私の宮部みゆき論


宮部みゆき『ブレイブ・ストーリー』に見るジュブナイル風SF

 宮部みゆきの作品について、他の方が運営しておられるHPの掲示板などの書評を拝見しますと、ときどき「ジュブナイル風」とか「ジュブナイル系」「ジュブナイル仕立て」といった、私には馴染みのない言葉が出てきます。なお、そこで言う「ジュブナイル」とは、どうも子ども向けのミステリー・SFを指しているようです。

 確かに、宮部みゆき自身が『小宮悦子のおしゃべりな時間』2(毎日新聞社、1995年)で「若年層、小学生、中学生からファンレターをもらうこともありますし、年配の方からいただくこともあります」「小学生の読者もついているんだぞ、ということは忘れないようにしようと思ってます」と語っており、平易な言葉で書かれている彼女の作品の多くをジュブナイル風と評してもいいでしょうね。例えば、『今夜は眠れない』『夢にも思わない』『ステップファザー・ステップ』やSF『蒲生邸事件』、SFファンタジー『ドリームバスター』などの小説ですね。しかし、勿論、それらの作品はジュブナイル風ではあっても、ジュブナイルそのものではないですね。なぜなら、それらの作品は大人の読者を主たる対象とし、読者が共感し感銘を受ける読ませどころはジュブナイル的なところにあるわけではないからです。

 では、『ブレイブ・ストーリー』はどうなんでしょうか。『SF Japan』 2001年春季号で、宮部みゆきはこの作品についてつぎのように紹介していました。

 「『ブレイブ・ストーリー』っていうんですが、これはほんとに『剣と魔法』もの、小学校五年生の男の子が主人公で、友達と二人で異世界に出ていくという。それも入り口は現実世界なんですよ。」

 また、この作品についての角川出版の公式サイトに掲載された「著者インタビュー」のなかでも彼女はつぎのように述べています。

 「私はテレビゲームでいわゆるファンタジー世界に馴染んだので、そういうものを書きたい。そして、せっかくだったら、中学1年生か小学校6年生ぐらいから読んでもらえるものを書きたいと。そうしたら、やっぱり子供が主人公のものがいいし、私がゲームの中で好きな要素もいろいろ入れたい。」

 そうしますと、今回の『ブレイブ・ストーリー』は、ジュブナイル風というよりジュブナイルそのものかもしれませんね。私は、そのように推測し、この本を読み始めました。それで、最初の数頁を読んでみますと、文章はとても平易で、また「上昇」「腕」「距離」などといった類の比較的簡単な漢字にも振り仮名がつけられているんですね。物語の舞台も、最初は小学5年生の三谷亘くんの家庭と彼の通っている小学校が中心で、内容的にもとてもライトな感じがしました。

 また、主人公の亘くんが異世界に入り込んで冒険を開始する以前から、彼の心に話しかける姿無き少女や不思議な呪文を唱える魔導士姿の老人が出てきますし、さらには「幻界」にうっかり迷い込んだ亘くんをコークスクリュー頭の怪物(ねじオオカミ)が襲ってきて、そんな危ういところを鋭い鉤爪を持った大きな赤い鳥(カルラ族のギガ)に救われたりもしています。また、「バルバローネ」という名前の大きな羽を持った漆黒の魔女なども出現します。私の予想通りジュブナイル的なものが満載という感じです。

 ところが、突如として亘くんの両親と田中理香子という女性とのバトルが始まったとき、この作品に対する私の印象がかなり変わってきました。彼らのバトルが随分とリアルでシビアなんですね。彼らの争いが亘くんの乗っている家庭という船の船底を真っ二つに割り、まだ小学生の彼を大海の荒波に放り出そうとするんですから、子どもにとって非常に現実的で恐ろしいバトルですね。これまでの宮部みゆきの作品のなかでも、亘くんが巻き込まれたような性格の家庭紛争をここまでリアルに描いたものはなかったのではないでしょうか。私なんか大いに身につまされました。

