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28年前の上海短期留学
 私は1988年7月23日から8月15日の夏に中国の上海外国語学院で語学研修のための短期留学を行ってます。当時のことを日記に簡単にまとめているのを最近読み返しましたが、僅か28年前のことなのに、なんて歳月の隔たりを感じることかと驚いてしまいました。上海に短期留学した1988年という年は、その10年前の1978年12月に鄧小平が第11期3中全会で指導体制を確立し、文化大革命の終結宣言をして改革・開放政策を推進し始めた時期でした。今から振り返りますと、日本が変化した以上に中国が大きな変貌を遂げており、それはまるで外国人がチョンマゲ時代の江戸から西洋化と近代化が始まった明治への移り変わりを語るような変な感じなのです。いまは死語となって忘れ去られてしまった言葉である糧票、外貨兌換券、友誼商店、万元戸、郷鎮企業、自由市場等々の言葉の説明から開始する必要があるようなんですよ。

 さて、上海外語学院では、入学時に初級、中級、高級のクラス分けのための口頭試問があり、私は高級班に配属されました。これでも私は外国語学部中国語学科を卒業しており、高級班入りは当然と言えば当然なんですが、実際に高級班に属しての三週間の語学研修にはかなり苦労させられました。
   
 担当の先生は隔日交代で卜華礼先生と王麗先生でしたが、卜華礼先生はベテランのママさん教師で表現がとても分かりやすくゆっくりと語りかけられるので私でも助かりましたが、もう一人の王麗先生は花の26歳のお嬢さん先生で、彼女の早口の中国語には非常に苦労させられました。トンチンカンな回答をするたびに、そんなことも分かんないのとの表情が露骨に顔に出て、私の小さな胸は授業中痛みっぱなしでありました。しかしおいしい油条(ユウチャオ)をクラスのみんなに持って来られたり、彼とのラブロマンスを休み時間をオーバーして語ったりと個人としてはとてもチャーミングな小姐(シャオチエ)でありました。
 28年前の上海の短期留学では、友誼商店通いが欠かせませんでした。上海の夏は蒸し暑く、水道水は硬水で飲めず、友誼商店でミネラルウォーターやコカコーラを買うようになり、日本ではほとんど飲まなかったコカコーラの常用愛飲者になってしまいました。あっ、「友誼商店」とは外国との友情関係を深める商店という意味で、当時は大半の外国製品は友誼商店でしか入手できませんでした。

 友誼商店と言えば、同商店では外貨兌換券がないと外国製品を入手できません。しかし上海市民のなかにも友誼商店で良質の外国製品購入希望者が多くいたようで、外貨兌換券が路上で闇のレートで交換されていました。外貨兌換券というのは、一般の中国市民が使用する人民幣とは別に、外国人にのみ渡された兌換券で、外貨兌換券と人民幣の額面価値は等価とされましたが、外貨に両替可能なことや、人民幣では買えない外国製品が買えることなどから外貨兌換券に対する中国市民の人気が高く、人民幣との闇両替が横行し、闇両替のレートでは外貨兌換券1元が人民幣1.5元~1.8元程で交換されていました。街を歩くと路上で闇両替商のお兄さんに「換銭」「換銭」(ファンチェン、ファンチェン)とうるさくつきまとわれたものです。現在の日本での中国人旅行客の爆買いの下地がもうこの頃に存在していたのですね。
 糧票(配給切符)を持たない外国人でも、国営商店で外貨兌換券か人民元を使って買い物が出来たのですが、品質はお世辞にも高くなく、販売員の接客態度も「売ってやるからありがたく思え」という感じでした。当時、国営企業の従業員の悪弊として「鉄椀飯」 (企業倒産の心配がない)意識の強さが批判されていました。国営商店で日本へのお土産用に中国風凧を買うことにしましたが、販売員のレデイたちはおしゃべりに夢中で、紳士の私は彼女たちの話が終わるまでじっと黙って待ち続けたものです。

 しかしすでに街には自由市場が開設されており、近郊農村から販売に来ている農民たちは商売熱心で、カメラで撮影している私が日本人らしいと判断すると「はじめまして」「いらっしゃいませ」と日本語で愛想よく声を掛けてくれたものです。なお、農村部に従来存在した人民公社が1983年頃にはすっかり解体されており、農民は責任を負った以上の農産物やその加工製品を自由市場で販売することが許されるようになっていました。

 都市近郊の農村部には郷鎮企業(人民公社解体後に急増した農村企業の総称。人民公社の解体後、公社あるいは生産大隊が経営していた社隊企業は、中国農村の末端の行政単位である郷 や鎮が経営する集団所有の郷鎮企業として再出発しています)が雨後の竹の子のように数を増やし、主として農産物を加工して都市の自由市場で活発に販売するようになりました。

 8月11日には、上海市近況の嘉定県長征郷のアヒル肉の缶詰工場を見学することができましたが、同郷鎮企業では流
れ作業的にアヒルの首が切断されて缶詰化さていました。都市近況の農村の郷鎮企業等で莫大な利益を得た農村住民のことを、年間に一万元以上の収入のあ る農家と言う意味で「万元戸」と称し、彼らの建物はほとんどが二階建てや三階建てで、当時の上海の一般庶民の貧相な建物と比べて光り輝いているように感じました。

 私が上海に短期留学したのは1988年の夏のことでしたが、その翌年の1989年11月にはベルリンの壁崩壊という世界史的大事件が起こっています。しかし中国では1989年6月4 日に北京で天安門事件が起こり、学生たちの民主化運動は徹底的に弾圧され、中国の政治の民主化には急ブレーキが掛けられました。しかし、経済の改革・開放すなわち積極的な外資導入と市場経済化はさらに促進され、2010年には中国の国内総生産は日本を追い抜き、世界第2位の経済大国になっています。
2016年2月19日  
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