十人十席の噺家の高座  
桂米朝師匠の「はてなの茶碗」

 

  私が若いころ、立川談志の『現代落語論』(三一新書、1965年)を読んで認識を新たにしたことがいろいろありましたが、子供のころにラジオで聴き親しんでいた落語の噺の多くが上方落語から由来しているということもその一つでありました。私は関西で生まれ育った人間なのですが、この本を読むまで落語は江戸・東京のみで育まれたものと思い込んでいました。実際、子どもの頃にラジオで聴いた落語も、江戸っ子たちがポンポンと威勢よく会話を交わす噺がほとんどでした。

 この立川談志の『現代落語論』は、後に講談社から出された『立川談志遺言大全集』の第10巻に収録されていますので、同書に載っている上方落語についての部分を下に引用いたします。

「上方落語は、文字通り、京、大阪を中心として出来た落語で、それなりの古い歴史を持っている。ちなみに上方で寄席を開いたのは桂文治、江戸では興行的には初代三笑亭可楽とされている。
 よく寄席ファンの中で、落語は東京で、漫才は大阪だ、なんていってるのを聞くが、なるほど漫才はたしかに大阪に分があるといっても間違いじゃあなかろうが、落語は違う。上方はそれなりの伝統があり、決して東京落語にヒケをとるわけではない。
 第一、東京の噺家が演じて、純粋無垢の江戸前の噺だと一般に思い込まれているような落語が、実は上方落語のネタであり、焼き直しであるケースが多い。
 例えば『らくだ』、これは桂文吾から先々代柳家小さん(三代目)が習い覚えて、東京風に演じたもので、小さんの十八番とされたらしい。
 同じように、『宿屋の富』は『高津の富』だし、『蒟蒻問答』は『餅屋問答』、『長屋の花見』は『貧乏花見』、『お化け長屋』は『借家怪談』、『王子の狐』は『高倉狐』というふうに、みな上方ダネ。
 他にも『二階ぞめき』『孝行糖』『三人旅』『妾馬』『浮世根間』『反魂香』と、あげたらキリがないほど、上方輸入の東京落語は数多い。」

『桂米朝 私の履歴書』
(日本経済新聞社、2002年4月)
 しかし、東京落語に引けを取らない伝統を持つ上方落語ですが、戦後の1950年代になって、上方落語をこれまで支えていた有名な噺家たちがつぎつぎと死去していき、上方落語は滅亡したとまで言われるようになります。その頃のことを『桂米朝 私の履歴書』(日本経済新聞社、2002年4月)で桂米朝師匠がつぎのように回想しています。

「師匠、桂米団治の死の前年、昭和二十五年(一九五〇年)には上方落語界のリーダー格だった五代目笑福亭松鶴が死去している。(中略)
 二十六年にはネタが豊富だった立花家花橘、二十七年には二代目林家染丸、そして二十八年、二代目桂春団治が故人となつた。"爆笑王"の異名をとった初代譲りの華やかな芸風で最も人気を集めた存在だった。ただでさえ、漫才に押されて守勢一方だった落語界。その中にあって、必死に敗戦前後の落語を支えてきた松鶴、春団治の二本柱を失った損失は計り知れなかった。
 こうして残ったのは第一線を退いた長老クラスが数人と、この世界に入って数年の若手が数人。今度こそ上方落語は滅んだといわれた。私たちは盛り返してみせると発奮した。つきが味方をしてくれた。幸運も重なった。民間放送の誕生などでラジオの仕事が続々舞い込んだのである。」


 衰退しかかった上方落語を六代目松鶴、三代目春団治等とともに支え盛り返したのが「上方落語中興の祖」と言われるようになった桂米朝師匠でした。私も子どもの頃にラジオで聞いた落語のなかで、関西風のアクセントで話す数少ない噺家の一人が米朝師匠でした。

 その米朝師匠の「はてなの茶碗」を紹介したいと思います。この噺は、テイチクエンタテインメントから販売されている「落語特選集」というCDに入っており、1967年夏に収録されたもののようです。
 

