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    創作短編集2
目次
木製の荷車の思い出 
天狗のお面の恐怖
祖父のお嫁さん評価「皇后さんやな」
ワーッ、土人の子どもたちに囲まれた!!
赤ちゃんを抱いた女性の哀しい境遇
 右手中指の鉛筆だこの悲哀
 幸福な家庭
雅人くんは附属の生徒 
苦くて恥ずかしい思い出
 母親は様々な可能性の提供者
 猫のシロと犬のクロ
父親の転職と雅人君の転校話 
附属小学校から附属中学校への内部進学
放課後の春の驟雨の思い出 
仙台での充実した浪人生活
 父親と8ミリカメラ撮影
夕陽丘セツルメントの思い出
女の子を泣かせた思い出 
モハメドアリと家庭教師  
大学同級生との44年ぶりの再会 

木製の荷車の思い出
 
 内川雅人くん一家が祖父母の大豆山(まめやま)町に身を寄せていた頃の話です。玄関に四輪の手押し式木製荷車が置かれていました。まだ幼かった雅人くんに彼の母親が、この荷車を指差しながらいろいろな思い出を語ったものです。

 戦後の食糧難の時代、配給制が取られており、遅配や欠配が続き、町の人々は闇市で高額な値段の食糧品や基本的必需品を購入するか、農村部に直接買い出しに行って手に入れる必要がありました。

雅人くんの母親も、故郷の台湾から夫の実家の奈良市に引き揚げたときに持ち帰った嫁入り道具の着物などを荷車に乗せて農村部に買い出しに出掛けたそうです。

 雅人くんの母親は、当然持参した着物などを農民たちは高く評価してくれて、沢山の食料品が手に入るものだと思い込んでいました。しかし、彼らは町の人間が食糧難で困っていると足もとを見て僅かな食糧品しか渡してくれませんでした。雅人くんの母はとてもくやしい思いをして、そのことを物心のついたばかりの雅人くんに何度も語ったものです。

 この木製の荷車はまた乳母車の役割も果たしてくれました。粗末な木箱をその上に乗せ、幼い雅人くんを入れて、手押しでゴロゴロと舗装されていない道を歩く女性の姿こそが、最初に振動音ともに記憶された雅人くんの母親の姿でした。
2018年08月12日



天狗のお面の恐怖

 
みなさんはご自身のご両親についての最初の記憶はどのようなものだったでしょうか。

 雅人くんの母親についての最初の記憶と思われるのは、木製の四輪台車の上に載せられた木箱に入れられた幼い雅人くんを押してゴロゴロと舗装されていない道を歩く母の姿だったような気がします。木製の四輪台車とその上に載せられた木箱が乳母車の代用品だったのでしょう。舗装されていない道を木製の「乳母車」に載せられ、激しく振動するそれを押して歩く母親、それが多分最初の母親に対する雅人くんの記憶だったように思われます。

 では雅人くんの父親に対する最初の記憶はどんなものだったのでしょうか。内川雅人くんの父親についての記憶は天狗のお面の恐怖とともに始まっています。幼い雅人くんは奈良市の高畑の伯父の家で産まれましたが、すぐに祖父母の住む大豆山町の茶室を改造した部屋に移り住みました。

 幼い雅人くんはそのとき祖父の応接室に迷い込みました。幼い雅人くんの前に突然真っ赤な色をした大きな鼻の厳つい顔の化け物がニューッと現れ出ました。雅人くんはそのときギャーッと叫んで別の部屋に逃げ出したと思います。

 しかし厳つい顔の真っ赤な大きな鼻のお化けは泣き叫ぶ雅人くんの後を執拗に追いかけまわし、泣き叫ぶ子どもの声を聞きつけた母が現れて、その怖いお化けもやっと面を脱いでくれました。その天狗のお面の記憶が雅人くんの父親に対する最初の記憶だったように思います。
 
 関西の奈良のことですから、父親が天狗のお面を被って雅人くんを驚かせたのは、秋田のなまはげの風習を見習ってのものではなかったと思われます。ただ幼い子どもが泣いて騒ぐのが面白いかったにすぎず、雅人くんの父はそういう人だったのです。

 この雅人くん幼い頃の父親の記憶は、上に述べた天狗面の恐怖の体験と重なっています。天狗のお面は祖父が集めていた能面の一つで、その後もずっと応接室に飾られていました。.

