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一色次郎と幻の「名山堀」
一色次郎『青幻記
筑摩書房、1967年8月
一色次郎と名山堀

 一色次郎(1916年-1988年、本名は大屋典一)は鹿児島県大島郡知名村(沖永良部島)出身の作家ですが、幼い頃に父親が事件に巻き込まれて投獄されたために沖永良部島を離れ、祖父と一緒に鹿児島市に転居しています。鹿児島市では、彼は母親とも切り離された寂しく辛い少年時代を送っています。その後、1936年に鹿児島朝日新聞(南日本新聞の前身)で「隠密薩摩相」という連載小説を書き、翌年の1937年に上京しています。

 一色次郎が書いた小説に『青幻記』という作品があります。この作品は、最初に『展望』1967年8月号に発表され、第3回太宰治賞を受賞しています。この作品の語り手は小学校5年生の「私」で名前を「稔」といいますが、物語は昭和初年頃に幼い頃から別れて暮らしていた母親と短い期間一緒に過ごした沖永良部島の懐かしい思い出を「私」が回想する形式で展開していきます。そのよく抑制された静謐な語り口を通じて主人公とその母親の親子の情愛が読者の心にひしひしと伝わって来る好作品です。

 この作品の最初の方に鹿児島市の街が出てきます。鹿児島を離れて「何十年という歳月」を東京で暮らしていた語り手の「私」が、一度故郷に帰りたいと思い、「鹿児島市から南西諸島へ南下して行く」ことにします。そんな「私」が鹿児島市の「城山の向こうがわの斜面」にある父の墓(草牟田墓地のことと思われます)にお参りした後、「山越えして町へおりた」ときの様子がつぎのように描かれています。

 城山にはむかし城があり、そのふちには堀がめぐらせてあった。山越えの道は、この堀端につながっていた。そこは城跡の間合いである。片側に城壁があって、そちらには堀はなかったが、おびただしいタマのあとが石をうがっていた。往時この地で行われたいくさの名残りである。この石垣の中が、県立病院になっていた。城壁の間を抜けて道はそのまま市街地に入る。
 街は海に向かって心持ち傾斜していた。その傾いた道を歩んで行くと、広い電車道があって向こう側に古い寺があった。その位置と門構えに見覚えがある。不断光院である。

 子供のころこの寺の境内で、よく遊んだ。山門の両側に石の仁王像が一対立っていたがと思いながらいってみると、空襲に焼けもしないで残っていた。この寺の先から桟橋通りへ折れると、低い家並がじめじめ寄りかたまった新地である。引潮になるとドプ泥のにおいが、満潮になると強い潮のかおりがみなぎる町であった。ちいさな店屋としもた家が寄りかたまったこのあたりの町の様子は、不思議な鮮かさで私の記憶に残っていて決して薄れることがなかった。というより私はその記憶を大切にまもりつづけて来た。
           (中略)
 桟橋通りをすこし行くと左側に銭湯があった。朝日湯だ。建物は新らしくなっているが名前はむかしのままだ。この銭湯も知っている。よく、はいりに来た。このあたりから鹿児島の市街地に対する私の記憶は更に異常なまでに鮮明になる。それは、単に、この町で遊んだというようなことでなく、もっと、生活に密着した内容を持つ記憶であった。

 語り手の「私」は、「母の死後分家に引取られ」、「小学校の休日や休暇には、行商に追いやられた」そうです。「私」の祖父が発明した電気の虫取器が死後も売れ残ったまま小屋にたくさんあったため、「私」はそれらの品物を行商させられたのです。桟橋通りを歩いていると、そんな「生活に密着した内容を持つ記憶」が鮮明に蘇ってきたのです。

 「私」はさらに母が再婚相手と暮らしていた名山堀へと向かいますが、その名山堀がどうしたことか探し出せず、道ばたで見つけた桶屋の主人に名山掘の場所を尋ねます。そのときのことがつぎのように描かれています。

