私の宮部みゆき論

宮部みゆきと東京大空襲
宮部みゆきと東京大空襲

 もう一つの東京下町殺人事件

 宮部みゆきの『東京下町殺人暮色』は、バブル期の東京下町に起きたバラバラ殺人事件をめぐるミステリーですが、この小説にはもう一つの東京下町殺人事件も描かれていますね。すなわち、1945年3月10日の東京大空襲という東京下町で起こったジェノサイド(集団殺戮)もこの小説のなかに描きこまれています。

 画家の篠田東吾は、この小説の重要な登場人物ですが、彼の代表作は東京大空襲の惨禍を描き出した「火炎」でした。東吾は、彼が生まれ育った本所周辺で東京大空襲を体験し、それを水墨画の手法を用いて描き出したのでした。

 この「火炎」と題された絵のすごさに圧倒された主人公の順に、東吾は自分が体験した東京大空襲の悲惨な思い出話を語り始めます。彼は、戸板が燃えながら空中を水平に飛んでいくような激しい火炎のなかを逃げまどったそうです。その火炎の凄まじい激しさを東吾はつぎのように表現しています。

 「ものすごい突風だったな。大火事は大風を呼ぶんだよ。ものに火がつくのも、ただ燃え広がるんじゃなくて、時間がたつにつれて空気そのものの温度が上がってきて、なにも火の気のないところから突然ぱっと燃え上がる。人間もそうやって燃えていく。そんな火事だった」
 
 防空壕に入りそこねた篠田東吾は、錦糸公園の池に飛び込んで、頭からざぶざぶ水をかぶって恐怖の一晩すごしたそうですが、そのとき頭上をB29爆撃機の大群が下界で燃え盛っている火炎を照り返して真っ赤に光りながら飛んでいるのを目撃しています。そして、翌朝に篠田東吾が目の当たりにした光景はつぎのようなものでした。

「翌日、空襲がおさまって池から出ると、町中に死体がごろごろしていた。山になっていた。肉の焼けるにおいがたちこめていた。」

 篠田東吾は、そのにおいを「ハンバーガーを焼くにおいとよく似ている」と形容していますが、この3月10日の東京大空襲は、上野、浅草、本所、深川など隅田川を挟んだ東京の下町一帯の民家を襲い、大量の一般市民を焼き殺しています。まさに東京下町に対しておこなわれたジェノサイドでした。

  なお、宮部みゆきは『淋しい狩人』(新潮社、1993年)所収の「詫びない年月」でも、東京大空襲のことをつぎのように紹介しています。

 「戦争終結のため、日本国民の戦闘意欲を削ぎ、気力を失わせるという目的があったにしろ、そして、もしこの空襲がなく、戦争がさらにもつれてあのまま本土決戦になだれこんでいたら、もっと悲惨な事態になっていたという歴史的判断を頭においても、やはり、最初にこれらの地区をぐるりと取り囲む『火の輪』をつくっておいて、退路を断たれた人たちが逃げ場もなくおろおろしているところへ、一平方メートルあたり三発以上とも言われる、恐ろしいほどたくをんの爆弾の雨を降らせたそのやり方は、『残酷だ』とそしられても仕方のないものだったろう。」

 ジェノサイドとしての東京大空襲の実態

 早乙女勝元『図説 東京大空襲』(河出書房新書、2003年8月)は、「三月一〇日東京大空襲による人命の被害は、後の原子爆弾による惨禍を除けば、史上空前の規模に達した」とし、「焼失家屋二六万七一七戸、罹災者一〇〇万八〇〇五人、負傷者四万九一八人、死者八万八七九三人(八万三七九三人もある)と、警視庁は記録している。ほかに行方不明者や、運河から東京湾にまで流出した無数の死者、今なお地下深く眠る埋没体、いち早く遺族に引きとられた死者まで含めると、およそ一〇万人もの生命が失われたのだった」と記述しています。

 私は、2005年3月21日に放映されたNHK総合の「ドキュメント 東京大空襲を伝える」(3月6日放映のNHKスペシャルの再放送)を見ましたが、この東京大空襲というジェノサイドの実態がとてよくわかりました。この番組は、日本の軍事施設のみに目標を設定した爆撃では戦果を上げることができなかった米軍が、火で燃えやすい日本家屋に焼夷弾を使って市街地を焼き払い、大量の人命を奪い、そのことによって日本国民の戦意をそごうとしたことや、その最初の作戦として東京大空襲というジェノサイド(集団殺戮)を実行したことを詳しく紹介していました。

