私の宮部みゆき論

宮部みゆき『天狗風 霊験お初捕り物控(二)』に見る娘と猫の漫才コンビ

 いまから6、7年前のことですが、宮部みゆきが仕事場のエレベーターに郵便物を抱えたまま乗ったとき、一人の年輩の紳士と偶然一緒に乗り合わせたそうです。そしてそのとき、その紳士は彼女が手にしている郵便物を実に不思議そうにしげしげとながめ、それから彼女の顔と見比べたとのことです。

 彼女は手にどんな郵便物を抱えていたのでしょうか。べつにいかがわしい写真が表紙を飾っているようなカタログや雑誌の郵送物を手に抱えていたわけではありません。それは宛先を印字した腹巻きを巻いた「秋田魁(さきがけ)新聞」でした。宮部みゆきは、「地方紙に書く女」(『IN★POCKET』2001年9月号掲載)と題する文章のなかで、くだんの紳士はおそらく「なんで東京の下町の住人が、わざわざ秋田の新聞を取り寄せてるの? と訝られたのでしょう」と書いています。もし、この紳士が松本清張の「地方紙を買う女」を読んだことがあれば、彼女をきっと東京にいて秋田県の情報を知りたがるわけありの女と思ったかも知れませんね。

 ところで、宮部みゆきはなぜそのとき「秋田魁新聞」を手にしていたのでしょうか。実は、彼女は1994年4月から1995年4月の1年間にわたって『天狗風』を「秋田魁新聞」ほか15紙に連載小説として書いていたのです。そのために連載中は毎日いつも同新聞が彼女のところに届けられていたんですね。

 さて、先ほどの「地方紙に書く女」と題する文章のなかで彼女は『天狗風』についてつぎのように述べています。

 「『天狗風』は、わたしにとっては初めての新聞連載で書き上げた作品です。お引き受けした当時は、本当に毎日の新聞連載などできるかしらと、不安でした。でも、始めてみたら楽しくて、最初の予定より長引いた上に、調子に乗ってホラ話を広げすぎてしまって、単行本化の際の収拾作業に、ハンパじゃない大骨を折ったという笑い話のオチがつきました。」

 「調子に乗ってホラ話を広げすぎてしまって」と宮部みゆきは書いていますが、1997年11月に新人物往来社から単行本として出版された『天狗風 霊験お初捕り物控え(二)』は新聞連載当時の雰囲気を大いに残しているようです。観音さまの姿を借りたもののけが魔風となって人を襲って首をぶった切ったり、霊験お初と愉快な会話をする猫が突然毛むくじゃらの手足を生やした大きな大きな将棋の駒になって大暴れしたり、まあとにかく奇想天外な話がてんこ盛りのとても面白い時代小説に仕上がっています。

 なかでも楽しいのが霊験お初と猫の鉄の会話です。お初は人が見えないものが見え、人が聞こえないものが聞こえる不思議な霊感の持ち主ですが、だからといって普通の猫と会話できるわけではありません。鉄は、自分で「生まれてからこっち、雪が降る季節を三回越したよ」と言っているようにまだ3才の猫なんですが、不思議な力が備わっており、そのためにお初と会話ができますし、また大きな将棋の駒や狸の置物などに化けることもできるのです。『天狗風』のなかで、こんな不思議な猫の鉄とお初ちゃんとの間でとても楽しい会話がぽんぽんと交わされているのです。

 猫の鉄が「俺の顔になんか珍しいものでもくっついてかい?」と言うと、お初ちゃんが「あんたそのものが珍しいのよ!」と言い、お初ちゃんが手に持つ箒の動きを素早く目で追う鉄に「箒が好きなの?」と問いかければ、鉄が「がきのころ、それでじゃらして遊んでもらったもんだ。懐かしいな」と答え、それにお初ちゃんが「あんた、今だってがきじゃないの」とやり返しています。まさにぼけとつっこみの漫才ですね。

 この二人、いや一人と一匹の漫才にはどつき漫才の要素も取り入れており、鉄が生意気なことを言ったり悪戯をするたびにお初がぽかぽかとなぐっています。ですから、猫嫌いの右京之介が「お初どの、そんなふうに小さな生き物をポカポカやってはいけません」と心配するほどです。でも、心配ご無用、この二人、おっとまた訂正、この一人と一匹はとても気があっているから楽しくどつきどつかれているんですね。ですから、鉄が「でも頼むからよ、お初ちゃん、たとえばこの先、男に捨てられて悔しい! ってなことがあっても、天狗にはならないでおくれよ」と言ったときも、お初ちゃんは景気よくポカリとやってます。

