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江戸城無血開城と勝海舟

勝海舟が語る江戸開城のいきさつ
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篤姫と江戸城無血開城のかかわり
西郷隆盛に幕府を見限らせた勝海舟
勝海舟と西郷隆盛の和平交渉
渡辺清の回顧談

勝海舟が語る江戸開城のいきさつ


  旧幕府軍と薩摩・長州の連合軍との間の鳥羽・伏見の戦い(1868年1月27日~30日)は、兵力で3倍もある旧幕府軍が敗北し、勝った薩長を中心とする新政府軍は「官軍」と名乗ってさらに江戸へ東征を開始します。この新政府軍の東征軍の総大将的役割を果たしたのが「東征大総督府下参謀」に任命された西郷隆盛でした。それに対し、新たに陸軍総裁となって旧幕府側の代表として対峙することになったのが勝海舟でした。

 そんな勝海舟が江戸開城のいきさつについてつぎのように語った談話が
江藤淳・松浦玲編『氷川清話』
(講談社学術文庫、2000年12月)
江藤淳・松浦玲編 『氷川清話』(講談社学術文庫、2000年12月)に載っています

 
「あの時、おれはこの罪もない百万の生霊を如何せうかといふことに、一番苦心したのだが、しかしもはやかうなつては仕方がない。たゞ至誠をもつて利害を官軍に説くばかりだ。官軍がもしそれを聴いてくれねば、それは官軍が悪いので、おれの方には少しも曲つたところがないのだから、その場合には、花々しく最後の一戦をやるばかりだと、かう決心した。
 それで山岡鉄太郎が静岡へ行つて、西郷に会ふといふから、おれは一通の手紙を托けて西郷へ送つた。
        (中略)
 さて山岡に托けた手紙で、まづおれの精神を西郷へ通じておいて、それから彼が品川に来るのを待つて、更に手紙をやつて、今日の場合、決して兄弟(かき)に鬩(せめ)ぐべきでないことを論じたところが、向ふから会ひたいといつて来た。そこでいよいよ官軍と談判を開くことになつたが、最初西郷と会合したのは、ちやうど三月十三日で、この日は何もほかの事は言はずに、たゞ和宮の事について一言いつたばかりだ。」


 そしてさらに翌日に再び勝海舟と西郷隆盛との会談が持たれ、そのときに
「西郷がいうには、委細承知知致した。しかしながら、これは拙者の一存にも計らひ難いから、今より総督府へ出掛けて相談した上で、なにぶんの御返答を致さう。が、それまでのところ、ともかくも明日の進撃だけは、中止させておきませう」と言ったので江戸は戦火から免れることになったとしています。  この勝海舟の談話にあるように、勝海舟と西郷隆盛との会談により江戸城の無血開城が実現したというのは歴史的常識と言ってもいいですね。


篤姫と江戸城無血開城のかかわり

 ところで、
NHKの公式サイトの「『篤姫』放送前情報」に篤姫についての紹介文があり、彼女が果たした歴史的役割として、「江戸城に迫りくる西郷隆盛ら薩摩藩を中心とした新政府軍に働きかけ、無血開城の実現にも大きな役割を果たしました」としているのをご存知ですか。

 さらにこのNHKの公式サイトの説を補強するように、2007年4月25日にNHKの「その時歴史が動いた」で「大奥 華(はな)にも意地あり ~江戸城無血開城・天璋院篤姫~」が放映され、同番組の中で巻物に装丁された「天璋院の西郷宛の書簡」なるものが画面に映し出され、天璋院がその書簡の中で、「今、国家の形勢はいかばかりかと朝夕心配しております。私は女で無力ですが、徳川に嫁ぎました以上は徳川家の土となり、この家が安全に永らえることを願ってやみません。悲嘆の心中をお察しいただき、私の一命にかけ、何卒お頼み申し上げます」と嘆願していると紹介しました。そして、この篤姫の手紙が西郷隆盛の心を動かし、そのことが江戸城無血開城につながったに違いないとしているのです。

