田中一村は、1977年11月11日に心不全のために奄美の有屋でその生涯を終えたが、彼の最後の住まいとなった陋屋に遺された物のなかに呉昌碩の「自我作古空群雄」の句を踏まえて刻された「自吾作古 空群雄」の遊印もあった。
私は、田辺周一さんのご好意で、この遊印の文字を最初に解読する機会を得ることができたのだが、一村が遺した遊印は私にまだなにかを語りたがっているような気がした。この遊印の彼方に新たに様々なものを見出すことが可能なのではなかろうか。遊印の彼方に見えないものが見え、聞こえないものが聞こえてくるのではなかろうか。
まず最初の手がかりは、遊印に引用された言葉との関連で呉昌碩という人物であった。呉昌碩のことを調べてみると、一村が南画の研鑽を積んでいた若き時代に、その呉昌碩から彼が多くのものを学び取っていたらしいことが推測できた。このことは、これまで私がほとんど等閑視してきた一村と南画との関わりについて新たな関心を呼び起こすこととなった。
正直に言うと、私が奄美の田中一村記念美術館を訪れて一村の絵画を鑑賞したとき、同美術館に展示されていた彼の南画に心惹かれることはほとんどなかった。ただ、彼が奄美に来て彼独自の美を創り出す以前にこのような南画を描いていたという事実には興味を引かれ、奄美での一村の絵画を芋虫から鮮やかに脱皮した蝶を見るような思いで鑑賞したものである(芋虫もまたそれ独自に素晴らしい存在であることは言うまでもないが)。
勿論、いくら私でも一村の南画もそれなりに優れた一級品であることぐらいは分かる。しかし、展示されていた南画からそれを描いた画家独自の個性や素晴らしさを見出すことは素人目にはとても困難なことであった。そこに陳列されている南画には、一村が一村であることを示すものを感じられなかったのである。それで、南画の前はほとんど素通りするようにして一村の奄美時代の作品を主として鑑賞することになってしまった。
だが、一村の遊印は私につぎのようなことをそっと語りかけたのである。「若き日の南画時代があるから、奄美の一村もあるのだよ」と。
それで、私は一村と南画の関わりをあれこれ調べ始めたのであるが、そんななかで出会った本の一冊に森本哲郎『詩人 与謝蕪村』(講談社学術文庫、1996年6月)があった。そして、嬉しいことに、同書の25頁に私が若き日に愛読していた芥川龍之介の名前を見つけることができた。芥川龍之介が潁原退蔵編集の『蕪村全集』に序文を書いたとき、つぎのようなことを述べていたというのだ。
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「蕪村は一代の天才であります。天才を天才として認めるだけでも勿論悪いとは申しません。が、一代の天才とは言へ、蕪村も一朝一夕に蕪村になつた訳ではありますまい。わたしはその精進の跡をもはつきり知りたいと思つてゐます。」 |
この芥川龍之介の上の文章中の「蕪村」を「一村」に変えるだけで充分である。そうなのだ、「一村も一朝一夕に一村になつた訳ではありますまい」。一村の遊印はそう私に語りかけていたのだ。
ところで、南画とはどのような絵のことを指すのであろうか。なんとなく分かったいるつもりでいたのだが、結構これが説明しにくいし、また「南画」という言葉の概念にはかなり曖昧なところがあるようである。なお、『日本史大事典』(平凡社、1993年11月)の第五巻には、「南画」について河野元昭がつぎのような解説文を書いている。
「江戸時代中期以降、中国の元・明・清絵画の影響を受けて興った絵画様式の一つ。元代末期に文人・士大夫がたしなむべき絵画様式として整備された文人画、南宗画が、日本への流入に当たって種々な変容を受けたので、南宗画の略語である『南画』をもって日本南宗面の概念規定としている。しかし南画は南宗画様式とは正反対の南宋画院の絵画や明代の浙派の影響も採り入れている。また日本には土大夫(官僚)階級が存在しなかったので、そのなかの知識人を意味する文人もいなかったことになる。しかも南画家のなかには、文人画家の対立概念である職業画家として売画生活を営んだ者も多い。しかし南画家は中国文人の生活にあこがれ、漢詩文に対する教養も深かったから、彼らの作品を広い意味で文人画と呼ぶことも誤りではない。」
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