私の宮部みゆき論

宮部みゆき『魔術はささやく』に見る「裁き」の問題

『魔術はささやく』(新潮文庫)は、三人の若い女性の不審死から始まります。一人めはマンションから「飛び降り自殺」し、二人めは地下鉄のホームから「飛び込み自殺」をおこないます。そして、三人めの女性はタクシーの前に突然飛び出してはねられ死亡してしまいます。この三人めの女性をはねたタクシーの運転手の義理の甥が16才の高校生の日下守で、この物語の主人公としてこれら三人の女性の不審死の背後に隠された真相を追求し解明していくことになります。
 さて、義理の伯父の浅野大造が若い女性をはね殺したことから、両親のいない日下守が居候している浅野家に災難がどっと押し寄せてくるのですが、守自身がそのことをなんとなく予感する場面を作者はつぎのように描いています。

「川は眠っていた。足元を探って石ころを拾い、水面の暗がりに投げる。思いがけないほど近くで水音がした。満潮なのだ。
 ひたひたと寄せてくる夜より暗い水は、守の心のなかにも忍び込んできた。」

 こうして突然の不幸に浅野家は翻弄され、守もまた過去に経験した苦痛を再度味わうことになります。実は、彼の父は地方公務員だったのですが、公金を横領して失踪しているのです。幼かった守は世間の冷たい目にさらされ、遊び相手もいない独りぼっちの子供時代を送ったのでした。今回も通学している高校で「他人の不幸がうれしくてたまらない連中」によって様々な嫌がらせを受けることになります。

 高校で守に対する嫌がらせを先頭に立っておこなう三浦という同級生は、家庭は裕福で成績も悪くないし運動能力も優れています。それに外見もよくて女の子に持てるのですから、何か屈折した思いから守に対して嫌がらせをしているとは思えません。そんな三浦の心理を守はつぎのように考察しています。

「三浦のような人間――今は大多数がそうなのだが――が満足感と幸福感を得ようと思ったら、もう足し算では駄目なのだ。引き算しながら生きていくしかない。」

 すなわち三浦のような人間は相手から何かを取り上げることによってしか優越感を得られないのです。しかし、内に秘めた強い意志を持つ守は三浦たちの嫌がらせにも屈せず、義理の伯父の大造が言う言葉、すなわち車の進行方向の信号が青なのに相手の女性が突然飛び出してきたという事実を立証するために独自に調査を開始します。そんななかで、大造の運転するタクシーにはねられ死亡した菅野洋子がいかがわしい「恋人商法ギャル」だったことが判明してきます……。

 この『魔術はささやく』は、他の宮部作品と同様にそこに登場する人物一人ひとりに対して手を抜かずに丹念にその人物像を造形しています。例えば、あっけらかんとした開放的な性格のいとこの真希はなかなかチャーミングな存在です。そんな彼女が、友人たちと飲んで帰ってきたとき、電柱にもたれかかりながら脇の男友達を指して「守ちゃん、いい? こういうシティ・ボーイになっちゃダメよ」と言う場面がありますが、そう言われた守は、間違っても軽薄な「シティ・ボーイ」なんかにはなりそうもない自分というものをしっかりと持った思索的で芯の強い高校生です。

 それから、菅野洋子と同じ「恋人商法ギャル」になったことのある高木和子という女性の寒々とするような空虚な心の描写も私にとても強い印象を残しました。彼女は、人を疑うことを知らない無邪気な人間を心底憎み、彼らを騙し続けてきました。作者はそんな彼女のつぎのような思いを紹介していますが、それはまた現実の社会において多くの女性が置かれている状況をもきわめてリアルに表現しているようにも思えました。

「平凡な仕事など嫌だった。女にあてがわれる仕事の中身など、どこへ行ってもしょせんは似たようなものだ。ケーキの外側が生クリームかバターかの違いだけで、腐る時期も、捨てられるときも同じだ。」

 ところで、私はこの『魔術はささやく』を読み終わったとき、他の宮部作品を読了したときに感じるようなカタルシスを感じることができませんでした。それは、この作品の構成がまずいとか、プロットやストーリー展開に矛盾や無理があるということでは決してありません。そうではなくて、この物語のラストの方で主人公の守が犯罪者を「裁く」行為を実行するかどうかその選択に迫られますが、そのときに私自身も戸惑ってしまい、心が千々に乱れて考えがまとまらず、物語を読了した後もそのことがずっと胸のなかにわだかまってしまったからなんです。

