私の宮部みゆき論


宮部みゆき『蒲生邸事件』に見る視点人物の問題


 今日は2月26日ですね。2月26日と言えばいまから64年前に二・二六事件が起こっていますね。そして二・二六事件と言えば、宮部みゆきファンのあなたはなにを連想しますか。はい、そうですね、『蒲生邸事件』(毎日新聞社、1996年)ですね。今夜はこの作品について評論したいと思います。ただ、今夜はこれまでと違ってかなり辛口のコメントになりそうです。

 『蒲生邸事件』の主人公は尾崎孝史という高校三年生です。彼は、前に上京したときに平河町一番ホテルに泊まって五校六学部を受験して全て失敗し、今回は予備校の試験を受けるために再度上京して同じホテルに泊まります。そこは陸軍大将蒲生憲之がかつて住んでいた屋敷跡に建てられたものでした。彼はそのホテルに宿泊中に火災に遭いますが、危ないところを時間旅行者の平田という男に助けられ、なんと二・二六事件の起こった1936年2月26日の蒲生邸にタイムトリップしてしまいます。

 こんな大変な経験をする主人公の孝史青年は、この物語において視点人物でもあり、彼の目を通して蒲生邸の状況やそこで起こった事件、さらには二・二六事件のために戒厳令が出された東京の街やバリケードにたてこもるクーデター部隊の兵士たちの様子が語られていきます。

 しかし、この孝史という視点人物は、タイムトリップ前に「二・二六事件」という言葉をふと耳にしたときに「二・二六事件てのは、いったい何だろう」と首をかしげるような歴史オンチの「超戦無派世代」の若者です。また、大学受験に挫折して「会う人誰もが自分をバカにしているように感じる」ような精神状態にありますが、これまでの生い立ちや家庭環境において特別の問題はなかったようで、どこにでもいるような極めて普通の大学受験生と考えていいようです。

 私は、作者がこんな歴史オンチの「超戦無派世代」の普通の若者を視点人物に設定したのは、おそらく「超戦無派世代」を二・二六事件当時の東京に放り込み、彼の素朴なとまどいや驚きを通じてユニークな二・二六事件像を描き出そうとしたのではないかと勝手に推測し、胸をわくわくさせながらページを繰っていきました。

 それで、読後感なんですが、さすがに宮部みゆきです、それなりに面白い物語に上手く仕上げています。なかでも蒲生邸で働いている若い女性の向田ふきへの孝史青年の淡い恋心と彼女の運命を変えたいと思う心理はとても印象的でした。孝史青年は、間違って1936年から1945年の空襲下の蒲生邸にタイムトリップしたとき、彼女が空襲の犠牲者になってしまう現場を目撃してしまいます。1936年の蒲生邸に戻ったとき、彼はつぎのように思います。

「平田は言った――自分の好悪だけで人を助けたり見殺しにしたりする、それはしょせんまがい物の神のやることにすぎないと。でも、俺はまがい物でもなんでもいい。そんな理屈にかまっちゃいられないんだ。ふき、俺はここにいる、ひとりで帰ったりはしないよ。
 君を、あんな死に方をする運命から救い出すまでは――」

 孝史青年はふきの運命を変えることができたのでしょうか。『蒲生邸事件』を読んでいて一番気になったのはそのことでした。しかし、蒲生邸に住む人々の複雑な人間関係やそれと関連して起こる銃(蒲生将軍が自決に使用した銃)の紛失問題などは、なんだかお金持ちのお屋敷で起こる家族の財産争いを扱ったありきたりのミステリードラマのような感じがしてもう一つ興味が持てませんでした。

 それから、孝史青年は 突然に現代から戦前の時代にタイムトリップし、見知らぬ人々の住む蒲生邸に身を置くことになったのですから、ものすごく不安な状況にあるはずですね。それなのに、なんと蒲生邸で起こった事件の謎解きのために主体的にかかわっていきます。こんな点もなんだか腑に落ちませんでした。

 そして、なによりも残念なことは、二・二六事件そのものがあくまでも時代背景として副次的に扱われていたことです。そのために、時間旅行者の平田が言う、歴史の「流れは必然で、過去を知っている未来の人間がタイムトリップしていってあれこれ忠告したところで、根本的に変えることなど不可能だ」との主張も、単なる平田個人の演説に終わってしまっており、物語全体から自ずと滲み出て来て読者の胸にずしりと重く残るような主張にはなっていないように思われました。

 さらにもう一つ残念なことは、孝史青年という歴史オンチの「超戦無派世代」の若者を視点人物にしているんですが、それがあまり効果を上げていないことです。私は、孝史青年の目に映る戦前の日本社会や日本人に対するカルチャーショックを期待し、彼がこの時代に対して無知であるがゆえに先入観を持たず、そのために「未知との遭遇」において素朴にしてかつ極めてユニークな認識を示すことを期待しました。しかし、残念ながら、彼は物語において作者の認識の素直でまっとうな代弁者となってしまっています。

 例えば、物語の後半において鎮圧部隊が行進していく東京の街頭風景を見ながら、滅亡への道へと歩んでいく日本の「未来」に対してつぎのような思いを持つんですが、これはまさに作者がそのまま顔を出して直接語りだしたような気がしました。

