田中一村と奄美
           
田中一村と記念切手


 奄美群島復帰50周年記念郵便切手が平成15(2003)年11月7日(金)に発行されたが、切手の原画には、田中一村が描いた「奄美の杜 〜ビロウとブーゲンビレア〜」のなかのツマベニチョウ、ヒシバデイゴ及びブーゲンビレアが描かれた部分が採用されている。また、シートの余白上方にはブーゲンビレアを、下方には作品全体が配されている。なお、切手の左上にはつぎのように書かれている。

 奄美群島は、昭和二十八(1953)年に米国軍政府統治下から日本に復帰して、本年で五十周年を迎えます。
 切手のデザインは、田中一村(日本画家)が描いた「奄美の杜 〜ビロウとブーゲンビレア〜」です。
 一村は、昭和三十三(1958)年、五十歳で奄美大島に移り住み、以降六十九歳で生涯を終えるまで奄美の自然を描き続けました。

 日本放送出版協会(NHK出版)発行の『奄美に描く 田中一村 田中一村記念美術館収蔵作品』の表紙に使用されている絵も同じく「奄美の杜〜ビロウとブーゲンビレア〜」である。同書によると、この絵は昭和40年代に描かれたもので、寸法は縦155センチ×横73とのことである。
田中一村と奄美のノロ

 田中一村の「遊印」との関連から、私が彼と南画の関わりやそこからの離脱についていろいろ文献を調べてい.ると、小林照幸『神を描いた男・田中一村』(中公文庫)というトンデモ本に出くわしてしまった。

 小林照幸という人物は、『朱鷺の遺言』で第30回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しているそうであるから、『神を描いた男・田中一村』という本についても、読者は著者を信頼し、同書を田中一村について書かれたノンフィクションとして大いに期待して読みはじめることと思う。

 しかし、私は同書を読み始めてすぐに首を傾げてしまった。事実とフィクションとの間に敷かれた神聖な領域をなんの断りもなく傍若無人に越境しているからである。一村関連の資料や証言によって確証するという作業を抜きにして、ずかずかと一村の心の奥に土足で上がりこみ、勝手に彼の「思い」を著者が語っているからである。

 例えば、中公文庫版の56頁から57頁に、一村が自分の描いてきた南画についてつぎのように回想する場面がある。

 「自分は幼い頃から南画を描いたが、南画の実力が傑出しているとはいえまい。自分と同程度の者は全国にいくらでもいる。自らが南画で新たな分野を切り開いたわけでもない。芸術家として新境地を開拓し作品、そして名前を残したい。
 自分では見たこともない景色を、顧客が持参した写真や古書を参考にして描くのは手先だけの作業で創作ではないのだ。果たして、このまま南画の道に進んでも……、と一村は前途に希望が持てなかった。体が日本古来の伝統を受け継ぐ日本画を欲していた。」

 「自吾作古 空群雄」(過去のものにとらわれず群雄の業績を超越する)との「遊印」を刻し、またこれまでの日本画の題材としては珍しい亜熱帯の自然の美しさを描いた一村に対し、「体が日本古来の伝統を受け継ぐ日本画を欲していた」との記述部分は大いに疑問である。しかし、その他のことでは、上に書かれたような事実があったかもしれないし、また一村自身が同じような思いを持ったことも大いにあり得ることだろう。しかし、ノンフィクションならば、一村が南画から離脱した理由を探るためには、なによりも一村が若き日に描いた絵画の変遷を実証的に辿り確かめながら推定していかねばならない。そのことを殆どせず、また一つの推測であると断ることもなく、一村自身の心情を彼の言葉として本に勝手に記述するのだから、私としてはこの本をトンデモ本と言わざるを得ない。

 加藤邦彦『田中一村の彼方へ 奄美からの光芒』(三一書房、1997年10月)もこの小林照幸の著作に対し、「そのあまりにもお粗末なデタラメさにあきれかえって、それ以上読み進むのが苦痛になったが、それをこらえて何とか読了した」と書いている。そして、奄美や一村ついての歪められた虚像を見過ごすことができないので、「あえて二〜三指摘しておこう」として、つぎのようなことを書いている。

