やまももの部屋 
 
 下に載せました「劉賓雁と『人妖の間』」と題した文章は、やまももが日中出版から出されていました『中国研究』1982年4月号に発表したものです。
『劉賓雁自選集』(新華書店、1988年9月

 なお劉賓雁という人物についてまず簡単に紹介しておきたいと思います。彼は1925年1月に吉林省長春に生まれ、日本軍の東北侵略以降、家庭状況が困難になり、正規の学校教育は高級中学の1年までしか受けられませんでした。その後、抗日運動に参加し、1944年に中国共産党に入党しています。1948年から51年まで瀋陽で中学教育、幹部教育、青年団工作に従事し、独学で習得したロシア語の能力を活かしてロシア語文献の翻訳活動も行っています。

 劉賓雁は百花斉放期(1956−1957年)に中国共産党に対する鋭い官僚主義批判の言論活動を積極的に行い、1957年に「反党反社会主義の右派分子」のレッテルを貼られ、その後21年余りの間ずっと著作活動を禁じられ、苛酷な労働と精神的な責め苦を受けることになります。そんな彼が名誉回復されたのが1979年でしたが、再びペンを執ることが可能となった劉賓雁は同年に「人妖之間」を『人民文学』に発表し、その後も中国に内在する諸矛盾を鋭く告発し続けますが、1987年に中国共産党から「ブルジョア自由化の代表的な人物」として批判されて除籍処分を受けます。

 劉賓雁は、1988年に渡米し、翌年(1989年)に天安門事件が起こったときアメリカにいましたが、中国政府の民主化運動弾圧を厳しく批判し、米国に亡命します。その後も中国の民主化を求める言論活動を続けますが、2005年12月5日、結腸癌のために亡命先の米国ニュージャージー州の病院で80歳で他界しています。

 なお、彼が米国で2005年12月5日に死去してから8年後の2013年12月30日にワシントンD.C.で「劉賓雁良知賞」が設けられ、翌年の2014年2月に第1回目の同賞受賞者として陳子明、王之虹夫婦が選ばれています。
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 「縦覧中国」
  http://www.chinainperspective.com/ArtShow.aspx?AID=24061

 同賞設立の宣言文の一部を中文和訳するとつぎのようなことが書かれてありました。

「現在、中国の危機がいたるところに存在する状況下、最も深刻で最も危険で最も中国の体面を傷つけている危機は、空前の精神の壊滅と道徳の普遍的堕落であり、史上前例のない礼崩楽壊(社会の綱紀が紊乱し、騒動が止まず安寧でない時代を形容)状態となっている。劉賓雁の悲しみと憐れみを一身に背負い、仁愛と公義、寛厚と精進は益々中国人が自ら救い贖うことを切に求めている精神遺産である。このことに鑑み、私たちは国内外の碩学、鴻儒と志士たち(2名の中国を熱愛する西洋の中国研究者を含む)によって「劉賓雁良知賞」を設け、本賞の趣旨に合致した現代の中国人を表彰し、我が民族が粉々に打ち砕いてもまだ骨や血が残っている精神の河や山を取り戻そうではないか。

 私たちは、 ヴォルテール、ユーゴーやソルジェニーツィンたちが18、19、20世紀の欧州とロシアの精神潮流を誘導したように、劉賓雁が聖賢の様を具有する良知の手本となって21世紀の中国の道徳復興と文明の再建の導きとなることを深く信じるものである。

 『劉賓雁良知賞』の趣旨:自由と民衆の立場を取り、イデオロギーと政党党派を超えて良知と人文の理想をオリジナリティ豊かに書き上げてたり社会に貢献したことを表彰するものである。」


 この劉賓雁良知賞第1回受賞者の陳子明、王之虹夫妻は中国の現政権と意見を異にする民主活動家で、陳子明はその民主化を求める活動で逮捕され、北京で監視居住に処せられていましたが、2014年初にアメリカのボストンで病気治療することが許可されています。


 劉賓雁と「人妖の間」

はじめに

 シニカルな微笑をたたえる歴史の老人は、人をからかいもてあそぷことが好きなようである。一九四六年五月より東北地方で展開された土地改革運動のなかで、賓県の党委員会は広範な貧雇農を「反奸清算運動」に組織することに成功し、『東北日報』は同県の運動を学ぷべき民衆運動の典型として大いに報道した。しかし、1979年4月23日、『人民日報』は「黒竜江省で大汚職事件摘発」との見出しで賓県の大汚職事件を大々的に報道した。

 この汚職事件は、黒竜江省松花江地区賓県の燃料公司の女支配人の王守信を主犯とするもので、その汚職額53万余元ほ全国の注目を集めた。しかし、それまでにも幹部たちの派手な饗応・贈答、その特権的地位を利用した公費・公材の流用や職権乱用などの報道はたびたびなされており、また中国民衆はこのようなことが日常化している現実のなかで生活を営んでいたのであるから、この賓県の汚職事件ほそのままでは深く人びとの記憶に留まる性質のものではなかった。

