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十人十席の噺家の高座  
桂枝雀師匠の「貧乏神」

 

桂枝雀師匠の「貧乏神」

 私は団塊世代の人間で、哀しいときや寂しいときに昔の演歌を口ずさむことがあります。例えば美空ひばりの「越後獅子の唄」などで、自然と「笛にうかれて/逆立ちすれば/山が見えます/ふるさとの/わたしゃ孤児(みなしご)/街道ぐらし」(作詞:西条八十、作曲:万城目正)なんて歌ったりするんですよ。私は孤児でもありませんし、流れ流れの旅暮らしをしたわけでもないのに、この歌の主人公の哀しい身の上に自分自身を重ねて独りそっと歌ったりするんですね。

 演歌の世界の主人公たちの多くがいまは日陰の存在として辛い生活にじっと耐え忍んでいるようです。エリートコースまっしぐら、重要な仕事を任されてエネルギッシュに毎日いつも多忙な生活を送っているなんて人物は出てこないようです。しかし、もしかしたら日常生活ではそのような多忙な生活を送っている真面目人間のなかにも、仕事帰りの赤提灯的な時間に「越後獅子の唄」的世界に身を置いて歌う人がいるかもしれませんね。

 落語世界の登場人物たちも演歌の世界以上に頼りなく情けない人物たちのオンパレードなんですが、ただ落語世界の彼らは自分の身の不運を愚痴ったり嘆いたりはせず、あっけらかんと現在の情況を受け入れ、この憂き世を浮世として楽しんでいるようで、私はそんな愚かで駄目人間的な姿にもまた不思議と励まされるんですね。

 桂枝雀の「貧乏神」(「枝雀落語大全」第三十四集、小佐田定雄原作)の主人公の男もこれ以上ない、いやこれ以下はまずおらへんやろという駄目男で、外で働きもせず家にいて怠惰な生活を毎日送っており、そんな男にあきれはてて逃げ出した嫁さんも「三遍や四遍やおまへんでえ」と本人が自慢するほどです(そんなこと自慢してどないすんねん!)。

 こんな駄目男でも日々の生活にお金はもちろん必要ですよね。彼はどのようにして生活費を「稼いでいる」のかと申しますと、あちらこちらで二十五銭という半端な数のお金を借りまくるのだそうです。彼に言わせると、まともな人間なら「この間の二十五銭、どうなってますか」などと催促などはしないだろうというのがつけめだとのことで、こんな情けないやり方でなんとかやっと身過ぎをして来たのです。

 この駄目男に貧乏神が取り憑きます。ところが男は初対面の貧乏神にも「二十五銭、貸してくれる?」と言うありさまで、あきれた貧乏神が「もう少しまじめに働け」と諭しだします。しかし、そんなことを言われて心を改めるような男ではありません。貧乏神も取り憑いた男から養分を吸い取ることもできず、このままだと共倒れになると危機感を抱き、男に質屋から仕事道具を取り出すための金を貸し、自分自身は爪楊枝(つまようじ)削りの内職や近所から洗濯物を預かって水洗いの仕事をしたり始めます。

 しかし、男が貧乏神の持ってきた頭陀袋(ずだぶくろ)からお金をちょろまかしたことを知り、「これではあかん」とついに男の家から出ていくことを決心します。しかし、そのときの貧乏神の別れの言葉がなんとも哀しいのです。「わいがそばにいたらお前のためにならん。心を鬼にして出ていくけど、体気をつけやあ。もう世話するもんないねんさかいなあ」。


桂枝雀師匠の「緊張の緩和」論

 ところで、枝雀師匠といえば、笑いの根本に「緊張の緩和」があるという卓説を論じていたことを忘れてはなりませんね。枝雀師匠は、『らくごDE枝雀』(ちくま文庫、1993年10月)掲載の小佐田定雄氏との「まずは緊張の緩和から」と題した対談で、笑いの「根本的なものは何か」を考察してつぎのような結論に達したとしています。

 で、何やかんや言うても、いちばんの根本は人間の身体がどういう状態になったら「笑う」という状況になるのか――、いわゆる生理的なもんがいちばんの根本やという結論に達したんですわ。(中略)すなわち「緊張の緩和」がすべての根本なんですわ。はじめグーッと息を詰めててパーッとはき出す。グーッが「緊張」でパーッが「緩和」です。「笑い」の元祖ちゅうことンなると、我々の祖先が大昔にマンモスと戦うてそれを仕留める。戦うてる時はエラ緊張でっさかい息を詰めてる。けど、マンモスがドターッと倒れたら息をワーッとはき出して、それが喜びの「笑い」になったんや……とねェ。

