田中一村と漢詩
衝立の裏に一村が描いた絵に隠された人物たち
 南日本新聞編『アダンの画帖 田中一村伝』は、一村の漢詩愛好についてつぎのように述べている。

 「芝中時代、病弱ながら頭脳明晰、首席を通した一村は、南画の探究と相まっで古典にも親しんだ。遺品の中に、昭和五年発行の『大成漢文体系(全十二巻)』(国民文庫刊行会)があった。若き一村がおう盛な読書欲を満たすために購入したものだった。一村は父の稲村が彫刻をほどこした手作りの本棚を持ち、これにトルストイ、ゲーテなど世界文学の本を置き、暇さえあれば、目を真っ赤に充血させながら、読みふけっていた。しかし一村が最も親しんだのは漢文の世界であった。」

 一村は詩画一如の南画の世界で育まれた人間である。幼い頃から筆を握って南画を描いていた一村にとって、漢詩は絵を描く上での欠かせぬ基本的な教養であるばかりではなく、彼はそれによって美的感性を磨くとともに、その価値観の土台を形成し、また自らの日々の心情を託したり慰め励ましたりしていたと思われる。

 田中一村と漢詩といえば、大矢鞆音『田中一村 豊穣の奄美』(日本放送出版協会、2004年4月)に、一村が1929年(21歳)に自ら描いた「竹と蘭」の絵に中国初唐の詩人楊炯の「幽蘭賦」を画賛として添えていることを紹介している。同書によると、山形市に住む医師寺嶋誠一氏が「富貴図」の衝立を所蔵しておられ、その衝立の「裏の面には、東洋画のモチーフ、墨竹と岩に着生する蘭などの四君子の図、そして、画面左隅に四十三行にわたる画賛がびっしりと書かれていた」とし、さらにこの衝立についてつぎのように詳しく紹介している。

 「その末尾には『楊烱幽蘭賦 己巳仲春 米邨田孝』とあり、両画ともに昭和四年、米邨二十一歳の作ということがわかる。驚いたことに、これらは絹本に金箔を押した基底材の上に描かれていた。画面サイズは両面とも天地一一四、三センチ、左右一六三センチ、ほぼ一〇〇号大の大作である。」

 衝立の表に描かれた「富貴図」は、同書の70頁にカラーで撮影された写真が紹介されている。この「富貴図」には、牡丹の花が色鮮やかに描き出されているが、さらに画面のほぼ真ん中から右端へ青く彩色された太湖石(太湖の湖中から採れる石灰岩の一種で、その奇怪な多穴質石が中国庭園石組の主役として珍重される)が牡丹の花に添えられるようにして描かれている。この奇怪な形状の青色の太湖石が華麗な牡丹の花とどう見ても調和していない。

 この「富貴図」は、これまでの一村が描いてきた趙之謙、呉昌碩風の南画と比較して非常に異質なものを感じさせる。その精緻な描写と濃密で華麗な彩色は、写意よりも写実を重んじる中国の院体画の影響を受けて描かれたもののように思われる。 しかし、円山応挙に有名な「孔雀牡丹図」があり、一村はどうも円山応挙のその絵から孔雀の姿を除いて太湖石と牡丹の絵を写し取り、それを一村流にかなりデフォルメィして描いたようにも思える。

 この「富貴図」の衝立画は、その一番手前に描かれた赤色の牡丹の花とその少し奥にある薄紫色の牡丹の花を斜めに寝かせる配置の仕方や、かなり形状をデフォルメして鮮やかな青色に彩色された太湖石の存在は予定調和的な絵画的構成を意図的に打ち壊そうとしており、一村が画家としての新境地を切り開こうとする意欲を強く感じさせるものがある。しかし、残念ながら絵画的に成功しているとは言いがたい。
楊炯「幽蘭賦」
『盈川集』(四部叢刊)

