私の宮部みゆき論

宮部みゆき『初ものがたり』に見る江戸時代の影の部分

 宮部みやきの『初ものがたり』(PHP研究所、1995年7月)の表紙カバーには「著者の言葉」としてつぎのようなことが書いてある。

  「季節感を織り交ぜながら、捕物もある人情小説を書いてみたい――
  時代小説を手がけ初めて以来、ずっと温め続けていた想いが、
  ようやく一冊の本になりました。」

  この『初ものがたり』は、「回向院の旦那」と呼ばれる岡っ引きの茂七が江戸は本所深川に起こる事件をつぎつぎと解明していく短編時代小説である。作者は、この作品への抱負として「季節感を織り交ぜながら、捕物もある人情小説を書いてみたい」としていたが、そのために物語のあちらこちらに江戸下町の季節感を上手く盛り込んでいる。読者はなかでも深川富岡橋の近くに屋台を出している謎の稲荷寿司屋の親父が出す蕪汁、白魚蒲鉾、柿羊羹、小田巻き蒸し、桜餅といった食べ物の描写に大いに季節感を味わい楽しむことができる。例えば、白魚蒲鉾はつぎのように書かれている。

「しばらくして出てきたのは、椀のなかに入った、なにか白くて小さなものだった。たしかに、型をつけてない蒲鉾のような見てくれだが、葛あんがたっぷりかけてあり、てっぺんにちょこんと山葵(わさび)が乗せてある。
 味わってみると、ほのかに魚の旨味があり、うっすらと溶けてゆく。」

  読者はまた、このただ者とは思えぬ謎の屋台の親父の正体がとても気になることだろう。各短編が連続して展開していくなかで次第にこの人物のことがおぼろげながらいろいろ見えてくるが、物語の最後になってもその正体は明らかにされない。ぜひこの続編が出され、その正体を明らかにしてもらいたいものである。

  ところで、この『初ものがたり』で起こるいろいろな事件が解明されていくなかで、江戸の市井に懸命に生きる人々の喜びや悲しみが描き出され、読者はまた回向院の茂七によるそれらの事件に対するなかなか巧みな結末のさせ方に大いに感心させられることであろう。しかし、この「季節感を織り交ぜながら、捕物もある人情小説」において、読者はつぎのことをも見過ごしてはならないであろう。それは、江戸時代の光と影のその影の部分がきちっと描かれていることである。

  例えば、お勢殺し」では、事件が解明されていくなかで、担ぎの醤油売りをしながら日銭を稼いでいるお勢という女の「父親に倒れられ、ひとり身の心細さ、日銭暮らしの先行きの危うさ」が浮き彫りになっていく。そんなお勢は、お店者の暮らしに憧れていたという。だが「太郎柿次郎柿」という短編では、「人に使われる身の者、とりわけ商家の奉公人などは、主人一家に生殺与奪の権を奪われて、何をされても手も足も出ない立場にある」としている。そして、身体ひとつが頼りの江戸の庶民たちは、ちょっとしたことで不幸のどん底へと落ち込んでしまう。「白魚の目」に出てくるお稲荷さんをねぐらにしている親のない子供たちはそのような不幸に見舞われた家の子供たちであろう。この親をなくし家を失った子供たちが毒入りの稲荷寿司を食べさせられて殺されてしまうのであるが、茂七はこんな残酷な殺人事件をいろいろ調べるなかで、一応は嫌疑の対象となるお稲荷さんの付近の住民についてつぎのように思うのである。

「なるほど彼らは生業を持ち、薄い厚いの差はあっても屋根のある家に住み、どうにか暮らしをたてている。だがそれもひと皮めくれば、お稲荷さんで殺された子供たちと変わらないような、綱渡りの暮らしだ。彼らが子供らを目障りだと思ったり、あるいは見て見ぬふりをしてきたのは、彼らにも他人にかまう余裕がなかったから、あるいは、彼らの哀れな境遇に、他人ごとでないようなものを感じて、かえって目をそむけたくなったからかもしれない――びくびくしながらこちらの問いに答える冬木町や蛤町の住人たちの顔を見続けているうちに、茂七はそう考えるようになってきた。」

  物質的な貧しさや不安定さと言えば、「太郎柿次郎柿」には「髷(まげ)のなかまで泥水が染み込んでいるような」江戸近在の水飲み百姓が登場し、こんな姿を見た船宿のおかみが「おお嫌だ」といったように身震いをする様子も描かれている。このことは、江戸の庶民よりもっと貧しい生活が農村にあったことを垣間見せてくれる。