 「最もはなはだし事実誤認だけをあげておくと、同書の七十八頁に『薩摩藩は……中略……奄美の島々を支配下におき、全島民を平百姓として黒砂糖収奪の地に変えた』とあるが、これは不勉強もいいとこだ。島民の少数の者をして大多数を支配させたのである。島民をして島民を支配させたところが植民地支配の常道であり、残酷さなのである。この手法は日本が台湾、朝鮮を植民地支配したときにもとられており、植民地について少しでも学んだことのある者なら誰でも知っている基礎的知識にすぎない。
 次にこの作者はノンフィクション作家の肩書きで、あたかもノンフィクションの体で書いているが、事実を踏まえたうえでなく、一村の心象風景などを勝手に想像して書いている。この作者はニュージャーナリズム手法とでも思っているのかもしれないが、そうであるとすれば、かれはニュージャーナリズムを曲解しているか、それについて全く無知だということにほかならない。かれのように一を聞いて十書くノンフィクション作家とやらはほかにも知っているが、それにしても開高健賞奨励賞とはいったいどのような作品を対象としたものなのだろうか。」


 また、神谷裕司『奄美をもっと知りたい〔増補版〕』(南方新社、1998年6月)に、神谷裕司が奄美の地元紙「南海日日新聞」にこの小林照幸『神を描いた男・田中一村』について書いた書評が載っているが、やはり小林照幸の記述方法につぎのような疑問を呈している。

 「つまり、どの部分が資料や取材に基づいているのか、どの部分が筆者の想像なのか、混然一体で不明なのだ。たとえば、臨終の日、一村は海面を歩くノロを『実際に』見たわけではなかろう。いや、そういう手法なのだ、という反論もあろうが、そうであるならば『小説』と明記すべきだ。少なくとも私は『ノンフィクション』として読んだ。
 こうした場面がいくつもあり、しかもそれが、作品のテーマである『一村と神』に関わってくる。つまり、作品の成立基盤を突き崩しかねないのだ。
 一村は本当に神山に入って物の怪につかれ、シバで祓ってもらったのか。一村は『事実』として、シマの老婆からミャーやアシャゲのことを聞いたのか。『トウトガナシ』『神の位置』という章に書かれたこれらの内容が、取材に基づいたものであれば、『新たな一村像』と言えるが、想像だとすれば、かなり乱暴だ。たしかに一村の絵から『神高い』ものを感じる人は多いとは思うが。
 つまりは奄美の神観念の物珍しさにひかれ、消化できないまま作品に投げ込んだように見える。いわば、本土の人間に受けやすい『神』なのではなかろうか。一村が『神』を描いたとするならば、まず、彼の作品に即して考察されるべきだろう。
(九六年十二月三日付南海日日新聞)」



 田中一村を知りたい人にとって、また一村と奄美の関係を知りたい人にとって、小林照幸『神を描いた男・田中一村』は有害無益な書であると断定せざるを得ない。

田中一村にとっての奄美
  神谷裕司は上で紹介した『奄美をもっと知りたい〔増補版〕』(南方新社、1998年6月)において、小林照幸が『神を描いた男・田中一村』の中で一村の画業とノロ、ユタを結びつけて、「一村を知ることは奄美を知ることであり、奄美を知ることは一村を知ること」と述べていることに対して疑問を呈し、「一村を知ることは、一村の目を通して見た、彼の内部の『奄美』像を知ることであり、奄美を知ることは必ずしも一村を知ることにはつながらない」、「一村の画業は奄美が得た『新しい光』ではあったと思うが、『奄美を知ること』とは直接的にはつながらない」としている。

 また神谷裕司は、名瀬市在住の詩人の藤井令一氏が朝日新聞の1995年5月17日に載せた文章の中で田中一村が「異色な題材である南海の好きな動植物だけをより細密に描き、それを集合させデフォルメし、独自の世界を生み出し」たと書いていることを紹介し、さらに藤井令一氏が同文章のなかで、奄美の一人の住民として感じる一村の絵に対する「違和と戸惑い」についてつぎのように書いていることを紹介している。