 しかし、この篤姫の書簡のことは拙ホームページ「宮尾登美子の『天璋院篤姫』と鹿児島」の「篤姫から西郷隆盛への嘆願書」で書きましたように、篤姫のこの書簡が出される以前において、勝海舟から派遣された山岡鉄舟が駿府で西郷隆盛と江戸城開城の条件について話し合いを行っており、このときに山岡鉄舟は西郷隆盛から降伏条件の書付を手渡されています。この降伏条件の書付の最後には、「右の条々実効急速相立ち供わば、徳川氏家名の儀は、寛典の御処置仰せつけらるべく候事」とあり、すでに平和的解決の端緒が開かれていたのでした。そしてさらに勝海舟自身が江戸薩摩藩邸で西郷隆盛と会見し、その結果、新政府軍の江戸総攻撃は中止されて江戸城無血開城が実現したのです。

 ですから、旧幕府の代表となった勝海舟の和平路線に従って出された天璋院の嘆願書もそれなりの意味があったとは思いますが、あまり過大に評価するのはいかがなものでしょうか。西郷隆盛たちは、ペリーの来航以降、欧米列強の進出に対抗する道を模索する中で、もはや徳川幕府の支配体制はそのための桎梏と考えてその打倒を目指すようになったのです。

 薩摩・長州の連合軍は、鳥羽伏見の戦いで兵力で3倍もあった旧幕府軍を打ち破り、その勢いを借りて京から江戸へ錦の御旗を掲げて決死の覚悟で進撃して来たのですが、相手は長年にわたって大名たちの上に君臨し権威を誇ってきた勢力であり、少しでも油断するとすぐに態勢を立て直して反撃してくる潜在的な力を充分に持っていると思われます。ですから、討幕のために東征してきた西郷隆盛たちに、篤姫の「自分の存命中に当家にもしものことがあれば、あの世で全く面目が立たず、そのことを思うと不安で日夜寝食も充分に取れず悲歎しています」と心情を吐露して、ただひたすら徳川家の存続を嘆願しているだけの嘆願書が大きな影響力を与えたとはとても思えません。


西郷隆盛に幕府を見限らせた勝海舟

上野公園の西郷隆盛像
 東京の上野公園に犬を連れて歩いている西郷隆盛の銅像があります。その銅像について、上野の山の麓の下町に生まれ育った一人の男の子が後に回想して、近くの大人たちがしばしば、「この銅像はねぇ、<江戸城総攻撃を中止してくれた西郷隆盛>に対する感謝の気持ち表すためにここに建てられているのだよ」と説明してくれたことを語っています。

 しかし、その男の子は次第につぎのように思うようになったそうです。「攻撃側が江戸城総攻撃を思い止まるのよりも、江戸を戦火にさらさないように、攻撃される前に江戸城を開け渡した人のほうがずっと偉いのではないか」と。その男の子の名前は板倉聖宣と言い、後に『勝海舟と明治維新』(仮説社、2006年12月)という本を著しています。

 その板倉聖宣の『勝海舟と明治維新』によりますと、勝海舟は大久保一翁とともに、新政府軍の中心となった薩摩藩や長州藩の指導者たちから「幕府の中で話のわかる男」と認められていたそうです。そんな勝海舟が旧幕府の代表となって西郷隆盛と和平交渉を行ったので、西郷は勝海舟の言葉を信頼して江戸城総攻撃を中止することになったのだろうとしています。

 ところで、この板倉聖宣著『勝海舟と明治維新』には、西郷隆盛との興味深いエピソードが紹介されています。同書に拠りますと、勝海舟は安政5年3月(1858年4月)に江戸幕府の海軍伝習所の幹部として咸臨丸に乗って薩摩半島南東の山川港まで行ったときに島津藩主の斉彬と会っており、蘭学を学び海外事情に詳しい勝海舟と話し合う中で大いに意気投合したそうです。そのため、斉彬は西郷隆盛にも勝海舟のことを好意をもって話しており、その名は薩摩の藩士たちに知られるようになっていたとのことです。なお、この勝海舟と島津斉彬との興味深いエピソードは拙ブログの「江戸城無血開城と勝海舟 その5」の記事に載せておきました。

 勝海舟は島津斉彬と会見してから1年10ヶ月ほど後の万延元年1月16日(1860年2月7日)、渡米のために咸臨丸に乗船し、太平洋を横断してその年の2月26日(1860年3月18日)にサンフランシスコに到着しています。そして、士農工商の身分差別などのない社会を目の当りにし、アメリカが日本とは社会の造りが根本的に違うことを痛感させられています。

