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福昌寺跡のキリシタン墓地

遠藤周作の『女の一生 一部・キクの場合』に描かれた浦上四番崩れ

 幕末から明治初年にかけて、長崎でキリスト教徒弾圧事件がありました。この事件のことを「浦上崩れ」といいますが、この歴史的事件のことを平凡社の『世界大百科事典』は、「肥前国浦上村山里(長崎市)で起こった4回のキリシタン検挙事件。崩れとは検挙事件をいう」とし、その4回目のキリシタンの検挙事件すなわち「浦上四番崩れ」について、つぎのように解説しています。

「1867年(慶応3)勃発。信徒がキリシタン信仰を表明して寺請制度を拒否,68名が逮捕されたのに始まる。2年前大浦天主堂で再渡来した神父と出会い,表面仏教という潜伏態度を捨てたのである。ために幕府は異宗とせずキリシタン邪宗として取り扱い,信仰弾圧を外国公使団が抗議して外交問題化した。幕府倒壊後,明治政府もキリシタン禁制を掲げ,御前会議で浦上一村総流罪を決定,名古屋以西20藩に3384人を配流した。これを〈浦上教徒事件〉ともいう。1871年(明治4)米欧に向かった岩倉全権大使らは各国で信仰弾圧の非を説かれ,73年ようやくキリシタン禁制の高札を撤去した。信徒も釈放され事件は落着した。」

遠藤周作『女の一生』
新潮文庫版
  遠藤周作が1980年に「朝日新聞」に連載し、1982年に同新聞社から出版した『女の一生 一部・キクの場合』は、この「浦上四番崩れ」を題材にして書かれた長篇小説です。同小説の中で、長崎の大浦天主堂の祭壇で祈っていたプチジャン神父に250年潜伏していたキリシタンが近寄り、自分たちが浦上から来たキリシタンであることを明らかにする場面があります。

 なお、江戸幕府が1858年に欧米五ヶ国との間に長崎等5港の開港を認める修好通商条約を締結し、その結果、外国人のための聖堂建立も認められ、長崎には大浦天主堂は1865年に建てられています。その大浦天主堂にフランスからやって来たのがプチジャン神父でした。

 プチジャン神父は、那覇で日本語の勉強をしていたとき、酒に酔っ払った中国人船員が語った「日本にはまだ、かくれて基督教を信じている奴がいるんだが……本当にあんたたちと同じように十字を切っていましたぜ」という話に強烈な衝撃を受け、彼らをぜひ探し出したいと思うようになります。

 そのため、プチジャン神父は長崎に来てから街を頻繁に歩き廻り、基督教徒の子孫を見つけ出そうとします。しかし、プチジャン神父のそんな努力は全く報われず、また日本での長年にわたる過酷なキリシタン弾圧の事実を知る中で彼はキリシタン探しを諦めかけます。

 そんなプチジャン神父が建って間もない浦上天主堂の祭壇の前にひざまずいて祈っていたとき、天主堂の建物の中に4、5人の日本人がそっと入り込んで来ました。きっと好奇心で中を覗きに来たのだろうと、プチジャン神父がそのまま祈りを続けていますと、そのなかの一人の女が「異人さま。うちらはみな……異人さまと同じ心にござります」と彼に小さな声でささやきかけたのです。