「ちょっと伺いますが、……」
 名山堀はどこかとたずねたのである。主人は仕事の手を止めて私の顔を強く見つめた。私は、鹿児島の言葉が使えなくなっている。遠くから来たらしい旅人が、土地の人しか知らないはずの地名を聞けばまず不審に思うだろう。主人はしばらく返事をしなかった。私は、言っていることが相手に通じなかったのかと思い、もういちどおなじ言葉をくり返した。相手はやっと重い口をひらいた。
「名山通りはこのあたりですが」
 私は、めんくらった。本当に通じていなかったのだ。ゆっくりもっとくわしくたずねた。
「いいえ、海へつづく掘割があったでしょう。名山堀っていいましたけれど、……」
「ああ。むかしのことですね」
 主人は億劫そうに立って来た。木槌を持った右手を上げて、自動車が走っている私のすぐうしろの通りを差ししめした。
「名山堀ならそこです。いま、あんたが立ってなさるところです。この通りはあんたがおたずねになっている堀を埋めて出来ました」
 私は、何か短い言葉を叫んだだけで、あとの言葉がつづけられなかった。足もとがよろめいた。深いおじぎをひとつしてその場をはなれた。目当のものが失われた。私は、また歩きつづけた。
 それはまったく予想もしなかった出来事であった。海へつながるあの幅広い名山堀が消えていようとは。日本中をおおいつくした戦争でさえも消し去ることが出来なかったのに、生残った人の手がそれをあっけなく始末してしまおうとは、……。
 
  懐かしの「名山堀」は、語り手の「私」が東京で暮らしている間に埋め立てられてしまったようです。そのことを知った「私」は、埋め立てられた場所に名山掘の姿を思い起こし、そこからつぎのように彼の母がかつて住んでいた家の位置を確認していきます。

 私は、ひっきりなしに立止まる。いま来た道を振返り周囲の風物を目でなぞるように眺める。
 錦江橋の下を流れて来た海水は、一度、二度曲り、もう一度橋の下をくぐって電車道で行止まりになる。その角に石造りの電気会社の建物があった。
 海へつづく掘割だからここの水面は引潮上げ潮に作用された。干潮になると、岸につながれた伝馬船やはしけが黒い泥の中にへたばり、岸の石垣の間をアマメが長いひげをチラチラさせながら出たりひっこんだリした。
 岸には舟のとも綱をかける石の柱ビットがところどころ立っている。この繋柱に腰をおろして、名山掘の黒い水にうつる電気会社の明るい窓を私はもう一度眺めたかった。水の上にのびちぢみする黄色いかげはいまもはっきり私の目に残っているのだ。広い舗装道路の面積だけそれを水面に置替えて考えると、あたりの様子は大体私の記憶の町の婆にぴったり合った。旅行者の感傷、わがままだとは知りながら、私はやはりなんということをしてくれたのだろうと愚痴らずにはいられなかった。
 この掘割の途中に八阪神社の通りへ通ずる橋がある。その橋の北側に母がしはらく住んでいたことがあった。新屋敷のすぐあとである。分家へ引取られた私が四つか五つ、その稚い私の足でも分家から新地までは三十分もあれは行きつくことが出来た。
 八阪橋のたもとは、片側が材木屋になっていて、木肌のにおう角材や振材がいつもたくさん立てかけてあった。ここから北へ、つまり桟橋通りのほうへ行く乾いた道の両側に、塀もない家が、浮遊物のように固まっていた。母の住いはその白い道の東側にあった。
 道路から袋小路へ入る。路地はセメントで固めてある。母の住いはいちばん奥である。長屋の三軒目か四軒目だったように思う。戸口にはガラス戸が立てられ窓は格子づくりになっていた。ついぞ人の姿を見かけたことのない路地は、稚い私に分家からここまでの道のりよりもっと遠く感じられた。船員の平田と再婚した母が住んでいたところがここだった。 

 上に紹介しました文章には、一色次郎が鹿児島を離れて「何十年という歳月」を経た後に再び訪れた鹿児島の街の風景が描かれています。『かごしま 風土と文学』(九州教科研究協議会、1991年1月)によりますと、『青幻記』は、「一色次郎が四七歳になって、三六年ぶりに故郷の沖永良部島に渡って母の法要を済ませ、東京に帰ってから書きあげたものである」とのことですから、一色次郎が『青幻記』に描いた再訪時の鹿児島の街の風景は、1963年当時のものと思われますね。