 さらに衝立の裏の「竹と蘭」も同書の71頁にその写真が紹介されているが、鬱蒼と生い茂る竹と蘭の水墨画には風雅さが欠けており、なんとも不気味である。そして、この衝立の裏の絵である「竹と蘭」の左上に楊炯の「幽蘭賦」の詩句全文が小さな字で画賛としてびっしりと書かれているのだが、この書が画に対して不調和な感じを与えている。この衝立を一村はどのような精神状態のなかで描いたのであろうか、非常に気になるものがある。

 それで、上海商務印書館から出版された四部叢刊集部所収の明刻本影印版『盈川集』を調べてみたところ、そこに楊炯の「幽蘭賦」が載っていた。この「幽蘭賦」の影印版を参考のためにワープロ文字に直して句読点を付けて下に載せることにする。


         楊炯   幽蘭賦
惟幽蘭之芳草、稟天地之純精、抱青紫之奇色、挺龍虎之嘉名。不起林而獨秀、必固本而叢生、爾乃茸十歩、綿連九。莖受露而将低、香従風而自遠。當此之時、叢蘭正滋美、庭之孝子、循南而采之。楚襄王蘭臺之宮、零落無叢、漢武帝猗蘭之殿、荒凉幾變。聞昔日之芳菲、恨今人之不見。至若桃花水上、佩蘭若而續魂。竹箭山陰、坐蘭亭而開宴。江南則蘭澤為洲、東海則蘭陵為縣。隰有蘭兮、蘭有枝。贈遠別兮、交新知、氣如蘭兮長不改、心若蘭兮終不移。及夫東山月出、西軒日晩、受燕女于春、降陳王于秋坂。乃有送客金谷、林塘坐、鶴琴未罷、龍劔将分。蘭缸耀、蘭麝氛。舞袖迥雪、歌聲遏雲、度清夜之未央、酌蘭英以奉君。若夫霊均放逐、離羣散侶、亂郢之南都、下瀟湘之北渚。歩遅遅而適越、心鬱鬱而懐楚。徒眷戀于君王、斂精神於帝女。汀洲兮極目、芳菲兮襲子。思公子兮不言、結芳蘭兮延佇。借如君章有コ、通神感霊。懸車舊館、請老山庭。白露下而警鶴、秋風高而亂螢。循階除而下望、見秋蘭之青青。重曰若有人兮山之阿、秋蘭兮歳月多。思握之兮猶未得、空珮之兮欲如何。乃抽琴操為幽蘭之歌。歌曰幽蘭生矣、于彼朝陽。含雨露之津潤、吸日月之休光、美人愁思兮、採芙蓉于南浦。公子忘憂兮、樹萱草于北堂。雖處幽林與窮谷、不以無人而不芳。趙元淑聞而歎曰、昔聞蘭葉據龍圖、復道蘭林引鳳雛。鴻歸鶯去紫莖歇、露往霜來緑葉枯、悲秋風之一敗、與蒿草而為芻。

  この楊炯の「幽蘭賦」は、「惟うに幽蘭の芳草、天地の純精を稟(さず)かり、青紫の奇色を抱き、竜虎の嘉名を挺(ぬ)く」と幽蘭(ひそやかにけだかく咲く蘭の花)の素晴らしさを讃えているが、大矢鞆音は前掲書で、世田谷郷土資料館の武田庸二郎氏がこの「幽蘭賦」 について、「楊烱はこの中で屈原の名を挙げており、全文にちりばめられた修辞は、屈原の『離騒』に似た表現がある」と指摘していることを紹介するとともに、また渡邊明義氏の『水墨画の鑑賞基礎知識』(一九九七年二月、至文堂) の一節に、「蘭は香草で、深林に生じ、辺に人無くとも芳香を発つ。このことから、君子の修道して徳を立て、困窮しても節を変えないことに喩えるのである。讒言に遇い、ついには汨羅に身を投じた、楚の忠臣屈原の『離騒』には蘭が度々登場し、祀りごとにも尊重された香草であるが、蘭を縄で結んで腰に帯びるようなこともあったのである。このことから蘭は遠く屈原を想うことに繋がるのである」との記載があると紹介している。