2017年09月13日


祖父のお嫁さん評価「皇后さんやな」

 
雅人くんの両親は戦後一年後の1946年12月に台湾から奈良(父の生まれ故郷)に引き上げ、高畑の伯父の家に一時身を寄せ、そこの農機具小屋で母のお腹のなかにいた彼を出産しました。その後、大豆山(まめやま)町の彼の祖父母の家に移り住みました。

 雅人くんの母にとって奈良は同地の奈良女子高等師範学校で学んでいた地なのですか、その頃彼女は寄宿舎生活しかしておらず、奈良独特の風習文化には全く馴染んでおらず、女高師卒業後は台湾に戻り、台北の女学校の先生をしていました。

 内川雅人くんの祖母は目から鼻に抜けるような賢い人で、内川の奥さんは接待上手だとの定評があったのですが、その祖母がたまたま用事で家を空けていたそのときのことです。祖父を訪ねて一人のお客さんがやってきました。祖母に代わって雅人くんの母が接待しなければならなかったのですか、お客さんが帰った後、祖父が母に「皇后さんやな」とポツリと言ったそうです。

 その祖父の言葉、私の母にとっては義父の言葉になりますが、普段は寡黙な人の「皇后さんやな」の寸評はあまりにも的確すぎて母の心を深く傷付けたようです。母は幼い私に繰り返しこのときの「皇后さんやな」との批評がショックだったと回想し、そのときいつも涙を流してていました。

 この祖父が母を評して「皇后さんやな」と言った「皇后」とは、昭和天皇の香淳皇后のことで、昭和天皇が1945年終戦の翌年1946年1月に「人間宣言」をしてから1954年にかけて全国を巡幸したときに一緒に付き添っていた皇后をイメージしてのものだと思われます。言葉の表面にはお嬢さん育ちの気品のあるお嫁さんだとの褒め言葉と理解できますが、雅人くんは母はその言葉の裏に全くお客さんに対してまともな接待も出来ない役ただずの気が利かない嫁だなという皮肉が込められていると理解したようです。

2017年08月20日



ワーッ、土人の子どもたちに囲まれた!!


 雅人くんが小学校低学年の頃、学校の教師をしていた彼の母は、ときどき日曜日に幼い彼を連れて生徒の家庭訪問をしたことがあります。おそらく母は、我が子が日曜日に独りぼっちで過ごすことが可哀想だと思って、家庭訪問に彼を連れて行ってくれたのでしょう。

 そんな家庭訪問の思い出の一つとして、いまでも強烈な記憶として残っている体験があります。それは奈良市から近鉄の電車の駅を乗り継いでたどり着いた農村地帯にある生徒の家に家庭訪問をしたときのことです。訪れた大きな藁葺き屋根の豪邸は、青々とした水田の広がりのなかに建っていましたが、雅人たち親子を見つけると周辺で遊んでいた子どもたちがワーッと集まって来ました。その子どもたちの様子が奈良の町で育った雅人くんには異様なものに感じられました。こんな表現を使うと大変失礼なこととは思いますが、土人の子どもたちに取り囲まれたように感じたのです。子どもたちはみんな真っ黒の顔をしており、着ているランニングシャツも土と泥に汚れていました。

 いまではテレビに映る農村の子どもたちは街の子どもたちと大きな違いを感じることがありませんが、私の子どもの頃(1950年代末から1960年代初)は全国的に都市と農村に文化的に大きな格差があったのですね。

 訪れた家庭は靴下生産工場を経営していたのでしょう、お父さんが雅人くんたち親子に見せるためにわざわざ織機を一台外に出して、女子職員によって靴下を編み出す様子を見せてくれました。この昔の記憶からネットで調べてみましたら、奈良県は全国の5割を占める生産量ナンバーワンの県だそうで、昔から靴下生産が盛んだったとのことでした。

2017年08月31日




赤ちゃんを抱いた女性の哀しい境遇


 雅人くんが小学校低学年の冬の季節、可愛い女の赤ちゃんを抱いた着物姿の若い美しい女性が雅人くんの母を訪ねてきました。その女性と赤ちゃんが帰った後、雅人くんの母は彼に腹腹立だしげに彼女たちの哀しい境遇を語ってくれました。


 母を訪ねて来たこの若い女性の名前を仮にA子さんとしておきます。A子さんは雅人くんの母が勤めていた高校の卒業生で、卒業後すぐに親同士が決めた結婚式を挙げました。彼女が身籠もった直後に彼女の夫に浮気相手がいるらしいことが発覚し、なんと彼女は夫から離婚話を切り出されます。結婚前から交際している好きな女性がいるので別れてくれないかと言うのです。A子さんは泣く泣く離婚話に応じることになりました。


 雅人くんの母は相手の男の自分勝手さに憤り、雅人くんは幼い子どもながらにこの話に腹を立てました。ところで、こんな話とそっくり似たような外国での出来事がありましたね。そうです、英国のチャールズ皇太子とダイアナ妃の離婚騒動です。チャールズ皇太子が結婚前からカミラと交際しており、結婚後も交際を続けていたという不倫が発覚しました。

 ところでなぜチャールズ皇太子は、そんなに好きなカミラに最初から結婚を申し込まなかったのでしょうか。カミラは社交界の人気者ボウルズ氏とすでに結婚して子どもも生まれていました。そんなカミラ夫人との結婚など母親のエリザベス女王や周囲の王族から当然反対されて、優柔不断なチャールズ皇太子は愛してもいないダイアナと結婚することになったのです‥‥。