 また同じ「太郎柿次郎柿」には、持参金欲しさに商家の娘を嫁にもらおうとした直参旗本の家が、いったんこの娘を旗本の親戚筋の養女にしてから嫁入りさせるといった挿話も紹介されている。江戸時代が封建的な身分制社会だからこそ、こんな面倒なことをしなければならないのだ。その他、この『初ものがたり』には姑の嫁いびりの話や賄賂をもらって事件をうやむやにしてしまう役人のことなど、様々な社会の影の部分が描かれている。宮部作品は、このように社会の影の部分をいつもしっかりと描き込んでおり、だからこそ、そこに生きる市井の人々の喜びや哀しみが読者の心を強く打つのである。闇があるから、そこに点る灯りがたとえ小さくてもとても輝いて見えるように。

                                         
                               2000年8月20日

「我らが隣人の宮部さん」
初ものがたり』等についてのコメント



宮部みゆき『スナーク狩り』に見る場面構成のテクニック

 『スナーク狩り』(1992年に光文社より出版、後に光文社文庫に収められる)は、妻と実の娘を残酷な手口で殺された織口邦男が、シンナー中毒のために金沢の病院で治療している犯人の大井善彦と井口麻須美の後悔が本物かどうかを非合法的な手段によって試そうとする物語をメインにしながら、それに加えて、自分を裏切った恋人への復讐を計画する関沼慶子や、義母の専横のために家庭崩壊の危機にある神谷尚之とその子どもで重圧感のために言葉を発することをやめた竹夫の親子の物語など幾つかのサブストーリーを複雑に絡み合わせながらスピーディに展開していく。

 この物語はなんとわずか半日のなかで繰り広げられており、その息もつかせぬスピーディな物語の展開に読者はぐいぐいと引き込まれ、頁を繰るのももどかしい気持ちでどんどんと読み進んでいくことだろう。

 それでは、物語をスピーディに展開させながら読者の心を惹きつけ夢中にさせるために作者はこの『スナーク狩り』でどのようなテクニックを駆使しているのであろうか。

 あらためて読み直してすぐ気がつくことは、この物語が細かく分割された節によって数多くのシーンを作りだし、それらのシーンをつぎつぎと切り替え、積み重ねることによって物語を変化に富んだ起伏のあるものにしていることである。すなわち、この『スナーク狩り』は全四章プラス2つの短い付記で構成されているが、第一章は11節、第二章は9節、そして第三章と第四章はともに10節というように非常に細かく節分けされているのである。

 さらに大切なことは、多くの場合、節が変わるたびに視点も切り替わっていることである。第一章を例にすると、第1節は関沼慶子、第2節は佐倉修治、第3節は関沼慶子、第4節と第5節は国分範子、第6節は佐倉修治、第7節は織口邦男、第8節は関沼慶子、第9節は佐倉修治、第10節は関沼慶子、第11節は佐倉修治の視点に添って描かれている。第4節から第5節を国分範子の視点で連続させている以外は、節が変わるたびに視点が変わっていることが分かるであろう。

 このように作者は節を細かく分け、各節ごとに視点を変化させるというテクニックを駆使しているが、このようなテクニックは作者にかなりの技量がないとかえって物語の展開を滞らせ、その内容を非常に分かりにくいものにしてしまう危険性もあるだろう。それを熟練職人の宮部みゆきは見事にやりこなし、これら細分された節を巧みに織り合わせて多くの読者を魅了するスピーディで面白い作品に作り上げたのである。

 と、このように評価し、また実際に多くの読者を魅了したであろうこの作品に対し、では私自身はどうだったかと申しますと、実はあんまり魅了されなかったということをやはり正直に告白しておかなければなりません。私はどうも個人的な「復讐」とか「審判」といった類の話が苦手なんですね。ですから、この物語を読み進んでいくなかで、織口邦男が金沢に向かう目的が分かってきたとき、これはやばいぞと思ったもんです。織口邦男が金沢に向かうのは、残虐な犯罪をおこなった大井善彦と井口麻須美 が「本当に自分のしたことを後悔しているのかどうか。罪に見合った罰を受ける用意ができているのかどうか」、そのことを試すためなんですよね。『スナーク狩り』において、そのような「試し」を実行しようとした織口邦男の気持ちがつぎのように語られています。

「我々はみな、そろいもそろってお人好しばかりなのだ。織口は思う。我々は、何度だまされても懲りようとしない。そして、何度も何度も殺される。
 そうだ。だから、今──。
 善彦が、麻須美が、本当に悔いているのかどうか、彼らが一度でも、恐怖に両目を見開いたまま撃ち殺された母娘のことを思い浮かべ、胸を痛めたことがあるのかどうか、その本当のところを確かめてやろうじゃないか。」