 遠藤周作の『女の一生 一部・キクの場合』には、その後のプチジャン神父とキリシタンたちとの会話がつぎのように描かれています。

 「お前さまたち、どこから参りました」
 「浦上」
 「浦上?」
 「金比羅山の向う」
  プチジャンにはそれが何処かが、よくわからなかったので黙った。沈黙が続いた。
 「お前さまはまことパードレにございますか」
  と若い男が懸命になれぬ敬語を使ってたずねた。
  パードレ。ポルトガル語で「父」や「神父」のことだった。プチジャンはポルトガル語は知らなかったがラテン語からその意味を理解してうなずいた。
 「そう。パードレ」
  だが若い男はまだプチジャンを疑うように、
 「そんなら、ゼウズさまの生れられた日も、悲しみの日のことも、よう承知されとるですか」
  とたずねた。
  ゼウズというのがイエスのことであるのはプチジャンにもわかったが、悲しみの日のことは何かすぐ思いつかなかった。しかし彼は復活祭の前の週のことだろうと想像した。
 「知っとります。今がその悲しみの日」
  そう答えると青年だけでなく、その周りの男女がまるで我が子の賢さに満足する母親のように微笑んだ。
 「浦上は切支丹はあまた、おりますか」
  とプチジャンはたずねた。今度は彼の質問する番だった。
 「浦上のなかでも馬込は仏教ば信じとるたい」
  と誰かが答えた。その時、入口から声がした。
 「早う。役人の来るぞ」
  その声に聖堂にいた男女はさっとプチジャンから離れた。そして煙のように出口から消えた。
  昼すぎのがらんとした聖堂にプチジャンは立ちつくしていた。言いようのない感動の波が次から次へと胸中に押しよせてくる。叫びたかった。フューレ神父にこう叫びたかった。
 (ごらんなさい、この長崎に彼等はいたのです。存在したのです。なんという素晴らしい街でしょう)
  二百年以上のものすごい迫害とすさまじい圧迫とに日本人の基督教徒は豪雨のなかの一本の木のように耐え、生き残っていたのだ。あの琉球で酔いどれの中国人が語ったことは嘘ではなかったのだ。そしてその二百数十年の間、地下にもぐりこんでいた日本人の基督教徒と最初に出会ったのが、ほかならぬ自分だと思うとプチジャンは眩暈(めまい)のしそうな興奮におそわれた。

 プチジャン神父の前に姿を表した浦上のキリシタンたちが、その後神父と積極的に連絡を取り出し、さらに村に来てもらってミサ、罪の告白、洗礼等の宗教儀式を行ってもらうようになり、ついには本原郷でひとりの老婆が亡くなったときに、檀那寺の聖徳寺での葬式を拒否して、つぎのような口上書を奉行所に差し出すことになります。

 「私共、先祖より申伝の儀有之、天主教の外には何宗にても後世の助けに相成らず候へ共、御大法の儀に付き、是までは余儀なく檀那寺の聖徳寺の引導を受け来り候へ共、之は全く役目迄にて、誠に上の空にて引導引受け来り候処、当今、外国人居留地へ礼拝堂建立に相成り、教化の様子承り候処、先祖伝来の趣と符号仕るに付、別而信仰仕候」

 遠藤周作は『女の一生 一部・キクの場合』で、この口上書についてつぎのように書いています。

 「その口上書は稚拙な百姓の話し言葉ではなく、代筆した手習い師匠の文体で書かれていた。だがそれはながい間、幕府の命ずるままに従ってきた浦上の百姓がはじめて自由を訴えた言葉だった。信仰の自由を。思想の自由を。生きる自由を……。」

 このような浦上のキリシタンの信仰の自由を求める動きに対し、江戸幕府のみならず明治の新政権も厳しい弾圧を加えることになります。明治の新政権の場合、天皇を中心とする神道国家体制を作って自らの権力を守り強化することを考えていたので、浦上のキリシタンの動きに非常な危険なものを感じ取ったのです。

 遠藤周作は『女の一生 一部・キクの場合』のなかで、主人公のキクがキリシタンの若者の清吉に「切支丹ばやめてくれんね」と言ったとき、「できん……そいつは俺にはできん」と拒否した後、さらに「いままで父っとも母っかもそん昔から代々、信じてきた教えたい。中野郷の者ぜんぶが守っとる教えたい。そいば俺一人がなして捨てきるんね」と言わせています。この清吉の言葉を通じて、作者は浦上の中野郷の村人たちが地縁を基盤にして宗教的に強固に結びついていることを示したのだと思います。