はてな

 京都の清水さんの音羽の滝の茶店で、五十代半ばの人物が休憩し、茶を飲みほした後、手にした茶碗を裏返したり透かしたりとあれこれひねくりまわして首をかしげ、最後に「はてな」と言って茶碗を下に置き、その後すぐに代金を払って立ち去ります。この人物こそ、京で一番の茶道具屋と評判の金兵衛、通称「茶金さん」だったものですから、偶然そのとき横手に座っていた男が茶金さんの置いていった茶碗でひと儲けしょうと考えます。この男は、もともとは大坂の人間だったのですが、極道が過ぎて親から勘当され、京にやってきて行燈用油を売り歩くようになった人物です。男は、あの有名な茶金さんが手にとってあれこれ眺めていた茶碗はきっと値打ちものに違いないと考えたのです。それで男は、茶店の主人にこの茶碗を売ってくれと交渉を始めます。男は、京にやって来てから三年間ずっと油を売り歩いて貯めた二両の金を全部出し、この茶碗を茶店の主人から半ば強奪するようにして手に入れます。

 男は、その茶碗を桐の箱に入れて鬱金(うこん)の風呂敷に包んで茶金さんの店に持ち込みます。最初に出てきた店の番頭は、この茶碗を見て大した値打ちはないだろうと言うものですから、この男は怒り出し、「茶金さんやないとこの茶碗の値打ちはわからん、茶金さんやったら五百両、千両と当てるはずや」と騒ぎ出したものですから、茶金さん本人が「これ、店が騒がしい、どうした」と店に顔を出します。しかし、茶金さんも茶碗を見て、「どこにでもころがっているたかだか二文か三文の安手の茶碗」と言います。不審に思った男が茶金さんに「ややこしい茶の飲みようをさらすな」と怒り出し、清水さんの音羽の滝の茶店の件を話し出します。それで茶金さんもそのときのことを思い出し、茶碗に「はてな」と言った理由を男に説明し、茶碗のどこにもひび割れらしいものがないのに、どこからか水がポタポタ漏れるので、不思議に思って「はてな」と言っただけのことだと明かします。

 しかし、落胆した男が、親に勘当されて京で油売りになった身の上を語った後、自分の勘違いから店で騒いだことを素直に謝って店から出ようとしたとき、茶金さんが男をひき止めます。そして、男が全財産の二両を注ぎ込んでこの茶碗を購入したことを「いわば茶金という名前を買ってもらったようなもの。商人(あきんど)冥利に尽きます」と言い、男がこの茶碗を茶店の主人から購入するときに出した二両に足代、箱代、風呂敷代として一両を加えて三両で購入させてもらうと申し出、さらに男に「この金を持って大坂に帰り、親御さんに孝行するように」と諭します。

 この後、茶金さんが時の関白・鷹司公の屋敷に参上したときに例の茶碗のことを話したところ、鷹司公がぜひ見たいと言うのであらためて持参し、この茶碗を見た鷹司公が「清水の音羽の滝の音してや茶碗もひびにもりの下露」という歌を詠んで短冊にそれをさらさらと書き、このことが大変な話題となって時の帝(みかど)の耳にも入り、これをご覧になった帝が「はてな」の箱書きをされます。このような謂れ(いわれ)からこの茶碗が大変な値打ちものになり、大坂の豪商・鴻池善右衛門が千両という大金で購入します。

 それで茶金さん、丁稚が路上で見つけた油売りの男を店に呼び入れ、彼に鴻池善右衛門から受け取った茶碗の代金の半分五百両を渡します。茶金さんは、この男が喜んで金を受け取って店を出て行ったので、きっと大坂の親の許に帰って勘当も許され、今頃さぞかし親孝行でもしているのだろうと考えていましたら……。

 この噺、いささか野卑で直情径行的だが根は善良な油売りの男と、京で一番の茶道具屋と称される大店の旦那の柔軟だが芯がしっかりしていて動じることのない茶金さんという人物の演じ分けが実に見事で、さすが人間国宝・桂米朝師匠と感心させられます。師匠の「はてなの茶碗」を聴いて、思わず「いい仕事してますね」と言ってしまいましたよ、ホントに。

 ところで、茶碗でひと儲けしょうと店にやって来た油売りの男に茶金さんが諭して、「ひと山当てようという気を起こしたらあきまへんで。掘り出し物をしょうとしては、長年年季を入れた商人がかえって損をするのがその道や」と言っていますが、テレビ番組の「開運! なんでも鑑定団」には目利きを自称する現代の油売り屋さんがつぎつぎと出て来て、その多くが視聴者たちの笑いを買っています。骨董趣味が趣味の段階で終わるならそれでいいのですが、素人が骨董で欲の皮を突っ張らせるようなことだけはやめた方がいいと思います。

inserted by FC2 system