田中一村展を見て
奄美群島日本復帰50周年記念 田中一村展
 2004年に奄美群島日本復帰50周年記念事業の一つとして田中一村展が企画され、つぎの日程で全国で開催された。
田中一村全国巡回展の案内(裏)


  ▼1月2−25日・横浜・そごう美術館
  ▼3月17−29日・大丸ミュージアム・心斎橋
  ▼4月6−14日・福岡三越
  ▼4月16−25日・福屋広島駅前店
  ▼4月28日−5月9日・大丸ミュージアム・東京
  ▼5月12−24日 大丸札幌店
  ▼5月27日−6月8日・大丸ミュージアムKOBE
  ▼6月12−21日・山形屋文化ホール(鹿児島)
  ▼6月25日−7月5日・桐蔭学園メモリアルアカデミウム(横浜)

田中一村全国巡回展の案内(表)

 この田中一村全国巡回展には一村の作品150点が展示されたが、多数の作品が初公開され、一村の画家としての苦闘の遍歴を考察する上で非常に参考になった。

 なお、鹿児島市で開催されていた6月17日には、入場者数が全国会場を通算して20万人を突破し、20万人目の入場者となった鹿児島県伊佐郡菱刈町の時任ウメさんには一村の代表作の1つ、「アダンの木」の額入りカードが贈られたという。


鹿児島市で開かれた田中一村展
 
山形屋の田中一村展ポスター
 田中一村展が鹿児島市で開かれる日を一日千秋の思いで待っていたので、一村展が始まった2004年6月12日には会場となっている山形屋文化センターに喜び勇んで出かけていった。勿論、一番のお目当ては一村が奄美で描いた作品群であり、前に奄美の田中一村記念美術館を訪れたときにも見られなかった「アダンの木」と「クワズイモとソテツ」(ともに個人蔵)を見ることができたのは非常な感激であった。

 また、一村が奄美に移住する以前に描いた作品も今回はじっくり鑑賞したいと思っていたが、会場には予想していた以上に数多くの奄美以前の作品が初公開されており、大いに認識を深めることが出来た。

 まず、会場に入ると『富貴図」の衝立がどんと置いてあったが、大矢鞆音『田中一村 豊穣の奄美』(日本放送出版協会、2004年4月)に掲載されていた小さな写真でイメージしていたものより牡丹の花の彩色が明るくまたソフトな感じを受けた。太湖石の青い色も写真ほど濃くはなかった。しかし画面の真中から右下へ牡丹を覆い隠すように描かれた青色の太湖石の存在がこの絵全体と構図的に調和しているとはやはり言い難いように思った。なお、衝立の裏に描かれた「竹と蘭」は、写真で見た印象とさほど違いは感じなかった。

 会場入り口近くには、一村が若い頃に描いた南画である「藤花図」、「ソテツとツツジ」、「牡丹図」が3作品並んで展示されていたが、それらの自信に満ちた大胆で巧みな筆遣いには大いに感心させられた。

 「ソテツとツツジ」(1926年夏)と題された絵は、南画の題材としては珍しいソテツの木が真っ赤なツツジの花をバックにして大きく描かれている。この絵、NHK出版編『田中一村作品集[新版]』(日本放送出版協会、2001年10月)の83頁にも載っていたが、会場で縦133.4センチ×横42.4センチのこの大きな絵が私の目にパッと飛び込んで来た。

 この絵には画賛が添えられており、「鐵樹能不華杜鵑此不草木全天年頼居水與泥」(鉄樹はよく華せず、杜鵑も此にかず、草木全て天年水と泥に頼居す) と読むことができた。この絵と賛がとても気になったので帰宅後調べてみたところ、なんと『趙之謙作品選』(東方書店、1990年12月)の36頁に「甌中草木図 四屏」の「(一)鉄樹」があり、この絵にはソテツが大きく描かれ、画賛に「「鐵樹能不華杜鵑此不草木全天年頼居水與泥」とあった。

 趙之謙と言えば、一村が米邨と号していた頃に開かれた田中米邨画伯賛奨会(1926年12月開催)のその趣意書にも、呉昌碩とともに趙之謙の名前がつぎのように出ていたものである。すなわち、同趣意書は「天賦の鬼才田中米邨画伯は未だ弱冠十九歳にして、巨匠呉昌碩の水準に及び」とし、「学業のかたわら画筆を親しみ、自ら支那宋元明清の名蹟を渉猟研究し、その画は筆刀遒勁。縦横にして画想秀れ自由奔放、趙之謙、呉昌碩らの妙を究めたり」と褒めそやしていたのである。