 明治の新政権は、そんな地縁的・宗教的な結びつきを持った浦上のキリシタン全てを彼らの生まれ育った土地から根こそぎ引き離して各地に分散留置することにします。家近良樹『浦上キリシタン流配事件』(吉川弘文館、1998年2月)によりますと、浦上のキリシタンが送られた先とその人数は、第1次流配(1868年)では山口、津和野、福山の3藩へ114名、第2次の流配(1869年)では「富山・金沢・大聖寺・名古屋・津・大和郡山・和歌山・姫路・岡山・広島・福山・鳥取・松江・津和野・山口・高松・徳島・高知・松山・鹿児島の二〇藩と、津藩がさらに分散して置いた大和古市・伊賀上野・伊勢二本松の三ヵ所」へ3300名前後だったとのことです。


福昌寺跡のキリシタン墓地見学

 
「浦上四番崩れ」で分散留置の処分を受けたキリシタンの一部が鹿児島にも送られました。鹿児島市池之上町にある福昌寺跡には「キリシタン墓地」がありますが、この墓地はそのときに鹿児島に送られて他界した浦上のキリシタンの墓のようです。

 正直言いまして、私は今年(2006年)になって福昌寺跡に見学に行くまでその存在も知りませんでした。この墓地の存在に気がついたのは、福昌寺跡へ行こうと玉龍中学・高校の正門の左手の脇道を入っていったときに、右に掲載した写真に写っているような標識があったからです。

 ただ、キリシタン墓地に行くためにはかなりの段数があると思われる石段を登らなければなりません。しかし、その石段は歩幅も狭くてでこぼこしており、長い歳月を風雨に晒されたまま補修もあまりされていないようです。そんな石段に私は恐れをなして、同墓地を見学することをそのときは断念しました。

 しかし、福昌寺を見学して帰宅した後もこの墓地のことがとても気になり、インターネットの検索エンジンで調べてみることにしました。その結果、明治3年(1870年)の長崎でのキリスト教徒弾圧によって教徒が捕らえられ、そのなかの375人が鹿児島藩に預けられて旧福昌寺に収容され、明治6年(1873年)に許されて帰郷するまでに53人が他界し、彼らのお墓が福昌寺跡に「キリシタン墓地」としてあることが判りました。

 
 私は、こんな「浦上四番崩れ」という歴史的事件の犠牲者たちを祀った「キリシタン墓地」に大いに関心を持つようになったのですが、さらに福昌寺見学のことを後日になって拙ブログに記載したときに、玉龍高校OGの nyaru3915さんという方から「ところで福昌寺跡の墓よりずっと上の方に登るとキリシタン墓がありますよ。そちらに行ったことはありますか?」とのコメントをいただきました。


 この nyaru3915さんのコメントは、「キリシタン墓地」に行くための険しい石段に怖気づいている私の背中をぐいと押すこととなり、福昌寺見学の翌週すぐに同墓地見学に出かけました。しかし、墓地に行くための石段の数は27段+16段+21段+17段+19段+19段+21段あり、なんと合計で140段もありました。私がバスでの帰りに利用した家の近くのコンクリートの階段も、それと比較するために試みに数えてみたのですが80段あり、そのコンクリート製階段にも息を切らせて登らなければならないようなポンコツ山状態の私が「キリシタン墓地」の険しい石段に果敢に挑戦し、目的地まで艱難辛苦を乗り越えて登りきったのですから、そんな自分を私は「よくやった」と誉めてやりたくなったデスよ。

 それでなんとかキリシタン墓地にたどり着くことが出来たのですが、インターネットのいろんなホームページに掲載されている写真から想像していた以上に殺風景な墓地でした。それは山の中腹にあって、2つの石の記念碑が立てられていました。同墓地の手前には「ザビエル歴史街道/キリシタン墓地」の説明板があり、そこにはつぎのようなことが書かれてありました。
     