 この「小事件」があらためて全国の注目を集めるようになったのは、当時、中国社会科学院に勤務していた劉賓雁が賓県での実地調査に基づいて『人民文学』1979年第9期に「人妖之間」を発表してから以降である。劉賓雁はこの汚職事件を賓県社会の腐敗した土壌と関連づけて考察し、またそのような腐敗した土壌は中国社会全体に普遍的なものであることを示唆しようとした。

 「人妖の間」における劉賓雁の主張を理解する上で、彼の百花斉放期(1956−1957年)の主張・見解を知ることは重要な意味を持つ。百花斉放期の劉賓雁と名誉回復後の彼と比べて痛感することは、彼が終始一貫して頑ななまでに自己の主張・見解を堅持しつづけているということである。1950年代の早期に中国社会のなかに形成されつつあった強大にして硬直した官僚主義の体系に気づき、百花斉放期、その害毒を大胆にかつ鋭く告発した劉賓雁が「人妖の間」で明らかにしようとしたものは何であったか。

 本稿は、劉賓雁が百花斉放期に発表した官僚主義批判の報告文学「橋梁工事現場にて」、「本報内部ニュース」の内容紹介をまずおこない、「人妖の間」に対する理解を深めようとするものである。なお、人妖の間」、「橋梁工事現場にて」、「本報内部ニュース」の底本としては『劉賓雁報告文学選』(北京出版社、1981年2月)を使用し、本稿本文でこれら3篇の引用箇所を明記する場合も同文学選に基づくものとする。


「橋梁工事現場にて」について

 劉賓雁は、「私は芸術の門外漢」(『飛天』1981年第1期)で、つぎのような回想をしている。「1950年代中期、私は農村のなかに醸成されつつあり、その後、中国の運命に影響を与えて20数年の災禍を生みだすこととなったものについては何も知っておらず、一日千里の勢いで進んでいく革命にただ喝采するのみであった。しかし、都市においては、私は新聞の仕事を通じて状況にいささか問題があることを気がついていた。強大にして硬直した官僚主義の体系が形成されつつあったのだ。しかし人びとは現在の成果に満足し、問題点を議論することを好まなかった。個人の自発性・創意性は抑圧され、従順さや媚びへつらいが美徳とされていた。『党派性』なるものは組織性・規律性のことであるとされ、すなわち規則や命令に従うことであるとされていた。(略)外国語の習得のために以前かなりの時間を割いたことがある。その代償として得たものは、国外の消息を比較的多くかつ速かに知ることができたことであった。スターリン死後のソ連の社会と文壇とは一連の重要問題に対する見直しを行っていたが、それは私自身が中国国内で感じていた問題に対する認識を深めさせるものとなった。ソ連と東欧の文学界における『生活に干与せよ』との潮流が興ってきたことが私を啓発した」。

 『中国青年報』の記者・編集者として中国国内の実情を広範に見ることができ、またロシア語文献を通じてソ連や東欧の動向を速かに知ることのできた劉賓雁は、早期に中国社会主義に内在する諸矛盾に気がついた。そんな彼は、百花斉放期、官僚主義に毒された党幹部たちに対する厳しい批判を展開した。彼が当時どのような幹部批判をおこなったかは、後の反右派闘争のなかで発表された「右派分子劉賓雁」と題された一連の批判論文から窺い知ることができる。たとえば、『新華半月刊』1957年16号は、「一九五五年、彼がかつて密かに天津の記者にある任務を与えた時、現在の企業における指導幹部にはつぎのような五種類の者がいるとした。すなわち、保守主義者、成果を挙げることなど望まず過失のないことだけを願っている者、自己本位主義者、傲慢になって向上など求めない者、良いことだけを報告してまずいことは隠そうとする者たちである」と、劉賓雁の発言を紹介している。また、『中国青年報』1957年7月18日号は、「彼は言った。(党の指導部の)若干の人びとほ愚かで、落伍的で、専門知識を持たず、無学無能で、生活の前進を阻害している! また若干の人びとは政治的情熱を衰退させ、精神が弛緩しており、少しも頭を働かせようとはせず、欲の皮をつっぱらせ、享楽を貪ろうとする! また若干の人びとは利己主義的で、臆病で言うべきことも言わず、自分の地位を守ることに汲々としており、党の利益をしっかりと守ろうとほしない」といった彼の発言を引用している。さらに『中国青年報』1957年7月19日号は、「彼は悪辣陰険にも党の高級幹部を罵って『特権階級』であるとし、さらに戯画化して、これらの人びとは、贅沢して安逸な生活を送り』、大衆の生活を知らず、『若干の人びとは飯の種や地位を確保することしか考えず、向上を求めない』とした」としている。

 このような幹部たちの官僚主義を批判するために劉賓雁が最初に書いた報告文学が「橋梁工事現場にて」(『人民文学』1956年4月号)であった。この作品には、「私」が1955年に橋梁工事現場に取材に訪れた時に出会った極めて対照的な二種類の人物像が描かれている。
 
