私の宮部みゆき論

宮部みゆき『ぼんくら』に見る人間絵巻

 今月(4月)の20日に発売された宮部みゆきの『ぼんくら』(講談社)は、1998年10月に『クロスファイア』(光文社)が出されて以来なんと1年半ぶりに出版された宮部みゆき作品です。

 この『ぼんくら』、江戸は深川北町の鉄瓶長屋に繰り広げられる時代ミステリーです。なお、これまでの宮部みゆきの時代ミステリーの多くが怪奇幻想的色彩が濃厚でしたが、この『ぼんくら』には妖怪変化の類も霊験お初のような超能力者も登場しません。でも、様々な個性、能力を持った人々がつぎからつぎと登場してきます。そして、そんな彼らが生き生きと自由に動き回り、機知に富んだ賑やかな会話を交わしながら宮部みゆきならではの市井人情時代ミステリードラマを演じています。私は、主役級から端役に到るまで手を抜かないで丹念に描き込んで豊かな色合いを持った人間絵巻を創り上げた作者の力量の確かさ、素晴らしさにあらためて感心させられました。

 この物語の主人公は臨時廻り同心の井筒平四郎です。この人物について、作者はつぎのように描写しています。

「歳は四十の半ば、ひょろりと長身、顎がこけていて目が細く、いつも髭のそり残しかあるせいで、なんだか病人みたいで風来があがらない。」
「背丈は高いが猫背なので、どうかすると四十六という年齢よりもさらにじじむさく見える。定町廻り同心の巻き羽織は粋でいなせと誉められる風物の風物のひとつだが、それだって人によるというものだ。平四郎の巻き羽織はいつも、彼の痩せた身体の両脇に、景気の悪い旗印のように垂れ下がっている。」

 作者は、平四郎の容貌を「働き疲れた馬があくびしたような顔」とも形容しています。こんな風采のあがらない平四郎は八丁堀の同心なんですが、彼はその名からもわかりますように井筒家の四男で末っ子で、本来は父親の跡を継いで同心になる可能性は極めて薄かったんです。そして、彼自身もそのことをむしろ喜んでいたんです。彼は、早く井筒家から厄介払いされて町人たちに混じって暮らし、手習いや剣道などを教えながら気楽に世渡りしたいと思っていました。ところが、「上の三人の兄がそれぞれに病弱だったり早世したり他家の養子に望まれたりと、ぼろぼろと脱落していってしまって、平四郎にお鉢が回ってきそうな雲行きになってきた」のです。

 それが彼の元服直前のことだったんですが、そんなときに彼は何をしたかというと、なんと女好きの父親に隠し子がいるかもしれないと考え、その子を見つけて家督を押しつけようと「親父殿が遊んで歩いた女の匂いのする場所ばかりを熱心に聞き込んで歩いた」のです。ところが、そんな平四郎の行為が父親のみならず彼の上役の与力にも知られ、同心向きの素質があると見込まれ、父親の跡を継ぐ羽目になってしまいました。

 彼が定町廻り同心を手伝う遊軍役とも言える臨時廻りになったのも、上役の与力が「世情に通じた、適度にいい加減な男がひとり欲しい」ということで抜擢されたのです。そんなことから、彼もたいがいのことは町役人に任せておけば丸く収まるものだと考え、「日々ぶらぶらと本所深川一帯を歩き回りながら、さほど忙しくもなく、他の仕事に心をわずらわされることもなく」、別に肩身の狭い思いもすることなく過ごしてきたのです。

 この物語の題名『ぼんくら』は、こんな平四郎に因んでつけられたのでしょうが、でも上役の与力から「世情に通じている」と評価されているように彼の人間や世間を見る目は確かで、またなかなか人間的に味のある人物なんです。

 そんな平四郎がよく立ち寄るのが鉄瓶長屋でお徳が商っている煮売屋のお店です。煮売屋のお徳は働き者の後家で、お天道様になんら恥じることのない堅実でまっとうな生活を送っている庶民の代表のような存在なんです。そんなお徳を作者はつぎのように紹介しています。

「確かな年齢を訊いてみたことはないが、お徳は平四郎よりも歳上で、働き者らしく堅太りに入り、腕っぷしも強い。彼女の店が平四郎の別宅のようなものだと言っても、お徳のつくる煮物に煮崩れがなく、煮汁に野菜のかけらが浮かんでいないのと同じように、そこにはひとかけらの色気もない。少なくとも平四郎は感じていない。」

 「ひとかけらの色気もない」とありますが、お徳は意外にも心の底で平四郎にほのかな想いを寄せていたのです。平四郎にはなかなか美形の細君がおり、これはみのらぬ恋ということになりますが、でも外見は見栄えのしないこんな中年男女のなんとも言えぬ微妙な関係が隠し味となってこの物語にいい味わいを作りだしているように思います。

