私の宮部みゆき論


宮部みゆき『震える岩』に見る作者の人物造形力

 霊験お初が活躍するこの捕物帖は、深川は三間町の十間長屋に住む吉次が死人憑きになってしまうという事件から始まる。この吉次、ろうそくの流れ買いを生業にしており、「たとえ鐘の嶋らない日があっても、吉次の家の障子がするりと開けば、それが明六つだと言っていいほどに、彼の毎朝の行動は、はかったように正確だった」が、全く目立たない男で、隣のおくまはこの吉次をつぎのように評していたという。

「まるっきりね、あんた、紙にかいて壁に張ってある絵みたいな人だよ、吉さんは」
「紙にかいてさ、こう、ごはんつぶをつぶして壁にはっつけてさ、そんでもつて風にひらひらしてるだけってなもんだよ。うちに帰ってきたって、ことりと音もたてやしないんだからね」 

 私は、こういったおくまさん風のレトリックが大好きで、「おっ、待ってました、宮部みゆき!!」と大向こうから掛け声をかけたくなってくる。
 ところで、風にひらひらしているだけの壁の絵のような存在といえば、霊験お初がすでに活躍していた「迷い鳩」「騒ぐ刀」(ともに新人物往来社より1992年に刊行された『かまいたち』に所収)の登場人物たちのことを私はつい連想してしまった。この2作は1986、87年にそれぞれ初稿が書かれており、『かまいたち』に改稿されて収録されている。

 この2つの作品は、怪奇幻想的な時代ミステリーとしてそれなりに面白い小説に仕上げられている。特に「騒ぐ刀」は、見えないものが見え、聞こえないものが聞こえるお初がその霊力によって妖刀、妖犬と協力し、人の血を求めて彷徨う呪われた刀と対決するというストーリーで、おどろおどろしい雰囲気のなかで息もつかせぬ波瀾万丈の物語が繰り広げられている。

 しかし私には、これらの作品に宮部みゆきの作品ならではの魅力が感じられなかった。なぜかというと、登場人物の存在感がもう一つ希薄だからである。主人公のお初も、お初の兄で目明かしをしている六蔵も、登場人物のみんながストーリーを展開していくために割り振られた役割をただ型どおりに演じているだけで、なんだか風にひらひらしているだけの壁の絵のような存在なのである。

 それに比べて、『震える岩』では、作者の人物造形力は格段に向上している。例えば、お初について作者はつぎのように描写している。

「小柄でふっくらとした丸顔、肌は白いが、近づいてよく見るならば、鼻のまわりにぽつぽつとそばかすが散っていることがわかるだろう。少し下がり気味の目尻の愛らしい顔だちだが、くっきりとした線を描く小さなくちびるをきちんと結んだ口元の線など、なかなかどうして勝ち気そうにも見える。」
 
 さらに作者は、お初の人柄を造形していくために、お初が南町奉行の根岸肥前守鎮衛の屋敷を訪れ、女中に案内されて奉行のいる座敷に向かうときのつぎのような場面を用意する。

「大きな座敷の隣に小さな座敷、そこを通り抜けるとまた廊下と、入り組んだ造りの役宅のなかを、女中は足音もたてずにすいすいと抜けてゆく。一歩さがってあとに続く娘は、前をゆく女中の、ちらちらと白く見える足袋の底に目をやり、急に何か思い出したような顔になってちょっと足を止めると、立ったまま素早く右足をひょいと跳ねあげて自分の足袋の裏を見た。しまったというような表情が、その小さな顔の上をちょっとかすめる。が、すぐに何事もなかったかのような顔に戻り、女中のあとに続いた。」

 お初はなぜ足袋の裏を気にしたのだろうか。彼女は、夏の季節なので家では裸足でいたのだが、急に南町奉行に呼び出され、慌てて繕うのも忘れた足袋を履いてきてしまったからである。作者は、お初という人物像を造形するためにこんな場面を物語のなかに織り込んだのであり、こんなところにも作者の職人的な芸の細かさ、巧みさを見ることができるのである。

 しかし、この『震える岩』という霊験お初の捕物帖において、お初以上に重要な役割を演じ、またそのために生き生きとした実在感を与えられているのが古沢右京之介である。この17才の若者は、この物語において実証的で論理的な推理力を発揮してお初の霊力を助け、死人憑きによる殺人事件の謎を解くとともに、その事件の背後にある赤穂浪士の「義挙」に対する批判的視点を提示し、さらに身分制社会における親と子の人間葛藤劇の主人公を演じている。彼は作者によってこのような3つの重要な役割を負わされているのである。だからこそ、作者はその技量を大いに発揮して右京之介という人物を造形しており、その結果、読者は右京之介に対して強い印象を持ち、また非常な親近感を覚えるのである。

