1929年に衝立の表に描かれた「富貴図」は、これまでの一村の南画とは非常に異なって、その描写はとても精緻であり、濃密で華麗な彩色がほどこされていた。しかし、この「富貴図」や「竹と蘭」から私は若き一村の絵画に対する迷いや焦燥、不安をも感じた。
従来の南画から脱却して新たな道を模索しはじめた一村は、2年後の1931年(昭和6年)に「自分の将来行くべき画道をはっきり自覚し、その本道と信ずる絵をかいて支持する皆様に見せ」たという。そのことについて、南日本新聞社編『アダンの画帖 田中一村伝』(道の島社、1986年2月)はつぎのように書いている。
「昭和六年、二十三歳のとき、これからの自分の絵はこうあるべきだという画想を得て、一気に画稿にして支持者たちに見せた。しかし、だれ一人として賛成してくれる人はいなかった。南画の有力な支持者たちは、米邨が南画の枠を踏み越えて飛翔しようとしたとき、手かせ足かせとなった。このときのもようを、一村は後年、手紙の中に次のように記している。
『私は二十三歳のとき、自分の将来行くべき画道をはっきり自覚し、その本道と信ずる絵をかいて支持する皆様に見せましたところ、一人の賛成者もなく、当時の支持者と全部絶縁し、アルバイトによって家族、病人を養うことになりました。そのときの作品の一つが、水辺にメダカと枯れハスとフキノトウの図です。今はこの絵をほめる人もだいぶありますが、そのとき、せっかく芽ばえた真実の絵の芽を涙を飲んで自ら踏みにじりました』(昭和三十四年三月、中島義貞氏あての手紙)」
この手紙に書かれている「水辺にメダカと枯れハスとフキノトウの図」とは、『田中一村作品集[新版]』(NHK出版、2001年10月)の13頁に載っている「蕗の薹とメダカの図」のことであろう。では、23歳の一村はこの「蕗の薹とメダカの図」を通して「将来行くべき画道」「本道と信ずる絵」を彼の支持者に示そうとしたのであろう。
おそらく、この絵を示された支持者たちは大いに戸惑ったことであろう。これまで一村が描いてきた「山水図」「藤花図」「水墨梅図」(ともにNHK出版の『田中一村作品集[新版]』の84頁)のような、深山と古寺、険峻な崖と藤の花、太湖石と梅の花といった南画では定番の図柄ではなく、ありふれた風景がそのまま素直にスケッチされていたからである。また、特に目新しい絵画的な構図や技巧が凝らされているようにも思えないからである。
早春の河原の土手に小さな蕗の薹が一個だけポツンと顔を出し、川ではメダカも泳ぎ出している。しかし、蓮の葉や茎はまだ枯れたままで、その姿がなんともわびしげである。一村はそんなありふれた風景の中に新と旧、生と死、活力と衰退といった自然の摂理を深く感じ取ったのかもしれない。何か自分自身が強く心に感じたものを自分ならでは表現方法で描き出したいと思ったのであり、そこにこそ「将来行くべき画道」「本道と信ずる絵」があると確信したのであろう。
だがそのような理念や思いを絵筆によって実際に表現することは大変なことである。「本道と信ずる絵」に対して支持者から賛同を得られなかった一村は、「当時の支持者と全部絶縁し」、帯留め、根付け、木魚などの木彫によって生計を立てていくことになる。
では、彼はその後、絵ではどのようなものを描いたのであろうか。私はそのことを確認したいと思い、NHK出版編『田中一村作品集』(新版、2001年10月)などの画集で調べてみることにした。しかし、 1931年の「蕗の薹とメダカの図」以降の一村作品としては、1932年(昭和7年)に描かれた「ケイトウ」があったが、それ以降の約3年間に描かれたと思われる作品は見当たらなかった。そして、千葉寺に移ってから以降に描かれたと思われる「昭和10年代」(1935年〜1944年)の作品群がその後多数登場することになる。
では、「蕗の薹とメダカの図」が描かれて以降の約3年間において、一村が描いた絵として確認されているのが「ケイトウ」だけだというのはなぜであろうか。生計を立てるために帯留め、根付け、木魚などの細工物の木彫に忙しく、絵画制作に時間を割く余裕がほとんどなかったということも考えられる。しかし、それだけの理由とは思えない。
これはあくまでも私の仮説でしかないが、一村はこの期間、絵画制作上においてスランプに陥り、また制作意欲を喪失した時期もあったのではないだろうか。すなわち、描いても描いても満足いくものが描けず、さらには「唄を忘れた金糸雀」状態になってしまった時期もあったのではないだろうか。
