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獅子文六の「南の風」と福昌寺跡

獅子文六著「南の風」に描かれた島津家の菩提寺だった福昌寺跡


 獅子文六の長篇小説「南の風」に島津家の菩提寺だった福昌寺のことが出て来ます。この小説の主人公は宗像六郎太というのですが、薩摩出身の男爵家の二男坊という設定で、あるとき母親の春乃に連れられて妹の康子と一緒に父祖の地である鹿児島を訪れ、宗像家の先祖たちが眠る福昌寺に墓参することになるのですが、その福昌寺墓参のときのことがつぎのように描かれています。(朝日新聞社が出版した『獅子文六全集』第三巻所収の「南の風)より引用)

 「寺とはいいながら、山門はおろか、本堂すらなかった。その代りに、公園のように、掃き浄められた広い土と、手入れをした古木と背後の山の美しい緑があった。その昔、越前の永平寺に等しい大伽藍か建っていたが、維新の廃仏棄釈騒ぎに、取り毀されたことを、春乃が語った。
 やがて、曾て見たことのない絢爛で、宏大な墓地が、子供達の前に展がった。最初、二人は、それを、人間の墓と信ずることが、できなかった。あらゆる方形美を示した石塀、石段、石畳の設計は、琉球あたりの王城の外壁を、想わせた。それぞれの募域は、テニスができそうに広く、一面に石畳を敷き詰め、奥寄りに、墓があった。墓は、石燈籠のような形で、なんという石か知らないが、カステラの菓子のような、黄と褐色で、南国の初夏の日光を浴びると、黄金の輝きを、放つのである。」



 さらに獅子文六の『南の風』には、六郎太とその妹の康子が母親の春乃に案内されて「絢爛な墓地から、陰鬱な墓地への小径(こみち)」を辿って宗像家の墓地に行くまでの様子をつぎのように紹介しています。

 「その途中にも、幾多の墓があった。一尺でも、一寸でも、藩主の墓に近いのが、身分の高い家臣の墓だった。近いといっても、もちろん城壁のような玉垣の外だった。玉垣の内に、眠ることを許されたのは、夫人だった。愛妾だった。それから、殉死を遂げた数多の近侍だった――」

 「やがて、春乃が案内したのは、後の山の中腹だった。樟(くす)や椎の木が、コンモリと繁ってる下に苔の生えた石碑が、無数に列んでいた。藩主の墓からは、最も、遠い距離にあった。
 『宗像家のご先祖ですよ……』
 春乃は、一つの粗末な墓の前で線香に火を点じた。
 これが先祖の墓かと、子供達は、呆れ顔だった。亡父の彦之進は、東京の青山墓地に、大きな、家代々の墓を建てて、移霊したつもりだったから、郷里の貧弱な墓を、顧みなかった。彼としては、寧ろ、この墓の存在を、人に知られたくなかったのであろう。」

 「帰途に、三人は、鬼頭院家の墓へ、回った。そこは、よほど藩主の墓に近く、石碑も、大きな五輪形だった。父方と母方の身分の相違は、いやでも、子供達の眼に映った。そして、父彦之進が、男爵を頂くほど、立身出世したのに、母の実家が微禄して、今は絶家同様であることを、考えずにいられなかった。整然たる墓地の秩序も、この世を支配するまでには、行かなかった――」

 獅子文六の『南の風』には、福昌寺への墓参を通じて島津藩統治下の君主と臣下の整然たる秩序を六郎太とその妹の康子が思い知らされる様子が描かれていますが、そんな福昌寺は鹿児島の藩政時代のことを知る上で貴重な史跡といえますね。それで、私もデジカメ持参で福昌寺に見学に行って来ました。
   
 
 
 
福昌寺跡(島津家墓地)
 

福昌寺跡の島津家の墓地見学

玉龍中学・高校の校舎
 私は、福昌寺跡には20年ほど前に訪れたことがあるのですが、なんの予備知識もないまま行ったこともあり、たくさんのお墓が立ち並んでいたことをぼんやりと憶えているくらいで、特に強く印象に残るようなことはありませんでした。 