 凌口大橋の建設に取り組む第三分隊の隊長は曾剛という若手技師である。彼は優れた専門知識と限りない情熱を有しており、常に現場の労働者と一緒に生活し、共に働き、労働者たちの意見に熱心に耳をかたむけている。彼の指導の下、凌口大橋の工事現場の秩序は整然としており、人員・機械・道具が合理的に配置され、各労働者は工事全体の計画をよく把握して、自覚的に生き生きと建設に取り組んでいた。曾剛はまた新しい建設技法を積極的に工事現場へ導入した。たとえば、ケーソン基礎は従来は岸で建設していたが、それを水中で組みたてる試みをおこない、反対に建設用やぐらを水中ではなく岸で組みたてた。これらの新技法は労力と資材を節約する上で非常な効果をあげた。
 
 橋梁建設隊の本隊の隊長は「私」の旧友の羅立正である。1949年、国民党との内戦がまだ終っていない頃、解放軍に加わって一緒に南下した仲間の一人であった。その頃、青年たちは夜になると輪を囲み、様々な問題を大いに語り合ったものである。羅立正も橋造りの夢を情熱的に語ったことがある。その時、彼の頬は炎に照らされて紅となり、その瞳は輝いていた。だが六年ぶりで再会した羅立正は昔の彼ではなかった。物事に対する新鮮な感覚を麻痺させ、創造性や主体性を喪失し、事なかれ主義・保守主義に陥って、ただ自己防衛の本能のみを肥大化させている典型的な官僚主義者となっていた。羅立正はただ局の決定・指示・規則・制度のみを重んじ、下からの提案・意見などほ等閑視する。彼にとって大切なことは、上級の意図を正確に理解し、その指示を間違いなく達成することであった。それさえおこなえれば、その後にどのような問題があろうと少しも意に介さないのである。そんな羅立正にとって、橋梁建設ほもはや情熱を燃やす対象ではなかった。橋梁建設を進めるために開かれた会議に参加しても、彼は何も考えず、何もおこなわなかった。時間だけがチックタック、チックタックと滑るように過ぎていった。彼の心はそこにはなかった。彼が生き生きするのは、趣味としている狩猟や時計修理をおこなう時だけであった。

 羅立正は以前、曾剛を高く評価していた。しかし一九五三年一二月以降、両者の関係は悪化する。この時に開かれた一九五四年度計画のための会議で、羅立正が同計画を建設隊の実際の力量より低いレベルに抑えて超過達成を容易にしようとしたことに対し、曾剛が疑問を呈したからである。これ以降、羅立正と曾剛とは何かにつけて衝突するようになり、そのような状況のなかで第三分隊は独自的行動をとることが多くなり、それをまた本隊が「紀律性がない」「無謀だ」「でたらめだ」、さらには「反党的だ」と批判を加えるようになる。ある時、羅立正は曾剛を呼び寄せて、第三分隊で計画している「ノルマ二倍運動」を中止するように言う。羅立正に言わせると、「ノルマ二倍運動」を実施することは現在のノルマを承認した局を保守的であると批判することになり、そのような上級批判はとんでもないことであった。「ノルマ二倍運動」や上級批判は確かにソ連でなされたことがあったが、中国はソ連とは違うのであり、中国には中国の特質がある、と羅立正は言う。このような論理でもって彼は第三分隊の「ノルマ二倍運動」を中止させてしまう。

 一九五五年五月、洪水が橋梁工事現場を襲った。曾剛の適切な指導の下、第三分隊は見事に凌口大橋の橋脚を守りきった。ところが、本隊が受け持っている一号橋脚建設現場では、洪水に対する即時の決断と適切な措置が必要なまさにその時に、羅立正はただひたすら局の指示を電話で仰ぐだけであった。彼が局との連絡にとまどっている間に、一号橋脚は洪水によって無惨に破壊され流されてしまった。労働者たちは自分たちの労力と貴重な資材が水泡に帰してしまったことを悲しむが、羅立正は、「よかった、よかった。電話はなんとか通じた。とにかく自分は指示を仰いだんだ」と思うのであった(五八頁)。

 一九五六年二月、「私」は西北に取材に赴いた途次、再度橋梁建設現場に立ち寄った。その時「私」は、曾剛が昨年の五月末に他の職場に移ったことを知る。建設隊の本隊が、セメント製品工場が曾剛の専門知識を必要としているという理由でそこに彼を左遷してしまったのである。

 当時、全国で農業の集団化と資本主義工商業の社会主義改造がおしすすめられ、反保守の運動が大規模に取り組まれていた。この運動は橋梁建設隊でも進められていたが、それは上から決められたスケジュール通りのものであり、羅立正のような人物たちには何らかの深刻な影事も与えはしなかった。羅立正は、「優れているよ、党中央は本当に限りなく優れているよ! 我々はどうしてこんなにものろくて鈍いんだるうか、いつになってもぜんぜん進歩しない」と言い、党中央を除いて、まるでこれまですべての人間が落伍的であったかのような口振りである。「私」は、この建設隊にも保守的傾向に反対した人物がいたこと、しかしその意見ほ押しつぶされてしまったことを彼に思い出させようとするが、彼には通じない。羅立正は、「党の指示があれば我々は何も恐れることはない。何を恐れるのか。どんな問題だって中央はみんなちゃんと考えており、早晩きっと解決するさ」と言って笑うのであった(六八頁)。


