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前田純敬の「夏草」と上町線

前田純敬『夏草
高城書房、2004年4月
鹿児島の空襲とオリンピック作戦

 前田純敬の短編「夏草」は、「慶二」という少年の目を通して1945年夏の鹿児島の過酷な空襲体験を描いた作品で、『群像』1949年12月号に発表され、第22回芥川賞の候補作になっています。

 私は、この前田純敬の短編を高城書房版の『夏草』(2004年4月出版)で最近読むことができました。なお、この高城書房版『夏草』には、『群像』初出稿とその後の改定稿の両方が一緒に掲載されています。

 鹿児島市への大規模な空襲は7回あり、そのために3329人が犠牲になっています。最初の1945年3月18日の空襲は軍事基地を目標にした局地的なものでしたが、4月8日の空襲は市街地の各所に及び、街は非常な被害を受け、さらに6月17日の第4次大空襲で2316人が犠牲となり、鹿児島市は灰燼に帰してしまいます。

 みなと大通り公園に「太平洋戦争民間犠牲者慰霊碑」がありますが、同碑には「昭和四十九年 六月十七日」の日付の入った碑文が「鹿児島市長 末吉利雄」と「南日本新聞社社長 川越政則」の名前でつぎのように書かれています。

太平洋戦争民間犠牲者慰霊碑

 
戦災により/非命にたおれた/はらからの/痛恨のおもい/あすのために/この碑を建つ

 碑文の日付の「昭和四十九年 六月十七日」の「六月十七日」とは、もちろん鹿児島市が1945年の6月17日に大空襲によって2316人もの人々が一夜で「非命(思いがけない災難で死ぬこと)にたおれた日を悼んでのものと思われます。なお、この碑は、1974年に戦後30周年を記念し、県内の空襲犠牲者を慰霊するために建立されたそうです。

 では、鹿児島県内の空襲による犠牲者はどのくらいだったのでしょうか。南日本新聞社編『かごしま戦争遺跡 記憶の証人』では、県内の空襲による犠牲者の数について、「実は集計はまちまちで、約三百六十人の開きがある」とした上で、あらためて南日本新聞社の支社支局を通じて「平成の大合併前の九十六市町村をチェック」し、「死者は最大で五千百十六人」としています。

 「夏草」という小説の中には、この鹿児島の空襲の悲惨な実態と戦争に翻弄される少年の不安な心情が生々しく描き出されています。

 また、「夏草」には、慶二たち中学生が1945年4月中旬から軍部によって動員され、知覧の吹上浜で約一ヶ月以上にわたって朝から晩まで際限なく厳しい竹槍訓練をさせられる様子も描かれています。そんな竹槍訓練がある日途中で打ち切られ、中学生たちは蛸壺型の壕を作らされます。そのときに小柴中尉という将校がこの壕の使用法についてつぎのように説明しています。

 
「この壕に入るとき、お前たちはまずこの手榴弾をわすれずに持って入らねばならない。敵の機動部隊はかならずこの吹上浜にやってくる。その時は上陸用舟艇がやってくる。舟艇には戦車がのっている。真先に上陸してくるのは敵の戦車なのだ。いいか、敵の戦車がこの浜に上陸してきたら、お前たちはすぐにこの手榴弾を持って、各自の壕の中にかけこみ、戦車が自分の壕の上にくるのを待つのだ。もし、その時、敵の戦車がお前の壕めがけて突進してきたら、そのときはすかさず、この信管を靴の底で叩いて手櫓弾を目の前に持ってゆくのだ。分ったか、こうだぞ!」

 慶二は、中尉がそう言いながら、手榴弾を眼前に捧げ持つようにして持っていって押しあてたその仕草に胸をしめつけられるような恐怖感を覚えます。

 なお、このあまりにも人命を軽視した野蛮で非人間的な訓練は、オリンピック作戦と名づけられた米軍の南九州侵攻作戦に備えられて実施された軍事訓練の一環だったと思われます。南日本新聞社編『かごしま戦争遺跡 記憶の証人』(南日本新聞社、2006年2月)によりますと、米軍は1945年11月1日に「三千隻の艦船、6千―七千機の航空機、車両十四万台で、総人員は八十一万五千人」によって志布志湾岸、吹上浜、宮崎海岸の三正面から上陸を敢行し、一挙に南九州を占領する計画を立てていたそうです。ですから、この南日本新聞社編『かごしま戦争遺跡 記憶の証人』は、「もし上陸作戦が実施されていたら、鹿児島本土は猛烈な空爆や艦砲射撃に見舞われ、地上でのゲリラ戦などの結果、『第二の沖縄』となる恐れが強かった」と指摘しています。


