田中一村と東京美術学校
田中一村入学当時の東京美校の教員スタッフ
 田中一村は、1926年4月に東京美術学校の日本画科に入学している。同期の入学生に加藤栄三、橋本明治、東山魁夷、山田申吾などがいた。たが、その3ヶ月後に退学している。

 ところで、田中一村は東京美術学校の日本画科に何を学ぶつもりで入学したのであろうか。彼がもし幼い頃から親しみ、また優れた能力を大いに発揮して来た南画の道を引き志し、美校でそのための研鑽を積むつもりであったとしたら、彼は大いに戸惑うことになったであろう。一村が入学した東京美術学校には南画を学ぶ環境などは存在しなかった。東京美術学校はアーネスト・フェノロサや岡倉天心が創設の準備にあたり、1889年に開校しているが、開校当初の日本画科の教員スタッフとして、主任教授に橋本雅邦、教授に結城正明、狩野友信、川端玉章、巨勢小石が迎えられている。なお、近藤啓太郎『日本画誕生』(岩波書店,2003年4月)は開校当時の教員スタッフについてつぎのように述べている。

 「雅邦、正明、友信はいずれも狩野派、玉章は四条派、小石は土佐派であって、フェノロサが嫌っていた南画(文人画)の画家は一人もいなかった。当時の南画はきわめて俗化していたということもあるが、フェノロサは一種の漫画として見ていたようなところもあった。」

 フェノロサが1882年に『美術真説』で南画(文人画)を批判して、「文人画卜称スル一種ノ画風ヲ以テ真ノ東洋ノ画術トナシ、之ヲ奨励スルト謂フ説ニシテ熄(や)マズソバ、真誠ノ画術起ルノ期ナシ。之ヲ譬フルニ、油絵ハ磨機ノ頂石ニシテ文人画ハ其底石二等シク真誠ノ画術其間ニ介(ハサマ)リテ連(シキ)リニ磑砕セラルカ如シ」とし、文人画こそが真の東洋の画術なりとするような謬説が存在する限り「真誠ノ画術」の発展などは期待できない、「真誠ノ画術」は西洋画と文人画とが挽き臼の上下の石のようになって粉々にされている、と語ったことは有名である。では、フェノロサにとって文人画のなにが問題だったのであろうか。彼は『美術真説』でつぎのように語っている。

 「文人画ハ、天然ノ実物二擬スルヲ主トセザルノ一点二就テハ稍賞スべキモノアルモ、其目的トスル所ノ妙想ハ画術ノ妙想ニアラズ。其実文学美術ノ妙想二外ナラズ。諸美術妙想ノ形状ハ各同ジカラズ。詩文ノ妙想ハ必ズ画ノ妙想卜同ジカラズ。文人画ニ就テ人心ヲ感ズルハ、畢竟文学上ノ関係二由ルモノニシテ、毫モ画ノ善美二関セズ。殊二文人ノ毎ニ磊落疎率ヲ喜プモノハ、果シテ何ノ由アルヤ。是レ蓋シ画二係ルノ故ニアラズ、別二其源因アルヤ明ケシ。文人画ヲ目シテ真誠ノ画トナスハ、画ヲ目シテ音楽卜云フト何ゾ択バソヤ。」

 なお、山口静一『フェノロサ 日本文化の宣揚に捧げた一生』上巻(三省堂、1982年4月)によると、同じ頃のフエノロサの他の演説や草稿などから判断するに、彼の文人画批判は、その詩と絵画のそれぞれの独自性を認識しない詩画一致の画論と最近流行の凡庸なる文人画に対するものであって、「その画論を超越したすぐれた文人画の存在を否定してはいない」としている。そして、「ところが『美術真説』では池大雅や与謝蕪村に至るまで、ことごとく口を極めて誹誘されている」ことに疑問を呈している。なお、この『美術真説』は、フェノロサが美術家団体の龍池会に依頼されて1882年5月に行なった講演をこの龍池会が小冊子にまとめて『美術真説 完』として全国に頒布したものだそうである。だから、『美術真説』がまとめられ翻訳される過程には龍池会の独自的な意図が働いている可能性は大であろう。

 さて、一村が入学した当時の日本画科の教授は、小堀鞆音(1864―1931)、川合玉堂(1873―1957)、結城素明(1875-1957)、松岡映丘(1881―1938)であった。小堀鞆音、松岡映丘はともに土佐派の手法を継いで歴史画を得意としていた。川合玉堂は狩野派の流れを継いで情緒豊かな風景画に優れていた。結城素明(1875-1957)は最初は四条派の川端玉章に師事し、さらに円山応挙の写生の精神を受け継いでいた。

 湯原かの子『絵の中の魂 評伝・田中一村』は、一村入学当時の東京美校についてつぎのように解説している。

 「教授陣には小堀鞆音、川合玉堂、結城素明、松岡映丘等を擁していた。このうち小堀輌音と川合玉堂は帝国美術院の会長、結城素明と松岡映丘は審査委員と、いずれも東京画壇の有力者であった。美校での指導は、主として結城と松岡があたっていた。両者とも、院展離脱後の文展に不満をもつ新進気鋭の画家が、芸術の自由な研究と個性の表現を求めて結成した『金鈴社』というグループの同人で、素明は洋風の写生を日本画のなかに積極的に導入する道を開き、映丘は歴史画と古典の研究から、大和絵の伝統を新時代に生かす新興大和絵を起こした。ともに大正から昭和にかけての東京画壇に新風を吹き込むと同時に、教育者としても辣腕をふるった。(中略)
 当時の美校では大和絵を中心に、基本のデッサンに重きをおいた技術指導がなされていた。とくに結城素明は、外遊の体験から、客観的描写にすぐれ独創性を重んじる西洋絵画に対抗していくには、これからの日本画は素描力と独創性が大事だと主張していた。授業内容は、一、二年生では植物写生が主で、厳密に緻密に写生し彩色をほどこした作品を、一週間に一枚提出することが義務付けられていた。三年生になると烏の剥製の写生や風景写生が取り入れられた。画学生たちは、こうしてみっちりと鍛えられたのだった。」