 織口邦男はその「試し」のために関沼慶子が所持していた散弾銃を奪い、善彦と麻須美がいる金沢に向かったんですね。そして、実際に彼はその「試し」を行動に移すんですが、その行為を見て私の抵抗感はますます強まってしまいました。

 でも誤解しないでくださいよ。私は織口邦男の行為が法律を逸脱したものだから抵抗を覚えたと言っているんじゃないんですよ。少なくとも小説というフィクションの世界では、話の設定によっては「法律もくそもあるもんか」って思えることがよくあり、登場人物の非合法的行為に大いに共感し、拍手喝采して気持ちがすかっとすることはよくあります。

 しかし、織口邦男の大井善彦と井口麻須美に対する「試し」には抵抗感しか残らず、読後感もよくありませんでした。だって、人間なんて弱いもんでしょう。そんな人間に甘い罠を仕掛けておいて、罠にはまったら、「やっぱりお前は悪いヤツだ、死刑だ」というのは余りにも酷い仕打ちじゃないですか。それは人間の弱い心を弄ぶ行為であり、そんな行為に共感することなんてどうしてもできません。それに、人間の実際におこなった行為は審判できるとしても、神様ならともかく人間が他人の心の奥にあるものなど「審判」できませんよ。

 勿論、織口邦男の行為を止めようと彼の跡を追って来た佐倉修治が、「あなたはね、織口さん、彼らを撃ち殺すための口実を探してるだけですよ。試すなんて嘘っぱちだ。そうやって自分にも嘘をついてる。あなたは、ただ、あの二人を殺したいだけだ。そうでしょう?」と言っています。また、「付記1」には国分範子が関沼慶子に出した手紙が紹介されており、そこに作者の主張が明確に述べられています。

 「そうそう、『スナーク狩り』というお話を知っていますか? これも修治さんから聞いたんです。ルイス・キャロルという人の書いた、とてもおかしな長い詩のようなものなんですけど、スナークというのは、そのなかに出てくる、正体のはっきりしない怪物の名前なんです。
 そして、それを捕まえた人は、その瞬間に、消えてなくなってしまうんです。ちょうど、影を殺したら、自分も死んでしまったという、あの恐い小説みたいに。
 その話を聞いたとき、わたし思ったんです。
 織口さんは、大井善彦を殺そうとした。大井は『怪物』だと思ったから、だから銃を振り上げて、彼の頭を狙おうとした。でもそのとき、織口さん自身も怪物になってた。
 織口さんだけじゃない。慶子さんは、芙蓉の間の外で銃を構えていたときに、怪物になってた。わたしはあの手紙を書いて、慶子さんがやって来てくれないかと待っていたとき、お兄ちやんの結婚式がめちゃくちゃになればいいと願っていたとき、怪物になってた。お兄ちやんは、国分慎介は、慶子さんを殺そうとしたときに、怪物になってた。
 修治さんは――修治さんもどこかで怪物になってた。」

 『スナーク狩り』にはこのように
憎悪と怨念のために自分を失ってしまった人間への批判の視点が明確に打ち出されていますね。でも、このような批判の視点がドラマ全体の展開のなかに効果的に反映されていたようには私には思えないんですね。もしかしたら、この小説が細かく節分けをおこない、各節ごとに視点を変化させるという高度なテクニックを駆使してスピード感を創り出したことが、織口邦男たちの行為の意味を物語の展開のなかでじっくりと掘り下げ批判することを難しくしたのかもしれませんね。そして、そのために作者は仕方なく「付記」によってあらためて批判の視点を強く打ち出さなければならなかったのかもしれません。その点についてみなさまはどのように思われますか。


                              2000年11月23日初稿
                                  11月27日改稿

「我らが隣人の宮部さん」
『スナーク狩り』等についてのコメント



宮部みゆき『模倣犯』に見る「純粋な悪」

 宮部みゆきの『模倣犯』上下2巻(小学館)の分厚いミステリー小説をまだ読んでおられない方は、ネタばらしによって興を殺がれる可能性があるかもしれませんので、まず先にこの原稿用紙にして三千五百五十一枚の長編小説を読まれてから、その後でこの拙論をご覧いただきたいと思います。