「何も終わってなんかいない。これから始まるのだ。これは終わりの始まりなのだ。それなのにどうして、あなたたちは笑う? どうして誰も怒らない? 誰も恐れない? どうして誰も立ち上がろうとしないのだ。これは間違っていると。我々は死にたくないと。
 なぜ止めないんだ。
 叫びだしそうになって、孝史は両手で口を押さえた。息だけが凍った白いもやとなって空に流れた。
 なぜ止めないんだ。今度の問いは、孝史自身に対する詰問だった。俺はどうして今ここで拳を振り、群衆に向かって叫ばないんだ。このままじゃいけないと。僕は未来を知っていると。引き返せ。今ならまだ間に合うかもしれない。みんなで引き返えそうと。
 だしぬけに、自分でも意識していないうちに、目から涙が落ちた。たった一粒だけだったけれど、それは孝史の頬を流れた。
――言っても無駄なんだ。
 誰も信じてはくれない。歴史はそれを知っている。」

 この物語においてとても大切なところだと思います。当時、満州事変以後のファッショ的風潮に疑問を抱きながらも、官憲の弾圧を恐れてその考えを口に出来なかった人々はおそらくこんな哀しい思いを持ったことでしょうね。また、未来のことを知らされている蒲生家の長男の貴之の思いとしてこれが語られるなら、それも理解できます。

 しかし、歴史オンチの現代の若者である孝史青年の思いとしてこれを描くのはいささか無理があるような気がしました。ある情景からなにか深刻な意味を読みとるということは、その情景に対してかなり深い認識を前提とします。「超戦無派世代」の普通の若者が二・二六事件終結時の東京の街頭風景に接してこんな地団駄踏むような悔しい思いを短期間(蒲生邸にタイムトリップしていたのは2月26日から3月4日の8日間だと思います)の体験のなかから持てるようになるものなんでしょうか。また、彼が見た街頭の情景と日本の将来との関係は、飛行機とその墜落の関係のようなものではありません。ちょっと警告してその危険を避けることができるような簡単な問題ではなく、もちろん孝史青年の手に負える問題ではありません。大河の滔々たる流れを目の当たりにして、それをくい止められないからといって、はたして自らを責めるような気持ちが生じるものなんでしょうか。ふきの将来を心配し、平田の言うところの「まがい物の神」の役割を演じようとするのが精一杯ではないでしょうか。

 『蒲生邸事件』は歴史的事実に対してとても良心的な小説であり、読者に二・二六事件とその意味について関心を持たせる役割を果たしていると思います。しかし、さらに「超戦無派世代」の普通の受験生・孝史がふきという女性を愛することを通じて精神的に成長し、また戦争が愛する人を無慈悲に奪ってしまうという事実を知ることを通じて戦争と二・二六事件との関連を認識していく過程をより説得的に描いていたならば、もっともっと素晴らしいものになったのではないでしょうか。

      二・二六事件から64年後の2000年2月26日初稿
                  2000年2月28日改稿  
「我らが隣人の宮部さん」
『蒲生邸事件』へのコメント紹介


宮部みゆき『淋しい狩人』に見る女性の自立

 私の職場の近くに古本屋さんがあり、その店内に雑誌「ダ・ヴィンチ」の「いちばん好きな作家BEST20」の記事が拡大コピーして張ってあります。それによりますと、女性作家の第一位が宮部みゆきとなっていました。そして、彼女の名前の横に読者の投書からだと思いますが「ミステリーは面白いし、時代物は泣かせるし、彼女は天才だ(37.女)」なんて言葉も添えてありました。

 なお、この古本屋さんではハードカバーは作者別に書架に陳列していますが、「ま」行のところに宮部みゆき作品として『火車』『蒲生邸事件』『幻色江戸ごよみ』『今夜は眠れない』『初ものがたり』『夢にも思わない』が置いてありました。

 さて、古本屋さんといえば『淋しい狩人』(新潮社、1993年)ですね。この宮部みゆき作品は、イワさんが経営している「田辺書店」という古書店を舞台にして物語が展開します。このイワさんの古書店を彼の孫で高校生の稔君も手伝っていますが、このおじいちゃんと孫の会話がなかなか楽しいんですね。

 イワさんが「ちゃんと店番をしてろ。万引きにあったら、その分のお金をお前の給料からさっぴくぞ」と言えば、「そんなことしてお金貯めたって、お棺のなかには入れられないよ」と稔君が言い返したりして、いつも憎まれ口をたたきあっているんですが、それも二人がそれだけ親しい関係だってことですね。

 それから、イワさんの古本屋さんに「ジーパンにトレーナー、化粧もしていない顔で、髪もぼさぼさ」の若い女性が『法律の抜け穴事典』を買いに来て、イワさんに怪しまれていることを察して「あたし、実は推理小説を書いている駆け出しの作家なんです」なんて言う場面もあり、宮部みゆきファンへの楽屋落ち的サービスもあります。

 でも、『淋しい狩人』の6つの連作短編で起こる事件の内容は、あまりにも身勝手な動機による悪質な殺人事件だったり、子供に対する陰湿な虐待事件だったりして、読後感はあまりいいとはいえません。もっとも「良質な殺人事件」とか「明るい児童虐待」なんてものは存在しないでしょうけどね。

 そんな6つの連作短編のなかで「歪んだ鏡」の話が一番私には印象深いものがありました。久永由紀子は小規模の商事会社に勤める25才の女性ですが、鏡を見ては自分が「映画のヒロインでもなく、小説のなかのシンデレラでもない」と考え、自分の行く手に対して何の期待も抱くことのできない女性でした。

 そんな彼女が、電車の網棚から偶然拾った山本周五郎の『赤ひげ診療譚』のなかの「氷の下の芽」という作品を読み、そこに書いてあったおえいという娘の言葉に頬を打たれたような気持ちになりました。それは「男なんてものはいつか壊れちまう車のようなもんです」「壊れちゃってから荷物を背負うくらいなら、初めっから自分で背負う方がましです」という言葉でした。そして、その言葉から由紀子はつぎのことを初めて真剣に考えるようになったのです。