私は、1929年に衝立に描かれた「富貴図」と「竹と蘭」の絵から一村の絵画に対する迷いや焦燥、不安を感じたのだが、NHK出版編『田中一村作品集』の作品リストから、さらに一村の「唄を忘れた金糸雀」状態の時期さえもが存在したかもしれないと思うようになった。このことは、いまはまだあくまでも仮説でしかないが、今後さらに検討していきたいと思っている。
1938年に一村は千葉市千葉寺に転居し、姉の喜美子、妹の房子、祖母のスエと生活することになり、奄美に移住するまで同地に20年間暮らすことになる。当時の千葉寺は、田園が広がり、竹薮や杉、栗の樹木が生い茂る自然豊かな農村地帯であり、一村の絵画制作に対する意欲を蘇らせた。
2004年に開かれた田中一村展には、制作時期が「昭和10年代」とされている初公開作品が多数出品されているが、この年の田中一村展の出品カタログである『奄美群島日本復帰50周年記念 奄美を描いた画家 田中一村展』(日本放送出版協会、2004年1月)で「昭和10年代」の作品を確かめてみると、色紙17作品、絹本6作品、紙本5作品、それにうちわに描かれた作品4作品が展示されていることが判明した。そして、これらの作品の多くが千葉寺の豊かな自然を描いたものであった。
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孤高・異端の日本画家 田中一村の世界
(NHK出版、1995年) |
また、『孤高・異端の日本画家 田中一村の世界』(NHK出版、1995年)には、「昭和15年(1940年)頃とされる「崖上観音像図」が23頁に載っている。この観音像の絵については、南日本新聞編『アダンの画帖 田中一村伝』の53頁から54頁につぎのようなことが書かれている。
「昭和十五年、妹房子の婚約がまとまった。祖母スエの野辺の送りをした翌年、喪が明けたところで、田中家には久々の朗報だった。父親代わりの米邨は、妹の婚約がよほどうれしかったらしく、川村幾三さん宅に出かけ、『おじさん、おばさん、喜んで下さい。房子が嫁に行くことになりました』とはずんだ声で報告した。
そして『これまで、いろいろとお世話ばかりかけました。これを記念に納めておいて下さい』といって一幅の絵をとり出した。岩の上に、あぐらをかいたように、足を崩して座った観音像だった。よく見ると、顔付きがどことなく房子さんに似たところのある観音様だった。川村家では、足を崩して、ややくつろいだ雰囲気の観音様に、米邨の喜びがこもっている感じだったので、『あばさけ観音』とユーモラスな名をつけて床の間に飾った。あばさけるとは、関東地方の方言で、行儀の悪い、あばずれた、という意味だが、これはあくまで観音様のそんな珍しい姿からとったもので、房子さんのイメージを指しているものではなかった。」
一村は、妹の房子さんの結婚を記念して1940年頃に「崖上観音像図」を描き、母方の親戚になる川村幾三氏に日ごろ世話になっている御礼として贈呈したようである。その後、彼は1943年に船橋市の工場に板金工として徴用され、そのときに体調を崩して闘病生活を余儀なくされることになる。
闘病生活中に描いたものなのであろうか、 『孤高・異端の日本画家 田中一村の世界』の15頁には、色紙に描かれた「夏富士」(1943年頃)、「田園夕景」「麦播」(ともに1944年)が載っている。また、NHK出版編『田中一村作品集[新版]』(日本放送出版協会、2001年10月)の73頁に色紙に描かれた「牛を引く農夫」「農村春景」(ともに1944年頃)が載っている。
日本の敗戦直前になって一村の病もやっと癒えたが、その頃に彼は盛んに観音菩薩の像を描き始める。 『孤高・異端の日本画家 田中一村の世界』の22頁には、「昭和20年(1945年)頃」とされる「蓮上観音立像図」が載せられており、この絵に「一村(米邨)は、長い闘病生活の中での死への恐怖、さらに戦時での平和への祈りなど、さまざまな思いを込めて、しばしば観音像を描いた。蓮上観音図を描くために、百数十枚の描き損じを出して、手持ちの画紙を殆ど使いはたしたこともあるという」との解説が添えられている。
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