 守は、肉親を殺し、守を二重に欺き、さらに守から赦してもらえるとさえ思っているような人間を「裁く」手だてを人から与えられます。そのため、彼はその手だてを使って自ら「裁き」を行使するべきかどうか大いに悩むことになります。この小説の巧みな表現を借りるなら、両手を組合わせたとき「右手と左手の同じ指が、互い違いに組み合わされる。それと同じで、相反する二つの感情が背中合わせに向き合って、でも両方とも自分の指」のような状態のなかで葛藤することになります。この選択を迫られたとき、読者の私も同様に選択を迫られたような気持ちになったんです。

 同じ宮部みゆきの作品『スナーク狩り』で、妻や娘を無惨に殺された織田は、最初、その犯人に対して「“目には目を”という考え方をしていたら、我々は原始時代に戻ってしまうだろう」と言っていました。少なくとも現代社会は個人の報復殺人を禁じています。仇討ちのような報復殺人を肯定したら、際限のない憎悪と殺戮の悪循環のなかにはまり込んでしまうでしょうね。しかし、愛する肉親などの命を奪われた人間の気持ちも分かります。憎むべき犯人をこの手で殺してやりたいという思いに駆られるのは当然だと思います。しかし、怨念と憎悪の炎に身を焦がすことは悲しく惨めなことですね。それに、もし自らの手で犯人に復讐したとして、それで愛する人を失った悲しみが癒されるのでしょうか。またその行為に自らの心が傷つかないでしょうか。

 でも、そんなことが言えるのは、自分自身がまだ第三者の立場にいるからかもしれませんね。もし、自分が被害者の家族だったら、理屈抜きに犯人をただひたすら憎悪し、もし可能なら自らの手で報復したいと思うかもしれません。でも、しかし……。私は『魔術はささやく』のラスト部分を読みながら、こんな堂々巡りを繰り返していました。

 ここで最後に、『魔術はささやく』にそんなわだかまりを残していた私の思いと重なる文章を紹介しておきたいと思います。それは、女性文学会編『すごい!ミステリはこんなふうにして書く』(同文書院、1999年1月)が宮部みゆき作品を「何が正しいかわからない世界」と評して、つぎのように述べている文章です。

「『魔術はささやく』のクライマックスで、主人公の少年が自分の父の失踪に関わる人物と対決する場面。そこで彼はその人物を許すか否かという判断を迫られるのですが、そのときの彼の『僕は何が正しいのかもわからないよ』という言葉、これは実に宮部作品の世界を言い当てたものなのかもしれません。」

 物事を単純明快に割り切らないところが宮部作品の良さであり、それが作品に深みを与えているのですが、ただこの『魔術はささやく』では、読者の私は出された難問に苦しみながらも解答も与えられないで教室に居残りさせられている出来の悪い生徒のような気持ちになってしまいました。嗚呼。昔を思い出すなー。


                     
2000年6月8日
「我らが隣人の宮部さん」
『魔術はささやく』等についてのコメント



宮部みゆき「燔祭」に見る火炎のヒロイン青木淳子像

 昨日(6月10日)、映画「クロスファイア」を見てきました。特撮による火炎はなかなか迫力がありましたし、その火炎が襲いかかる敵に対する反撃の手段として激しく放射されるので、見ていて非常なカタルシスを感じました。

 なお、原作である宮部みゆきの「燔祭」(光文社文庫の『鳩笛草』に所収)や光文社のカッパノベルスの『クロスファイア』では、青木淳子の火炎は相手からの攻撃に対する反撃手段としてよりは「他の存在を滅ぼし、食い尽くすためにのみ存在している野獣を狩る」ための「処刑」の手段として能動的に使用されており、そのあたりに私のような人間は抵抗感を覚えていました。

 映画のパンフを見ると、原作者の宮部みゆきは金子修介監督に「青木淳子はガメラです」と言っているのに対し、金子監督は「実はガメラは業務上過失致死でですね。青木淳子の場合は確信的ですから(笑)」と答え、「彼女の方が、自分の意志でやってるわけですから罪は深いと思います」と言って宮部みゆきを笑わせていました。そんな意味で、青木淳子は映画において金子修介監督的なガメラに変身し、淳子が放射する火炎に対する観客の抵抗感を薄めさせ、さらには大いに共感できるものに巧みに仕上げていたように思います。