「本邦内部ニュース」について

 劉賓雁が百花斉放期に「橋梁工事現場にて」に次いで発表した官僚主義批判の報告文学は「本報内部ニュース」(『人民文学』一九五六年六月号、一〇月号)であった。この作品は、党省委の機関紙『新光日報』を発刊している新聞社が舞台である。

 本来、日々の新しい動きを知らせてくれる新聞は極めて魅惑的なものである。しかしこの世には、よそよそしい活字がびっしり組まれているだけの、そしてその日に出されたものであるということが記事の内容からは判明しないような新聞もある。『新光日報』はまさにそのような新聞であった。上級の呼びかけや指示がやたら多く掲載され、党代表大会といえは、「民主をさらに発揚させた」、中心工作といえば「大衆が熱烈に参加した」といった類の常套語が紙面を埋める。現実の生活に存在する諸矛盾や人びとの生の声はほとんど紙上に反映されない。

 このような『新光日報』の編集長ほ党歴二〇年を誇る陳立棟である。彼は社説から写真、記事のレイアウトまであらゆることを事細かにかつ専断的に指示を下す。記者たちが書いた原稿も彼の手によって徹底的に筆削が加えられる。また記者の原稿がどんなに新鮮で興味深いものであっても、党上級がすでに問題として取り上げているようなものでないかぎり、没にしてしまうか、「内部ニュース」として各単位の参考資料にしてしまう。ところがお役所の長くて硬い報告の類は必ず掲載するのである。陳立棟の指導の下、新聞は新鮮さを失い、新聞社に勤務する人びとの主体性・創意性は大いに損なわれていた。

 陳立棟から直接の指示を受ける立場にある編集室主任の馬文元はまったく精彩の無い、無気力な存在であった。彼は地下工作にも従事したことのある解放前からの党員で、それなりの教養もある人物であったが、解放後、未経験な職務を担当させられるなかで、すっかり自信を失ってしまい、結局、上級の指示をただひたすら忠実に遂行することにより自己保身をはかるようになる。そんな彼は、豊かな内容を有している生活の現実を自分の目で、自分の心で把捉することができなくなり、すべて御仕着せの「階級的立場」、「人生観」、「思想・作見」によって理解した。それはまるで「彼がひと目見るだけで、躍動的な画面にただちに字幕が出てくる」ようであった(九八頁)。

 一九五三年夏より、馬文元は新聞社に転属した。ワンマンな陳編集長の下で、彼はますます自信を喪失し、編集室主任のポストに就いてからも、なにごとも編集長や党上級の意向を気にして仕事をおこなった。こんな彼の唯一の楽しみは、出勤前に子供を抱いて日なたぼっこをすることであった。

 『新光日報』の編集のあり方に強い不満を持っているのが若い女性記者の黄佳英である。黄佳英は取材活動を通じて数多くの社会矛盾を目にしてきた。農村での幹部たちの落伍的傾向、婦人の無計画出産、労働力の「統一分配政策」による各企業間の人員のアンバランスと不適切な人事、鉱山労働者の精神と肉体に苦痛を与えるだけの頻繋に長時間なされる無内容な会議など、問題は山積していた。しかし彼女は取材先の賈王鉱山で悶着をおこして新聞社に呼び戻されてしまう。彼女は鉱山であらためて痛感した労働力の「統一分配政策」の持つ矛盾について、日頃から尊敬しているベテラン記者の曹夢飛に語り、彼の見解を求める。彼女ほ、「こんなに多くの工業部門で暇をもてあましている労働者たちがいるのに、様々な分野で人員を必要としているのです」と、企業・現場間の人員のアンバランスを指摘し、「統一的な機構によって労働力配分の調整をしなければならないとすること自体が問題なのではないでしょうか?」と疑問を提起する。曹夢飛は彼女の意見に賛成し、「経済建設において教育の部門、数千の事業が不断に発展し、変化を遂げています。幾溝がこんなにも複雑で、労働力への需要もまた不断に変化するのに、労働力を固定しすぎるなら必ず問題が生じます。毎日いろんなところで人員が不足したり、反対に余ったりしています。たとえ労働力配分の機構をさらに多くしたってうまくはいきません。だから私はおそらく方法は一つしかないだろうと思っているんです。一定程度はみんなに自分で仕事を選択させるようにし、党員や青年団員以外にはあんまり制限を加えないようにするんです」と彼自身の見解を述べる(八〇−八一頁)。

 −九五五年の秋より時代の浪が大きくうねり出し、多くの人びとが前進を開始した。生活の大きな流れのなかに身を投じたいという要求を潜在的に持っていた馬文元も例外ではなかった。彼は黄佳英と一緒に工事現場や工場などを取材し、現実に存在している諸問題を積極的に新聞に掲載していった。また読者からの手紙を取り上げたり、座談会を開いたりして大衆の生の声を紙面に反映させるためにも努力した。内部からの改革の動きのみならず、外的条件の変化によっても『新光日報』は抜本的な改革をせまられることとなる。党省委が各新聞の公費購読部数の大幅削減と新聞社による小売り部数の拡大を提唱したのである。一九五六年七月一日より『新光日報』は街頭で他の二紙と競合することになった。大衆の厳正な審判が下された。『新光日報』の販売部数はこれまでの三万部から大激減して一万二千部になってしまった。