 私は、お化けを見たり、怪獣に襲われたりした経験はないですが、亘くんが味わったようなバトルの怖さや辛さはよく分かりますし、「父さんがあんなふうになってしまわないように、母さんがあんな非難の言葉をぶつけられずに済むように、田中理香子という女が、父さんの前に現れないように」と切に願い、自分たちの家族が「また仲良く、楽しく平和に暮らせるように」と幻界に勇気を振るって旅立っていく気持ちがよく分かりました。私だって、もし運命を変えられるなら、やはりそうしたかも……。

 それで、亘くんは運命を変えることのできる女神に会うために「幻界」に入り込み、旅の途中でトカゲ姿の水人族のキ・キーマや猫顔のネ族の女の子のミーナと親しくなり、彼らと一緒に女神の住むという運命の塔を探してテレビゲームのファンタジー的冒険の旅を行っていきます。現実世界の「亘」(わたる)が異世界の幻界では「ワタル」となって、5つの宝石を集めて「勇者の剣」の力をバージョンアップさせながら「運命の塔」を探していくんですね。ですから、RPGなんかやったこともない私のようなオジサン読者には、やっぱり不向きな作品に違いないとの思いが次第に募ってきましたよ。

 しかし、異世界でのRPG的冒険を読み進んでいくなかで、このジュブナイル仕立ての物語のその奥に次第に重い内容が見えてきました。この小説は、小人国、巨人国、馬の国などが出てくるスウィフトの風刺小説『ガリバー旅行記』と同じく、現実の矛盾だらけの人間世界とそこに生きる生身の人間たちの実態を異世界に凝縮させて描き出そうとしているからです。

 
ただし、宮部みゆき自身は『SF Japan』 2001年春季号で、「キングが『タリスマン』書いてるから、私もやっぱりファンタジー書きたいっていう気持ちもありましたね。『ブレイブ・ストーリー』はほんとに『タリスマン』へのオマージュみたいな感じで書いていました」と語っています。なお、『タリスマン』はスティーヴン・キングとピーター・ストラウブとの共作で、12歳の少年が 病気の母を救うため、タリスマンを探してこの世界と異世界との間を跳躍しながら冒険の旅をしていくというファンタジーです。

 ところで、『ブレイブ・ストーリー』が書かれ始めたのは1999年頃だと思いますが、この時期にはユーゴのコソボ自治州でキリスト教徒のセルビア系住民とイスラム教徒のアルバニア系住民との対立が激化し(コソボ紛争)、さらにNATOによるユーゴ空爆がなされています。この悲惨な事件が『ブレイブ・ストーリー』に色濃く反映されているように思われます。

 『ブレイブ・ストーリー』では、「幻界」について、それは「現世に住む人間たちの、想像力のエネルギーが創った場所」としています。ですから、現実世界がそうであるように、地域間、種族間、宗教間の対立や差別、抑圧がそこに存在しているんですね。

 まず、「幻界」は北の大陸と南の大陸に分かれているんですが、ワタルが最初に足を踏み入れたのは南の大陸でした。この大陸には4つの国と1つの特別自治州が存在し、それらの国と自治州で連合国家を構成しています。宗教的には、混沌の中から幻界を創りだしたといわれる女神を信じていますが、北の大陸から逃げ出してきた難民が持ち込んだ老神信仰が広がりを見せ始めています。この南の大陸では、人口の多数を占めるアンカ族(現世の人間と姿が似ている)以外にも、トカゲの姿をしている水人族や鳥の姿をしたカルラ族、ウサギ姿の飛足族など様々な種族が共存しています。しかし、北からの難民たちの種族差別思想が影響を広げつつあるようです。例えば、リリスという町では、アンカ族以外の種族が貧しい地域に住んでおり、さらに反乱を起こす危険性があるとしてその家屋が破壊され、地下牢に押し込められてしまうような痛ましい事件も起こります。