 「動植物の絵には、卓越した資質が生み出す恐ろしいほどの上手さがあるし、いまだかつて見たことのないような日本画の濃密な筆致がある。だが、それぞれの個を集めて一幅の日本画を成すとき、そこにないまぜにされた奄美の微妙な四季感や、人気のまったくない大密林や無人島が感じられ、私のような島の住民は、この住む島との違和と戸惑いに苛まれてしまう。
 多分ピカソやアンリ・ルソーの研究もした画家だと思われるが、やはり、彼の作品は、現実の奄美とはかけ離れた、一村だけの世界が現れてくるのを私は感じぬわけにはいかないのである。」


 このような藤井命一氏の見解に対し、HP「あまみ便り」を運営しておられる mizumaさんからつぎのような貴重なメッセージをいただくことができたので下に紹介させてもらうことにする。

 mizumaさんのコメント  2004/06/16
  mizuma@amami.com
  「あまみ便り」 http://www.amami.com/

  特に絵画に関して知識もなく、一村も郷里へ帰ってきてから知った程度ですので、生意気な意見かもしれませんが、藤井さんのご意見のように”一村が描いた一村の奄美”ではないかと思います。
 島に住むものにとって一村の絵の中の世界は現実にはありえない風景です。
 季節の違う植物・昆虫・鳥たちが組み合わせられています。またこんな風景の中にいるはずがない鳥が描かれています。
 ガイドしながら実際の町、山を歩いてみるとそれぞれの植物・昆虫・鳥たちは一村の描いたような鮮やかさがありますが、それはその周りの環境に調和するように、奄美の自然がはぐくんだ環境の中に存在します。
 そう考えると絵の中の奄美は”一村の奄美”であり、現実の奄美とはまた違う世界です。
 一村が奄美を描いたことはすばらしいことですが、その絵の世界が実際の奄美ととられることにとまどいも感じます


 一村の絵は、奄美の動植物図鑑に添えるイラストではないのだから、このような発言は決して一村の絵を否定するものではなく、むしろ一村とその絵の本質を考える上で極めて重要な指摘のように私には思える。南画家として出発した一村は、写実より写意を重んじたのであり、彼の心に写った奄美の自然を彼独自の手法で再現しようとしたのである。

 また、2004年6月19日にインターネットの検索エンジンで「田中一村展」というキーワードでネットを調べていたところ、梁井朗さんが運営しておられるHP「北海道美術ネット」で、「田中一村と展覧会芸術」と題された素晴らしい文章にヒットした。この文章は、2004年5月12−24日に大丸札幌店で開かれた田中一村展の紹介文として梁井さんご自身が書かれたものであるが、田中一村が若き日に習得した絵画の特性及び一村にとっての画題としての奄美の意味を見事に把握し指摘しておられるように私には思われた。それで、筆者の梁井さんにお願いしてここに転載させてもらうことにした。

梁井朗さん「田中一村と展覧会芸術」  
 yanaiakira@mti.biglobe.ne.jp
 「北海道美術ネット」 北海道内の美術情報、紹介のHP
 http://www5b.biglobe.ne.jp/~artnorth/index.htm

 ここでは「田中一村と展覧会芸術」というテーマでちょっと書いてみたいと思います。

 いまわたしたちが、絵画などの美術作品を見るのは、美術館でひらかれる展覧会で−ということが多いでしょう。
 熱心な人は、街のギャラリーに行ったり、デパートの催事場で−ということもあるでしょう。
 いずれにせよ、それらは「展覧会」であることにはちがいありません。
 一定期間ひらかれて、不特定多数の人が無料あるいはそれほど高くない入場料で見ることができるシステムです。
 しかし、人々が「展覧会」で絵を見るようになったのは、それほど古いことではないのです。
 ゴーゴリの「肖像画」やゾラの「制作」といったあたりにも触れてみたい欲求に駆られますが、話がややこしくなるので、ここでは日本にしぼって進めていきます。
 以前は「書画会」というのがありました。
 これは、あらかじめ決められたメンバーが、作家の書や画を鑑定し、鑑賞するというもので、いまでも日本画の画商のあいだでは似たようなことがおこなわれているはずです。
 作者がおれば、そこに出席し、すばやい筆で軸のひとつでもパッと書いたことでしょう。
 また、若い作家であれば、地元の議員や医者など有力者が頒布会のようなものを組織し、展覧会というよりは展示即売のような形式で、作品を買ってあげ、作家の支援をするといったことも、戦前にはよくおこなわれていたようです。
 あるいは、寺院やお金持ちのふすまであるとか、明治期までさかんだった錦絵、浮世絵などの複製芸術が、人々と美術の接点だったわけです。
 もっと卑近な例をあげれば、各地を旅行して有力者のもとに滞在し、そこで求めに応じて書画を制作、売りつけていた画家は、以前はかなりいたようです。地方の人々にとって、絵描きとは、ギターを持った流しの歌手とか、放浪のこじきと、あまり変わらない存在だったようです。
 大正から昭和にかけて「公募展」が増えたこと、さらに戦後は「貸し画廊」が都市を中心に急速に普及して、「美術品の鑑賞は展覧会で」という形式が一般的になったのだと思います。
 ちなみに、地方都市に美術館がひろまるのは、戦後もしばらくたってからのことです。