明治に入り新政府はキリシタン弾圧を再開し、長崎浦上のキリシタンを20の藩に分散留置した。明治3年(1870年)鹿児島藩には375人が預けられ、廃寺となった旧福昌寺に収容され、明治6年(1873年)の帰郷までに53人が他界したが、フランシスコ・ザビエルゆかりのこの地では、棄教を勧められたものの、 もっとも寛大な対応を受けている。
明治38年(1905年)、ラゲ神父が散在していた墓をこの地に集めて、立派な記念墓碑を造った。
  
 この説明板には、「明治38年(1905年)、ラゲ神父が散在していた墓をこの地に集めて、立派な記念墓碑を造った」と書いてありますが、手前の大きな石の墓碑がラゲ神父が造ったという記念墓碑なのでしょう。
この合同墓碑にはつぎのような文章が刻まれていました。

 基督降生千八百七十年ヨリ千八百七十三年ニ至ル間ニ
 於テ 長崎浦上ノ公教信者ニテ信教ノ為メ追放セラレ 此
 地ニ於テ歿シタルモノノ紀念ニ之ヲ建ツ 明治三十八年

 
 明治になって新たに弾圧され、生まれ故郷の長崎の浦上から鹿児島に留置されたキリスト教徒375人中、1873年に帰郷が許されるまでに53人が他界しており、その人たちがこの合同墓碑に祀られているのですね。異郷の地に隔離された彼らキリスト教徒は、どんな思いを胸に抱いて日々の生活を送っていたのでしょうかね。

 また、同墓碑の右下にある小さな石碑には、十字の印に続けて「五名合葬之碑」という文字が刻まれており、その石碑の左右の側面には「パウロ源三郎」等5名の名前が刻まれていました。その裏面には「原墓地在路傍風雨之時土砂堆積損地形甚仍改葬干此地 明治四十四年十月廿一日」とあり、別の場所にあって風雨のために埋没していた墓をこの場所に改葬したようです。

 では他界したキリシタンたちの元の墓はどこにあったのでしょうか。記念墓碑の後ろにもう一つ「キリシタン墓」という石碑が建てられている区画があります。この「キリシタン墓」は鹿児島市教育委員会が建てたもので、そこには、「明治初年政府に捕らえられて、鹿児島藩に預けられて死亡した 長崎浦上キリスト教徒たちの墓であります」との文が刻まれています。この教育委員会の石碑が建てられている区画内には、幾つもの苔むした石が土中から一部分を露出させながら散在しています。これが元のキリシタンの墓なのでしょうか?    
市教委の「キリシタン墓」 幾つもの苔むした石が散在している区画

 また、廃寺となった旧福昌寺に浦上のキリシタンたち375人は収容されたと書いてありますが、彼らは帰郷が許されるまでずっと旧福昌寺内に幽閉されていたのでしょうか? 20の藩に分散留置されたキリシタンたちのなかで「もっとも寛大な対応を受けている」とありますが、どんな生活を送っていたのでしょうか? 記念墓碑を造ったラゲ神父とはどのような人物だったのでしょうか?

 つぎつぎとクェスチョンマークが頭の中に浮かんで来るのですが、案内板が答えてくれるわけではありません。それで、翌日すぐに鹿児島図書館に行ってキリシタン墓地について調べてみることにしました。


山田尚二著「鹿児島のキリシタン墓地について」の紹介

 同図書館で調べた鹿児島のキリシタン関連の本のなかで、上記の私の疑問に一番親切に回答してくれたのが『鹿児島史談』四号(鹿児島史談会、2000年10月)掲載の山田尚二「鹿児島のキリシタン墓地について」という論文でした。

 同論文にはキリシタン墓地の概略図が載っており、昭和42年の改葬墓(市の教育委員会が建てた「キリシタン墓」のことですね)のある後ろの区画に墓柱7基、墓石約40個があると書き込まれています。また、「四十個ほどの墓石が密集している」ことから、そのようなことは「土葬の状況では考えられない」とし、明治38年に現在の区画内に周辺にあった墓と土とを集めて「寄せ墓」を造ったのであろうと推測しています。また、それらの「墓石は小さいのを数えたら五十三個にも数えられる。亡くなった全員の墓石があると思ってもよい」としています。