 それで、今回はインターネットで少しだけ下調べをしてから、自宅から市営バスに乗って上竜尾町の停留所まで行って、その後は玉龍高校、おっといまは中高一貫教育校となって中学校もありますから、その玉龍中学・高校の校舎をまずは目指して歩いていきました。福昌寺は明治の廃仏毀釈で廃寺となっていますが、その広大な敷地に1951年になって玉龍高校の新校舎が建って現在に至っているのです。そんな玉龍中学・高校の校舎の真後ろに福昌寺跡があるのです。

 
玉龍中学・高校にたどり着いてから、福昌寺跡を目指して同校正門の左手の脇道から校舎の裏側へと入っていったのですが、その途中、校舎の中で談笑する生徒たちの若くて元気な声が耳に響いて来ました。それとは対照的に、校舎のフェンスと福昌寺跡の石塀に挟まれた細くて狭い区画に、古びた小さな墓の群れがひっそりと立ち並んでいます。

 それらのなかに「旧琉球藩人之墓」「琉球僧侶之墓」「他藩人之墓」という文字が刻まれた墓石もありました。「琉球藩」というのは、廃藩置県の直後の1872年から1879年の短い期間だけしか存在していませんが、なぜそんな藩名の付いた墓があるのでしょうか。また、「他藩人之墓」も鹿児島藩以外の人の墓なんでしょうが、どうしてそんな墓が立てられたのでしょうかね。

 石塀の外に立ち並ぶお墓を横手に見ながら、細い道をさらに歩いていきますと黒い大きな鉄の門扉が見えて来ました。

その門扉の横に鹿児島市観光課が立てた福昌寺の案内板がありました。同案内板には、『三国名勝図会』掲載の当時の福昌寺風景の図を添えて「寺中常に千五百余人の修行僧あり」との見出しでつぎのような説明文が書かれてありました。

 「寺の後方は山がせまり渓流が流れ、前面は広く平野が開ける。広大な寺域には大小様々な建物が並び、大きな回廊によってむすばれている」――藩政時代、領内の名所を紹介した「三国名勝図会」は、寺域として栄えたこの辺り一帯の景観を伝えています。
 玉龍山福昌寺は1394年(応永元)島津一族の石屋真梁(せきおくしんりょう)禅師を開山に、島津家7代元久が建てて、代々島津藩主の菩提所となった寺院です。曹洞宗の流れをくみ,南九州一円の僧侶を支配する僧録所、さらには勅願所として、その末寺は九州はもとより、中国・四国にまで広がったといわれます。
 総本山総持寺の管長までのぼった石屋禅師をはじめ、フランシスコ・ザビエルとの親交で知られる忍室(にんしつ)という和尚や西郷隆盛、大久保利通を悟した無参(むさん)和尚などの多くの名僧を出しましたが、1869年(明治2)の廃仏毀釈で廃寺となり、跡地は玉龍高校となりました。現在、法燈は北薩川内の地で守られています。」


 それで、鉄の門扉の脇門から中に入りますと、前面上方に広大な墓石群が左右に存在しているようなのですが、このままではどこにどのような墓があるのか見当も付きません。しかし、門扉の中のすぐ近くにつぎのような説明を添えた「福昌寺墓地配置図」が立てられていました。

「当墓地には島津歴代(六代〜二十八代)とその一族、並びに福昌寺歴代住職等の墓がございます。
 初代から五代までの墓地は、鎌倉市西御門(初代)、鹿児島市清水町本立寺跡、鹿児島県出水郡野田町感応寺の三ケ所に、二十九代からの墓地は、当地の西方、常安峯(とこやすのみね)にございます。」

 
それで、幕末に積極的に殖産興業政策を推進した第二十八代藩主の斉彬の墓をその墓地配置図で確かめて墓参することにしました。斉彬は下級藩士の西郷隆盛を取り立て重用したことでも知られていますね。その斉彬の墓には大きな宝篋印塔が2基並んで立てられていました。おそらく斉彬とその正室である英姫(ふさひめ)のものと思われます。なお、英姫は一橋斉敦の四女とのことです。