 A子さんの夫の不倫相手の女性が既婚者かどうかは全く分かりませんが、少なくとも親たちが決めたA子さんとの結婚話を承諾し、結婚後も交際を続け、不倫が発覚したのでやむなく離婚話を持ち出したのでしょう。幼い子どもの頃にはただ腹立だしかったこの種の浮気男に対するイメージが随分変わりましたよ。優柔不断な情けない男の姿が自然と眼に浮かぶようになりました。

 A子さんは見るからにお嬢さん育ちのおとなしい女性でしたから、夫の勝手な離婚話をやむなく承諾したのでしょうが、この後に私が知った似たような離婚話における奥さんたちの対応には様々なものがあるようです。不倫相手の女性の家に押しかけて大きな声で罵詈雑言を浴びせるってのがありますね。自殺未遂を繰り返し夫の浮気に対する自らの精神的苦痛を表現する手もあります。実家に帰って、夫が謝りに来るのをじっと待つ方法もありますね。しかし、チャールズ皇太子的な夫は所詮は優柔不断な駄目男ですから、しばらくはお嫁さんの元に戻って来るかもしれませんが、相手の女性との腐れ縁は切れないでしょうね。

 死んでも君をはなさない 地獄の底までついていく
 oh,please stay by me,Diane.おっと違った Camillaですね。

2018年05月08日


右手中指の鉛筆だこの悲哀

  幼い子どもたちはみんな将来の夢を持ったものです。スポーツが得意な元気な男の子たちの多くがプロ野球の選手に憧れたものです。

 内川雅人くんですか。彼は手塚治虫のような漫画家に憧れました。いつも広告の白い後ろ紙に、鉄椀アトムに登場するひげオヤジやお茶の水博士たちをとても上手に描いていました。そんな彼の右手の中指にはペンだこ、おっと鉛筆だこがポッコリ出来たものです。

 小学校の授業中も先生の話を聞くふりをして、彼は教科書の余白部分に手塚漫画のキャラクターを描いていたものです。とにかく手塚漫画のキャラクターを描かずにはおれなかったのです。

 そんな手塚漫画を描くことが大好きな彼に、4才年上の従兄弟の威ちゃんがとても貴重なアドバイスをしてくれました。本当に漫画家の道を目指すなら手塚漫画にそっくりなものを描いていては駄目だよってね。威ちゃんがいいたかったことは、雅人くんならではのオリジナルな漫画が描けないと駄目だよという忠告でした。

 それからです、雅人くんは漫画を描くことにスランプに陥ってしまいました。雅人くんなりの漫画を描くってどうすればいいのでしょうか。どうやっても描けません。雅人くんはこのとき漫画家になることをあきらめました。小学校五年生の頃に味わった挫折でした。しかし、勉強嫌いの雅人くんの右手中指には鉛筆だこがしっかりと残っていました。いや、いまも雅人くんの右手中指には鉛筆だこがあるんですよ。なにか悲哀を感じる右手中指の鉛筆だこです。

2018年09月09日



幸福な家庭

 内川雅人くんが小学校2年生のころであったろうか。彼の母から父に対して、浮気相手やその相手との関係について「バイシュンフ」とか「ニクタイカンケイ」なんて幼い子どもには理解しがたい言葉がつぎつぎと発せられたのは。激しい両親の諍いに内川さんはその幼い心を痛めながらも、「バイシュンフってどんなハエなんやろか?」とか「その女性との関係、おかあちゃんにはきっとニクタラシイ関係なんやろな」なんて考えたものである。

 雅人くんの母は非常にプライドの高い女性でした。雅人くんの父親はそんな母親のプライドを平気で何度も何度も繰り返し踏みにじる人でした。特に彼の家の庭に建てられた離れの小さな一軒家に間借りした女子学生(母の後輩に当たります)と父がニクタラシイ関係(?)になったことを知った母の憤りは激しく、まさに般若の如く怒り狂ったものでした。

 そんな母は学校の教師をしていましたが、勤め先の学校の生徒たちが発行している新聞部の企画として恩師訪問というものがあり、生徒たちが内川さんの家に取材にやって来たことがありました。そのころ、雅人くんの両親は諍いの真っ最中でしたが、その日ばかりは二人は生徒たちにこやかな笑顔を見せ、幼い彼も同席しました。

 さて生徒新聞にはどんな記事が掲載されたのでしょうか。雅人くんは全く覚えていませんが、きっと「先生のご主人も教師をしておられる仲良しの教師夫婦でした」なんてことが書いてあったに違いありません。そして「仲良しの教師夫婦」とその間に幸福そうな笑顔を見せる坊やが撮られた写真が載っていたことでしょう。



雅人くんは附属の生徒

  雅人くんは、幼稚園から小学校、中学校、高等学校と奈良の同一の国立大学の附属にずっと籍を置いていました。

  この大学の附属の校風は「自由・自主・自立」を謳っており、実際そのような校風の中で伸び伸びと育ち、社会に雄飛していった附属生が沢山おられることを雅人くんも知っており、そのことに彼自身が大いに誇りを感じています。

 でも雅人くんの場合、この附属の小学校内部進学制度によって同じ附属の中学校に進学したとき、これまで静かな小川に足を浸して楽しく遊んでいた児童が、突然競泳用プールに投げ込まれ、溺れかかって水泳が大嫌いになったようなものでした。