 こんな右京之介は、彼が最初に登場する場面において、お初の目を通してつぎのように描かれる。

「まだ若い。お初と同じ歳ぐらいのように見える。つるりとした月代(さかやき)。色白の肌。ひよわな身体付き、ことに肩が細くて撫で肩なので、妙に頭が大きく重そうに目立って見える。お初は、この若侍が頭をあげるのと入れ代わりに、さっと両手を畳についてお辞儀をしたが、それは礼儀であるのと何時に、思わず口元に浮かんでしまった笑みを隠すための動作でもあった。
(あのおかた、眼鏡をかけていた)
 あの若さで目が悪いとは気の毒な。だが、真ん丸な緑の眼鏡を紐でくくりつけた顔は、どういうふうに見ても、どうしても――(おかしいったらないわ)」

 お初は、こんな若侍を「なんだか立ち枯れした胡瓜のような頼りのない若者」だと感じてしまう。この立ち枯れ胡瓜が古沢右京之介なのである。そして作者はさらに、この右京之介がお初と一緒に表通りを歩いていたときに大八車に危うく轢かれそうになる場面も描き、彼が外見だけでなく実際にも不器用な人間であることを読者に印象づけている。

 こんな立ち枯れ胡瓜の父親はどんな人物かというと、立ち枯れてもいなければ胡瓜でもない。古沢武左衛門といい、その通り名は赤鬼だ。彼は腕利きの町方与力で、直心影流の遣い手でもある。こんな町方与力の武左衛門の跡を継ぐべき嫡男が立ち枯れ胡瓜で、いま与力見習いをしているのだが、跡取りとして全くの不適格者なのである。読者は、だから古沢家に親と子の葛藤劇が存在するであろうことを容易に想像できるのである。

 しかし、右京之介には優れた能力がある。それは難解な算学の問題を解いたり研究したりする能力である。与力見習いとして吟味の手伝いをしているときでも、頭のどこかでいつも算学のことを考えている彼を評して、御番所の先輩たちや胞友たちは「そろばん」と呼んでいるようであるが、彼は当時の既成の観念にとらわれず、ものごとを実証的で論理的に考察することができる人物なのである。

 そんな彼は、死人憑きによる殺人事件の背後に百年前の浅野内匠頭の吉良上野介に対する刃傷事件がからんでいるらしいことを察知し、評定所の記録を丹念に調べはじめるのである。そして、その記録の調査に基づいて、「吉良とのが浅野どのを苛めたというのは、芝居のなかの話です。少なくとも、公式の記録には、そのような話は残っていない」とお初に語り、さらに赤穂浪士たちが「もとはと言えば、幕閥が、乱心の主君を乱心者として裁いてくれなかったがために、吉良に討ち入り、本来ならば忠義ともいえない忠義を通さなければならない身の上に追いこまれた人々だった」という認識を持つに至るのである。彼自身が「与力だから与力になる」封建的世襲社会においてはみ出し者的存在であるからこそ、封建社会とそれを支える封建道徳の犠牲者として赤穂浪士たちを理解し真に同情することができたのであろう。

 こんな彼は、物語の後半で父親の武左衛門と毅然と対決し、言うべきことを正面切って言う若者に成長していく。私はこの場面で思わず涙が出そうになった。私には、死人憑きが引き起こす殺人事件の謎の解明以上に、右京之介のこれまでの境遇とこれからの生き方に強い関心を持たざるを得なかった。そんな右京之介の存在と彼の人間的葛藤劇があることにより、この物語はその内容に怪奇幻想的な時代ミステリーものにとどまらないふくらみと豊かさを持つことができたのである。 

                  2000年1月15日
「我らが隣人の宮部さん」
『震える岩』に関するコメント紹介



宮部みゆき『火車』に見る厳しさと柔らかさ

 『火車』は、怪我で休職中の本間刑事が亡妻の従兄弟の息子である栗坂和也から彼の婚約者の関根彰子が失踪したので探してほしいと依頼されることから物語がはじまります。そして、関根彰子追跡の調査のなかで栗坂和也の婚約者が「関根彰子」の戸籍を自分のものにして彼女になりすました別の女性であったこと、そして関根彰子もその偽者もどちらも消費者信用の多重債務の犠牲者であり「同じ苦労を背負っていた人間」であり、彼女たちは「共食いしたも同然だった」ことが判ってきます。

 この『火車』という小説において作者の目はとてもシビアです。しかし、消費者信用の多重債務が生み出す悲劇を題材にしているから、だから作者の目がシビアだといっているのではありません。それらの多重債務の地獄に落ち込んでしまう人間のみならず、人間存在一般に対して作者の目はとてもシビアなんです。例えば新城喬子を妻としたことのある倉田康司や彼女と結婚しようとした栗坂和也についてのつぎのような指摘は、彼らのような人間の心理をこわいぐらいに鋭く洞察していますね。

