十人十席の噺家の高座  
笑福亭松鶴師匠の「らくだ」

 

笑福亭松鶴師匠の「らくだ」

  六代目笑福亭松鶴師匠(1918年8月17日~1986年9月5日)の十八番(おはこ)中の十八番と言われるのが「らくだ」ですが、それをビクターエンタテインメント株式会社から出されている「六代目笑福亭松鶴セレクト 二」というCD(1973年9月MBS第一スタジオで収録)で聴くことが出来ました。

 松鶴師匠はまず、「このお噺は大阪に 野漠(のばく)というところがございます。その野漠の長屋の出来事でございます」と噺の場所を説明してから、ガラッと野太い声に変えて、弥猛(やたけた)の熊五郎という男が野漠の長屋に住んでいる弟分のらくだのすまいに立ち寄ったときの様子を熊五郎のつぎのようなとても粗暴な言葉遣いで話し出します。

 「おう、らくだ、おはよう。けつからへん(居ない)のんかいな。なにさらしてけつかんねん。けつからへんと思うたら、ここにどぶさってけつかる(寝ている)。また、なんというどぶさりようをさらすねん、このガキは。えェ、わがうちやないかい。遠慮も気兼ねもないがな。座敷の真ん中でどぶされ、どぶさるんやったら。また器用などぶさりようをさらしてけつかるで。敷居枕に足を庭にほおりだしてどぶさってけつかる。おい! 卯之! らくだ! 起 きい! おっ、なんじゃい、どぶさっとると思うたら、ごねてけつかる(死んでいる)。枕元に鍋が掛かったるな。そこら魚の骨が散らばっとる。ははあ、ゆうべ日本橋で会うたらフグぶら下げて歩 いてけっかっとった。旬はずれのフグ食うたら危ないでと言うといたのに。フグ食ら いさらして、フグに当たってごねやがってんな。」


 熊五郎は、弟分のらくだは「身より頼りがない一 人もん」であり、死んだままで放っとくわけにいかない、何とかせめて葬礼(そおれん)の真似事ぐらいしてやりたいと考えますが、最近ずっと博打で負け続けて手許には一文もありません。どうしょうかと思案しているところに紙屑屋が通りかかりましたので、この紙屑屋を呼び止めて、彼を使って長屋の月番のところに行かせて香典を集めるように伝え、さらに長屋の家主(いえぬし)の家にも夜伽(よとぎ)のために上質の酒三升と大きなどんぶり鉢に入れた煮しめ三杯を届けるように伝えます。

 紙屑屋は、何をしでかすか分からないような熊五郎という男の恫喝を恐れ、彼の指示に唯唯諾諾と従い、長屋の月番からさらに長屋の家主のところに回ります。月番は紙屑屋の話から、熊五郎という凶暴な人物に逆らったら大変なことになりそうだと判断し、香典を集めることを約束しますが、家主は紙屑屋が伝える熊五郎の酒と煮しめを「持って来んかったら、死人のかんかん踊りを見てもらいます」という脅かしの言葉に屈せず、家賃を一文も払ったことのないようならくだにそんなものを持って行く義理はないと紙屑屋を追い払います。それを聞いた熊五郎は嫌がる紙屑屋にらくだの死体を背負わせて家主の家まで出かけ、これには家主も仰天して酒と煮しめを持っていくことを約束します。熊五郎はさらに紙屑屋に漬物屋に棺桶代わりに漬物桶を借りに行かせ、家主の家でのかんかん踊りの件を聞いた漬物屋も慌てて無料で漬物桶を提供します。

 「らくだ」という噺は、熊五郎という凶暴な男の脅かしを紙屑屋が長屋の月番、家主、漬物屋に伝えて回り、その過程を通じて死んだらくだという男がいかに乱暴者だったか、その死の知らせを聞いて長屋のみんなが悲しむどころか大喜びするようなで鼻つまみ者だったかということを明らかにしていきます。そして、そのようならくだに輪をかけたような凶暴な人物と思われる弥猛の熊五郎の脅かしに紙屑屋のみならず長屋の住人がつぎつぎと屈していく様子を松鶴師匠が見事な語り口で伝え、聴き手は滑稽で面白いくすぐりもほとんどないのにこの噺の中に自然にぐいぐいと引き込まれていきます。

 しかし、この噺の主役は死んだらくだでもなければその兄貴分の熊五郎でもありませんでした。なんと、おどおどした小心者でしかないと思われ、熊五郎の命じるままに彼の言葉を伝えて回るだけの脇役に甘んじていた紙屑屋が、この噺の後半で突然主役に躍り出て来るのです。