「いったい、あたしは今まで、一人で立つということを考えたことがあったんだろうか。このおえいのように。自分で自分の生きる道を探すということを、一度でも真面目に考えてみたことがあったろうか。
 六畳間に三畳のキッチンのついた、この居心地のいいアパートのなかにおさまって、鏡ばかり見てきた久永由紀子は、金曜の夜のど真ん中にひとり、立ち止まって考えた。あたしは一人で生きる意味を持とうと思ったことがあっただろうか。」

 この由紀子の選ばれる人生ではなく自ら「一人で立つ」という人生への意識改革とつぎの「淋しい狩人」の章でのイワさんの室田淑美さんへの言葉とはおそらく連動しているのではないでしょうか。イワさんは、17才の高校生の稔君の交際相手である27才の室田淑美さんに喫茶店で会い、淑美さんが「稔さんほどあたしのことが好きになってくれる人に会ったことがなかった」と言い、それが「とっても大切なことなんです」と語ったときにつぎのように厳しく諭します。

「稔はあなたにとって、それくらい意味のある男の子なんでしょう。しかしね、室田淑美さん。あんたは大人だ。大人が、子供を逃げ場にしちゃあいけませんよ。」

 随分厳しい言葉ですが、人生を長く生きてきたイワさんだから言える言葉でしょうね。イワさんは、室田淑美さんに自立した大人としての生き方を求め、厳しく諭したんでしょうね。では、室田淑美さんはイワさんのこの言葉をどう受けとめたのでしょうか。結局、彼女は稔君との関係を絶つことを決心したようです。稔君が連続殺人犯によって怪我をさせられ入院したときも、彼女は見舞いに訪れず、また連絡ひとつ寄こさなかったそうです。稔君からそのことを聞いたとき、イワさんはそれが「淑美さんの、大人の思いやりかもしれないんだ」と思い、また『淋しい狩人』(宮部みゆきが作品のなかで創作した安達和郎と言う人物の架空の小説の題名)のつぎのような文章を思い出します。

「我々はみな孤独な狩人なのだ。帰る家もなく、荒野に出ればひとりきりだ。ときおり指笛を鳴らしても、応えるのは風の声だけである。」
「それだから、我々は人を恋う。それだから、血の温もりを求めて止まぬ。」

 おそらく、淑美さんが稔君との関係を絶つことを自ら決断したとき、彼女の心のなかで孤独の風が蕭々と吹いていたことでしょうね。だからこそまた、誰もいないひとりぼっちの部屋のなかで人肌の温もりを切に求めたことでしょうね。うーん、淑美さんの気持ちを思うと私までなんだかとても切なくまた哀しくなってきます。

 ちょっとしんみりしてしまいましたので、最後に気分転換のためにつぎのようなことを考えてみませんか。もしもイワさんの孫が女子高生で、交際相手が成人の男性だったら、そのときイワさんはどう言うんだろうかということです。なかなか難しい問題ですね。でもね、もし私がそんな立場に立たされたら、そのときは相手の男がどんな人物であろうと、またどんな弁解をしょうと、私は彼にガツンと言いますよ。

 このロリコン野郎!! うちの可愛い孫娘に手を出すんじゃねぇ!!!

                           2000年3月1日


宮部みゆき『東京下町殺人暮色』に見る下町の暮色

 『東京下町殺人暮色』(光文社文庫)は、下町でバラバラ死体が発見され、それと篠田東吾という画家の家で若い女が殺されたという噂とが重なるなかで、事件は思わぬ展開を見せ始めるという物語ですが、この物語の特色の一つは映画が隠し味にいろいろと使われていることです。

 例えば、謎の女が「どこだったかな――マリエンバードだったかしら。去年ね。そうよね、確かに会ったらしいわ、わたしたち」と言ったり、「シガニー・ウィーバーに火炎放射器でやっつけてもらえばいいんだ」といった台詞が出てきたり、さらに不審な自動車が『クリスティーン』のような車で、車体に『皆殺しの天使』というワッペンのようなものが貼ってあったり、「シネマ・パラダイス」というお店のBGMに「ハイヌーン」という題名の音楽が流れたりします。映画ファンなら、これらが「去年マリエンバードで」「エイリアン」「クリスティーン」「皆殺しの天使」「ニュー・シネマ・パラダイス」「真昼の決闘」と関連を持っていることがすぐ判るでしょうね。この他にも「コレクター」「大統領の陰謀」「グレート・スタントマン」「フランティック」「アルゴ探検隊の大冒険」「シェーン」「雨に唄えば」「七年目の浮気」「リオ・ブラボー」「ジョーズ」「十三日の金曜日」や邦画では「帝都大戦」も出てきます。もしかしたら、ここに抜けているものもまだあるかもしれませんよ。

 ところで、こんな映画好きの宮部みゆきが東京深川の下町育ちであることは彼女のファンなら誰もが知っていることですね。ですから、彼女が直木賞を受賞したとき、99年1月15日付けの『読売新聞』は受賞者の彼女を紹介した記事のなかで「東京・深川で四代続く下町っ子。親子親せきが肩を寄せ合い、隣人は互いに声をかけ合い、みんな意地っ張りで泥臭い。そんな土地を心から愛している」と書いたりしています。

 そんな下町育ちの宮部みゆきが『東京下町殺人暮色』という題名の作品を書いたのですから、読者は当然、この作品に暖かで人情味溢れる下町ものを期待することでしょうね。では、実際に『東京下町殺人暮色』はそのような下町情緒豊かな作品なんでしょうか。