 勝海舟はそれから4年半ほど後に西郷隆盛と最初の会見を行っています。すなわち元治元年9月10日(1864年10月10日)に二人は会見しています。そのときのことを前掲の板倉聖宣著『勝海舟と明治維新』はつぎのように書いています。

 「そのころ西郷隆盛は、幕府に協力して長州征伐の軍を組織していたので、『幕府の中でも<切れ者>との噂の高い勝海舟と会って話をしてみたい』」と考えていたということです。
 このとき西郷は、海舟の話を聞いて驚いてしまいました。海舟は『幕府にはもう天下の政治をとりしきるカがないから、有力な藩が協力して国政を動かさなければならない』と話したからです。勝海舟は幕臣でありながら、もうすでに幕府を見限っていたのです。このとき西郷は、鹿児島にいた同志の大久保利通に宛てた手紙の中で、勝海舟のことをほめたたえて 『ひどくほれ申し候』とまで書いていました。
 このとき以後、それまで長州藩と敵対していた薩摩薄は、長州藩と手を結んで、幕府と対抗する道を進むようになりました。だから海舟はこのとき、みずから幕府を滅ぼす道をたどりはじめていたことになります。」

 西郷隆盛が勝海舟と会談したとき、勝は幕府の軍艦奉行という地位に就いていました。そんな勝海舟の発言ですから、さぞかし西郷は驚ろいたことでしょう。西郷隆盛は、その時の勝海舟との会談の模様を大久保利通宛の書簡に書き送っているのですが、同書簡は『西郷隆盛全集』第1巻(大和書房、1976年10月)に「元治元年九月十六日」の「大久保一蔵宛の書簡」として載っています。それで、その一部をつぎに紹介したいと思います。

「両藩(薩摩藩と福井藩)より段々攻め掛り(質問を行う)候処、幕府の内情も打ち明けられ候に付き承わり候処、誠に手の附け様もこれなき形勢と罷り成り候事に御座候。畢竟幕吏の処、此の度の一戦にて暴客(禁門の変を起こした長州藩士)恐縮いたし、もふは(既に)身の禍(わざわい)を免れ候心持にて、太平無事の躰と相成り、奸威ほこり立ち候向きと相聞かれ申し候。左候て、幕吏も余程老練いたし、何方(いずかた)に権の有るとは知れぬようにいたし成し(幕吏が互いに責任逃れしている)、一同して持ち合い居り候姿に御座候。諏訪因幡(老中の諏訪忠誠)と申す者魁首と相聞得申し候。色々正義を立込み候えば(正論を唱えると)、御尤(ごもっとも)と同意致し、何となしに正論の者を退け候に付き、迚(とて)も尽カの道これなきとの訳に御座候。然らば奸吏を遠ざけ候策はこれなきや問いかけ候処、一小人を退くるには訳もなき事ながら、是を受け取るもの(引き受ける者)これなく、つまり議論を立て候者の倒るる外これなきとの事にて、如何とも運(はこび)の付く模様はこれなき事に御座候。此の上ながらも、諸藩よりカを尽し候儀はこれある間敷やと、今一段攻め掛け候処、是以て受け続くもののあれこそ行われもいたし申すべく候得共、薩摩より個様(かよう)の議論これあり候と役人へ持ち出し候えば、直様、薩摩へ欺され候人と申し成し、落し付け候様子に御座候。諸藩より尽力いたし候ても、無益の事に相成るとの説にて、いたし方これなき次第に御座侯。
     (中略)
勝氏へ初めて面会仕り候処、実に驚き入り候人物にて最初は打叩く賦(つもり)にて差し越し候処、頓(とん)と頭を下げ申し侯。どれ丈ヶ(だけ)か智略のあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候。先ず英雄肌合の人にて、佐久間(佐久間象山のこと)より事の出来候儀は一層も越え候わん。学問と見識においては佐久間抜群の事に御座候得共、現時に臨み候ては、此の勝先生とひどくほれ申し侯。
 摂海(兵庫港のこと)へ異人相迫り候時の策を相尋ね候処、如何にも明策御座候。只今異人の情態においても、幕吏を軽侮いたし居り候間、幕吏の談判にては迚も受け難く、いずれ此の節、明賢の諸侯四・五人も御会盟に相成り、異艦を打ち破るべきの兵力を以て、横浜並びに長崎の両港を開き、摂海の処は筋を立て談判に相成り、屹と条約を結ばれ候わば
皇国の恥に相成らざる様成り立ち、異人は却って条理に服し、此の末天下の大政も相立ち、国是相定まり候期御座ありとの議論にて、実に感服の次第に御座候。弥(いよいよ)左様の向きに成り立ち候わば、明賢侯の御出揃(おんいでそろ)うまでは、受け合うて異人は引き留め置くとの説に御座候。」