 香典と酒、煮しめをせしめた熊五郎は紙屑屋を慰労して酒を勧めます。はじめはまだ仕事があると辞退していた紙屑屋でしたが、半ば脅迫まがいの熊五郎の酒の勧めに一杯、二杯、三杯と呑み進むうちに酔いが回り、次第に饒舌となり、問わず語りに自分が昔は人を四、五人も使って道具屋を営んでいたこと、酒でその店を傾かせ、そのことを気に病んだ先妻が病死したこと、さらに勝負事(相場の取り引き)にも手も出して店を潰してしまったこと、いまは残された子どものために後妻をもらい紙屑屋をやっていることなどを話します。

 紙屑屋の様子から彼が酒乱だと気づき心配になった熊五郎が、「商いを済ませてまたここに帰って来てゆっくりやったらどないや」と提案したことに、紙屑屋は突然怒り出し、「なにぬかしてけっかっとんじゃ。商いを一日二日休んだからというて嬶(かか)や子どもに不自由をかけるようなことはせんわい」と啖呵を切り、「言うてすまんけどな、お前らみたいな羽生え(はばい)のない人間と一緒にすな!!」と怒鳴ります。

 すっかり気圧されてしまった熊五郎は立ち上がって紙屑屋の周りをウロチョロ歩き出します。紙屑屋から何をしているのかと聞かれ、死んだらくだの頭を剃刀で剃ろうと思っていると答えますと、なんと紙屑屋がらくだの髪の毛を乱暴にむしり取り始めます。

 酒を呑んで勢いづく紙屑屋に熊五郎はたじたじとなり、すっかり主客転倒し、紙屑屋のリードで両者の酒盛りは続けられ、あるだけの酒をすっかり呑み尽くした後にはさらに香典の金も使って酒を呑み続けます。すっかり酩酊した紙屑屋は、今晩中に漬物桶に放り込んだらくだの死体を二人で火屋(ひや)と呼ばれ焼き場に棒で担いで持っていこうと提案します。

 外に出ると、周囲の長屋の住人は家の戸を閉め切って寝たふりをしているようです。紙屑屋は長屋の住人への当てつけに大声で「葬礼(そおれん)や、そおれんや、らくだのそおれんや」とどなりながら熊五郎に前棒を自分は後棒を担いで長屋を出て行きます。私にはこの紙屑屋の大声は、熊五郎の恫喝に簡単に屈した長屋の住人達への紙屑屋の罵声であり、また熊五郎というヤクザ者を精神的に圧倒し従属させたことへの勝利の雄たけびのようにも聞こえ、一種奇妙なカタルシスを感じたものです。

 このお噺、最後は、火屋(ひや)と呼ばれ焼き場に二人で運んで行く途中で桶の底が抜けて死骸を道端で落としてしまい、そのことに気づいた二人は、間違ってらくだの死骸の代わりに道端で酔っぱらって眠っていた願人坊主(がんにんぼうず)を桶に押し込んで火屋に持ち込みます。焼かれそうになった願人坊主が余りの熱さに酔いから醒め、焼き場の人間に所在を訊き、そこが火屋(ひや)だと聞いて、「冷やでもええさかい、もう一杯くれ」と落としています。

紙屑屋と熊五郎の立場の逆転について

 ところで笑福亭松鶴師匠の「らくだ」を聞いた後、とても気になりだしたことがあります。それは、初めは熊五郎に対して「親方」と呼んで卑屈に従属し、唯々諾々と彼の指示に従っていた紙屑屋が、熊五郎に酒を強要されて呑み続けるうちに、なぜ立場を逆転させて熊五郎を従属させるようになったのかということです。

 えっ、酒乱の気のある紙屑屋が酒に呑まれて正しい状況判断が出来なくなったのだろうですって。うーん、それは、ちょっと違(ちゃ)うのとちゃいまっか。人間は酩酊すると心の奥底に隠し持った思いを口に出し、普段やりたいと思いながらも抑制していることを実際にやってしまうものですからね。

 なお、「らくだ」という噺での紙屑屋と熊五郎の立場の逆転劇は、紙屑屋が酒に酔い始めて饒舌となり、問わず語りに自分が昔は人を四、五人も使って道具屋を営んでいたこと、酒でその店を傾かせ、そのことを気に病んだ先妻が病死したこと、さらに勝負事(相場の取り引き)にも手も出して店を潰してしまったこと、いまは残された子どものために後妻をもらい紙屑屋をやっていることなどを話し終わった後に始まります。どうも立場の逆転劇に紙屑屋自身による過去の回想話が重要な意味を持っているようです。