「考えてみると、栗坂和也と倉田康司はよく似ている。裕福な家庭に育ち、学校では優等生タイプで、親に背かず社会的な体面もきちんと守る。風采もよく、能力も平均以上。そして、そういう育ちのいい青年が、心の奥底のどこかに隠し持っている親への反抗心を――非行少年が暴力で表すような闇雲なものではなく、強い親、立派な親、自分に幸せな子供時代を与え、理想的な人生のレールを敷いてくれた、そういう力のある親への反抗心を和らげ、まっとうに対決しては、終生勝つことのできない親に代わって、彼に自信をつけさせてくれる存在――それが、喬子という女性だったのではないか。
 和也も倉田も、どうあがいても親には頭があがらないとわかっている。わかっているが、成人した彼には、親のセットしてくれたコースを歩みながらも、自分だけを頼り、自分の能力を確かめさせてくれるような、庇護をかけてやることのできる対象もまた、必要になってきていたのだ。
 そこに、喬子はぴったりだった。そういうことではないのか。」

 優れた小説の人間洞察は人間心理を学ぶ最高の教材だと言いますが、『火車』の栗坂、倉田に対する洞察もすごいですね。うーん、かなわないな、こんなに人間の心の奥を覗かれたら、身も蓋もないよって感じですね。宮部作品を読んでいてよく感じることなんですが、彼女の作品は柔らかな外見とは裏腹にすごく硬質なものが内部に隠されていますね。そして、その固い手触りはこのようなシビアな人間洞察から来るものだと思います。

 しかし、宮部作品においてその柔らかな外見もまた宮部みゆきファンにとって非常に魅力であり大切な要素です。では、シビアな人間理解がその基底にある宮部作品のなんともいえぬ柔らかさはどこから来るものでしょうか。私が考えますに、宮部作品の柔らかさを生み出すものとして少なくともつぎの2つのことが指摘できるのではないでしょうか。

 一つは、作者が作品の登場人物がどんなに醜い行為、愚かな行為、非道な行為をおこなっても、そんな彼らを冷たく突き放していないということです。例えば、『火車』の新城喬子は、「関根彰子」の戸籍を自分のものにして彼女になりすますために大変な罪を犯す女です。また彼女は、お坊っちゃま育ちの倉田や栗坂の先ほど指摘されたような心理を見抜いた上で彼らに頼り、利用し、コントロールしょうとした非常にしたたかな女であるとも指摘されています。しかし、他方で、彼女は関根彰子のアルバムを彼女の親友と思われる女性に送ったり、関根彰子が語った十姉妹の墓の話がどうしても気になり、彰子の卒業した母校を訪れたりするような女性としても描かれています。

 勿論、リアリズムの見地からすれば、彼女のこのような行為は犯罪が露見するきっかけとなりかねないような軽率な行為であり、そんな危ない行為をするわけがない、不自然だと指摘することは簡単でしょう。でも、物語のなかでこのような彼女の挿話があることにより私たち読者はなにかほっとさせられるのです。やはり、彼女のなかにある人間味を読者は心のどこかで期待しており、それに応えてくれているのがこの挿話ではないでしょうか。そして、それは読者への作者のサービスであるだけでなく、生きることそのものが大きな謀りごとのような人間存在そのものを複眼的に見る作者の喬子への優しい想いも託されていると思います。

 宮部作品に柔らかさを生み出すもう一つの要因は、作者の作家としての「遊び」のテクニックです。私が『火車』を再読してあらためて感じたことは、宮部みゆきが実に「遊び」に巧みな作家だということです。ここでいう「遊び」とはストーリー展開やテーマの掘り下げなどとは直接関係ない人物や場面を作り上げて読者を楽しませたり雰囲気に浸らせたりするような部分のことです。

 例えば、物語の後半で本間が新城喬子のかつての夫であった倉田康司を訪ねて伊勢市の倉田不動産に赴きますが、彼は倉田不動産のビルの前で「黄色い雨合羽を着てフードをかぶり、小さなイカみたいになった子供が、大きめの長靴をばたばた鳴らしながら」ビルの自動ドアのところまでやってきて、力いっぱい足踏みしてドアを開け、母親から「バカね、なにやってんの」と叱られる場面を目撃します。作者はさらにこのいたずらっ子の様子をつぎのように描写し続けます。

「追いついてきた母親が、子供の尻をひとつ叩いて、邪険に手を引っ張った。子供は、母親に連行されながら、えーいおまけだという感じでうしろに足を付き出した。センサーがそれを感知したのか、閉じかけていたドアがまた開いた。
 本間は思わず微笑した。顔は見えなかったが、あれは男の子だろう。今度は隣の隣の店先を襲って、回転式の『合鍵つくります』の看板を盛にひっぱたたいている。母親が子供の首ったまをつかんで引き戻したところだ。智はあれほど悪戯ではなかったが、それでも、ときどき、千鶴子にこっぴどくたたかれていたものだった。」

 この悪戯坊主の描写は、つぎへの物語の展開の伏線として設けられたものではありません。本間による新城喬子追跡のための調査にとっては全く意味を持たない挿話です。でも、雨の日の街の人間の温もりを感じさせる優れた描写であり、このような「遊び」的挿話によってシリアスな物語の緊張をいっとき和らげることができます。