 この物語の主人公は中学一年生の矢木沢順ですが、彼が父親の道夫と一緒に引っ越してきたのが「隅田川と荒川にはさまれ、東京湾を臨む、いわゆるゼロメートル地帯」の下町です。なお、父親の道夫は警視庁捜査一課に勤務していますが、彼が生まれ育った実家はこの地域のなかにあったそうです。しかし、この地域も道夫の子供の頃と比べると随分変わってきているようで、物語においてそのことについてつぎのように説明されています。

「下町ではあるけれど、同時に今『ウォーターフロント』として注目を浴びているところでもある。再開発の計画も多いし、緑地帯や公園の建設も盛んだ。ひとつの町のなかに、道夫が知っている当時からのしもた家や町工場と、新しい大型マンションや企業のビルとが混在するようになっている。」

 道夫は妻の幸恵と離婚しており、ですから順君は母親とは別れて父親と暮らしているのです。順君が物語のなかで「母さんね、僕を抱いて死のうとしたことがあるんだ」と言っていますが、順君には理解できないような深刻な問題が両親の間にあったようです。それで、道夫は順君と二人で下町に引っ越したとき、家政婦歴五〇年というベテランの幸田ハナさんに家の切り回しをお願いすることになります。

 このハナさん、豊かな人生経験から浮き世の酸いも甘いも噛み分けることのできる人生の達人といった風格で、この作品のなかで一番魅力的なキャラクターです。また、意外にも洋画が好きなようですよ。それで、そんな彼女が順君が住むことになった下町のことについてつぎのように述べています。

「この町も変わってきているんでございますよ。昔に比べれば、新しい人の出入りが多くなっておりますからね。遠慮と申しますか、警戒と申しますか……それに、新しくここに住まうようになった方たちに、『だから下町は嫌なんだ、コソコソ人の生活をのぞきこむようなことばっかりして。みっともない』と思われるのもシャクでございますからね。」

 なお、ハナさんのこのような言葉遣いは13才のときに華族の屋敷に奉公して以来身につけた「世渡りの為の武器」であり、このように「言葉で武装することで家政婦になる」のだそうです。しかし、順君に対してもこのような言葉遣いをするのは「ただの習い性(せい)」とのことです。

 おっと、それはともかく、この下町は外観が大きく変貌し始めただけでなく、そこに住む人々の意識も随分と変わってきているようです。私たちがイメージする下町は、そこに住む住民がお互いのことをよく知っており、密接な結びつきを持って相互に助け合い協力し合っているような姿です。しかし、ハナさんの話だと、新しい人の出入りが激しく、また新しく入ってきた人々は私生活にあまり干渉されたくないという意識が強いようで、それがまた昔からの住民の意識にも強い作用を及ぼしているようです。

 人の出入りが激しいといえば、町会長の息子で順君の友達の慎吾君の話によると、町では人の出入りが激しいので、年に一度は「住人調査」をおこない、各家の家族構成やその構成員の年齢、職業などを所定の用紙に書いて提出してもらうそうで、「そうでもしないとわかんなくなっちまう」とのことです。最初に紹介した読売新聞の記事にあったような「親子親せきが肩を寄せ合い、隣人は互いに声をかけ合い」するような下町のイメージとは随分違いますね。下町に従来あった地縁、血縁の共同体はもはやほとんど崩壊しかかっているようですね。

 そんな下町の崩壊を象徴するのが毅(つよし)という中学生の言動です。彼は、学習塾の仲間とぐるになって人様に大変な迷惑を掛けるような悪質ないたずらをおこないますが、それを咎められたときにケロリとした顔をしてつぎのように言っています。

「みんなで楽しんでいたんです。それがすごく広がっちゃって、大人たちの中には本気にしている人もいたみたいだけど、それもおかしくって笑ってしまった。デタラメなのに。」

 彼には他人の精神的痛みを想像する力が欠けているのです。この「想像力が欠けている」という言葉は順君の父親の道夫が残虐な行為をする少年犯たちに言及したときに使っている言葉です。道夫はつぎのように言っています。

「常識のある大人たちの目には残虐きわまりないことが、平気でやれる。こうしたら相手がどう感じるか、そこに頭が回らないんだ。生きてそこに存在している他人を、自分と同じ生身の人間だと思うことができない。ただ、自分の欲望の対象としてしかとらえることができない。」

 生身の人間としての相互の密な人間関係が希薄化するなかで、特に生活経験の浅い青少年に「想像力の欠けた」犯罪が多発するようになっているのかもしれませんね。

 さて、『東京下町殺人暮色』に昔ながらの下町情緒を期待した読者は、この作品を読んでそんな下町情緒を堪能することができたでしょうか。おそらく期待は裏切られたことと思います。しかし、それは致し方のないことです。作者にないものねだりをすることはできません。

 なお、この光文社文庫版の作品に付いている縄田一男の解説によりますと、「本書ははじめ『東京殺人暮色』という題名で平成二年四月、光文社カッパ・ノベルスの一冊として刊行された」とのことです。どうも、最初の題名の方が内容との関係で言えば相応しかったかもしれませんね。あるいは昔懐かしい下町の姿が消えていくという意味で「東京下町の暮色」なんてする方がよかったかもしれませんね。

                     2000年3月11日
「我らが隣人の宮部さん」
『東京下町殺人暮色』等に関するコメント紹介



宮部みゆき『理由』に見る日本社会の危うさ

 長編小説『理由』(朝日新聞社、1998年6月1日)は、宮部みゆきが直木賞を受賞した作品である。同作品は、バブル経済と共に誕生を約束され、その崩壊と共に産声をあげた「ヴァンダール千住北ニューシティ」のウエストタワー二〇二五号室で起こった「一家四人殺し」事件に焦点をあて、同事件が解明されていく過程を通じて日本社会に内在する様々な「危なっかしい」現実を暴き出そうとした野心作である。だから、作者は作中で砂川里子という人物にこの地上二十五階建てのウエストタワーを眺めさせ、つぎのように言わせている。