 このような状況のなかで、七月二日に開かれた新光日報社の党支部大会は激しい議論の場となった。同大会の主たる議題は黄佳英の入党問題であったが、黄佳英による『新光日報』編集のあり方に対する批判が口火となって、議論は編集長の陳立棟批判へと移ってしまった。これまで会議で発言したことがなかった馬文元も勇気を出して黄佳英の入党を支持し、さらに彼がこれまで陳立棟の指示通りに行動するだけで主体性を発揮しなかったことを自己批判し、「みんながただ命令のままに行動し、すべてのことを毛主席と党中央に任せ、私たちのかわりに考えてもらうようなことでいいのでしょうか。共産主義者でありながら頭を使わないで、それでいったい共産主義者と言えるでしょうか?……また、自分自身で思考する習慣を失ってしまったら、その時から情熱もだんだんになくなっていきます。人によっては『熱心』というこの言葉に反対するかもしれません。まあそれが『熱心』と呼ぷペきかどうかはどうでもいいことですが、要はそれに類した感情を共産主義の感情として持つべきであるということです。たとえ職務に忠実で責任を尽くし、規律に従い、汚職・腐敗行為をおこなわず、すべての点で問題がないとしても、国家の損失を何とも思わず、人民の苦しみに心を痛めないならば、こんな人物は共産党員とは決して言えないんです!」と主張した(一四〇−一四一頁)。

 馬文元の発言終了後も大会の議論の中心は人々の積極性が発揮されず、現実生活の諸問題が正しく反映されない新聞社の現状に集中し、それとの関連で陳立棟を厳しく問う声が続出した。このような状況のなかで、陳立棟は彼のこれまでの黄佳英入党不支持の態度を急変させ、彼女の入党を支持する表明をおこなった。しかしそれは新聞社内外の情勢が彼に不利であるとの判断に基づくものであり.人びとの批判を真摯に受けとめてのものでは決してなかった。

 「本牧内部ニュース」は以上のように、党の報道統制と新聞社側の自己規制が生み出す問題が描かれているが、劉賓雁はこの間題について日頃から様々な場で積極的に発言していたようである。そのことも、反右派闘争期に出された「右派分子劉賓雁」に対する批判論文から窺い知ることができる。たとえば、一九五七年七月一八日の『中国書年報』は劉賓雁のつぎのような発言を紹介している。「彼はつぎのような不満を述べた。私たちが新開をつくるうえで様々な規制が多すぎる。すなわち、党が決定しないとだめであり、(たとえ彼に問題がある場合でも)彼が指導する仕事は必ずだめにされてしまうとか、ある筋の態度が表明されてないものはだめになる、とした。(中略)彼は『中国青年報』が青年団中央の機関紙であることに不満を抱き、制限が多くとても窮屈であると感じていた。彼はつぎのように言っている。青年団中央はとてもがっちりとして動きがとれないほどで、新聞には一体『報道の自由』なんてあるのだろうか、と。彼はこれまでの党の指導を必要としないとする立場に基づいて独断的な判断を下し、『新聞社の編集委員会の権力とは、ただ社説の題目をちょっと論じるくらいのもので、新聞紙上の多くの問題は新聞社が決定したものではない……。新聞は青年団中央のメガホンとなってしまっており、大衆の生活に気を配ろうとはしない』、とした。

 劉賓雁は、百花斉放期、「橋梁工事現場にて」、「本報内部ニュース」の二篇の報告文学やその他の言論活動を通じて、上から厳しい規制を加えてすべてを行政命令的に指導・管理する体制の内部に生じる官僚主義の害悪を問題にし、厳しい批判を展開した。橋梁建設への情熱を喪失し、ただ上級の指示を間違いなく遂行することに汲々とし、ノルマの超過達成のために実際の力量以下に計画を抑え、自分の無為無策によって流してしまっても、「よかった、よかった。電話はなんとか通じた。とにかく自分は指示を仰いだんだ」と安心する羅立正。厳しい報道管制と自己規制の下、社会の諸矛盾に対する新鮮な感覚をすっかり麻痺させしまい、よそよそしい活字がびっしりと組まれているだけの新聞を発行している『新光日報』の新開工作者。劉賓雁はまた、幹部たちのなかに「政治的情熱を衰退させ、精神が弛緩しており、少しも頭を働かせず、欲の皮をつっはらせ、享楽を貪ぼろうとする」者がいると発言したといわれるが、形成されつつある強大にして硬直した官僚主義の体系のなかに彼は腐敗の臭いも嗅ぎつけていたのである。劉賓雁は反右派闘争のなかで「反党反社会主義の右派分子」として批判され、ロを封じられてしまうが、その彼が名誉回復後に「人妖の間」に描いたものは、彼が百花斉放期に告発した官僚主義の体系が、その後も醜悪な部分を生長肥大化させ、悪臭を放ちなが蠢(うごめ)いている姿であった。