 また、平四郎の細君はなかなかの美形だと紹介しましたが、その細君が彼女やその姉について、「まわりの人びとは皆、姿形がきれいだということばかりに目を向けて、わたくしたちの中身を見ようとはしてくださらない」と美形であるがゆえの嘆きを語っているのも印象的でした。作者の宮部みゆきは、『龍は眠る』などの超能力者を扱った物語の中で、超能力を持つがゆえの苦悩を描いていますが、優れた能力や美しい容姿が必ずしも本人を幸せにするわけではない人間心理の複雑さ、人の世の難しさをここでも教えてくれます。

 この他に、若くして鉄瓶長屋の差配になった真面目でしっかり者の佐吉とか、女郎上がりですが無垢な心を持っているおくめとか、隠密廻りの同心で平四郎に貴重な情報を提供してくれる「黒豆」こと辻井英之介、さらには『初ものがたり』でお馴染みの回向院の茂七親分がテープレコーダーがわりにしている「おでこ」こと三太郎という男の子なんかも出てきます。茂七親分は、この「おでこ」に後々に残しておいた方がよいと判断した事柄をつぎつぎと記憶させており、また「おでこ」は抜群の記憶力でそれをまるごと頭の中に保存し、必要に応じて記憶した内容を謡うようにするすると語ることができるのです。

 この「おでこ」という男の子の記憶力もすごいですが、物語の半ばからもっと素晴らしい男の子が登場し、読者をビックリさせます。平四郎の細君には姉がいて、その姉の12才の男の子の名前が弓之助なんですが、この子が「くるりと丸い瞳、つるりと秀でた額。すっと糸を引いたように真っ直ぐな鼻筋」と作者が紹介しているように尋常でないきれいな顔かたちをしているんです。でも、顔立ちが整っているだけではないんです。とても利発でつぎのような特技があるのです。平四郎に初めて会ったとき、「叔父上様の眉毛と眉毛のあいだはちょうど五分でございますね。右の眉毛は八分に髪の毛一筋ほど余りますが、左の眉毛は九分でございます」なんて言ったりするんですよ。

 でも、弓之助の能力は目測の正確さだけではありません。とても聡明で推理する力が抜群なんです。ですから、あれこれ詮索し推理するのが苦手な平四郎の相談役にいつのまにかなってしまい、鉄瓶長屋にまつわる謎、すなわち鉄瓶長屋から店子がつぎつぎと家移りしていく謎と、その鉄瓶長屋の持ち主の湊屋の複雑な家の事情とが裏で結びついているかもしれないという謎の解明に大きな役割を果たすことになります。

 こんな弓之助は、性格もとてもいいようですし、さらに人間を見る目も「世情に通じている」とされる平四郎顔負けです。例えば、煮売屋のお徳について、「とても良い人ですね。優しくて面倒見が良くて。でも、だからこそ、古着の裏をひっくり返して下手な継ぎ当てを探し当てることは得意でも、人の心の裏をひっくりかえしてかぎざきを見つけるようなことは不得意だと思えます」なんて言ったりします。うーん、とてもレトリカルで上手い表現ですが、12才の男の子の発言とはどうしても思えませんね。ちょっとこれは作者のフライングかな。

 この超美形の弓之助は、剣術の師匠から習った護身術を応用して悪漢を投げ飛ばしたりもしますから、文武両道に優れているようです。宮部作品にはこれまで魅力的な少年がたくさん登場してきましたが、またまた宮部ワールドに素敵な少年が加わりましたね。女性読者の中に弓ちゃんファンクラブができそうな予感がします。

 それはともかく、この物語の読者は、「働き疲れた馬があくびしたような顔」の中年男と頑丈そうな働き者の後家との奇妙な関係や、そんな中年男と超美形少年の奇妙な捕り物コンビによる鉄瓶長屋を舞台とする謎の解明をきっと大いに楽しむことができると思います。
                    2000年4月26日初稿
                    2000年4月30日改稿
「我らが隣人の宮部さん」
『ぼんくら』等についてのコメント紹介



宮部みゆき『本所深川ふしぎ草紙』に見る心の闇と灯り

 宮部みゆきが『本所深川ふしぎ草紙』で「町並みを包んでいる闇は、手を触れれば重く感じられそうなほどに濃い。味わえば、きっと苦いに違いない」と表現しているように、昔の夜は暗かった。そんな暗闇のなかで人々は不気味な声や音に恐怖し、遙か前方にぽつりとともる提灯や誰もいない屋台を明るく照らす行灯になんとも言えぬ薄気味悪さを感じたことだろう。

 江戸末期頃に成立したと思われる本所七不思議の伝承話、すなわち「片葉の芦」「送り提灯」「置いてけ堀」「落葉なしの椎」「馬鹿囃子」「足洗い屋敷」「消えずの行灯」の大半が夜の暗闇から生まれ、そして語り伝えられてきたものである。そして、そんな7つの伝承話をふくらませ豊かにして創作した宮部みゆきの『本所深川ふしぎ草紙』は、市井に生きる人々の心の闇とそこに微かにともる灯りを見事に描き出している。

