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鹿児島の市電と街  その1
鹿児島駅前電停〜市役所前電停
 
鹿児島駅前電停
市電車窓から見た鹿児島駅前電停 鹿児島駅前電停とJR鹿児島駅
 
 鹿児島駅前電停は名前の通り鹿児島駅の前にある市電の停車場で、ここから谷山電停へ向かう1系統と鹿児島中央駅前電停を経由して郡元電停へ向かう2系統の両系統の起点となっています。

JR鹿児島駅
写真左はJRの列車
 鹿児島駅は、現在は鹿児島本線と日豊本線の終点であり、また日本貨物鉄道の鹿児島貨物ターミナル駅が隣接しています。

 1937年に鹿児島駅から上京した一色次郎が同駅のことを『展望』1967年8月号に発表した「青幻記」という作品(第3回太宰治賞受賞)につぎのように書いています。

 「鹿児島市は西と東にふたつの駅がある。むかし上京する時は東駅から立った。が、こんど帰ってみると様子が違う。終着駅は西駅である。」

 鹿児島で西の駅とは現在のJR鹿児島中央駅(以前は鹿児島西駅と言われていました)のことで、東の駅が鹿児島駅です。 

 2006年7月20日に出版された『鉄道浪漫』Vol.12に鹿児島の市電が紹介されていますが、鹿児島駅について、「鹿児島駅はJRとの乗り継ぎ駅だが、やや最果て感の漂う駅。かつては、鹿児島のターミナルとして栄えたが、現在は鹿児島中央駅にその座を譲った」と紹介しています。 「やや最果て感の漂う駅」という表現、鹿児島駅前周辺に住んでおられる方たちにはいささか申し訳ありませんが、まさにピッタリという感じです。しかし、朝夕は通勤・通学客で賑わいます。

 この鹿児島駅から県内で初めて蒸気機関車が走っています。すなわち、1901年の6月10日に鹿児島−国分(現在の隼人駅)を蒸気機関車が初めて運行したのです。

 なお、九木田末夫『鹿児島の鉄道・百年』(春苑堂出版、2000年9月)には、鹿児島県内に鉄道が初めて開通した経緯について、つぎのような興味深い事実が紹介されています。それによりますと、九州鉄道会社がまず1889年に博多から千歳川間に鉄道を開通させ、さらに久留米から熊本、そして熊本から八代に鉄道を通しましたので、鹿児島でも活発な鉄道建設運動が盛り上がり、ついに1902年には八代から鹿児島間に鉄道を建設することが決まりました。しかし、ここで問題が起ります。すなわち、「八代と鹿児島を結ぶのに出水・川内を通る海岸線(西側)を主張する者と、人吉・吉松を通す山間部(東側)を主張する者との意見の対立が生じたのです。

  海岸線案は、経費は少なくて利用価値は高いとされて当初は有力だったのですが、軍当局が「東シナ海岸側に鉄道を走らせると、国防上、いったん事あるとき、鉄道は艦砲射撃を受けて寸断されてしまう」と主張し、さらに人吉の旧相良藩主や山間に近い宮崎県側が山間部案に同調したことによって、現在の肥薩線コースに切り替えられることになったそうです。 こうして、1901年に鹿児島・国分(現在の隼人)間がまず開通し、1909年にはついに鹿児島線が完成し、こうして九州の南北が鉄道で結ばれました。

桜島桟橋通電停
桜島桟橋通電停に到着した花電車 桜島フェリーと噴煙を上げる桜島
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水族館口電停
 いまの「水族館口」の電停は、「県庁前」として長く親しまれてきました。鹿児島県庁は、以前は鹿児島市役所にほど近い山下町にありましたが、1996年に鴨池新町に移転してしまいました。そのために電停名が「県庁跡」と改名されましたが、1年足らずで「水族館口」に変更されました。1998年5月、近くの本港新町にいおワールド かごしま水族館」が開館したからです。この水族館、イルカやラッコなどが人気を集めています。なお、県庁跡地には県民交流センターが建てられています。

水族館
 「水族館口」の電停で市電を降りて桜島フェリーターミナルまで行き、そこから水族館の写真を撮りましたが、水族館の左手に見える桜島から最近には珍しく噴煙が上がっていました。
鹿児島本港北埠頭ターミナル
 水族館のすぐ近く(少し南東の方向)に鹿児島本港の北埠頭ターミナルがあります。北埠頭からは種子島、屋久島行きの船が出ています。
 なお、鹿児島港には7つの港湾区域があるのですが、離島航路の集約化のために本港区の整備・改修が進められ、北埠頭ターミナルは1993年に建設されています。この北埠頭ターミナルについては、「鹿児島港本港区」のホームページ に紹介されています。