 しかし、猫の鉄はまだ3才のくせに「女の妄念」という言葉を解説して、「そうさな、もっとたくさん生きて、旨いものをたらふく食べて、きれいなベベを着て、ちやほやされて暮らしたかったっていうようなもんかな」なんて辛辣なこともお初に言いますから、なかなか油断のできない相手です。

 このように、不思議な猫の鉄とお初の会話がとても楽しいので、ついつい『天狗風』に人間の心の内部に隠されている劣等感や優越感、妬み心や猜疑心などが生々しく描かれていたことを忘れてしまいがちです。しかし、この物語において、観音さまの姿を借りたもののけがつぎつぎと人々に取り憑き、美しい娘たちを神隠しにすることができるのは、やはり人間自身にそのような醜い心が存在しているからですね。

 例えば、この物語の発端となった下駄屋の政吉のひとり娘のおあきの神隠しの裏にも、やはり人間のそんな醜い心が隠されていました。おあきは浅草駒形堂近くの料理屋に縁付くことが決まっていたのですが、そのことに対し父親の政吉は手放しでは喜べず、なんとも複雑な感情を持つようなります。そんな政吉の心の隙間に忍び込んで来たのが観音さまの姿をしたもののけでした。もののけは政吉に、おあきは育ててもらった恩を忘れ、父親の政吉を足蹴にして出ていくんだと吹き込みます。もののけに取り憑かれた政吉はまた、娘のおあきから、料理屋の親類筋には下駄屋の仕事を「地べたで商いするような家」などと陰口をきいている人もいると聞かされたときも、心の奥で「親の商売がいやしいばかりに嫁入り先で肩身のせまい思いをしなくちゃならねえと、文句のひとつも言いたいってぇ腹か」との野太い声がうなるように聞こえてくるのです。

 また、政吉の娘のおあきも観音さまの姿をしたもののけに取り憑かれていました。彼女は、本所小町と言われるくらいにきれいな娘なんですが、ときどき放心状態になって普段の彼女なら言わないようなことを口走ったりするようになります。例えば、お美代という愛嬌があって心根はいいけれどお世辞にも器量よしとはいえない娘に対してつぎのようなことを言ったりしています。

「ねえあんた、あたしのこと嫌いみたいね。」
「しょうがないわね、やっかまれても。あたしは、あんたみたいな醜女(しこめ)にはどうやったって手の届かない幸せをつかんでるんだもの。」
「あたしがきれいだからって、あんた、そんなに引け目に感じなくたっていいのよ。あんたはあんたに似合いの男と所帯を持つんでしょう。それでいいじゃないの。」

 この親子はもののけに取り憑かれたから猜疑心に苦しんだり、露骨に自分の優越感を口に出したりしたのですが、しかしそれらの猜疑心や優越感は彼ら親子の心の奥に実際に存在していたからこそ、そこにもののけが忍び込んでより醜悪なものに拡大したのでしょう。だから、倉田主水という同心の「鬼神よりももののけよりも恐ろしいのは人間の方だ」との言葉は、『天狗風』が怪奇幻想的な時代小説であるにもかかわらず、とてもリアリティを感じさせる言葉となっているのです。


                              
2001年10月14日

「我らが隣人の宮部さん」
『天狗風』等についてのコメント



宮部みゆき「堪忍箱」に見る「かんにん」「堪忍」の意味

 私は『堪忍箱』を新人物往来社から出版されたときにすでに読んでおり、また同短篇集所収の「謀りごと」についてこの「私の宮部みゆき論」に拙文を載せています。しかし、この時代短篇小説集が新潮文庫から出されたときに新たに購入し再読いたしました。それで、今回は表題小説の「堪忍箱」に出てくる「かんにん」「堪忍」の意味について重点を置いて論じてみたいと思います。
なお、今回もいろいろネタばれをおこないますので、未読の方はご注意下さい。

 この短編集『堪忍箱』には、他人には言えない様々な想いを心の裡にそっと封じ込めている人々がつぎつぎと登場して来ますね。例えば、「かどわかし」には小一郎という落語の世界でお馴染みのこまっちゃくれた子どもが登場し、畳屋の箕吉との間にまさに落語的なユーモア感に溢れた傑作な会話を交わし、読者を大いに笑わせますが、そんなこまっちゃくれた坊やの胸の裡にも淋しく哀しい想いが秘められているんですね。