 人は誰でも心の闇を持っている。人はみな心の闇に目を慣らし、心の闇とつき合って生きていかねばならない。『本所深川ふしぎ草紙』にも様々な人の心の闇が描かれている。

 例えば、第一話「片葉の芦」に出てくる元六という男は、元は真面目な瓦職人だったが、酒好きのために親方の金を使い込んでしまい、信用も職もなくしてしまった。彼はそのために世間を逆恨みするようになり、腹のなかにくすぶっていた身勝手な怒りから人殺しをおこない、財布まで奪ってしまう。だが、この第一話にはもっと思いがけない人物の心の闇も描かれている。
 
 第三話には、夫の浮気に嫉妬して、浮気相手の女に毒を飲ませる妻も出てくる。第四話の「落葉なしの椎」の小原屋の奉公人のお袖は、丑三つ時から起き出して落ち葉掃除をやるようになるが、その行為の裏に意外にも心の闇が存在していた。

 第六話の「足洗い屋敷」に出てくるお静は、極貧の家に生まれ育ち、幼い頃から旅籠で下働きをし、旅人の泥と埃に汚れた足を洗い続けたというが、そんな惨めな境遇の中で彼女の心の闇の淵は広がり深くなっていた。

 第七話「消えずの行灯」のおゆうは、父親が流行り病で亡くなったとき、長屋の隣の女房から「気の優しい、仏様のような人だった」との言葉を聞いても、「心のなかではぺっと唾を吐いていた」ような女であったし、彼女が奉公するようになった家の主人夫婦はお互いの心の傷を深くしあって生きていた。

 だが、『本所深川ふしぎ草紙』には心の闇とともにそのなかにともる灯りも描いている。

 例えば、第一話の「片葉の芦」では、「恵む」行為と対比させて「助ける」行為の真の人間的優しさが語られている。第二話の「送り提灯」の主人公は、煙草問屋で飯炊きなどをしている十二才のおりんだが、彼女は手代の清助から優しい言葉を掛けてもらっても、それは「自分にも優しくしてあげられる目下のもんがいることを確かめて、気持ちをほっこりさせたいからだろう」と考えるような屈折した想いを心の奥に隠していた。しかし、おりんは清助の本当の優しさを後で知ることになる。そのとき、送り提灯の灯はもう見ることが出来なかったが、おりんの明日には灯りがぽっとともった。

 第五話の「馬鹿囃子」には、縁談が突然壊れたショックで気が触れてしまい、人前で他の年頃の娘を殺したとか殺したいといったことを平気でしゃべるようになるお吉という娘が登場する。この物語の主人公のおとしは、そんな気の触れたお吉を笑いものにしていた人間の一人であった。しかし、そんなおとしも、夫婦約束していた宗吉に他の女がいるのではないかと疑い、失望のどん底に突き落とされたとき、お吉が叫ぶ「男なんてみんな馬鹿囃子なんだ」という言葉の意味が痛いようにわかるようになるのである。この言葉に男に裏切られた魂を見ることができたのだ。そんなおとしは、お吉が突然彼女に投げつけた「あんただって馬鹿囃子じゃないか」と言った言葉の意味を初めは理解できなかった。しかし、それも後にはわかるようになり、彼女自身が気の触れたお吉を笑ったことに対し心のなかで「ごめんね」とつぶやくのであった。この「ごめんね」の一言がおとしの心のみならず読者の心にも灯りをともすのである。

 ところで、作者の宮部みゆきは、彼女の紀行エッセイ『平成お徒歩日記』(新潮社)の「七不思議で七転八倒」でこの本所七不思議のエピソードの舞台となった場所を回って歩いたときのことをエッセイにしているが、その章の最後の方で神戸の淳君に対する殺人事件に触れてつぎのようなことを書いている。

「もし、淳君の遺体が捨てられていたあのタンク山が、住宅地の人びとよりもずっと古くからそこに存在する鎮守の森や、山の神をご神体に祀る神社であったなら、どうだったろう……ミヤべはそんなことを思わずにいられないのです。住民個々の記憶を超えた、土地の歴史と土地の記憶は、そこに入れ替わり立ち替わり出入りし、生きたり死んだり争ったり泣いたり殺したり殺されたりしてきた人間のなかの闇の部分を中和する力を持っています。
 とりわけ感じやすく自分を見失いやすい子供たちには、こうした、そこにいけば安心して『魔』を放散することのできる、『魔』を吸収してくれる場所が、どうしても必要なのではないでしょうか。その場所を欠くと同時に、我々日本人は畏怖することを忘れ、目に見えないものを敬うことも忘れ始めたような気がしてなりません。」

 現代の夜は電気の力でとても明るくなったが、「人間のなかの闇の部分を中和する力」の方はむしろ弱まっているのではないだろうか。
                        
2000年5月6日


宮部みゆき「我らが隣人の犯罪」に見る様々なトリック
                
(ネタバレあり注意!!)

