私の宮部みゆき論
宮部みゆき作品 大江戸お徒歩日記
『伊能図江戸府内図と2000年の東京』
(武揚堂、2003年3月)
生活地図サイトMapFan Web 
現在地との比較にご利用下さい
 
この「宮部みゆき作品 大江戸お徒歩日記」は、宮部みゆきの時代小説の舞台となった場所の写真が掲載されているHPを紹介するために設けたものであり、「宮部みゆき作品の舞台を散策する」の姉妹編になります。
 なお、このページを新たに作成することを思い付いたのは、宮部みゆきの時代短篇「砂村新田」に登場するお春の日本橋から砂村新田への帰り道を昔の江戸時代の地図で確認する作業をおこなったことからです。そのために、『伊能図江戸府内図と2000年の東京』(武揚堂、2003年3月)を参考にして、手書きの地図を作りました。この『伊能図江戸府内図と2000年の東京』は、 伊能忠敬が文化14年(1817年)の江戸府内を実測して地図化したものを精巧に再現したもので、透明シートに印刷し現代図が付録に付いており、江戸府内図の上に重ね合わせて比較することができます。
 この伊能忠敬の地図を基にして作成した手書きの地図は、他の霊験お初シリーズやぼんくらシリーズなどにも活かせそうです。昔の地図と見比べながら、宮部みゆきの時代小説の舞台となった場所をいろいろ楽しく散策できたらいいですね。
2005年2月11日


 でマークされた地名をクリックしますと、その地名の場所が舞台となった宮部作品とそれにする関連するホームページを紹介するコーナーに移動いたします。
 なお、六本木の芋洗坂も時代小説『日暮らし』の重要な舞台となっていますが、上の地図の圏外にありますので、この時代小説『日暮らし』に見る六本木の芋洗坂周辺の風景をクリックしてください


「砂村新田」の舞台となった八右衛門新田と小名木川
 
 下の文章は、砂村新田の地主の家に通い奉公している12歳のお春が、日本橋近くの薬種問屋に使い走りに行った帰り道、八右衛門新田あたりでひと息いきいれる場面です。
 深川へ入り、新高橋を渡り川沿いに歩いて、地元で八右衛門新田と呼ばれているあたりで、どうにも暑さに参ってしまってひと息いれた。砂村新田まではあと少しだ。道ばたの痩せた柿の木の木陰に入り、手ぬぐいで顔や首筋の汗を拭く。どこかで牛が眠そうなで鳴いており、道には乾ききった馬糞が落ちている。青々とした新田には、日を照り返す笠を被った人影が点々と散っている。お天道さまは今、お春の頭の真上にある。
「砂村新田」(『堪忍箱』、新人物往来社、1996年10月

  伊能忠敬の地図から判断しますに、八右衛門新田はいまの江東区扇橋2丁目から3丁目辺りで、砂村新田はいまの江東区南砂あたりになります。なお、お春の家は海辺大工町ですが、いまの江東区清澄2丁目あたりだと思います。
 おそらく、お春は日本橋から新大橋を経由して小名木川に架かっている新高橋を南に渡り、それから小名木川と交差する大横川に架かっている扇橋を東へ渡り、さらに小名木川沿いに真っ直ぐ東へと進み、八右衛門新田あたりで休憩したのでしょう。
 このときにお春は、見知らぬ男から、「おまえ、お春ちゃんか? お春ちゃんだな?」と声を掛けられるのです。
 この「砂村新田」は、私の大好きな時代短篇小説の一つですが、
NHK総合テレビの「茂七の事件簿3 ふしぎ草紙」シリーズで、この短篇を原作にした第5話「ならず者」2003年8月に放映されています
歌川広重「小奈木川五本まつ」
「HP用無料素材集」より転載