 「遊び」的人物の例で言えば、本間と同じ公団住宅に住む井坂さんの奥さんである久恵さんや今井事務機の女子事務員のみっちゃんなんかもとても印象的ですね。井坂さんが以前勤めていた会社の若社長が逆恨みして金属バットで井坂さんを襲ったとき、フライパンを振るって旦那の井坂さんを守ろうとする久恵さんの「美しい」イメージは鮮烈です。それから、いささか頼りない感じのみっちゃんもなんとも憎めないキャラクターとして小説で存在感を示していますね。とくに、今井事務機の事務所を初めて訪れた本間のために喫茶店にいる社長を呼んでくるといって事務所を出るときの会話は傑作です。

「社長、向かいのビルの喫茶店にいますから」
「商談中ですか?」
「ショウ――いえいえ、コーヒー飲んでるだけです。いつもそうなんです。あたしは留守番です。呼んできます」
 もうドアの方に向かいかけている。せかせかと振り返って、
「あの、あたしの留守に電話がかかってきたら、どうしましよう」
 こちらの方が訊きたいようなことを訊いてくる。
「どうしたらいいですか?」
 彼女はちょっと考えた。「かかってこないと思います」
 面倒なことはすぐに棚上げにしてしまう性格らしい。

 この箇所で私は大笑いしてしまいました。こんなみっちゃんは、社長から妻の従兄弟の息子は「はとこ」というのかと質問されて、いつまでも辞書を調べたりしています。そして、なんとこのみっちゃん、本間が後に再度今井事務機に電話をしたときも、まだそのことを気にしており、わからないことを心底残念そうな様子で「あたし、そういうことヘタなんです」なんてこと言ったりしています。彼女には天然の可愛いさがありますね。

 ところで、私も「妻の従兄弟の息子」の呼称や「はとこ」の意味について知りませんでした。ところが、最近、『サンデー毎日』1月23日号を読んでいましたら、時実新子「関西粋人いんたあねっと」に「はとこ」についての説明があって、「はとこは親同士がいとこの子供同士の呼び名」であるとしていました。そうすると、やはり本間にとって「妻の従兄弟の息子」である栗坂和也は「はとこ」ではないようです。そういえば、みっちゃんも辞書を調べて「はとこじゃないみたいですよ、社長」と言ってましたね。

 おっと、「はとこ」のことなんかで横道にそれて遊んでいてはいけませんね。『火車』における「遊び」の話に戻りたいと思います。「遊び」の部分があっても読者に「余計なもの」とは感じさせず、かえって作品に彩りと豊かさを与えて魅力的なものにできる力量こそプロ作家がプロ作家であるために絶対に欠かせないものだと思いますが、シリアスなテーマをあつかった『火車』においても宮部みゆきは「遊び」の部分において優れた技量を発揮しています。

 では、その「遊び」の「遊」って漢字は本来どのような意味を表しているかご存知ですか。なんと、「はとこ」の説明が載っていた『サンデー毎日』1月23日号に「遊」の漢字の意味も載っていました。その「遊」の漢字の説明は中野翠「満月雑記帳」に出ていたんですが、それによりますと、NHKが1月2日に放送した「老いて遊心、学を究めん――白川静の漢字宇宙」で、白川先生が「遊」という字は人間が旗を持っている図形からできた字であると解説され、さらに「遊ぶというのは、今の意味と少し違って、神様が宿りやすいように、遊べるように、その人が自由な気持ちでいることなのです」と言われたとのことです。

 すると、作家にとっての「遊び」とは、文学の神様がお宿りになられるような自由な気持ちのことかもしれませんね。ストーリーを展開しなければならない、テーマをもっと前面に明確に打ち出していかなければならないと焦っていたら絶対に文学の神様はその作家の筆にお宿りにならないでしょうね。自由な気持ちで作品を書くから「遊び」が生まれ、魅力的で優れた作品が創られるんでしょうね。そして、『火車』もそのような作者の自由な気持ちにお宿りになった神様が下さった贈物なのかもしれませんね。


                    
2000年1月25日
「我らが隣人の宮部さん」
『火車』等へのコメント紹介



宮部みゆき『ステップファザー・ステップ』に見る少年の形象

 『ステップファザー・ステップ』(講談社)は7つの連作短編から構成されており、東京郊外の今出新町という新興住宅街に住む宗野直(ただし)と哲(さとし)という中学一年生の一卵性双生児の疑似の父親(ステップファザー)にひょんなことからなってしまった泥棒の「俺」(物語の視点人物で、廃業した柳瀬という元弁護士の事務所で表向きは雇用されている35才の窃盗のプロという設定です)が名探偵役を演じてつぎつぎと起こる事件の謎を解くという奇想天外なお話です。では、なぜ泥棒の「俺」が一卵性双生児のステップファザーになってしまったかというと、それは……、うーん、面倒くさいのでこの泥棒の「俺」に説明してもらいます。