 宮部みゆきは日本推理サスペンス大賞、日本推理作家協会賞、吉川英治文学新人賞、山本周五郎賞、日本SF大賞、そして直木賞とたくさんの文学関係の賞を獲得していますが、彼女が最初に作家として評価を受けた作品は1987年にオール讀物推理小説新人賞を受賞した「我らが隣人の犯罪」だったと言えるでしょう。今回は、その「我らが隣人の犯罪」(文春文庫の『我らが隣人の犯罪』所収)を取り上げ、そのミステリー小説としての様々な工夫、トリックを検討してみたいと思います。

 それで、ミステリー小説としての工夫、トリックを検討するためには、当然のことながら作者が小説のなかになにをどのように隠し込み、それをどのような手順で表に出していくのか、またそのために如何なる仕掛けを設けているのかを明らかにしなければなりません。
トリックに対するネタばらしをせざるを得ません。ですから、未だこの小説を読んでおられない方は、どうかまず先に「我らが隣人の犯罪」を読まれてから、その後でこの拙論をご覧いただきたいと思います。

 さて、この視点人物は三田村誠という中学一年生の男の子ですが、彼が半年前に引っ越してきた家のことについてつぎのように述べています。

「父さん、母さん、妹の智子、そして僕の一家四人は東京都心から電車で三十分ほどのところにある『ラ・コーポ大町台』に住んでいる。ここには三世帯が入居できるタウンハウスが六棟建ち並んでいて、僕たちが住んでいるのはその三号棟の中央だ。」

 作者は、このタウンハウスの三号棟を「三世帯が入居」するように設定し、さらに誠たち三田村家が住むことになった中央部分の左右に世間に知られては困るものを隠している隣人たちを配します。すなわち、右隣には脱税のためのダイアモンドの石六個を隠している橋本美沙子を配します。なお、そのダイアモンドは美沙子のパトロンでラブホテルやソープランドなども経営しているらしいお金持ちの中年男の持ち物です。そして、誠たち一家の左隣には同じく脱税のための通帳と印鑑を隠している喫茶店経営者の田所夫妻を配します。そして、宮部みゆきのミステリー作家としての技量の冴えはこの「我らが隣人たちの犯罪」を暴き出していく過程で大いに発揮されます。

 まず、物語の「起承転結」の「起」の部分から見ていきましょう。誠たち一家は半年前に「ラ・コーポ大町台」のタウンハウスの三号棟に引っ越してきたのですが、すぐに右隣の橋本美沙子の飼っている犬の鳴き声に悩まされることになります。この犬はミリーという名前のスピッツですが、「古い戦争映画に出てくる機関銃を思い出」させるようなすさまじい鳴き声で二十四時間のべつまくなしに吠え続けるんですね。

 タウンハウスの管理規約には「ペットの飼育を原則として禁止」するとしているので、誠の両親が管理人に駆け込み訴えます。しかし管理人は、橋本美沙子が入居する前からミリーを飼っており、このようなケースにおいてはペットの飼育も許可せざるを得ないとし、ペットをめぐって「トラブルがあるようでしたら、それは常識と良識で判断して隣どうしで円満に解決してください」と言うだけでした。しかし、橋本美沙子はそんな「常識と良識」の通用する相手ではありませんでした。

 三田村家の人々がミリーのすさまじい鳴き声に悩み苦しんでいる状況説明を受けて「起承転結」の「承」の部分がつぎに続きます。我慢にも限界があるということで、誠がついにこのミリーを「始末しちゃおう」と考えた夜に叔父さんが三田村家を訪ねてきます。叔父さんと言っても「去年どうにかして大学を卒業し、今は都内の中規模の病院の事務局で働いている」という毅彦という名前の青年です。

 その彼が事情を知って、誠につぎのような計画を提案します。すなわち、ミリーをさらって、彼の勤める病院の患者で犬好きな人に飼ってもらおうというのです。こうして、誠とその叔父の毅彦はミリー誘拐作戦を決行することになります。誠たちが住む「ラ・コーポ大町台」のタウンハウスの三号棟は「屋根裏が端から端までがらんどうの筒抜け」状態になつているので、毅彦が誠の部屋のクローゼットの天板を外して屋根裏に入り込み、隣の部屋にいるミリーをさらいに出かけます。

 ここで物語は「起承転結」の「転」に移っていきます。ミリーをさらおうと隣の部屋へと忍び込もうとした毅彦は、隣りの天井の天板のなかに通帳と印鑑が隠してあることを発見します。どうも脱税のために作って隠しているようです。さらに、なんともずっこけた話ですが、屋根裏進入作戦の後、誠の妹の智子から美沙子がスペア・キーを玄関の植木鉢に隠していることを教えてもらいます。別に屋根裏から忍び込む必要はなかったのですね。もっとも、屋根裏から忍び込んだから、天板のなかに通帳と印鑑が隠してあるのを見つけ出したんですけどね。

 それで、毅彦はその鍵を使って美沙子の部屋に入り込んでミリーをさらってきます。そして彼は誠に作戦を変更することを告げます。毅彦は誠に「お隣さんをちゃんと税務署に訴えて、同時に少しばかりこっちにも得になるような方法」があるとし、その「得」の部分は「今までのミリーによる精神的苦痛の慰謝料」のようなものだとします。そして、「隣が脱税でつかまればミリーだっていなくなるのさ」とも言います。では、毅彦の言う「慰謝料」を手に入れてミリーもいなくなるという一石二鳥の名案とはどのようなものなのでしょうか。