 では、左右のどちらが斉彬の宝篋印塔なのでしょうか。当時の日本の風習から考えれば右が斉彬の宝篋印塔で左が正室の宝篋印塔と思われます。念のためにそれぞれの宝篋印塔の側面を調べてみますと、左の宝篋印塔に「姫命」という文字が刻まれていました。こちらがおそらく正室の英姫の宝篋印塔なんでしょうね。

 
これだけのことで結構時間を費やしましたし、また島津藩政史については全くの素人ですので、福昌寺跡に立ち並ぶ墓石群からそれ以上なにをどう調べたらいいのか見当も付きませんでした。

 ところで、先ほど引用した獅子文六の『南の風』の記述に拠ると、藩主の墓が祀られている城壁のような玉垣の外側に家臣の墓が身分の高低に従って整然たる秩序で立ち並んでいるとしていますが、現在の福昌寺跡にはそのような整然と立ち並ぶ家臣の墓群は見当たりません。それで後で山川出版社の『鹿児島県の歴史散歩』で調べましたら、「第二次世界大戦後、島津家累代の墓石やその他一部を残して、一般市民の墓石は移設改葬され、後に鹿児島玉龍高校が建設された」と書いてありました。そのときに家臣たちの墓群もどこか別の場所に移設改葬されたのかもしれませんね。


薩摩藩と廃仏毀釈

照国神社の鳥居 照国神社の島津斉彬像
 島津家の第二十八代藩主であった斉彬は安政5年(1858年)7月に急逝しており、その墓は福昌寺にありますが、文久3年(1863年)には勅命によって照国大明神の神号を授けられています。そして斉彬を祀る神社として照国神社が南泉院跡に建立されました。

 なお、その跡地に照国神社が建立されたという南泉院は、宝永7年(1710年)に島津吉貴によって東照宮の別当寺として創建された藩内有数の大寺院だったそうです。しかし、福昌寺と同様に廃仏棄釈で打ち壊されています。廃仏棄釈で打ち壊されたのは福昌寺、南泉院だけではありません、鹿児島に存在していた全ての仏教寺院が徹底的に破壊されています。こんな例は日本の他の地域にはないことです。

 鹿児島では、幕末から徹底した廃仏毀釈が行われ、薩摩藩に廃仏毀釈前には寺院総数が1066ヵ所あったものが廃仏毀釈後には領内に一寺も残らなかったそうですが、中村明蔵『薩摩民衆支配の構造』(南方新社、2000年7月)は、薩摩藩での廃仏毀釈の特色として、「他藩領に先がけて進行し、結果的にはほとんど一寺も残すことなく徹底してなされたことと、藩主以下庶民にいたるまで、廃仏毀釈に協力または黙認するか、あるいは放置してきたという実態、さらには寺院跡が神社として残存する例がしばしば見られる」とし、その様な事態が生じた理由として、つぎの3点を挙げています。

 まず、江戸時代の「幕藩領で、一般的に行われていた寺請制度が、薩摩藩では見出せず、かなり変則的な形をとって」おり、「寺院と民衆との直接的関係が見出しにくいこと」であり、つぎに平田篤胤門下の後醍院真柱台院や国学者・神道学者の田中頼庸らの思想が「薩摩藩の神仏分離・廃仏毀釈に多大な影響力を発揮し」、すでに慶応年間に「藩の機構、郷(外城)の組織を通じて各所で廃仏の動きが活発」になっていたこと、さらに加えて「幕末の薩摩藩における軍備拡充と経済上の観点からの要請」により、「鋳銭事業に寺院の梵鐘などを鋳つぶして、その材料にすることが計画されたこと」、以上の3点です。