 もっとも、ネタばらしと言いましても、若い女性がつぎつぎと拉致監禁され、なぶり殺しにされる連続殺人事件が、ピースこと網川浩一が「舞台演出家」となって栗橋浩美を使って「実演」した「殺人劇」であるということは、この小説の早い段階で明らかにされています。また、殺人の動機も同じく早い段階で明らかにされています。栗橋浩美が岸田明美と一緒にお化けビルの廃墟に踏み込んだとき、この岸田明美が不慮の事故で死亡し、また同じときに幻覚に襲われた栗橋浩美が嘉浦真衣を殺害してしまったのですが、この事件を覆い隠すために栗橋浩美の友人のピースが若い女性を対象とする連続殺人事件をつぎつぎとおこなうことを考え出したのです。殺人の手口も別に複雑なトリックを駆使するような手の込んだものではありません。もしネタばれ的な部分と強いて言うならば、それはピースが演出した連続殺人事件の真犯人が彼自身であることが発覚する過程とその結果にあるでしょう。

 ピースは、栗橋浩美を使って連続殺人事件を起こしたのですが、その栗橋浩美が死体を載せて走っていたときに自動車事故で死亡し、同乗して同じく死んでしまった高井和明もまた連続殺人事件の犯人と見なされるようになってしまいました。そのときに、なんとピースは大胆にもこの栗橋、高井の小、中時代の友人としてテレビに出演し、高井和明は連続殺人事件の犯人ではない、栗橋浩美以外にさらに「真犯人X」が存在しているとの仮説を雄弁に論じるという奇策を展開し始めます。そのような大胆な仮説を弁説爽やかに論じる彼は、一躍マスコミから脚光を浴びることになります。

 では、ピースの大胆不敵な奇策はどのようにして打ち破られたのでしょうか。それは、この事件を追跡していたフリーライターの前畑滋子がピースと討論を交わすこととなったテレビ番組において、米国で以前あったこととして、疑いをかけられたまま死んだ友人の無実を訴えた人物が真犯人だったという事件を紹介し、今回の事件の真犯人はそれを知ってサル真似をした模倣犯にすぎないと発言したからです。この前畑滋子の挑発に対し、なんとピースは、「冗談じゃない! 僕がそんな真似をするものか! 僕がやったことはオリジナルだ! 全て僕の創作だ。僕が、僕の、この頭で考えて、一人でやってのけたんだ!」と叫んでしまったのです。

 なぜ彼は、自ら自分の犯行を認めるようなことを言ってしまったのでしょうか。それは、彼が自分自身を非常に優越した存在だと自負しており、なによりも人の犯罪をサル真似する模倣犯と見なされることが耐えがたかったからです。このピースの弱点を前畑滋子は見事に衝いたのです。前畑滋子は、オリジナルな取材によってオリジナルな分析と意見を持つことを常に追求していたライターでした。だからこそ、ピースがその「殺人劇」において仕組んだ奇策のオリジナリティにこだわる心理が理解できたのです。

 ピースは、連続殺人劇の演出家を気取り、真犯人でありながら死んだ人間の無実を訴えるという奇策を創造的な行為と見なすような人物でした。そんな彼は、自分が犯罪事件の犯人だと発覚したときも、その犯罪行為が沢山の本に書かれ記録されるであろうことに喜びを感じており(自分が書いた創作作品が晴れて出版されるような気持ちなんでしょう)、さらに逮捕された後には樋口めぐみに取材してその父親の犯罪事件を本に書くつもりでいます。なんとも懲りないヤツですが、「創作者」としての業病に罹っているその姿は哀れでもあります。

 こんなピースは、子どもの頃、にこにこした丸い笑顔が可愛いかったので「ピース」と呼ばれる非常な優等生でした。また、小学校の同級生・栗橋浩美から見たピースの家庭は、住まいは小ぎれいなマンションで、素敵な服を身にまとったにこにこ笑顔の優しいお母さんがいて、お父さんは一流の会社員というまさに「幸福な家庭」を絵に描いたようなものでした。

 しかし、前畑滋子が独自に調査するなかで明らかになったピースの家庭環境は極めて複雑なものでした。彼のそんな家庭環境を知って前畑滋子はつぎのように思います。

 「生まれたときから居場所のない、どちらへ行っても誰かの邪魔になるという役割を押しつけられた子供。それが網川浩一だった。いつもニコニコしているから“ピースとあだ名されていたという少年は、実は不安定きわまりない家庭環境のなかで、味方といえば頼りない母親一人しかいなかった。」