「人妖の間」について

 一九七八年一一月、党中央が全国の右派分子のレッテルを取り除く決定を出した後、名書回復されて再びペンを執ることが可能となった劉賓雁は、王守信を主犯とする賓県の汚職事件を現地に取材して本格的な報告文学「人妖の間」を『人民文学』に発表した。

 この作品の冒頭部分はつぎのようなものである。「賓県の県委の建物はこれまでずっと全県民の関心の的であった。土地改革以後十数年ほどは人びとはさかんに出入りし、それはまるで親戚の家に世間話をしにいくようであった。なにか問題や事情があると、町へ行って市場に出かけたり、仕事をするついでに県委の建物に立寄り坐りこんで、以前自分たちの村で仕事をしたことのある幹部たちをつかまえては世間話に花を咲かせたものである。しかし後になると、まるで建物の壁がしだいに高くなり厚みを増したかのようになり、通りすがりの人びとは外から内の様子を穿い見るようになった。そして心には畏敬の念と神秘感を抱くようになった。六〇年代初めに入ると、人びとはあわただしく建物の正門を通りすぎた。そんな時、県委のかまどや食堂から漂ってくる肉・油・まんじゅうのおいしそうな匂いをかぐと、人びとは大変不愉快な気持になったが、顔には往々苦笑が浮かび、「人もお役人様になればよい暮しをなさるものさ』と思うのであった」(一四七頁)。

 こんな賓県で文革期に台頭してきたのが王守信であった。彼女は幼い頃からの貧しくて惨めな境遇のなかで、その旺盛な生活力と図太い神経を身につけるようになったが、賓県の煤建公司の会計係をやっていた頃は、その有余るエネルギーを日常的な噂話を聞きまわりおしゃべりすることで発散していた。しかし文革が始まると、彼女は造反活動のリーダーとして精力的な活動を展開するようになる。そんな彼女は、賓県人民武装部(民兵組織の指導機関)の揚政治委員の強力な支持を得るようになった。揚政治委員の権威は同県において絶対的なものであり、「彼への態度こそが革命かそれとも反革命かの試金石であった」。こんな揚政治委員の強力なバックアップの下、王守信は「突撃入党」(入党の資格もない人物が有力者のコネで入党すること)し、彼女が会計係をしていた煤建公司の支配人兼党支部書記に一躍抜擢された。

 王守信が公司の実権者になって最初におこなった「改革」は、石炭の配給制度を悪用し、人を見て石炭を売ることであった。充分な見返りがあると踏んだ相手には、ある時払いの催促無しで上質の石炭を直接彼らの家まで運んでやった。王守信はまた、自分にとって何の利益にもならない相手に対しては石炭供給の量と質とをダウンさせた。さらに彼女に敵対するような者がいれは報復として石炭供給をストップする。また、公司の九台の運搬用自動車も王守借のコネづくりに重要な役割を果たした。賓県の人びとは生活の必要上、毎年山から薪を取り、農村から野菜を運んでこなけれはならなかったが、王守信は恩を売るだけの価値があると判断した人物たちのため、これらのものを公司の自動車を使用して運搬してやった。劉賓雁は、「彼女の手中のこの数万トンの石炭と九台の自動車は彼女の筆であり墨であり、彼女の抒情詩を毎日書き続けた」(一五入頁)と表現しているが、公司の石炭と自動車は王守借のコネづくりに最大限利用され、彼女の権勢拡大の重要な元手となったのである。

 さらに彼女はつぎのようなトリックを使って公司の売上げ金を横領した。国営炭坑から公司に供給されている石炭の一部を小炭坑出炭の石炭にみせかけて、実際の価格より一トン当たり五元から十数元も高くして売り、そうして得た不当な利鞘を横領したのである。長年の間に彼女はこのような横領金を五〇万元以上も貯めこんだ。この巨額の横領金を元手に、彼女は、下は公司の職員から上は賓県の党委員会・革命委員会や地区・省の関係機関の幹部にいたるまで、饗応・贈与の物量作戦を展開していった。『人民日報』一九七九年四月二三日号によると、王守信から贈り物を受取った省・地区・県や部隊は九〇単位以上、二〇〇人以上になるという。

 あらゆる手段を駆使して県内外の幹部たちを籠絡し、自己の権勢を拡大しようとする彼女は、さらに「知識青年センター」づくりまでやっている。当時、革命精神育成と祖国建設を名目とする青年の下放政策が実施されていた。中学・高校を卒業した青年たちは農山村部に送られ労働することになっていた。だが、親たちとしては可愛い我が子を山村の僻地に行かせたくない。そこで王守信用が思いついたのが烏河公社松江大隊に「知識青年センター」を設立することであった。彼女はすでにおとくいの饗応戦術で同公社の幹部連中をまるめこんで、松江大隊の肥沃な土地二百畝余りを占有し、同大隊の農民たちを使って「副食基地」を営んでいた。この「副食基地」で饗応・贈与に用いる食料品を廉価に作らせていたのである。この松江大隊に「知識青年センター」が設立され、「省・地区・外の各級指導幹部の子弟たちがぞくぞくとやってきたし、また本人は来ないのに名簿にだけは登録されたりもした。そして本人が来なくても毎月四〇元から五〇元の賃金が支給された」(一六八−一六九頁)という。こうして幹部たちの子弟は実質的な下放を免れることができたのである。