 また映画は、青木淳子の念力放火能力(パイロキネシス)という恐ろしい破壊的力を持つがゆえの哀しみと苦悩も丁寧に描いており、彼女と多田一樹たちとの人間葛藤ドラマとしてもよくできていたと思います。それから、桃井かおりが演じる石津ちか子がおばさんデカとしてとてもいい味を出しており、そのフツーの日常感覚的な存在が物語の緊迫した空気を適度に緩和していました。それに比べ、永島敏行が演じていた警視庁の長谷川刑事部部長の方はあまりシャープな切れがなかったですね。

 この長谷川はもともと原作には存在しなかった人物ですが、映画のパンフを見ると、金子監督が「やっぱり映画にするにはかなり大きな力が彼女に襲いかからないと、話として難しいだろうと思っていました。なにしろ彼女は世界一強い女ですから」と語っており、おそらくそんな「大きな力」を担う者として作られたのだろうと思われます。

 しかし、長谷川の言動は警視庁の刑事部部長としてあまりにもデタラメです。そのデタラメ振りを詳しく書くとネタバレになってしまいますのでここでは控えますが、個人的思惑があるにしてもあんなデタラメな指揮ぶりではかえって彼のキャリアとしての地位を危うくしてしまいます。私は永島敏行はとてもいい俳優だと思っているのですが、この映画ではあまりにもリアリティのないキャラクターを演じており、気の毒な感じがしました。

 さて、映画「クロスファイア」のヒロインである青木淳子は宮部みゆきの短編小説「燔祭」で初めて登場するのですが、この小説において彼女はどのように描かれていたのでしょうか。まず外見ですが、作者の宮部みゆきは多田一樹に淳子のことを「ぱっと見た感じでは地味なんですよ。よく見ると美人なんだけどね」と言わせています。また多田一樹は、最初に淳子に会ったときのことをほとんど覚えておらず、全く印象に残らなかったとも言っています。こんな淳子ですから、かえって原作を読んだ人はそれぞれが自由に淳子のイメージを創り上げることができたのではないでしょうか。

 宮部みゆきは室井滋との対談集『チチンプイプイ』(文藝春秋)のなかで、「私は作品の中で人物について余り具体的な描写をしないほうがいいという方針なんです。たとえば、ふたりの子供に怖い顔を描いてごらんといったら、それぞれ全く違う顔を描くと思うんですよ。つまり、どんな顔が怖い顔なのか、どんな顔がいやらしい顔なのか、百人の読者がいたら百人百様の想像をするんじゃないかしら」と語っています。ですから、読者は青木淳子についても各人各様のイメージを持っていたでしょうから、映画で矢田亜希子という具体的な存在を目にしたときに違和感を覚えた人もいたかもしれませんね。なお、私はそんなに違和感はありませんでした。いや、映像に影響されて、あらためて「燔祭」を読み直したとき、小説の青木淳子にどうしても矢田亜希子のイメージが自然と重なってしまいました。

 ところで、宮部みゆきは同じ『チチンプイプイ』のなかで、作品がミステリーであるかどうかを見分ける観点として「ひとつの固定された視点から書いていること」とし、「私は視点教≠フ信者」であるとの発言をしていました。では、「燔祭」に登場する青木淳子は誰の視点から描かれているのでしょうか。多田一樹はこの物語の語り手ではありませんが、しかし明確に彼の視点から青木淳子は描き出されています。極めてまっとうで良識的な彼の視点に寄り添って超常的な念力放火能力を持っている青木淳子が描かれることにより、この短編はとてもリアリティがあって抑制のきいた物語になっています。

 多田一樹は、自分の妹の雪江をなぶり殺しにしたと思われる十七才の小暮昌樹を激しく憎み、確かな物証がないために罰せられないでいるこの未成年の小暮を自分の手で殺したいと思っていました。そんな多田一樹に近づいてきたのが彼が勤務している会社の業務部でメイルを担当していた青木淳子なのです。

 青木淳子は、多田一樹に彼女が念力放火能力を持っていることを伝え、自らを「装填された銃」であるとし、彼のために小暮昌樹を「狙って撃つことの道具になれる」と言うのでした。淳子は、彼女自身が持つその念力放火能力という破壊的な力に対して、「ときどき、自分でも手に負えなくなることがあるの。力が勝手に動き始めて」と語っており、その力の「暴発」をつねに恐れているのですが、できればそんな「銃」を「撃つときは、正しい方向に向かって撃ちたい。誰かの役に立つ方向に向かって」と切に思っていたのです。

 こんな青木淳子の協力の申し入れを多田一樹は一度は受け入れたのですが、しかし実際に彼女がその念力放火能力を使用して襲ってきた犬を殺したとき、それを見て悪寒が身体を包み、吐き気がしてきます。この短編小説は、一樹の目の前で淳子が念力放火能力を使って犬を殺す場面をつぎのように生々しく描写しています。