 この書簡に拠れば、勝海舟は西郷隆盛に対し、徳川の幕吏たちが自己保身に汲々としており、事なかれ主義に堕して誰も責任を取ろうとはせず、こんな幕府は「誠に手の附け様もこれなき形勢」にあるとその内情を打ち明け、さらに諸外国からも軽侮されているような情況においては、「明賢諸侯四・五人も御会盟に相成り」、武力を備えて諸外国と談判し条約を結ぶべきであると説いたとのことです。

 なお、芳即正『島津久光と明治維新』(新人物往来社、2002年12月)は、その頃の西郷隆盛はまだ幕府のカを過大評価する傾向があったそうですが、勝海舟との会見以降、「西郷の幕府離れが始まる。これまで長州への強硬姿勢をとっていた西郷が、将来のパートナーと見なす長州への寛大方針に転換、三家老の処分などで征長軍を解散する。そして、これが江戸の幕府首脳とのずれとなって現われ、第二次征長戦争へと発展する」としています。

 勝海舟は幕臣ではありましたが、セクト的な考えにとらわれることなく率直に彼の思うところを西郷に語ったのでしょう。西郷隆盛はそんな勝海舟と
初めて面会仕り候処、実に驚き入り候人物」とし、「どれ丈ヶ(だけ)か智略のあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候」と評価し、「ひどくほれ申し侯」とまで絶賛していたのです。このことは、後に西郷隆盛が新政府軍の代表として旧幕府の代表の勝海舟と会見するに際して大きな意味を持ったのでないでしょうか。


勝海舟と西郷隆盛の和平交渉

 徳川慶喜は鳥羽・伏見の戦い(1868年1月27日~30日)で惨敗した後、部下を見捨てて江戸に逃げ帰り、新政府軍との徹底抗戦を主張する小栗上野介たちの意見を退け、慶応4年1月23日(1868年2月16日)に勝海舟を陸軍総裁に、大久保一翁(忠寛)を会計総裁に起用しています。この時点で慶喜は新政府軍への「恭順」の意思を固め、和平派の勝海舟たちに後を任せたのだと思います。

 旧幕府軍の代表となった勝海舟は、新政府軍の本陣がある駿府に山岡鉄舟を派遣し、西郷隆盛と江戸城開城の条件について話し合わせた後、慶応4年3月13日(1868年4月5日)には自ら江戸高輪の薩摩藩邸に赴いて西郷隆盛と会見しています。こうして新政府軍の江戸総攻撃は中止され、江戸城無血開城が実現しました。

 では、勝海舟はどのような思いで西郷隆盛との談判に臨んだのでしょうか。板倉聖宣は前掲の『勝海舟と明治維新』でつぎのように解説しています。

 「勝海舟は、<国内がこのように戦争状態になること>を、何よりも恐れていました。彼は一貫して、挙国一致で外国に立ち向かうことだけを望んでいたのです。その彼が徳川旧将軍の最高指導者に起用されたのですから、早く戦争をやめることしか考えられませんでした。だから、江戸での戦争を回避することが、彼の最大の課題となりました。『できることなら、自ら江戸城を開いて国内の戦争を回避したい』と、それだけを考えるようになったのです。」


 勝海舟が慶応4年3月5日(1868年3月28日)に書いた日記(勁草書房版『勝海舟全集』19の27頁掲載)には、「旗本・山岡鉄太郎に逢う。一見、その人となりに感ず。同人、申す旨あり、益満生を同伴して駿府へ行き、参謀西郷氏へ談ぜむと云う。我これを良しとし、言上を経て、その事を執せしむ。西郷氏へ一書を寄す」とあり、またその勝海舟が西郷隆盛に宛てた3月6日付けのつぎのような文面の書簡が添えられています。

