.11 につぎのような記事がありました。

 「鹿駅前−谷山と清水町−郡元、伊敷町−鹿駅前の三路線二十三キロを快走していた電車にブレーキがかかったのは、車が急増した昭和四十年代以降。国道3号と10号を走っていた伊敷線と上町線では、車に挟まれ電車が立ち往生するようになった。定員に対する乗客数を示す車両運用効率は、一九八三(昭和五十八)年の調査で伊敷線二五・二七%、上町線一六・九四%。他路線の四〇・七八%を大きく下回り、両線は八五年、不採算路線として廃止された。 」

 しかし、市電の伊敷線が廃止されたために、さらにマイカー通勤は増え、周辺に団地が相次いで造成されたこともあって、国道3号線は県内でも最も渋滞が頻発する道路となっています。そして、そんな3号線を自動車は頻繁に走っていても、歩道を歩く人の姿はほとんど見かけず、これでは広い駐車場を確保できない店舗がつぎつぎとシャッターを下ろして貸店舗の張り紙を貼り出すのも致し方のないことです。

再び注目される路面電車

 このような問題は全国の街で起っていることです。自動車の増大による道路の渋滞や自動車事故、排気ガスによる大気汚染、さらには郊外型ショッピングセンターが増えて中心市街地の地盤沈下が共通の問題となっています。それに加えて高齢者人口も急増するなかで、それへの対応の一つとしていま路面電車が再び注目されています。

 宇都宮浄人『路面電車ルネッサンス』(新潮新書、2003年9月)は、マイカーの増大とともに、「路面電車は時代錯誤の乗り物として、滅びゆく宿命を持っているかのように思われた」が、「しかし、世界の流れは変わった」とし、つぎのように述べています。

「この20年間で路面電車の建設が次々と進み、路面電車のある街は、世界全体で2割以上も増えた。一旦は路面電車を廃止した街も、路面電車に縁のなかった街も、21世紀の都市交通は路面電車であるといって疑わない。
 環境にうるさいドイツやスイスはもちろん、車社会にどっぷりと漬かったアメリカ、都市交通の徹底的な規制緩和を行なったイギリスも、今や路面電車の建設に躍起である。お洒落なフランスは、われこそは世界一の路面電車と言わんばかりの、奇抜なデザインの電車を導入した。自動車メーカーも路面電車事業に参入し、あのポルシェがデザインした路面電車は、音楽の都ウィーンに新たな風を吹き込んだ。今や路面電車などと言わず、LRT(ライト・レ−ル・トランジット)と呼ぶのが、その道の専門家の常識である。
 むろん、日本でも路面電車の事業者や専門家は、新たな模索を始めている。海外から新しい車両を輸入した都市もある。独自の技術で、従来のちんちん電車のイメージを打破しょうというメーカーもある。マスコミも、「人と環境に優しい路面電車」といった採り上げ方をするようになってきた。
 とはいえ、日本ではこの20年、路面電車が廃止された街はあっても、新しく建設された街はない。都市と交通という観点でいえば、むしろ事態は悪化している。特に、地方都市では、郊外の道路整備が進む一方、鉄道やバスが不便になり、中心市街地の衰退が深刻である。シャッターの閉まったアーケード街に、廃墟となったデパートの跡。だから路面電車が必要であるという理屈が単純に成り立つわけではないが、交通のあり方に、何か問蓮があることは間違いない。一方、欧米の路面電車の建設が進む街をみると、日本が直面するそうした問題をかつて経験し、今日ではそれを克服しているという事実がある。高速道路を壊すかどうかはともかく、道路建設の資金を路面電車に回す、道路の車線を削って路面電車を走らせる、といった形で路面電車の再生を進めてきたことは確かである。」

 なお、上掲の文中に「日本ではこの20年、路面電車が廃止された街はあっても、新しく建設された街はない」とありますが、嬉しいことに富山ライトレールがJR富山港線(2006年2月営業終了)を引き継いで2006年4月に開業しています。



桜島の火山灰にも負けず、
  車社会の現実にもめげず、
   維新の街を明日に向かって走れ!!
      
 日本フルハップが発行する会報誌「まいんど」の2006年4月号掲載の路面電車の特集記事中に鹿児島の市電のことも「日本最南のトロピカルな路面電車」と題されてつぎのように紹介されています。

「若き薩摩の群像」の前を走るユートラム
( 画像をクリックすると拡大 )
 桜島の火山灰にも負けず、車社会の発展にもめげず、環境整備と改善努力を続けながら、どっこい生き延びてきた日本最南端の路面電車。超低床車<1000形ユートラム>の黄色と白のツートンカラーは、維新の街に明るい日差しをふりそそいでいるよう。

 いいですね。紹介記事の冒頭の文章などはそのまま鹿児島の市電の宣伝広告に使えそうですね。それでは、この文章をもじって私は鹿児島の市電につぎのようなエールを送りたいと思います。

 
桜島の火山灰に負けず、車社会の現実にもめげず、維新の街を明日に向かって走れ!

 鹿児島の市電だけではなく、全国の路面電車も明日に向かって走り続けてもらいたいですね。交通事故、交通渋滞、環境破壊、中心市街地の衰退、高齢化問題、そしてコストパフォーマンス等の観点から路面電車が再び見直されていますが、日本の全国の街で運行し成熟させて来た路面電車のノウハウを新しい時代に有効に生かしてもらいたいものですね。
  
 
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