 そこで田中一村に話がようやくもどるのですが、今回の展覧会の、とりわけ前半部分に出品されているのは、そういう「展覧会用」ではない絵なんですよね。
 つまり、後援者のもとめで描いたふすまだったり、おそらくリクエストに応じて描いた風景やめでたいモティーフの色紙だったり(ここらへんが流しの歌手に似ていますよね。だれも知らない持ち歌より、他人のヒット曲を歌うように要求されるのです)、売るための掛け軸だったりするのです。
 そこで制作される絵は、いかに大きく目立ち、他とのちがいをきわだたせようとして描かれる公募展用の絵とは、おのずとことなったものになるはずです。また、ひとつのテーマに沿ってじぶんの画題を追究するという、個展ではやりやすい制作形式もとられないことでしょう。
 しかし、考えてみれば、つい先年までこういった一村のような画家のありかたのほうがふつうで、じぶんの画業を追い求め生活苦もいとわず大作にいどむ芸術家タイプは、近代になってから登場してきた類型なのです。
 そもそも「個性の発揮」というのが、近代になってから出てきた考え方です。一村に求められていたのは、個性ではなく、或る程度「型」にそって、手早く一定の水準の絵を生み出すことでした。そのラインでは、一村の絵は、たしかにうまい。
 筆者が感服したのは「千葉寺・雪の日」です。
 右奥に配された松の木の枝から、雪が落ちる一瞬を描いています。
 静寂に覆われた雪の日。ぱらぱら、どさっという音がして、枝に積もった雪が落ち、またあたりは静けさに満ちる…。
 まるで芭蕉の「古池や…」を地で行くような境地といえないでしょうか。

 ほかにも、花鳥画などどれもうまい。
 ただし、このうまさは、一村が独力で開拓したものがすべてではなく、先人の墨の使い方などをまねた上でのうまさなのです。
 言いかえれば、芸術家というよりは職人なのでしょう。
 念のためにつけくわえておけば、そのことが一村の評価をおとしめるものではないと、筆者は思います。
 また、彼がいかに、身のまわりの自然を熱心に観察しスケッチしていたかは、一連の鳥の絵や、「四季花譜図」などでわかります。
 しかし、たしかに、このような画家のありかたは昔はふつうだったとはいえ、一村は20世紀の画家です。先に例として挙げた「千葉寺・雪の日」などは、もはや戦後の作です。彼が、時代遅れの存在になりつつあったことは否定できません。
 彼は、戦後になってから青龍社や日展に挑戦しますが、落選もしたようです。
 落選していた一村がこのように評価され、必死の思いで入選を果たしていた多くの画家が忘れられていくのですから、歴史というのはわからないものです。
 それはさておき、おそらく一村のうまさは、公募展の入選にあたっては、むしろ妨げになったことでしょう。
 愚直なまでに対象に迫りその画家の個性をあらわしていく近代の描き方とはことなり、或る程度のところでさっと旧来の型にまとめあげてしまう一種の癖が、一村の絵には抜きがたくあるようです。
 くりかえしになりますが、それ自体はけっして否定すべきことではないのですが…