 確かに「幽蘭賦」中に「若夫霊均放逐」という詩句があり、この「霊均」とは屈原のことであり、彼の長編詩「離騒」で「余を字(あざな)して霊均と曰う」としている。また、「幽蘭賦」中の詩句「結芳蘭兮延佇」は、「離騒」の「結幽蘭而延佇」から採ったものであろう。

 また、「含雨露之津潤、吸日月之休光」という詩句が出てくるが、これは魏の思想家で竹林の七賢の一人でもあったの「琴賦」中の詩句「含天地之醇和兮、吸日月之休光」から採ったものと思われる。なお、この人物はその批判精神が魏王朝で権勢を掌握していた司馬氏の憎悪の的とされ、死刑に処せられている。さらに、「幽蘭賦」には、「雖處幽林与窮谷、不以無人而不芳」(幽林と窮谷に處るといえども、人無きを以て芳しからざるとはせず)との句があり、これは『孔子家語』の「芝蘭生於深林、不以無人而不芳」から採ったものと思われる。ただし、『孔子家語』は、孔子に関する諸書の記述を収集、編纂したものだが、魏の王粛(195-256)の偽作とされているとのことである。

 この「幽蘭賦」には、自らが説いた政治理念を生前には為政者から採用されることなく各地を弟子たちと流浪した孔子、讒言を受けて放逐されて汨羅に身を投げた屈原、司馬氏の憎悪の的となって処刑されたが隠されており、そんな「幽蘭賦」の作者の楊炯自身が則天武后打倒の企てに連座して左遷されたことのある人物であった。

 当時21歳の一村は、どのような思いから衝立の裏に「竹と蘭」の絵を描き、そこに画賛として「幽蘭賦」を書き込んだのであろうか。衝立の表の「富貴図」に描かれた奇怪な形をした青い太湖石から受ける印象も含めて考えるに、そのとき彼の心には「幽蘭賦」の最後に詠まれている様に、「鴻歸り鶯去りて紫莖歇(やす)み、露往き霜来たりて緑葉枯れ、秋風これを一敗し、蒿草とともに芻(か)らるるを悲しむ」(雁が歸り鶯去って紫色の蘭の茎が枯れ、露の季節が終わって霜が降りるころに緑の葉が枯れ、秋風がこれをヨモギとともに枯らしてしまうのは悲しいことだ)とするような寂寥感が存在していたのではなかろうか。この寂寥感は、画家としての天稟の才能に強い自負を持ちながらも、他方でこれまでの自分への画業への確信が揺らぎ始め、新たな境地を切り開こうと模索を開始したときに必然的に生じる不安と焦燥感に由来するものではなかろうか。

 この衝立を一村が描いたのが1929年で、彼が東京美校を入学してすぐに退学した1926年から3年後のことである。また、彼がこの衝立を描いた1年後(1930年)、彼が数え年で23才のときに「蕗の薹とメダカの図」を描いて「本道と信じる絵」の道を進むことを宣言している。この衝立の絵を描いたとき、彼は画家としての岐路に立たされており、非常な迷いや不安、焦燥感のなかにいたのではなかろうか。


唄を忘れた金糸雀
 1929年に衝立の表に描かれた「富貴図」は、これまでの一村の南画とは非常に異なって、その描写はとても精緻であり、濃密で華麗な彩色がほどこされていた。しかし、この「富貴図」や「竹と蘭」から私は若き一村の絵画に対する迷いや焦燥、不安をも感じた。

 従来の南画から脱却して新たな道を模索しはじめた一村は、2年後の1931年(昭和6年)に「自分の将来行くべき画道をはっきり自覚し、その本道と信ずる絵をかいて支持する皆様に見せ」たという。そのことについて、南日本新聞社編『アダンの画帖
 田中一村伝』(道の島社、19862)つぎのように書いている。