 北の大陸は、統一帝国によって支配されており、支配種族であるアンカ族が他の種族を劣等種族として殺したり、収容所に入れたり、奴隷にしています。しかし、支配種族のアンカ族同士の間にも様々な差別と抑圧が存在しているようです。今は南の大陸と通商条約を結び、表面的には平和的な関係にありますが、いつか侵略して北の統一帝国の支配下に組み込もうと虎視眈々と南の様子を窺っているようです。この北大陸では、女神を否定して老神という神を信じており、現世からの旅人も忌み嫌っています。ところが、老神を信仰したり旅人を嫌悪するのは、北の支配者が民衆を統治し、創世の女神を信じる南の大陸と対峙するための方便でしかなく、支配者自身が本当にそう信じたり考えたりしているわけではないようです。

 ワタルの冒険の旅には、北の大陸からもたらされた種族差別、老神信仰や現世からの旅人を忌み嫌う考え方が暗い影を落とし、彼の旅の困難さを増幅させています。 ワタルは、こんな幻界で様々な理不尽で過酷な事柄に遭遇し、また憎悪、蔑視、妬み等々のヒトの内面に存在する醜さとも直面することになります。では、「現世に住む人間たちの、想像力のエネルギーが創った場所」とされている幻界なのに、現世においてとても真面目で優しく正直な亘少年が、ワタルとして幻界に入り込んだとき、このような忌まわしいものをなぜつぎつぎと見ることになるのでしょうか。バクサン博士という人物がワタルに言うには、「答えはひとつじゃ。よろしいかな、それは、あなたの心のなかにも、それらの理不尽が存在するからじゃ」ということのようです。博士の言葉を聞いて、ワタルは彼自身の内面を省察し、いやでも納得せざるを得なくなります。また、ワタルは自分の現世での家族の苦しみと幻界の破滅のどちらを救うべきかの二者択一や、「ハルネラ」の「人柱」の問題に直面したりもしています。ワタルにとっての幻界での冒険の旅は、外敵との剣と魔法による戦いの旅であるのみならず、自らの心の中につぎつぎと生じる葛藤をくぐり抜けていく精神的な戦いの旅でもあったのです。

 このようなワタルとは対照的な人物がミツルです。ミツルもまた運命を変えようと「幻界」に入り込んだ「旅人」なんですが、自らに備わった強大な魔力を自在に駆使し、平気で「多くのヒトを傷つけ、町を破壊し、嘆きを生み」ながら目標に向かって突き進んでいきます。この小説が発売されてから約2週間後の3月20日にバグダッドが空爆されてイラクへの英米軍の侵攻が始まりましたが、ミツルの「破壊も、殺意も、他者を踏みつけにして憚らない傲慢」な姿にも、現代の唯一最大の超大国とダブらせた読者も多かったのではないでしょうか。

 『ブレイブ・ストーリー』は、RPG的冒険の世界として大いに楽しむことができるジュブナイル風SFファンタジーですが、また現実社会とそこに住む生身の人間たちの本質を見つめ直す物語でもあります。しかし、スウィフトの辛口の風刺小説『ガリバー旅行記』と違って、宮部みゆきの『ブレイブ・ストーリー』は、人の世の素晴らしさとそこに生きることの意味をも読者に伝えようとしています。特に、この物語のラストの方でそのことがストレートに出され強調されているように思いました。それはおそらく、この作品がジュブナイル風SFファンタジーであり、読者に多くの子どもたちがいることを作者が強く意識していることと関連があるかもしれませんね。

 実際、 作者の宮部みゆきは、朝日新聞の2003年3月12日に載った『ブレイブ・ストーリー』関連の記事でも、子どもの読者を強く意識したつぎのような発言をしています。

 「書き始めたとき、ハリー・ポッターのことは知らなかった。むしろ、テレビゲームのファンタジーの世界を、小説の方法論で書いたらどうなるかと考えていました。ゲームはするけれど小説は買って読まないという子どもに、小説でもこういうことができるよと、見せたかった」
 「本来、物語には次世代の子供たちへの願いが込められている。現実の限られた体験を超えて視点を広げることが、創作される娯楽ものの担うべき部分だと思います」