 右の浮世絵はソルマーレさん運営の「HP用無料素材集」の「浮世絵・絵画複写」のコーナーに掲載されていた初代歌川広重の「名所江戸百景」中の第九七景「小奈木川五本まつ」の浮世絵を転載させていただいたものです。
 「小奈木川」とはもちろん「小名木川」のことであり、徳川家康が行徳から江戸に塩を運搬するための水路として小名木四郎兵衛に開鑿を命じたといわれ、隅田川と中川を結ぶ水路として重要な役割を果たしました。
 人文社の『江戸切絵図で歩く広重の大江戸名所百景散歩』は、この浮世絵について、「小奈木川の中程の北側の川筋に同じ位の大きさの古い松が5本あり、五本松といった。ほかの松は枯れてしまい、九鬼家の屋敷にあった松だけが残って、蒼々とした木葉が邸内から道路を越えて小奈木川まで伸びていた。広重はその松とその下を通る行徳帰りの船を描いている」と解説しています。
 この小名木川の五本松は、いまの江東区猿江2丁目の小名木川橋際に生えていたそうです。明治の末に枯れてしまいましたが、1988年に復活しています。
 お春もきっと、日本橋からの帰り道、小名木川に架かっていた新高橋を南に渡った後、小名木川の対岸に青々と茂っている五本松を左手に眺めながら、 八右衛門新田の方に真っ直ぐに歩いていったことでしょうね。

MORGさん運営のHP「行徳雑学館」
「行徳船の通った路 」Part.2のページに小名木川沿岸の写真と解説掲載

 MORGさんが運営しておられるHP「行徳雑学館」は、「千葉県市川市行徳地区とその近隣地域の諸々の情報」を伝えることを目的にしたものですが、「気まま紀行」4に掲載された「行徳船の通った路 」Part.2のページには、小名木川クローバー橋から日本橋岸跡までをたどった記録が地図と写真入りで詳しく説明されています。MORGさんは、お春の帰り道とはちょうど逆方向に進んでおられるのですが、現在の小名木川とその周辺の様子を知るのにとても参考になると思います。
 なお、江戸時代の行徳は、西の赤穂、東の行徳といわれたくらい塩業の盛んな土地でした。江戸時代、行徳から江戸川、新川、小名木川のルートで江戸に東北・北関東の物資が大量に運び込まれており、小名木川の高橋周辺はそれらの物資の集散地として大いに栄えたそうです。深川と行徳とは密接な関係にあったんですね。そんな意味でも、HP「行徳雑学館」はとても興味深いものがあります。


『あかんべえ』の舞台となった海辺大工町の高橋のたもとのふね屋
 『あかんべえ』という物語は、海辺大工町の高橋のたもとのふね屋が舞台です。ふね屋は、高田屋で長年働いていた太一郎が独立して営むことになった料理屋ですが、太一郎が料理屋として最適な建物を探し出した経緯がつぎのように描かれています。
 
 こうして一年が経ち、一年半がすぎ、高田屋での太一郎の立場がなんだか宙ぶらりんなものになりつつあったころ、ふと転がるようにして、ひとつの話が舞い込んだ。小名木川ぞいの高橋のたもとに、元は料理屋だった建物が居抜きで貸し店に出されているというのである。にわかには信じがたいような話だったが、太一郎と七兵衛はすぐにもその町の差配人に会いに行った。そこは「海辺大工町」という町で、その昔は名前通りに大工職ばかりが住んでいたのだというが、今は、大工たちは細い掘割をはさんだ向こう側にあるただの「大工町」に移っていってしまい、ここは小さな商家が寄り添うように軒を連ねている。  
(中略)
 問題の建物は、海辺大工町の東端にある武家屋敷と、狭い掘割をはさむようにして並んで建っていた。この掘割は、建物の南側にも深く鈎型にまわりこんでおり、つまり、ちょうど豆腐のような長四角のこの建物の、東側の一辺と南側の一辺の三分の二ぐらいまでが、水に囲まれているのだった。
 建物の間口は六間、客用の座敷は二部屋あり、どちらも二階の南側で、広さは十畳。武家屋敷と隣り合う側の壁には窓がないが、南側の窓からは南の掘割を見おろすことができる。太一郎が手すりに手をかけてのぞいてみると、鏡のように平らな水面に、鴨が二、三羽のんびりとすべり、川鵜が潜ったり浮き上がったりしながら餌をとっていた。
『あかんべえ』(PHP研究所、2002.03.29)