 さらに前畑滋子は、子ども時代のピースの心理を考察し、彼の目立ちたがり、騒がれたがりは愛情欠乏の裏返しであり、また自分の居場所を確保するためにニコニコした笑顔だけでなく、有能で特別な人間であることをもアピールせねばならなったのだろうと推測しています。栗橋浩美の目に映ったピースのあの「幸福な家庭」はピースと彼の母親が演技して造り上げた幻像だったのです。幼いピースも母親と一緒に外部の人間に対して「幸福な家庭」の「幸福な子ども」を必死の思いで装っていたのです。幼いながらも自分の自然な気持ちを徹底的に抑圧して「幸福な子ども」を演じていたのです。

 こんなピースは、学校では「成績優秀、スポーツ万能、女の子にもモテたし、クラスの人気者」でしたが、「いつだって、集団のなかで頭ひとつ分だけ飛び出していられるように、自分を調整していた」ような子どもでもありました。しかし、にこにこピースはもう一つの顔を持っていました。狡猾で陰湿ないじめっ子の顔です。幼い頃から栗橋浩美と高井和明(カズ)はお互いに助け合い補いあうような親しい関係を保ってきましたが、そんな蜜月関係は小学四年生のときにピースが転校してきてから破れます。それはピースが栗橋浩美と一緒に「目立たないように、狡猾に、陰湿に、カズを虐げるようになった」からでした。ピースは子どもの頃からこんな二つの顔を器用に使い分けていたのです。

 そんな彼が個人的な人間的欲望や嫉妬、衝動などから切り離された「純粋な悪」「完璧な悪」を栗橋浩美を使って「演出」したのです。若い女性をつぎつぎと拉致監禁し、なぶり殺しにしたのです。彼らが被害者たちを撮った写真には、殴られて青痣が出来た目を見開きながらも、それでもにっこり笑っている、いや笑わされている姿も写っていました。なんという残酷さでしょうか。「まやかしの希望は、絶望より邪悪」です。彼らの要求通りすれば助かるかもしれないと一縷の望みを持たせ、結果としてさらに被害者たちの絶望感を強めさせているのです。

 しかし、ぐずでのろまな存在と見くびっていた高井和明から彼らの犯罪行為が大人の行為ではない、ガキのやることだと言われたとき、このピースは大いに動揺し、ひるんでいます。図星だったからです。そうなんです、彼は創造的な能力によって人から評価されることができないため、「自分が世界でいちばんだ」との思いを満足させるために殺人ゲームに興じ、マスコミを騒がせて喜ぶ幼稚な存在でしかなかったのです。幼い子どもが泣いたり暴れたりして大人の注意を引くように、殺人という最も破壊的な行為によってしか人々の関心を自分に引きつけられない幼稚で卑小な存在だったのです。また人は、ピースが軽蔑した人間的欲望や嫉妬、衝動との葛藤をくぐり抜けて子どもから大人に成長していくのですが、そんな人間的な欲望、嫉妬、衝動を嫌悪した彼は、被害者やその家族の人間的苦しみも理解できない薄っぺらな「二次元的存在」にとどまっていたのです。

 そんな彼らの残酷にして幼稚な殺人ゲームは、犠牲者とその家族には耐え難い苦しみと悲しみを現実に与えるもでした。逮捕されたピースが自白を始めたとき、NHKのニュースが「これでようやく一連の事件は解決に向かいます」と報じたことに対し、孫娘の鞠子を彼らに殺された有馬義男が「終わってなんかいねえよ。鞠子は帰ってこねえんだよ。鞠子を返してくれよ。鞠子を返してくれよ。俺の孫を返してくれよ」と悲痛な声を発しています。しかし、そんな残酷な事件を起こしたピースたちにとっては、彼らの犯罪は現実のどろどろとした人間くさい犯罪行為の上っ面をなぞったバーチャルな「模倣犯罪」でしかなかったのではないでしょうか。

 作者の宮部みゆきは、またこのピースの残酷にして幼稚な犯罪は、犯行を繰り返すなかで様々なほころびを見せており、たとえ前畑滋子の挑発に乗らなくても露見していったであろうことを示唆しています。例えば、元刑事で退職後に一級建築士の資格を取った建築家≠ニあだ名される人物は、自動車事故で亡くなった栗橋浩美の住居から発見された犠牲者を撮った写真からピースの犯行アジトがある場所を特定しました。そして、前畑滋子がピースに疑いを抱き、彼の母親が所有する氷川高原の山荘を訪れたときには、すでに刑事たちがそこを張っていました。早晩、彼は逮捕される運命にあったのです。