「昭和六年、二十三歳のとき、これからの自分の絵はこうあるべきだという画想を得て、一気に画稿にして支持者たちに見せた。しかし、だれ一人として賛成してくれる人はいなかった。南画の有力な支持者たちは、米邨が南画の枠を踏み越えて飛翔しようとしたとき、手かせ足かせとなった。このときのもようを、一村は後年、手紙の中に次のように記している。
 『私は二十三歳のとき、自分の将来行くべき画道をはっきり自覚し、その本道と信ずる絵をかいて支持する皆様に見せましたところ、一人の賛成者もなく、当時の支持者と全部絶縁し、アルバイトによって家族、病人を養うことになりました。そのときの作品の一つが、水辺にメダカと枯れハスとフキノトウの図です。今はこの絵をほめる人もだいぶありますが、そのとき、せっかく芽ばえた真実の絵の芽を涙を飲んで自ら踏みにじりました』(昭和三十四年三月、中島義貞氏あての手紙)

  この手紙に書かれている「水辺にメダカと枯れハスとフキノトウの図」とは、『田中一村作品集[新版]』(NHK出版、2001年10月)の13頁に載っている「蕗の薹とメダカの図」のことであろう。では、23歳の一村はこの「蕗の薹とメダカの図」を通して「将来行くべき画道」「本道と信ずる絵」を彼の支持者に示そうとしたのであろう。

 おそらく、この絵を示された支持者たちは大いに戸惑ったことであろう。これまで一村が描いてきた「山水図」「藤花図」「水墨梅図」(ともにNHK出版の『田中一村作品集[新版]』の84頁)のような、深山と古寺、険峻な崖と藤の花、太湖石と梅の花といった南画では定番の図柄ではなく、ありふれた風景がそのまま素直にスケッチされていたからである。また、特に目新しい絵画的な構図や技巧が凝らされているようにも思えないからである。

 早春の河原の土手に小さな蕗の薹が一個だけポツンと顔を出し、川ではメダカも泳ぎ出している。しかし、蓮の葉や茎はまだ枯れたままで、その姿がなんともわびしげである。一村はそんなありふれた風景の中に新と旧、生と死、活力と衰退といった自然の摂理を深く感じ取ったのかもしれない。何か自分自身が強く心に感じたものを自分ならでは表現方法で描き出したいと思ったのであり、そこにこそ「将来行くべき画道」「本道と信ずる絵」があると確信したのであろう。

 だがそのような理念や思いを絵筆によって実際に表現することは大変なことである。「本道と信ずる絵」に対して支持者から賛同を得られなかった一村は、「当時の支持者と全部絶縁し」、帯留め、根付け、木魚などの木彫によって生計を立てていくことになる。

 では、彼はその後、絵ではどのようなものを描いたのであろうか。私はそのことを確認したいと思い、NHK出版編『田中一村作品集』(新版、2001年10月)などの画集で調べてみることにした。しかし、 1931年の「蕗の薹とメダカの図」以降の一村作品としては、1932年(昭和7年)に描かれた「ケイトウ」があったが、それ以降の約3年間に描かれたと思われる作品は見当たらなかった。そして、千葉寺に移ってから以降に描かれたと思われる「昭和10年代」(1935年〜1944年)の作品群がその後多数登場することになる。

  では、「蕗の薹とメダカの図」が描かれて以降の約3年間において、一村が描いた絵として確認されているのが「ケイトウ」だけだというのはなぜであろうか。生計を立てるために帯留め、根付け、木魚などの細工物の木彫に忙しく、絵画制作に時間を割く余裕がほとんどなかったということも考えられる。しかし、それだけの理由とは思えない。

 これはあくまでも私の仮説でしかないが、一村はこの期間、絵画制作上においてスランプに陥り、また制作意欲を喪失した時期もあったのではないだろうか。すなわち、描いても描いても満足いくものが描けず、さらには「唄を忘れた金糸雀」状態になってしまった時期もあったのではないだろうか。

 私は、1929年に衝立に描かれた「富貴図」と「竹と蘭」の絵から一村の絵画に対する迷いや焦燥、不安を感じたのだが、NHK出版編『田中一村作品集』の作品リストから、さらに一村の「唄を忘れた金糸雀」状態の時期さえもが存在したかもしれないと思うようになった。このことは、いまはまだあくまでも仮説でしかないが、今後さらに検討していきたいと思っている。

