城山にはむかし城があり、そのふちには堀がめぐらせてあった。山越えの道は、この堀端につながっていた。そこは城跡の間合いである。片側に城壁があって、そちらには堀はなかったが、おびただしいタマのあとが石をうがっていた。往時この地で行われたいくさの名残りである。この石垣の中が、県立病院になっていた。城壁の間を抜けて道はそのまま市街地に入る。
街は海に向かって心持ち傾斜していた。その傾いた道を歩んで行くと、広い電車道があって向こう側に古い寺があった。その位置と門構えに見覚えがある。不断光院である。
子供のころこの寺の境内で、よく遊んだ。山門の両側に石の仁王像が一対立っていたがと思いながらいってみると、空襲に焼けもしないで残っていた。この寺の先から桟橋通りへ折れると、低い家並がじめじめ寄りかたまった新地である。引潮になるとドプ泥のにおいが、満潮になると強い潮のかおりがみなぎる町であった。ちいさな店屋としもた家が寄りかたまったこのあたりの町の様子は、不思議な鮮かさで私の記憶に残っていて決して薄れることがなかった。というより私はその記憶を大切にまもりつづけて来た。
(中略)
桟橋通りをすこし行くと左側に銭湯があった。朝日湯だ。建物は新らしくなっているが名前はむかしのままだ。この銭湯も知っている。よく、はいりに来た。このあたりから鹿児島の市街地に対する私の記憶は更に異常なまでに鮮明になる。それは、単に、この町で遊んだというようなことでなく、もっと、生活に密着した内容を持つ記憶であった。 |