「次の瞬間、犬の首輪のまわりから、突然炎が噴き出した。めらめらと舐めるように燃え上がり、犬の頭を包み込むまで、ものの一秒もかからなかった。異臭と煙に、一樹は胃がでんぐり返りそうになった。
 淳子は両手でこめかみを押さえ、わずかに前屈みになって、犬を見つめていた。犬は跳ね躍り、飛びあがっては背中から落ち、必死で炎を振り払おうとしていた。だが、火は背中にと燃え広がり、パッと火花が散ったかと思うと尻尾まで燃えだした。
 地面に座り込んで、一樹は犬が燃えてゆくのを見つめた。皮が燃え、肉が焼け、頭の方から骨が見え始め、やがてそれも黒くなってゆく。しまいには、しゅうしゅうと臭い煙をたちのぼらせる、ひと塊の真っ黒な灰の山になってしまった。」

 なんとも凄まじい殺戮です。命あるものを「殺す」ということのあまりにも凄惨な現実を見せつけられた多田一樹は、彼女という存在に対して疑問と恐怖を覚えるようになり、「人間は、装填された銃として生き続けることなどできるものだろうか。どこかで銃を捨てるか、人間を捨てるか、どちらかを選ばなければならなくなるのじゃないか」とも思うようになります。そんな彼は、青木淳子が実際に小暮昌樹をその念力放火能力で焼き殺そうとしたとき、妹の雪江の「お兄ちゃん」という声を耳にし、淳子の殺戮行為を思わず中止させてしまいます。そして、淳子に向かって言うのです、「あれは殺人だ。あんなことをしたら、俺も君も、雪江を殺した連中と同じになっちまう」。

 多田一樹は、なおも妹の敵(かたき)をとるべきだとする淳子に対し、「君はただ引き金を引きたいだけなんだ」と言い、さらに「狂ってるよ」と呟いてしまいます。彼の言葉は淳子の心をさぞかし深く傷つけたことでしょう。でも、きわめてまっとうで良識的な青年である多田一樹が彼女に対してそのような激しい拒否反応を示すのもまた致し方のないことだと思います。しかし、恐ろしい能力を持って生まれてきた淳子のつぎのような悲痛な言葉も私の胸を激しく揺り動かしました。

「誰の役にも立たないなら、ただの人殺しになるのなら、どうしてあたし、こんな力を持って生まれてきたかわからないじゃない!」

 こんな青木淳子はつぎの『クロスファイア』でその念力放火能力を駆使して激しいバトルを展開させながら滅びの道を歩んでいくことになります。

                          2000年6月11日


宮部みゆき『幻色江戸ごよみ』に見る文体の使い分け

 宮部みゆきの時代小説短篇集『幻色江戸ごよみ』は新人物往来社から1994年に出版されている(後に新潮文庫に収められる)。このに収録されている12篇の短編のうち10篇は『歴史読本』の1993年6月号から1994年3月号に掲載されたものであるが、『歴史読本』掲載当時のことについて宮部みゆき自身が高橋克彦『ホラー・コネクション』(角川文庫)のなかに載せられている「小説はコスプレだ」と題された高橋克彦との対談のなかで興味深いことを述べている。

 この対談での宮部みゆきの発言によると、彼女は代表作となった『火車』(1992年7月出版)を発表した後、「次はもっとこれ以上のものを書かなきゃいけないんだろうな」という縛りに入ってしまい、しかも『火車』で扱ったような社会的問題に関するネタを続けて持っていなかったので、深く考えすぎて迷ってしまい、書けなくなった時期があったそうである。そんな迷いから彼女を救ったのが時代小説だったという。彼女はそのことについて『ホラー・コネクション』で高橋克彦にさらにつぎのように語っている。

「ただ、幸せだったのは、デビューのころからお世話になっている『歴史読本』の編集部の方が、『じゃ、しばらくは時代小説書いていればいいじゃないですか』って言って下さったんですよ(笑)。それで二年間ぐらいはほとんど時代小説ばっかり書いてまして、書き上がったのが『幻色江戸ごよみ』(新潮文庫)という本だったんですけど、それを書き上げるころには、自分自身のほとぼりも少しは冷めたんですね。」