 人間の笑いがマンモスとの戦いの頃から始まったとする説はいささか疑問ですが、笑いの根本が「緊張の緩和」にあるとする説は、立川談志師匠の「落語は、人間の業の肯定である」論に匹敵する卓説だと思います。あっ、そう言えば、談志師匠の「松曳き」という噺の下げの部分なんか、まさに「緊張の緩和」論にぴっり適合するような気がします。この「松曳き」の下げは、三太夫が自分宛てに国表から送られた書状に「殿様御姉上君御死去仕(つかまつ)り」云々とあるその「殿様」の意味を、自分が仕えている殿さま(赤井御門之守)のここと勘違いし、その殿さまに「姉上様が御死去遊ばしました」と伝えてしまい、その間違いを後で伝えられた殿さまが怒り出し、三太夫に切腹を命じますが、死を覚悟して引き下がろうとする三太夫を急に呼び止め、「よく考えたら余には姉はいなかった」というものです。この噺の聴衆は「切腹」という言葉を聞いてグーッと緊張し、「よく考えたら余には姉はいなかった」でパーッと緩和し、そこでドッと笑いが起きるんですね。


鬱病との戦いの果てに

 桂枝雀師匠は、1999年4月19日に59才で死去していますが、師匠の死は鬱病との苦しい戦いの果てのものだったようです。そのことについて、落語ファン倶楽部編『落語大看板列伝』(白夜書房、2009年11月)掲載の桂枝雀の経歴にはつぎのように書かれています。

 どんなに客にウケても満足することはなく、常に完璧な爆笑を追求していた。いつもにこやかな笑顔の真には、笑いと戦うための壮絶な努力があった。そのプレッシャーからか鬱となり、1997年から入退院を繰り返した。
 1998年1月14日、高松市での「朝日落語会」で『宿替え』を演じたのが最後の高座となった。
 その後の休演中、以前を上回るパワーで復帰しようと自らを鼓舞していたようだが、残念ながら枝雀は、1999年3月13日夜、自ら命を絶つことを選んでしまう……。病院に運ばれたが意識は回復せず、そのまま眠り続は、1999年4月19日、永眠した。享年59

 また、同書には優れた弟子を失った桂米朝師匠のつぎのような追悼の言葉も載っています。

枝雀襲名の話が決まった年(1973年)の二月頃からおかしくなって、それで半年ほど「ようしやべらん」言うて出なかったです。
 ただもう、枝雀を継いで(1973年10月)からは一年一年大きなったな。ことに小佐田定雄さんが枝雀という人間を意識して書いたいくつかの作品なんかは、ほんとに面白いですな。『貧乏神』なんていうのはもう、私は好きで、他のもんにはやれんなあ思うてました。あれが枝雀の一番良かったときかなあ……。というのも、自分で自分の噺をドンドン壊していったりするから、まとまらんようになって「こんな噺これからようやりまへんわ」なんて言うて高座を下りてきたりしたこともあった。
 でも、弟子を何人か取るうちに、噺をまとめることを考え出して、テープやビデオが発売されてどんどん売れるようにもなって、このまま行ってくれたらなあと思うてたら、また具合が悪くなって……私があれを呼んだり、向こうから相談に来たこともあるけど、責めるようなことも言われへんし、私はそういう経験がないから、何とも言うてやれん。
 その点、柳家小三治とは話が合ってね、随分話をしたらしい。枝雀の追善会のとき小三治がやって来て、「個人的なことを言えば『うまくやりやがったな』と言いたい。ずるいよ」て言ってね、それが一番印象に残っていますわ。
 弟子に先に逝かれるのは、彼で三人目やな。私は今年(1999年)数えで喜寿になるけど、自分で衰えがわかってきたんで、もう大きいところでの会は堪忍してくれ言うてるんですが、こういうときこそ、枝雀に任せて、私はもう、ほんまに時々出るという形にできたら理想やったんやけど……だから枝雀がおってくれたらなあというのは、始終思いますわ。うちの一門でも若手はみんな枝雀の影響を受けてると思いますしね。

 

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