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私と鹿児島の市電 |
私は、1979年から1989年まで日之出町の賃貸アパートに住んでいたことがあり、二軒茶屋電停から市電に乗って通勤していました。しかし、1989年からは鹿児島市の北部に自宅を建てて移り住み、通勤にはバスを利用しています。そのため、市電を利用する機会は以前よりかなり減りましたが、それでも本を購入するときにJR鹿児島中央駅に隣接したアミュプラザ鹿児島4階にある紀伊国屋によく行くので、このときに天文館と鹿児島中央駅の間を往復するのに市電を使っています。
なお、南日本新聞開発センターが1985年12月に出した『かごしま市電物語―廃線・上町、伊敷線への想いを込めて……』に拠ると、「開通式当日、武之橋停留所は発足を祝って、大きな菊のアーチが飾られ、雨の中を大勢の見物人で賑わった」としています。 この南日本新聞開発センターの『かごしま市電物語―廃線・上町、伊敷線への想いを込めて……』には、「市電かごしまの≪街≫をゆく」と題された文章が載っており、「昭和二十年から三十年代の頃」の鹿児島の街を走っていた市電、いや「電車」がまざまざとよみがえって来るような気がしますので、下に載せて紹介したいと思います。なお、この文章の筆者の名前は明記されておらず、「詠み人知らず」ならぬ書き人知らずです。
以前、私が出張の帰り、鹿児島中央駅(旧西鹿児島駅)からタクシーに乗って国道3号線を経由して自宅に帰ったときのことですが、下伊敷の交差点近くの沿道の多くのお店のシャッターが下ろされ、そこに「貸店舗」の張り紙が貼られているのを見て、タクシーの運転手さんが「昔はこのあたりももっと賑やかでしたが、市電の伊敷線(加治屋町―伊敷町)が廃止されてから、急速にさびれてしまったですね」と話しかけて来ました。 加治屋町から国道3号線に沿って千石馬場、新上橋、草牟田、中草牟田、護国神社、玉江小学校前、下伊敷、そして伊敷町まで走っていた市電の伊敷線は、国道10号を走っていた上町線と一緒に1985年に廃止されています。それは、1960年代中頃からの自動車急増によって市電の軌道への車両乗入れが認められようになり、そのために電車の機能が低下して利用者数が激減、ついに両線は不採算路線として廃止されてしまったのです。そのことについて、「南日本新聞」1998.07.11 につぎのような記事がありました。
しかし、市電の伊敷線が廃止されたために、さらにマイカー通勤は増え、周辺に団地が相次いで造成されたこともあって、国道3号線は県内でも最も渋滞が頻発する道路となっています。そして、そんな3号線を自動車は頻繁に走っていても、歩道を歩く人の姿はほとんど見かけず、これでは広い駐車場を確保できない店舗がつぎつぎとシャッターを下ろして貸店舗の張り紙を貼り出すのも致し方のないことです。 |
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再び注目される路面電車 このような問題は全国の街で起っていることです。自動車の増大による道路の渋滞や自動車事故、排気ガスによる大気汚染、さらには郊外型ショッピングセンターが増えて中心市街地の地盤沈下が共通の問題となっています。それに加えて高齢者人口も急増するなかで、それへの対応の一つとしていま路面電車が再び注目されています。 宇都宮浄人『路面電車ルネッサンス』(新潮新書、2003年9月)は、マイカーの増大とともに、「路面電車は時代錯誤の乗り物として、滅びゆく宿命を持っているかのように思われた」が、「しかし、世界の流れは変わった」とし、つぎのように述べています。
なお、上掲の文中に「日本ではこの20年、路面電車が廃止された街はあっても、新しく建設された街はない」とありますが、嬉しいことに富山ライトレールがJR富山港線(2006年2月営業終了)を引き継いで2006年4月に開業しています。 桜島の火山灰にも負けず、 車社会の現実にもめげず、 維新の街を明日に向かって走れ!! |