 宮部みゆきは、そんな経緯から『歴史読本』のために執筆するようになり、後にそれらを『幻色江戸ごよみ』に収録し、
「火が出たのが師走の二十八日の夜」という文章から始まる「鬼子母火」を第一話とし、同じ師走の凩(こがらし)の吹きすさぶ空に借金の証文が紙吹雪となって舞い散る「紙吹雪」を第十二話として終わらせている。このように、この時代短編小説集は江戸の町に生きる庶民たちが織りなす12編の人間ドラマを四季の移ろいと重ねながらつぎつぎと描き出している。

 ところで『幻色江戸ごよみ』の「幻色」とはどのような意味なのであろうか。おそらく「幻色」という言葉は作者の宮部みゆきが造語したものであろうが、私はこの短編時代小説集を読む前にはそれが怪異譚を集めたものだろうと推測し、そのこともあって「幻色」とは「人を惑わすような趣(おもむき)」といった意味に理解していた。しかし、全12編を読了したとき、「幻色」とは「様々に移ろい変化する様相」という意味であるに違いないと思うようになった。なぜなら、12編を構成している物語の全てが怪異譚というわけではないし、四季の移ろいと重ねてつぎつぎと描き出されていく各短編の内容が実に多彩であり、さらにそのような多彩な内容に対応してその文体もいろいろと変えられているからである。実は、この短編時代小説集を読んで一番印象に残ったことは、各短編がその内容や文体において非常にバラエティーに富んでおり、宮部ワールドのその多様性を実に見事に表しているということであった。

 ところで、この『幻色江戸ごよみ』の文体の多様性について言及するならば、まずその「文体」というなんとも厄介な言葉の意味を私なりに説明しておかねばならないであろう。では、国語辞典では「文体」という言葉をどう説明しているのであろうか。『広辞苑』を見ると、「文体」を「文章のスタイル。語彙・語法・修辞など、いかにもその作者らしい文章表現上の特色」と説明している。しかし、宮部みゆきという一人の作家の異なる作品間の文体の使い分けを問題にしているのだから、「いかにもその作者らしい文章表現上の特色」というところは「それぞれの作品に付与している文章表現上の特色」という文章で置き換える必要があるだろう。それで、この『広辞苑』の「文体」についての説明を私流にかなり強引に加工して今回の拙文で使う「文体」の意味を定義させてもらうことにする。すなわち、「作者が作品に応じてその内容に最も相応しい語彙・語法・修辞などを使うことによってそれぞれの作品に付与している文章表現上の特色」と定義することにする。

 それで、まず宮部作品における「標準しみじみ文体」とも言えるのが第二話「紅の玉」の文体である。例えば、身体があまり丈夫でないのに健気に働くお美代に佐吉が惚れて二人で所帯を持つことになったときのことをつぎのように書いている。

「所帯を持つのを機会に、親方のところを離れて独立するから、最初のうちはちっと貧乏するかもしれねえと、佐吉が腹をわって打ち明けたときも、いつものように明るく笑って、お美代は自分の胸を叩いたものだった。
『まかしといて。貧乏暮らしなら、佐吉さんよりあたしのほうがコツを知ってる』
最初はそんなふうだった。お美代の身体が弱いということも、そのときはまだ、さして大きな差し障りになるようには思えなかった。
 俺がお実代を守ってゆこう――と、佐吉は心に誓っていた。ちゃんとした屋根と、あったかい飯と、贅沢ではないけれどきれいな着物。少し身体の具合が悪くなるたびに親兄弟に気兼ねをし、横になりたいのも我慢して働き、働けなかったときには遠慮して飯を減らす――そんな暮らしから、お美代を抜け出させてやりたい。いつもあの笑顔を、心からの笑顔を見せてくれるようになる。俺がそうするのだ、と意気込んでいた。腕をあげ、お客を増やし、しっかり稼いで、いつかは長屋暮らしから抜け出し、どんなに小さくてもいいから自分の家を持とうと思っていた。
 そしてその夢は、佐吉が元気に頑張っているかぎり、けっしてかなわないものではなかったはずだった。」

 作者は佐吉の心に寄り添いながら、浮き世を真面目にかつ懸命に生きていこうとする働き者の男と女が新たに所帯を持って小さな幸せをそこに築いていこうとする姿を特に新奇な言葉や表現を用いることもなく静かにしみじみと語っている。私には、このような文体が宮部みゆきの江戸下町の庶民の哀感を描いた短編小説の標準的な文体のように思えるので「標準しみじみ文体」として先ず紹介してみたのである。

