私の宮部みゆき論
宮部みゆき作品の舞台を散策する
宮部作品関連場所リンク集
 このページは、宮部みゆき作品の舞台となった場所の写真が掲載されているHPを紹介するために設けました。なお、ここに紹介するHP以外にも宮部作品関連の場所が撮影されている興味深いHPがございましたら、ぜひ紹介していただきたいと思います。また、宮部作品関連の場所を撮影された写真をお持ちの方もEメールの添付等で送っていただけたらありがたいと思います。他のページ同様にこのページも宮部作品ファンのみなさまと一緒に充実させていきたいと思っておりますので、ご協力をよろしくお願いいたします。
2005年1月4日
なお、このページの姉妹編として「宮部みゆき作品 大江戸お徒歩日記」も設けており、宮部みゆきの時代小説の舞台となった場所の写真が掲載されているHPを紹介しています。


『東京下町殺人暮色』に描かれた大川端リバーシティ21の超高層マンション

 二番目の橋の上にさしかかると、遠く夜空の向こうに、三角屋根の細長いビルの影がそびえたっているのが見えた。
 隅田川河口に建設中の『大川端リバーシティ21』にある超高層マンションである。夜間はウォーターフロントの象徴のように堂々としているこの建物も、夜の闇の中では、てっぺんに光っている赤いライトのせいもあって、下町を見下ろす巨大な監視塔のように見える。
『東京(ウォーター・フロント)殺人暮色』(光文社、90.04.25)
              光文社文庫は『東京下町殺人暮色』と改題

Shinshinさん運営のHP「NIGHT Windows 〜東京の夜景」
「隅田川周辺」より「永代橋11の写真を転載

 Shinshinさんは、運営する「NIGHT Windows 〜東京の夜景」に東京の夜景を撮った素晴らしい写真をたくさん載せておられ、Windows用の壁紙として提供して下さってます。掲載された写真の使用・加工はオールフリーとのことです。



「ドルシネアにようこそ」の舞台となった地下鉄六本木駅

 営団地下鉄日比谷線の六本木駅は、その頭上に広がる街の鬼っ子である。
 すすけたような壁と、コンクリートむき出しの通路。ホームの照明も、駅名の表示板や構内の広告を裏側から照らしている蛍光灯も、景気の悪い店のネオンのようにくすんでいる。ここでは階段の上と下とで、世界が違うのだ。
 篠原信治は、毎週金曜日の午後七時ちょうどに、この駅に降り立つ。いつも、安物のジャケットにジーンズ、スニーカーといういでたちである。
 駅と同じように、ぱっとしない。
 階段をのぼり、改札を抜ける。週末、華の金曜日を六本木で満喫しようという若者たちで、駅はそろそろ混み始めている。
 大半は若いサラリーマンか、OLたちだ。学生も多いかもしれない。彼らは着飾って、あるいは高級品を身につけて、足どりも軽く外へとあがっていく。
 「ここに地下鉄に乗ってやってくるようなヤツに用はないよ」という顔をしている街に、「ここに地下鉄なんかに乗ってやってくるわけないじゃない」という顔で乗り出していくのだ。
「ドルシネアにようこそ」(『返事はいらない』、実業之日本社、91.10.15)


地下鉄日比谷線の六本木駅周辺の夜景
Shinshinさん運営のHP「NIGHT Windows 〜東京の夜景」
「六本木ヒルズ」より東京シティビュー中の六本木14の写真を転載

 やまももは六本木の街に全く不案内なので、上掲の写真を撮影されたShinshinさんにお訊きしましたところ、「写真の真ん中の下部分、交差点が高速道路下にあるのがわかりますね。その交差点に人が大勢いるのもなんとなくわかると思います。これが六本木の交差点でこの近く(真下)に六本木駅があります」と説明して下さいました。
 