 一色次郎は『青幻記』のなかで鹿児島市の「おびただしいタマのあとが石をうがっていた」城壁や不断光院の石の仁王様、桟橋通りのことを書いていますが、現在もそれらのものを見ることが出来ます。「たまのあと」が残る城壁とは、私学校跡の石塀のことで、西南戦争のときに政府軍が攻撃したときの銃弾痕がいまも残っています。なお、私学校跡は後に鹿児島県立病院となり、現在は鹿児島医療センターになっています。
 
私学校跡現在は鹿児島医療センターの石塀 私学校跡の石塀に残る西南戦争当時の銃弾痕

  また、不断光院の石の仁王像も寺の門前に立って電車通りをじっと眺めています。桟橋通りも昔と比べると随分と違っていると思われますが、不断光院のすぐ近くの曲がり角から海に向かって通っています(HP「鹿児島の市電と街」で桟橋通りと不断光院を紹介しています)。しかし、何十年ぶりかに鹿児島の街に帰ってきた一色次郎が探し求めた
「名山堀」という堀はもう地上から消え去ったままです。


「名山堀」はいつ頃まで存在したのか

 では、名山堀はいつ頃まで存在していたのでしょうか。『鹿児島の路面電車50年』(鹿児島市交通局、1978年7月) の36頁には「市営発足当時の停留所」の図が載っていて、「鹿児島駅前」(停車場前)―「和泉屋町」―「滑川」―「高野山道」(海岸通)―「桟橋通」―「名山堀」と停車場が続いています。鹿児島市が鹿児島電気軌道株式会社を買収し、鹿児島市電気局を設置して鹿児島市電の営業を開始したのが1928年7月ですが、その頃は名山堀はまだ存在していたのでしょうね。

 「青幻記」の語り手の「私」が探した名山堀は、すでに埋め立てられていて、彼はその堀を再び見ることはできませんでした。私も勿論、その堀を見たことはありませんし、また実際にどの辺りにあったのかも知りませんでした。

 私の手許にある書籍のなかに「名山堀」について触れた記述はないだろうかと調べてみましたら、豊増哲雄『古地図に見る かごしまの町』(春苑堂出版、1996年3月)だけが名山堀についてつぎのような興味深い解説を載せていました。

 十八代家久が鶴丸城を築くとき、唐人の江夏自閑(一説に穎川三官)に天文地理からの位置を尋ねたところ、「此の地別けて宜しき所にて、武運長久・冥加不尽地である。しかしながら火難がある」といわれた。もう一点、城地が海に近すぎて海上から攻撃される懸念があり、父義弘が心配するところでもあったので、前方の海面の埋め立てが行われた。市役所前の電車通りは、昔の名山堀の一部であるが、名山堀掘削の土砂などで沖の浅瀬を埋め陸地を造成した。この埋立地も上築地と同様に堀割りで区切られた人工島であった。

  うん!? 「市役所前の電車通りは、昔の名山堀である」とありますよ。そうしますと、本来の運河としての「名山堀」は、一色次郎が「青幻記」で回想していた「名山堀」よりもっと広範囲に渡って作られていたようですね。鶴丸城は1602年〜1604年頃に島津家久によって築城されたと言われていますが、同じ頃に名山堀も造成され、そのときに掘り出された大量の土砂で城の前方の海を埋め立てて陸地を作り、そうすることで海からの攻撃を防ごうとしたようですね。

 さらに、実際に名山堀を目にした人から話が聞けないかと思い、近所の年配の婦人(年齢は70歳中ごろの方で、昔はご主人と一緒に天文館でお店を経営しておられたそうです)とバスに偶然乗り合わせたときに名山堀のことをお訊きしましたら、「私の子どもの頃にはもう名山堀はなくなっていた」とのことで、詳しいことはほとんどご存知ないようでした。

 また、インターネットの検索エンジンで「名山堀」をキーワードにして調べてみましたら、通称「名山堀」という商店街に関するホームページが複数ヒットしました。その商店街の正式な名称は「名山町商店街」というようで、鹿児島市役所とは電車通りを隔ててその反対側辺りにあるようです。場所的にもやはり一色次郎が探したお堀の「名山堀」となにか関係がありそうです。それで、新聞記事で調べてみましたら、「毎日新聞」2004.08.19の「地方版/鹿児島」に載った「レトロ探訪」に「名山堀=鹿児島市 夢見るにぎわいの復活」と題された記事があり、そこにつぎの様なことが書いてありました。