 ところで、この小説を読んでいささか気になったことがあります。それは、幻界における登場人物たちの科白がとてもストレートで、割り振られた役柄に従って忠実に発言しているような感じを受けたことです。そのために、もう一つ宮部みゆきらしい味わいに欠けるものがありました。おそらく、作者の宮部みゆきはRPG的な雰囲気を作り出したいと思って意識的にやっているのでしょうね。また、現実の世界を異世界の幻界に凝縮させて描き出すために、幻界に登場する人物たちの科白をストレートなものにしてしまったのかもしれませんね。

 もっとも、ティアズヘブンのマグ町長のつぎのような科白はなかなか気が利いていると思いますよ。

 「気にせんこっちゃ。サタミ、あんたの場合は、くよくよ考えるのがいちばんいかん。よろしか!涙の水≠ナ煎じた薬でも治せない病気を治すのが、この世にたったひとつだけおます。それは時間グスリ≠ナすわい」

 ただ、私のような関西生まれの人間には少しヘンテコな関西弁のような気がします。私だったらここはつぎのようにするでしょうね。

 「気にしたらあかんあかん。あんたの場合、くよくよ考えるのがいちばんあかんのや。よう聞いてや!涙の水≠ナ煎じた薬でもよう治されへんような病気を治すのが、この世にたったひとつだけあるんや。それがなんや分かるか。それは時間グスリ≠竄ェな、ガハハハハハハッ」

 このとき、原作ではサタミは無言ですが、やはりサタミにも「うわーっ、うまいこと言わはるなー。さすが町長さんや」とかなんとか言わせて、町長さんの肩をバシーッとたたいてほしいですね。もっとも、叩かれた相手が警察に駆け込んで、サタミを暴行で訴えるかもしれませんので、町長がどんな人物か、ちゃんと知った上でないと駄目ですね。
2003年3月10日
 3月24日一部改稿
「我らが隣人の宮部さん
『ブレイブ・ストーリー』等についてのコメント



『心とろかすような』に見る老犬マサの謎

 『心とろかすような マサの事件簿』の語り手は、蓮見探偵事務所の用心犬のマサである。昔は警察犬として働いていたが、仕事で右脚に弾丸を負ったために引退し、その後1年間ほどは監察医の先生の家でやっかいになっていた。しかし、この先生が病気で倒れたので、先生の大学の同窓生だった蓮見浩一郎氏に引き取られることになったのである。この物語の最初の方で、「引退してから、もう丸五年が過ぎた」とマサが言っているから、彼が蓮見探偵事務所に来てからは4年間程は経っていることになる。

 この経歴から考えるに、マサは犬としては結構年を食っていると思われる。マサが最初に登場した『パーフェクト・ブルー』という作品でも、「俺も歳をとっちまったのかなと思う。入院している間、いやにしばしば、昔、警察犬としてならしたころの夢を見たのも、しじむさくなってきた証拠なのかもしれない」などと述懐している。

 では、マサはどのあたりで生まれ育ったのであろうか。マサはジャーマン・シェパードだが、ドイツ生まれではないようで、「俺はそこに行ったことがない」とはっきり言っている。じゃー、どこなのか。あっ、そうだ、老犬マサは自分のことを、「俺はもうロートルで、身を包む毛皮もいささかくたびれている」と言っていたことを思い出した。「ロートル」とはまたなんとも昔懐かしい言葉だが、中国語の「老頭児」(ラァオ・トォル)から来たもので、老人のことを言う。しかし、マサが自分のことを中国語に由来する「ロートル」という言葉で表現しているからと言って、それだけで彼を中国育ちだと判断するのはいささか無理があるであろう。なぜなら、私が子どもの頃、周囲の大人がよくこの単語を使っていたからである。