無偏無党、王道堂々〔蕩々〕矣、今
官軍都府に逼るといえども、君臣謹んで恭順の道を守るは、我が徳川氏の士民といえども、皇国の一民なるを以てのゆえなり。且つ、皇国当今の形勢、昔時に異り、兄弟牆にせめげども、その侮を防ぐの時なるを知ればなり。
(後略)

 この海舟の「皇国当今の形勢、昔時に異り、兄弟牆にせめげども、その侮を防ぐの時なるを知ればなり」という言葉は、中国の古典『詩経』の「兄弟鬩于牆、外禦其務」(けいていかきにせめげども、そとそのあなどりをふせぐ)を踏まえたものです。海舟は、自分たちが徳川家に仕える人間でありながら官軍に恭順するのは、「現在の日本の形勢は昔と違って同胞が争っている場合ではなく、外国からの侵略の危機に一致団結して立ち向かわねばならないことを認識しているからである」と言っているのですね。

 勝海舟の書簡を携えて駿府に赴いた山岡鉄舟は西郷隆盛との会見を果たします。慶応4年3月10日(1868年4月2日)の勝海舟の日記(勁草書房版『勝海舟全集』19、29頁)には、「山岡氏東帰、駿府にて西郷氏へ面談。君上の御意を達し、且、総督府の御内書、御処置の箇条書を乞うて帰れリ。嗚呼、山岡氏沈勇にして、その識高く、能く君上の英意を演説して残す所なし。尤も以て敬服するに堪えたり」と山岡鉄舟の努力を高く評価しています。

 では、山岡鉄舟が持ち帰った「総督府の御内書、御処置の箇条書」とはどのようなものだったのでしょうか。勝海舟の日記に次のような新政府軍の降伏条件の内容が添えられています。

慶喜儀、謹慎恭順の廉を以て、備前藩へ衡預け仰せつけらるべき事
城明け渡し申すべき事
軍艦残らず相渡すべき事
軍器一宇相渡すべき事
城内住居の家臣、向島へ移り、慎み罷り在るべき事
慶喜妄挙を助け候面々、厳重に取調べ、謝罪の道、屹度相立つべき事
玉石共に砕くの御趣意更にこれなきにつき、鎮定の道相立て、若し暴挙致し候者これあり、手に余り候わば、官軍を以て相鎮むべき事
右の条々実効急速相立ち供わば、徳川氏家名の儀は、寛典の御処置仰せつけらるべく候事

  この降伏条件には「徳川氏家名の儀は、寛典の御処置」とあり、和平交渉の端緒が開けたと言えるでしょう。しかし、徳川側に全面降伏を求めてその主体性を認めない内容を旧幕府側首脳はそのまま受け入れることは出来ず、勝海舟は日記に「大久保一翁、川勝備後、浅野美作、向山隼人輩、諸官に謀りて、御書付に附きて嘆願する所あり」と書いています。

 では、西郷隆盛は駿府で山岡鉄舟から勝海舟の手紙を受け取ることにより、予定されている江戸総攻撃について何らかの影響を受けたのでしょか。萩原延壽『遠い崖横―アーネスト・サトウ日記抄』第7巻(朝日文庫、2008年1月)が同書の46頁~48頁で、東征軍大総督府参謀として江戸総攻撃の軍事的責任を担った西郷隆盛の当時の心理について触れて、
「西郷に即していえば、勝と大久保の登場を知ったときから、西郷は慶喜の助命と江戸攻撃の中止を、現実的な可能性として考慮しはじめたのではないだろうか。/慶喜の恭順と江戸の開城を保証しうる人物が徳川側の責任者であるとすれば、軍事的な観点からいっても、当然西郷は無用な流血の回避をのぞんだであろう」とし、さらに八王子まですでに進出ていた東山道先鋒総督参謀・乾(板垣)退助らに西郷が慶応4年3月12日(江戸総攻撃3日前の1868年4月4日)に送ったつぎのような興味深い手紙(『西郷隆盛全集』第2巻所収)を紹介しています。

