向田邦子の鹿児島の家
『向田邦子 かごしま文学散歩』

向田邦子と鹿児島


 向田邦子は1981年に飛行機事故のために突然あの世に旅立ってしまいましたが、彼女が書いた作品の人気はいまもとても高いですね。そんな向田邦子が自著のなかで「鹿児島はなつかしい『故郷もどき』」であると書いています。

 NPO法人かごしま文化研究所、NPO法人かごしま探検の会が発行しています『向田邦子 かごしま文学散歩』に掲載されています向田邦子についての紹介文には、「向田邦子は、昭和14年1月から昭和16年3月まで、約2年間を鹿児島市で過ごしました。父親が第一徴兵保険株式会社(旧・東邦生命)の鹿児島支店長として赴任した関係で、9歳から11歳という多感な少女期を過ごし、のちに『故郷もどき』と懐かしく思い出しています」としています。

 向田邦子は、1975年に乳癌手術のために入院したときに「鹿児島に帰りたい」と思ったそうです。そして1979年になって38年ぶりに鹿児島を再訪し、そのときのことを「鹿児島感傷旅行」(講談社文庫の『眠る盃』に収録されています)でつぎのように書いています。

 昔住んでいた、城山のならびにある上之平の、高い石垣の上に建っていたあの家の庭から桜島を眺めたい。知らない人が住んでいるに違いないが、何とかしてお庭先に入れて頂いて、朝夕眺めていた煙を吐くあの山が見たかった。うなぎをとって遊んだり、父の釣のお供をした甲突川や、天保山海水浴場を見たかった。山下小学校の校門をくぐり天文館通りを歩きたかった。友達にも逢いたかった。
 帰るといっても、鹿児島は故郷ではない。保険会社の支店長をしていた父について転勤し、小学校五年、六年の二年を過した土地に過ぎないのである。しかし、少女期の入口にさしかかった時期をすごしたせいか、どの土地より印象が強く、故郷の山や河を持たない東京生れの私にとって、鹿児島はなつかしい「故郷もどき」なのであろう。

 彼女は退院後、父の思い出を中心に子供の頃のことをエッセイに書きはじめ、それを『父の詫び状』にまとめあげています。そして1979年2月に「故郷もどき」の鹿児島に二泊三日の旅に出かけますが、鹿児島空港に降り立った彼女はそのまま「昔住んでいた、城山のならびにある上之平の、高い石垣の上に建っていたあの家」に直行します。しかし、彼女の「うちは、失くなっていた」のです。そのときのことを同じく「鹿児島感傷旅行」で彼女はつぎのように書いています。

 石垣は昔のままであったが、家はあとかたもなく、代りに敷地いっぱいに木造モルタル二階建てのアパートが建っていた。戦災で焼けたのか老朽化したので取りこわしたのか。
 門も、石段も新しくなっていた。普通り裏山には夏みかんの木が茂り、黄色に色づいた夏みかんが枝の間から見えていたが、昔より粒が小さくなったように思えた。いや、夏みかんが小さくなったのではない。私が大きくなったのだ。その証拠に、子供の頃、見上げるほど高いと思ったわが家の石垣は、さほど高くはないのである。
 思ったより高くなかった石段の上に立って、しばらくじっとしていた。春先なのに初夏に近い陽気の、みごとに晴れた日である。日の下に広がる鹿児島の街は、見たこともない新しい街であった。

高見馬場電停から見た三官通り
 向田邦子は、1939年から2年余り鹿児島市の平之町上之平50番地に住んでいたことがあるそうです。私は、向田邦子が小学校5、6年生の頃に住んでいたという鹿児島市の「城山のならびにある上之平」の家はいまはどうなっているのだろうかと思い、NPO法人かごしま文化研究所、NPO法人かごしま探検の会が発行しています『向田邦子 かごしま文学散歩』で調べてみることにしました。

