なお、松尾千歳「篤姫の出自とその一族」(芳即正編『天璋院篤姫のすべて』、新人物往来社、2007年11月)には、今和泉家の鹿児島城下の屋敷は、いずれも「上町」(かんまち)と称される古い歴史を持つ地区にあるとしています。
すなわち、「旧薩摩御城下絵図」に基づいて、「当主とその家族が住む本邸は、鹿児島城下、大竜寺(現・鹿児島市大竜町の大竜小学校)の西隣にあった。敷地は四六〇八坪。現在、その敷地は住宅地になっているが、当時の立派な石垣が一部残っている」ことを紹介するとともに、「中屋敷は、本邸から五〇〇メートルほど東側、現・鹿児島市春日町、国道一〇号沿いの春日郵便局のある一帯にあり、敷地は三四〇坪。下屋敷は、中屋敷の北五〇〇メートルほどの現・鹿児島市清水町、鹿児島市消防局上町分遣隊のあるあたり一帯と、中屋敷の南東四〇〇メートルほど、現・鹿児島市浜町、石橋公園の南手一帯にあった。前者は七四二坪、後者は三二八一坪であった」としています。
なお、塩満郁夫・友野春久編『新たな発見にに出会う 鹿児島城下絵図散歩』(高城書店、2004年12月)という書籍がありますが、これは鹿児島県立図書館に所蔵されている安政6年(1859年)頃作成と推定される「旧薩藩御城下絵図面」に現在の鹿児島市の地図を重ね合わせ、約4千ヵ所の現住所と当時の建物や住人を見比べられる一覧表が付いている貴重な本です。同書によりますと、島津峯之助(篤姫の兄の島津忠敬の通称で、上の二人の兄が若くして病死したために今和泉島津家12代当主となる)の屋敷について、現在の構造物等と現在の住居表示はつぎのようであるとしています。
安政6年の住人 |
現在の構造物等 |
現在の住居表示 |
島津峯之助殿下屋敷 |
鹿児島操車場 |
浜町2番の中 |
島津峯之助殿 |
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大竜町8~10番の全部、11番の西 |
島津峯之助殿下屋敷 |
清水町駐車場 |
清水町7番の東半分 |
島津峯之助殿中屋敷 |
上町グラハン |
春日町12番の北、浜町3番の北西 |
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さらに同書の一覧表には、「天保13年の住人」として「島津安芸殿下屋敷」がつぎのように記載されています。「島津安芸殿」とは篤姫の父親の島津忠剛のことですね。
現在の住居表示 |
現在の構造物等 |
天保13年の住人 |
清水町27番 |
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島津安芸殿下屋敷 |
清水町31番 |
重富荘旧島津別邸 |
島津安芸殿下屋敷 |
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前掲の松尾千歳「篤姫の出自とその一族」でも、「『文政前後鹿児島城下絵図』(実際は天保十三年ごろのものか)には、中屋敷がなく、かわりに、田之浦(現・鹿児島市清水町)に下屋敷が二つ記されている。現在の地名で言えば、一つは重富荘一帯で四七一〇坪、もう一つは多賀山公園駐車場の南手で五五〇坪である」とし、さらに「このほか、藩主別邸仙巌園の近くにも別邸があった。詳細は不明。安政二年(一八五五)、琉球で使用する琉球通宝という貨幣を鋳造する工場が集成館の西隣に築かれたが、そのときの資料に『今和泉家磯屋敷跡』とある。この鋳銭工場は、現・鹿児島市吉野町、鹿児島紡績所技師館(異人館)の東側、国道一〇号沿いの飲食店等が建ち並んでいるところにあった」ともしています。
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