陳(のぶ)れば大総督より江(戸)城へ打ち入りの期限、御布令相成り候に付き、定めて御承知相成り居り候事とは存じ奉り候得共、其の内軽挙の儀共これあり候ては、屹(きっ)と相済まざる事件これあり、静寛院宮様御儀に付き、田安へ御含みのケ条もこれあり、其の上、勝・大久保等の人々も、是非道を立て申すべきと、一向(ひたすら)尽力いたし居り候向きも相聞き申し候に付き、此のたびの御親征に、私闘の様相成り候ては相済まされず、玉石相混じわらざる様、御計らいも御座あるべくと存じ奉り候に付き、来る十五日(三月十五日、江戸総攻撃の予定期日)より内には、必ず御動き下され間敷(まじく)合掌奉り候。自然御承諾の儀と相考えられ居り候得共、遠方懸け隔て居り候て情実相通わず候故、余計の儀ながら、此の段御意を得奉り候。

 萩原延壽『遠い崖横―アーネスト・サトウ日記抄』は、この西郷の手紙を解説して、
「江戸総攻撃を三日後にひかえた東征軍大総督府参謀の手紙にしては、静寛院宮の歎願(慶喜の助命と徳川家の存続)や田安亀之助の徳川宗家相続にふれ、さらに徳川倒の勝・大久保の『尽力』について語るなど、異常なほどに留保の多い手紙である。しかも、『私闘』であってはならないと念を押しているが、相手の慶喜が恭順を表明している以上、この段階で『私闘』でない戦闘はありえたであろうか。(中略)この西郷の手紙は、あきらかに慶喜の助命と江戸攻撃の中止に備える西郷のこころの動きを、微妙なことば遣いで語っているように筆者には読める。/もちろん、事実上東征軍全軍をひきいる立場にある西郷としては、江戸総攻撃の備えをいささかもゆるめるわけにはいかなかったであろうし、さらに和戦の最終的な決着は勝との会談の如何、そのさいの勝の出方次第と、西郷は覚悟を決めていたであろうが、会談の前日に書かれた手紙の中で、すでに勝と大久保の「尽力」が語られ、『私闘』の不可が説かれていたのは、西郷のこころが和戦のいずれに傾いていたかを物語るものではなかろうか。/交渉の相手が勝でなければ、こうはいかなかったであろうが、それが旧知の勝であるだけに、西郷は勝の出方をほぼ予測できたであろうし、さらに肝心なことは、勝のことばならば、西郷はそれに信をおくことができたであろう。勝が握っていた最強の切り札は『恭順』である。それを突き崩して、『私闘』に堕さない江戸攻撃をおこないうるものか」と書いています。

 さて、慶応4年3月13日(1868年4月5日)、勝海舟は高輪薩州の藩邸に出向いて西郷隆盛と会見を行い、翌日に再び会見しときにつぎのような嘆願書を渡します。

第一ヶ条
隠居の上、水戸表へ慎み罷り在り候様仕り度き事
第二ヶ条
城明け渡しの儀は、手続き取り計り候上、即日田安へ御預け相成り侯様仕り度く候事
第三ヶ条、第四ヶ条
軍艦軍器の儀は残らず取り収め置き、追って寛典の御所置仰せつけられ候節、相当の員数相残し、その余は御引き渡し申し上げ候様仕り度き事
第五ヶ条
城内住居の家臣共、城外へ引き移り、慎み罷り在り候様仕り度き事
第六ヶ条
○○〔慶喜〕妄挙を助け候者共の儀は、格別の御憐憫を以て、御寛典に成し下され、一命に拘わり候様の儀これなき様仕り度き事
但し万石以上の儀は、本文御寛典の廉にて、朝威〔裁〕を以て仰せつけられ候様仕り度く候事
第七ヶ条
士民鎮定の儀は、精々行き届き候様仕るべく、万一暴挙いたし候者これあり、手に余り候わは、その節改めて相願い申すべく候間、官軍を以て御鎮圧下され候様仕り度き事
右の通り屹度取り計らせ申すべく、尤も寛典御処置の次第、前以て相伺い候えは、士民鎮圧の都合にも相成り候儀につき、右の辺御亮察成し下され、御寛典の御処置の趣、心得させ伺い置き度候事。
 