 それで判ったのですが、私はいつも通勤先に向かうバスを高見馬場と電車通りの交差点の近くで待っているのですが、そこから歩いていける距離に旧向田邸はあるようなんです。高見馬場の交差点から北北西に通っている三官通りを城山に向かってほぼ真っ直ぐに歩いていけばたどり着けるようです。それで高見馬場から歩いて旧向田邸まで行って写真を撮ってくることにしました。


向田邦子居住跡地の碑


 高見馬場電停から城山に向かって三官通りを真っ直ぐ歩いていきますと、まず進行方向右手に山下小学校が見えてきました。この山下小学校には林芙美子も通学していたことがあるそうです。さらにどんどん歩いていきますと、三育小学校、幼稚園の塀と建物が見えてきて、その塀の前に木製の柱が立てられていて「向田邦子居住跡地の碑」と書いてあります。

向田邦子が通学した山下小学校 三育小学校、幼稚園の「向田邦子居住跡地の碑」

 それで、三育小学校、幼稚園の現在の敷地が以前は旧向田邸だったに違いないと私は判断し、デジカメを取り出して木製の柱とその後ろの壁や三育小学校、幼稚園の建物等を撮り始めました。

 しかし、木製の「向田邦子居住跡地の碑」に小さい文字で添えられている英文を読もうと近づいて行ったときに、私はやっと気が付きました。木の柱の一番上に記されている「→」記号の下に「65m」と書いてあるのです。うん、65メートル?! な、なにが65メートルなんでしょうか。もしかして65メートル先に実際の「向田邦子居住跡地の碑」があるというのでしょうか。そういえば、「向田邦子居住跡地の碑」と書かれた木製の柱は道路に面して真っ直ぐに立てられてはおらず、「→」はどうも三育小学校、幼稚園の右横にある坂の方向を指しているようです。

 これは間違った、失敗したということで、慌てその坂を登って行きましたら、坂を登りきったところに「向田邦子居住跡地の碑」と刻まれた小さな石の碑や建物の壁に掲示されている石碑の説明文が目に入ってきました。

 その碑の説明文が掲示されている建物が旧向田邸ではないでしょうか。しかし、先ほどの失敗の体験もありますので、持参してきました『向田邦子 かごしま文学散歩』をショルダーバックから取り出して、そこに掲載されている向田邦子の「旧宅全体像(昭和30年頃)」の写真と照らし合わせてみることにしました。昔の写真にも家のすぐ背後に城山らしきものが写っており、どうもこの建物が旧向田邸のように思われます。また同書には、「百坪ほどあった
敷地の半分は、現在マンションになり、庭も当時に比べると半分ほどの広さになった」とありますが、確かに左側にはマンション風の建物が建っていますから、今度こそ間違いなく旧向田邸に到着したようです。


 なお、旧向田邸の建物の壁に掲示されている石碑の説明文には、つぎのようなことが書かれてありました。

 向田邦子は1929年(昭和4)年、東京に生まれました。29歳で初めてテレビ台本を執筆、「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」などホームドラマの傑作を次々と生み出し、人気シナリオライターとなりました。その後、46年歳のとき、エッセイ「父の詫び状」を執筆したのをきっかけに小説も手がけ、1980(昭和55)年、連作短篇小説「思い出トランプ」の中の「かわうそ」など3編により直木賞を受賞しました。しかし、翌年、台湾を旅行中の飛行機事故により、51歳で突然この世を去りました。
 向田は父の転勤により、10歳のときに一家でこの地に移り住み、思い出深い2年余りを過しました。「故郷の山や河を持たない東京生れの私にとって、鹿児島はなつかしい『故郷もどき』なのであろう」(「鹿児島感傷旅行」『眠る杯』)とエッセイに書き残しています。

向田邦子と鹿児島の市電

 
私は旧向田邸の記念碑や建物の撮影を終えた後、バスで帰宅するために山下小学校辺りから天文館の方向に歩き始めたのですが、そのときに旧向田邸と天文館とが随分と近い距離にあることに気づき、そのことからさらに向田邦子と市電との関連をつい連想してしまいまし。