 雅人くんが大学の附属に通っていることを認識したのは、奈良市内の国立大学の正門近くの大豆山(まめやま)町から小学校の1年生になって同じ奈良市内の油留木(ゆるぎ)町に引っ越したときのことでした。それまで近所で一緒に遊んでいたたろうちゃん、よしちゃんたちは同じ幼稚園に通っていましたし、同じ年頃の子どもたちがどこに通っているかなんて考えたこともありませんでした。

 ところが油留木町に引っ越して、近くで遊んでいる雅人くんと同年代と思われる子どもたちは、小学校で全く見掛けたこともない子どもたちばかりでした。人見知りの激しい雅人くんは自分から近所の子どもたちに声も賭けられず、附属小学校で同級生とばかりばかり遊んでいました。そのときにはたと気が付いたのです。国立大学の附属小学校に通う子どもは世間では極めて少数派だということです。

 それでもまだ小学校時代は同級生に仲良しの友だちが複数いましたから良かったですが、小学校から内部進学制度を利用して同大学の附属中学校に進級したときには親しく声を交わす友だちが極端に減りました。周囲の同級生たちがみんな雅人くんより秀才ばかりに思われ(実際そうでしたが)、彼はすっかり萎縮してしまったのです。同大学附属高校に進学したときにはその傾向は一層強まりました。アップアップしながらなんとか泳いでいる状態だったのです。

 雅人くんは学校にも近所にも誰一人として親しく語り合う友人等はいない孤独で寂しい中高生活を送ったのです。その頃の雅人くんが一番悩んでいたのは自分自身の才能でした。大好きだった漫画で身を立てることなどとっくに諦めていました。油絵用のキャンバス、絵具、筆などを購入して試しに描いたりもしましたが、彼なりに満足できるものを完成することもできまんでした。ただ孤独と焦燥の日々が無駄に過ぎていくように思われました。
2016年12月23日





苦くて恥ずかしい思い出


 雅人くんが奈良市の油留木町に住んでいた小学校2年生の頃、一つのとっても苦くて恥ずかしい思い出があります。

 大学の附属小学校に通っていた雅人くんには油留木町の近所にただ一人も親しく遊ぶ友だちなどいませんでした。そんな雅人くんの家に隣町から同じ附属小学校の同級生の笹山恵ちゃんが遊びに来ました。それで雅人くんは恵ちゃんと自宅の門を入った玄関前の楠が一本生えている空き地でビー玉遊びを始めました。

 そのとき突然、家の近所の数人の男の子たちが門の中にどやどやと入ってきました。雅人君にとって彼らは以前一度も遊んだこともない名前も全く知らない不意の侵入者たちでした。

 不意の侵入者たちの来襲に驚いた雅人くんは、恵ちゃんをその場に遺したまま家に飛び込んだものです。でも流石にそんな自らの行為に恥ずかしくなって、雅人くんは玄関前の空き地にしばらくして戻りました。

 玄関前の空き地には幾つかのビー玉だけが転がっており、恵ちゃんの姿のみならず男の子たちの姿も見当たりませんでした。雅人くんはこのときふかく反省したのでした。こんな恥ずかしい真似は二度としないでおこうと。

 しかし、翌日小学校で顔を合わせた恵ちゃんに前日のことを謝った記憶などはありません。そんな彼は、その後も人生で何度も恥じ入るような行為を繰り返し行っては、自らの勇気のなさに反省だけはするのでした。うーん、そうですね、反省だけなら猿でも出来ますね。
2018年05月08日



母親は様々な可能性の提供者

 人の親はだれでも子どもの可能性を伸ばしたいものです。雅人くんは母親に対して、国立大学の附属の幼稚園、小学校、中学、高校に押し込んで彼の子ども時代を非常に限定的なものにしたと些か恨みに思っていましたが、しかしまた彼の母親が様々な分野の楽しさを提供し、いろいろな可能性を提供してくれたことにも感謝するのでした。

 雅人くんは幼いころから本を読むのが大好きでしたが、最初に読んだ本として記憶 されているのはやはり母親から購入してもらった講談社版世界名作全集に入っていたバーネットの『小公子』でした。物語を読む楽しさを知った彼は、近所の商店街にある豊住書店の書棚に並んでいる『宝島』 、『ロビンソン漂流記』、『ガリバ旅行記』等の物語を次々と購入していきました。

 また母親から多数の図版入りで出版されていたポプラ社の『日本の歴史』全12巻や『世界の歴史』全10巻も購入してもらいました。歴史上の有名な人物たちの活躍を中心に物語風に描いた子ども向け歴史シリーズで、雅人くんは歴史に対して大いに関心を持つようになりました。

 漫画を描くことは、彼自身が自然と好きになったのですが、母親からスケッチ帳とクレパスを与えられ、絵を自由に描くことの楽しさを知りました。京都や大阪で開催されたゴッホ展やフランス美術展等にも連れて行ってくれました。