 なお、勝海舟は前掲の慶応4年3月10日(1868年4月2日)の日記で、「官兵、府城に近逼し、諸士必死を極むるにあらざれば、上意をして達せしむること能わず」と書き、さらに相手も必死の覚悟で江戸に進撃して来ており、こちらも自らの嘆願を実現するためには、つぎのように退路を断って必死の覚悟と態勢で臨まねばならぬとしています。

 
「窃かに聞けることあり、官兵、当十五日江城侵撃と云う。三道の兵、必死を極め進まは、後(うしろ)、その市街を焼きて退去の念をたたしめ、城地に向て必死を期せしむと。若し今、我が款願する処を聞かず、猶、その先策を挙げて進まんとせば、城地灰燼、無辜の死数百万、終にその遁れしむるを知らず。彼、此暴挙を以て我に対せむには、我もまた彼が進むに先んじ、市街を焼きて、その進軍を妨げ、一戦焦土を期せずんば有るべからず。此意、此策を設けて、逢対誠意に出ずるにあらざれば、恐らくは貫徹為しがたからむか。愚不肖、是に任せて一点疑いを存せず。若し百万の生霊を救うにあらざれば、我先ず是を殺さんと。断然決心して以てその策を回(めぐ)らす。」

 勝海舟は、このように「若し百万の生霊を救うにあらざれば、我先ず是を殺さん」との覚悟と態勢で西郷隆盛との会談に臨んでいるのですね。


渡辺清の回顧談

 ところで、桃源選書に八木昇編『幕末動乱の記録 「史談会」速記録』(桃源社、1965年8月)という本があります。この本の編者によると、同書は「歴史的価値が極めて高い、『史談会速記録』四百有余冊より採り出した精華十二編」を収めたとのことです。その12編のなかに渡辺清「江戸、攻撃中止の真相」というとても興味深い回想談も入っていますので、最後にそれも紹介しておきたいと思います。

 なお渡辺清という人物は、明治維新後は福岡県令や福島県知事として活躍した人物ですが、戊辰戦争当時は大村藩士で、自藩の藩士を率いて討幕の東征軍に参加しており、江戸城無血開城の会談にも立会っています。

 そんな渡辺清が「江戸、攻撃中止の真相」で語っている回想談において、私にとって特に興味深かったのは、(1)駿府に着陣したばかりの西郷隆盛が東征軍参加の各藩の隊長に示したという勝海舟から届いた手紙の内容と、(2)西郷隆盛が耳にした英国公使パークスの江戸城攻撃に対する否定的発言の話です。

 まず西郷隆盛が慶応4年2月28日(1868年3月21日)の駿府に着陣したときの話ですが、その日、西郷隆盛は隊長達に勝海舟から届いたばかりの手紙を紹介したしたそうです。西郷隆盛の話によりますと、勝海舟はその手紙で、徳川側としては恭順の意思をはっきり示しているのに、なおかつ江戸城を攻撃するとはどいうことなのかとして、さらにつぎのような趣旨のことを書いているというのです。

 
「若し徳川家に於て朝命を拒むというならば如何様ともその所作は有るべし。徳川家に於ては軍艦十二艘を所有致しておる。これを以て先ず二艘を摂海に浮かべ、又二艘を以て九州中国より登るところの兵を妨げ、又二艘を以て東海道筋の然るべきところに置き、又二艘を以て東海道を下るところの兵を攻撃し、残る四艘を以て横浜に置き同港をしっかりと保って置く。かくの如きことをなしたならば恐らくは九州より登る兵も東に向って下る兵も、躊躇する位のことではあるまいと思う。我がその事をなさざる以上は恭順の実を挙げておる。これを証拠に見て呉れよ。吾、貴公とは従来知己である。天下の大勢は目に着いてあるだろう。然るに今日手を束ねて拝しておる者に兵を以て加えるというは如何。実に平生に不似合の挙動と考える。これは暫く措いて兎も角も、征討の兵は箱根以西に留めて呉れなければならぬ。然らざれば慶喜の意も吾々の奉ずる意も重きを得ずして如何の乱暴者が沸騰するかも知れず。今江戸の人心というものは実に沸いたる湯の如し。右往左往如何とも制せることは出来ない。それに今、官兵箱根を越したならば到底吾々恭順の実をここに挙ぐることは出来ないに依って、是非箱根の西に兵を置いて貰いたいという主意。」