 毅彦の立てた作戦とは、誠と彼の妹の智子の協力も得て遂行されるとても手の込んだ巧妙なものでした。それを要約するとつぎのようになります。

(1)高橋美沙子に電話を掛け、「お宅が脱税している証拠をつかんだ。返してもらいたければ金払え」「ついでにお宅の犬もいただいた」と脅かし、都合のいいときに連絡するから二千万円を用意しておけと伝える。

(2)それから約二週間後に美沙子に再び電話をし、「こちらは二人組だ、一人がある場所でお宅の旦那と会う。もう一人はお宅に行って、あなたから直接、ゆうパックに詰めた金を受け取る。確かに金を受け取ったと確認したところで旦那に会っている相棒と連絡を取って、そちらのお求めのものを返す」と段取りを伝える。

(3)美沙子と彼女の旦那がゆうパックに金を詰め込んだ時点で、妹の智子が自宅で待機している美沙子のもとを訪れ、ミリーのベストが駐車場に落ちていたと言って外におびき出す。その間に誠が現金入りのゆうパックを新聞を詰めたゆうパックにすり替える。その新聞を詰めたゆうパックには問題の印鑑と通帳も入れておく。

(4)なお、毅彦は約束通りに印鑑、通帳やミリーを相手に返す気はない。毅彦は、仕事の上でひどい目にあったある看護婦の家に数通の嫌がらせの手紙を出した後に金を要求する脅迫の手紙も出し、美沙子たちと取引をする同じ日時に彼女を喫茶店に呼び出すことにする。これは、この看護婦がきっと警察に通報するであろうことも予測しての脅迫と呼び出しである。

(5)取引当日、美沙子に電話をして、ゆうパックに入っているお金の受け渡し場所を彼女の家から喫茶店に変更したこと、ゆうパックを受け取るのは競馬新聞を持った髪の長い女で、彼女に合い言葉として「約束のものです、早くしてくさい」と言うようにと伝える。この喫茶店は、脅迫状を送りつけた看護婦に金を持ってくるようにと指定した場所でもあり、看護婦には目印として競馬新聞を持ってくるようにと伝えてある。

(6)毅彦の予測としては、看護婦から通報を受けた警察が刑事をこの喫茶店に張り込ませ、やって来て合い言葉を言った美沙子を看護婦を脅迫している犯人だと疑って取り調べるだろうし、その結果、ゆうパックのなかに入っていた通帳と印鑑も調べられ、それが脱税用のものであることが発覚するだろうというものであった。

 私は、毅彦の犯罪計画のプロットを要約していて、あらためてこの計画が非常に手の込んだ複雑な計画であることを再認識させられました。よく毅彦がこんな計画を考え出したもんですね。こんな犯罪計画のプロットを考え出す人物なら、きっと優れたミステリー作家になれそうですね。おっと、実際にこのプロットを考え出したのはこの物語の作者の宮部みゆきでしたね。

 さて、この毅彦の計画は実際に成功したでしょうか。なんと意外なことが起こってしまうんです。物語は「起承転結」の「結」に行かずにまたまた「転」となるのです。作者は二回転目の宙返りを演じるんですね。すなわち、刑事がゆうパックのなかに見つけた通帳と印鑑は美沙子の旦那のものではなく、なんと左隣の田所さんの脱税用のものだったんです。それから、誠が美沙子の部屋からまんまと盗み出したゆうパックの中には上の五枚の一万円札以外はすべて新聞紙だったんです。

 では、なぜ左隣の田所さんが天板に隠した印鑑と通帳を毅彦は右隣の美沙子の旦那のものと勘違いしたのでしょうか。誠が最初に下見したときの方向が反対方向だったんですね。さらに実行当日、毅彦が誠と一緒に屋根裏に入り込んだとき、ちょうど新聞の集金がやって来たんです。それで、誠だけがお金を払うために慌てて下に降りてしまい、毅彦の方もそんな予期せぬことが起こったためにきちっと方向を確認せず、誠が前につけたフックだけを目印にして、その下が美沙子の部屋のある場所と思いこんだんですね。誠の最初の誤りを訂正させないために新聞の集金人を出してくるところなど、作者の芸はなかなか細かいですね。

 じゃー、毅彦の計画によって得た「慰謝料」は現金五万円だけだったかというと、そうではありません。最後に三回転目の宙返りが披露されます。毅彦たちは、最初に美沙子に電話を掛けたとき、「お宅が脱税している証拠をつかんだ。返してもらいたければ金払え」と言ったのに、なぜ美沙子とその旦那は毅彦の電話に応じて二千万円を用意するふりをしたのでしょうか(実際はゆうパックに新聞紙を詰め、一万円札五枚だけをその上に敷いてのですが)。美沙子の部屋からはミリーをさらいましたが、この犬が「脱税の証拠」とは思えません。毅彦たちは推理をめぐらしました。もしかしたら、ミリーが身につけているもののなかに「脱税の証拠」があるのかもしれません。そしてあったんです。なんと首輪のなかにダイヤモンドの石が六個も隠してあったんです。