 そのことにはおそらく一村自身も気がついていた。西日本にスケッチ旅行に出かけたのは、じぶんの画風をもう一度洗いなおすための旅だったのではないでしょうか。
 そして、奄美に移住する。そこで一村の絵が、ようやく一村の絵として開花するのです。
 奄美に生えている植物は、これまでの一村のまとめ方、日本画家が蓄積してきたコツでは、まとめきれません。百合やツユクサや松であれば、或る程度のパターンが身についていて、さして苦労しなくても絵として成立させることができる。でも、ビロウやガジュマルは、そうはいきません。ここで初めて一村は、それまで身についた腕と描法を、いったんかっこに入れて、虚心坦懐に自然と向き合ったのではないか−というのが筆者の考えです。
 奄美の絵が公募展などに出されることはありませんでしたが、どのモティーフも大きく描かれ、しかも結果的には、それまでの軸装の絵よりも幅広のサイズで、すべて額装されており、一村の絵は「展覧会向き」にようやくなったといえることができるのではないでしょうか。これまた、よしあしはべつの話ですが。


 奄美以前の一村の絵が「流しの歌手」的世界で育まれたものであること、また「千葉寺・雪の日」などの絵を例にして、その古風さと「或る程度のところでさっと旧来の型にまとめあげてしまう一種の癖が、一村の絵には抜きがたくあるようです」とのご指摘、まさにずばっと正鵠を得ておられるように思われる。また奄美では、これまで彼が蓄積してきた技法では簡単に描くことのできないビロウやガジュマルなど亜熱帯の自然に対したとき、「それまで身についた腕と描法を、いったんかっこに入れて、虚心坦懐に自然と向き合ったのではないか」とのご見解、全くご指摘の通りであろう。梁井さんのこの「田中一村と展覧会芸術」と題された文章は、私自身がこの間いろいろ一村のことを考察するなかで感じ始めていたことを先取りして実に的確な言葉で見事に表現しておられ、心から敬服させられた。

 ところで、その「田中一村と展覧会芸術」で梁井さんは、田中一村が子供の頃から育まれた南画の世界では、後援者の要望に応じて「或る程度『型』にそって、手早く一定の水準の絵を生み出す」技量が求められ、それが一村が南画から離脱した後も、「公募展の入選にあたっては、むしろ妨げになったことでしょう」と書いておられる。このご指摘、私は大いに首肯させられたのだが、また一村が日展などの公募展に入選を阻んだ重要な要因として、東京美校を早期に退学し、絵画世界で全くコネを持たなかったことも挙げる必要があるとではないだろうか。

 加藤邦彦『田中一村の彼方へ 奄美からの光芒』(三一書房、1997年10月))によると、公募覧の世界も決して純粋な世界ではないようである。同書には、「日展ピラミッドの構造」として、『芸術新潮』1985年2月号で組んだ日展特集の記事を紹介している。その記事によると、日展のピラミッドの構造として、日展入選→日展の特選2回受賞→出品委嘱→審査員→日展会員→評議員→芸術院賞→芸術院会員→理事→常務理事というように組み立てられているそうで、芸術院会員からさらに芸術功労者、文化勲章にたどり着くのがまた大変なことだそうである。

 このピラミッドの階段を登っていくことが画家の絵の評価を高めていくことになるそうだから、そのためには画家としての技量や情熱、努力だけでは駄目だそうで、外交手腕やお金が必要不可欠とのことである。一村の奄美行きにはそのような美術界から遠く離れたいという思いも間違いなくあったのではないだろうか。


                       
奄美で開かれた最初の一村展
 画家・田中一村は、奄美に絵を売りに来たのでもなければパトロンを探しに来たのでもない。画題として奄美の亜熱帯の自然に魅了され、自分の良心に対して納得が行く絵を描くためにやって来たのである。だから、一村には、奄美の人たちと「お早う、今日は」と声を交わす以上の付き合いをする気は無かったし、自分が描いている絵を人に見せる気も無かったのである。

 そんな一村は、奄美の人々の目にはどのように映ったのであろうか。加藤邦彦は、『田中一村の彼方へ 奄美からの光芒』(三一書房、1997年10月)の中で、一村が1973年2月5日に児玉勝利氏に宛てた手紙で「私は気の狂った一匹狼で満足です」と書き、追記として「狂った狼死神先生これは近頃の私のアダ名です」と書いていることに対し、「島々に友人が多く、島の人びとの人懐っこさをよく知っている私は、このことが大変気になったので、一村と接触があったという、島の人びと何人かに会って、当時の島の人の目に映った一村の姿について聞いてみた」としている。そして、「声もかけられないほど近づきがたい雰囲気を持った人でした」、「いつも考え込んでいるような、鋭い目をした人でした」「触れたら切れる刃物のような感じの方でした」といったような答が返ってきたとしている。