 そのことは、戸田学『六世笑福亭松鶴はなし』(岩波書店、2004年7月)第六章に載っている松鶴師匠と越智治雄との「落語の芸─笑福亭松鶴に聞く(二)」と題された対談を読んで確信させられました。この対談で、松鶴師匠が「らくだ」のネタおろしする前に書いたメモ書きが越智治雄によって紹介されています。そのメモ書きによると、紙屑屋の性格については、「酒と博打で身をすったのは嘘。酒だけ。嫌になっている。最初の一声から描き方を変える」とか「今迄の、初め愛想笑いをしていて、最後にやくざのようになるのは演出の誤り。─暗い感じ、重い口、上品なところのある言葉」とあり、松鶴師匠は以前に書いたそのメモ書きを見せられて、「らくだ」に対する師匠独自の演出について雄弁に語り始めます。そして、紙屑屋の元の商売についての師匠の工夫とこだわりをつぎのように語っています。

「紙屑屋てな商売はね、べつに紙屋がしくじったさかい紙屑屋になるのは、これは嘘やと思うてね。それで骨董屋にしたんだ。古道具屋でもええんだんな。そやけどやっぱし、『大したことおへん、ちょっとした骨董品屋やってまして』─と、『古道具屋』では具合悪い。『古道具屋』でも、なんや道具屋というとね、夜店に出てくる道具屋もやっぱし道具屋でっさかいね。古道具屋と道具屋と、また違うんですけどね。総体にいま道具屋はんいうのは、みな骨董品屋になってんのと違いまっか。そやさかい骨董品屋がいちばんよかろうと思て……。」
「まあ先輩の名前出して悪いんですが、文団治師匠
(四代目桂文団治師匠のことと推測)なんかのは始めから紙屑屋ですさかいね。もとええとこの旦那が紙屑屋になったんやなしに。それはなるべく避けたいと思て、もとはやっばしちょっとした商人(あきんど)はんやってんけど、いまは紙屑屋やっているなあというとこを、ちょっとでも出したいと思てね。」

 なぜ松鶴師匠は紙屑屋の元の商売にそんなにこだわったのでしょうか。私が想像するに、松鶴師匠は紙屑屋の心の奥に「もとはいっぱしの商人(あきんど)だった」という誇りを持たせ、それを酒の力を借りて外に吐き出させるとともに、他人(ひと)を恐喝して渡世を送っているようなヤクザ者のらくだや熊五郎たちへの軽蔑と怒りを熊五郎の「商いを済ませてまたここに帰って来てゆっくりやったらどないや」という言葉で爆発させ、「なにぬかしてけっかっとんじゃ。商いを一日二日休んだからというて嬶(かか)や子どもに不自由をかけるようなことはせんわい」と啖呵を切らせ、一度は店を潰したとはいえ、いままた真っ当な生業(なりわい)を営んでいる堅気の人間として紙屑屋に「言うてすまんけどな、お前らみたいな羽生え(はばい)のない人間と一緒にすな!!」と怒鳴らせたのだと思います。

ラクダとかんかん踊りについて

 「らくだ」という噺は、江戸の文政年間に話題となったラクダの見世物とかんかん踊り(看々踊)の流行と密接な関連があるようです。

 川添裕「『らくだ』の居る場所」(延広真治・山本進・川添裕編集『落語の愉しみ』、岩波書店、2003年6月)によると、ヒトコブラクダ二頭が1821年(文政4年)にオランダ船で長崎に舶来し、1823年(文政6年)に長崎商人仲間に売り渡されて興行にかけられるようになり、大坂では同年夏に、江戸では翌1824年(文政7年)から見世物となったそ うで、「大坂では『一時都下人これを口にせざるもの無し』(阿部温『良山堂茶話』)といった状況が生まれ、江戸でもまた『駱駝といえる怪獣』が『東武中一円の評判なれば、朝より暮にいたるまで見物の人山をなし』、その結果、観客が日に五千人をこえる日もあったと記録されている(十方庵敬順『遊歴雑記』国立公文書館内閣文庫蔵写本) 」とし、「ラクダの見世物は初期に限定しても、京をふくむ上方では二カ月強の、江戸では半年近いロングラン興行であり、しかもその後、一〇年以上にわたって日本全国を旅巡業して各地で話題となった。したがって筆者が把握するかぎり、このラクダの見世物こそ、総動員数では江戸時代最大の見世物であり、数ある見世物のひとつにラクダの見世物があるわけではなく、ことに大坂や江戸においては、万人周知の『社会的事件』としてラクダの到来はあったという認識が必要である。これは日本人とラクダの人獣交渉史上における最大のエポックメーキングな出来事といってもよく、むろん、こうしたありようが落語『らくだ』の成立に深くかかわっている」としています。