一村の千葉寺での戦前の絵画活動

 1938年に一村は千葉市千葉寺に転居し、姉の喜美子、妹の房子、祖母のスエと生活することになり、奄美に移住するまで同地に20年間暮らすことになる。当時の千葉寺は、田園が広がり、竹薮や杉、栗の樹木が生い茂る自然豊かな農村地帯であり、一村の絵画制作に対する意欲を蘇らせた。

 2004年に開かれた田中一村展には、制作時期が「昭和10年代」とされている初公開作品が多数出品されているが、この年の田中一村展の出品カタログである『奄美群島日本復帰50周年記念 奄美を描いた画家 田中一村展』(日本放送出版協会、2004年1月)で「昭和10年代」の作品を確かめてみると、色紙17作品、絹本6作品、紙本5作品、それにうちわに描かれた作品4作品が展示されていることが判明した。そして、これらの作品の多くが千葉寺の豊かな自然を描いたものであった。

孤高・異端の日本画家 田中一村の世界
(NHK出版、1995年)

 また、『孤高・異端の日本画家 田中一村の世界』(NHK出版、1995年)には、「昭和15年(1940年)頃とされる「崖上観音像図」が23頁に載っている。この観音像の絵については、南日本新聞編『アダンの画帖 田中一村伝』の53頁から54頁につぎのようなことが書かれている。

 「昭和十五年、妹房子の婚約がまとまった。祖母スエの野辺の送りをした翌年、喪が明けたところで、田中家には久々の朗報だった。父親代わりの米邨は、妹の婚約がよほどうれしかったらしく、川村幾三さん宅に出かけ、『おじさん、おばさん、喜んで下さい。房子が嫁に行くことになりました』とはずんだ声で報告した。
 そして『これまで、いろいろとお世話ばかりかけました。これを記念に納めておいて下さい』といって一幅の絵をとり出した。岩の上に、あぐらをかいたように、足を崩して座った観音像だった。よく見ると、顔付きがどことなく房子さんに似たところのある観音様だった。川村家では、足を崩して、ややくつろいだ雰囲気の観音様に、米邨の喜びがこもっている感じだったので、『あばさけ観音』とユーモラスな名をつけて床の間に飾った。あばさけるとは、関東地方の方言で、行儀の悪い、あばずれた、という意味だが、これはあくまで観音様のそんな珍しい姿からとったもので、房子さんのイメージを指しているものではなかった。」

 一村は、妹の房子さんの結婚を記念して1940年頃に「崖上観音像図」を描き、母方の親戚になる川村幾三氏に日ごろ世話になっている御礼として贈呈したようである。その後、彼は1943年に船橋市の工場に板金工として徴用され、そのときに体調を崩して闘病生活を余儀なくされることになる。

 闘病生活中に描いたものなのであろうか、 『孤高・異端の日本画家 田中一村の世界』の15頁には、色紙に描かれた「夏富士」(1943年頃)、「田園夕景」「麦播」(ともに1944年)が載っている。また、NHK出版編『田中一村作品集[新版]』(日本放送出版協会、2001年10月)の73頁に色紙に描かれた「牛を引く農夫」「農村春景」(ともに1944年頃)が載っている。

 日本の敗戦直前になって一村の病もやっと癒えたが、その頃に彼は盛んに観音菩薩の像を描き始める。 『孤高・異端の日本画家 田中一村の世界』の22頁には、「昭和20年(1945年)頃」とされる「蓮上観音立像図」が載せられており、この絵に「一村(米邨)は、長い闘病生活の中での死への恐怖、さらに戦時での平和への祈りなど、さまざまな思いを込めて、しばしば観音像を描いた。蓮上観音図を描くために、百数十枚の描き損じを出して、手持ちの画紙を殆ど使いはたしたこともあるという」との解説が添えられている。