 では王守信の糖衣砲弾に対し賓県の幹部たちはどのような見返りを与えたのであろうか。

 王守信の派手な饗応。贈与作戦は、彼女がセメント・化学肥料などを取り扱う認可を党県委から取得し、穀物局から大量の白米・メリケン粉・大豆油・家畜の飼料などを引き出し、酒造工場や食品工場から酒やお菓子を豊富に入手することを可能にした。また、省や地区の燃料に関連する部門・機関が王守信の公司により多くの石炭を割り当て、より多くの資金を調達することを可能にした。

 王守信の長男は中国共産党に入党でき、ある公社の副主任のポストに就いた。その嫁は県革命委の文革組副組長となり、次男も入党して写真館の副支配人になった。また彼女の忠実な部下たち八名も党籍を得ることができた。これらのことも彼女の物量作戦の成果であることは言うまでもない。
 
 王守信の不正行為は、県革命委員会などの有力ポストに就いている「造反派」の連中によって守られ隠蔽されてきた。これらの「造反派」の連中は、文革期、強烈な物質欲と権勢欲から造反活動に参加してきたヒゲの生えた幹部たちだったが、文革以後も相互にきわめて強いつながりを保っていた。王守信は彼らが負っている多額の借金を立替え返済してやることにより、彼らとの結束を一層強化し、「造反派」の連中も彼女のために何かと骨折ったのである。たとえば、県革命委工商科長のポストにあったある「造反派」の人物は、王守信から六〇〇元の借金をし、各種の贈与を受け取っていたが、その見返りとして王守信の違法なハルピンへの食料品のトラック輸送を認可した。同じく「造反派」の県革委財政科副科長は、王守信がその不正な金を預金するためのトンネル高座を設けてやった。王守信はその見返りとして彼の娘婿や息子の昇格や進学のために便宜をはかってやった。

 だが、彼女の不正行為を隠蔽するのに協力したのほ「造反派」の連中だけではなかった。党県委のある紀律検査員は、祀律検査委員会に繰出された王守信告発の文書を何と王守信に直接手渡し、告発されている問題に対してはもみ消し工作をおこなった。ところで、党県委の常任委員会のメンバーは一一名であったが、そのうち九名が王守信から何らかの贈り物を受け取っていた。これでは王守信の不正行為を厳しく取締ることができるわけがない。

 ところで王守信はなぜかくも長きにわたって不正行為を継続することが可能だったのであろうか。このような問いかけに対し、文革以降の混乱にともなう賓県の党委員会の指導上の責任が当然問題にされるであろう。劉賓雁は、当時の党県委が、「時代病」であるくる病にかかっていたとする。すなわち文革の洗礼を受けた幹部連中の多くが精神上の骨軟化障害をおこし、圧力に屈しやすく、確たる自分の意志を持たない状況が生まれていたことを指摘している。王守信の露骨な犯罪活動を放任してきた賓県の党委員会に対し劉賓雁は、「共産党はあらゆることを管理しているが、ただ共産党に対する管理だけはおこなわない」(一八〇頁)、「結局、こっちでも恨まれたくないし、あっちでも恨まれたくない。ただ人民共和国の『主人公』すなわち人民に恨まれることはなんとも思わない」(一八四頁)と痛烈な批判を加えている。

 しかし劉賓雁は、王守信事件発生の原因を文革以降の党県委の指導問題にのみ帰してはいない。劉賓雁は、賓県社会全体のあり方と王守信事件とを関連づける必要性を指摘する。彼は、解放後の賓県に漸次的に堆積され拡大されてきた腐敗した土壌を問題にする。賓県の幹部は、時代が経つとともに県民から遊離していく一方、相互に特殊な「関係」をつくりあげ、一つの特権的階層を形成していった。この特殊な「関係」の一つである姻戚関係について劉賓雁はつぎのように述べている。「賓県の中級以上の幹部たちほ、そのほとんどが一九四五年の土地改革の時に農村からやってきた人びとである。六〇年代末、七〇年代初めになって、彼らの息子や娘が結婚適齢期になった。賓県の県城にはわずかに三万の住民がいるだけである。縁談につりあう家庭の幹部の層と人数はもっと少ない。そこで姻戚関係や姻戚の姻戚であるという関係が、家族・親頼・友人・同窓・同僚・上役と部下・相互扶助の関係といったこれまで相当の役割を果たしてきた諸関係にある新しい内容をつけ加えることになった。関係の広がりについてのみ言っても、姻戚関係は従来の封建的関係をさらに一層拡大したのである」(一八九頁)。ここに述べられている諸「関係」に更に文革中に同セクトであったという「関係」もつけ加える必要がある。