なお、 国内最大級の市街地再開発によって六本木ヒルズが2003年4月にオープンし、地下鉄日比谷線の六本木駅とコンコースによって直結され、また営団地下鉄は2004年4月から民営化されて東京地下鉄(愛称:東京メトロ)になるなど、地下鉄六本木駅とその周辺は宮部みゆきが「ドルシネアにようこそ」に描いた頃から大きく変貌しているようです。


東邦大学付属東邦高等学校国語科主催「東京『探見』・文学散歩」
「ドルシネアにようこそ」関連の記事と写真が「乃木坂から六本木」に掲載 
 東邦大学付属東邦高等学校では、高校生を対象にして、作家の旧居跡や作品の舞台になった場所などを案内する「東京探見・文学散歩」という企画が同校国語科主催で毎年いつも実施されているそうです。その企画の記録をHP化したのが「東京『探見』・文学散歩」のようです。
 同HPに掲載されている青山・麻布編「乃木坂から六本木」のページには、「地下鉄六本木駅と宮部みゆき」の記事と関連写真が載っており、とても興味深く拝見させてもらいました。またさらに、「向島・浅草編」の「曳舟から鳩の街」のページでは、なんと宮部みゆきが卒業した墨田川高校が写真入で紹介されていることが判り、宮部みゆき作品ファンとして大喜びしています。

 


 
『理由』に出てくる片倉ハウスの所在地である江東区の高橋
 『理由』に登場する石田直澄は、「ヴァンダール千住北ニューシティ」に住もうとして殺人事件に巻き込まれ、逃亡生活の果てに江東区高橋(たかばし)の簡易宿泊施設の片倉ハウスに逃げ込むことになります。その高橋の片倉ハウスのことが『理由』の冒頭につぎのように出てきます。
 東京都江東区高橋二丁目の警視庁深川警察署高橋第二交番に、同町二の三所在の簡易旅館「片倉ハウス」の長女片倉信子がやってきたのは、平成八年(一九九六年)九月三十日午後六時頃のことであった。 
 (中略)
 「片倉ハウス」は、この土地で、簡易宿泊施設としての長い歴史を持っている。糸問屋の奉公人あがりの創業者片倉宗郎が、馬喰町あたりに地方から衣料品の買い付けに訪れる商人たちのための宿として「片倉旅館」の看板をかかげたのは、明治の中頃のことである。その後、高橋周辺の地域の趨勢に呼応して「片倉ハウス」の在りようも少しずつ変わり、終戦後からこちらは、もっぱら労務者たちに安くて清潔な宿を提供する旅館という形に落ち着いて営業を続けてきた。
『理由』(朝日新聞社、98.06.01)
萬年橋から見た小名木川、前方は高橋
ソルマーレさん運営の「HP用無料素材集」
岸辺の風景 永代橋から東武線鉄橋まで」掲載の写真から転載



 なお、深川の高橋(たかばし)は、その町名の由来となった高橋が小名木川に架かっており、江戸開府以来、その周辺は小名木川を通って運ばれてくる東北、北関東の農産物の集散地として大いに栄え、明治になると、蒸気船の発着所が高橋の橋詰に設けられ、小名木川沿いに建設された東京紡績、日本製粉等の大工場の大量の材料、製品が搬入、搬出されるようになり、高橋の商店街は門前仲町をしのぐ非常な賑わいを見せたそうです。
 いま、その高橋商店街は田河水泡の漫画「のらくろ」で町おこしを企画し、商店街は「のらくろード」と名づけられ、町中が「のらくろ」で溢れ、再び活況を取り戻して来ているようです。