 米軍はその作戦のために、落下すると38発の小型焼夷弾となって爆発し燃え広がるM69という日本家屋用の油脂焼夷弾を開発し、戦略爆撃機B29に大量に積み込み、1945年3月9日夜、太平洋のマリアナ諸島から325機を飛び立たせました。B29の先発隊は、4つの照準点(現在の台東区西浅草、墨田区本所、江東区白河、中央区日本橋)目指して深夜に東京下町の上空へ到達し、10日午前零時7分に最初の投弾をおこなっています。その後、つぎつぎと飛来してきたB29が計2時間53分にわたって約36万発の焼夷弾を雨あられと下町の民家に投下を続けたのでした。こうして、下町は火の海と化し、そのなかで10万人の市民の尊い命が奪われたのです。

 この人口の密集する東京の下町への最初の焼夷弾による大空襲から10日後の18日、昭和天皇が侍医と侍従を伴って車で罹災地を視察しています。ハーバート・ビックス『昭和天皇』下巻、講談社2002年11月) には、別の車で随行した吉橋戒三侍従武官のつぎのような回想が載っています。

 「焼跡を掘り返している羅災者のうつろな顔、うらめしそうな顔が、お辞儀もせずに御車を見送っている。平時の行幸とは違って予告していなかったとはいうものの、菊の御紋章をつけた赤塗りの自動車が、三、四台も通るのだから、行幸であることが判りそうなものなのにと思ったりした。肉親を失い、家財を焼失した罹災者達は、陛下を恨んでいるのか、それとも虚脱状態でただボーっとしているのか、この不幸な人達を真近に御覧になる陛下の御胸中はいかばかりかと、拝察したわけである。」

 米軍は、この東京大空襲を皮切りに、名古屋、大阪、神戸へと市街地へのB29による大量の焼夷弾投下を拡大して行きます。しかし昭和天皇は、ソ連が日本との不可侵条約を破棄して満州(中国東北部)に侵攻し、米国が広島と長崎に原爆を投下するまで降伏を決断しませんでした。

 ところで、この東京大空襲の計画を立案し実施したのは、カーチス・E・ルメイという米国空軍の少将でした。そのルメイについて、「毎日新聞」2005年3月10日の「余録」に、「負けたら我々は戦争犯罪人だ」という見出しでつぎのような内容の記事が載っていました。それによりますと、ルメイは東京大空襲が戦争犯罪行為であることを自覚した上で、当時の部下で後に国防長官になったR・マクナマラに「君は10万人を問題にするが、敵を殺さねばこちらに何万も犠牲が出る」と自らの計画を正当化していたそうです。また、同記事には、「その後空軍参謀総長に昇進する彼が、戦争犯罪人になることはむろんなかった。それどころか戦後日本政府は航空自衛隊創設に貢献したとして彼に勲一等旭日大綬章を与えた」と書いてありました。

 映画「チャップリンの殺人狂時代」で主人公のヴェルドゥが「一人殺せば殺人者だが百万人殺せば英雄なのだ」と言っていますが、ルメイはまさにそのような「英雄」といえるでしょう。軍人として最高の地位である参謀総長にまで登りつめ、さらにジェノサイドを行った国からも最高の栄誉を与えられているのですからね。

 ミツルによる皇都ソレブリア破壊

 「そこらじゅうで建物が倒れ、その上を炎が走ってゆく。煙が流れ、ヒトびとの退路を断って襲いかかる。あちらでは城壁の一部が崩れた。こちらでは家々がなぎ倒されてゆく。耳を聾するような響きと熱風には、ヒトびとの悲鳴が混じっている。
         (中略)
 倒壊した建物から、ひと呼吸遅れてまた新たな火の手があがる。火に追われ、方向もわからず必死で逃げるヒトびとの群を、またあの重い足が踏み潰す。叫び声や泣き声が幾重にも錯綜し、それらを呑みこんで爆発音が轟く。」

 上に引用した文章は、東京大空襲の様子を描いたものではありません。宮部みゆきが彼女のSFファンタジー作品『ブレイブストーリー』(角川書店、2003年3月)のなかで、ミツルという少年が魔法の力で土と岩からこねあげて造った巨人ゴーレムを操り、北の統一帝国の皇都ソレブリアを破壊している様子を描いたものです。ミツルは、主人公のワタルと同様に現実世界から異世界の幻界に入り込んできた少年です。このミツルの説明によりますと、このゴーレムを造る素材としてヒトの魂を抜いた「ウロ」が使われているそうで、北の統一帝国の「皇帝一族は、自分たちの勝手な都合で、しばしばヒトをウロにしてきた。強制的に常闇の鏡を見せてウロに仕立て上げ、下僕として使ったり、辺地で働かせたりしてきたんだ。政治犯や犯罪者にも、同じようなことをしてきた」とのことです。