 その手紙を西郷は征東軍に加わった各藩の隊長たちに示し、「顔色火の如くなって」つぎのように言ったというのです。

 
「諸君はこの書を見て何とお考えあるや、実に首を引き抜いても足らぬのはかの勝である。人を視ること土芥の如く、尤も官軍を視ることを如何に視ておるのであるか。果して恭順の意であるならば官軍に向って注文することは無い筈。彼れの譎詐(けっさ)というものは今日始まったことではありませぬ。勝(安房)は申す迄もなく、慶喜の首を引き抜かねば置かれんじゃないか。況んや箱根を前にして滞陣するは最も不可である.諸君如何であるか」

 それで各藩の隊長は、
「如何にもその通り」と勇み立ち、西郷は「然らば明日より直ぐさま東征にかかるからその覚悟で出陣なさい」と厳命を下したというのです。

 西郷隆盛が慶応4年2月28日(1868年3月21日)に東征軍の隊長たちに示したというこの勝海舟の手紙は、山岡鉄舟が西郷隆盛と慶応4年3月10日(1868年4月2日)に会見したときに渡した勝海舟の手紙とは論調が随分違っていますね。なお、現在の海舟日記にはこのような内容の手紙は載せられていません。しかし、東征軍が箱根を越えない段階でそれを食い止めようとする勝海舟が必死の思いでこのような手紙を書いて送ったとしても不思議はないと思います。また、この手紙は恭順の意思を明らかにした上で、もしそれでも東征軍があくまでも攻撃を中止しないなら、そのときは徳川の保有する「軍艦十二艘」でもって陸路を進軍する東征軍に海上から大きな打撃を与える力をまだ持っているのだとその可能性を語っただけで、「我がその事をなさざる以上は恭順の実を挙げておる。これを証拠に見て呉れよ」というのが一番の主旨ですね。
 
 また、渡辺清の回顧談には、東海道先鋒総督参謀の木梨精一郎が慶応4年3月12日(1868年4月4日)に横浜で英国公使のパークスと会見し、江戸城攻撃のときに出る負傷兵のために病院を横浜に建ててもらいたいと要請したとき、
「パークスが如何にも変な顔付きを致して、これは意外なことを承わる。吾々の聞く所に依ると、徳川慶喜は恭順と云うことである。その恭順して居るものに、戦争を仕掛けるとは如何、と云う」とのことで、その会談の内容を渡辺清が木梨精一郎の命を受けて翌日(1868年4月4日)の午後に西郷隆盛に伝えたとしています。渡辺清が「馬に騎り切って品川に着したのは今の午後二時頃であった」とのことで、その後すぐに西郷隆盛にパークストの会談の話を伝えていますが、そのときはすでに西郷隆盛が勝海舟と第1回目の会談を終えていました。

 では、西郷隆盛は渡辺清からパークスの発言を聞いてどのように反応したのでしょうか。その時のことを渡辺清はつぎのように語っています。「西郷も成る程、悪かったと、パークスの談話を聞いて、愕然として居りました」。しかし渡辺清の談によると、このパークスの発言を耳にした西郷隆盛は、実際には喜んだであろうとしています。渡辺清はそのことをつぎのように述べています。

 「前に申上げた時の西郷の心持はこうであろうと想像します。西郷も慶喜は恭順であるから全くそう来ようということは、従前から会得しておるのである。然るに兵を鈍らしてはならず、又慶喜の恭順も立てねばならぬ、又天下の大体のことに大いに関係する。それ故に兵はどこまでも大いに鼓舞して江戸に着して見るところが想像の通り恭順のことを勝が持って来た。そこで明日の戦を止むるということを言うは勝に対しては易き話である。唯官軍の紛紜を畏るることは容易でない。多分板垣などは如何なる異論を以て来るかも知れぬ。我が薩摩の兵及びその他長州始め諸藩の兵が勃起しておる。その機会に攻撃を止むのは容易でないから、種々苦心しておるところに横浜パークスの一言を清が報じたので、西郷の意中はかえって喜んでおるじゃろうと清は想像します。」


 うーん、渡辺清の推測、結構的を射ているかもしれませんね。いずれにしても、このパークスの発言は西郷隆盛の江戸城総攻撃計画に何らかの影響を与えたことは間違いのない事実でしょうね
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