田中一村と陸游の「遊山西村
 一村がまた意欲的に絵画制作を始めるのは戦後のことである。1945年8月に日本はポツダム宣言を受諾し、長く続いた戦争はやっと終わった。病も癒え、また戦後の解放感のなかで一村の創作意欲は大いに燃え上がったようである。その頃の一村の姿を、一村の姪で川村幾三さんのお嬢さんの川村不昧さんが『NHK日曜美術館 黒潮の画譜 田中一村作品集』( 日本放送出版協会、1985年8月)に寄せた「千葉時代の米邨さん」と題した文章のなかでつぎのように紹介しておられる。

 「戦争が終わり、再び絵を描く生活が始まりました。そして、昭和二十二年、第十九回青龍展に『白い花』が初めて入選したのです。ちょうど同じ頃、千葉県の美術展にも『四っ手網』と『崖の上の観音』、その他一点が入選しました。そしてその時から、号を一村と改めたのです。これは漢詩の中から引用したのだと、本人から聞きました。
 新しい作品が出来あがると、まず一番に私の父のところへ持ってきました。そして説明してくれるのです。私はいつも父と一緒になって話を聞き、質問もしました。のちに奄美の自然を愛したと同じように、千葉の森や川、そして畑や草花すべてと過した記録が、千葉での作品になっていると思います。」

 川村不昧さんは、一村が「白い花」等の絵を描いた頃、画号も「一村」と改めたこと、またその画号が漢詩の中から引用したものであることを一村本人から開いたとしている。一村は、「米邨」から「柳一村」に画号に変えているのだが、その新しい画号は、陸游の詠んだ漢詩の詩句中から選び取ったものであった。南日本新聞編『アダンの画帖 田中一村伝』によると、戦後まもない1947年春、米邨が自分を長年支援してくれた川村幾三氏の家を訪れて、「今度画号を改めます。゛柳暗花明又一村゛という小漢詩の中よりとっで柳一村゛とします」と話したという。なお、同書は「柳暗花明又一村」の句が宋の詩人・陸游が詠んだ七言詩「遊山西村」に出てくるとしているので、その陸游の「遊山西村」の全詩を下に紹介しておく。

 陸游  遊山西村

 
莫笑農家蝋酒渾
 豊年留客足鶏豚
 山重水複疑無路
 柳暗花明又一村
 簫鼓追随春社近
 衣冠簡朴古風存
 従今若許閑乗月
 挂杖無時夜叩門

陸游  遊山西村

農家の笑う莫かれ 農家の蝋酒の渾れるを
豊年客を留めて 鶏豚足る
山重なり水複なって 路無きかと疑えば
柳暗く花明かるく 又一村あり
簫鼓追随して 春社近く
衣冠簡朴にして 古風存す
今より若し閑に月に乗ずることを許さば、
杖を挂いて時無く 夜に門を叩かん。


 「山重なり水複なって 路無きかと疑えば 柳暗く花明かるく 又一村あり」。画家としてのアイデンティティを模索し、複雑にも重なり錯綜する山や川を越え、目指すべき路を見失って彷徨うことも幾たびかあったであろう一村であるが、戦後まもない1947年、陸游のこの詩句のように、彼の目の前にぱっと明るい視界が広がったようである。その年、彼は「白い花」と題する素晴らしい日本画を描き上げるとともに、画号を一村と改めている。朝の陽光を受けて瑞々しい緑の葉のなかに無数の小さな花を咲かせるヤマボウシの清楚な姿を見事に描き上げたこの絵は、一村の最高傑作の一つに数えられるものであろう。

 なお、大矢鞆音『田中一村 豊穣の奄美』(日本放送出版協会、2004年4月)
によると、軍鶏の画家として名を成した時田直善が、この「白い花」を一村が描いたときのことをよく記憶しており、つぎのような思い出話を著者に語ったという。

 「田中君が私の家を訪ねてこられたのは、軍鶏をどう描くか、教えてほしいということだったんです。そのときに私は青龍社への出品をすすめたんですよ。あの人はね、南画を描いていた人なんで、構図が小さいんです。それを注意して青龍社向きに……、青龍社向きというのもおかしいんだが、会場向きの大きなたっぷりしたもの、大きく表現するようにいったんですよ。初め持ってきた小下図はもっと竹が多く、青龍社の作品としては細かすぎるということで、周りを思い切ってカットするようにして、あの作品ができ上がったわけです。そのとき絵具も不自由なようだったので、緑青の絵具を大量にあげたのですよ。最高のものです。本物ですよ。」