 ところで、この物語を後で読み直してみると、この首輪は智子が美沙子を家の外に呼び出すための小道具として使われそうになっていることが分かりました。美沙子たちが用意したゆうパックに詰められた現金を彼女の家から奪うために、毅彦がミリーのベストを美沙子のおびき出しに使おうとしたとき、智子が「ベストより首輪の方がよくない? インパクトが強いよ」と毅彦たちに提案しているんです。この部分を後で読み直したとき、私は思わずニヤリとしてしまいました。こんなところにも作者の悪戯、いや細かい工夫が施されていますね。

 さて、こうしてこの物語は「起承転結」の「転」の部分が三回繰り返され、その三回転宙返りの離れ業が終わった時点でやっと「結」に到ります。物語の最後はつぎのように結ばれます。

「僕はうっとりと六個のダイヤをながめた。不公平なことは山ほどあるけど、たまにはこういうこともあるでしょ? 誰かがそんなふうに言っている気がした。
 いい気分だった。」

 どうですか、この物語は「屋根裏が端から端までがらんどうの筒抜け」状態のタウンハウスの三号棟という大仕掛けから犬の首輪を使っての小さな仕掛けまで様々なトリックを施し、そこに毅彦のとても手の込んだ複雑な計画を持ち込み、さらに物語において三回転宙返りが演じられるなど凝りに凝った工夫が施されていますね。

 なお、工夫と言えば、この物語の視点人物が誠という中学一年生の男の子ということも忘れてはなりませんね。毅彦の計画がもし毅彦の視点から語られたとしたら、家宅侵入、窃盗、嫌がらせ、脅迫という不法行為がからんだこの計画とその実行過程は読者にもっと重たくて後味の悪いものを残すだろうと思います。それが子供の視点から描かれることによりかなり緩和されているのではないでしょうか。読者は誠と一緒にはらはらどきどきしながら楽しいゲームに参加しているような気持ちになりますね。さらに、ミリーのけたたましい鳴き声による被害の事実が前提としてあることにより、読者は主人公たちの行為がそれに対するリベンジであると見なして大目に見ようと言う気持ちになるかもしれませんね。

 しかし、やはり毅彦の計画には法律上のみならず社会的モラルの点でもかなり問題があります。そんな計画に毅彦は子供の誠や智子もかかわらせており、ここがこの計画の最大の難点であり、私がもっとも気にかかるところでした。誠は物語のラストで「いい気分だった」と言っていますが、正直言って私は我らが主人公たちの隣人への犯罪にあまり「いい気分」にはなれませんでした。

                     2000年5月20日
「我らが隣人の宮部さん」
『我らが隣人の犯罪』についてのコメント


宮部みゆき『夢にも思わない』に見る様々なレトリック

 宮部みゆきの『夢にも思わない』(中央公論社)は、『今夜は眠れない』に引き続いて「僕」こと緒方雅男とその親友である島崎の中学一年生コンビがゼロメートル地帯の下町を舞台に活躍するミステリードラマです。この物語で「僕」は、クドウさんというクラスメートの女の子から「白河庭園」で開かれる虫聞きの会に誘われ、そこで彼女の従姉妹である森田亜紀子の殺害事件に遭遇してしまいます。そして、その事件の背景が次第に明るみになっていく過程で「夢にも思わない」事実に直面し苦悩することになります。

 ところで、「僕」の親友の島崎はまだ中学一年生なのに、非常に博識でまた大変な推理力、洞察力の持ち主でもあります。ですから、彼は森田亜紀子殺害事件に隠された「夢にも思わない」ような真実を誰よりもいち早く突き止めてしまうんです。

 しかし、私が彼に対して一番驚き敬服したのはそのことではありませんでした。私が驚き敬服したのは、この中学一年生が私などの知らない「洛陽城裏、花に背いて帰る」なんて漢詩の詩句を知っていて、それを引喩として使用していたことでした。しかし、張籍の「洛陽城裏 秋風を見る」の詩句なら私も知っているんですが、「洛陽城裏、花に背いて帰る」なんて詩句は初めて目にしました。ですから、「僕」から「おまえ、カノジョとうまくいってるか?」と訊かれたときに、島崎が「おまえほど、オレはポーッとなってないからな」と応え、さらにその言葉に添えて洛陽城裏 花に背いて帰る」と言っても、その引喩的表現が何を意味しているのか私にはさっぱり分かりません。うーん、悔しいですね。

 ところで、主人公の「僕」もやはり意味がわからなかったようで、「おまえって、ホントにイヤなやつだな」と島崎に言っています。しかし、この詩句はいったい誰のなんという漢詩から取ったものなんでしようか。残念ながらいまもまだ分かりません。私は中学1年生の島崎君以下なんですね。とても悔しいですが、でも、イチローだって松坂の球を三振しますからね。おっと、島崎は松坂かもしれませんが、私はイチローではなかったですね。