「長い話なのでかいつまんで説明すると、俺はこの直と哲という一卵性双生児の擬似親父(ステップファザー)という立場にあるわけなのだが、それは好んでしたことではなく、要するにこの油断のならないお子さんたちに弱みを握られていまして、しょうがないから渋々生活費を渡してやり、彼らが親父の存在を必要とするときは出かけていって並んで笑っているというだけのことで、そういう弱い立場に置かれているものだから、夢にうなされたりしているわけなのである。で、このお子さんたちがなぜ擬似親父を必要としているかと言えば、それは、本当の両親がてんでに家出していなくなってしまっているからで、いなくなった両親はどこかでそれぞれ元気に暮らしているらしいのだけれど、反省して帰ってくるという様子は今のところまったくなく、現世の不倫な関係を清算するべく(彼らはそれぞれ愛人と駈け落ちしているのだ)どこかで心中して子供に詫びるという根性もないようで、今のところはまだ死体も発見されていない。ところが残されたこの双子さんたちは誰にもちょっかいをかけられずに兄弟二人で暮らしたいと思っているようで、したがって、生活費を稼いでくれて必要なときだけいてくれる親父が欲しいなあと思っていたわけで、そこに飛んで火に人る夏の虫のように俺が彼らの隣家の屋根から落ちたりしたものだから、彼らは俺を拾ってうちに持ち帰り、ねちねち看病して生かしてくれた挙げ句に前述のようなヒレッな取引を申し出てきたと、こういうわけである。わからない人は前の話を続んでください。毎度説明するのは面倒でしょうかない。」

 まあそんな事情なんですが、ところでこの文章がやたらセンテンスが長いのは、泥棒の「俺」によると
「鼻風邪にかかっているからなんである。ひとい鼻づまりなので、ワープロのキーを打ちながら普通に息をすることができない。しかし、口で息をしながらものを書くというのは、なかなか至難の業なのだ」そうです、念のため。

 このお話、とにかく楽しく軽快に物語が展開しており、特に泥棒の「俺」と直、哲というまだ13才の中学一年生の双子の兄弟とのコミカルな会話に読者は何度も吹き出してしまうことでしょう。例えば、落雷で屋根から落ちて気絶した泥棒の「俺」が双子の兄弟の介抱を受けて目を覚ましたときの会話もつぎのような調子です。なお、「S」や「T」と出てくるのは哲(さとし)、直(ただし)の双子の兄弟がTシャツに彼らのイニシャルを付けていたからです。

「S」が楽しそう口調で訊いた。「ねえ、どうして僕らの家の屋根に登ったりしてたんですか?」
思わず目を閉じた。ああ、なるほど。ここはあの、上手の家のなかなのだ。
「ねえ、どうして屋根に登ってたの?」
「そこに屋根があったから」
あははと、二人は笑った。「あなたは泥棒なんでしょ?」
わかってるじゃないか。
「君らが、落ちている俺を拾ってくれたわけ?」
「そう」
「なんで?」
「国土を汚したくない」
クソガキめ。
「なんで一一〇番しなかったの?」
二人は顔を見合わせた。「S」が答えた。
「だってその方が便利だもの」
便利?この期に及んで便利とはどういう意味だ。
やはり、屋根を見上げて(嫌だな)と思ったことに間違いはなかった。どうもおかしい。恐る恐る首をあげてみると、双子は気の違ったお神酒(みき)どっくりみたいにニコニコしている。


 こんな調子の一人対コーラスコンビの掛け合い漫才がテンポよく繰り返されるので、読者はこの物語を面白おかしく読み進んでいくことができます。でも、この双子の兄弟、とっても明るくて元気で賢くてしっかりしているんですが、よく考えてみると、いや、よく考えなくても物語の初めの方でこの双子君が、
「父さんは、会社で自分の秘書をしていた女の人と」「母さんは、この家を建ててくれた工務店の社長と」それぞれ駆け落ちしてしまったと言っているように、両親から見捨てられた遺棄児童たちなんですね。ものすごく悲惨な状況にあるんですよね。まだ彼らは中学生です。まるで大海の真ん中で船頭や漕ぎ手がいなくなった小舟に取り残されているような状況です。どんなにか不安なことでしょう、哀しいことでしょう、辛いことでしょう。笑い事ではありません。でも、笑いながら読んでいた。いいのかな?