人文社の『江戸東京散歩』掲載の「本所深川絵図」より作図

紅いもさん運営のHP「東京散策絵巻」 
江東区の「清澄」のページに清澄白河駅の写真が掲載
  『あかんべえ』の舞台となったふね屋は、海辺大工町の高橋のたもとに料理屋として開かれることになったのですが、上に紹介した文章中の「海辺大工町の東端にある武家屋敷と、狭い掘割をはさむようにして並んで建っていた」という記述から判断しますに、いまの江東区白河一丁目辺りで、都営大江戸線の清澄白河駅の近くではないかと推測されます。その清澄白河駅の写真が、「宮部みゆき作品の舞台を散策する」のページでいろいろお世話になった紅いもさん運営のHP「脱力系東京散策サイト」の江東区の「清澄」のページに載っていました。


『ぼんくら』の舞台となった鉄瓶長屋

  鉄瓶長屋は、小名木川と大横川が交わるところ、新高橋のたもとに近い深川北町の一角にある。北町は南北に細長く、鉄瓶長屋はそのなかでも南側、小名木川寄りに建っている大横川沿いにのびた表通りに面して、二階建て間口二間の三軒長屋が二棟、その南側、つまり新高橋にいちばん近いところに、行灯建ての二階家がひとつ。ここが差配人の住まいである。裏通りには、間口一間半の棟割りの十軒長屋が一棟。この裏長屋は、すぐ西側にある藤堂和泉守様の大きなお屋敷と背中合わせに建っており、お屋敷とのあいだには、小名木川から引き込まれた細い掘割が流れている。おかげで一年中何となくじめじめとした風が吹く。ただ、小名木川を行き来する物売りのうろうろ船が、この掘割まで入ってきてくれるという便利なところもあった。
 鉄瓶長屋というのは、もちろん通称である。この地所に今の形の長屋が建てられたのは、十年ほど前のことだ。できたばかりのころは北町長屋と呼ばれていたのだが、初めて裏長屋の共同井戸の汲みかえをやったとき、どういうわけか、大して深くもないその井戸の底から、赤く錆びた鉄瓶がふたつも出てきた。それ以来、鉄瓶長屋と呼ばれるようになったというのが由来である。
『ぼんくら』(講談社、2000年4月)
人文社の『江戸東京散歩』掲載の
「本所深川絵図」より作図

  上の文章は、『ぼんくら』で起こった事件の舞台となった鉄瓶長屋について解説しているものです。ただし、「新高橋のたもとに近い深川北町」という町は江戸時代には実在していませんでした。

 「鉄瓶長屋」という長屋は、おそらく江戸時代に実在した深川西町あたりを作者が所在場所としてイメージして作り上げた架空の長屋だと思います。なお、その深川西町はいまの江東区森下5丁目あたりだと推定されます。

 それで、「新高橋」等をキーワードにして関連のホームページを検索しておりましたら、鈴木さん運営のHP「東京散歩」の「小名木川(東深川橋〜新扇橋)」と、MORGさんのHP「行徳雑学館」の「行徳船の通った路 」Part.2のページのページがヒットいたしました。それで、どちらのHPにもリンクをはらせてもらいました。



鈴木さん運営の「東京散歩」
「小名木川(東深川橋〜新扇橋)」のページに新高橋とその周辺の写真、解説が掲載
 東京でお生まれになり、東京でお育ちになった鈴木さんが運営しておられる「東京散歩」には、鈴木さん御自身が撮られた東京の風景がたくさん載せられています。私は、特に「川・橋」の写真を大いに楽しませてもらいました。それらの橋の写真を拝見していますと、実際に橋から橋へと川沿いにのんびりと楽しく散策しているような気分になりました。

MORGさん運営のHP「行徳雑学館」
「行徳船の通った路 」Part.2のページに新高橋とその周辺の写真、解説が掲載
   MORGさんのHP「行徳雑学館」の「行徳船の通った路 」Part.2のページは、前掲の「砂村新田」の日本橋から砂村新田へのお春の帰り道でもリンクをはらせてもらいました。その同じページで、MORGさんは扇橋閘門の次に新高橋を紹介しておられます。


『初ものがたり』の謎の稲荷寿司の屋台が出ている深川富岡橋

 回向院の茂七親分は、手下の糸吉から「深川富岡橋のたもとに奇妙な屋台が出ている」との情報を伝えられます。ふりの客などもう通らない丑三ツごろまで「夜っぴて開けてる屋台」で、翌日の昼前にはもう商いを始めていると言うのです。茂七親分は、「富岡橋のあたりといったら、名高い富岡八幡さまを背中にしょっているうえに、近くには閻魔堂もある。一年中大勢の参詣客が訪れる場所として、屋台に限らず食い物商売にはうってつけのところだ」とは思いますが、真夜中過ぎまで開けているのは『解せないというより無謀なことである」と考えます。それで、探索がてらに稲荷寿司でも食べて腹の足しにするかと考えて、問題の屋台のところにやって来たのが下の文章です。