 
紅いもさん運営のHP「東京散策絵巻」 
「森下」のページ高橋の町の写真が掲載

 紅いもさん運営の「脱力系東京散策サイト」の「東京散策記」には、現在(2005年3月中旬)、「23区編」で84ヶ所、「30市町村編」では30ヶ所のスポットが素敵な写真と楽しい文章で紹介されています。
 江東区シリーズの「森下」のページには、森下の隣町の高橋(たかばし)の商店街風景なども紹介されています。 それから「中央区」シリーズでは、「月島」のページに隣町の佃の住吉神社の風景も載せておられるのですが、そこに超高層マンションも写っていました。この超高層マンションは『東京下町殺人暮色』に出てくる「大川端リバーシティ21」ではないでしょうか。その他にもいろいろ宮部みゆき関連の興味深いスポットを紅いもさんのサイトでご覧になることが出来ると思います。
新サイト名「東京散策絵巻」
新URL http://tokyo339.serio.jp/


『理由』の舞台となったヴァンダール千住北ニューシティのウエストタワー

『理由』の舞台となった「ヴァンダール千住北ニューシティ」のウエストタワーを眺めながら作中の人物である砂川里子が語った言葉
 
 あたしねえ、あの目のくらむような高いマンションの窓をね、下からこう、見上げて、思ったですよ。このなかに住んでる人たちって、そりやあお金持ちで、酒落てて、教養もあって、昔の日本人の感覚からしたら考えられないような生活をしてるんだろうなって。だけど、それはもしかしたらまやかしかもしれない。もちろん、現実にそういう映画のような人生をおくる日本人もいるんだろうし、それはそれでだんだん本当の本物になっていくんでしょう。だけど、日本ていう国全体がそこまでたどり着くまでのあいだには、まだまだ長い間、薄皮一枚はいだ下に昔の生活感が残ってるっていうような、危なっかしいお芝居を続けていくんじゃないですかね。核家族なんて言ってるけど、あたしのまわりの狭い世間のなかには、本当の核家族なんか一軒だってありやしません。みんな、歳とってきた親を引き取って同居したり、親の面倒をみに通ったり、子供が結婚して孫ができりや、今度は自分たちが自分たちの親のように早晩邪魔者扱いされるようになることに怯えたりしてるんです。そりやもう、いじましい話が山ほどありますよ。
 あのウエストタワーを見上げてるとき、なんですかね、あたし急にムラムラ腹が立ってきてね。なんか、あの内側に住み着く現実の卑しい人間のこととか何も考えないで、すうっと格好よく立ってるでしょう。あんなとこに住んだら、人間ダメになる。建物の格好よさに調子を合わせようとして、人間がおかしくなっちゃうって、そう思いました。
『理由』(朝日新聞社、98.06.01)
 
大腸亭さんの「宮部みゆき『理由』の舞台を歩く」
ヴァンダール千住北ニューシティのモデルとされる
アクロシティの写真が掲載
 「宮部みゆき『理由』の舞台を歩く」は、宮部みゆきの『理由』を読まれた方にはとても興味深い内容のページです。また大腸亭さんは、この文中でご自身の玉稿「宮部みゆき『理由』に見る都市の表象」のことを紹介しておられます。
     
http://www.tokoha.ac.jp/tandai/kiyou/2003/hirai.pdf ( PDF形式 )  
 
この論文もまた宮部作品のファンにぜひ読んでいただきたいと思います。特に、なぜ作者が小糸夫婦や石田直澄たちの「地位や富の幻想」を外化させたものとして北千住の「ヴァンダール千住北ニューシティ」という虚構の舞台を設定したのか、その点についてとても鋭い考察をしておられ、大いに啓発されるものがあります。