 時田直善のアドバイスと緑青の絵具の提供を受けて描かれた「白い花」は、また時田直善に勧めによって第19回青龍展に出品され、入選している。
              
田中一村の「飢駆我」の遊印
「飢駆我」の落款
渕脇元広氏所蔵
 1947年の第19回青龍展に「白い花」を出品し入選した一村であったが、その後は中央画壇で評価されることもなく、相変わらず経済的に不遇な日々を過ごすことになる。そんな彼は、千葉時代に自分の遊印に「飢駆我」と彫っている。そのことについて、南日本新聞編『アダンの画帖 田中一村伝』はつぎのように書いている。

 「自刻の落款(かん)の中に『飢駆我』の一顆(か)があった。『飢(う)え、我を駆る』と読めるわけだが、飢えをバネに、生命のぎりぎりのところで、自らの芸術を完成させたいという欲求の表現なのだろうか。」

 なお、同書はこの「飢駆我」という言葉が陶淵明の「乞食(こつじき)」という詩からの引用であると指摘している。それで、陶淵明の「乞食」という詩のことを調べてみたところ、角川書店から「鑑賞 中国の古典」シリーズの第13巻として出された都留春雄・釜谷武志『陶淵明』(1988年5月)に「乞食(食を乞う)」の詩の原文とそれについての解説、口語訳が127頁〜130頁に載っていることが分かった。参考のために、同書の原詩と口語訳を下に紹介させてもらうことにする。


   陶淵明  乞食

飢来駆我去
不知竟何之
行行至斯里
叩門拙言辞
主人解余意
遺贈豈虚来
談諧終日夕
觴至輒傾杯
情欣新知歓
言詠遂賦詩
感子漂母恵
愧我非韓才
知何謝
冥報以相貽


陶淵明  食を乞う

飢え来たりて我を駆りて去らしむ

(つい)に何くに之くかを知らず
行き行きて斯の里に至り
門を叩きて言辞拙し
主人は余が意を解し
遺贈あり豈虚しく来たらんや
談諧(かな)いて日夕を終え
觴至れば輒ち杯を傾く
情に新知の歓を欣び
言詠して遂に詩を賦す
子が漂母の恵みに感じ
我の韓才に非ざるを愧ず
何に謝すべきかを知らんや
冥報以って相貽
らん


陶淵明  食物を乞う

食物がなくなってひもじくなると、いても立ってもいられずに家を出る。いったい自分はどこへ行くつもりなのか。
歩いて歩いてこの村までやってきた。門をたたいて(食物を乞おうとするが)その言い方はまことにつたない。
家の主人はわたしの気持ちを理解してくれて、物を恵んでくれた。ここまで来たかいがあったというものだ。
話が弾んでいるうちに日が暮れ、出された酒は遠慮なく飲んだ。
新しい友人ができたことを心から喜び、うたって詩を作った。
あの洗濯ばあさんのようなあなたの思にいたく感じ入るが、自分に韓信のような才能のないことを恥ずかしく思う。
胸にしまった感謝の気持ちをどう表現すればいいのだろう。死後あの世からでも恩返しをせねばなるまい。

 なお、前掲の都留春雄・釜谷武志『陶淵明』はその130頁でこの詩について、「ところで、淵明はこの詩で何を言わんとしているのだろうか」と読者に問いかけ、「門をたたいて訪れた男に食物や酒を出してくれた主人のような人への謝意もあろう」し、「また、死後その恩に報いたいと言うところから、晋滅亡後は宋朝に仕えず節義を守り通そうとする意志をここに認めようとする解釈」もあることを紹介しつつ、「しかし、自分の才能のなさを、乞食に事寄せて嘆く、やや戯画化されたいつもの淵明の姿もここにちょっぴり顔をのぞかせていよう」として、陸游の詩をつぎのように紹介している。