 それから、これらの墓石について「墓石は苔むして、大部分が埋没している。露出した部分に十字をきってあるのがいくつかある。当初で十字架を刻んだと考えたい。禁制下、十字架を刻んだ墓石の存在は驚きである。敬意に値する」との注目すべき記述がありました。

 この論文によりますと、鹿児島に送られたキリシタンたち375人中、不改宗帰還者284人、改宗帰還者44人、死亡53人(内改宗者2人)、生児13人、残留者一家族7人とのことです。彼らは他の場所に一時分散して預けられたこともありましたが、帰郷が許されるまで大半は旧福昌寺で暮らしていたとのことです。なお、「信者たちが収容された福昌寺は、島津家の菩提寺で廃寺の折も最後まで残されていたから、明治二年末ではまださほど荒れていなかったと思われる」としています。

 また、鹿児島留置期間中の後半には彼らにかなり自由が許されるようになり、多くの者が副業をしたり外で働くようになったそうですよ。しかし同論文は、「とんなに親切を尽くされても、家財等を没収され、家族ばらばらになり異郷に流される心痛ははかり知れない」としています。

 それでも、「どこより親切物語を残したのは鹿児島だった」というのは鹿児島に住む人間にとってやはり嬉しいことですね。同論文はそのことについて、「明治二・三年は西郷隆盛が担当した藩政である。西郷の名は、直接出て来ないが、信者厚遇の背景に西郷がいるように思われる」と推測しています。

 ただ、家近良樹『浦上キリシタン流配事件』(吉川弘文館、1998年2月)によりますと、浦上キリシタンの第2次の分散留置処分(1869年)において、明治新政府は欧米各国公使からの厳しい抗議を受けて、かれらキリシタンに対して「けっして苛酷な処置はしないこと、家族を分散しないこと、田畑を支給することなど」を約束させられていたそうですよ。この外国公使との約束があったことが、鹿児島に送られたキリシタンへの取り扱いに反映されたことも間違いないでしょうね。
 
 それから、キリシタン墓地の前に立てられている「ザビエル歴史街道/キリシタン墓地」の説明板に、「明治三十人年(一九〇五年)、ラゲ神父が散在していた基をこの地に集めて、立派な記念碑を造った」と書いてありましたが、ラゲ神父とはどのような人物なのでしょうか。そのことについても前掲の山田尚二「鹿児島のキリシタン墓地について」はつぎのように紹介しています。

 「ラゲ(Raguet Emile 一八五四〜一九二九)神父は、パリー外国宣教会員。ベルギー人。明治十二年、司祭となり来日。二十九年から鹿児島教会主任司祭。『仏和会話大辞典』、『新約聖書』翻訳、石造りの聖堂(初代ザビエル教会)建築で有名。四十四年長崎浦上教会主任司祭に転じた(H)。」

 なお、ラゲ神父の紹介文の末尾に付けられている(H)は参考にした文献の記号で、『日本キリスト教歴史大事典』(教文館、1988年)のことを指しているようです。

 それから、前掲論文によりますと、ラゲ神父はキリシタンの記念碑が建立された明治38年(1905年)には『仏和会話大辞典』出版のため上京中(1901年3月〜1905年12月)だったため、ラウ(RaoutL,Gustave Eugane)というフランス人の神父が鹿児島教会を司牧し、キリシタン墓に実際に祭壇型記念碑を造ったのもこのラウ神父だったそうですよ。

 山田尚二「鹿児島のキリシタン墓地について」のお陰で福昌寺跡の「キリシタン墓地」についての基本的知識を得ることができました。今後も機会があればさらに同墓地についての認識を深めて行きたい思っています。
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