 島崎はまた大変な洞察力の持ち主でもあり、「僕」が「白河庭園」の虫聞きの会に彼を誘ったときも、「パーラー・ノグチのプリンアラモードの底にスポンジケーキが隠されているように、おまえの誘いの底には常にうしろめたい動機が隠されている」と対比表現を用いて「僕」の誘いには隠された動機があることをズバリ指摘したりします。彼はまた人の世をとても冷めた目で見ており、つぎのようなことを言ったりもします。人は、みんな傍観したり、ちょっとうしろめたいことをしたりするたびに、「食っていかなきゃならない、食っていかなきゃならない……」と自前のお経を唱えていると。若い頃からこんなにも物事が見えすぎたら、人の世に甘い幻想を持つことなどできず、生きていくことが随分と息苦しいことになるかもしれませんね。なんだか彼の明日がとても心配です。

 それに比べて「僕」はずっとフツーの中学生という設定です。そんな「僕」は、クラスメートのクドウさんが好きで、その気持ちをつぎのように語っています。

「僕のクラスメイトに、とってもおとなしくて目立たなくて、大勢の女生徒のなかに混じっているとほとんどいるかいないかわからないくらいなのだけれど、席替えで隣同士になってみるとこれが実はとってもきれいな娘(こ)で、地味にしてるからわかりにくいけど顔立ちも整ってて、右目がほんの少し斜視のところがまた可愛くて、よく知り合ってみると頭もよくて話も面白くて性格もよくってというクドウさんという女の子がいる」

 とにかく好きだから好きなんですよね。その気持ちをどう表現していいのか、うまく表現できないもどかしさがよく出ているでしょう。こういう風に言葉をあれこれ列挙して、「僕」の彼女への言いようのない想いを「言い表す」のも一つのレトリックの技法でしょうね。

 宮部作品の大きな魅力の一つがこのようなレトリカルな表現の巧みさですね。この『夢にも思わない』にも、先ほどの「パーラー・ノグチのプリンアラモードの底にスポンジケーキが隠されているように」うんぬんのようなレトリカルな表現が沢山出てきます。例えば、「僕はハンバーグでもいいし目玉焼きでもいい。だけど、自分がパセリなんじゃないかと思うと、ちょっと嫌だ。すごく嫌だ」なんて隠喩も出てきます。これは、クドウさんにとって「僕」が島崎の添え物的存在ではありたくないという主人公の切実な思いを語ったときのものです。

 この「僕」はフツーの男の子という設定だと思うんですが、なかなかレトリカルな表現が巧みで、島崎の言葉にわざとらしさを感じたとき、「今の彼の言葉は、全部人工甘味料だ。一粒で砂糖の十倍甘いけど、でも砂糖じゃない。本物じゃない」なんて言ったり、島崎がとても暗い顔を見せたときには、「その顔は暗かった。(略)誰かに笑いを盗まれてしまったかのように。心を砕かれてしまったかのように。この世でたったひとりだけ、この夜はもう明けないのだと知っている賢者のように」と表現したりもしています。こんな「僕」は将来きっと直木賞作家になるでしょうね。

 直木賞作家といえば、宮部みゆきも確か直木賞を受賞していたように記憶しているんですが、彼女もレトリックの名手ですね。直喩を使って「なんだか立ち枯れした胡瓜のような頼りのない若者」(『震える岩』より)とか、隠喩を使って「僕たちはサボテンだ」(「サボテンの花」から)、さらには諷喩を使用しての「それは運命の車だったのかもしれない。関根彰子はそこから降りようとした。そして、一度は降りた。
しかし、彼女に成り代わった女は、それと知らずにまたその車を呼び寄せたのだ」(『火車』から)などの文章はとても印象的ですね。そうそう、『ステップファザー・ステップ』で「生まれてこの方、俺はこれほど悲しい『ごめんなさい』を聞いたことはなかったし、二度と聞きたいとも思わない。子供なんて、大嫌いだ」というのがありましたが、この「子供なんて、大嫌いだ」という反語表現にはホロリと来てしまいましたね。

 それで、話を『夢にも思わない』に戻しまして、将来の直木賞作家の「僕」は、いろんな場面における自分の様々な感情を各種のレトリックの技法を用いてつぎのように巧みに表現しています。

「僕の脳は一瞬にしてドライアイスになり、それ自身の冷たさに耐えられなくなって、木端微塵に砕けた」

「心に穴があいてるんだな、と思った。ポンプのどこかに大きな破れ目ができて、涙を吸い上げようとしてもスカスカ空回りしてる。そんな感じだ。人間て、ホントに悲しいときは、むしろこんなふうになってしまうものなのかもしれない。
 本物の悲しみは、シュカシュカ空振りする心のポンプの音。傍目にはわからないし、聞こえもしない。」

「女の子の声が問いかけてくる。僕の心臓は突然独立した生き物になり、どうやら新体操の選手になろうと決心したようで、驚くべき高さに飛んだり跳ねたり、動脈をパッと離して放り上げてまたキャッチ、ジャンプして開脚――
 なんてことがあるわけないけど、そんな感じで胸の奥で大騒ぎをしている。」

「僕はちょっとクサッた。一カ月間冷蔵庫に入れっぱなしにされていた牛乳くらいに腐った。でも、牛乳はクサッてもヨーグルトになるからね。立ち直りは早かった。」
「日なたに三日間放り出されていた鯖の切り身ぐらいにクサッてしまった。
 その晩の僕に触ると、みんなジンマシンになったぞ、きっと。」