 鹿児島市役所の南東、築50年以上の町家が軒を連ねる「名山堀」は、100軒ほどの闇市から生まれた。「昭和10年に埋め立てるまで、ここは小船がとまる海だった」。町内会長の新留義雄さん(86)は名山堀の由来を説くと、かつて眼鏡橋があった辺りを指さした。

 この新聞記事に「昭和10年に埋め立てるまで、ここは小船がとまる海だった」とありますが、お堀の「名山堀」が昭和10年(1935年)に埋められ、戦後になってその跡地に生まれたのがいまの名山町商店街ということなのでしょうか。いずれにしろ、この商店街とお堀の「名山堀」とは何らかの関係があるようです。

 それで市電に乗って市役所前電停まで行き、そこで降りてから鹿児島市役所の反対側辺りにあるらしい「名山町商店街」を探し回りましたが、すぐには見つけられませんでした。しかし、電車通りに沿って歩道を何度か行き来しているうちに、やっと「研秀/墨田金物店」の文字が出ている建物の入り口の下に「名山町商店街」と書かれた小さな看板を見つけることが出来ました。

 その入り口を入ると、まるで昭和30年代の頃の様な路地裏風景が目に飛び込んできました。私が子どもの頃に普通に目にしていたような小さな小さなお店が狭い路地の左右にずらっと立ち並んでいるのです。そんな感じの小さな路地が碁盤の目のように密に交差して出来上がっているのが「名山町商店街」のようでした。



幻の「名山堀」と資料調べ


 名山町商店街あたりが一色次郎が探し求めた「名山堀」があったようですが、文献や地図等でお堀として現存していた当時のことがさらに詳しく知りたくなりました。それで、まず鹿児島県立図書館にこの掘のことを調べに行くことにしました。

 同図書館で閲覧することが出来ました伊地知四郎『鹿児島の史蹟』(鹿児島市教育会、1937年)によりますと、「名山掘(運河)」とはつぎのような堀だったとのことです。

 市庁舎前の道路の一部は名山掘の跡である。此の堀は錦江橋下から朝日橋下を過ぎ鹿児島朝日新聞社の西南から折れて不断光院前を経、阿蘇橋のある堀に通じていた。而して此の阿蘇橋下の掘は亦西北方岩崎谷の入口までつづいていた。現在の興正寺や高野山の在る処は昔の掘跡である。此の堀には吉野橋というのが高野山付近に、新橋というのが興正寺付近にあった。

 また同図書館で鹿児島市立美術館蔵の天保14年刊の「鹿児島城下絵図」の複製を閲覧することもできましたので、同絵図の名山掘とその周辺部分をコピーすることができました。

天保14年刊の「鹿児島城下絵図」中の名山掘とその周辺部分

 なお、「青幻記」の作者の一色次郎は1916年5月1日生まれです。そうしますと、1920年代の地図の中
に彼が子供の頃に見た名山掘が描かれているに違いありません。それで、1924年に駿々堂旅行案内部から出された「鹿児島市街地図」で名山掘を調べてみることにしました。その地図を基にして関連地名等が分かりやすいように私が作図したのが右に掲載した図です。この地図を見ながら、「青幻記」の語り手の「私」が過去の記憶をよみがえらしいていく文章を読みますと、名山堀周辺のイメージをとても生き生きと再現できるような気がします。

 なお、この頃の市役所はいまの市立美術館の辺りにあったようですね。下堂園純治編『かごしま歴史散歩』(南洲出版、1977年10月)は、市立美術館の場所に1892年から1937年7月まで鹿児島市役所があったとし、「大正の末期には腐朽がひどくなり、危険を感ずるまでになったほか、事務量の増加によって手狭になり、移転新築されることになったのである」としています。現在の市役所の建物は、名山掘が埋め立てられた後、その跡に作られた道路のすぐ近くに建設されたようです。


 ところで、伊地知四郎『鹿児島の史蹟』(鹿児島市教育会、1937年)では、「市庁舎前の道路の一部は名山掘の跡である」とありましたが、1924年の地図では電車通りがほぼいまとよく似たカーブを描いて通っています。