 水槽に水草を浮かべ、金魚やメダカを飼う楽しさも味あわせてくれました。飼うと言えば、母親が職場に捨てられていた仔猫や仔犬を拾って来て雅人くんに与えましたが、これらの猫や犬たちを彼はとても可愛がり、特に犬は彼の孤独な附属の中高時代に大いに心を慰めてくれました。

 また母親は、家の庭で畑を耕し、ニンジン、カボチャ、サツマイモ、ナス等の野菜を植えて収穫する経験も与えてくれました。ヒマワリ、ダリア、ヤグルマソウ、キンセンカ等の花ばなを栽培して花開かせました。

 しかし母親が提供した可能性のなかには見事に空振りに終わったものもありました。安い給料をはたいてオルガンを購入してくれましたが、雅人くんは鍵盤をブーカ、ブーカと押しましたが、すぐにこの楽器に飽きてしまいました。まさに猫に小判だったのです。雅人くんはなぜか音楽には全く関心を示そうとはしま せんでした。

 全く関心を示さなかったものと言えば、母親が彼のために定期購読した誠文堂新光社から出版されている「子供の科学」という小中校生向け科学雑誌もそうでした。この雑誌は自然科学の解説や科学の実験、工作等が載っていましたが、彼はこの雑誌をほとんど読まず「積ん読」状態になってしまいました。

 全てが効果を挙げた訳ではありませんが、母親が雅人くんにこのように様々な可能性を提供しようとしてくれたことをいま回想し、母親の彼に対する深い愛情を身にしみて感じるのでした。

2018年09月28日



猫のシロと犬のクロ

 雅人くんが小学校低学年の頃に彼の母親が勤務先の学校から白い仔猫を紙箱に入れて持ち帰って来ました。校内に捨てられ、生徒たちがエサなどを与えて可愛いがっていたのですが、教頭先生が処理することになったと聞いた母親が可哀想に思って家で飼うことにしたのです。

 この白い仔猫を雅人くんはシロと名付けて可愛いがり始めましたが、この仔猫の元気さ、特にジャンプする飛翔力には驚かさせられました。雅人くんが紐などを使ってじゃらして、その紐の先端を彼の頭上近くに引き揚げたとき、なんとこの仔猫はピヨーンとジャンプして紐の先っぽにツメをかけてから飛び降りました。

 それからは照明器具のスイッチの紐を使ってのシロのジャンプの訓練を毎日行ない、その飛翔力はどんどん伸びていき、ついには仔猫の世界新記録を達成したとかしなかったとか、とにかくそのジャンプ力には驚かされました。

 シロは成長するにしたがい庭で狩りをはじめました。トカゲやカエル、ヘビの死骸を咥えてもちかえったときには雅人くんはビックリしましたが、シロがスズメに脚を忍ばせて近寄り、ジャンプ一番襲いかかって捕獲する様子を目の前で見たときには感激を覚えました。


 シロは1歳を過ぎると身体がでっぷりと太り始め、家の近所のボス的存在になったようで、道路の真ん中をのっしのっしと歩く姿を雅人くんは何度か目にしています。しかし、たけきものもついにはほろびぬ、と申します。いつしかシロの姿がどこにも見られなくなってしまいました。保健所の職員に捕獲されてしまったのか、狂暴な野良犬に噛み殺されてしまったのか、嗚呼、祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す、でございますね。

 雅人くんが小学校高学年の頃と思います、これまた雅人くんの母親が勤務先の学校から小さな黒い仔犬をケーキの小箱に入れて家に持ち帰って来ました。黒い仔犬は痩せ細っており、身体をブルブル震わせていました。栄養不足のためか身体の毛もあっちこっち抜け落ちており、なんとも貧相な仔犬でした。

 雅人くんはこの黒い仔犬にクロと言う名前を付けて大切に育てましたが、1年ほどしても身体はさほど大きく成りませんでした。どうやら豆柴との雑種のようですが、その賢さには驚かされました。いつも雅人くんの表情を確かめ、彼の意思通り忠実に動こうとしているようでした。お手、お座り、お待ちは勿論んのこと、小枝を目の前5センチほどの高さに握って飛べと声をかけ掛けますと、1回で飛び越えたのには感心させられました。

 ティッシュにいろんな臭いのものを擦り付け、複数のティッシュを並べた中からクロに嗅がせたものだけを探し出せと命じますと、これまた1回で咥えて持ってきたものです。どんな犬も嗅覚が優れていることはよく知られていますが、人間が嗅がせた臭いのものだけを選び出して持ってくるなんてことはそう簡単に出来るものではないと思いますよ。

 雅人くんが故郷の高校を卒業して仙台で一年間浪人生活を送った後、里帰りしました。そのとき雅人くんの母親がクロを連れて家の前で待っていてくれたのですが、遠方から雅人くんが母親とクロの姿を見つけ、「クロ」と大声を掛けましたら、クロが脱兎のごとく走り出して来て、彼の身体に飛び付き、何度も嬉しそうに繰り返し跳ね飛んでは彼の身体に抱き付きました。