 なお同論文によりますと、「当時の資料ではよく、ラクダを『駱駝といううま』『らくだのむま』などと呼び、このいい方は本草書や博物書の正式名称とも共通で、実際には一〇世紀の和名抄』以来の伝統をもつ。つまり『らくだの馬』とはたんにラクダの意にすぎないのだが、後世、『らくだの馬』という呼び方に不自然を感じるようになると、本名を馬と申しまして』(八代目可楽)とか、『本名は馬さん』(志ん生)とか、『本来は馬さんという。馬太郎とか馬吉とかいうんでしょうが』(円生)といった、一見、合理的な説明が付加されたのだろう(なお、大坂落語では『卯之助』の名を用いた」としています。それで松鶴師匠の「らくだ」でも、弥猛の熊五郎がラクダの住む野漠の長屋に立ち寄ったとき、らくだの死体を見て「おい! 卯之! らくだ! 起 きい!」と呼びかけたのですね。

 川添裕の同論文はさらに「かんかんのう」のことも紹介し、同じく文政期に流行した見世物だったとし、「これは元来、明清楽の『九連環』から派生した和製の俗謡であり、見世物としては、『かんかんのう、きゅうれんす……』というその中国語もどきの歌に合わせて一団で踊ったもので、それを看々踊(かんかんおどり)、またときに唐人踊、鉄鼓踊ともいった」とし、長崎から上った芸人一座が、1820年(文政3年)に大坂、名古屋、江戸で次々と興行し評判となり、その後も場所を変えながら2年近く興行が続いて大ブームとなったとしています。

 この「かんかんのう」については、松鶴師匠の噺では弥猛の熊五郎が長屋の家主に「死人のかんかん踊りを見てもらいます」と脅かしてはいますが、実際には熊五郎に命じられた紙屑屋が家主の家にらくだの死体を運び入れようとしただけで家主が仰天し、残念ながら(?)この踊りは実演されません。それで、「立川談志 プレミアム・ベスト落語CD集」に入っている立川談志師匠の「らくだ」(平成12年3月9日に国立劇場演芸場で開かれた『談志ひとり会』で収録)で聴いてみましたら、大家の家で屑屋が大声で「かんかんのう きゅうのれす、きゅうはきゅう……」と唄い出します。しかし、それに驚いた大屋が大慌てでストップを掛けてしまったので、これまた残念ながら全歌詞を聴くことはできませんでした。

 それで矢野誠一『落語歳時記』(文春文庫、1995年2月)で「かんかん踊り」のことにあらためて調べてみましたら、「『カンカン踊り』は、長崎から唐人が伝えたとかいわれるが、文化・文政時分にはかなり流行したものらしい」とし、原詞とされるものは「かんかんのうきうのれす きうはきうれんす きうはきうれんれん さんしよならゑ さアいほう にイくわんさん いつぴんたいたい やアあんろ めんこがこかくて しいくわんさん もゑもんとハヱ ぴいほうひいほう」と紹介し、『長崎名勝図絵』の稿本には、「看々兮賜奴九連環 九九連環 雙手拿来解不解 拿把刀児割 割不断了 也々呦」とあると書いてありました。

 ついでに池田勇編『新装版 江戸語大辞典』(講談社 2003年4月)で「かんかんのう」について調べましたら、「【看々のう】①唐人唄の一。清(しん)の俗謡。九連環(きゅうれんかん)から出た唄。文政三年、大坂・名古屋・江戸でその唄と共に興行され、大流行となり、明治初期まで行われた。原歌は小児の玩具知恵の輪をうたったものにすぎないが、清音不通のためわいせつな唄と誤解された。替唄が多い」としています。 

 この「原歌は小児の玩具知恵の輪をうたったものにすぎない」との解説から、前掲の矢野誠一『落語歳時記』に紹介されている『長崎名勝図絵』の稿本の「看々兮賜奴九連環 九九連環 雙手拿来解不解 拿把刀児割 割不断了 也々呦」の意味が大よそ推測がつきます。「ちょっと見て、私がもらった九連環。九は九つに連なった輪のことよ。両手で引っ張ったら外せるかい。刃物で断ち切ろうととしても切れないよ」といった意味ではないでしようか。

 

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