 近くまで来てみると、たしかに、真っ暗な富岡橋のあたりに、明かりがぽつりと灯っていた。淡い紅色の明かりだ。稲荷寿司の色に合わせているのだろうか。
 実際には、富岡橋のたもとではなかった。橋から北へちょっとあがって右に折れた横町のとっつきだ。
                    (中略)
 たいていの稲荷寿司売りは、屋台といっても屋根なしで、粗末な台の上に傘をかかげただけで商いをしているものだ。その場でつくって出すわけでもなく、つくり置きしたものを並べている。
 だが、この屋台は違った。ちゃんと板ぶきの屋根つきで、長い腰掛けもふたつ並んでいる。台の下で煮炊きできるようになっているのか、茂七が近づいてゆくと、そのあたりから真っ白な湯気があがるのが見えた。
      
『初ものがたり』(PHP研究所、1995年7月)


Kandaさん運営のHP「東京紅団」
司馬遼太郎の「本所深川散歩」のページに閻魔堂近くの富岡橋の解説が掲載

 Kandaさん運営の「東京紅団」は、主として作家関連の東京散歩レポートをおこなっているHPです。コンテンツが豊富で解説も詳しく、文学愛好者にはとても参考になります。
 『初ものがたり』では、謎の稲荷寿司の屋台は深川富岡橋近くで開いているという設定ですが、Kandaさんの「司馬遼太郎の『本所深川散歩』」によりますと、富岡橋の近くに法乗院の閻魔堂があったのでこの橋は通称「えんまどう橋」と呼ばれていたとのことです。しかし、その橋が架けられていた油掘川が埋め立てられるとともに取り壊されてしまったそうです。
 法乗院はいまの深川一丁目にあり、油堀川はいま首都高速9号深川線になっており、富岡橋は法乗院近くの首都高速9号深川線が門前仲町一丁目と深川一丁目とを横切るあたりにあったのでしょうね。
 なお、NHK総合テレビで2001年6月から9月にかけて放映された「茂七の事件簿 ふしぎ草紙」シリーズの第9話「神無月」で、この富岡橋近くに屋台を出していた謎の稲荷寿司屋の正体が明らかにされています。勿論、あくまでもTVドラマとしての設定ですから、原作者の宮部みゆきが彼の正体をどう考えていたのかは不明のままです。



霊験お初が姉と営む日本橋通町の「姉妹屋」


  日本橋通町は、江戸中のありとあらゆる品物の問屋街である。時節を限らず一年中、行き交う人がひきも切らない。
 そのにぎやかな人通りのなか、お客の切れ目に「姉妹屋」の店まわりを掃除し、打ち水をしながら、お初は軽く鼻歌を歌っていた。
 手桶の水はまだ冷たいが、ほうきを使うためにかがんだ背中やうなじにあたる日ざしは心地よい。温かな手で撫でられているようだ。
 お初のかたわらを、重そうな荷をしょった行商人やら、白粉のいい香りをさせた姐さんたちが通りすぎる。馬もいけば駕籠も通る。その間をぬって、使い走りか、前垂れにたすき掛けの商家の小僧さんが駆け抜ける。通りを彩る立看板や屋根看板も、春の光の下、色合いもいっそう美しい。
 お江戸はなんてきれいな町だこと。この町で生まれたあたしは幸せもんだこと。今さらのようにそんなことを思っているお初だった。
「迷い鳩」(『かまいたち』、新人物往来社、1992年1月)
 