 私は、『模倣犯』のなかでリアルに描き出されているピースたちの冷酷非情な犯罪行為を読んでいると、栗橋浩美が岸田明美と一緒に踏み込んだお化けビルの廃墟に自分自身もたたずんでいるような気分になりました。このお化けビルは、バブルがはじけたために建築途中で見捨てられて、闇の夜空を背負って鉄の墓場と化して寒々と立っていましたが、それはまるでピースたちの荒涼とした心象風景を映し出しているように思われました。

 『スナーク狩り』の大井善彦や『クロスファイア』の浅羽敬一、さらには『理由』の八代祐司のように、これまでの宮部作品にも冷酷非情な人間は登場して来ています。しかし、今回の『模倣犯』のようにピースや栗橋浩美の心に接近し、さらにはその荒涼とした精神のなかに入り込んで物語が語られるようなことはなかったのではないでしょうか。いや、『長い長い殺人』に登場する三木一也という人物の心情が栗橋浩美のそれに非常に近かったかもしれませんね。三木一也の「世間の連中は馬鹿ばっかりだ。俺と違って。俺の価値を誰もわかっちゃいない。俺が大きすぎるから、ちっぽけなヤツらの目には見えないんだ」とする劣等感と優越感とが複雑に絡み合ったような心情は、彼の財布の視点を通してすでに描き出されていましたね。

 しかし、今回の『模倣犯』では、作者は嫉妬、欲情、物欲や一時の激情などからは無縁の「純粋な悪」を追求する人物を真正面に据えて真っ向から取り組んでいます。勿論、『模倣犯』には、犯罪の被害者とその家族たちの苦悩、哀しみや事件に関連した人々の温かい人間的な心の交流などもしっかりと描かれていますが、やはり冷酷非情な人物の寒々とした心情とその残虐な犯罪行為がなによりも強烈な印象を残します。そういう意味で、この作品は宮部みゆきの異色作と言えるでしょう。そして、私たちは不幸なことに、宮部みゆきがこの『模倣犯』で描き出したこのような空虚で薄っぺらな「二次元的存在」をとてもリアルな存在として実感せざるを得ない現実状況に置かれているのです。
                           
                           2001年3月27日初稿
                                5月6日一部改稿
「我らが隣人の宮部さん」
『模倣犯』等についてのコメント



資料:宮部みゆき「解らなくていい」(原載:『波』1998年12月号)

 高山文彦『「少年A」14歳の肖像』(新潮社、1998年12月)は、1997年に神戸で起こった連続児童殺傷事件を扱ったルポルタージュですが、その新潮文庫版に宮部みゆきの「解らなくていい」と題する文章が添えられています。なお、宮部みゆきのこの文章は、新潮社の月刊誌『波』1998年12月号からの転載とのことです。私は、この宮部みゆきの文章のつぎの箇所を読んだとき、『模倣犯』に登場するピースという人物を作者がどのような思いで造形したのか、そのことについて大きなヒントを与えられたように思いましたので、ここに紹介いたします。

「これは、簡単に解ってはいけないことなのだ。
 もちろん、保護と教育を必要としている実在の『少年A』と向き合っている方々は、そんな悠長なことを言ってはいられません。彼と相対する日々は、そのまま人間の闇の部分を見つめる日々でありましょう。そして高山さんも、ジャーナリストとして、逃げることなく『少年A』の実像と対決し、その結果本書が生まれたのです。
 今、頭を抱えながら思うのは、そうした厳しい対決の果実である本書を読んだことで、私たち──事件に大きな衝撃を受けたけれど、直接の当事者でなければ何の責任も担っていない私たちが、事件について、簡単な結論に達してはいけないということです。解ったと言ってはいけないということです。安易に、『少年Aのような部分はどんな人間のなかにもある』とか、『彼は自分に似ている』とか、『彼の気持ちが理解できる』『彼も可哀想な人間じゃないか』などと言って、あっさり整理してはいけないということです。本書のようなきちんとした仕事の結実を通して、事実について知ることができるからこそ、そこに解りやすいストーリーをつけてはいけないということです。
 人間のなかの未知の怖ろしい部分について、知ったかぶりをするのはもうやめよう、恐れ悍ることを思い出そう。それこそが、今いちばん欠けている処方箋なのかもしれない──行間から溢れる高山さんの真摯な情熱に襟を正しながら、何よりも強く考えさせられたことでした。」