 また、
1921年7月に栄文館書店から「鹿児島市街地図」が出されていますので、試みにこの地図と現在の地図とを重ね合わせて大正年間の名山堀が現在のどの辺りにあったのかを推定してみることにしました。それで、かなりアバウトな作図になってしまいましたが、大正年間に存在していた名山堀は、現在の名山町商店からみなと大通り公園のほぼ東側半分にかけてあったように思われます。

左上の写真:みなと大通り公園内から市役所方向を撮影  
右の写真:市役所本館側からみなと大通り公園を撮影

 それで、本来の「名山堀」の姿やその後の変遷が知りたくなりましたので、鹿児島の歴史や文化に関する
資料がたくさん展示されている鹿児島県歴史資料センター黎明館にも行くことにしました。そうしますと、オーッ、なんと嬉しいことに同館1階の「近世の鹿児島」のコーナーに大きな「鹿児島城下絵図」があり、そこに名山堀がしっかりと描かれていました。確かにかなり大規模なお堀で、いまの電車通り辺りも堀が通っていたようです。

 さて、黎明館1階で見た「鹿児島城下絵図」を目にしっかりと焼き付けてから、さらに3階の郷土情報ライブラリの受付まで行って、明治・大正頃の「名山堀」についていろいろ情報を教えていただきたいとお願いしましたところ、学芸専門員の方が『鹿児島城下絵図散歩』、『鹿児島市史』等の資料を持って来られ、私の質問にいろいろ丁寧に答えてくださいました。

 そんな質疑応答のなかで判明したことはつぎのようなことでした。

(1)鹿児島市史編纂委員会編『鹿児島市史』第2巻(1970年出版)の757頁によれば、明治以降に名山堀の埋め立てが進み、「明治四十四年十一月残りの一万〇九〇九平方メートル(三三〇〇坪)を市が埋め立てて、陸地化した」とされていること(明治44年とは1911年のことです)。
(2)私が鹿児島県立図書館でコピーした1924年出版の鹿児島市街地図には「名山堀」の電停の東側に大きな堀が描かれているが、その堀には名前が書き込まれていないこと。
(3)もし、『鹿児島市史』の名山堀は明治末に陸地化されてしまったとの記述が正しいとすれば、一色次郎の『青幻記』に出てくる「名山堀」は地元の人々の俗称であって、正式の名称ではなかった可能性があること。

 以上のことが分かりました。それで、すぐ隣の県立図書館であらためて関連すると思われる資料を閲覧させてもらいました。そこで見つけた興味深い地図が『鹿児島のおいたち』(鹿児島市、1955年5月)に添えられていた明治20年(1886年)頃の「鹿児島市街図」で、名山堀が黎明館で見た江戸時代の「鹿児島城下絵図」と非常によく似た形をして掘られており、いまの電車通り辺りにもお堀の水が流れていました。


 さらに、明治42年(1909年)に肥薩鉄道開通式協賛会が出した「鹿児島市街図」を見ることが出来
ましたが、同地図には「名山堀埋立地」と記入された場所がありました。その「名山堀埋立地」と記された範囲は、黎明館1階の「近世の鹿児島」のコーナーの「鹿児島城下絵図」やに描かれた名山堀や『鹿児島のおいたち』(鹿児島市、1955年5月)に添えられていた明治20年(1886年)頃の「鹿児島市街図」と位置的に一致しているようです。ただ、その「名山堀埋立地」と記された箇所の西南端からほぼ直角に折れ曲がり、さらに海に向かって円弧を描くようにカーブしているお堀の部分がまだ残されており、明らかに一色次郎が探し求めた「名山堀」に相当するように思われます。

 この名山堀の残りの部分がその後どのように正式に呼称されていたのかはまだ分かりませんが、前掲の「毎日新聞」2004.08.19の「地方版/鹿児島」の記事から判断するに「昭和10年」(1935年)に残りの部分も完全に埋め立てられてしまったようです。なお、1940年発行の「鹿児島市街図」にはこの堀の埋立地跡には「名山堀」という文字がしっかりと記入されており、そのすぐ西側の電停名は「名山堀」から「市庁前」に変わっていました。

 私が「名山堀」について調べて、これまでに判明したことは以上の事実でした。



 

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