『今夜は眠れない』に出てくる臨海公園の水族園

 『今夜は眠れない』の主人公の緒方雅男君とその親友の島崎君は、東京湾に面した臨海公園の水族園でマダム・水族館(アクアリウム)と再会します。
 
 きらめく海に目をやりながら、島崎はゆっくり歩いていく。遠く、東京ディズニーランドのシンデレラ城が、陽光の下に、ちゃちなプラモデルみたいに見えるのをぼんやりながめながら、僕も肩を並べて歩いた。
 この前ここに来たのは、ちょうど一カ月前、七月十六日だった。
「きっと、来てる」
 長蛇の列のうしろについて、忍耐強く待ったあと、入場券を買いながら、島崎がつぶやいた。
「きっと来てる。確信があるんだ」
「そうだね。きっと、ね」
 僕らの勘は、僕らを裏切りはしなかった。大きなマグロの回遊槽の前に、大勢の見物客から少し離れ、まるで僕たちが来るのを知っていて待っていたというように、あの女(ひと)が立っていたのだ。
 今日もまた、黒いスーツ。真珠のブローチに、淡い紅色の口紅だ。そのくちびるが、僕と島崎を認めて、かすかに微笑んだ。
「また会えたわね、坊やたち」
 マダム・水族館(アクアリウム)だった。
『今夜は眠れない』(中央公論社、92.02.20)
 
ゆーりさん運営の「ゆーりの休日」
「葛西臨海公園〜水族館と都会の渚〜」のページに写真が掲載
  『今夜は眠れない』に出てくる臨海公園の水族園は、「遠く、東京ディズニーランドのシンデレラ城が、ちゃちなプラモデルみたいに見える」という記述などからも、明らかに葛西臨海公園の水族館のことだと思われます。それで、ゆーりさんが運営しておられる「ゆーりの休日」の「ある日のドライブコース」の「葛西臨海公園〜水族館と都会の渚〜」のページにリンクをはらせてもらいました。このHP「ゆーりの休日」には、旅がテーマのHP用素材集と写真素材集があり、また関東甲信越のドライブコースが写真で紹介されています。「葛西臨海公園〜水族館と都会の渚〜」のページにはゆーりさんが撮られた素敵な写真と懇切丁寧な案内文がありますので、きっと休日に水族館に出かけたような楽しい気分を味わえると思います。



『夢にも思わない』の虫聞きの会の舞台となった白河公園

 『夢にも思わない』の主人公の緒方雅男君たちは、海抜ゼロメートル地帯の下町に暮らしていますが、毎年九月末の土日の夕方に「白河公園」で風流な虫聞きの会が催されることをとても誇りに思っているようです。雅男君はその白河公園のことをつぎのように紹介しています。
 
 舞台となる都営の庭園公園は、通称「白河庭園」と呼ばれている。遠くさかのぼれば、江戸時代には大名家の下屋敷だったところで、それが明治になってある財界人に買いあげられ、第二次大戦後、財閥解体の際に東京都に寄付され、現在のような公共の庭園となったというものだ。入口で入観料百円を払って門をくぐり、ぶらぶら歩きで園内を一周すると、小一時間は優にかかるという広さ。 
 庭園全体のレイアウトは、江戸時代からほとんど変わっていない。松や銀杏、椿やつつじ、もみじや桜の木の緑も濃く、花や紅葉の盛りには庭全体が友禅の着物を着たようになる。庭園の中央には大きな瓢箪型の池があり、浮き島があり飛び石があり太鼓橋があり、浮き島の上には東屋(あずまや)、その昔書院造りの屋敷があった位置には、会合やパーティ、結婚披露宴などに使うことのできる瓦葺き日本建築のホールが建てられている。
『夢にも思わない』(中央公論社、95.06.07)
 
紅いもさん運営のHP「東京散策絵巻」 
「清澄」のページ清澄庭園の写真が掲載

 紅いもさん運営の「脱力系東京散策サイト」の江東区シリーズの「清澄」のページには清澄庭園が詳しく紹介されていますが、この庭園こそは『夢にも思わない』に出てくる「白河庭園」のモデルなんですね。角川文庫から出されている『大極宮』3に掲載されている「安寿の私的下町案内」で、宮部みゆき(安寿)はこの清澄公園を紹介し、「『夢にも思わない』(角川文庫)の舞台となった白河庭園はここをモデルにしています」と明言していますよ。ぜひ清澄庭園のページをご覧になって、小雨そぼ降る日に撮られた清澄庭園の美しい景観を楽しんでくださいね。