上の文章は、16歳のお初が一膳飯屋「姉妹屋」の前を賑やかに行き交う人々を眺めながら、江戸の町に生まれた幸せをしみじみと噛みしめる場面を描いたものです。
 日本橋通町(とおりまち)とは、日本橋から京橋にかけての問屋街で、江戸時代、商業の中心地として栄えました。松尾芭蕉は、そんな日本橋通町を「げにや月間口千金の通り町」と詠んでいます。
 ところで、宮部みゆきは、創作活動を始めた早い段階から時代小説に取り組んでいたようで、縄田一男『大江戸ぶらり切絵図散歩』(PHP研究所、1995年5月)に掲載されている「ぶらっと、大江戸二人散歩」と題された縄田一男との対談でも、「習作の二本目が時代ものでしたから。ただ私の場合、いわゆる時代ものというよりは、ミステリーのなかの捕物帳という感じですが」と答えています。
 宮部みゆきは『かまいたち』の「あとがき」でも、「迷い鳩」「騒ぐ刀」の「このニ作も、原型となった初稿を仕上げたのは、それぞれ昭和六十一年、六十二年のことでした」と書いています。彼女が1983年5月から講談社フェーマススクール・エンタテイメント小説教室で受講を開始して3年ほど後に執筆されたものであることがわかりますね。この「迷い鳩」は、NHK総合テレビの「茂七の事件簿3 ふしぎ草紙」シリーズの第4話「迷い鳩」として2003年夏に放映されています。
 なお、つぎに紹介します『震える岩 霊験お初捕物控』(新人物往来社、93.09.30)の文章では、お初たちが日本橋通町のどの辺りで『姉妹屋」を営んでいたのか、より詳しく説明しています。「姉妹屋」は万町に開かれていたようですね。日本橋万町はいまの日本橋一丁目で、「日本橋一丁目ビルディング」(そのうち4階までが商業施設「コレド日本橋」)の建っている辺りです。ところで、ここは日本で最初の高層建築火災として社会を震撼させた白木屋百貨店の跡地であり、また1999年1月31日に閉店した東急百貨店日本橋店の跡地でもありますね。

 日本橋川沿いの日本橋から江戸橋まで、その北岸の本船町は魚河岸で、昼の九つごろまでは、毎日火事場のような騒ぎである。江戸の町なかを流通する魚は、お大名のお膳にのぼる一切れいくらの値がつくような高級品から、裏店の七輪で焼かれるいわしの一尾まで、すべてこの河岸を通ってゆく。軒を連ねる魚問屋、仲買、魚屋に集まる人たちは、お城の賄い方から棒手振りまで様々だが、大勢の人が集まるところに食い物商売が流行るのは世の常で、本船町の北側の長浜町安針町本小田原町の一帯のなかには、魚店や干物屋などに混じって、食い物屋が何軒も商いを張っている。むろん一謄飯屋も数多い。
 そういうなかに割り込んで、兄嫁が一膳飯屋を始めると言い出したときには、お初もずいぶん気をもんだものだった。それは六蔵も同じ思いだったようで、俺の縄張りってえこともあるんだからと、長浜町へ行くんだと言い張っていたおよしを口説き落とし、日本橋をこっちに渡った万町に店を開くことで落ち着いたときには、さすがにほっと息をついていた。最初のうち、気の短い魚河岸の連中が、悠長に橋を渡って飯を食いにきてくれるはずがないと、向っ腹をたてていたおよしも、もとが負けん気の強い人だから、店が立ちゆかなくなれば自分の恥と、いろいろと手を替え品を替え料理に工夫をこらして姉妹屋の名を広め、それがかえって幸いしたのか、このごろでは、短気が売り物のはずの魚河岸のお阿仁いさんたちが、縄のれんの外で列をつくって待っていることさえある。
『震える岩 霊験お初捕物控』(新人物往来社、1993年9月)



紅いもさん運営のHP「東京散策絵巻」 
「日本橋」のページに日本橋関連の記事と写真が掲載

  紅いもさん運営の「脱力系東京散策サイト」に、「中央区」の「日本橋」のページがありましたのでリンクをはらせてもらうことにしました。本当に紅いもさんは東京のいろんなところを撮影しておられますね。宮部作品のページをあれこれ繰って、舞台となった場所を調べたいと思いますと、その多くが紅いもさんのサイトに写真入で紹介されておられ、あらためて敬服しております。

東邦大学付属東邦高等学校国語科主催「東京『探見』・文学散歩」
「中央区編」の「日本橋」のページに日本橋関連の記事と写真が掲載 
 東邦大学付属東邦高等学校の「東京『探見』・文学散歩」も「宮部みゆき作品の舞台を散策する」のページでいろいろお世話になりました。その「東京『探見』・文学散歩」の「中央区編」の「日本橋周辺」のページがありましたのでリンクをはらせてもらうことにしました。なお、同ページの「日本橋東急百貨店跡の記事には白木屋百貨店、東急百貨店のことが書かれていますが、その跡地にはまだ「日本橋一丁目ビルディング」は建っていなかったようです。



