十人十席の噺家の高座  

金原亭馬生師匠の「笠碁」

 私の好きな噺家の一人が十代目金原亭馬生師匠(1928年1月〜1982年9月)です。父親が五代目古今亭志ん生、弟が三代目古今亭志ん朝、長女が女優の池波志乃ですね。

 この金原亭馬生師匠のなんとも渋くて味わい深い声と語り口が大好きなんですが、なかでもCD版「ベスト落語 十代目金原亭馬生」の「笠碁」(1974年2月16日に紀伊国屋ホールで収録)は何度聴いてもいいんですね。

 この「笠碁」という噺には碁が大好きな大店の旦那が二人登場します。この二人が碁で「待った」「待たない」ということから喧嘩別れになるんですが、「碁がたきは憎さも憎し懐かしし」という川柳がありますように、二、三日もすると自然と和解するというお噺なんです。馬生師匠の噺のなかで二人の旦那の名前は出てこないので、仮りに「待ったの旦那」と「待たないの旦那」ということにして、噺のストーリーを紹介しておきます。

 
  碁は好きだけれどお世辞にも上手とは言えない二人の大店の旦那の一方が、碁の腕前を上げるには待ったなしでやらないと駄目だなどと言いだし、止せばいいのに待ったなしと取り決めて碁の勝負を始めます。しかし、待ったなしでやろうと言いだした旦那の方が形勢不利となって「待った」と言ってしまいます。しかし相手の旦那は待ったなしと取り決めたのだから「待てません」と断ります。

 困った「待ったの旦那」は、なんと五年前に「待たないの旦那」にお金を貸したことや、返せないときに待ってやったことを持ち出し、碁ぐらい待ってくれたっていいだろうと言いだします。これには「待たないの旦那」が憤慨し、お金を借りたことは覚えているし感謝もしているが、碁にそんな話を持ち出すなんて納得できないと言って、待ったを断固断ります。こうして「待った」「待たない」ということから二人は険悪な関係になり、「へぼな相手としていられない」「へぼとはなんだ、帰れ帰れ」と喧嘩になってしまい、「待たないの旦那」は「二度と来ない」と言って立ち去ってしまいます。

 喧嘩別れした二人ですが、二、三日もすると相手とまた碁がしたくなり、「待たないの旦那」は雨の中を笠をかぶって「待ったの旦那」のお店に出かけます。「待ったの旦那」も相手が来るのが待ち遠しくて仕方がありません。「待たないの旦那」が喧嘩別れの日に忘れていった煙草入れを「やつが来るための唯一手がかりだ。蔵の一番大事なところに鍵を掛けて仕舞っておきなさい」などと言って首を長くして待っていましたから、お店の前を躊躇しながら行き来する「待たないの旦那」を見て大喜びし、お店の奉公人に「相手が入りやすいようにみんな引っ込みなさい」、「お茶を出しなさい」「お菓子を出しなさい」「碁盤を持って来なさい」と指示します。そして、「待たないの旦那」がようよう店に入って来て「へぼな相手と碁をやりに来たのではない、煙草入れを取りにに来ただけだ」と憎まれ口をきくのに対し、「へぼかへぼでないか一番やろう」と返し、「やろう、やろう」と自然と二人は和解することになります。

 このお噺、馬生師匠は「人間の友情」と言うのか「人は人を求めるものだ」という人間の情を笑いに託して見事に語っており、聴き終わってしんみりとさせられました。

 ところで、立川志らく師匠も馬生師匠が大好きだったそうで、『雨ン中のらくだ』(太田出版、2009年2月)で馬生師匠のことを好きでした。高座姿が綺麗で、まるで水墨画のようで。水墨画なんて見たって何のこっちゃかわからないのですが、馬生師匠は面白い。水墨画を見てゲラゲラ笑えるなんて凄いことですとに書いています。また同書で、当時まだ日大芸術学部の学生だった立川志らく師匠が寄席で馬生師匠最後の高座にぶつかる話もつぎのように書いています。

 「寄席通いの最中、運命だったのでしょうな、馬生師匠最後の高座にぶつかるのです。
  渋谷で毎月おこなわれていた東横落語会。
  ナカトリで馬生師匠が登場したのですが、実は馬生師匠はこのとき、食道癌に冒されていたのでした。だから高座まで歩いて来られず、板付きといって、幕が上がると馬生師匠はすでに高座に座っておりました。
  落語は 『船徳』
  まったく声が出ておらず、私は一番前に座っていたのですが、ほとんど噺を聴きとることができませんでした。
  やがて噺につまり、喉に痰(たん)がからんだらしく、ちり紙を懐から取り出して、痰を吐き捨てました。『すみません。高座でこんなことをしたのは初めてで』と馬生師匠は詫びました。何とか噺は最後まで辿り着きましたが、『船徳』でなじみの竹屋のおじさんも登場せず、客は水を打ったように静まり返っていました。
  しかし、後の立川志らくには伝わるものがあったのですね。馬生師匠が『あとは頼むぞ』と私に言っている気がして、その気迫の、いや気迫だけの高座に、涙が止まりませんでした。私はこの日を境に落語家になろうと、大学を卒業したら馬生師匠の弟子になろうと決心をしたのです。

 しかし、その十日後に馬生師匠は亡くなり、若き日の立川志らく師匠は目標をアクターズ・スタジオ入学から馬生一門への人門に変えることとなりました。そして馬生師匠の弔いに行った帰り道、ふらっと立ち寄った池袋演芸場で立川談志師匠が登場し、落語に入ろうとはせずにただ馬生師匠の思い出だけを語り続ける姿を目にすることになったそうです。

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