 それに対し、第三話の「春花秋燈」はがらっと文体が変わる。ここでは古道具屋の主人によるいささかブラックユーモア的な可笑し味のある一人語りによって物語は進んでいく。この文体は「ブラックな一人語り文体」とでも読んでおくことにする。例えば、この古道具屋の親父が自分の女房のことを客につぎのように紹介している。

「紺てのがうちの女房の名前です。染め物屋の娘でしてね。でしてねというより、だったですな。大昔の話ですが。あいつの家は子供が四人、それも女ばっかりで、いろいろ考えるのも厄介だったんでしょう、みんな染め物の色の名前をくっつけちまったんです。大島の、泥染をこさえてるようなところでなくてよかったですよねえ。お泥なんていうんじゃ、一生嫁の貰い手がないところだった。それでうちのやつは紺ていうんですが、コン、コンてな具合でお狐さんみたく目がつり上がってましてね。さすがに銭勘定が好きなくらいだから、名前と顔もちやんと帳じりがあってる女なんです。あとで顔見てやってください、だけど笑っちゃ困りますよ。」

 この古道具屋の一人語りによる第三話の「春花秋燈」を「ブラック落語風文体」としてもよいかもしれない。しかし、第四話の方が軽妙洒脱な会話文を多用したその語り口に落語的な色合いが濃厚なので、第四話の「器量のぞみ」を「軽妙洒脱な落語風文体」と名づけることにする。この第四話は、とにかく文章が軽妙で柔らかくって調子がよく、読者はどんどんと読み進んでいくことができる。例えば、どう見ても器量よしとは言えないお信に「器量が気に入ったから嫁にほしい」という縁談話が持ち込まれたとき、馬鹿にされたとお信が怒り出す場面がつぎのようにユーモアたっぷりに語られている。

「『おとっつあん、こんな話、聞くこたあありませんよ。器量のぞみだって? ふん!』
 お信はどすんと地団駄を踏んだ。それでなくても粗末なつくりの長屋暮らし、天井のほうでなにかがみしりときしむ音がした。お信の丈は五尺八寸。大女なのである。
 顔の前にはらはらと落ちてきた綿ぼこりを払いのけながら、藤吉がもごもご言った。
『娘の怒るのももっともだと思うんで、あたしにはなんとも言えねえが……』
『こっちの持ち込んだ話をちゃんと聞きもしないんだもの、そりゃあ、なんとも言えやしないでしょうよ』
 さすがの仲人かかも、少し短気を起こしたようで、口を尖らしてそう言った。お信はこれでまたカッときた。
『なにさ、人をおこわにかけようったってそうはいかないよ。言ってごらんな。いったい誰に頼まれてあたしをからかいに来たのさ。言ってごらんよ、え?」
 仲人かかは声を張り上げた。『そりゃあね、お信ちゃん、あんたみたいな醜女(しこめ)をつかまえて、器量のぞみで嫁にほしいなんて話を持ってきたならどうなるか、あたしだって承知のうえですよ』
 お信は身体の脇で両のこぶしを握りしめた。丈に釣り合って、これまた大きな手のひらである。
『醜女だって?』
『ああ、言いましたよ、し、こ、め。』」

 本人を前にして「醜女、醜女」と露骨に言うのはそれはあまりにも酷いと思いながらも、でも申し訳ないがついつい笑ってしまう、そんな情景が会話文をふんだんに用いながら軽快に繰り広げられていく。これと第二話「紅の玉」の文章とを較べたら、これが同じ作者の文章かと思うくらい雰囲気も語り口も非常に違うことが分かるだろう。

 しかし、私がこの『幻色江戸ごよみ』で一番驚いたのは第十話の「神無月」の文体だった。この文体を目にしたとき、宮部みゆきという作家が内包する豊かな多様性にあらためて敬服させられたものである。そんな「神無月」の文体について、中途半端な解説を加えるより、まずつぎのような岡っ引きと居酒屋の親父との会話の場面を読んでもらった方がいいだろう。