『震える岩』のお初たちが富岡八幡宮の参拝後に向かった三間町
 
永代橋を佐賀町のほうへ降りて、さらに西へ。富岡八幡に参拝する人、帰る人たちの行き来するなかに混じって歩いてゆくと、捨て鐘三つに続いて、七ツ(午後四時)の鐘が聞こえてきた。富岡八幡宮は、お許しを得て、その境内で時の鐘をついている。ごく近く聞こえるのはそのためだ。
 
鐘の音で、右京之介ははっともの思いから覚めたらしい。お初は彼を一ノ鳥居のほうへと促した。
「お参りしていきましょう」
 
(中略)
 三十三間堂の脇を抜け、永居橋、亀久橋と渡って、平野町を右手に西へ戻る。海辺橋のところを右に折れて、町屋のなかをしばらく行くと右手に霊巌寺だ。さらに北へ進んで高橋を渡り、大きな道を 右に折れる。小笠原佐渡守のお屋敷の門前を通り過ぎ、細い路地を左に曲がる。その先が三間町だ。
『震える岩 霊験お初捕物控』(新人物往来社、1993年9月)
 
 上の文章は、お初と右京之介が出富岡八幡宮に参拝した後、死人憑きの騒ぎが起きた深川三間町の十間長屋にたどり着くまでの道のりを説明した文章です。
 『震える岩』の文章から判断しますに、日本橋の姉妹屋を出発したお初と右京之介は、海賊橋→霊巌橋→湊橋を経由して、永代橋の西のたもとで佐原野の串団子を食べ、それから永代橋→福島橋→門前仲町→富岡八幡宮への道をたどり、そこで参拝をしてからさらに三十三間堂→長居橋→亀久橋→霊巖寺→高橋→小笠原佐渡守門前→三間町へと歩いたようです。なお、深川三間町はいまの江東区森下二丁目辺りではないかと推測されます。なお、『あやし 〜怪〜』の短篇「時雨鬼」でお信が相談に出かけた桂庵(民間の職業斡旋業)も深川の三間町にありましたね。

富岡八幡宮
ソルマーレさん運営の「HP用無料素材集」


紅いもさん運営のHP「東京散策絵巻」 
江東区の「門前仲町」のページに富岡八幡宮とその周辺の写真が掲載


『本所深川ふしぎ草紙』に出てくる置いてけ堀

 その日の夕暮れどき、おしずはまた角太郎を抱いて、置いてけ堀へと足を向けた。
 あの夜と同じに、ささやき声のような音をたてて柳が揺れている。宵闇がゆっくりと堀のうえにたちこめ始め、おしずと角太郎を包み込んでいる。
 どこかでぽつんと、水のはねる音がした。
 おまえさん。
 腕のなかの子供をそっとゆすぶり、ほほえみかけながら、おしずは心のなかでつぶやいた。
 あたしはもう、怖がったりしません。
 柳の枝が、またさらさらと鳴った。堀の水面を渡る風が、おしずと角太郎の頬にふれて、静かに通りすぎていった。
「置いてけ堀」(『本所深川ふしぎ草紙』、新人物往来社、91.04.05)



吟醸さん運営のHP吟醸の館」「落語の舞台を歩く」
「落語『本所七不思議』の舞台を歩く」のページに置いてけ堀の現在地の写真が掲載

 吟醸さんのHPには、「落語の舞台を歩く」というコーナーがあり、落語の世界を実地検証されてそれをデジカメに撮影して紹介しておられ、落語ファンには楽しくて得難い情報が満載です。宮部みゆき作品の多くが深川とその周辺を舞台にしていますね。吟醸さんのこの「落語の舞台を歩く」のコーナーにも、第13話「富久」に富岡八幡宮、第21話「永代橋」と第57話「もう半分」に永代橋、そして第61話「探偵うどん」には小名木川に架かる高橋、第62話「おせつ徳三郎・下」(刀屋)」には仙台堀川、佐賀町、木場公園、第86話「ねずみ穴」には門前仲町などの話題や写真が載っているように、宮部みゆきファンとしても素晴らしいお宝を同コーナーでザックザック掘り出すことができそうです。ぜひみなさんも宝探しをしていただきたいと思います。