「夏草」に描かれた鹿児島の市電

 その高城書房版「夏草」の4頁から5頁にかけて鹿児島の市電が登場してきます。なお、鹿児島の人々は路面電車を当時は「電車」と呼称し、国鉄の列車を「汽車」と呼称していました。国鉄の列車はほとんどが蒸気機関車すなわちSLでしたからね。前田純敬の「夏草」でも市電は「電車」、国鉄の列車を「汽車」と呼称しています。

 その「夏草」の主人公であり視点人物でもある慶二は、旧制中学で学ぶ生徒で、鹿児島市の「城山の中腹部の山手、上之平の四十九番地」に住んでいるのですが、3月18日に鹿児島市が激しい空襲を受けた翌日、「隣の岩崎家に営外居住していた藤田軍医大尉の奥さんの昌子」が実家の岡山に帰ることになったので、彼女を電車道まで送ることになります。その見送りの場面がつぎのように描かれています。

 
「翌朝、慶二は昌子を電車道まで送っていった。電車が動き出すと、窓に立ってハンカチをふっている昌子の姿はみるみる内に小さくなって視野から消えていった。葉桜の並木の茂みごしに昌子の振るハンカチが一、二度ひるがえるのを見て、慶二は、昌子小母さんもとうとういってしまったのだ、と思った。南泉院馬場のほうには女子師範学校の塀がつづいている。この附属小学校を慶二は出ていた。附属の反対側が第七高等学校の塀端で、柳の頃がよかった。柳の新芽が芽吹き、風にそよぐ頃になると、暗い濠の水面にも蓮の花がただよう。」

 この文章を読んで私はいささか戸惑いました。主人公の慶二の家は「上之平の四十九番地」にありますから、その隣に住んでいた藤田昌子は高見馬場の電停か天文館の電停から出発するのでは思ったのですが、どちらの電停からも南泉院馬場、女子師範学校の塀、第七高等学校の塀端などは見えそうもないからです。

  そして、さらに「夏草」を読み続けて行きますと、同書の15頁に学校から召集を受けた慶二が集合場所の出かける場面がつぎのように描かれており、慶二は第七高等学校の前から藤田昌子を見送ったようです。

 
「市庁前が指定の集合場処である。慶二は中之平の通りを左に約百メートルほど歩いて南泉院馬場に出た。馬場の山側は境内で、島津斉彬、久光をまつった照国神社である。鹿児島市街はここを扇の要にして左右に街筋が並び、まっすぐ正面は鹿児島湾にむかって道が通じている。境内の前の図書館の角を曲ると、いつか慶二が藤田昌子を送った第七高等学校の前へ出る。慶二はまっすぐ馬場を下って、裁判所の横から西本願寺別院のはうへ左に道を曲って市庁舎前に出た。市庁の前は朝日新聞社である。」

 また、同書の49頁から50頁には、空襲ですっかり焼野原となってしまった七高周辺の様子がつぎのように描かれていますが、そこでも藤田昌子を七高前の電車道から見送ったときのことが回想されています。

 
「慶二は七高の前の堀端の道を歩いていた。濠の水は汚物で一杯になり、堀端の柳の木も 大半は火を浴びて、倒れてしまっていた。電車道には、電線が乱れている。七高の建物もすでに燃えつきてしまっていた。慶二は斜めに通りを横切って、それら一面も焼野原になっている女子師範の焼跡のほうに出ていた。
 海軍軍医の藤田大尉の奥さんをこの電車道まで送ってきたことがある。大尉の奥さんは電車の中からハンカチを振りながら去っていったが、今どこで生きているのであろう。」


戦前の鹿児島市電の上町線について

「鹿児島市街図」の1940年版より作図
 慶二は確かに藤田昌子を七高前の電車道から見送ったようです。それで、戦前の鹿児島の市電の路線状況を知りたいと思い、前に名山堀のことを調べるために鹿児島県立図書館でコピーした「鹿児島市街図」の1940年版を取り出して見てみることにしました。そうしましたら、上之平からほぼ東の方向にそんなに遠くない距離に上町線の公会堂前電停があり、さらにその先に七高前電停が確かにありました。

 また、「南日本新聞」1999.10.21の「南風録」に]路面電車の見直しを」という記事が載っていますが、そこに戦前の上町線のことがつぎのように紹介されていました。

 「戦前、鹿児島市に風雅な路面電車の路線があった。朝日通から西郷銅像前、鶴丸城の堀をつたい柳町に抜けた。史と景を楽しみながら走るチンチン電車は想像するだけで楽しい。
 市電上町線。鹿児島電気軌道が一九二七(昭和二)年六月に朝日通−七高間で営業を始めた。この年の十月二十一日、竪馬場まで延びている。翌年七月には鹿児島市が買収して電気局(交通局の前身)に移り、線路はさらに延びて柳町が終点となった。
 何回か路線変更話が持ち上がった。特に三七年、西郷銅像が建ったときは『じゃまだ』と激しかった。だが変更されなかった。引導を渡したのは四五年の空襲。三年後の四八年に復旧したが、朝日通−市役所−桟橋通経由となる。」