 まあ、マサは日本語を使っているのだから、日本で生まれ育ったと考えるのが妥当なところであろう。『パーフェクト・ブルー』でも、マサが昔を述懐したとき、「俺がまだ一本立ちの犬になるまえに、世話になっていたサラリーマンの家には、小学生の男の子がいた」そうで、その男の子が野球が大好きで、「警察犬の訓練学校にいれられることになったとき、一番辛かったのは、その子と別れることだった。もう一緒に『野球』をして走り回れなくなることだった」と言っている。ドイツや中国で、普通の家庭の子どもたちが野球をやるとは思えない。

 では、マサが日本で生まれ育ったとして、日本のどのあたりで育ったのであろう。先に引用したマサの言葉遣いから判断して、少なくとも関西育ちとは思えない。関西犬なら、「ワイもえらい歳とってしもたもんや。入院している間、警察犬としてぶいぶい言わせてた頃のことをしょっちゅう夢に見たんやが、これもオジンくさくなってきた証拠かもしれへんな」と言うだろう。私が子どもの頃に関西で飼っていた犬もそんな言葉遣いをよくしていたものだ、と言うのはモチロン真っ赤なウソだが。そう言えば、マサは「おっこちてしまったら」なんて言葉も使っている。関西で就職の面接のときに「落っこちる」なんて言葉を使ったら、もうそれだけで採用試験に落とされてしまうだろう。もっとも、その点については確証はなく、あくまでも私の個人的憶測でしかない。

 やはり、「歳をとっちまった」「じじむさくなってきた」「おっこちてしまった」などという言葉遣いから判断するに、マサは東京方面で育ったに違いない。あらためて『心とろかすような』のページをパラパラとめくってみると、「煎じ詰めれば」「口の減らないガキめ」「ヤワなヤツ」「一本立ちしてから」「美人局(つつもたせ)」「閑古鳥が啼いている」「穴(けつ)をはたかれて」「またぞろ」「しゃっちょこばって」「如才無く」「ためつすがめつ」「
側杖(そばづえ)をくって」「捨て鉢なところがある」「遅蒔きながら」「溜飲を下げて」「光をはばかりながら」なんて言葉がつぎつぎに目に飛び込んで来た。これらの言葉はみんな講談社の前田勇編『江戸語大辞典』にちゃんと載っている言葉である。そうそう、「おっこちる」もまたこの『江戸語大辞典』に載っている。これらの言葉は、きっと深川江戸資料館にもずらっと陳列されているに違いない。

 マサは、江戸の町にかつて住んでいたことがあったのだろうか。いくら老犬マサでも、まさかそんなことはないだろう。マサは、カーポートに躍り込んで、ミッドナイト・ブルーのセダンのルーフに飛び乗ったりするし、物語にはテレビやカラオケ、自動車電話、さらにはガイガーカウンターらしきものも出てきたりする。あれっ、「横浜ベイ・ブリッジの夜景を見にドライブなんてどうかな」なんて会話もあるぞ。横浜ベイブリッジは、1989年9月に開通している。いや、時代を特定するものと言えば、それだけではない。この小説の最終章「マサの弁明」には、な、なんと宮部みゆきまでもが登場して来て、マサの表現に従えば、「いっちょまえに『午前中寝てますので……』などと、物書きらしいことをいっている」のである。マサはまた、そのときの彼女の歳を「年齢三十歳である」としているから、もしこの宮部みゆきが後に直木賞を受賞したあの作家の宮部みゆき(1960年生まれ)と同一人物だとしたならば、マサが彼女と会ったのは1990年となる。

 うーん、マサは老犬とはいえ、やはり「いま」に生きているのだ。それにしても、『江戸語大辞典』に収録されている様な単語や、さらには「ロートル」なんて昔懐かしい言葉をなぜマサは使うのだろうか。勿論、これらの言葉は完全な死語というわけではなく、いまでも使われている。しかし、いまの若い人にとってはもうすっかり馴染みのない言葉も結構あるだろう。もしかして、マサは戦前生まれ? 軍需工場などに徴用はされなかったとしても、空襲は体験しているかもしれない。マサの歳は幾つなのだろう。謎の解明はまだこれからだ。
2003年5月5日
「我らが隣人の宮部さん」
『心とろかすような マサの事件簿』 等について


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