 それで、今回紹介いたしますのは、第45話の「落語『本所七不思議』の舞台を歩く」のページです。吟醸さんは、古今亭志ん生師匠の噺のマクラに出てくる「置いてけ堀」の所在地とされている2つの場所の写真を載せられるとともに、古地図から現在位置を考察され、それがいまの江東区立第三亀戸中学校の敷地に該当すると指摘しておられます。なお、この中学校の敷地は、江戸時代においては立川(竪川)と北十間川が交差する地点からいささか北東の方向にあった亀戸村あたりではないかと私は推定しています。

 ところで、宮部みゆきの『本所深川ふしぎ草紙』の第三話「置いてけ堀」は、NHK総合テレビの「茂七の事件簿 ふしぎ草紙」シリーズの第1話「置いてけ堀」としてTVドラマ化され、2001年6に放映されています




『ぼんくら』の井筒平四郎が住む八丁堀の組屋敷


 井筒平四郎の妻は、美形であることで知られている。
 もっとも平四郎本人は、「あれも若いころは美形だったんだが、今はだいぶ品下った」と思っている。
 細君も同心を父親に持ち、八丁堀の組屋敷で生まれ育った。ただ、父親同士はそれなりに交流があったらしいが、あちらは北町こちらは南町で、家同士の付き合いはなく、平四郎はいよいよ祝言というときまで彼女の顔を見ることはなかった。まあ、美形だという噂は聞いていたので悪い気はしなかったし、期待もしていたし、実際にもらってみて美人だったのでさらに気分はよかったのではあるけれど、いずれにしても昔の話だ。
 細君は三女である。上の姉二人もそれぞれに美形だ。いや、美形だった。長女は父の跡継ぎの婿をとり、次女は商家へ嫁いだ。従って平四郎には同じ八丁掘同心の義兄がひとりいることになるのだが、またまたこちらは南町あちらは北町、おまけに役向きが違うので、平素はほとん顔あわせることがない。どうやらこの人は算盤に強いらしく、ひたすら御番所にこもって帳面の類のあいだに鼻先を埋めるのが仕事となっているという噂である。そうやってタチの悪い高利貸しをとっちめたり、大名貸しでがぽがぽ儲けている大店(おおだな)の首筋に、時々冷や水を浴びせてたがを締めつけたりと、なかなか敏腕の人であるらしい。やっとうはすたれても金勘定はすたれることのないのが世の中だから、これからは案外この手の町方役人の方が名を残すかもしれぬと、平四郎は鼻毛を抜きながら感心することしきりである。
『ぼんくら』(講談社、2000年4月)

 上の文章は、八丁堀の組屋敷に住む同心・井筒平四郎の美形の細君とその二人の姉のことを紹介していますが、細君も平四郎と同じく同心を父親に持っているんですね。ですから、平四郎の細君とその姉たちも平四郎と同じく八丁堀の組屋敷で生まれ育っているのですね。そして、細君の一番上の姉は父の跡継ぎの婿を取っていますから、この平四郎の義兄も八丁堀の同心として組屋敷に住んでいるのでしょう。



中央区八丁堀二丁目東町会のHP「わが町・八丁堀」 
このHPで八丁堀の過去と現在が詳しく紹介されています


 私が八丁堀の同心のことを初めて知ったのは、おそらく嵐寛寿郎演じる映画「むっつり右門」だったと思います。ですから、私にとっては、八丁堀同心といえば嵐寛寿郎のむっつり右門であり、嵐寛寿郎のむっつり右門といえば八丁堀同心なんですが、八丁堀や同心のことについてはこれまであまり詳しく調べたことはありませんでした。
 宮部みゆきの『ぼんくら』の井筒平四郎も八丁堀の組屋敷に住む同心ですね。それで、これを機会に八丁堀や同地域の組屋敷に住む同心のことを調べようと思い、検索エンジンで調べ始めましたら、すぐに素晴らしいHPをヒットすることができました。それが中央区八丁堀二丁目東町会のHP「わが町・八丁堀」です。
 このHP「わが町・八丁堀」は、八丁堀を愛する中央区八丁堀二丁目東町会の人たちが、同会の設立50周年を記念して2001年3月に発刊した『わが町・八丁堀』のWeb版です。八丁堀の過去と現在が詳しく書かれており、ぜひ私のこのページからリンクをはらせていただきたいと思い、『わが町・八丁堀』の出版刊行版とウェブ版両方の編集制作に携われた巻渕彰さんにメールを差し上げましたところ、リンクを快く承諾して下さいました。また、同じく巻淵彰さんが制作された中央区郷土史同好会の「八丁堀周辺歴史案内」も八丁堀の歴史を知る上でとても参考になります。
 宮部みゆきの時代小説『ぼんくら』
の愛読者もこれらのHPからとても貴重な情報を得られると思いますので、ぜひご覧になっていただきたいと思います。