 そんな賢くて可愛くて、雅人くんの孤独な中高時代に心を癒やしてくれたクロも彼が大学2年のときにフラリアに罹り、あっけなく病死してしまいました。



父親の転職と雅人くんの転校話

 あれは内川雅人くんが高校一年生三学期の頃のことだと思います。雅人くんの父親が家に帰って来てすぐに彼の母親に大きな声で言いました。
 
「今の勤務先の大学を辞めて民間会社に入らないかという話がある。給与はいまの倍になるし、専門も活かせる。」  
 
 当時、雅人くんの父親は奈良の学芸大学の教育学部職業学科で教えていました。父親の本来の専門は農業土木でスプリンクラーの研究をしていました。転職先の民間会社は畑地灌漑のためにスプリンクラーを販売施工する企業でし
 
 なお、この民間企業は大阪府茨木市にあるとのことで、いま住んでいる奈良市から通勤に五、六時間は掛かるとのことでした。この企業に父親が転職するためには、いまの住居は転居し、雅人君の母親はいまの職場を辞めねばならず、雅人くんも転校しなければなりません。

 身体の弱かった母親は自分の教師生活に疲れ切っており、共稼ぎ生活を辞めて自分が専業主婦になることを大喜びしました。では息子の雅人君は高校転校話が話題に上がったとき、どのように思ったでしょうか。悲しんだでしょうか、それとも喜んだでしょうか。そのとき雅人くんはなんともいえぬ解放感を味わいました。

 雅人くんは幼稚園から小学校、中学校、高等学校と同一の大学の附属にずっと籍を置いていましたから、とても息苦しい思いをしていました。それが別の府県の全く異なる高校に転籍できる可能性が生じたのですから、こんな嬉しいことはありません。

 なお、雅人くんが通った大学附属の進学の仕組みをちょっと説明しておきます。1973年から附属は中高一貫教育に移行し、附属幼稚園、小学校から附属中高への内部進学制度は廃止され、中学校への外部進学者のみの中高一貫校になりましたが、雅人くんが通っていた頃の附属中高は附属小学校から内部進学者と外部進学者が混在していました。他の小中からこの付属の中学やさらには高等学校へ外部進学することは非常に難関で、同高校は県下随一の進学校と評価されていました。

 しかし、内部進学者のなかには学力に些か疑問符が付く生徒もいたのです。そんな生徒の一人が雅人くんでした。小学校六年一学期末に雅人くんの母親が小学校から青ざめた顔をして家に帰ってきました。担任の先生から、このままでは附属中学校に進学できないと言われたのです。
 
  この附属小学校では、五年生までずっと児童たちに成績通知票を渡して公表するようなことはありませんでした。雅人くんの母親は学校の成績抜群の才媛でしたから、自分の息子も同様に成績優秀と思い込んでいたのですから、担任の先生の話を聞いてサーッと血の気が引いたそうです。その日から毎日ずっと母の雅人くんに対する特訓が開始され、なんとか彼を附属中学に押し込むことができました。

 母親の急遽の特訓の成果でなんとか附属中学に内部進学することができた雅人くんでしたが、附属中学では難関試験を乗り越えて外部進学してきた秀才たちと席を並べることになりました。これまで机に座ってじっくり勉強などしたことのない雅人くんでしたから、基礎学力が不足しており、継続して勉強する習慣もこれまでありません。親しい友だちも出来ず、息苦しい中高の附属生活を送ることになりました。

 秀才たちの集団に突然投げ込まれた競争させられた雅人くんの息苦しさは、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下で』の主人公が神学校の秀才たちとの競争のなかで精神を疲弊させていく心理に通じるものがあったようです。


 そんな雅人くの附属生活高校一年生末期になって、父親の転職に伴う一家引っ越しを理由にしての他高校への転学話が持ち上がったのですから、彼は大喜びしました。

 ところが残念、結局は一家引っ越しせず、雅人くんの転校話も立ち消えになってしまいました。彼の父親の転職しなかっのでしょうか。いえいえ、雅人くんの父親は大阪府茨木市の民間会社で働くことになりましたが、その会社の近くに家を借りて単身赴任することになったのです。

 なぜ雅人くん一家の引っ越し話は立ち消えになったのでしょうか。いま住んでいる家は内川家先祖伝来のものだからで、売ることはもちろん駄目で、他人に貸すことも難しいという理由でした。そんなことを突然言い出したのは雅人くんの母親でしたから、雅人くんは大変驚きました。夫と連れだって内川家の先祖の墓参りなどほとんどしたことのないような母親が「内川先祖の家を大切にしなければならない」なんて突然言い出したのですから、雅人くんは大いに首を傾げましたが、結局は父親だけが大阪府茨木市に新たに借りた家に単身赴任することになりました。

 いま雅人くんは思うのでした。なぜ彼はそのとき大声を上げて「もういまの高校生活には窒息しそうだ。他校に転校させてくれ」と言わなかったのでしょうか。いつも優柔不断な自分自身に恥じ入るばかりです。うん、そうですね、やはり附属のことですから、決断力がフゾクしていた、いやフソクしていたのは致し方なかったでしょうね。