「親父の立つ帳場のうしろの壁に、三枚の品書きと並べて、暦が一枚貼ってある。岡っ引きはそれを見上げた。毎日書き換えられる品書きの紙は白いが、正月元旦から今日の日まで、煮炊きの煙に燻(いぶ)されてきた暦は、薄茶色に染まっている。
 暦は俺たちと何じだ、ちゃんと年齢をくう――岡っ引きはふとそんなことを考えた。
『今年ももう神無月になったな』
 銚子を傾けながら、岡っ引きはぼそりと言い出した。親父は俯いて手を動かしながら、口元にかすかな微笑を刻んでうなずいただけだった。
 『神無月だ。嫌な月だよ。親父、覚えてるかい、ちょうど去年の今ごろだったよなあ、俺の話したことを』
 親父はまたうなずいた。脇のざるから葱を一本取り上げて、それを刻み始めた。
『葱を刻んで何をするんだい』
『納豆汁をこさえますんで』
『ああ、そりゃあ有り難い。だがもうそんなに飲んでるかい』
『それが三つ目の銚子ですよ』
 葱を刻み終えると、親父は手を洗った。湯がしゅうしゅうと沸いている。銚子の具合を見ながら、親父は言った。
『去年、初めてあの話をしたときも、親分は納豆汁を食って帰りなすった』
『そうだったかな。好物だからな』
 岡っ引きはまだ暦を見上げていた。親父もそちらに頭を振り向けた。」

 煮炊きの煙に燻(いぶ)されてきた暦を見ながら、神無月に起こった事件のことを語りだした岡っ引きと、帳場で洗い物や明日の仕込みのために手は休めないが、彼の話に耳を傾け話を返す居酒屋の親父。そんな二人の会話がほの暗い居酒屋のなかで淡々と語られており、渋く抑えてかつめりはりのある会話文がなんとも言えないいい味を出している。もし作者名が隠されていたら、読者はきっとこの文章はかなり年輩の男性作家が書いたものだと思うだろう。文体がまるで煮炊きの煙に燻されたかのようにとても渋くってまたダンディなのである。宮部みゆき作品のファンである私も、教えられなかったらきっとこの文章を宮部みゆきが書いたものであるとは気づかないだろう。こんな居酒屋の場面を描いた文体を「江戸前燻(いぶ)し文体」と名づけることにする。なお、第十話「神無月」は、この居酒屋の場面と、幼い娘のために小さなお手玉を縫う男の姿を「標準しみじみ文体」で描いた裏長屋の部屋の場面とを交互に重ねながら物語を進めている。その異なる文体の交互の重なりがなんとも言えぬいい効果を生みだしている。

 もしかしたら、『幻色江戸ごよみ』の12編の作品は上に紹介した「標準しみじみ文体」「ブラックな一人語り文体」「軽妙洒脱な落語風文体」「江戸前燻(いぶ)し文体」の4つのみに分類されるのではなく、もっと多種多様な文体によって構成されているのかもしれない。例えば第十二話の「紙吹雪」などは、非常に凄惨な復讐劇を紙吹雪によって昇華して妖しく美しい世界を作り出しており、そのために「標準しみじみ文体」とはまた少し趣の違う文体となっているような気もする。おそらくは、読者それぞれがこの『幻色江戸ごよみ』から多種多様な文体を見つけ出すことであろう。


                      2000年7月7日初稿
                      2002年1月9日に冒頭部分のみ改稿
「我らが隣人の宮部さん」
『幻色江戸ごよみ』等についてのコメント



宮部みゆき『あやし〜怪〜』に見る「鬼」の正体

 角川書店より新しく出版された宮部みゆきの『あやし〜怪〜』について、角川書店のホームページの内容紹介には、「居眠り心中、影牢、女の首、灰神楽、蜆塚、梅の雨降る、など江戸にまつわる怪談の数々を描いた江戸ふしぎ噺の傑作。宮部みゆき初めての江戸ホラー短編集」とありました。宮部みゆきの時代小説といえばホラーものというイメージが強いのですが、しかし、彼女がこれまで江戸時代を舞台にして書いた短編小説集において、そこに収められている作品全てが怪奇幻想的な内容というわけではありませんでした。そういう意味では、古典的な怨念型もののけや不老不死人間、「鬼」などの怪談噺のみで構成される今回の『あやし〜怪〜』は、確かに「宮部みゆき初めての江戸ホラー短編集」ということになります。

 ところで、私がこの『あやし〜怪〜』を読了して特に印象に残ったのは、「足達家の鬼」と「時雨鬼」という両短編に出てくる「鬼」の存在でした。また、これらの「鬼」と関連してまず最初に私の心に浮かんだことは、かって宮部みゆきが佐高信『司馬遼太郎と藤沢周平』(光文社)に掲載されている対談のなかで、「結局世の中は理不尽が動かしているんだよってこと」を知らねばならないと言い、さらに「ごく普通の人間がごく普通に生きていても、たとえば世間さまに顔向けできないようなことや、もう自分でも思い出したくないようなことの一つや二つ、ありますよね」と語っていた言葉でした。宮部みゆきは、彼女自らを含めての人間存在一般の愚かさ、醜さを直視し、深く鋭く認識できる人であり、だからこそ人間のなかに「鬼」を見たり感じたりする能力に人一倍長けているのかもしれません。そんな宮部みゆきだからこそ、「初めての江戸ホラー短編集」である『あやし〜怪〜』のなかで人の心に映る「鬼」の姿を巧みに描き出すことができたのでしょう。