 宮部みゆきのこのような抑制された意識がピース造形にも色濃く反映されているのではないでしょうか。また、『模倣犯』に描き出されたフリーライターの前畑滋子が功名心に駆られながら書いた「高井和明論」は、そのような抑制が充分に効かなかった場合に陥る悪しき典型として読者に提示されているのかもしれませんね。なお、この前畑滋子については、『まるごと宮部みゆき』(朝日新聞社、2002年8月出版)所収のロングインタビューのなかで、宮部みゆき自身が「前畑滋子というのは百パーセント私の分身」であるとし、「自分の嫌な面をすべて仮託して書いた」とも言っています。


宮部みゆき『R.P.G』に見るネット上の疑似家族

 『R.P.G』(集英社文庫)は、宮部みゆきにとって初の文庫書き下ろし作品です。この文庫本の表表紙にはパウル・クレー(スイス生れのドイツ人画家。1879年〜1940年)が描いた“Villa R”の素敵な抽象画が使われており、画面右下に‘R’という文字が書き込まれた幻想的な屋敷の絵がこのミステリー作品への期待を大いにかき立ててくれます。さらに裏表紙を見ますと、そこにはつぎのようなことが書いてあります。

 「ネット上の疑似家族の『お父さん』が刺殺された。その3日前に絞殺された女性と遺留品が共通している。合同捜査の過程で、『模倣犯』の武上刑事と『クロスフアイア』の石津刑事が再会し、2つの事件の謎に迫る。家族の絆とは、癒しなのか? 呪縛なのか?舞台劇のように、時間と空間を限定した長編現代ミステリー。宮部みゆきが初めて挑んだ文庫書き下ろし。」
 
 なんと『クロスフアイア』の石津ちか子と『模倣犯』の武上悦郎の両刑事が登場するんですね。そのことについて、作者はこの小説の「あとがき」で、『模倣犯』と『クロスファイア』とは「かなり異なった世界設定の作品ですので、今回この二人の共演≠ノは、実のところ、作者には若干の抵抗がありました。が、刑事であると同時に、短時間ながら、取調室内で父親・母親的な役割も果たしてもらう必要のある今回のキャラクターに、やっぱりこの二人が適任かなと思い直しまして、揃って再登板してもらうことにした次第です」と説明しています。

 また、この文庫本の解説者は清水義範で、「まんまとひっかけられる楽しみを求めてこの小説を読まなければならない」「この小説は、内容については絶対にしゃべってはダメ、という解説者泣かせのものなのだ」と述べています。ますます、ネット上の疑似家族を扱っているらしいこのミステリー小説への期待は高まりますね。

 ところで、『R.P.G』の解説を担当した清水義範は宮部みゆきと『青春と読書』2001年9月号で対談をおこなっています。その対談の中で清水義範が『R.P.G.』について、「今度の作品は、宮部さんには珍しく、場面が限定されていて、つくり方が舞台劇のような感じですね。もしくは『十二人の怒れる男』みたいな、原作が舞台劇の映画のような感じといいますか。全然知らないで映画を見ていて、あれ? これ、原作は舞台劇じゃないのかなと思うときがありますよね。ああいう感じを受けました」との感想を述べており、それに対して作者の宮部みゆきも「できるだけ限定した空間を設定して、舞台劇になるような話を、一度書いてみたかったんです。ミステリー劇を書きたい、書きたいと前から思っていて、でも、戯曲って小説とは全然違うものなので、今回、書いてみて、芝居の難しさを痛感しました」と語っています。

 実際、『R.P.G』という小説の大半は渋谷南署の二つの部屋で展開され、読者は舞台上の左右に仕切られた二つの部屋に登場する人物たちが演じる劇を観るような気持ちで読み進むことになります。

 すなわち、一方の小さな部屋には田所一美(十六歳)と石津ちか子刑事が登場することになります。一美の父親は所田良介(四十八歳)なんですが、妻の春恵(四十二歳)と娘の一美が実際にいるのに、なんとネット上にも妻と娘と息子がいて、彼らと頻繁にメールをやりとりし、チヤツトで会話などもしていたのです。そんな所田良介が殺害されたのですが、娘の一美が不審な人物を目撃していたようなので渋谷南署に呼ばれたのです。彼女はマジックミラー越しに隣の第二取調室に入ってくる父親のネット上の疑似家族たちを観察することになります。

 ところで、この所田一美は、彼女の父がネットに疑似家族を持っていたことに対して非常な不快感を示しています。彼女は、父親について「あたしとお母さんに不満があったんじゃない? こっちだってあったけど」「赤の他人とオママゴトをやって、あたしたちから逃げてたのね」と言っていますが、彼女の気持ちは私にもよく分かります。ネットの疑似家族をやっている人たちは軽いオママゴトとしてやっていたとしても、実際の家族の誰かがそのことを知ったら淋しさや場合によっては嫉妬を感じるかもしれませんね。もし、私の妻がネット上に疑似家族がいて、私の知らない人物を「お父さん」とか「あなた」なんて呼んだりして親しげに会話していることを知ったら、やっぱり私も気分はよくないでしょうね、きっと。