『蒲生邸事件』で孝志とふきが待ち合わせを約束した浅草の雷門

 『蒲生邸事件』において、平成四(1992年)年から二・二六事件当時(1936年)の東京にタイムトリップしていた孝史が現代に戻るとき、ふきに東京での再会を約束し、「ふきさんはどこを知ってるの?」と訊いています。そのとき、ふきは雷門の名前をあげ、楽しそうに両手を広げ、「大きな提灯がありますね? 上京してきてすぐに、口入屋さんで一緒になった女の子と遊びに行ったんです。ほんの短い時間でしたけど、にぎやかで楽しかった」と言っています。それで、二人は彼女の誕生日の4月20日に雷門で再会することを約束します。

 浅草の雷門は、平日でも人出の多い場所である。仲見世を歩く人たちの喧騒を背中に、孝史は門柱の前に立ち、落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせながらも、目がきょろきょろしてしまい、爪先が動いてしまい、髪をかきむしったり顔を拭ったり、シャツの襟が曲がっていないかどうか確かめたり、その合間に腕時計を見て秒針が動いているのを確かめたり、ありとあらゆることをしてしまい、「待つ」という行為を、これ以上ないほど下手くそにこなしていた。
                         (中略)
 十二時一分のときも二分のときも、三分のときも、腕時計を見ていた。四分のときは仲見世の方を向き、小さくて可愛いおばあさんがこの人混みを苦労して抜けてくるのではないかと首を伸ばしていた。十二時五分のときには、腕時計に耳をあてて音を確かめていた。

『蒲生邸事件』(毎日新聞社、96.10.10)

浅草の雷門
 Akiraさん運営のHP「東京発フリー写真素材集」
     「浅草寺(SENSOUJI)雷門」より雷門の写真を転載

 浅草のシンボルは雷門ですが、新潮社編『江戸東京物語』下町篇(新潮文庫,2002年1月)の「上野浅草界隈」の「浅草といえば雷門」という文章中につぎのような記述があります。

 
「この雷門は天慶五(五九二)年、今の駒形橋西端辺りに創建され、鎌倉時代に現在地に移ったと伝えられる。江戸時代には何度か火事に遭った。最初は寛永十九(一六四二)年で、七年後に再建されたが、明和四(一七六七)年、また焼失した。『四月九日、駒形町より出火、浅草寺風雪神門焼ける。二神像、金竜山の額は恙(つつが)なし』。『武江年表』の記録である。
 この火災から復興したのは寛政七(一七九五)年である。『武江年表』には『三月十八日より六十日、浅草観世音開帳、風雷神門再建成りて、三月十日二神を安置す』と書いている。
 幕末の慶応元(一八六五)年の年末、雷門はまたまた火事で焼けてしまう。十二月十二日夜、田原町一丁目から出た火事で、この火事は隅田川を飛び越えて本所、深川のあたりにまで広がったほどの大火事だった。
 それから再建成ったのは、昭和三十五年五月である。つまり、雷門は明治、大正、それに昭和の大半を通じて幻の存在で、町名に名を残すだけだった。幻を現実にと雷門を寄贈したのは松下幸之助で、工事は大成建設が行なった。鉄筋コンクリートで昔の姿そのままに復元した。雷門はもう火事と無縁であって欲しい。」


 以上の記述から判断しますと、幕末の慶応元(1865)年に焼けた雷門は、その後の95年間は町名に名を残すだけの存在で、昭和三十五(1960年)になってやっと再建されたことになります。そうしますと、二・二六事件(1936年)当時に雷門は再建されていませんでした。また、ふきの誕生日は4月20日で、彼女が昭和63(1988)年9月4日に書いた手紙には、「私は七十二歳になりました」と書いてありますから、1916年4月20日生まれのふきが初めて上京したときに浅草の雷門やそこに吊るされた大きな提灯を目にするなどということはあり得ないですね。