「あたしねえ、あの目のくらむような高いマンションの窓をね、下からこう、見上げて、思ったですよ。このなかに住んでる人たちって、そりやあお金持ちで、酒落てて、教養もあって、昔の日本人の感覚からしたら考えられないような生活をしてるんだろうなって。だけど、それはもしかしたらまやかしかもしれない。もちろん、現実にそういう映画のような人生をおくる日本人もいるんだろうし、それはそれでだんだん本当の本物になっていくんでしょう。だけど、日本ていう国全体がそこまでたどり着くまでのあいだには、まだまだ長い間、薄皮一枚はいだ下に昔の生活感が残ってるっていうような、危なっかしいお芝居を続けていくんじゃないですかね。核家族なんて言ってるけど、あたしのまわりの狭い世間のなかには、本当の核家族なんか一軒だってありやしません。みんな、歳とってきた親を引き取って同居したり、親の面倒をみに通ったり、子供が結婚して孫ができりや、今度は自分たちが自分たちの親のように早晩邪魔者扱いされるようになることに怯えたりしてるんです。そりやもう、いじましい話が山ほどありますよ。
 あのウエストタワーを見上げてるとき、なんですかね、あたし急にムラムラ腹が立ってきてね。なんか、あの内側に住み着く現実の卑しい人間のこととか何も考えないで、すうっと格好よく立ってるでしょう。あんなとこに住んだら、人間ダメになる。建物の格好よさに調子を合わせようとして、人間がおかしくなっちゃうって、そう思いました。」

 まさに経済大国日本を象徴するようにすうっと立っているおしゃれな高層建築物の薄皮一枚はいだその下には、様々なまやかしの「危なっかしいお芝居」、過去のしがらみをひきずった「いじましい話」、そして「現実の卑しい人間」たちが隠されており、殺人事件によってそれらのものが白日の下にさらされることになったのである。

 「ヴァンダール千住北ニューシティ」ウエストタワーの二〇二五号室を最初に購入したのが小糸信治である。小糸信治は「俺は一般人で終わりたくない」という、ほとんど恐怖に近いまでの願望があり、そんな異常なほどの強烈な上昇志向が彼をして二〇二五号室を購入させることになった。しかし、それがもともと分不相応な買い物であった上に、妻の静子が見栄っ張りな浪費家であったことも加わり、たちまちローンが払いきれなくなり、二〇二五号室は差し押さえられて競売にかけられてしまう。

 しかし、この二〇二五号室を手放したくない小糸信治は、人から知恵をつけられて占有屋を雇って二〇二五号室に住まわせることになる。そんな占有屋として雇われるのが「砂川一家」であるが、この物語が進行していくなかでこの「一家」の意外な事実がしだいに判明していく。この「一家」もまた「危なっかしい」日本の家族を象徴するような存在であった。

 ところで、小糸家の一人息子の孝弘が「砂川一家」と一緒に二〇二五号室に住みたいと思うようになるのだが、そんな彼の心理を語ったつぎのような言葉が小糸家の索漠たる家庭状況を垣間見せ、なんとももの悲しい。

「僕には、親と暮らす方がよっぽど大変だったですよ。俺は親だから、おまえは子供だからってことだけで、わけのわかんない都合で引っ張り回されてさ。他人だったら、決まりごとをつくってそれさえちゃんと守れば、かえってすっきりしてるじゃない。」

 さて、占有屋が住み着いてしまった二〇二五号室だが、そんなことになっているとはつゆ知らず、この部屋を競売で安く買ったのが石田真澄であった。しかし、車椅子の老婆を抱えた「砂川一家」の様子を見て、心優しい石田真澄は彼らを二〇二五号室から追い出すことができずに途方に暮れることになる。こんな石田真澄は、根っからの真面目人間で、高校卒業後に、就職・上京して合成染料製造会社の配送部でこつこつと勤勉に働いて来てた人物である。

 しかし、石田真澄には非常な学歴コンプレックスがあるようで、息子の直己の志望を無視して「大学行くなら東大だ、東大が一番だ」と一方的に強制するような側面も持っていた。そんな学歴コンプレックスの父親に反発した直己は「じゃあ父さんの人生はなんだったんだよ、父さんの誇りはないのかよ」「いい大学、いい大学って、父さんは人間の価値をそんなところで決めるのかよ」と言い、もののはずみで「可哀想な人間だね」とまで言ってしまう。また娘の由香利が、息子との口論で落ち込んでいる父親を慰めるつもりで「すっごい財産があって誰かがそれを守らなくちゃならないなんてこともないんだから、みんな自由なんだから、あたしたちにもやりたいことやらせてよ、アハハ」と軽く言った言葉がまた石田真澄の心を深く傷つけてしまう。

 彼は、子供から尊敬されないのは財産を持たないからだと思い込み、その結果、競売に出された二〇二五号室を購入することになる。だが、そのために占有屋に苦労し、さらに殺人事件に巻き込まれてしまうのだから、これまたなんとも悲しい話である。

 この『理由』には様々な家庭が出てくる。そして、その多くが「危なっかしい」問題を抱えており、そしてそんな問題のほとんどが私たちの周りにざらにあることであり、それだけに読んでいてなんとも身につまされる。