 しかし、彼ら双子の兄弟は自分たちが不幸だなんて嘆いたりしません。少なくとも泥棒の「俺」の前ではそんなことおくびにも出しません。おそらく、本当はとっても不安だし、哀しいし、辛いことでしょう。きっと最初は勝手な親を恨んだかもしれませんね。でも、彼らは両親には両親の人生があるのだろうと理解を示し、健気にも自分たちだけで生きていく方策を考えようとします。そんななかで泥棒の「俺」が落雷で屋根から落ちてきて、これ幸いと彼をステップファザーにすることを思いついたのです。彼らは「俺」につぎのように交渉します。

「あなたはプロの泥棒でしょう?」
「装備がすごかったもんね」
「素人って感じじゃない」
「すっごく稼げるでしょう」
「僕ら二人くらい、面倒みられない?」


 そして、自分たち家族がこの今出新町に来てまだ半年ちょっとなので、「俺」が彼ら兄弟の家に住み込んで父親のふりをしても近所の人たちは不審に思わないだろうと言うのです。さらにもし「俺」が彼らの提案を拒否したら、
「僕たち、あなたの指紋をとっちゃった」「ねぇ、前科あるんでしょう? まずいよね?」「またムショに入るの、イヤじゃない」と子どものくせに恐喝まがい、いや恐喝そのものですが、「俺」を脅かして彼らのために生活費も入れる代理父となることを約束させてしまうのです。

 そんな油断のならない小憎らしい双子の兄弟たちは、じっと我慢して決して弱音を吐いたりしません。しかし、彼らの本心は『今夜は眠れない』(中央公論社)の雅男君が代弁して率直に語ってくれているように思います。雅男君は自分の両親の関係が風雲急を告げたとき、友人に「こんなとき、ただ子供だっていうだけで、座り込んでメソメソ泣いて、"お願いだから僕を傷つけないで"なんて言って、悲しんでる権利はないんだよ。受け身でいちゃダメさ」と言っています。そして彼自身に関わる謎を主体的に解いていこうとするのです。こんな雅男君も素晴らしいですが、『ステップファザー・ステップ』の双子君たちも、物語を読み進んで行くと、心の哀しみをおくびにも出さずに明るく振る舞っているその姿がなんとも健気でいとおしく感じられるようになります。

 最初は渋々代理親父をやっていた泥棒の「俺」でしたが、次第に彼らに「父性愛」(?)を強く感じるようになっていきます。しかし、いや、だからこそ、泥棒の「俺」はこの双子君たちと一線を画す必要を痛感します。泥棒の「俺」は、双子君たちが彼と一緒に家族として正月を過ごしたいと言ったときに拒否します。そして、双子君たちの
「僕らのこと」「嫌いになったの
とのコーラスに対して「嫌いになったわけじゃないよ」と言い、彼ら双子君たちの両親が帰ってきたときにどうするのだ、「たしかにひどい親だけど、親は親だぞ。見捨てるのか」と訊き返します。そして、自分は控え選手なんだ、怪我をしていたレギュラー選手が先発に復帰したら二軍に戻るしかないと言い、さらに彼の切ない胸のうちをつぎのように伝えるのです。

「俺が言いたいのはな、俺だって淋しいと感じるってことさ。除者(のけもの)にされたなら。もう要(い)らないよと放り出されたなら。おまえらは俺を、実の親の代用品、取り替えのきく部品だと思ってるらしいけどな、俺にだって感情はあるんだぞ。だから、おまえらと楽しく正月旅行をするのもいいさ。仲良くなるのもいいだろう。お父さんごっこをしようや。だけと、それをどこで止めにする? おまえらと仲良くなったら、ごっこ遊びを止めたとき、俺がどんなふうに感じるか── おまえら、それを一度でも考えたことがあるか?」
「だから言ってるんだ。お父さんなんて呼ぶな。馴々しくするなって。俺とおまえらは、純粋に契約関係を結んでるだけなんだ。わかるか? 契約だ。その契約には、楽しい正月旅行なんて含まれてない」


 こんな泥棒の「俺」の言葉に双子たちは泣きそうな目をしながらも二人で「
わかったよ」と唱和します。そして、「ごめんなさい」とも言うのです。二人の「ごめんなさい」という言葉に「俺」は思います。

「生まれてこの方、俺はこれほど悲しい『ごめんなさい』を聞いたことはなかったし、二度と聞きたいとも思わない。/子供なんて、大嫌いだ」

 今回は作品からの引用が随分と多くなりました。でも、これは私が鼻風邪に罹ってしまったからとか、宮部作品の評論が7本目だから息が切れてしまったとか、スキャナーで作品の文章を読み取れば楽ができると怠けたからとかではないんですよ。私の下手な説明より、実際の文章を紹介して、あらためてそのユーモアとペーソスに溢れた作者の語り口を味わってもらいたかったからです。えっ、そんならおまえの下手な素人評論を読んでるより、直接『ステップファザー・ステップ』を直接読んだ方がいいですって。うーん、……、うん、本当です、まだ読んでおられない方はぜひこの宮部みゆきのユーモアミステリーを読んでくださいね。

