田中一村の遊印の彼方に
一村の遊印に刻された「自吾作古 空群雄」
 私の「田中一村の遊印」のページは、 田辺周一さんが運営しておられる「ニライカナイ・田中一村」のHPで田中一村の遊印の存在を知ったことから2004年3月に新たに作ったものである。

 この一村の遊印は奄美の一村終焉の有屋の住居に遺されていたもので、所有者は笹倉慶久氏で、友人の田辺周一さんがいま保管しておられる。生前から一村に私淑していた笹倉氏は、一村が他界した後、処分場に廃棄されていた遺品のなかから記念になるものを収拾されていたが、その一つがこの遊印だったのである。

 私は、田辺周一さんのご好意でこの遊印に刻された「自吾作古 空群雄」という言葉が呉昌碩の漢詩から由来していることを解明することができたのだが、さらにその遊印の彼方になにか見えないものが見え、聞こえないものが聞こえてくるのではなかろうかと考え、最初の手がかとして、遊印に引用された言葉との関連で呉昌碩という人物のことを調べ始めた。その結果、一村が南画の研鑽を積んでいた若き時代に、この呉昌碩から多くのものを学び取っていたらしいことを推測することができた。このことは、これまで私がほとんど等閑視してきた一村と南画との関わりについて新たな関心を呼び起こすこととなり、一村の遊印の「若き日の南画時代があるから、奄美の一村もあるのだよ」との囁きに導かれるようにして南画時代の一村のことをさらに調べ始めたのである。

 その結果、前ページの「田中一村と漢詩」で書いたように、1929年に衝立に描かれた「富貴図」と「竹と蘭」の絵から一村の南画に対する迷いを私は感じ取ることになった。その2年後の1931年、一村は「蕗の薹とメダカの図」等の「本道と信ずる絵」を描いたが、支持者から賛同を得られず、「当時の支持者と全部絶縁し」、帯留め、根付け、木魚などの木彫によって生計を立てていくことになる。その後の一村のことが気になり、それで1931年の「蕗の薹とメダカの図」以降で「昭和10年代」以前の作品を画集及び2004年開催の田中一村展で調べたが、確認できたものはなんと「ケイトウ」(1932年)だけであることが判明した。

 では、1932年以降の一村が「唄を忘れた金糸雀」状態になったのはなぜであろうか。生計を立てるために帯留め、根付け、木魚などの細工物の木彫に忙しく、絵画制作に時間を割く余裕がほとんどなかったということも考えられる。しかし、それだけであろうか。これはあくまでも私の仮説でしかないが、少年の頃から描いていた南画から離脱した一村は、新たな道を模索し始めたが、思うような絵が描けず、かなりの期間にわたって絵画制作上においてスランプに陥り、また制作意欲を喪失した時期さえもあったのではないだろうか(特に千葉寺に引っ越す前の東京四谷時代)。すなわち、何度描いても満足いくものが描けず、つぎつぎと破り捨てたり焼却したりしていた時期があったのではないだろうか。

 では、なぜ一村は「当時の支持者と全部絶縁」してまで南画から離脱し、新たな道を模索しはじめたのであろうか。ここでまた、私は一村が遺した遊印からそのヒントを得ることができた。彼は遊印に「自吾作古 空群雄」という言葉を刻していた。この言葉は、呉昌碩の「刻印」と題された漢詩中の「自我作古 空群雄」(我より古を作して群雄を空しうせん」という詩句より引用されたものである。この呉昌碩の言葉には、「古いものにとらわれずに自分から道を切り開き、群雄の優れた業績を超越する」という意味があると思われる。

 そして、一村が遺した遊印に刻されたこの「自吾作古 空群雄」という言葉は、私につぎのことを教えてくれているように思えた。すなわち、1926年12月に開かれた田中米邨画伯賛奨会の趣意書には、若き一村のことを「趙之謙、呉昌碩らの妙を究めたり」と称賛していたが、彼自身はどこかで自分のことを結局は趙之謙、呉昌碩などのエピゴーネンでしかないと思うようになったのではないだろうか。趙之謙、呉昌碩の目を通して対象を見、彼らの絵画技法を倣って対象を描くことから脱却せねばならないと思い、また書画一致を目指す南画において、独自的な画賛を添えることのできないことへの限界を痛切に感じるようになったのではないだろうか。

松村茂樹編『呉昌碩談論』
柳原出版、2001年
 ところで、中国の文人であり芸術家である呉昌碩は、「古人為賓我為主」(古人は賓たり我は主たり)と述べているように、当然のことであるが、前代の大家たちの画を大いに学び研究することの大切さを説くとともに、さらにそこから独創的なものを作り出してそれらを超越していかねばならないことを常に主張していた。例えば、松村茂樹編『呉昌碩談論』(柳原出版、2001年)に潘天寿の「回憶呉昌碩先生」という文章が載っているが、そこにも呉昌碩の詩文中の「今人但侈古昔、古昔以上誰所宗。詩文書画有真意、貴能深造求其通」(今の人はただ昔の人のものを大げさにしているだけであるが、昔の人はいったい誰を模範としたというのか。詩文書画に真意というものがあり、深くきわめてその通を求めることを貴ぶ)との詩句や、「画当出己意、堕塵垢、即使能似之、已落古人後」(画は自らの意を出すべきであって、すれば俗っぽいものにおちいってしまう。もしして似せることができたとしても、すでに古人の後塵を拝してしまっている」との詩句が紹介されている。

 20歳を過ぎて自らそのことを痛感するようになった一村は、画家としてのアイデンティの確立を目指して模索し始め、数えで不惑の歳を迎えた1947年に「白い花」を描き、柳が青々と生い繁り花が鮮やかに咲き誇る豊かな村里へと通じる「本道」をやっと見出したのではないだろうか。しかし、一村が本道と信じる道を歩いて目的の場所にたどり着くまでに、さらに10年以上の歳月が必要とされたのである。


 BACK
  
inserted by FC2 system