 そして、ゴーレムによる皇都破壊をやめさせようとする主人公のワタル(彼は幻界に入ってから、正義と勇気を愛し、弱きを助けて不正と戦う「ハイランダー」という自警団のメンバーとなっていました)に対し、ミツルはつぎのように言うのです。

 「おまえは、俺が残酷なことをしているという。でも、ウロをつくったのは俺じゃないぜ。皇帝だ。ハイランダーとしてのおまえは、それをどう思う? 許し難いと思うか? だったら、そんな皇帝の統べる皇都なんか、滅びたっていいじゃないか。一族もろとも、滅ぼしたっていいじゃないか。ソレブリアの市民たちも――いいや、北の統一帝国の国民全員が同罪だ。代々の皇帝の所行を黙認してきた。時には進んで支持さえしてきた。自分たちの利益になるから。あるいは、自分たちの身が可愛いから。こんな連中は、罰せられて然るべきだ。ハイランダーとしてのおまえは、それをどう思う?」

 ワタルに向かって自らの行為の正当性を語るミツルに、私は東京大空襲を立案し実施した米陸軍航空隊第21爆撃団のカーチス・ルメイ司令官の姿が重なってきます。ルメイは、「日本の都市の家屋はすべて軍需工場だった。スズキ家がボルトを作れば、隣のコンドウ家はナットを作り、向かいのタナカ家はワッシャを作っている具合だ。これをやっつけて何が悪いことがあろう」と東京大空襲を正当化していたそうです(読売新聞2005.03.10記事より)。

 ところで、『ブレイブストーリー』においては、北の統一帝国の皇都ソレブリア皇都を石の巨人ゴーレムを操って破壊したミツルは、自らの心の中に内在していた激しい憎悪から、破壊や殺意、他者を踏みつけにして憚らない傲慢などの気持ちを肥大化させていたため、彼自身の憎しみを背負った分身と自分自身との区別がつかなくなり、自分の分身と激しく戦って無惨に敗れています。

 東京大空襲の被害体験とその風化

 正井泰夫監修の 『歴史で読み解く東京の地理』(青春出版社、2003年6月)によりますと、東京の「戦争による疎開や罹災による人口の減少は激しく、とくに旧一五区では、人口が五分の一になった。人口のバランスが著しく崩れたためもあり、一九四七 (昭和二二) 年三月、地方自治法の施行を前に、東京都の三五区は整理・統合されることになった」とのことです。例えば、日本橋区と京橋区が中央区に、下谷区と浅草区が台東区に、本所区と向島区が墨田区に、深川区と城東区が江東区に統合されています。

 東京大空襲で多数の犠牲者を出した東京下町の人々は、忘れたくても忘れられないその痛ましい体験をみんなで語り合い、また子どもたちにも伝えていたと思います。

 宮部みゆきは、東京大空襲から15年後に生まれていますが、やはり親の世代から東京大空襲の惨禍をいろいろ聞かされていたようです。例えば、東雅男編『ホラー・ジャバネス』(双葉社)のインタビューでも、お父さんの東京大空襲体験をつぎのように紹介しています。

 「あのへん(やまもも注:宮部みゆきが住んでいる辺りのこと)は空襲で非常にたくさんの方が犠牲になった。みんな火に追われて、水に入って亡くなってるんですよね。私の父は東京大空襲の経験者なんですけど、翌日、うちのすぐそばの小名木川に死体があふれて、歩いて渡れたそうです。かなりの幅がある川なんですが、死体を引き揚げるために下りないといけないわけですから、歩いて渡っていると、足に黴菌(ばいきん)が入って膨れあがったって……。」

 また、角川文庫から2004年11月に出された『大極宮』3には、宮部みゆきが大沢オフィスの公式ホームページ「大極宮」の第99号(2003.3.28)の「安寿のがまぐち」に書いたつぎのような文章が採録されています。それは、20033月20日に開始された米英軍のバクダッド空爆のことを、彼女のお父さんが体験した東京大空襲と関連させて述べたものです。