 奄美で一村が親しく交流した数少ない人が宮崎鐵太郎氏とその奥さんの富子さんであった。宮崎鐵太郎氏は『季刊銀花』第89号(文化出版局、1992年3月)に一村の思い出をつぎのように書いている。

『季刊銀花』第89号
(文化出版局、1992年3月)
「 百八十センチの長身を前かがみにして、蝙蝠傘を杖に、その人は毎朝私どもの店(陶器店)の前を歩いていかれました。周りには変人呼ばわりする人もいましたが、一目でそんなことはないとわかりました。何より目が生き生きとして澄み、力に満ちていましたから。ある時思い切って家内が休んでいかれるよう声をかけましたら、喜ばれて、以来時々立ち寄っでいかれるようになりました。絵を描いているらしいことはわかりましたが、名前を知りませんので、先生と呼べばまちがいないだろうと思って言いますと、『先生とは何事です。あなたさまより先に生まれたからそうおっしゃるのかももれませんが、私は田中孝と申します。田中とお呼びください』といさめられました。それから私は“田中さん”と呼び、家内のほうはずっと“おじさん”で通しました。しかし田中さんは、私たちのことを呼ぶときはいつも“宮崎様”でした。
 私の店では野の花をさして飾っていたのですが、その花に日をとめられた田中さんはおっしゃるのです。『お前たちは幸せだな。このご夫妻にもらわれて、めでてもらえる』と。そして帰り際には『私の心をなぐさめてくれてありがとう』と一礼されました。ほんとうに気持ちのやさしいかたでした。」


 一村の礼節を重んじる謹厳な姿を髣髴とさせるものがある。一村と親しくなった宮崎氏は、一村が描いた「アダンの木」「クワズイモとソテツ」などの絵を初めて見せてもらったとき、その素晴らしさに驚き、あの「クワズイモとソテツ」を譲ってもらったという。

 この宮崎鐵太郎氏は、一村が他界した後、一村の作品の展示会を開いて多くの人にその素晴らしさを知ってもらいたいと思い、周囲の人々に話を持ち掛けたが、ほとんどの人が無名の作家の展示会などに興味を示さなかったという。しかし、その頃ちょうど南日本新聞社の記者として名瀬市に来ていた中野惇夫氏(後に南日本新聞社編『アダンの画帖 田中一村伝』を執筆)に一村とその絵のことを伝えたところ、中野氏は大いに感動し、一村の三回忌の1979年に名瀬市で一村展を開くことを計画することになる。さらに奄美高枚に美術の教師として赴任して間もない西村博康氏に一村の絵を見せたところ、その芸術的価値の高さを見抜き、氏も二人と協力して積極的に一村展開催のために奔走することになる。こうして、名瀬市教育委員長の宮山清氏に一村展の実行会の委員会を頼み、1979年11月30日に初めての一村展が名瀬市で開かれたのである。このときの様子を中野惇夫氏は『アダンの画帖 田中一村伝』の「あとがき」でつぎのように回顧している。

 「遺作展は五十四年十一月三十日から三日間名瀬市中央公民館の二階ホールで開かれた。一村の奄美での画業の初公開であった。千葉の実妹・新山房子さんから奄美時代の作品八点が寄せられ、これに宮崎鉄太郎氏所蔵の『クワズイモとソテツ』などを加え、本絵十二点とデッサン類数十点が会場に展示された。表装から会場展示まで作品管理は西村康博氏がいっさいを引き受けた。
 用意したパンフレット千部は、初日でなくなり、三日間で三千人を超える市民が会場に詰めかけた。生前の一村に触れたことのある市民たちは、『あの人が、こんなすごい絵をかいていたのか』と、陋屋暮らしの一村と作品のイメージのギャップに驚いた。会場に展示された一村の手紙とパンフレットで、その生涯を知るにつれて感動は深まった。人口五万の地方都市は、一村ブームで沸いた。」


 一村は、生前において奄美の人々に絵を見せることはほとんど無かったが、一村が他界して2年後に彼の作品を見た奄美の人々はその絵の素晴らしさを正当に評価し受け入れたのである。
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