 父親は転職して畑地灌漑のためにスプリンクラーの技術的な設計、施工をすることを主として考えていましたが、まだまだスプリンクラーが畑地には普及していませんでしたから、まず農家にパンフレットを持ち歩いて宣伝普及活動をしなければなりません。一軒一軒農家に頭を下げて廻っての営業活動は、これまで大学教員をしていた父親には大変苦痛なものだったようで、土日に奈良の家に帰ると雅人くんの母に「民間会社を辞めたい」と弱音を吐くようになりました。

 そんな父親の心を慰めたのが畠山みどりが唄ってヒットした「出世街道」(作詞:星野哲郎 作曲:市川昭介 )でした。レコード店で購入して来たこの歌謡曲の「やるぞみておれ、口にはださず」「男のぞみをつらぬく時にゃ、敵は百万、こちらは一人」「俺の墓場は、おいらがさがす、そうだその気でゆこうじゃないか」「泣くな怒るな、こらえてすてろ、明日も嵐が、待ってるものを」なんて歌詞部分を何度も口ずさんでいたものです。

 しかし雅人くんの父親は、民間会社に転職して3年も経たないうちにとうとう辞職してしまいました。雅人くんがちょうど大学に入学したばかりのときで、父親が無職だったので大学の事務で授業料免除、奨学金(日本育英会)貸与の申請手続きを行ったこを彼は鮮明に覚えています。

 しかしその後、父親は以前勤務していた大学から内地留学先でお世話になった教授の紹介で、島根の大学に新たに職を得ることができました。そんな父親のこの民間会社での体験が、雅人くんのその後の生き方に大きな影響を与えたものです。   
  2018年6月23日 

附属小学校から附属中学校への内部進学

桜咲く小学校の投票所
麗らかや授業参観ふたむかし

...

雅人さん夫妻は県議会選挙の投票日、久しぶりに投票所となった町内の小学校に出かけました。校内各所に桜の木が植えられており、春の日差しを浴びて薄ピンク色の花が満開状態でした。内川雅人さんは、父親として日曜日にこの小学校の授業参観に赴いたのはもうふた昔前のことになるなと懐かしく思いました。

授業参観と言えば、奈良女子大の附属小学校に通学していた内川雅人さんの子どもの頃は父兄参観日と名付けられ、彼の父親がいつも教室に顔を出していました。彼の母親は教師として平日は忙しく働いており、病弱ということもあり、日曜日には家で休んでいることが多く、 もっぱら父親が附属小学校の授業参観だけでなくPTA活動にも参加していました。

雅人くんのハンサムで社交的、陽気な彼の父親は、附属小学校のお母さんたちの間で非常な人気者だった様で、PTAの懇親会などでは中心的人物となって場を大いに盛り上げ、酔って顔を赤くして帰宅した父親は、その日の懇親会の模様をいつも機嫌よく楽しそうに語っていました。

そのように雅人くんの小学校時代のことはずっと父親任せだったのに、6年生の春の担任の先生との相談会には母親が珍しく出掛けて行きました。なぜこの時に父ではなく母が出掛けたのでしょうか。もしかしたら、雅人くんの母親への直接ご指名で呼び出されて附属の小学校に出かけて行ったのかもしれません。話の内容から考えて、父親に話しても埒が明かないと担任の先生は考えたのでしょうか。雅人くんに目を覚ましてもらうためには母親から直接キツく言わないと駄目だと思われたのかも知れませんね。

担任の先生は、「このままではお宅のお子さんの附属中学校への内部進学は無理かも知れませんよ」ときっぱり指摘されたのです。この附属小学校では、五年生までずっと児童たちに成績通知票を渡して公表するようなことはありませんでした。雅人くんの母親は学校の成績抜群の才媛でしたから、自分の息子も同様に成績優秀と思い込んでいたのですから、担任の先生の話を聞いてサーッと血の気が引いたそうです。その日から毎日ずっと母の雅人くんに対する特訓が開始され、なんとか彼を附属中学に押し込むことができました。

母親の急遽の特訓の成果でなんとか附属中学に内部進学することができた雅人くんでしたが、附属中学では難関試験を乗り越えて外部進学してきた秀才たちと席を並べることになりました。これまで机に座ってじっくり勉強などしたことのない雅人くんでしたから、基礎学力が不足しており、継続して勉強する習慣もこれまでありません。親しい友だちも出来ず、息苦しい中高の附属生活を送ることになりました。これまで、子ども用プールで楽しく遊んでいたのが、突然競技用プールに投げこまれ、優れた競技者とタイムを競うような毎日が始まったのです。 秀才たちの集団に突然投げ込まれ競争させられた雅人くんの息苦しさは、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下で』の主人公が神学校の秀才たちとの競争のなかで精神を疲弊させていく心理に通じるものがあったようです。

後、川柳を一首下記に載せておきます。
父赤く母青ざめマー黄色

   2019年4月12日


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放課後の春の驟雨の思い出

 菜種梅雨校舎の階下傘辞退
 春驟雨濡れそぼちつつペダル踏む.