 また「砂村新田」では、やくざな男の心の裡にそっと秘められていた純情が読者の胸を強く打ちます。文庫本の解説でも、金子成人(NHKTVの「茂七の事件簿 ふしぎ草紙」の脚本を書いた人ですね)がこの作品に言及して、「今直ぐにでも脚色したい」とコメントしています。「お墓の下まで」においても、人に言えない暗い秘密を心にそっと隠し持った人々が、同じ屋根の下にひっそりと寄り添って生きているんですが、彼らのそんな姿に人生の淋しさと温かさを同時に感じさせられ、読後にとても深い余韻が残りました。

 それから「十六夜髑髏」も、船底で櫂を漕ぐと形容されるようなふきの小原屋での女中暮らしと中天に妖しく輝く十六夜月のコントラストが絵画的美しさを創りだしていますが、その十六夜の月の光を浴びて小原屋の旦那が「生きていても、いたずらに小原屋を傾けるだけの私だ。それならいっそ、こうして死ぬことで、小原屋にかかった呪いの雲をはらおう」と言っています。小原屋の旦那もずっそんな辛く重たい想いを心に秘めて生きてきたんですね。

 短篇小説「堪忍箱」は、短篇集『堪忍箱』の各短篇に描かれている登場人物たちの心の裡に秘められた想いを解いていく、その心の準備を読者がするために巻頭小説として最初に置かれ、またこの短編集の表題作にもされたのではないでしょうか。新潮文庫版の表紙には、藤田新策(宮部みゆきの『火車』や彼女の時代小説の文庫本の全装画を担当していますね)が描く堪忍箱の絵が装画として使われており、繊細な手がその蓋を開けて作中の登場人物たちの心の裡をいままさに読者の目の前に示そうとしています。

 この表紙の装画は、藤田新策が宮部みゆきの時代小説のために描いてきたこれまでの江戸の町の闇シリーズとはいつささか趣を異にしており、画家自身が「写真の物撮りのようにストレートに描きました」(「毎日新聞」2001年11月11日の「本と出会う─批評と紹介」の「COVER DESIGN」欄に載せられていた藤田新策の言葉)と語っていますが、黒みがかった茶色の畳に螺鈿細工が美しい黒い漆塗りの文箱が表紙の真正面に大きく配置されており、とても落ち着いたいい雰囲気を漂わせています。

 さて、その短篇「堪忍箱」を読んで、ラストの場面でお駒が行灯を倒し、燃え広がる炎のなかで堪忍箱を膝の上にのせて「堪忍、堪忍してね」と言うラストの場面に驚き戸惑った読者も多かったのではないでしょうか。私もそんな読者の一人でした。彼女はどんな思いで行灯を倒し、室内に火を燃え上がらせたのだろうか、彼女の「堪忍、堪忍してね」にはどんな意味が込められているのだろうか。物語は、読者が持つであろうそんな疑問に一切答えないまま、ここでぷっつりと終わってしまうのです。

 しかし、再度この短篇を読みなおしたとき、この作品はそこに出てくる3つの「かんにん」あるいは「堪忍」という言葉の意味を読者各人に解いてもらう心理ミステリーなのではないかと私は思うようになりました。また、作者の宮部みゆきは、この言葉の意味を考えるための手掛かりを短篇「堪忍箱」の中に幾つか用意し、解釈は読者各人に託しているように思われます。それで、この短篇に出てくる3つの「堪忍」または「かんにん」という言葉の意味を私なりに考察し解釈しましたので、つぎにそれを紹介させてもらうことにいたします。

 お駒は、祖父と母が火事になったときに、なぜ堪忍箱にあんなにこだわり、命を落としたり怪我を負ったのだろうかと不思議に思っていました。そんな彼女は、急死した父親の彦一郎が生前に仏壇の前で膝に小さい箱をのせて「かんにん、かんにん」と呟いているのを聞いたとき(文庫本、22頁)、まだその意味がよく分かりませんでした。だから作者は「堪忍」を「かんにん」と表現したのでしょう。しかし、この「かんにん」は「我慢するんだ」といった意味だったんだと思います。では、お駒の父親はなにを我慢しょうと心に言い聞かせていたのでしょうか。それは、自分の父・清兵衛と妻・おつたの忌まわしい密通に対してではないでしょうか。

 ところが、なにかいわくがありそう堪忍箱について、お駒がお島や八助に質問したとき、「八助は驚いたように目を見張った。お島はぐいと口の端を曲げた。怒ったのかと、お駒は思った」(22頁)とあるように、彼らはお駒に対して思わずただならぬ様子を示してしまいます。さらに、お島がお駒に堪忍箱を手渡したときにも「夜叉の面のような顔」(30頁)をしており、お駒はこの堪忍箱にお島や八助の説明以上に重大な秘密が隠されていることを感じるようになります。