 しかし、そんななかで、物語が片倉ハウスを経営する片倉家や宝食堂を経営する宝井家に舞台を移して語られるとき、私はこれらの堅実でまっとうな庶民的家族の姿になんだかほっとさせられたのである。

 正直言って、私は、ウエストタワー二〇二五号室で起こった「荒川区内マンション一家殺人事件」の目撃者や関係者に取材して事実を明らかにしていくルポルタージュ形式をとったこの長編小説の前半部分において、読んでいる途中でいろいろ雑念が入ってしまい、たびたび途中下車したものである。それは作者の宮部みゆきが取材形式をとって物語を進行させているので、彼女独特のチャーミングな語り口を自ら極力抑制していることと関係があるように思われた。また、語られている対象がヴァンダール千住北ニューシティ」のウエストタワーという場所とその住民たちだということとも関係があるかもしれない。

 ところが、話が下町に住む庶民的な片倉家や宝井家になると作者の語り口も軽やかになり、やっぱり宮部みゆき作品を読んでいるんだという安心感と喜びを私は感じたものである。

 そう言えば、この片倉家と宝井家について語られる章がそれぞれ3つ割り当てられているが、それらの章で作者はインタビュー形式を完全に放棄している。そのために語り口も軽快になり、登場人物の心理描写も生き生きとしたものになっているように思われる。なお、この『理由』という長編小説は、プロローグの部分を含めて22の章から構成され、そのうちインタビュー形式を完全に排除している章は計7章だけである。因みに、片倉家と宝井家に関する6つの章以外でインタビュー形式を採用していない章は第14章の「生者と死者」のところ(深谷市のサンドイッチスタンドで働く砂川里子たちに言及した章)だけである。

 勿論、この片倉家や宝井家にだっていろいろな問題が存在している。片倉家では嫁と姑のいさかいが絶えないようだし、宝井家では綾子という娘が学校時代には荒れ、中学卒業後に家族が営む宝食堂を手伝うようになってからも18才で未婚の母となったりしている。しかし、なんだかんだありながらも両家の家族的紐帯は強いようである。これは、両家が職住一体の環境にあり、家族みんなで協力しあって生きていることと関係があるのかもしれない。私は、彼ら家族の庶民的な堅実さや暖かさ、人間的魅力に惹かれたし、心が和んだ。特に片倉ハウスを経営する片倉義文の宿泊者・石田真澄に示した人情溢れる対応は印象深いものがあった。宮部みゆきはやはりこんな場面を書かせると本当に上手い。

 『理由』という作品は、作者が新しい境地を切り開こうとした野心作として評価されるべきだであろう。作者は、ウエストタワー二〇二五号室で起こった「荒川区内マンション一家殺人事件」にかかわった人々について、「すべての人びとが『事件』から等距離に居るわけではなく、また相互に関わり合いを持っているわけでもない。彼らの多くは、『事件』を基点に放射状に引かれた直線の先に居るのであり、すぐ横の放射線の先に居る別の『関係者』と面識がまったくない場合も多い。また、ひとつの事件の解決までの過程に大きな役割を果たす人びとが、時間経過としては、事件の大詰めになるまで舞台の上に登場しない、つまり、事件からいちばん遠い場所に生活している場合もある」としているが、このような多くの人々とその家族を一つの小説に組み込んで物語を構成させ展開させていった作者の力量はなみなみならぬものがある。

 そして、『事件』を基点に放射状に引かれた直線の先に居る様々な人々とその家族を描くためにインタビューによる証言形式を多用してルポルタージュ風の作品に仕上げる必要性があったことも理解できる。だが、やはり彼女の従来の語り口が充分に発揮されている場面と文章ににどうしても心惹かれてしまった。嗚呼、宮部みゆきはやっぱり宮部みゆきであって欲しいな。うん? こんなこと言ったら作者の足を引っぱることになるのかな??

                    2000年3月21日
「我らが隣人の宮部さん」
『理由』等に関するコメント紹介
資料として『理由』に関するりりもんさんの出版社宛の質問とその返事も載せています。


宮部みゆき『クロスファイア』に見る火炎の意味

 金子修介が監督し、矢田亜希子が青木淳子を演じる映画「クロスファイア」が6月に全国東宝系でロードショー公開されるようですが、その原作となった宮部みゆきの『クロスファイア』(光文社カッパ・ノベルス)について今回少しだけコメントしたいと思います。

 この『クロスファイア』を読んでいましたら、文中において、念力放火のことを聞かされた清水という刑事が「スティーヴン・キングの小説じゃないんですよ。いい加減にしてくださいよ」と言ったり、念力放火能力を持った青木淳子がガーディアンという秘密組織からの電子メールを読むために音声認識装置に向かって言うパスワードが「ファイアスターター」だったりします。この「ファイアスターター」という言葉は、スティーヴン・キングの小説『ファイアスターター』(新潮文庫に訳文あり)から来ていることは言うまでもありません。もしかしたら、清水刑事も青木淳子もどちらもS・キングのファンなのかもしれませんね。

 作中の登場人物がS・キングのファンであるだけでなく、作者の宮部みゆきもS・キングの大ファンなんです。高橋克彦・大沢在昌・宮部みゆき・井沢元彦『だからミステリーは面白い〜気鋭BIG4対論集』(有學書林、1995年)の対談で、「私はスティーブン・キングが好きなんですけど、やっぱりキングの小説も、こんなこと絶対あるかっていうようなことが、いかにもあるように描写されている。それに憧れてる」と語っています。

 ところで、私はS・キングについてつい最近までほとんどその存在を知らず、彼の著作も全く読んだことがありませんでした。それで、にわか勉強的に新潮文庫の『キャリー』『ファイア・スターター』『デッド・ゾーン』やさらに映画で見たことのある『スタンド・バイ・ミー』を続けて購読し、彼の小説世界の面白さを知るようになりました。