 なお、右に掲載した浮世絵は、ソルマーレさん運営の「HP用無料素材集」の「浮世絵・絵画複写」のコーナーに掲載されていた初代歌川広重の「名所江戸百景」中の第九九景「浅草金龍山」の浮世絵を転載させていただいたもので、浅草寺の風雷神門から正面に仁王門、右に五重塔を望んだものです。
 初代歌川広重の『名所江戸百景』は、安政3年から同5年(1856〜1858)にかけて描いたものだそうですから、広重によって描かれてからほぼ10年ぐらい後に雷門は火事で焼失したことになります。 
歌川広重「浅草金龍山」
「HP用無料素材集」より転載


東邦大学付属東邦高等学校国語科主催「東京『探見』・文学散歩」
「向島・浅草編」の「浅草寺あたり」のページに雷門についての記事と写真が掲載 
 雷門についてのふきの発言が史実に合わないことを指摘しているHPはないかと検索エンジンで調べましたら、東邦大学付属東邦高等学校国語科主催「東京『探見』・文学散歩」の「向島・浅草編」の「浅草寺あたり」のページで、昭和10年代には「雷門」は存在しておらず、ふきの「大きな提灯がありますね」というせりふには無理があることがすでに指摘されていました。さすがですね。大いに敬服いたしました。ところで、同ページには「盛り上がる場面だっただけに残念です。何か合理的な説明はできないでしょうか」とも書いてあります。

 うーん、困ってしまいますね。勿論、「合理的な説明」は無理だと思いますが、『蒲生邸事件』はSFですから、実はふきも時間旅行者だったということにすれば小説としての説明はつきますね。彼女は、江戸時代から戦前の昭和の時代にタイムトリップした時間旅行者で、平成四(1992年)年から二・二六事件当時(1936年)にタイムトリップして来た孝史と遭遇したという設定にすればいいわけですね。

 でも、話のつじつま合わせのために強引にそんな設定にしてしまったら、孝史とふきの別れと再会の約束の話は読者にほとんど感動を与えないでしょうね。しかし、火事、震災、戦災、再開発等々で変動の激しい東京を舞台にして小説を書くには、細心の注意を払う必要があるようですね。

 


ある宮部みゆき作品に描かれた旧大阪球場

 これが難波の街であり、旧大阪球場は地下鉄のあがりロから目と鼻の先に位置していた。周囲の雑居ビルと、それこそ軒をつらねるようにして野球場が存在しているのだ。
 装飾的にはまったく統一感を欠いた雑多な広告・看板に埋められたその外壁は、球場のそれのイメージと、一八〇度違っていた。どこにでもある、古びたビルの壁面のように見える。このなかで、プロの選手が実際にホームランを打っていたのだとは、ちょっと信じられないほどだ。
旧大阪球場が出てくる宮部作品の題名は何でしょうか?
宮部ファンを自認されるあなたなら勿論ご存知ですね。


むさしさん運営のHP「球場風土記」
「旧大阪球場」
旧大阪球場の写真が掲載
  やまももは子どもの頃、数回だけですが杉浦、野村、広瀬たちが活躍する大阪球場で野球観戦をしたことがあります。しかし、私の子ども時代の思い出の場所を紹介するためにむさしさん運営のHPにリンクをはったわけではありませんよ。それではどうしてと首をかしげる方も、もし野球がお好きでしたら、むさしさんのHPをぜひご覧になってくださいね。宮部作品のファンでなくてもとても興味深いHPです。
 なお、旧大阪球場の跡地に建設されたなんばパークスは、「大阪版六本木ヒルズ」といわれているそうですよ。嗚呼、あの難波(なんば)という猥雑な街もまた大きく変貌していくのでしょうね。『蒲生邸事件』の孝志とふきは、浅草の雷門で再会することを約束しましたが、ほな大阪の若者がもし数十年後に再会を約束するとき、どこで待ち合わせしたらええんやろか。ずっといつまでも変わらへん場所なんてあるんやろか。他人事ながら、なんやえらい心配になって来ましたがな。

「宮部みゆき作品 大江戸お徒歩日記
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