 そして、堪忍箱に対するお駒の認識は、女中のおしゅうが34頁、35頁で大騒ぎを演じることによって急変することになります。お駒は、父親が母のおつたと祖父によって毒殺されたかもしれないという疑惑を持つようになるんですね。ところで、女中のおしゅうは、おつたが仏間で黒い漆塗りに向かって「堪忍してください、堪忍ね」と言ったのを聞いた(文庫本、35頁)と言っています。この「堪忍してください、堪忍ね」は、おつたが毒殺した自分の夫・彦一郎に対して「どうか許してください」と必死に許しを請うていた言葉ではないでしょうか。こうしてお駒の母と祖父への疑惑はどんどんと強まっていき、彼女が疑問に思っていたこと(なぜ祖父と母は火事の時に堪忍箱にこだわったのか、なぜ父は堪忍箱に「かんにん、かんにん」と呟いていたのか、なぜお島と八助は堪忍箱に対してただならぬ様子を見せるのか)もその疑惑をさらに一層つのらせる重要な意味と役割をあらためて持つようになり、容赦なく彼女の小さな心を責めさいなむようになったんだと思います。だから、小説でも「鎌で斬りつけられたように、その思いが心を切り裂いた」(37頁)と表現しているんですね。

 こうして、この短篇のラストにおいて、お駒は行灯をゆっくりと倒し、燃え広がる火の中で「堪忍、堪忍してね」と言って堪忍箱を膝の上にのせるんですね(文庫本、37頁)。おそらく、まだ14歳の彼女は、祖父と母親の醜悪で罪深い行為に対する疑惑を持たざるを得ない情況に突然追い込まれ、その忌まわしい疑惑を心に隠し持ったまま生きて行くことに耐えきれなり、「堪忍箱」に隠された秘密とともに自らを火の中に投じることにしたんでしょうね。そのときの「堪忍、堪忍してね」との呟きには、「もう駄目、許してね」と精神的に耐え切れなくなった気持ちが込められているのではないでしょうか。

 3つの場面における「かんにん」或いは「堪忍」の意味をこのように私は解釈しましたが、みなさんはどう解釈されますか。

                                      2001年11月18日

「我らが隣人の宮部さん」
『堪忍箱』等についてのコメント


宮部みゆき『あかんべえ』に見るお化けと人間の心の闇
 
 PHP研究所の公式サイトの「Book store」には、2002年3月に出版された『あかんべえ』についてつぎのような解説が載っています。

「おりんの両親が開いた料理屋『ふね屋』の宴席に、どこからともなく抜き身の刀が現れた。成仏できずに『ふね屋』にいるお化け・おどろ髪の仕業だった。しかし、客たちに見えたのは暴れる刀だけ。お化けの姿を見ることができたのは、おりん一人。騒動の噂は深川一帯を駆け巡る。しかし、これでは終わらなかった。お化けはおどろ髪だけではなかったのである。
 なぜ『ふね屋』には、もののけたちが集うのか。なぜおりんにはお化けが見えるのか。調べていくうちに、30年前の恐ろしい事件が浮かび上がり……。死霊を見てしまう人間の心の闇に鋭く迫りつつ、物語は感動のクライマックスへ。怖くて、面白くて、可愛い物語のラスト100ページは、涙なくして語れない。」

 『あかんべえ』は、この解説からも分かるように、料理屋「ふね屋」を舞台にしたお化け騒動を扱ったお化け小説です。江戸深川の料理屋「ふね屋」はおりんという十二才の少女の両親が新しく開いたお店なんですが、このお店にお化け騒動が起こったため、お客さんが寄りつかなくなってしまいます。そんなお化け騒動に対し、お化けの姿を見ることのできるおりんがなんと優しいお化けに助けられながら騒動の背後に隠された真相を究明していくというお話です。

 小説の雰囲気は『震える岩』、『天狗風』の霊験お初シリーズとよく似ています。霊験お初のパートナーが頭脳明晰な右京之介や化け猫の鉄だったのに対し、この『あかんべえ』の主人公であるおりんのパートナーはお化けのQ太郎、おっと違った、お化けの玄太郎、またまた違ったお化けの玄之介なんですが、これがまたなかなか美男の若侍なんですよ。この玄之介、おりんからぶたれそうになったとき(お化けですから空振りしてしまいますが)、「ついでに、あら玄さま意地悪ねぇ、あちきは意地悪な殿方は嫌いでありんすとでも言ってくれんか」なんて廓(くるわ)言葉を使ったりして軽口をたたきますから、生前は相当な遊び人だったようです。しかし、とても気さくで優しい人柄のお化けで、おりんの良きパートナーとなって活躍します。