 それで初めて知ったんですが、S・キングの『ファイア・スターター』には念力放火能力を持つチャーリーという幼い少女が出て来るんですね。彼女は、母を殺し父や彼女を幽閉して実験動物扱いした敵に怨念の火炎を発射するのですが、そんな幼い少女のチャーリーが日本に転生して我が宮部みゆきの『クロスファイア』の青木淳子となったのかもしれませんね。

 ただ、S・キングの『ファイア・スターター』のチャーリーの火炎は、敵の非道なやり方に対する積もり積もった怨念をぶっつけるものであり、敵をなぎ倒し、建物をぶっ壊すそのすさまじい火炎の威力に私は非常なカタルシスを感じたものですが、宮部みゆきの『クロスファイア』の青木淳子が社会の敵と見なす相手を焼き殺すために放出する火炎には殺伐としたものしか感じられませんでした。

 おそらく、青木淳子は自分に与えられた念力放火能力(パイロキネシス)を意味あることに使いたいと主観的には思い、「他の存在を滅ぼし、食い尽くすためにのみ存在している野獣を狩る」ために「正義の炎」を浴びせているつもりだったのでしょう。しかし、実際には念力放火能力そのものが彼女のコントロール力で抑えきれないほど強力になり、なにかもっともらしい理由をつけてでも力を解き放つことを彼女に強いるようになっていたようです。だから、彼女は頻繁にその念力放火の力を放出して殺戮を繰り返しますし、そのために大した悪人とも思えぬような人物をも巻き添えにしていきます。

 だが、そんな青木淳子も『クロスファイア』のラストの方で「人殺しを続け、他人の生殺与奪を握ることを覚えてしまうと、たとえその殺戮の目的が何であったにしろ、人は自分勝手な生き物へと成り下がるのだ。なによりも自分を優先するようになるのだ。あたかも自分が神であり、神の考えは全てを超えるという思い違いをするようになるだ」ということを悟るようになります。この部分に『クロスファイア』を書いた作者の重要な主張が込められているのではないでしょうか。

 「正義」の名においてなされるゲバルト(暴力、実力行為)は、行使者自らが厳しいルールとモラルで自己規制しないと際限なく過激なものにエスカレートしていき、自らの本来の理念をも蝕み退廃させていきます。『クロスファイア』に登場する秘密組織ガーディアンがまさにそのような存在でした。はじめは進駐軍の兵士の不法行為に対する秘密の自警組織として作られたガーディアンですが、社会の敵と見なす連中を手段を選ばず秘密裏に「処刑」していく過程で、自らの組織防衛のためにはたとえ善良な人間も平気で抹殺していく非人間的な恐ろしい組織に変質していきました。

 正義のためなら手段を選ばないとするような組織や人間が陥ってしまう必然的な過程をこの組織もたどり、墜ちていったのです。同じように、血なまぐさくて荒涼とした道を青木淳子も内部から念力放火能力にせかされながら歩んでいったようです。こんな青木淳子について石津ちか子が物語のラストの方でつぎのように言っています。

「望んであんな危険な力を持って生まれてきたわけではない。望んで殺人者になったわけでもない。彼女は彼女なりに精一杯生きようとして、結果的にあんなふうになってしまったけれど、あれは彼女が進んで選び取った人生ではなかったのだ。」

                    2000年4月1日
「我らが隣人の宮部さん」
『クロスファイア』に関するコメント紹介



宮部みゆき『長い長い殺人』に見る財布が語る効果

 私は、宮部みゆきの『長い長い殺人』を光文社のカッパノベルス版で購入したのですが、その表紙カバーに印刷されている「著者の言葉」によりますと、この長編小説が財布によって事件を語らせるという「突飛な設定」をおこなったとしており、また、「持ち主の懐深く、静かにおさまっている財布は、実はずいぶんといろいろなことの真相を知っているのです……」と書いてありました。

 私は、この「著者の言葉」を読んで、財布を語り手にするという作者のユニークな着想に大いに感心したものです。財布の中にはお金はもちろん、その他にもいろいろ大切なものを入れることが多いですね。そして、人は外出するとき、大抵は財布を内ポケットとかバッグなどに入れて出ますよね。それも、衣類と違って同じものをいつも持参するのではないでしょうか。ですから、持ち主の経済状態や身分、職業、年齢のみならずその人間性までをも自ずと反映するのではないでしょうか。
 
 因みに、私の財布をちょっと見てみましたら、黒い皮革製のノーブランドもので、かなり使い古してくたびれており、なかにはわずかのお札と小銭、それに……。うーん、やっぱり私という人間を見事に反映しているようです。

 宮部みゆきは、様々なジャンルの作品を発表していますが、表現方法においてもいろいろ創意工夫を重ねています。彼女の作品で最初に出版された本は、1989年2月に東京創元社から出された『パーフェクトブルー』ですが、同作品ではマサという名前の犬を語り手にしていました。最近では、直木賞受賞作の『理由』において、事件関係者に取材してその証言をもとにルポライターがまとめ上げたという形式を採用しています。さて、初版が1992年に光文社から出された『長い長い殺人』は、財布を語り手とすることによってどんな効果を生み出したのでしょうか。

 この物語のなかで4つの殺人事件が起こります。そして、それらの事件が塚田和彦と森元法子による保険金四重殺人ではないかという疑惑が浮上し、その結果、塚田と法子は一躍マスコミの寵児となってしまいます。状況証拠からは二人は限りなく黒いんですが、物的証拠はなく、そんななかでマスコミは空騒ぎを繰り返します。さて、事件の真実は……。