 この趙之謙という人物は、中国の清代末期の書画・篆刻家であるが、東洋史学の碩学・内藤湖南が彼のことを戦乱を経た時代の「非常の天才」として高く評価している。すなわち、内藤湖南が1916年に清朝の絵画について論じた文章が『支那絵画史』(ちくま学芸文庫、2002年4月)に載っているのだが、そこでこの碩学は「清朝も晩季になつて、加ふるに戦乱を経た後で、画家の数なども甚だ少くなつた時代であるが、かゝる際にも非常の天才が現はれることがある」として、そのような「非常の天才」として趙之謙の名前を挙げ、「其画は卓抜なる特色を有つて居るので、言はば純然たる印象派である」とし、その絵の卓抜さについて高く評価していた。

 ところで、趙之謙の「鉄樹」と題されたソテツの絵は『趙之謙作品選』の36頁に載っていたのだが、その隣の37頁には「h樹」と題された崖に藤の花が這う絵が載っていた。私は、この絵の構図が今回の展示会で「ソテツとツツジ」の左隣に掲げられていた「藤花図」によく似ていることに気がついた。

 「藤花図」は一村が17歳(1925年)のときに描いた南画で、崖の上と下にともに桃色の藤が描きこまれている。それに対し趙之謙の絵では、崖の上に赤い木が配され、崖に這う藤の花は紫色に彩色されている。しかし、構図を比較してみると、両作品はとてもよく似ているのである。どちらも崖に穴が幾つかあいており、崖下の藤の枝の張りぐあいもそっくりなのである(両作品のモノクロ画像を「田中一村と南画」のページに掲載)。なお、一村が17歳のときに描いたこの「藤花図」は、画賛として呉昌碩の「藤花図」と同じ「枝爛漫 藤弗斬」という言葉を添えている。

 これらの事実は、一村がいかに趙之謙、呉昌碩に傾倒し、彼らの絵やそこに添えられた画賛等を積極的に学び取ろうとしていたかを私たちに示しているように思われる。田中一村展で「ソテツとツツジ」「藤花図」の絵が目に留まり、その結果、それらの絵が趙之謙昌碩の影響を受けたものであることが判明したことも、私にとって大きな収穫であった。

 ところで、1931年(昭6年)になって、一村はこれまで描いてきた南画とは大いに趣の異なる「蕗の薹とメダカの図」等を描き、「本道と信ずる絵」として彼の支持者に示しているが、残念ながらその「蕗の薹とメダカの図」は展示されていなかった。

 一村が描いた新しい傾向の絵は支持者から全く賛同を得られず、一村は当時の支持者と全部絶縁し、帯留め、根付け、木魚などの木彫によって生計を立てていくことになる。では、彼はその後、絵ではどのようなものを描いたのであろうか。NHK出版編『田中一村作品集[新版]』(日本放送出版協会、2001年10月)に載っている「田中一村年譜」によると、1938年(昭和13年)に「千葉市千葉寺に、姉喜美子、妹房子、祖母スエとともに移る。このころから花卉、花鳥、風景などの作品が多くなる」とのことである。
田中一村展の出品カタログ
日本放送出版協会
2004年1月

 今回の田中一村展にも、確かに制作時期が「昭和10年代」とされている初公開作品が多数出品されていた。後で田中一村展の出品カタログである『奄美群島日本復帰50周年記念 奄美を描いた画家 田中一村展』(日本放送出版協会、2004年1月)で「昭和10年代」の作品を確かめてみると、色紙17作品、絹本6作品、紙本5作品、それにうちわに描かれた作品4作品が展示されていることが判明した。

 しかし、1931年(昭6年)に「蕗の薹とメダカの図」等を描いて以降の作品で昭和10年代以前に描かれた作品を展示会で見ることは出来なかった。なお、展示会には色紙に描かれた「浅き春」という作品が展示されていたが、同作品には「辛未春二月」(辛未は西暦で1931年)と日付が添えられてあり、「蕗の薹とメダカの図」とほぼ同じ頃に描かれたものと思われる。