 舞台上のもう一つの部屋は第二取調室になります。この部屋にはネット上の疑似家族三人と事情聴取をおこなう武上悦郎刑事、それに記録係の徳永刑事の計五人が登場することになります。では、田所良介と一緒にネット上で疑似家族を構成していた三人の人物たちはなぜネットで疑似家族を演じていたのでしょうか。例えば、娘役の「カズミ」は息子役の「ミノル」に自分の心情をネット上でつぎのように吐露していました。

 「ミノルは不安にならない? あたしは何から何まで不安。あたしってこの世に必要な人間なの? 誰かに愛されてる? ときどき居場所がないような気がしてくるの。申し訳なくなっちゃうの。友達だって、あたしがいなくなっても平気じゃない? ミノルだってそうでしょ? また新しい友達を見つければいいだけの話じゃない。親だってそうよ。無条件に愛してくれるのが親だなんて言うけど、そんなのウソよ。できのよくない子供なら、いない方がいいのよ。あたしなんか、親の期待になんか全然応えてない。
 なんでこんな娘なんだろうって、きっと思ってるわよ。」

 「カズミ」には、彼女の実際の家庭が自分をかけがえのない存在として無条件に受け入れてくれる安息の場所とは思えないようです。おそらく、ネット上に疑似家族を構成する他のメンバーも程度の差はあれ同じような想いから寄り集まって来たのでしょう。

 「お父さん」を演じた所田良介の実際の家庭も寒々としていました。彼が浮気性のため、彼の妻の春恵は長年に渡って心を痛め続けました。しかし、「結婚して二十年、女性がらみでちょっとした問題が起こらなかった年はない」というくらいの夫の浮気に対し、いつか諦めが生じ、それは夫の病気だと割り切るようになり、「別れても自分が損をするだけで、何にもならない」との結論を出すようになっていました。娘の一美はそんな浮気を続ける父を嫌悪するとともに、母親の春恵を「一人の男にくっついて、まるで宿り木みたい」な存在だと軽蔑していました。こんな所田家の実情を知った刑事の石津ちか子はつぎのように考えざるを得ませんでした。

 「所田良介と、所田春恵と、所田一美の不幸の源。あまり大きな声で言われることはないが、厳然とした事実がそこにはある。親子にも相性があり、人間的に相容れなければ、血の絆も呪縛になるだけだということだ。」

 家族であり、夫婦、親子であることが自ずと暖かい絆を作り出すのではなく、かけがえのない存在として相互に思いやり理解し合う気持ちと協力し合う関係がそのような絆を作り出すのでしょうね。不幸にして相性が悪かったり、思いやりのない自分勝手な行為が重なるならば、血の絆もおぞましき呪縛に転じてしまう可能性がいつでもありますね。

 さて、物語は、渋谷南署の二つの部屋に登場する人物たちの会話を通して、もはや呪縛と化していた田所家の実態が明らかにされていき、それとともに犯人も自白を迫られていくことになります。しかし、自白した犯人は、「誰だって、自分の勝手で人を傷つけたら、それにふさわしい報いを受ける」べきであると発言し、自らの行為を正当化しょうとしています。そのとき、武上刑事は「君の言うそれは、正義ではなく報復だろう」と心で思うんですね。おそらく、そんな類の「正義」の行為を武上刑事はこれまで嫌と言うほど見聞きしてきたのでしょう。古今東西において正義を名目にした報復が様々な形で行われて来ましたが、正義を名目にした報復ほど怖いものはありませんね。この種の報復は残酷なものにどんどんエスカレートし、歯止めが利かなくなることが多いですね。

 さて、解説者の清水義範が、「まんまとひっかけられる楽しみを求めてこの小説を読まなければならない」と書いていましたが、今回の小説に仕掛けられた「ひっかけ」を読者は楽しむことができたでしょうか。正直言いまして、立川署長が「緊張しているというよりも怯えていると言った方がいいくらい」というようなそんな計画を立てる必要性があったのか私には疑問です。武上刑事たちが捜査の中で得た事実を犯人に伝え、誠実に説得すれば犯人はすぐ自白したように思えるんですが、みなさんどう思われるでしょうか。

                              
2001年8月30日
「我らが隣人の宮部さん」
『R.P.G』等についてのコメント


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