 では、『あやし〜怪〜』に描かれた「鬼」の正体はどのようなものなんでしょうか。その答えは「足達家の鬼」にかなり明確に書かれています。
 第五編目の短編小説「足達家の鬼」の語り手の「わたし」が嫁いだ笹屋の「お義母さま」に対し、他の多くの人々が彼女のそばに存在する「鬼」の気配を感じたり或いははっきりとその存在を目にすることができるんですが、「わたし」には全く感じられません。そんな「わたし」に対して「お義母さま」はつぎのように言っています。

「人は当たり前に生きていれば、少しは人に仇をなしたり、傷つけたり、嫌な思い出をこしらえたりするものさ。だからふつうは、多少なりとも“鬼”を見たり感じたりするものなんだ。だけどおまえにはそれがない。ということは、おまえは余りにもひとりきりで閉ざされた暮らしをしてきて、まだ“人”として生きていなかったということなのだよね。」

 そういえば、第四編の「梅雨の雨降る」の主人公のおえんは、美しい小町娘のお千代を妬み、神社の梅の木に大凶と出たおみくじを結びつけて凶運がお千代にふりかかるよう願いますが、実際にお千代が不幸な死に方をしたこと知って非常な罪悪感に駆られ、その後ずっとお千代の幻影に苦しむことになります。「鬼」とは人が人の世に様々にして複雑な人間関係をもって「人」として生きていくなかでその心のなかに作られるものなんでしょうね。

 第七編の「時雨鬼」にも「鬼」が出てきますが、この作品はまた私が『あやし〜怪〜』のなかで一番好きな作品でもあります。この短編は、加納屋という搗米屋で女中奉公していたお信という十八才の娘が、五年前にその加納屋への女中奉公を世話してくれた桂庵(奉公人・雇い人を周旋する口入れ屋のこと)を訪れるところから始まります。この桂庵で彼女に応対したのは主人の富三の女房だというおつたという女でした。このお信とおつたの会話を通じて、全く違うタイプの二人の女の人物像が実に見事に描き出されています。 初め読者は、いま奉公している加納屋からもっと稼ぎのいい明月という料理茶屋に移ろうとするお信の揺れ動く心の裡に強い関心を持つことでしょう。しかし、次第にお信の不安な心の裡をずばずばと指摘し、暴き出していくおつたという女の方に関心が移っていくに違いありません。

 おつたは言います。「もっと稼ぎたい理由が、ほかにできちまったんだね」「中(あ)ててみせようか。それは男だろう」「それであんた、何が相談なんだい? 明月とやらへ移ると決めたのなら、べつだん、うちの亭主の耳垢をほじくって報せるほどのことじゃない」「愛しい重太郎さんの言うことを信じちゃいるけれど、丸呑みする気にも、ちょいとなれない。不安でしょうがないから、確かめに来たんだろう?」「あんたがうちの亭主を訪ねてきたのは、明月って料理屋の素性を確かめるためだった。誰でもない、あんた本人が、愛しい重太郎さんの甘い甘いお話を、少しだけど疑ってるからさ。誰よりも、あんた自身がそれを知ってるはずだ」。

 海千山千のおつたには、まだ世間知らずで純情なお信の心の裡なんか簡単に読めてしまうようです。しかし、おつたはふとした奇縁で言葉を交わすことになったこの純情なお信に自分の過去の姿を見たのか、柄にもなくほだされてしまったようです。そのためでしょう、おつたは自分が十五のときに男に騙され女郎屋に売り飛ばされた話を問わず語りに話し出し、さらに二十年近く昔に見たという時雨鬼の話も語り出します。この時雨鬼がこの短編の題名でもありますが、その正体については、未読の方もいらっしゃるでしょうから、ここでは伏せておきます。でも、この短編を読み終わったとき、地主の家の隠居やおつたが目撃し、そしてお信もさわさわと降り続く時雨のなかに見た「鬼」と第五編目の「足達家の鬼」の「お義母さま」の先に引用した「鬼」の話とがきっと読み手の心のなかで重なり響き合うことと思います。

                     2000年7月29日

「我らが隣人の宮部さん」
『あやし〜怪〜』等についてのコメント


            
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