 「蕗の薹とメダカの図」以降で「昭和10年代」以前の作品が今回の田中一村展に初公開された作品群のなかにも存在せず、その時代に相当する作品として考えられるのはいまのところ1932年(昭和7年)に描かれた「ケイトウ」だけだということになる。

 私は、一村にも唄を忘れた金糸雀時代があったのではないかと推測していたが、今回の田中一村展を見てその仮説に対する私の確信はますます強まった。

鹿児島市立美術館で開かれた「田中一村 新たなる全貌」展
 
「田中一村 新たなる全貌」展
ポスター表
「田中一村 新たなる全貌」展
ポスター裏
2010年10月5日から11月7日にかけて鹿児島市立美術館で「田中一村 新たなる全貌」展が開催された。この展示会は、 千葉市美術館、奄美市の田中一村記念美術館、鹿児島市立美術館の一村ゆかりの地の3館が彼の生誕100年を機に共同調査、検証した結果を踏まえ、まず千葉市美術館で2010年8月21日から9月26日まで開催し、続いて鹿児島市立美術館で開催、最後に奄美市の田中一村記念美術館で11月14日から12月14日まで開催したものである。

 私は2010年10月31日にこの展示会を見るために鹿児島市立美術館まで出かけた。今回の田中一村の絵画の展示会には、初公開の資料、作品約100点を含む約250点が展示され、一村ファンとして大いに満足させられたが、特に嬉しかったのはこれまで2回訪れた奄美の田中一村記念美術館でも見られず、また2004年6月に鹿児島市の山形屋文化ホールで開かれた展示会でも見られなかった「水辺にめだかと枯蓮と蕗の董」、「白い花」、そして「自吾作古 空群雄」と刻された遊印を実際に見ることができたことであった。

 1931年(昭6年)に一村がこれまで描いてきた南画とは大いに趣の異なる「蕗の薹とメダカの図」等の新しい傾向の絵を支持者に見せて受け入れられなかったというが、今回初めて私は「水辺にめだかと枯蓮と蕗の董」と題されたその絵を見ることができた。そして、この絵が描かれて以降で「昭和10年代」以前の作品が今回の展示会に存在しているのか興味を持って探したのだが、やはりその頃の作品の数は少なく、1931」年(昭和6年)3月に描かれた「桜之図」、1932年(昭和7年)夏に描かれた「鶏頭図」、また同時期の絵と推測される「南天図」のわずか3作品だけであった。やはりこの頃は一村にとって「唄を忘れた金糸雀」時代だったのであろう。
田中一村 新たなる全貌」
 カタログ 2010年8月

 「白い花」の絵の実物も今回初めて見たのであるが、近くに寄ってよく見ると緑の葉がとても厚くこってりと塗られていることに意外な感じを受けた。しかし、かなり離れて見ると、朝の光を浴びたやまぼうしの葉とその白い花がとても清々しく爽やかに感じられた。画家としてのアイデンティの確立を目指して新たな模索を始めた一村が、数えで不惑の歳を迎えた1947年にこの「白い花」を描き、柳が青々と生い繁り花が鮮やかに咲き誇る豊かな村里へと通じる「本道」をやっと見出したものと思われる。

 しかし、一村が本道と信じる道を歩いて目的の場所にたどり着くまでにさらに10年以上の歳月が必要だったようである。一村は、50歳のとき住みなれた千葉から奄美大島に渡り、これまでとはまったく異なる自然と対峙して新たな美を創造することになる。


 さて、最後に「自吾作古 空群雄」と刻された遊印だが、この「田中一村と遊印」と題したホームページを作成するきっかけとなったのがこの遊印であっただけに、それを今回の展示会で目の当たりにすることが出来て非常に嬉しかったし感動した。これを見ることができただけでもこの展示会に来た甲斐があったと思ったものである。

   なお、この展示会場で『田中一村 新たなる全貌』と題されたカタログを購入したが、そこに載せられている年譜によると、1950年以降も一村は以下のように日展、院展に出品しては落選を繰り返している。

1953年 第9回日展に出品し落選
1954年 第10回日展に出品し落選
1957年 第42回院展に出品し落選
1958年 第43回院展に出品し落選

 このような苦い体験が1958年 50歳になった一村をして奄美大島への単身移住を決意させたようである。
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