 宮部みゆき作品のなかで描かれる少年たちにはリアリティーがない、あれは女性の作り上げた理想像でしかないといった声をよく聞きます。宮部みゆき自身、「自分でも、だいたい主人公が男性か少年なのは、どうしてなんだろう? と思うんですが。……(女性はよく知っているだけに)理想化しにくい。その点、男性や少年が主人公だと、ある程度、“こうあってほしい”というのが素直に出て、理想化できるんです」(『Jour』増刊号93・6・19)と語っています。自立心旺盛でしっかり者の哲、直の双子兄弟も作者の理想から創り出された少年の形象かもしれませんね。彼らは本当に明るくて前向きで男らしい、いや雄々しい。いやいやこれも不適切な表現ですね。主体的で自立的な少年たちとでも言うべきてすかね。でも、なんだか味気ない表現になってしまいますね。とにかく作者の理想的人間像を形象化したものであることは間違いありません。

 でも、私は男性なんですが、いや男性だから私にもやはりかつて少年時代があり、だからこそ宮部作品に描かれる少年たちの壊れやすいほど繊細でピュアな心や、周囲のどうしょうもない大人たちの行為にはらはらしながら彼らを見守り気遣っているような様子が遙か昔の私自身の想い出と重なり、私の心を強く打つのです。

 でも、これは宮部みゆきの少年たちに対する私の個人的な想いにしかすぎません。宮部みゆきの作品に登場するこんな少年たちの多くが小説という虚構世界(フィクション)のなかで生き生きとした実在感を持って活躍し、読者に各人各様の想いを喚起する力があり、そのために読者は少年たちに様々なイメージを投影し、想いを託して共感しているのだろうと思います。

                       2000年2月12日
「我らが隣人の宮部さん」
『ステップファザー・ステップ』等へのコメント紹介



宮部みゆき『龍は眠る』に見るサイキックの苦悩

 みなさんは超能力という言葉からどんなものを連想しますか。超能力には、念力で物体を動かしたり透視したり、また人の心を読み取ったり未来を予知したりする能力などがありますね。

 ところで、宮部みゆき『龍は眠る』(新潮文庫)の水野佳菜子はすぐにスプーン投げを連想しました。彼女は雑誌社でアルバイトをしている20才の女性ですが、「スプーン曲げでしょ? 肩ごしにうしろに放ると曲がるのよ。流行ったんだ、昔」と反応しています。そして、「だけど、ヘンね。超能力っていうと、どうしてすぐスプーン曲げなのかしら。スプーンなんかいくら曲げたってなんにもならないじゃなぃ?」と極めてまっとうな疑問を高坂昭吾(『龍は眠る』の視点人物の「私」で雑誌記者)に投げ掛けています。それに対して高坂も「都庁の新庁舎のでっかいタワーなんかどうだ? あれを曲げたら喜ばれるぞ」と返し、佳菜子から「まず曲げるのは、高坂さんのおへそね。だいぶ曲がってるから、もうひと曲げすると正常に戻るわ」なんて言い返されています。

 まあ、超能力についての世間一般の会話ではそんな冗談話で終わるのが落ちでしょうね。しかし、もし仮りにあなたが実際に人の心のなかをスキャンすることのできる超能力を持っていたらどうでしょうか。えっ、麻雀するとき都合がいい、ビジネスの駆け引きや警察の捜査に役立つだろう、好きな彼や彼女の本心を知ることができていいな……。もしあなたがそんなオメデタイ考えを持っていたとしても、『龍は眠る』を読んで織田直也のサイキック(超常能力者)としての苦悩を知ったら、きっとその考えが変わるでしょうね。

 『龍は眠る』には人の心のなかを読むことのできる二人のサイキックが登場します。一人は稲村慎司という高校生です。慎司少年は、嵐の晩に自転車をパンクさせて立ち往生していたとき、偶然通りかかった高坂の車に乗せてもらうんですが、宿泊先のホテルで高坂の過去を読み取り、自分がサイキックであることを明かします。慎司少年がそんな能力をはっきりと意識したのは小学校五年生ぐらいのときだったとのことで、例えば担任の女性教師が心のなかで生徒の父親とデートしたことをうしろめたく思っていたことや、給料がもう少し高ければ建て売り住宅が買えるのにと残念がっていたことなどが分かったそうです。

 慎司少年の場合、そのサイキックとしての能力が高くないこと、叔母が同じサイキックであり、彼にその力をコントロールする方法を教えてくれたこと、そして暖かい家庭環境のなかで屈託のない少年として育ったことなどから、まだ自らの超常能力にそんなに苦しまないでいるようです。それどころか、高坂に対し、彼の心をスキャンすることができることを伝える慎司の顔には「抑えても抑えても、意図しなくてもにじみ出てくる優越感。上から見下ろしているような、勝ち誇った表情」が見られるのでした。それは彼に、他人のことがなんでも分かるそんな選ばれた人間だという優越感があるからでしょう。