 なお、芳即正『島津久光と明治維新』(新人物往来社、2002年12月)によりますと、島津久光が文久2年(1862年)に「琉球救助を名目にして三年間を限り、天保通宝と同じ形の琉球通宝を鋳造することを幕府から許され、同年十二月から鋳造を始めた。担当者の市来四郎によると、三年間に二百九〇万両をつくり、三分の二の利益を得たという」としています。そうしますと、薩摩藩はこの鋳銭事業によってわずか3年間で193万両以上の巨額の利益を得たことになりますね。

 また、芳即正「鹿児島藩廃仏毀釈前史」(『鹿児島歴史研究会』第3号、1998年10月)には、鋳銭事業の担当者だった市来四郎の日記に基づき、幕末の薩摩藩の銭鋳事業と廃仏毀釈の関連が考察されています。同論文によりますと、琉球通宝鋳造計画には当初から天保通宝の贋造も企図されていたようです。

 そして文久2年(1862年)の12月から鋳銭事業を開始しますが、そのために大量の銅が必要となり、その原材料として寺院の梵鐘が狙われることになります。例えば、市来四郎の日記には、日向穆佐の悟性寺にあった藩内最古の梵鐘(南北朝末期鋳造)を文久3年(1863年)4月19日に琉球通宝の地金にするために破壊したので、「愉快言語ニ余ル」と書いてあります。

 芳即正「鹿児島藩廃仏毀釈前史」は、このような薩摩藩での鋳銭事業のための原材料銅入手のために寺院の梵鐘・仏具をも標的にしたことが「後年の廃仏毀釈に心理的な影響を与えたのではないか」とし、さらに慶応元年(1865年)における薩摩藩内の廃仏毀釈の開始について、市来四郎のつぎのような興味深い記述を紹介しています。

 「慶応元年乙丑ノ春デゴザリマシタ、私共友達中壮年輩ノ所論ニ、斯フ云フ時勢二立至ツテ、寺院又ハ僧侶卜云フモノハ不用ナモノデアル、或ハ僧侶モ夫々国ノ為メ尽クサセナクテハナラヌ時勢ニナツタ、先年水戸家ニテモ寺院廃合ノ処分アツタ、真二英断デアル、皆ナ人感賞スル処デアル、此ノ時二当ツテ、断ジテ廃スベキ時デアルト云フ盛ンナ論ニナリマシタ、其人々ノ只今存生ノモノハ黒田清隆・橋口兼三・千田貞暁、夫レカラ私抔モ相談致シマシテ、表面二立テ建言者トナリマシタ、私モ其一人デゴザリマシタ、家老ノ桂右衛門卜云フ者二対シテ、時勢切迫ノ状況、或ハ僧侶ノ壮年ナ者ハ、只ニ口弁ヲ以テ座食シテ居ル、此時勢済マナイコトデアルカラ、若イモノハ兵役二使イ、老タルハ郡村学問ノ教員トシ、各其分ヲ尽サシメ、或ハ寺院二与へテアル禄高ハ軍用二充テ、仏具ハ武器二充テ、地所ノ如キハ、貧乏ナル士族モ居リマスカラ、夫等ノ宅地耕地二与フルナドヽノ論デゴザリマシタ、一ノ建白書ヲ作ツテ出シマシタトコロガ、桂モ兼テ同論ノ事デモアルシ、大二賛成シテ、サウシテ直グ忠義・久光ニ披露シタトコロガ、即日ニ決断致シマシタ」

 慶応元年(1865年)に黒田清隆、橋口兼三、千田貞暁、市来四郎たちが廃仏の断行を家老の桂右衛門(桂久武)に申し出て、藩主の忠義や「国父」と称された久光がその提案を即座に承認しています。こうして薩摩藩内に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れることとなり、寺院が次々と無残に取り壊され、経典は焼かれ仏具は兵器に化けていきました。『鹿児島百年(上)幕末編』(南日本新聞社、1968年1月)によりますと、「慶応初年(一八六五)に、千六百十六を数えた薩藩内の寺院は、ここに全滅したのである。二千九百六十六人の、かつての僧尼は、すべて還俗した。元士族は再び士族に、農は農、商は商に帰った。三分の一は、兵士になったという」とのことです。
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