「僕は、彼女を苛めるこの世のアホを、『エイリアン2』のシガニー・ウィーバーみたいに、端から端まで火炎放射器で焼き払ってやりたくなってしまうのだ。」

「心臓だけが胸のごく浅いところで、スキップビートで踊っている。」

「その横顔を見つめるうちに、僕の心のなかに、水を吸った海綿のように、疑惑がふくらんできた。ぎゅっとしぼって水を出してしまえばいい。そんな疑惑など、消してしまえばいい。そう思うのに、できない。ふくらんだ海綿に手を触れることもできない。
 どうしてかといったら、その疑惑という海綿を膨らませている水は、とても汚いからだ。濁った血の色をしているからだ。」

 その他、「僕」の心象風景も「木漏れ日は明るく、風の神さまはクールミントガムを噛んでいた」とか「鮮やかな銀杏の葉と、傾いた日差しの黄金色。それが、その日の僕らの午後の色だった」、「僕はすでに吹雪のまっただなかにいる気分だったから、現実の天気なんかどうでもよかった。それなのに、つられたみたいにして空を仰いだ。厚い雲に閉ざされて、すっかり天井の低くなった冬の空を。今の僕の心のように、奥行きも高さもなくなった空を」といった風にとてもレトリカルな表現を駆使して描き出したりしています。

 宮部作品は、その豊かな人物造形力もすばらしいし、その人や社会を見る眼差しにも大いに共感しますが、このようなレトリカルな表現の魅力も忘れてはならないですね。

                    
2000年5月28日初稿
2000年5月30日改稿
「我らが隣人の宮部さん」
『夢にも思わない』等についてのコメント

「洛陽城裏、花に背いて帰る」について

 『夢にも思わない』に出てくる漢詩「洛陽城裏、花に背いて帰る」について、にこさんが掲示板に情報を寄せて下さいました。お陰で、この詩句の作者が直江兼続であることが判明しました。
 また、よーぜんさんが運営しておられる
直江兼継フアンサイト「春雁抄」「文人兼続」のコーナーにこの漢詩が紹介されており、つぎのような説明がありました。

 
春雁似吾々似雁
 洛陽城裏花背帰
 
 春雁吾に似て吾れ雁に似たり
 洛陽城裏花に背いて帰る
 
前半二句を欠いているが、兼続の漢詩の中では最も有名なもの。
作詩時期は不明。

北に帰る雁に、自分の境遇を重ねている。
花を待たずに北へ帰る雁と、都の華やかな花の季節に背を向けて、北へ向かう自身と。
ここでいう「花」とは、具象物としての「花」を言っているばかりでなく、都における全ての「華やかなもの」(政治だとか都の文化だとか)を指しているような気がする。
そうしたあらゆる「花」に背を向けて北へ向かわんとする…「背」の一字に、一つの堅い決意を感じる。

 それで「春雁抄」の掲示板に、この漢詩と関連する文献名について教えていただきたいと書き込みましたところ、ありがたいことによーぜんさんからお返事があり、「ご質問の件ですが、『直江兼続漢詩集』のような書籍があるわけではなく、私も原文に触れたわけではありません。兼続のことを書いた書物にはたいてい載っていると思いますが。ただ、本当に詩句が載っているという程度のものがほとんどです。参考になるかわかりませんが、サイトの『書棚』のページに掲載してあります書物にはたいてい載っています」と教えてくださり、「また、この詩は、林泉寺(上越の)に宝物として掛け軸があるそうです」との情報までお伝え下さいました。さらに、『夢にも思わない』との関連で、「島崎君が春雁の詩を引用したのは『花』を女性(=彼女)にたとえていったんではないでしょうか。自分は『花』には背を向けているんだよ、と」の示唆も与えて下さいました。

 それで、同サイトの「書棚」に載っている文献名を参考にして、最寄りの図書館で調べましたところ、木村徳衞著『直江兼續傳』(東京:木村徳衞、 1944年6月)が見つかりました。なお、同書の230頁及び264頁には、天正19年(1591年)の3月初旬、直江兼続が細川幽齋と京都の相國寺で聯句会を楽しみ、細川幽齋が発句に「花の後歸るを雁の心哉」と詠んだことが紹介されており、さらに「この幽齋の發句は、豫め兼續の作詩として最も有名である上二句の
けて居る所の、『春雁似吾吾似雁。洛陽城裏花背歸。』を知って發句したもの。或は此句の考想に依って兼續の詩作となった歟。其何れが前後なるやは不明であるが、互いに關聯する所あるものと思はれる」と興味深い考察をしています。

 さて、『夢にも思わない』では、「僕」から「おまえ、カノジョとうまくいってるか?」と訊かれたときに、島崎が「おまえほど、オレはポーッとなってないからな」と応え、さらにその言葉に添えて「洛陽城裏 花に背いて帰る」と言っています。よーぜんさんのご指摘通り、島崎君はこの漢詩に託して、「花」すなわち「カノジョ」のことに心惑わされてなんかいられないよ、とでも言いたかったのかもしれませんね。

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