 しかし、彼はただ人の心のなかをスキャナーが文字や画像を機械的に読み取るようにスキャンしているだけで、複雑な人間の心理を理解する能力の方はまだ充分に育っていないようです。ですから、誰かによって蓋が開けられたマンホールに子供が落ちてしまった事件に遭遇したとき、その超常能力で蓋を開けた人物たちを知った慎司少年は、「犯人」の彼らをストレートに批判し追求してしまいます。そんな慎司少年に対して高坂はつぎのように言っています。

「人間はな、大人は、自分が知らないうちに悪いことをしたと気づいたとき、すぐに『スミマセン』と言えるほど単純じゃないんだ。悪いことをしたと気づいたからこそ、保身を考えることだってある。彼らをわざとそういうふうに仕向けてから、『さあ、悪い連中ですよ』と言わんばかりに警察に突き出すのは、反吐が出るほど汚いことだ」
「サイキックだかなんだか知らないが、当たり前の人間の気持ちを、当たり前に理解できる大人になるまでは、優等生面をひっこめて、そのでっかい口を閉じておくんだな。俺に言わせりゃ、おまえの方がよほど危険だ。何が人の心を読む、だ。人の心がどんなものかもわかっちやいないくせに」

 こんなことを言った高坂ですが、慎司少年と別れてから後で彼の将来をつぎのように案じています。

「慎司が本当に自称しているとおりのサイキックなのだとしたら、これから先生きてゆくこと自体が、ほとんど責め苦に近いのではないか。彼はどうやって生きてゆく? どんな職業につき、どこで暮らし、どんな女性に恋をして、結婚生活を築いてゆくのか。
 絶え間なく聞こえてくる、本音、本音、本音の洪水。そこから身を守るには、能力をコントロールすると同時に、自分の感情をも制御しなければならない。俗に『聞けば聞きっ腹で腹が立つ』というが、普通の人間は、他人が言葉に出したり態度に表したりしないかぎり、周囲に満ちている本当の本音を聞くことはない。それだから、多少ぎくしゃくすることがあっても生きていくことができるのだ。
 それが全部聞こえるとしたら? 聞く能力を持っているとしたら? 聞かないほうが心の平和を保つことができると、理屈ではわかっていても、果たして好奇心を抑えきれるだろうか。
 そして、本音を知ってしまってからも、何ひとつ変わったことなどないような態度で暮らし続けていくことができるだろうか。
 誰かを信じるということができるだろうか。」

 サイキックとしてのまさにそのような「責め苦」を負って生きているのが織田直也です。彼は慎司少年と違って悲惨な家庭環境で育ちました。「いさかいを繰り返す母と祖母の姿を見、人生の目的を見失って酒に溺れてゆく父親と暮らしながら、彼らの本音を、苦悩を、夢や希望をまのあたりに知り、なおかつ自分ではどうしょうもない」と思わざるを得ない環境のなかで彼は育ったのです。普通の子供でもそんな環境のなかで大変な辛さや苦しみを味わうでしょうが、彼はサイキックです。それは想像を絶する「責め苦」の毎日だったでしょう。そして、彼の周囲には慎司の叔母のように彼のサイキックとしての生き方やその能力のコントロール方法を教えてくれる人もいなかったのです。

 そんな織田直也は家を飛び出しますが、就いた仕事も長続きしません。それはそうでしょう、「学校もろくに出ていない風来坊」に対する周囲の冷たい視線のなかで、人々が口には出さない本音も聞こえてしまうのですから。そして、直也のサイキックの能力は慎司よりも遙かに強いし、またその力をコントロールする方法も知らないのです。高坂が慎司少年の将来において案じたことを織田直也はまさにその通り体験し苦悩していたのです。

 物語において、こんな直也と聾唖者の三村七恵という若い女性との交流がとても印象的に描かれていますが、それはまた直也のサイキックの悲哀を静かに伝えてもいます。直也は第二日ノ出荘という木造アパートに引っ越して来て彼女と知り合います。直也はサイキックですから言葉を交わさなくても七恵と「会話」ができました。手話やホワイトボードを使わないでも「自由自在に、笑ったり、はしゃいだり、ごく当たり前のように」会話しました。七恵にとって直也は心なごみ「安心」できる相手だったことでしょう。しかし、直也にとっては七恵もやはり彼の心を安らげることのできる相手ではなかったようです。だって、七恵も生身の人間です。彼女の心の暗部を見たくなくても見えてしまうのですから。彼は彼女に対して「礼儀正しい人」のままでした。サイキックは恋愛に必要な「幻想」さえ持つことが許されないのです。

 物語において、二人のサイキックは高坂が巻き込まれた誘拐事件にかかわってしまい、直也は命を落としてしまいます。しかし、生き残った慎司少年の将来についても『龍は眠る』の読者なら楽観視することなどはできないでしょう。読者は『眠れる龍』を読み終わったとき、慎司少年が飼っている底知れない力を秘めた龍が彼の統御できないものに成長し、暴れ出して彼を振り落としてしまわないようにと心から祈ることでしょう。

                             2000年2月19日

「我らが隣人の宮部さん」
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