 「南宋の陸游は貧困を題材にしつつ、『貧甚だしく戯れに作る絶句』で、『米を糴(か)うも帰ること遅く午(ひる)未だ炊けず、家人窃(ひそ)かに閔(あわ)れむ乃翁(だいおう)の飢うるを。知らざらん筆を東窓の下に弄び、正に淵明の乞食の詩に和するを』とうたっている。昼飯の遅いことから陸游が空腹に耐えかねているだろうと心配する家人をよそに、陶淵明の乞食の詩に韻を合わせた詩を作っている、いたずらっぽい陸游の姿が目に浮かぷが、それは貧困を貧困として受け入れながらも、貧しさを深刻に嘆くというより、それを突き放して冷静に見ているのである。そんな陸游こそが、淵明のこの詩を最も深く理解しているのかもしれない。」

 自らの画号を陸游の「遊山西村」の詩からとった一村である、きっと陸游が陶淵明の「乞食」の詩に和して「貧甚だしく戯れに作る絶句」を作っていたことを知っていたに違いない。そのように推測したならば、自らの遊印に「飢駆我」の文字を刻したとき、一村は自らの貧困を彼には珍しく諧謔的に表現しつつ、支持者の日頃の援助への感謝の意を示そうとしたと考えることが可能であろう。
 だが、南日本新聞編『アダンの画帖 田中一村伝』で著者の中野惇夫は当時の一村の複雑な心境をつぎのように理解しようとしている。
この陶淵明の『乞食』の詩を読むと、なぜか一村の気持ちが切々と伝わってくる。この詩に託して、自らの気持ちを、表していたと思われてならない。
 故なく人の援助を受けることは、衿持が許さなかった。しかし絵を売らず、定収もなく、絵の探究を続けるには、不本意ながら人の恩を受けざるを得ない。人に受けた恩は、いつも心に重く負担となってのしかかった。絵かきとしての一村は、絵をかいて報いるよりほかに道はなかった。
 千葉時代は、絵は売らなくとも、ささやかな恩に報いるために絵をずいぶんかいた。それがまた心の傷として残ったのではないか。いくつかの絵に『飢駆我』の落款が押してある。絵を受け取った側が、一村の意をどこまでくみとってくれたのか、いささか心もとない。」
 
 そうなのであろうか。勿論この「飢駆我」の遊印には支援者からこれまで援助を受けてきた画家の「心の傷」も刻み込まれていることは間違いなかろう。しかし、この「飢駆我」の遊印がいつ頃篆刻されたのかおおよその見当がついたとき、私はこの遊印に込められた一村の思いが分かったような気がした。前掲書の『田中一村 新たなる全貌展図録』(2010年10月)によると、この「飢駆我」の遊印は一村の奄美渡航後の1960年頃に描かれた色紙「紅梅丹頂図」に押印されているとのことである。

 なお1960年 5月に一村は奄美から岡田藤助氏の襖絵制作依頼を受けて千葉に戻っている。このときに「紅梅丹頂図」を描き、遊印「飢駆我」を押印したものと思われる。また同上図録に「昭和30年代に描かれた色紙」として「マダラハタとフジブダイ」にも「飢駆我」が押印されていることも指摘されている。

 1958年に奄美に渡った一村は、そのとき「絶対に素人の趣味なんかに妥協せず自分の良心が満足するまで練りぬく」(前掲の大矢鞆音『田中一村 豊饒の奄美』に引用されている1959年3月に奄美から千葉の知人に宛てられた手紙)ことを決意しており、支援者の経済的援助なしに独力で生活していくことを決意している。そう決意したとき、生計を立てるために支援者の個人的趣味に妥協に妥協を重ねて来たこれまでの自分を振り返りつつ、これまでの支援者たちからの非常な解放感を覚え、「飢駆我」の遊印を篆刻したのではなかろうか。

 一村は、50歳のとき住みなれた千葉から奄美大島に渡り、これまでとはまったく異なる自然と対峙して新たな美を創造することになるのであるが、それら奄美で描かれた作品は支援者の意向から解放された状況において創作されたものだということも忘れてはならない。

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