 ところで、美男の若侍お化けの玄之介だけでなく、彼を含めた五人のお化けが料理屋の「ふね屋」が開かれる以前からその家にいたそうです。玄之介の話によると、彼らが出てくると「なぜかしら冷えるらしい」とのことですから、クールファイブですね。しかし、このクールファイブのメンバーはみんななかなか個性的なお化けさんたちですよ。美男で粋な若侍の玄之介、おりんだけにあかんべえをする女の子(お梅)、指圧が上手な按摩(笑い坊)、三味線を弾きながら「あきらめましたよ。どうあきらめた。あきらめられぬと、あきらめた」なんて唄ったりするあだっぽい美人(おみつ)、長い浪人暮らしのなかで真っ当でない生き方をして来たらしいおどろ髪の計五名です。なお、おどろ髪は抜き身の刀を持って「ふね屋」の宴席で大暴れをしましたが、普段は大人しい存在です。

 では、このクールファイブはなぜ成仏せずにこの「ふね屋」に前からいるのでしょうか。お化けの玄之介たち自身にもその理由が分からないようです。おりんは、その謎が分かれば彼らは成仏できるかもしれないと考えるのですが、なんと按摩お化けの笑い坊は「成仏なんぞ、したないわい」と言い、さらにつぎのようなことさえ言うんです。

「だいたい、わしは迷ってなんぞおらんわ。ここで治療をしとるんじゃ。だからおまえだって診てやったのに、そのわしを追い払おうなんざ、おまえはとんだ恩知らずじゃ」
「消えてなくなることを望むような奴がどこにいる」

 うーん、困ってしまいますね。お化け騒動のためにおりんの両親が営む料理屋にお客は寄りつかなくなったのですから、やはりお化けには消えてもらいたいと思いますよね。しかし、お化けにだって先住権や生存権はあるのかもしれませんね。実際にそこに存在している以上、「消えてなくなることを望むような奴がどこにいる」って言われたら返す言葉もないですね。いままで考えたことなどありませんでしたが、やはりお化けの立場に身を置いて考えることも必要なのもしれませんね。うーん、しかしおりん一家の生活もかかっていますし、これは大変難しい問題ではないでしょうか、うーん。

 『あかんべえ』はこんなお化けがたくさん出てくる時代サスペンス・ファンタジーですが、またおりんという少女が人の世の醜さ、愚かさ、哀しさなどを知っていく話でもあります。幼い頃は化け猫、狐憑きの話や影を踏まれて寿命が尽きてしまった娘さんの話、さらには水練の達人のお侍が、恨みを呑んだ土左衛門に足を引っ張られて溺れ死にした話などに震えあがっておねしょをしたりしていた少女が、今回のお化け騒動を通じて人間の心の闇に隠されていたものをつぎつぎと知ることになるんですね。ですから、この物語では、そこに登場するお化けたちよりも、生きている人間たちの横恋慕、妬み、恨みなどが生み出す激しい憎悪、怨念の方がよほど不気味で怖いものとして描かれています。

 なお、普通の人間には、おりんのようにすべてのお化けを見ることなどはできませんが、個々のお化けが心に持っている妬みや恨み、悲しみや苦しみなどと同じものを心に隠し持っていると、そのお化けの姿だけは目に見えるようです。そのことについて、お化けの玄之介は「お化けとその人間との間に、似たようなものがある場合──それぞれに、似たような気持ちのしこりを抱えている場合」に見えるのだろうと推測しています。そして、おりんに「大人はいろいろな思い出を持っている。生きていると、否応なしにいろいろの思いが溜まるものだからな」とも言っています。そう言えば、美人お化けのおみつもまた似たようなことを物語の後半でおりんに説明していますし、さらにつぎのようにも言っています

「誰にだって、ひとつやふたつの隠し事はあるものだし、ふたつあれば三つあってもおかしくない。三つあれば、もっとあってもおかしくないということだよ。さあ、おりんちゃんはもうお寝(やす)み。あたしがここにいれば、どれほど蒸し暑くたって涼しく眠れるから団扇は要らない。なんなら、子守唄の一節も聴かせてあげよう。」

 さすがおみつさんはクールファイブのメンバーの一人ですね。彼女の冷房付きの美しい唄声はおりんの心にどのように響いたのでしょうね。
                                      2002年3月23日

「我らが隣人の宮部さん」
『あかんべえ』等についてのコメント


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