 こんな殺人事件を取り扱ったこの長編小説は、11の章に区分され、それぞれの章は刑事、探偵、被害者、目撃者等を持ち主とする財布によって語られます。なお、作者は語り手の財布ごとに一人称単数の呼称を変えさせており、例えば中年の刑事の財布は「私」、小さくてあまり上等じゃなさそうな飲み屋で働く女性の財布は「あたし」、小学校6年生の少年の財布は「僕」などと言わせています。また、それぞれの財布の性格も、その持ち主やあるいは購入者の個性をそれなりに反映しているようです。

 さて、財布を語り手にすることによって作者は創作上においてどのような効果をねらったのか、そのことを「目撃者の財布」という章に即して検討してみることにします。この章の語り手は19才のバスガイドのマコちゃんの財布です。なお、この財布も持ち主と似て気のよい女の子タイプで、自分のことを「あたし」と言い、東京で一人ぼっちで生きているマコちゃんの「味方」として彼女の身をいつも案じ、「若い娘の足元をすくう風が吹く世間から彼女を守る、ささやかな砦(とりで)」となって彼女を守ろうと思っています。なんという健気な財布さんでしょう。そんな「あたし」は、マコちゃんについて、財布ならではの視点からつぎのような描写をおこなったりします。

「そう、あたしは彼女のお財布。給料日の前に、心細そうにあたしを覗き込む彼女の目の色を知っています。デパートやブティックで、欲しいスーツやブラウスの値札を確かめてから、洗面所でそっとあたしの中身を数えるときの彼女の、やわらかい指の感触を知っています。そのあと彼女がその指を折って、あとの生活を考えたらどこまでお金を使うことができるか計算してる、その小さい声も聞いています。」

 財布ならではの視点から、マコちゃんの若い女の子らしいおしゃれへの切ない願望と、しかし衝動買いはしない堅実な性格とが見事に表現されており、ここに財布を語り手にした効果の一つがよく発揮されているように思いました。いつも持ち主と一緒にいる財布だからこそ、持ち主の行動をつぶさに知ることができるだけでなく、その内面に寄り添って細やかに持ち主の想いを観察することができるんですね。

 また、財布は他の財布とも話ができますから、マコちゃんが偶然拾った「下品で、ゴテゴテしてて、毒々しい真っ赤な色地に、きらきら光る飾りがいっぱいついていた」安物の財布が語る保険金殺人事件の真相の一部を詳しく知ることもできました。マコちゃんはもとより、警察やマスコミも知らないような事実を知ってしまうんですから、すごいですね。でも、財布ですから、拾われた真っ赤な安物の財布もマコちゃんの財布もどちらも事件の証言者にはなれません。ここにも財布を語り手にした効果の一つがありますね。読者に殺人事件の真相の一部を教えながらも、証言者が財布であるがゆえに事件の捜査には全く影響を与えません。ですから、読者はとてもじれったい思いをすることでしょうね。

 じれったいと言うと、マコちゃんの財布は大抵はバッグのなかに入れられているので、多くの場合、外界の動きを直接目で見ることができません。ですから、マコちゃんに「財布を拾いませんでしたか」と質問し、その後も彼女のことを見張ったり尾行したりする不審な人物について、財布自身は直接見ることはできず、ただマコちゃんの不安な様子や行動からそれと察知できるだけです。これは、マコちゃんの財布だけではありませんね。いつもは持ち主の上着の内ポケットやバッグのなかに入っているというのが財布の一般的特性ですね。そんな財布を語り手にするんですから、作者は叙述上において大変なハンディキャップを負うことになります。

 でも、さすが宮部みゆきです、そこは巧みに処理しています。いや、かえってそのことを逆手にとってこのミステリー小説に上手く利用しています。「目撃者の財布」の場合ですと、例えば、マコちゃんが日帰りの東京名所案内のバスガイドとして観光バスの出発前に挨拶をしていたとき、怪しい人物が乗り込んできたようですが、そのときの様子をマコちゃんの財布はつぎのように語っています。

「『おはようございます』マコちゃんはいい声であいさつを投げています。あたしは気持ちよくそれを聞いていました。
 ところが、あるところで急に、彼女の声が乱れたのです。息を呑んだかのように、あいさつがぷっつりと途切れました。
 どうしたんだろう? そう思っていると、お客さまがステップをあがってゆく足音が聞こえ、気をとり直したマコちゃんが、またあいさつの言葉を述べ始めました。
 でも、その声から輝きが消えていました。」

 直接相手の姿を見ることができないだけに、かえって不気味ですね。さらに、後にマコちゃんに身の危険が迫ったときも、バックのなかに入っている財布と一緒に読者も暗闇の中で目隠しされているような情況に置かれているので、それだけ一層不安と恐怖がつのります。このあたりにも作者の創作上の計算が働いているでしょうね。

 「目撃者の財布」という章において、財布が語り手をつとめることの効果について述べてみましたが、その他の章の多くにおいても似たような効果が発揮されています。もちろん、効果の程度は章ごとに随分と違っており、別に財布に語らせる必然性をあまり感じなかった章だってありましたよ。でも、全体としては、それなりの効果をあげているのではないでしょうか。

 この財布を語り手とした長編小説、なかなかユニークで面白い小説ですし、すでに光文社文庫にも入っていて手軽に購入できますから、まだ未読の方はぜひ読んでくださいね。勿論、財布ともよく相談してください。
                    
                      2000年4月8日
「我らが隣人の宮部さん」
『長い長い殺人』に関するコメント紹介

            
                 
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