 また、『かごしま・市電物語』(南日本新聞開発センター、1985年12月)によると、この上町線の「朝日通りから七高前までは昭和二十年四月の空襲で、軌道が破壊され、運転中止。戦後も復旧することなくそのままとなった」と書いてあります。

 しかし、『夏草』の藤田昌子が鹿児島から実家の岡山に帰る日は1945年3月19日でしたから、市電の上町線はまだ運行していたはずですね。ただ気になるのは、なぜ藤田昌子は居住地の上之平から近い公会堂前の電停ではなく七高前の電停から市電に乗り込んだのかということです。

写真の右手の建物が昔の公会堂。では左手の銅像は?
(現在は中央公民館
鶴丸城跡に昔は七高造士館があった。
(現在は鹿児島県歴史資料センター黎明館)

 それで、藤田昌子がわざわざ七高前の電停から市電に乗り込んだ理由として考えられるのは、(1)戦時中の防空上の対策から上町線の公会堂前電停がすでに使えなくなっていた。(2)空襲で上町線の朝日通りから七高前まで軌道が破壊されたのは、実際は1945年4月であったが、作者がそれを3月の空襲の時と勘違いした。(3)藤田昌子の夫の藤田軍医大尉は七高出身だったので、その七高前電停から出発したかった。

 ただし、第3番目の理由とした藤田軍医大尉の七高出身説は、『夏草』のどこにも藤田軍医大佐の出身校などは書いてありませんからなんの根拠もありません。他の2つの説も同じように根拠薄弱です。ですから、もう少し当時のことが書かれた資料を調べてみる必要があるようです。


戦後の上町線について

 なお、鹿児島市電の上町線は、戦後は1948,年12月28日より再開され、市役所から私学校跡、岩崎谷、長田町、竪馬場、柳町、春日町、そして清水町まで元気に運行していました。そんな戦後の上町線について、鹿児島市交通局が1978年7月に出した『鹿児島の路面電車50年』は、つぎのように紹介しています。

 「いまは路線を東北に延ばし清水町を起点とするようになった。この付近は城下町のうちでもっとも早く開け、街並も整備されていた。下町に対する上町の意味である。路線は終点付近を除きあまり変っていない。柳町から民家商家の連なる狭い道路を竪馬場、長田町と進んで行く。左に大きく曲って専用軌道に入り、岩崎谷で鹿児島本線を乗り越す。高架線のわきに、西郷終焉の地や高野山の境内が見下ろせる小さいホームがある。付近の築堤は戦災で復旧がもっともおくれたところである。旧県立病院は西郷の私学枚跡で背後は短い切通しになっている。軌道路に入り薩摩義士碑の前で左折、濠端の急な坂を下る。ここはかつては七高前といったが、いまは大学病院前を経て私学校跡になっている。県庁の南沿いに進み桟橋通との交差点で本線と合流するとすぐ市役所前に出る。」
  
 この上町線は、1985年9月30日に廃止されています。その上町線廃止の前日、しゅうさん(当時13歳)がお父さんのカメラを「ちょっと拝借」して撮られた貴重な写真をご自身運営のHP「バスフォーラム」の「鹿児島市電上町線写真館」のページに載せておられます。

国道10号上の春日町電停と市電
しゅうさん撮影

岩崎谷の高架線上を桜島をバックに走る市電
しゅうさん撮影
 それで、しゅうさんのご了解を得て、「国道10号上の春日町電停と市電」と「岩崎谷の高架線上を桜島をバックに走る市電」の写真をここに転載させてもらうことにいたしました。しゅうさんのお話によりますと、右上の岩崎谷の市電の写真は「市電と国鉄列車のタイミングを合わせようと、2時間以上現場で待ち続けて、ようやく撮影したもの」とのことですが、噴煙を上げる桜島をバックに市電と国鉄の車両が一緒に写っているとても素敵な写真ですね。なお、上の2枚の写真の日付は 85.9.30 となっていますが、実際は廃止日前日に撮影されたものとのことです。

 
この岩崎谷電停について、『かごしま市電物語―廃線・上町、伊敷線への想いを込めて……』(南日本新聞開発センター、1985年12月)では、「市電全路線の中で『岩崎谷停留所』ほどに勝景といえる停留所はなかった。唯一の高架電停で、目の前には桜島、背後には城山を控える。また南洲終えんの地も目と鼻の先。電停に上がる階段の近くに竹林と石垣に囲まれた寺、高野山がある」と紹介しています。

 それから、右に掲載しています「上町線廃止記念乗車券」もしゅうさんが購入されたもので、同じくしゅうさんがHP「バスフォーラム」の鹿児島「バスの切符いろいろのつづき」のページに載せておられたものを転載させてもらいました。
 
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