桟橋通り  一色次郎は、不断光院とそのすぐ近くの曲がり角から海に向かって通っている桟橋通りとを『青幻記』のなかでつぎのように描いています。

「街は海に向かって心持ち傾斜していた。その傾いた道を歩んで行くと、広い電車道があって向こう側に古い寺があった。その位置と門構えに見覚えがある。不断光院である。
 子供のころこの寺の境内で、よく遊んだ。山門の両側に石の仁王像が一対立っていたがと思いながらいってみると、空襲に焼けもしないで残っていた。この寺の先から桟橋通りへ折れると、低い家並がじめじめ寄りかたまった新地である。引潮になるとドプ泥のにおいが、満潮になると強い潮のかおりがみなぎる町であった。」


 不断光院の石の仁王像はいまも寺の門前に立って電車通りをじっと眺めていますが、桟橋通りの様子は昔と比べて随分と違っていると思われます。昔は桟橋通りを海側に歩いて行けば林芙美子の『浮雲』の主人公たちが屋久島に船出した第一桟橋にたどりつくことができましたが、いまはその第一桟橋もすっかり埋め立てられてしまいました。

  廃仏毀釈にも空襲にも耐えた不断光院の仁王様

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 市電に乗って鹿児島市役所電停近くを通りますと、鹿児島駅方向右手に不断光院の二体の古びた石の仁王様を見ることができます。
 不断光院は浄土宗の寺院として島津貴久によって1562年に建立されていますが、幕末以降、この寺院は何度もひどい被害に遭っています。
 豊増哲雄『古地図に見るかごしまの町』(春苑堂出版、1996年3月)によりますと、不断光院の以前の敷地は現在の長田町の南風病院一帯にあり、小高い丘に白塗りの塀に囲まれていたため、1863年の薩英戦争の時、「英艦はこの白壁をめぐらせた丘の建物をみて、『あの場所こそ薩摩の殿様の本陣』と思って砲撃を加え、おかげで寺は破壊され炎上焼失した」とのことです。
 さらに不断光院は明治2年すなわち1869年の廃仏毀釈で廃寺となりましたが、1883年に現在の易居町に再建され、1945年に戦災に遭いますが、1960年復興されています。

 また、「南日本新聞社」2001.02.14には、「不断光院門前の仁王像、廃仏棄釈乗り越える」という見出しで、不断光院七代目の富岡照道住職の話が載っており、「明治二年の廃仏棄釈に際して姶良方面の寺院の信徒が難を逃れるため畑に二体を埋めて隠した。明治末か大正の初めごろ、農夫が発見。荷馬車に積んで鹿児島市内に売りに来たのを、四代目の中原麟宏住職が二十円で購入したらしい」「四五(昭和二十)年の大空襲で焼い弾を受け、本堂などは壊滅状態になった。石像も一部焼けたり腕が切れたり損傷したができる限りの修復をして現在に至っている」とのことです。 
市役所前電停付近
 鹿児島市役所
 『鹿児島の路面電車50年』(鹿児島市交通局、1978年7月) の36頁には、1928年の市営発足から2、3年後の停留所の図が載っていて、「鹿児島駅前」(停車場前)―「和泉屋町」―「滑川」―「高野山道」(海岸通)―「桟橋通」―「名山堀」と停車場が続いています。現在の「市役所前」の電停よりかなり「朝日通」の電停寄りに「名山堀」というという電停がかつて存在していたようです。その旧電停名は、島津藩統治時代に造成された「名山堀」という堀に由来していますが、明治末年より埋め立てが始まり、1930年代には全て埋め立てられてしまったようです。
 現在の鹿児島市役所の建物は1937年に建てられていますが、下堂園純治編『かごしま歴史散歩』(南洲出版、1977年10月)によりますと、以前の市役所の建物は現在の市立美術館に建てられており、腐朽が激しいことや事務量増加で手狭になったことから現在の場所に移転新築されたとしています。
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鹿児島市電の電停一覧
電停名をクリックしますと、当該電停を紹介するコーナーが表示されます
鹿児島駅前 桜島桟橋通 水族館口 市役所前 朝日通 いづろ通 天文館通 高見馬場



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