 向田邦子が子供時代を過ごした鹿児島の街について書かれた文章には市電のことが全く出て来ないのですが、私はその理由として、市電が子供の頃の彼女にとって余りにもありふれた乗り物だったからであろうと勝手に推測していました。しかし、こんなに彼女の家から天文館から近いのなら、少なくとも天文館に行くために元気な子供がわざわざ市電に乗ることはないでしょう。

 彼女は『細長い海」と題されたエッセイ(文春文庫の『父の詫び状 新装版』所収)で、「海水浴場で心に残っているのは、鹿児島の天保山である」と書いていますが、同エッセイで「天保山から市内のうちまではバスに乗らなくてはならない」とも書いています。このように、この海水浴場には市電では行けませんでした。そうしますと、鹿児島時代の彼女はほとんど市電に乗ることはなかったのかもしれませんね。

 そんなことを考えながら帰宅した後、あらためて再読した「鹿児島感傷旅行」に天文館に言及したつぎのような文章が載っていましたが、その文章の意味が私のその日のささやかな実体験からとてもよく理解できました。

 「天文館は、もと島津の殿様が天文学研究のためにつくらせた建物のあったところで、東京でいえば銀座、つまり鹿児島一の繁華街である。ここの山形屋デパートで買ってもらった嬉しい思い出は、絞りの着物と一緒にまだはっきり残っている。見違えるように立派になったデパートをのぞき、素朴な盛り場からこれまた近代的なアーケードに変貌した天文館通りを散歩したが、この時もまた不思議にひとりでに足が動いて、父がよく本を取り寄せていた金港堂と金海堂二軒の本屋にゆくことが出来た。人間の記憶の中で、足は余計なことを考えず、忠実になにかを覚えているのかも知れない。」

 そりゃー、「ひとりでに足が動いて」天文館の本屋さんにも歩いて行くことが出来たでしょうね。うーん、ナットク。

向田邦子の天保山海水浴場の思い出

 向田邦子の「細長い海」と題されたエッセイ(文春文庫の『父の詫び状 新装版』所収)には、「海水浴場で心に残っているのは、鹿児島の天保山である」と書き、「葦簀(よしず)張りの入れ込み脱衣場と、黒いこうもり傘を立てたラムネやゆで玉子を売る小店が出ているだけであった」と描写しています。またこのエッセイには、その天保山海水浴場の脱衣場で下着を盗まれてしまったので、当時小学一年生だった弟の下着を借りてバスで帰宅したことをユーモアに回想したりしています。

 なお、鹿児島県高等学校歴史部会編『鹿児島県の歴史散歩』(山川出版、2005年10)に拠りますと、
「天保山付近から南の海岸を与次郎ヶ浜とよんでいた。天保年間(1830〜44)に約11haの塩田を開いた,平田与次郎にちなむ名である。1914(大正3)年の桜島大爆発のため塩田は閉鎖された。1966(昭和41)〜72年にかけて,宅地開発に伴い城山後背地の山を削ってでたシラスで,水搬送工法により,与次郎ケ浜から鴨池沖にかけての海岸が埋め立てられた」とのことです。

 ですから現在の天保山には海水浴場はありません。1972年開催の太陽国体のために天保山のみならず周辺の海岸一帯がすっかり埋め立てられ、白砂青松の海水浴場はなくなってしまいました。

『鹿児島市街地図 昭和16年』(俣野集景堂、1941年)より作成

  ところで、文部省唱歌「我は海の子」の歌詞は鹿児島出身の宮原晃一郎がこの天保山海岸の風景をなつかしんで作詞したものなんですよ。そのことはこの拙ブログの「鹿児島市祇園之洲公園『我は海の子』の歌碑」で紹介していますので、興味がございましたらご覧くださいね。
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