 「始まってしまいましたね。大規模な空襲のときには、さすがにテレビに釘付けで、久々に徹夜してしまいました。画面のなかの火柱や黒煙を見ていて、ふと東京大空襲を連想しましたが、米軍関係者の記者会見で同じような質問か飛び出し、『太平洋戦争のころのことと一緒にしないでくれ』と、一蹴されたというエピソードを聞きました。ま、アメリカさんとしても、完全に非戦闘員を虐殺するためにやらかしたあの大空襲を引き合いに出されるのは、いちばん不愉快なんでしょうな。
 昭和ひとケタ生まれの両親に訊いてみますと(母はギリギリのタイミングで疎開していましたが、父は3月10日の大空襲も体験しています)、バグダッドの街に鳴り響く空襲警報は、当時の東京のそれと同じ音色を持っているそうです。国が違い時代が違っても、こればっかりは他の音に変えようがないだるうから、ということでした。昔を思い出すそうです。」

 なお、東京の下町では、学校教育でも、戦後のある時期までは東京大空襲のことをしっかりと教えていたようです。そのことを、宮部みゆきは「詫びない年月」(『淋しい狩人』所収)で紹介しています。すなわち、荒川の土手下に広がる田辺町の柿崎家で建て替え時に古い防空壕から黒く煤けた二体の白骨が発見されたとき、町の人たちは東京大空襲のことをすぐに連想したとし、さらにつぎの様に書いています。

 「それは、戦争を知っている年代以上の人たちだけに限ったことではない。比較的若年層の、二十代後半から三十代ぐらいの住民たちでも、つとそれに頭がいく。それは、繰り返される空襲で多くの犠牲者を出した、この東京の下町地区の学校が、戦後のある時期までは、かなり真面目に、一連の惨事について学校の授業で教えてきたからだ。この惨禍の詳細を記録した書物や映画なども、積極的に読んだり観たりするように勧めてきた。おかみは、百年待ってやったって何ひとつやる気を起こさないのだから、我々がなんとかして伝えていこうじやないか、というこの心意気を、常々イワさんは快く感じていたものだ。
 しかし、その教育も、現在のティーンエイジャーたちのところにまでは、届いていないものであるようだ。下町のあまたの学校群も、敗戦から三十年目ぐらいのところで、戦災の記憶を学校を通して伝えていくことに、くたびれてしまったのかもしれない。あるいは、そんなものより、連立方程式の解き方をみっちり教えてくれたほうがいいという圧力に、どこかで膝を折ってしまったのかもしれない。」

 東京大空襲によって非常な被害を受けた下町でも、「敗戦から三十年目ぐらいのところで、戦災の記憶を学校を通して伝えていくことに、くたびれてしまった」ようで、やはりどんどん風化が進んでいるようです。

 ところで、「毎日新聞」2005年3月16日号を読んでおりましたら、磯崎由美という社会部の記者が書いた「記者の目:語れなかった東京大空襲」という記事が目に入りました。同記事には、東京大空襲を体験した87歳の岩上すいさんのことが紹介されており、私の心に強くて深い印象を残しました。岩上すいさんは、「大空襲で夫を亡くした。その半月後、はしかになった1歳の長男が医者にもかかれず腕の中で息絶えた」という悲しい体験をしています。

 しかし、戦後、岩上さんは空襲体験をほとんど語らなかっそうです。あまりにも辛くて悲しい体験であるがために、伝えることが苦しかったのでしょう。ところが、大空襲当時はまだ3歳だった二女の方が、昨年(2004年)、思い切って当時のことを尋ねたことから、やっと重い口を開き、「1週間かけて語り続けた」そうです。そして「話を聞いた二女が奔走し、遺体も見つからなかった父の名を今年、東京都の犠牲者名簿に載せることができた」とのことです。

 その後、今月(2005年3月)のはじめに六本木ヒルズの1階の小さなホールで「東京大空襲展」(3月5日から10日まで開催)があることを知った岩上さんは、「還暦を過ぎた二女と長女に手を引かれ、埼玉県春日部市から電車を乗り継ぎ、2時間近くかけて展覧会場」を訪れています。そして、会場で取材を受け、「60年の間、なぜ一人で抱え込んできたのか」と記者から問われ、「怖いことやつらいことは昨日のことのように覚えている。思い出すだけで涙が出るから」と答えています。

 なお、岩下さんは大空襲で被災した後、東京を離れたそうですが、磯崎記者は取材の中で、「体験者のほとんどが家族や家を失った後、東京を離れていた」ことを知ります。磯崎記者はそんな事実を踏まえて、「岩上さんたちと入れ替わるように戦後、地方から人が押し寄せ、『街の記憶』は失われた」と書いています。

 空襲展を見た後、岩下さんは六本木ヒルズの52階にある展望台に上り、あちこちにそびえる高層ビルに何度もため息をつき、つぎのように言ったそうです。「どこか外国に来たみたいだねえ」と。
2005年3月27日 



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