 内川雅人くんは戦後の昭和に産まれ、昭和に育ち、昭和に学んで、昭和に就職した団塊世代の人間です。その雅人くんが高校生の頃の菜種梅雨の時期のなんとも哀しい思い出があります。

 放課後、二階の教室を降りて駐輪場に向かおうとすると、春の驟雨が突然降り出してきました。そのき、階段の下にいた同級生の橋川さんが用意してきた自分の傘を彼に差し出して「一緒に行かない」と言ってくれたのです。高校近くのバス停から一緒に帰ろうとの親切心から言ってくれたのでしょう。

 しかし雅人くんはなんと彼女の親切を即座に断わり、駐輪場に駆け出して雨の降る中をペダルを校門に向かって漕ぎ出だしたのです。そのとき、彼は彼女の親切心に素直になれない自分の心に非常な引っかかりを感じたものです。

 激しい驟雨の中、彼は奈良ホテルを右手に見ながら荒池沿いを濡れ鼠となって泥水を跳ね飛ばしながらペダルを漕ぎ漕ぎ自宅に向かったものです。この春雨の帰り途の思い出は、人の親切心に素直になれなかったその頃の雅人くんの心をずっと傷付け残り続けたものでした。

  2019年4月5日 



大学同級生との44年ぶりの再会

 ある日のことです。突然、内川さんの自宅に大学の同級生だった工藤君から電話が掛かって来ました。工藤君の話によると、彼は長年ずっと東京に勤務していたそうですが、数年前に鹿児島県に移り、大学の同窓会名簿で内川さんが鹿児島市内に居ることを知って電話を掛けて来てくれたのです。そんな工藤君と電話やメールで何度か連絡を取り合っているうちに、今度は鹿児島中央駅隣のアミュプラザ4F紀伊国屋書店でお昼に会いましょうということになりました。

 内川さんは退職後、外に出ることもめっきり少なくなり、しゃべると言えば妻や病院のお医者さん、看護師さんぐらいに限定されていたこともあり、人恋しさが募っていましたからイソイソ と出掛けていきました。

 待ち合わせを約束した紀伊国屋書店で声を掛けてくれたのは工藤君の方でした。久しぶり (1971年卒ですから44年ぶり)の再会であり、大学在学中の工藤君についの記憶は、外国人留学生 と得意の英会話で親しく交流している姿でした(後にもらったメールによると全国高校生対象の英語のコンテストで二位の賞状を貰ったとのこと。それが卒業後の仕事に役立っているようです)。いま目の前に立っている紳士を初めは別人かと思いましたが、じっと見つめると大学時代の工藤君の面影が全くないわけではありません。内川さんは思わず自然と「いゃー、立派な紳士になりましたねー」なんて言ったものです。工藤君は内川さんが運営するサイトに載っている現在の彼の写真を見ていたこともあり、先に気づいて声を掛けてくれたようです。
         
 同じアミュプラザ5Fのあるレストランで昼食を摂りましたが、大学の同級生ってこんなに気さくに自由に話し合えるものなんですかね。二人は2時間以上大いに語り合いましたが、工藤君が「聞き上手」なのでしょうか、話題は大学在学のことばかりでなく政治、文学等多岐にわたり、つい内川さんは在職時代に感じた少子化対策についての複雑な思いなども吐露してしまったものです。こんなことお医者さんや看護師さんに語れないですよね。

 学生時代、内川さんは一年浪人して受験した第一志望の大学に不合格となり、当時二期校で あった母校に入学することになったのです。予備校の模擬試験で一番成績が良かったのが英語の科目であり、母校となった大学の中国語学科の合格率が確実と判断されたことから受験したに過ぎません。

 内川さんは故郷の奈良市から近鉄奈良線に乗って上六(上本町6丁目)駅まで行き、その後如何 にも大阪の下町らしい猥雑な雰囲気の上本町8丁目の繁華街をテクテク歩いて幼稚園の門と間違うよう な大学の小さな門を入って学舎まで通いました。1年生の時は少人数クラスでの週3回ある語学学習にさんざん苦労させられ、10円ハゲができたほどです。適性など全く考えず、ただ大学受験の模擬試験の成績だけを考えての入学の結果、週3回ただひたすらピーチク、パーチクの中国語学習に当時は大いに悲哀を感じたものです。

 その少人数クラスの同級生の一人が工藤君だったのです。四国出身の工藤君と大学の少人数クラスの学友として席を並べたという縁も不思議なら、鹿児島県内ではおそらく数えるくらいしかいないであろう同大学の同窓生のそれも同級生として44年振りに再会できたことは非常な奇縁としか言いようがありません。内川さんはこの工藤君との奇縁をこれからも大切にしていきたいと思いました。 

 ところで、内川さんたちが学んだ上本町8丁目の校舎は箕面市移転に伴い取り壊され、さらに他の総合大学の一学部として統合され、大学名そのものがこの世から消滅してしまっています。
                          2015年9月13日


2018年10月08日

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