時代小説『日暮らし』に見る六本木の芋洗坂周辺の風景

このあたりも町屋の数は多い。うねるように上がったり下がったりする細い道に沿って、軒を連ねて立ち並んでいる。が、そのすぐ向こうには大きな薮があり、農地があり、武家屋敷の長い塀がめぐっていて、鎮守の森があり、その先がまた農地という具合で、平四郎が馴染んでいる本所深川や日本橋近辺の景色とはかなり違っている。家々の窓に灯る灯も、ひとところではたくさん寄り集まっており、少ないところでは夜明けの星のようにぽつんぽつんととびとびになり、降りてきたばかりの夜のとばりが、しいんとそこらを閉ざしている。
『日暮らし』下巻(講談社、05.01.01)
江戸時代の芋洗坂

 左の地図は江戸時代の芋洗坂ですが、武揚堂の『伊能図江戸府内図と2000年の東京』と人文社の『江戸東京散歩』掲載の「本所深川絵図」を参考にして作図したものです。
現在の芋洗坂

 右の地図は現在の芋洗坂ですが、六本木通りと外苑東通りが交差する六本木交差点が起点となっています。江戸時代の芋洗坂は現在よりもう少し東南の方向に寄った地点が起点となっていたようです。

 祖田浩一『江戸切絵図を読む』(東京堂出版)は芋洗坂の名前の由来について、この坂の左手に「朝日イナリ」があり、「ここで毎年秋になると近村から芋を背に乗せて運んで来て、『朝日イナリ』の前辺りで市を立てた。芋を洗って売ったのか、ともかく芋を商ったことに由来するようだ」としています。

 なお、「朝日イナリ」すなわち朝日稲荷は、以前は日ヶ窪稲荷と呼ばれていたそうですが、明和年間に朝日稲荷と改称され、さらに明治二十八(1895)年に朝日神社と改称され、いまも港区六本木6-7-14にあります。


紅いもさん運営のHP「東京散策絵巻」 
「六本木」のページ芋洗坂の写真が掲載
 紅いもさんの「脱力系東京散策サイト」の「六本木」のページには「芋洗坂」の写真とその紹介文が載っています。また、「東京散策記 ボツ写真集」には、あのトレンディでセレブなスポットとして人気の高い六本木ヒルズの工事現場の写真も掲載されていますよ。六本木ヒルズの写真はいろんなホームページで幾らでも見られるでしょうが、その工事写真はいまとなってはとても珍しいのではないでしょうか。

宮村霞さん運営のHP「麻布細見」
「芋洗坂」のページにこの坂の写真と説明が掲載
 宮村霞さん運営の「麻布細見」は、麻布の今昔についての情報を提供するサイトです。宮村霞さんにとって、麻布は子供の頃の懐かしい思い出がいっぱいある町だそうです。「麻布細見」は、そんな宮村霞さんの麻布の町への深い思いがこめられている素敵なサイトです。
 「坂で見る麻布」の「芋洗坂」のページには、この坂について地図と写真を添えて詳しい説明があり、とても参考になりました。なお、宮村霞さんが私宛てに寄せてくださったお返事によりますと、「芋洗坂の勾配は、麻布トンネルの道(環状3号線)と芋洗坂の道が交差する地点よりも、大幅に六本木交差点よりの地点で終わっています」とされ、宮村霞さんがご自身のHPに添えられている地図の「『芋洗坂』の文字の左のあたりで勾配はほとんど終わってしまっています」とのことです。

「宮部みゆき作品の舞台を散策する」

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