 このような東京美校に入学した一村はどのようなことを思ったのであろうか。湯原かの子『絵の中の魂 評伝・田中一村』はつぎのように想像している。

 「画壇を代表する有力教授、厳格な技術指導、将来の日本画壇を背負って立つべき画家の卵である級友たち。米邨にとっても、希望と誇りにあふれて始まった美校生活のはずだった。ところが米邨は間もなく、自分の目指すべき画道と美校の校風との問に相容れないものを感じ始めた。それまで研鑽を積んできた南画は画壇の趨勢ではなく、美校には南画を専門にする教授はいなかった。それに級友たちも、多くは家から仕送りを受けている比較的裕福な家の子弟たちで、自分とは別世界の住人に思われた。」

 一村は結局、美校に入学して3ヶ月後に退学してしまうのであるが、美学入学の体験は南画の世界からさらに視野を大きく広げる機会を間違いなく与えたことであろう。湯原かの子『絵の中の魂 評伝・田中一村』は、「美術学校でたとえ短期間といえども新しい日本画の潮流に直接触れたことは、大きな体験だったに違いない」とし、美校同期入学の若林景光の一村についてのつぎのような興味深い証言を紹介している。

 「学校に長く居らず、在学中も学校の教育など問題にしていないような態度だったのに、奄美の絵を見ると学校で習った厳密な写生を踏襲しています。それを非常に大切に守り、ますます深め、高めていってますね。みんなが卒業後はそれから離れていったのとは対照的で、たいへん珍しいタイプです。写実の厳格さは見事なもので、同期生の中でもあれだけの技術を持った者はいないでしょう。」

田中一村の東京美校退学の理由
 では、田中一村はなぜ東京美校に入学してすぐに退学したのであろうか。その理由として3つの説がある。すなわち、(1)修学困難説、(2)修学不要説、(3)美校からの追放説、以上の3説である。

 まず第1説の修学困難説であるが、南日本新聞社編『田中一村伝 アダンの画帖』は、美校に入学後、「梅雨の期間に、結核が再発、安静を命ぜられた。家庭の事情も美校生活を続けられる状態になかった」としている。家庭の事情というのは、「大正十二年九月の関東大震災で麹町の家が焼失し、米邨の家族は南画家の小室翠雲の家の離れに身を寄せ世話になっていた。父稲村も病に倒れ、姉喜美子はまだ女学校を卒業(大正十二年)したばかりで、琴の名取を目ざして師匠のもとに習いに通っていた。長男孝は一家を背負って立たねばならなかった。美校に通っている余裕などなかった」というものである。

 第2説の修学不要説は、 1926年12月に開かれた田中米邨画伯賛奨会の趣意書に書かれている。南日本新聞社編『田中一村伝 アダンの画帖』に紹介されている同賛奨会の趣意書には、一村の美校退学を説明して、「画伯今年四月東京美術学校に入学す。しかるに教授らも驚嘆していわく、この天才児すでに南画の妙域に達せり、何ぞ美術学校等の平凡課程を修するの要あらんや≠ニ。ここに於て退きて独自おおいに東洋絵画の淵源を探究して、さらに自家の新機軸を発揚せんともっぱら研究に没頭す」としている。
加藤 邦彦
田中一村の彼方へ
  ―奄美からの光芒
三一書房

 第3説の美校からの追放説は、加藤邦彦『田中一村の彼方へ 奄美からの光芒』(三一書房、1997年10月)で紹介されている。加藤邦彦は、1996年1月に細谷達三(一村と同期に美校日本画科に入学)にインタビューしているが、そのとき細谷達三は、加藤邦彦につぎのような衝撃的な話を語っている。

 「入学しても、すぐに学校をやめさせられた生徒が三人いた。学校の方針に合わなかったのか、個性が強すぎたのかよく分からないけど、田中君もその一人だった。自分は、田中君が『君の絵はとても良くできていて学校としては教えることはもうないので……』といわれたと聞いている。つまりデッサンとか絵の具、色の使い方が学校のそれに合わなかったからでしょう。」

 また、加藤邦彦は鈴木草牛(一村と同期入学。1988年死去)の夫人にもインタビューしている。そのとき夫人は、鈴木草牛から「田中君は日展系ではなく、派閥もちがうから、学校に受付けられずに退学した」と聞いていたということを加藤邦彦に語っている。

 興味深いことは、第2説の修学不要説と第3説の美校からの追放説とは一枚のコインの表と裏の関係にあるように思われることである。コインの表を「教授らも驚嘆していわく、この天才児すでに南画の妙域に達せり、何ぞ美術学校等の平凡課程を修するの要あらんや≠ニ」だとして、コインの裏側には、美校が一村を「君の絵はとても良くできていて学校としては教えることはもうないので……」という婉曲な表現で追放したことが不鮮明ながらも刻まれているように思われる。

 こうして美校を退学した一村は、胸に複雑な思いを抱きながら、「ここに於て退きて独自おおいに東洋絵画の淵源を探究して、さらに自家の新機軸を発揚せんともっぱら研究に没頭す」ることになる。一村が「本道と信じる絵」のために南画から離脱するのは、彼が美校を退学してから5年後のことである。

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