 賓県の幹部たちは相互に複雑な諸「関係」を結び合い、それを利用し、またその諸「関係」に守られながら、「権力の交換」を日常化させ、富と栄誉を築いていった。劉賓雁は、幹部たちが自分たちの地位・権力を利用して相互に富と権勢を拡大させていく行為を「権力の交換」と表現し、これがもたらす問題についてつぎのように述べている。「このような権力の交換は、長年にわたって王守信と党県委・県革命委員会や地区・省レベルの数十、数百の幹部たちとの間に不断になされてきた。(略)このような『社会主義』的交換ほ、資本主義的交換と比較して確かに非常な『優越性』を有している。なぜなら、交換する双方が資本を持つ必要がなく、いかなる私的な財物をも支出する必要もなけれは、いかなる損失・破産の危険を冒すことがないからであり、それでいて、それぞれが利益をこうむるからである。(略)このような交換がしきりに繰り返されるならば、党や行政の幹部自身はしだいに人民の膏血をしぼりとり、社会主義制度を蚕食する寄生的な存在に化してしまい、それにともなって党と大衆との関係も悪化してしまうであろう」(一六一−一六二頁)。

 賓県では、幹部たもの派手な飲み食いは連日のことであった。党県委の宿泊所には一年間に二千元が支出され、県革委の各科にも宿泊所が設けられ、幹部たちの派手な飲み食いに利用された。ある電機関係の責任者は、饗応・贈与のために毎年一万元から二万元を支出するという。国有資材の横領も日常茶飯事である。ある党委書記兼タオル工場長は工場用のセメントを使用し、工場用の建物を改造して彼個人の家を建てた。また彼は、その時に使用したセメントその他の資材を工業科長の個人住宅建設のために捷供している。

 王守信の犯罪活動を可能にし、それを表面からおおい隠し、大規模化させた真の原因は、以上のような賓県の腐敗した土壌にあったのである。

 王守信は一九七八年に開始された「双打運動」 (階級敵の破壊活動と資本主義勢力の狂暴な攻撃との二つに打事を与える運動)によってついに同年の一一月に汚職罪で逮捕されてしまう。だがこの逮捕過程にもいろいろ問題があった。賓県党委から王守信の公司に調査のために工作隊が派遣されたが、公司の党支部の誰一人として王守信の犯罪を告発しなかった。また工作隊は民間から提供された有力な情報を無視した。さらに党県委の幹部たちのなかには、王守信の犯罪を隠蔽するために奔走する人物までいた。賓県内部の浄化力が働いて王守信の腐敗行為を除去したわけではないのである。

 劉賓雁は言及していないが、王守信の逮捕は黒竜江省の複雑な政治抗争と密接な関係があると思われる。黒竜江省は、文革期、「造反派」と「実権派」との間に激しい闘いが展開されていたが、一九六七年一月二三日より黒竜江省軍区部隊が「造反派」を支持して武力介入し、その圧倒的武力を背景に全国最初の省級革命員会を成立させた。こうして黒竜江省軍区部隊の軍人幹部たちは同省の実権を掌握した。だから、黒竜江省軍区部隊の現地駐屯部隊から賓県の人民武装部に派遣されてきた揚政治委員の権威も賓県において絶対的なものであった。このような揚政治委員の権威を背景に王守信は台頭していった。しかし、一九七六年の「四人組」逮捕後、黒竜江省の党委員会では一四ヵ月にわたって激しい内部抗争が展開し、一九七七年一二月に揚易辰が党省委第一書記に新たに就任し、同省委における「文革派」はその実権を失った。その後、同省内の「文革派」の影響力を一掃し、彼らを排除していくという政治的意味を有する「双打運動」が進められた。その過程で王守信の汚職行為が摘発されたのであり、彼女の逮捕・処刑は省内の「文革派」幹部の失脚・権威失墜と密接な関連を持っていたと推測できる。

 王守信の逮捕後も彼女の一派が依然として県内に潜在的な力を有しており、また彼女の犯罪を生み出した社会的土壌がまた依然として存在している状況のなかで、劉賓雁は「人妖の間」の最後をつぎのような言葉で結んでいる。「王守信の汚職事件は摘発された。しかし、王守信が存在し発展することのできたあのような社会的条件にどれほどの変化があったといえるのであろうか。大小の王守信が社会のあらゆるすみずみで依然として社会主義を食い荒し続け、党の身躯を蝕み続け、プロレタリア独裁の懲罰を免れているのではなかろうか。みんな警戒心を高めよう。現在まだ勝利の声をあげる時ではないのだ」(二〇四−二〇五頁)。


おわりに

 劉賓雁の両の目尻には早くも生じた無数の皺が深く長くそして密に刻みづけられている。「右派分子」のレッテルを貼られて以来、ペンを折り、三十代半ばからのきわめて貴重な二十余年間の歳月を苛酷な労働と精神的な責め苦のなかで過ごしてきた彼の歴史がその顔に刻みつけられているのである。
 
 名誉回復後の彼は、さらに一層大胆で鋭く激しい言論を展開し、中国の心ある人びとの強い共感と支持を得ている。だが、劉賓雁の声はまだ中国の圧倒的多数の人びとには届いていない。多くの民衆は、まだ下を向いたまま押黙っている。だが、民衆は寡黙であるが行動において雄弁を発揮する時がある。圧倒的多数の民衆が体で何かを語りはじめた時、あの歴史の老人もやおら御輿を上げて、自分の仕事をすこしは真面目にやりはじめるかもしれない。
一九八一年一二月二日
 







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